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「今のうちに部屋に案内しておこうか」
広間に戻ってからは、普段通りの会話を心がけた。この屋敷に異変が起きていることに気付いているのは、僕とリーチェだけだ。あの反応から言って、リーチェは西洋人形が消えたことに気付いている。ほぼ確実に。だが、そうじゃないという可能性もある。何にせよ、全ての可能性を捨ててはいけない。慎重にことを運ばなければ。
「おへやですかあ」
「夢見屋、君、飲み過ぎじゃないか」
「まっさかあ、普通ですよお」
「これ以上飲ませる前に案内した方が良いな」僕は夢見屋の腕を取って立ち上がらせる。「ちょっと失礼しますよ」
「ああ、勝手に飲ませてもらうよ」
「ごゆっくり」
リーチェは含みのある表情で言った。頭が割れそうに痛いのは、飲み過ぎているからではないはずだ。
夢見屋は立ち上がれば普通の動きに戻った。暖炉のあたたかさ、ソファの座り心地、酒の巡り、それらが合わさって良い気持ちになっているのかもしれない。眠ってしまうのも時間の問題だろう。しかし、十代の女の子が初対面の男の前で酒に溺れてしまうというのは、いかがなものかと思った。
「夜這いですかあ……?」
「ばか言ってないでちゃんと歩いて」
「まあ、立花さんはそういう心配なさそうだから、お酒も飲むんですけど」夢見屋はいたずらっぽく笑う。「それに、立花さんは私よりリーチェさんに興味がありそうですもんね?」
「大人はからかわない方が良い」
「それより、本当に、なんで連れてきたんですか?」夢見屋の口調は段々とはっきりしてくる。「部屋に案内なんかしなくても、酔いつぶれたら、運んでくれればいいのに」
「君が身勝手な言い方をしているわけではない、ということは、僕にも分かる」
「何か聞きたいことがあるんですよね」
「その通りだ」
廊下の途中で、彼女に向き直る。
嵐は一向に収まる気配がない。
「あのジュペッタは、本物か?」
「え?」
僕の質問の意味を、瞬時には理解出来ていない様子だった。
「君は人形部屋に入った時、ジュペッタに抱きついた。覚えているか?」
「ええと……なんのタイミングかは忘れましたけど。怖くなったからかな」
「あの時、ジュペッタは生きていたか?」
「どういう意味です? 死生観の話?」
「いや、あれが自我を持つ生き物か、それともただのぬいぐるみか、という質問だ」
先ほど、僕が閃いたのはそれだった。
夢見屋はバッグを持っていた。荻野さんはリザードを持っていた。そしてリーチェは、ジュペッタを、ずっと、この屋敷に来てからずっと――持ち歩いていた。彼女がジュペッタを手放したのは、西洋人形を抱き締めた時、食事中、それとつい先ほどあの部屋で僕に詰め寄った時くらいだ。それ以外の時間、彼女はずっとジュペッタを抱き締めている。果たして、あの身動きしないジュペッタは、本物なのだろうか?
「どういう意味ですか?」
「意味はまだ訊かなくて良い。ただ、答えてくれ」
「うーん……反応があったかっていうことですよね。でも、確かに気にはなるくらい物静かだし、私も抱きついたのはほんの少しだから、ちゃんと生きているかどうかっていうのは判断出来ないです。でも、ただのぬいぐるみだったら、どうなんですか? 抱きついた時は、そうとは思えませんでしたけど」
「いや……」
ジュペッタの身長は、個体別に差はあるとは言え、平均して一メートル十センチというところだろう。つまり、小さくても一メートル。西洋人形を隠すには丁度良い大きさということになる。
もし――もし彼女が本当に西洋人形を盗んだとして、考えられるのは、あのジュペッタが本当はただのぬいぐるみで、生きていない。そして、あのジュペッタの中に、西洋人形を隠し、今も持ち歩いている。
まるで、最初からあの人形を盗むことを前提としたような装置だが――そう考えれば、腑に落ちる。
僕たちは、同じ形をしていれば生きている≠ニ考えてしまう。それは、和人形がまるで人間のように思えることと同じ。『ジュペッタ』という外観があれば、それを『ジュペッタ』という生き物だと考えてしまう。
そういうことなのではないか。
人形部屋に鍵を掛けた時、確かに彼女はジュペッタ以外何も持っていなかった。あの中に、西洋人形を隠し持ったのではないだろうか? 彼女が箱を閉めた現場は見たが、西洋人形をしまったところは見ていない。あの時既に、箱の中は空だった――
