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夢見屋が軽くつまみを作ったり、荻野さんが専門知識を披露したりと、夜の時間はまた落ち着きを取り戻し、ジュペッタと僕の怪我の話題に触れない形で続いていた。
「雨、止みそうにありませんね」
何の会話の途中だったのか、夢見屋が唐突に言った。キッチンから帰ってきたところだったのだろう。つまり、窓の外を確認したということだ。僕は少し酔いが回っていて、思考力の低下を感じていた。
「夢見屋さん、明日は早いの?」
「いえ、特に決めていませんけど……あんまり長い間お世話になるのもどうかなって。あ、でも、家主さんにはご挨拶しておいた方が良いかなあ」
「逢阪さんは明日遅いし、会わない方が良いと思うけど」グラスの中身を見つめる。琥珀色の液体。美しかった。「彼女は人払いの人間なんだ。人とは会わない」
「立花さんは知り合いなんですよね?」
「僕は特別なんだよ」
「今、何時なんだろうな」荻野さんが言う。「立花さん、時計とか、あるのか?」
「時計……時間を確認する必要が?」
「いやあ、そう言われると確かに、時間なんか気にしない方が楽しめるな」
荻野さんはそう言ったが、まだ周囲を見渡していた。酔いのせいだろう、面倒臭がっている自分がいた。それは良くないことだ。グラスの中身を一気に飲み干す。
「注ぎましょうか」
「いえ、もうやめておきます」リーチェの誘いを断り、グラスを置いて立ち上がる。「時計を見てきます」
「ああ、わざわざいいよ」
「いえ、少し酔いを醒まさないと」
僕は少し自虐的になっていた。
頭の中で、ジュペッタが人形である可能性を閃いた時、これ以外に方法はないとすら思った。にも関わらず、ジュペッタはジュペッタとしか思えないような行動に出た。僕の推理は完全に外れた。あれは生きている。
きっとこの話をしたら、夢見屋あたりは「中の綿を少し抜けば詰められるんじゃないですか?」と言うかもしれない。しかし、ジュペッタのことを少しでも知るものなら、そんなことは考えない。ジュペッタは全て含めて、ジュペッタとなる。まるでコンピュータのように、全てのパーツで成り立っている。綿を少し――例えば西洋人形を入れられるだけ綿を抜いて、閉じ込めたとしたら、それはジュペッタにとって死を意味する。
人間で言えば、内臓を抉り取られるようなものだ。
生きていると考える方が不思議だろう。
二階へ向かう。時計は書庫に置いてあった。この時計を最後に確認したのは、雨が降り始めた時だ。それ以来ずっと見ていなかった。時刻は午後十一時を指している。随分と長い時間を過ごしたような気がしていたが、彼らと出会ってから、まだ六時間ほどしか経過していなかった。書庫は僕が出た時のままだ。変化はない。用心深く、鍵を掛ける。
西洋人形はどこだ。
巴に留守を任され、人形を失うという失態をしでかしたことよりも、原因不明の消失が僕の心を悩ませていた。一体、どこに? 謎は連鎖する。少しずつ、頭がクリアになる。あるいは、酔いが深まってきたのか。階段を下りる途中、段に腰掛けた。和人形のいる階段だ。彼女は今も、椅子に座って、じっと虚空を見つめている。
いい夜だ。
何故この人形はここに居たがるのか、考えたことがあった。僕が導き出した結論は、人通りが多いからだ。階段の踊り場は、人と出会う可能性が高い。そして邪魔にならない。玄関は意外にも利用頻度が低い。しかし階段は何度も昇降を繰り返す。僕たちを眺めるような位置取りで座るのは、そうした理由からなのではないかと、僕は考えている。
そう思ってから、この人形が怖くなくなった。
……何を考えていたのだろう。
忘れてしまった。
「立花さん」
