2
「雨、もうこの調子だと止みそうですね」
リーチェが用意した朝食を食べながら、談笑が続いていた。夢見屋は食事の匂いにつられて目を覚まし、のそのそとやってきた。リーチェはこの場にはいない。風呂場で身体を洗っている。朝食を作る前に入れば良かったのに、と言ったが、リーチェは「順番がありますわ」と言うだけだった。
「夢見屋は?」
「お風呂です?」
「ああ」
「んー、入りたいような、すぐ町に着くような」夢見屋はそう言いながら、服の匂いを嗅いだ。「お酒の匂いがしますね」
「悪いけど洗濯機はないよ」
「あれ、そう言えば立花さん、もしかしてお洗濯とかしてないんですか?」
「一日中本を読んでいて、毎晩風呂に入って、寝るだけ。あんまり汚れないね」
「まーそうですね」夢見屋は一人頷いていた。「旅人に比べれば、全然清潔そう」
「多分ね」
「なんだか帰るのが惜しいな」荻野さんが言う。彼は食欲もまだまだ旺盛だった。「一年中の疲れを癒したような夜だった。まったく清々しい朝だよ」
「ほんとですね。泊めてくださった立花さんに感謝しなきゃ」
「そんなに気にしないで良いよ」
「雨宿りってだけじゃないくらい、本当に楽しかったんですよ」
「まあ、喜んでもらえたなら幸いかな……ところでさ」
僕は酒の勢いを借りる必要があった。
これから僕が話すことは、とても重要なことだ。そして、とてもデリケートな話題でもある。別れはすぐそこだ。けれど、確認しておかなければならない。
「僕の名前、知ってる?」
「何言ってるんですか立花さん」
「名前。下の名前」
「えっと、い、戦さん……でしたよね」思い出すように、夢見屋は言った。「でも、苗字で呼んでくれって言ってませんでした?」
「ああ、言った。そして、夢見屋には名前を言った記憶があるし、君もそれを知っていた」
「俺も聞いた。確かにそんな名前だったな、って記憶くらいだが。外で、俺が素っ裸だった時だな。俺の名前も?」
「夢見屋は、夢見屋眠子。荻野さんは、荻野六。僕は立花戦。ですよね?」
「ええ、知ってますよ」
「リーチェさんは……いや、彼女のは偽名だろう?」荻野さんは何でもない風に言った。「今更気にすることでもないと思ったが」
「いえ、そうじゃなくて」
「何ですか?」
「彼女には、僕は本名を喋った記憶がない」
僕の言葉に、夢見屋が手を止める。
妙な違和感とでも言うか。
それともある種の恐怖か。
「でも、集まったあと、みんなで自己紹介したじゃないですか」
「あの時僕は、自己紹介をしていない。喋ったのは年齢だけだったはずだ」
「どうして今、気にするんだ?」荻野さんは怪訝そうな表情をしていた。「彼女に伝えておこうってことか?」
「彼女が僕の名前を呼んだんですよ」
「戦さん?」
「そうだ」
「どうしてですか?」
「分からない。そもそも、もしどこかで聞いていたとして、すぐに覚えられるような名前だろうか。僕にはそうは思えない。夢見屋は、寝心地が良さそうだから覚えていた。荻野さんは、年齢と一緒に覚えやすく教えてくれました。でも僕は……紹介した憶えもない。話した覚えもない。それに、夢見屋や荻野さんが、僕を『戦』と呼んだ覚えもない」
「酔っていたんじゃないのか」
「そうとも考えられます」
「何が気になるんだ?」荻野さんは、少し不満そうだった。「自分勝手な意見だが、立花さん、あなたがリーチェさんに何か不信感を抱いているのが、よく分からんが、気持ち良くない。うん、なんというか、仲良くいて欲しいという気持ちだな」
「それは、分かります。いえ、僕もそうありたい」
「そうですねえ、なんかお似合いな感じでしたもん。出逢ったばかりなのに」
「本当に出逢ったばかりだったんだろうか」
僕は不思議に思う。
何故リーチェは、あんなにも僕に好意的に接してくるのだろう?
何故名前を知っていたのだろう?
何故人形を盗めたのだ?
その方法は?
その準備は?
その動機は?
その契機は?