「立花さん?」
「とにかく、生きているかどうか、保証はないんだよな」
「そりゃあ、保証はどこにもないですけど……でも、そんなこと聞いて、どうするんですか?」
「あとで確認して、それから話す」
「何かあったんですか?」
「それも全部話すよ」
最初の予定通り、夢見屋を小さい部屋へと連れて行き、簡単に鍵の構造について説明をした。「悪さしたら閉じ込められちゃいますね」と冗談を言われたが、それは建設的な意見だった。もしリーチェが人形を盗んでいたとしたら――ほとんど確定事項だが――彼女を部屋に閉じ込めて、折檻することもあり得る。
「ベッドも柔らかそうだし、本当にありがとうございます」
「いや、楽しい夜だからね、気にしていないよ」
「立花さんはどこで寝るんです?」
「僕は逢阪さんの部屋。そこは中からも外からも鍵が掛けられる。というか、この屋敷の部屋はほとんど外から鍵が掛かるね。そして、二人が使う寝室以外の部屋は、全部外鍵が掛かっている状態だ」
「用心深いんですね。それとも幽霊のせい?」
「それもある。ポルターガイストって心霊現象を知ってる?」
「家具が動くやつ」
「そう。あれは、人形の憑依みたいなものが原因だからね。そういう憑依が起きないためにも、鍵は掛けておく必要がある」
「幽霊なら壁くらい抜けるんじゃないですか?」
「僕も専門家じゃないから詳しくはないけど、生前は人間だった霊は、物理法則に意外と従順らしいよ。そもそも、まだ生きてると思って生活している霊が多いようだから、空を飛ぶとか、念力で人を殺すとかは出来ないらしい。だって、幽霊ってみんな、僕らと同じで、地面に立つだろう?」
「確かに。浮遊霊とか言いますけど、上空二千メートルを飛んでる、とかないですもんね」
「そういうこと。前世の習慣をそのまま続行しているわけだ」
霊障についての講釈を垂れて、二人で部屋から出た。何かあってからでは困る。用心の意味も込め、僕は部屋の鍵を掛け、ついでにリーチェの部屋の鍵も掛けた。これで、僕たちが生活する、リビング、ダイニング、キッチン、他に階段と通路は、逆説的に密室となった。
「戻りました」
「ああ、もう一本開けさせてもらったよ」
荻野さんの脳天気さが救いだった。
接触の意味を込め、僕はリーチェが座っているロングソファの隣に腰掛けた。
「お作りしますね」
「すみません」
ジュペッタは、リーチェの左隣。つまり、僕の反対側にいた。大人しく……まるで生きていないように、座っている。今や、大人しいなどという言葉を使うのは憚られた。あれは、生きていない。それほどまでに、動かない。
「リーチェさんは、ジュペッタとは長いんですか」
もう怪しまれても構わない、という気持ちだった。単刀直入に斬り付ける。
「そうですね……もう、五年くらいになります」
「その時から、こんなに大人しいんですか?」
「ええ。もっとも、昔はそれでも感情の振れ幅が大きかったんですけど、今はすっかり大人しくて。戦わせたりしなかったせいかしら、本当に、お人形みたいで」
「触ってもいいですか」
僕の発言に、リーチェはさぞ驚いたことだろう。あるいは、それをはぐらかす手立てを考えていたのかもしれない。まさか見破られないと思っていただろうか? 様々な思惑が僕の中でうごめく。リーチェの返答は、
「立花さんがよろしければ」
というものだった。
「どうぞ、お飲みになって」
「僕がよければというのは?」
「立花さん、動物に嫌われやすいのでしょう?」
なるほど、と僕は思った。僕に触れさせないための上手い言い訳なのか。夕飯前、僕にパートナーがいないことを尋ねた時、少し不思議に思った。話題の流れがスムーズではなかったからだ。彼女は、僕の弱みを聞きだそうとしていたのかもしれない。あるいは、それで確信したのか。僕がジュペッタには触らないだろう……と。
読み違いだ。
それはミスだった。
僕はそこまで、ばかじゃあない。
「いただきます」彼女からグラスを受け取り、飲み込んだ。「……濃くありませんか?」
「理由は分かるでしょう?」
「僕を酔い潰して、逃げ出そうと?」
「いいえ、あなたの部屋にお邪魔しようかと思って」
「僕を買収する気ですか」
「お金なんて持っていないわ」
「体で?」
「そもそも、何故私がそんな真似を?」