階下から、リーチェの声が聞こえてきた。つ、と目をやる。彼女は一人だった。ジュペッタを連れてはいない。どうしてだろう。
「こんばんは」
「立花さん、酔っていらっしゃるようね」
「まさか」僕は段を横にずれた。「座りますか?」
「ええ」
リーチェはハンカチを取り出して、その上に腰を下ろした。人形に見つめられるような位置取りだ。
「どうしたんですか?」
「夢見屋さんが潰れてしまいました」リーチェは微笑みながら言う。「荻野さんは、一人でゆっくりお酒を愉しんでいらっしゃいます。とても上機嫌で」
「お開きですかね」
「そうかもしれません」
「先ほどはすみませんでした」
「私が気にしなければ、と」
「ええ、僕は気にしない予定でした」頭を振った。酔いが回るようだった。「ですが、それとは違うことを、気にしてしまっているんです」
「違うこと?」
「西洋人形が盗まれました」
「まあ」リーチェは落胆したように言った。「いつ?」
「分かりません」
「確認してはだめかしら?」
「あの部屋は開けないことに決めました。いえ、あの部屋だけではなく、お二人の寝室以外は、どこも」
「どうして?」
「こう考えました」
僕は手振りを交えて、リーチェに説明をした。まず、人形が外に出ている可能性は低い。これは嵐であることと、外に出た場合濡れずにはいられないという可能性からだ。ならば人形は室内にあるに違いない。しかし、見当たらない。どこにあるか見当もつかない。ならば、もう部屋という部屋を解錠しなければ、もしそこに隠されていたとしても、彼らの手は届かない。
「僕は逆説的に、犯人を密室に閉じ込めたんです」
「素敵な言い回しね」
「僕はリーチェさんを疑っていました。いえ、実を言えば、今も疑っている。だけど、僕の予想は外れました」
「予想?」
「あのジュペッタが、ただの人形だと思っていたんです。そしてその中に……」
「人形を隠した、と思われたのですね」
「ええ」
「でも違った」
「そうです。僕がそれを証明した」
「それでも私の疑いは晴れないんですか?」
リーチェは僕の肩に頭を乗せた。それがどんな意味を持つ行為なのか、僕には分からない。妙に積極的な女性だ。そういう趣味なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
「僕以外の全員を疑っています」
「もし私が犯人だったとして」
「ええ」
「立花さんは、私を嫌いになるかしら」
「好き嫌いの感情は、無関係では」
「いいえ、とても大事なことですわ」
「嫌いになるには、好きである必要があります」
「まだその資格がない?」
「一日では不可能でしょう」
「そんなことはないわ」
「どうして分かるんです?」
「私がそれを証明しますわ」
「吊り橋効果です」
「とてもロマンティックだわ」
「夢見屋をベッドに寝かせましょう」
僕が立ち上がろうとすると、リーチェは僕の腕を取った。どうしてそんなことをするのだろう。悲しい気持ちになった。
「立花さん」
「はい」
「私はとても悪い女なんです」
「リーチェさん、あなた……ああ、今、ようやく分かりました。酔っているんですね」
「ええ、とても」
「なるほど」僕は腰を下ろす。「付き合いますよ」
「私はとても悪い女だから、あなたを不幸にするかもしれません」
「それは困る」
「でも、出来れば幸せにしてあげたいのです」
「だからジュペッタを連れてこなかったんですか?」
「そうかもしれません」
「それならあなたは優しい人だ」
「私、頭はあまり良くないの」
「そんなことはないと思います」
「ねえ、気になることがあるのだけれど、どうしても、何故気になるかは分からないの」
「なんですか?」
「荻野さんは、どうしてリザードを、ボールに入れて持ち運ばなかったのかしら?」
「それは……」
それは、
それは……、
何故だろう?
