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朝が来ても雨は止まなかった。それでも昨晩よりは落ち着いてきているようだ。巴のベッドで一夜を明かし、目を覚ます。彼女の匂いが染みついたベッド。もっとも、僕と彼女の間にそんなに深い関係性はないはずだった。よく考えればこの部屋にも時計はあったな、と思いながら、時刻を確認した。午前六時。とても健康的な目覚めだ。
すぐに夢見屋の寝ている寝室に向かい、鍵を開けた。彼女の寝息が聞こえる。起こすか迷ったが、そのままにしておくことにした。鍵は開けておく。そうすれば、起きたら自分で出てこられるだろう。
次にリーチェの部屋に向かった。鍵は掛かっている。中がもぬけの殻なら笑う他ないが、良かった、リーチェは寝相良く眠っていた。しかし、顔までベッドに埋もれていた。
「朝が来ましたよ、リーチェさん」
「……立花さん?」
「ええ」
「窓を開けてくださらない?」
「構いませんよ」
窓を開けるために、部屋に侵入し、彼女の顔の辺りに向かった。
突如、腰の辺りを掴まれる感覚。意図していなかったあまり、そのまま背後に引き寄せられ、ベッドに腰掛ける形になった。
「……リーチェさん」
「おはようございます」
「そんなに活発な方でしたっけ」
「朝ですもの」
「いたずらは……」僕は背後を振り向いたことを後悔した。すぐに窓を向く。「リーチェさん、服を着て下さい」
「覚えていなかったんですね」
「本当だとは思っていませんでした」
「真面目な方」
「離していただけませんか」
「どうしようかしら」
「誤解されますよ」
「構いませんわ」
「僕が困ります」
ゆっくりと、彼女の細い指を解いていく。彼女の腕を見るのは初めてだ。ずっと洋服に包まれていた。彼女のか細い腕は、透き通るように白い。
僕の身体から離した手が、今度は僕の右手を捕まえた。そして、包帯の巻かれた僕の掌を、なぞっていく。とてもくすぐったい感触だった。
「……ごめんなさい」
彼女はまた、同じ呟きを口にする。
「もう済んだことです」
「皆さんは?」
「夢見屋は寝ています。荻野さんはどうでしょう、僕も起きたばかりで」
「今日はどのようなご予定?」
「逢阪さんは夕方以降に帰宅します。雨も、弱まってきました。もうじきに止むでしょう。そうしたら、皆さんをお見送りします」
「寂しいわ」
「そう言って頂けるのは光栄です」
「朝ご飯を作りましょうか」
「……」しばし考えることがあった。しかし、すぐに打ち消す。「すみません、失礼なことを考えました」
「私も、料理くらいは出来ますわ」
「ますます素敵な人に思えてきました。あとは服を着ていれば完璧ですね」
「すぐに支度をして伺います。お化粧もしないと」
「ああ……そう言えば、いつ落としたんですか?」少し振り返る。彼女の素顔には興味があった。露出しているのは肩までだった。掛け布団を引き寄せるようにして、彼女の上半身を隠す。「鍵は掛けていたはずですが」
「階段でお話をした時には、もう」
「ああ……気付かなかったな」
「酔っていたからでは?」
「どちらも同じくらい素敵という意味ですよ」
「立花さんはプレイボーイなのね」
「こんなことを言うのは初めてです」僕は苦笑しながら言った。
彼女の素顔は本当に美しかった。化粧をするのとしないのとでは、確かに表情に変化があったが、顔が変わるというほどではない。むしろ僕にとってはこちらの方が魅力的だった。
「お化粧道具はお持ちなんですか」
「簡単なものなら」
「先に広間に行っています」自然な手つきで、彼女の頬に触れた。「雨が止むまでもう少し掛かりそうですから」
「ええ……そう言えば、ジュペッタを置いたままですわ」
「連れてきましょうか?」
「立花さんが?」
「無理でしたね」僕は右手を見ながら微笑んだ。
寝て起きて昨日の事件を忘れてしまったわけではない。しかし、考えたところでどうにもならない。今大事なことは、彼らが人形を持って出て行ってしまわないよう、最後の最後で注意すればいいことだ。そう、この建物は孤立している。外に出るためには、玄関を通らなければならない。玄関さえ封じておけば、盗まれはしても、持ち去られることはない。
広間へ向かう。案の定、荻野さんは爆睡していた。リザードも暖炉に尻尾を投げ出して、寝入っている。暖炉の薪は燃え尽きていたが、リザードの炎だけは燃え続けている。暖炉の脇に詰んである薪を何本か拾い上げ、暖炉に放り込んだ。消し炭が舞い上がる。これを感じるのも、今日を終えれば、しばらくはなくなるだろう。
「ん……」
「すみません、起こしましたか」
「今、何時だ……?」
「六時を回っています」
「健康的だな」荻野さんは大きく伸びをしながら言った。「女性陣は?」
「眠っています」適当な返事をした。