「嘘は似合いますが、とぼけるのは似合いませんね、リーチェさん」
「ねえ立花さん」リーチェは隣に置いてあったジュペッタを抱きかかえ、膝の上に乗せた。「野生生物はとても危険だわ」
「知っています」
「心配しているの」
「それには及びませんよ」
「そう。じゃあ、気をつけて」
その言葉の意味を、僕は最後の最後まで、彼女の虚勢だと思っていた。だから、僕は何の準備もなく、何の躊躇もせずに、ただそっと手を差し伸べた。彼女ではなく、彼女の膝の上に置かれた、ジュペッタに。
僕は動物に嫌われる。こちらが好意的であろうとなかろうと、嫌われる。怯えられることが大半であるが、好戦的な動物の場合は、傷付けられることも多かった。差し伸べた手を切り刻まれ、抱き締めようと近づいたところを弾き飛ばされ。彼らに幾度となく傷を負わされた。
けれど――
これは人形だ。
西洋人形を取り返す。
それが僕に必要な使命。
ならば――
「きゃあ!」
その悲鳴の発生源が夢見屋のものだと気付いた時、僕の右手は真っ赤に染まっていた。血だ。掌がじんわりと熱い。これからもっと痛みを伴っていくのだろう、ということを、何故か冷静に考えていた。何が起きたのか、そのことを考察するには時間がかかる。まずは現状の認識が必要だった。
「ごめんなさい」発言はリーチェの口からだった。普段のような余裕がない。慌てているようでもあった。「まさか切りつけるなんて……ごめんなさい」
切りつけられた。
一体何に?
ジュペッタに。
僕は掌を天井に向ける。爪痕がしっかりと残り、血で染まっている。
「おっとこりゃまずい……立花さん、救急道具なんかはあるのかい?」
「ええ……キッチンの、食器棚の上にあります」
「私、取ってきます」
夢見屋が言って、すぐにキッチンへ向かう。
「一体どうしたって言うんだ?」
「これは僕に責任があります」手首を握りしめながら、出来るだけ冷静さを保とうとした。「リーチェさんも、ジュペッタも、悪くない」
「影が残っているな」
荻野さんは僕の右手を見ながら言った。
シャドークロー、という技がある。
ジュペッタが使う技の代名詞と言っても良い。炎で焼かれ火傷を負うように、雷に打たれ痺れが残るように、僕の右手には、影が残った。それは、その斬撃がシャドークローであったことの何よりもの証明だ。僕は自分の浅はかさを恥じる。ジュペッタは人形ではない。ジュペッタは、ジュペッタだったのだ。
「ごめんなさい、立花さん、あの……」
「リーチェさん、あなたは全く責任を感じる必要はありません。大丈夫です、このくらいの傷は、慣れています」
「でも……」
「ジュペッタに謝らないと」僕は心の底から言った。「彼らにとって、僕の存在は、恐怖そのものです。人間が幽霊などに生理的な恐怖を覚えるのと同じで、彼らは僕を忌避する。防衛しようとして当然です」
「持ってきました!」
夢見屋が素早く僕の元に寄って、救急箱を開き、消毒液をぶちまけた。なかなかに手際が良い。普段の生活でも慣れているのだろう。傷ついたパートナーを治療するのも、旅人の役目だ。
「すみません、せっかくの楽しい時間を」
「いやあ、まあ、大した怪我じゃなくて良かった」荻野さんは無理矢理明るい口調でそう言った。「傷も浅かったみたいだしね。しかしなんだってこんなことになったんだ?」
「僕がジュペッタに触ろうとしたのが原因なんです。大人しいから、僕が触っても大丈夫かな、なんて期待をしまして。あんまり、彼らと接する機会がなかったから……はは、少し酔っていたのかもしれません」
限りなく嘘だった。しかしその場を納めるにしては上出来な嘘だった。「そんなに飢えてたんですか?」と、夢見屋は少し憤慨した様子で言った。楽しい時間を壊されたことではなく、僕が怪我をしたことに怒っている様子だった。
「立花さん、ごめんなさい……」
「いいんですよ、本当に、気にしないでください。リーチェさんが気にしなければ、僕も気にしません」
「……ごめんなさい、こんなことになるなんて」
まるで、僕を傷付けたこと以外に、何か贖罪したがっているようにも聞こえた。しかし、ただの幻想だ。そこにあるものだけを信じれば良い。僕はリーチェさんの謝罪に応え、それを許した。
むしろ、謝らなければならないのは僕だ。
ジュペッタは人形ではなかった。
人形ではないのなら、西洋人形は――
一体どこに?