「何故……」
「夢見屋さんも、旅人なのに、どうして雨具の用意をしていないのかしら。随分、長い間旅をしているようなのに……不思議じゃないかしら」
「それは、確かにそうですが……」
「それとも、どこから来たのか分からない私の方が、もっと不思議かしら」リーチェは微笑んだ。「でも、あなたのお力になれればと思って」
「……信用は、出来ません」
「つれないわ」
「お名前すら伺っていないですから」
「リーチェと申します」
「偽名でしょう?」
「ええ」
「それじゃあ、信用は出来ません」
「戦さん」
リーチェは僕の名を呼んだ。
「本当の名前なんて呼ばなくても、通じ合えることはありますわ」
「その名前は嫌いです」
「では、昔は好きだったのですか?」
言われて、答えに窮した。
好きじゃなければ、嫌わないのか。
そう、恐らくは――
「そうですね、昔は好きだったのかもしれません。その名前が」
「嫉妬してしまうわ」
「僕の名前に?」
「ええ、とても」
「酔っているんでしょう」
「そうですわ」
「どうして?」
「あなたに部屋まで運んでいただきたいの」
「わがままですね」
「だめかしら」
「いいえ、喜んで」
僕はリーチェさんを抱き上げる。膝と背中に手を回して、持ち上げた。多少ふらついてはいたが、思っていたよりも軽い彼女の身体は、持ち運ぶのに問題はなさそうだった。
「逞しいのね」
「あなたが軽すぎます」
「もし私が盗んでいたとしたら」リーチェは僕の瞳をじっと覗き込む。「軽蔑されてしまうかしら」
「もしあなたが犯人なら」
僕は思案する。
そうだとして、
あの人形にどれだけの価値があるのか。
他人の所有物であるはずの人形。
しかし、それはこの出会いと――
いや、
そうじゃない。
「もし、人形を持ってこの屋敷を出られたなら、僕はその罪を許し、僕が罰を受けます」
「そう、皆さんにも伝えなくちゃ」
「あなたが犯人なのでは?」
「まだ分からないわ」
彼女の本心は分からない。本当に犯人ではない、という気もしてくる。実際、西洋人形を盗む動機は、全員に、平等に存在する。それはもう考察を終えてある。リーチェが盗んだと考えるのが正道ではあるが、彼女が気に入っていることを逆手に取って、荻野さんが骨董品としての価値を求めて盗んだか、あるいは夢見屋が路銀目当てに盗んだか。可能性はいくらでもある。問題は、理由じゃない。実行可能かどうかという、ただ一点。
「けれど、あなたが犯人であって欲しくなってきました」
ゆっくりと階段を下りながら、語りかける。うっすらと、眠りそうな表情で、「どうして?」と、彼女は尋ねた。
「もし屋敷から人形が消えたら、僕はそれを探すでしょう。その先に、あなたがいる」
「立花さんは詩人なのね」
「読書が趣味なんです」
「趣味が合いそうだわ」
リーチェは僕に一層身体を寄せた。広間ではソファで夢見屋が眠っている。僕たちに気付いた荻野さんが、なんだか楽しそうな表情で、グラスを掲げた。祝杯なのだろうか。もちろんあなたのことも疑っていますよ、と、僕は表情で語った。通じるはずもないのだが。
消えてしまった人形は、どこにいるのか。
どうして消えてしまったのか。
彼女を部屋まで運び、ベッドに下ろしたあとで、ジュペッタを置いてきてしまったことを思い出した。
「ジュペッタは」
「そのままでも良いのではないかしら」
「寂しがるのでは?」
「きっと眠ってしまうわ」
「夢見屋を連れて行きます」
「もう少しゆっくりしていらして」
「またあとで来ます」
「嘘でしょう?」
「分かりますか」
「あなたは紳士的だわ」
「そう育てられました」
僕は彼女の手を取って、おやすみの挨拶をした。彼女はそれを契機に、まどろみの中へと堕ちていく。
「ずるい人だわ」
「おやすみなさい。鍵を掛けます」
「ええ、是非」
部屋を出て、彼女の部屋に鍵を掛ける。彼女は密室に囚われた。彼女の部屋に西洋人形はなかった。どこにも、どこにもない。どこにもだ。
広間に向かい、酔いつぶれた夢見屋を抱き上げる。
「もう少し遅くなると思っていた」
「ゲストに手を出したりはしません」
「似合うと思うけどな」僕とリーチェのことを言っているのかもしれない。「俺も、そろそろ、良い頃合いだな」
「どうぞ。暖炉はそのまま使って頂いて構いません」
「ああ……それじゃあ」
荻野さんはボールを暖炉に向けて転がした。丁度良いところで止まったボールからは、リザードが現れる。とても元気そうで、吸い込まれるように暖炉に近づき、尻尾を暖炉に向けた。
「はは、随分臆病だな」
「何がですか?」
「彼女のジュペッタだよ。リザードが出たら、すぐにソファの後ろに隠れた」
「そういうタイプみたいですね」
「まあ、向き不向きがあるか。それじゃあ、おやすみ、立花さん。最高の日だった」
「ええ、僕もです」
僕は夢見屋を抱きかかえたまま、広間から離れる。考えているのに、一向に、人形の所在は掴めないままで。
謎めいた謎は、謎のままで、
僕は、人形の所在を掴めぬまま、
嵐の夜を、終えた。