「ああそうか。まあ、昨日は飲んだからな」
「一番飲んだ荻野さんが言っても説得力はありませんね」
「違いない」
荻野さんは大きく伸びをする。会ってからまだ一日も経っていないとは思えないほど馴染んでいた。
「そう言えば、みんな寝ていたし、騒ぎにするのも悪いと思って放って置いたんだが」荻野さんは空のグラスを手に取り、ウイスキーを汲んで、氷解水で適度に割った。「夜、すすり泣きみたいな声が聞こえた」
「すすり泣き?」
最後の一本を暖炉に放り投げる。リザードも目を覚まし、自分の役割だと判断したのか、口から炎を吐き始めた。
「ああ。どっから聞こえてたのかは分からんが、嗚咽みたいな声でな。最初はそりゃあびっくりたんだが、幽霊屋敷ってことで、あまり考えないようにしたよ。もし泣いてるのがあの和人形なら、悪くないしな」
「恐らく人形部屋ですね」
「ふうん? 呪いの人形ってやつか?」
「分かりませんが、僕もそれを聞いたんですよ」
「夜か?」
「いえ、昨日の……夕食のあとですね」
「そうか。霊障ってやつかな」
「まだ分かりませんが、心配なので、あの部屋は開けられませんね」
「それは残念だ。最後に一目、と思ったんだが」荻野さんはぐっとグラスを空にした。「まあ、ここに人形があるということは分かったんだ。見たくなったら、また来て良いかな」
「僕がいる時でしたら、喜んで」
キッチンからミネラルウォーターを持ってきて、荻野さんと昨日の続きを始めた。僕はもうすっかり、推理とか、そういうことを考えなくなっていた。誰も疑わず、誰も許容せず、ただ出発の瞬間を注視すれば……。
「しかし、よく寝るなあ」
荻野さんはグラスを持った手で、ソファの上で丸まっているジュペッタを指さした。暖炉から一番離れたソファだ。熱いのが苦手なのかもしれない。
「寝ていると可愛らしいですね」
「そういや、立花さん、苦手なんだろ?」
「僕というか、彼らがですね」
「そうなのか。まあ、そういう人間もいるだろうなあ」
「荻野さんは、リザードとは長いんですか」
「ああ、子どもの頃から一緒だ」
「リザードンには?」
「身体が弱いんだ」荻野さんはまだ酒を飲み続けている。「進化すると当然、身体への負担は大きくなる。それに耐えられるかは怪しいそうで、そのままにしてある。だから、もう十分に進化する時期を過ぎてるんだ。ここいらじゃあ、比較にならないほど強いだろうな」
「負担ですか」
「ああ」
「ここに来る時、リザードを抱えてましたよね」僕はふと、思い出したように尋ねた。「その時、荻野さんはほとんど裸でした」
「ああ……そう言えば、服」
「いいですよ。いつか返しに来てください」
「近いうちに礼をしに来るよ」
「あれ、どうしてボールに入れなかったんですか?」
話題を逸らされたのかと思い、深く追求してみた。荻野さんは深く溜息をついてから、言った。
「なんで尻尾の火が消えると、死ぬと思う」
唐突な問いに、僕は答えられない。ヒトカゲ族のことをよく知らないというのもあるし、正直、考えたこともなかった。
「分かりません」
「あいつらは、生きるのに一定の体温を必要とするんだ」
「体温?」
「尾の炎がそれを調整する役割をする。あいつらの飼い主には当然の知識だが、あまり知られてないんだろう。暖炉を見てみなよ」
僕は暖炉に目を向けた。リザードの尻尾の炎は、そう言われると、普段目にするものよりも、極端に大きい。薪の火を大きくするためのものかと思っていたが、違うようだ。
「調節しているんですか」
「熱いところだと、体温は高くなるから、身体の中に蓄えた炎は外に吐き出す。逆に、寒いところでは、体温を上げるために、体の中に熱を入れる。あれは水に濡れて火が消えるんじゃなくて、体内に炎を取り込んでも間に合わなくて、やがて死に至るんだ」
「へえ、なるほど」
「だからな、昨日は、体温を上げるために直接抱きかかえていたんだ。火が消えかけた状態でボールに入れちまうと、それこそ死んじまう。もし雨具がないなら、雨の日はずっと抱いていた方が良いんだ。少なくとも、人肌が保たれてるうちは、死なない」
嘘をつく必要はない。荻野さんの言っていることは本当だろう。違和感はあった。が、リザードのために自分の衣類を焼くような男だ。嘘をつくとは思えないし、他人のものを勝手に盗むような真似をするとも思えなかった。信頼とか、期待とかではない。単純な考察だ。
「リザードは、もう平気なんですか」
「ああ、当面の熱を溜め込んだはずだ。これからまた店に戻るまで、ゆっくり行こうと思う。あんまり長いことボールに入れるのも身体に障るんで、歩かせないといけないが」
「どうしてそこまで……」
「ん?」
「どうしてそこまで、リザードに固執するんですか?」
なんでそんなことを尋ねたがったのだろう。僕はそんなことの答えを、知らないつもりでいたのだろうか?