一体どこで、僕はそれを――
「何か、あったんだな」
荻野さんは溜息混じりに言った。
「ええ」
「いや、そんな気はしてたんだ。職業柄、人が隠し事をしているのはよく分かる。いや、秘め事と言うべきかな。そういう連中ばかりが品を流してくれるから、嫌でもね」
「余計な心配になるかと」
「いや、立花さんはそういう人だ。俺に心配をかけまいとして言わなかったんだろう。俺を疑っていたとかじゃなくてな。分かるよ……一体、何が起きたんだい」
「人形が、盗まれたんです」
「ああ……そうか」
荻野さんは悔しがるように項垂れた。
「荻野さんにも……一応、伺っておきます。荻野さん、人形を盗まれましたか?」
「いや、盗んでいないよ」
荻野さんはグラスを置いて、ゆっくり目を瞑った。そして、哀しい溜息をつく。
「そんなことがあったのか。一人で楽しく酒を飲んでいる場合じゃなかった」
「いえ、違うんです荻野さん。違います。正直言って、人形がなくなったことを、僕はそれほど後悔してはいません」
「立花さんの人形じゃないんでしょう?」
「あれは確かに高価な人形だけどね、だからと言って、売りには出せないし、壊すわけにも、燃やすわけにもいかない人形だからね。なくなったとしても、まあ小言の一つや二つは言われるだろうけど、そこまで大した損失ってわけじゃあない。それはもう、気にしてない」
「なくなっちゃってもいいってことですか?」
「むしろ盗んだ相手が心配だ。呪われなければいいけど」
「除霊はしてあるんだろう?」
「憑依しやすい容れ物っていうのもあるんです」
「ああ……いわゆる『呪いの人形』ってやつか」
「でも、じゃあ……リーチェさんが?」
「分からない」
「でも、人形なんて」
「持ってない、と思うだろう」
「俺もそう思うな。彼女は人形なんて持っていないはずだ。小さなバッグすら持っていなかっただろう」
「確かに、僕も持っていないように感じています。それに、この屋敷の部屋の鍵は僕が管理している。合い鍵はない。じゃあ、人形を隠す場所なんてない」
「そりゃそうですよ。呪いの人形なんだから、呪われて一人でに動いたとか……」
「ただ一つだけ、気になってることがあるんです。ねえ荻野さん」
「何だ?」
「昨日の晩、荻野さんが寝る前にリザードを繰り出しましたよね。あの時のこと、覚えてますか」
「ああ、覚えてる。リーチェさんのジュペッタが怖がって、ソファの後ろに隠れたんだっけな」
「なんで怖がったんですかね」
「? そりゃあ、臆病なんじゃないか?」
「僕はそうは思わなかったんです。つまり……」
「立花さん、お風呂をありがとうございました」
音もなく、髪にほんの少し水気を残した状態で、リーチェが現れた。艶やかな髪色。僕が思っている以上に、また、世界が想像している以上に、彼女は神々しく美しい。全ての悪事を許せてしまうほどに。
「リーチェさん」
「お口に合いました?」
「ええ、とても」
「嬉しいわ」
リーチェはまた、ジュペッタを、連れ歩いていた。抱きかかえるのではなく、連れ歩いている。それは、いつから起きたことだっただろう? 分岐点は? 記憶力は酒量によって淀んでいる。さあ思い出せ。どこで変化した。どこで入れ替わった。どこで、どこで……。
「何のお話をしていたの?」
「えっと……」夢見屋が言い淀む。「立花さん」
「リーチェさんの秘密についてです」
「心当たりが多すぎるわ」リーチェは僕の真正面に座る。「どのお話?」
「西洋人形の居場所――ではなく」
僕の中で、実を言えば、西洋人形については諦めがついていた。どころか、彼女に対しては、箱ごとあげても良いくらいだった。もちろん、巴に何を言われるかは分からない。それでも、そのくらいに、僕は彼女に心酔していた。けれども――
けれども、気になることが、多すぎる。
「話しても良いですか、リーチェさん」
「立花さんのお話なら、喜んで」
「リーチェさんと一緒にいるジュペッタ」
この位置からでは机が邪魔で姿は確認出来ないが、確かにそこに存在するはずのジュペッタ。
「この子がなあに?」
「そのジュペッタ……中身は、マニューラなんじゃないですか?」