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「面白い冗談だ」
数秒の沈黙のあと、口火を切ったのは荻野さんだった。
「立花さん、あなたはやっぱり面白い人だ。まさか、そんな発言が飛んでくるとは思ってなかった」
「本当、立花さんって面白い方ですわね、荻野さん」リーチェも楽しそうに微笑む。「でも……立花さんの仰っていることは、本当だわ」
「え?」
「何?」
「不思議がらないで、皆さん。騙していたつもりはなかったのだけれど……この子、ジュペッタじゃないの」
リーチェは一人立ち上がり、テーブルから少し離れた場所まで向かう。そして、おもむろにジュペッタのファスナーを開ける。
中から現れたのは――
マニューラだった。
「何? どういうこと? 私全然分からない?」
「……俺もだ」
完全に姿を現したマニューラは、今まで身につけていたジュペッタの布を手に持って、ぶすっとした表情で周囲を睨み付けた。ああ、そうだ、ジュペッタではない、この生き物は――マニューラなんだ。
「そんな、でも……」
「夢見屋、君も旅人なら、図鑑くらい持ってるだろう」
「え、ありますけど……」
「ジュペッタとマニューラの項目を比較してみてくれ」
夢見屋の荷物は広間に置きっぱなしになっていた。リュックから近代的なデザインの図鑑を取り出し、開く。検索は数秒で終わり、夢見屋が「ありました」と伝えた。
「一番知りたいのは、数値的な情報だ」
「全長、ですよね」
「ああ」
「……確かに、ジュペッタもマニューラも、平均的な全長は一メートル十センチです。でも……マニューラはずっと抱き続けられるような重さじゃ……」
「そうね、私も流石に、この子をずっと抱えている自信はないわ」
リーチェは上品に微笑み、マニューラを連れて、昨日飲み明かしたソファへと移動した。僕は椅子をそちらに向かせ、続ける。
「眠らないジュペッタがいないわけではないでしょうけれど、僕ら人間が起きてもまだ寝ているジュペッタなんて、ほとんど聞いたことがありません。それに、僕に対してあんなに反抗的な態度を見せたジュペッタが、リザードの登場に驚くということに違和感を覚えました」
「まあ、そんなことがあったの」リーチェはマニューラの頭を撫でる。「あなたの天敵だものね」
「タイプか……」荻野さんは呆れたように言った。「何が起きているんだ。頭がどうかしそうだ」
「でも、立花さんがジュペッタに斬られた時って……」
「シャドークロー、だったな。でもあれは……マニューラでも使いこなせるなあ」答えたのは荻野さんだった。「シャドークローはジュペッタの代名詞であって、専用技じゃない。ああ、だんだん飲み込めてきたよ」
「……それに関しては、私も迂闊でした」リーチェは本当に申し訳なさそうな表情で、俯いた。「ごめんなさい立花さん。誰も、何も傷付けるつもりはなかったの」
「分かっていますよ」
「でも」
「あなたがあんなに真剣に謝っている。何かおかしいと思っていました。手違いなら、仕方がありません」
「でも、リーチェさんは、なんのためにそんなことをしたんですか?」
「それは、考える必要のない疑問だと思うわ」リーチェはマニューラを愛おしそうに撫でた。「もし立花さんが人形を返せと仰るのなら――そして、どこにあるのかを見つけられるのなら、私はそれを受け入れます。元々、見破られたら諦めるつもりでしたの」
「いえ、人形は良いんです。差し上げます」
「まあ、本当?」
「ええ、出来れば箱を用意して、差し上げたいくらいです。ただし責任は持てません。呪いの人形ですから」
「構いませんわ。むしろ歓迎。でも、箱は必要ありませんの」
「どうしてですか?」
「私が欲しいのはお人形だけなの」
不可解だった。少なくとも、転売目的でないということだけは理解出来たが、箱には他に茶器や装飾品も収納されている。コレクションするつもりなら、必須だろう。
「本当にいいんですか、立花さん。逢阪さんの所有物なんですよね?」
「ああ、いいんだ。ただ、一つだけ気になることがあるんです、それだけ教えていただきたい」
「何でも訊いて」
「リーチェさんは、僕のことを前からご存じだったんですか?」
「あら、どうして?」
「名前を」
「戦さん、と?」
「ええ」
「思い出に閉じ込める方が、ロマンティックかと思ったのだけれど」リーチェは哀しそうに目を細める。「それでもお知りになりたい?」
「是非」
「そう……では、人形をいただいたお礼に種明かしをしなくてはなりませんね」
リーチェは屋敷の中をぐるっと見渡した。懐かしむような、それとも、思い出すような行為だ。
「以前から、こちらにお人形があることは存じておりましたの。是非手に入れたいと思っていて――立花さん、あなたとも直接お会いしたことがあります」
「僕と? まさか」
「いいえ、人形愛好家と称して、少人数でこのお屋敷にお邪魔しました。その時は逢阪巴さんもいらっしゃったわ。その時、私が目をつけたのはあのお人形さんです。私、どうしても欲しくなって……でも、逢阪さんには断られてしまいました。呪いの人形は、危険すぎるから、と」
「危険……ですか」
「これでもお人形の扱いや知識には長けていますから、そうした人形が危険であることは知っておりました。けれど、逢阪さんはお金をいくら払うと言っても頷いてくださいません。ですから、お邪魔したの。昨日、このお屋敷に」
「……何故昨日だったんですか? その口ぶりからすると、逢阪がいないことも、その間僕が滞在するのも、知っていたように聞こえます。一週間、まるまる猶予はあったはずじゃありませんか」
「仰る通りですわ。でも、昨日じゃなければならなかったの。出来るだけ、自然でありたかったの。晴れた日に訪れるのではなくて、雷の日に逃げ込むのではなくて、誰かがしたのと同じ行動をしたかった。そうすることで、理由をごまかせたの。だから一週間、機会を待ちましたわ。もっとも……ずっと機会がなければ、多少不自然でも、お邪魔したかもしれませんけれど」
「確かに、リーチェさんとお会いした時は、人形を盗みに来ただろう、なんて思いませんでした。あなたがもし、晴天に『人形を見させてください』と言ってきたら、僕はそれを断ったでしょう。いくらあなたが魅力的でも」
「つまりはそういうことですわ」
リーチェは説明を終え、ゆっくりと笑顔を見せた。自分の計画がうまくいって満足しているのか、それとも何か他の企みがあったのか。
荻野さんは納得したような、複雑な表情で、みんなの顔を交互に見ていた。置き去りにされたような、当事者であったような、不思議な感覚なのだろう。少なくとも僕は、荻野さんと、そのパートナーがいなければ、違和感には気付かなかったかもしれない。
夢見屋は手持ち無沙汰に、食器に触れていた。あまりに唐突で、あまりに突飛な現象に、理解が追いついていないのかもしれない。あるいはジュペッタに触れた唯一の人物だ。その手の感触と、マニューラの体つきについて、疑問を抱いているのかもしれない。
「……雨、やんでますね」
夢見屋が言った。