「ん、ああ……そんなこと聞かれるのは初めてだ」荻野さんは空になったグラスに、ミネラルウォーターを注いだ。「うん、考えたこともなかった」
「それほど、大切な存在なんですか」
「そうだなあ。親とも兄弟とも、恋人とも違う。敷いて言えば、うん、パートナーだなあ」
荻野さんは深く考え込むように言った。僕にはまったく分からない感情だった。パートナーなんて。替えの効かない存在なんて、まったく。
「おはようございます」
ゆったりとした声で、リーチェがやってきた。昨日と同じ恰好だが、表情が違った。とても僕好みだった。化粧は、それを落とした時の清楚さを生み出すために存在するのかもしれない、と思えるほどだった。
「おはよう、リーチェさん」
「おはようございます荻野さん。またお酒ですか?」リーチェは上品に笑う。「何かお召し上がりになります?」
「どういう意味かな」
「私が何か軽いものを」
「うん? つまりどういうことかな」
「荻野さんにはお酒を飲んでいていただきましょうか」
「いや悪い、冗談だ。出来ればいただきたい。作っていただけるんだろう?」
「ええ、喜んで。立花さん、キッチンをお借りしてもよろしいかしら?」
「ええ、構いません」
「ジュペッタ、行きましょう」リーチェは眠っているジュペッタの手を引いて、キッチンへと向かって行く。「洗い物もしておきますね」
「ああ……うっかりしていました。手伝います」
「いいえ、座っていらして。これくらいはさせていただきたいわ。昨日は何もお手伝い出来なかったから」
「……それじゃあ、お願いします」
リーチェのあとをつけるように、ジュペッタはてこてこと歩き出す。その仕草はとても可愛らしいものだった。だが……いや、気のせいだろうか。僕は違和感を覚えていた。リーチェと会ってから、あまり見た覚えのない光景。
「美人だ」リーチェが見えなくなって、荻野さんが呟いた。「連絡先くらいは交換した方が良いだろう」
「ああ、そうですね。自宅の住所と電話番号を書いておきます。荻野さんも」
「ん? いや、彼女のことだよ」
「何ですか?」
「君と、リーチェさんだ」
「ああ……」そう言えば、そういう行為は全くしていなかったのか。「いえ、どうでしょうね。あまり、詮索しない方が良いかもしれない」
「それでこそ美しいってやつか?」
「ええ、とても」
栓の空いていないウイスキーがあった。飲むべきではないと頭は理解していた。しかし僕の両腕は、その栓を開けることに熱心になっていた。荻野さんはそれを嬉々として眺めている。彼は酔っている風はないし、もし酔っていたとしても、綺麗な酔い方をする。酒を飲ませても危険はないと考えた。
「酒、強くないんだろ?」
「ええ、あまり」
「朝から飲んで大丈夫かい?」
「飲みたい気分なんです」
僕は――そう、何か、とても大変なことに気付いてしまったような、そんな気がしていた。
あり得ないわけではない。
ジュペッタが眠ることは。
不眠という障害を持たないジュペッタが存在することを、僕は知っている。しかしながら、元が人形である生き物だ。睡眠を取るという重要性が、さほどない。少なくとも、人間より長い時間寝ているということが、信じられなかった。
そういう、特別なジュペッタなのか?
いや――
「立花さん、どうかしたかい?」
「いえ、ちょっと……」
リザードが現れたときのジュペッタの反応を思い出す。
あるいは、切りつけられた時の感触。
それとも、リーチェとジュペッタの距離感についての、その差違を。
思い出せ。
そこに違和感がある。
その違和感の正体は何なのか――
忘れようとしていた思考回路が、再び稼働する。
もう少し。
もう少しで、たどり着きそうだった。