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「すみません、お待たせしました」
自分の素顔が呆けていることに今日ほど感謝したことはない。僕は動揺を気取られぬよう、酒瓶を持って広間に戻った。テーブルの上は、僕の皿を除いて片付けられていた。荻野さんはワイングラスを手に、待ちわびたとばかりの笑顔を浮かべていた。
「待ってたよ」
「いい酒を残していたのを思い出しまして」これは事実だった。この一週間、僕がちびちびと飲み進めていたウイスキーだ。「ワイングラスまで用意したんだ? 何も言ってなかったのに」
「リーチェさんはその方が似合いそうって思って。あとで全部私が洗うから、いいでしょう?」
「夢見屋さんの憶測通りです」リーチェも可愛らしく微笑む。「さあ、いただきましょう」
僕は出来るだけ普通を装った。最初はみんなワインで乾杯した。しかし、僕だけはどうも、酒を愉しむ気分には浸れなかった。酒は好きだが、そこまで強いというわけではない。これは体質で、どうにもならない。僕はホスト役を演じ、話題の提供と、二杯目、三杯目を注ぐことに留意していた。
――結局、西洋人形は見当たらなかった。
ごくごく当たり前のことであるが、この屋敷を封鎖している以上、外に持ち出すことは不可能だ。また、盗むことが目的なら、この嵐の中、持ち出すとは考えられない。なら、この屋敷のどこかに西洋人形は眠っているはずである。しかし、現段階では、僕はその場所を確認出来ずにいる。
人形部屋にはなかった。あの部屋はよく入る場所だから、構造も、領域も、理解している。僕はついにその部屋で西洋人形を見つけることは出来なかった。
しかし――時系列を追って整理をすべきだが、僕はあの西洋人形を、確かに視認している。夢見屋も、荻野さんも同席していた場所で。リーチェが箱を開け、人形を抱き締めた。あの時、確かに人形は存在していた。
霊障だろうか?
その可能性にも突き当たった。しかし、もし霊障だとしても、人形は物理法則に従って存在する。外鍵を掛けた人形部屋の中に閉じ込めた場合、自力で脱出することは不可能だ。何より、あの人形は除霊が済んでいる。それもごく最近、除霊をしてから一年と経っていない。人も獣も寄りつかないこの屋敷で、また憑依されるとは考えにくい。
盗まれたか……。
僕はその結論にようやく達することが出来た。
疑いたくないという気持ちは大いにある。だが、現物が見当たらない以上、盗まれたと考えるのが適切だ。しかし、現在は四人で酒を酌み交わしている。この場所にはないだろう。だとしたら、どこかに隠してある……はずだ。
「立花さん」
「はい」出来るだけ冷静に。「どうかしましたか?」
「お部屋のお話をした方が良いのかと思いまして。みんなが酔いつぶれてしまう前に」
多少冗談めかした言い方だった。リーチェの様子は変わらない。いや、普段通り、変わっていると形容すべきか。
「そうですね、皆さんが今日寝る場所を」
「いや、部屋なんていいさ。ソファで寝かせてくれればいい。それに、出来れば暖炉を借りられるとありがたいんだ」
それがリザードのためだということは分かっていた。僕の予想していた通りの答えを口にする荻野さんも、変化はない。
「それに、ソファで酔いつぶれるってのは最高に気持ちが良い」
「分かりました。では荻野さんはソファで。もし変更希望がありましたら、伺います」
「何から何まで済まない。これじゃ本当にただのお客だな」
「火の手があって助かってるんですよ」これもただの事実だった。「あとは夢見屋とリーチェさんだけど、一応個室があるよ」
「私もソファでザコ寝でも大丈夫だけど……それだと立花さんが心配?」
「どういう意味かは分からないけど、たまにはベッドで寝るのも良いんじゃない?」
「あ、いいこと言うー」夢見屋は多少酔いはじめているようだった。「そうですねえ、たまにはベッドもいいかなあ。一ヶ月以上、寝てないかも」
「一階のお手洗いに近い部屋が、寝室になってる。どちらかと言えば客室という感じかな。狭いけど、いい?」
「うん、うん」気持ちが良いのか、それとも眠いのか、夢見屋はゆっくりと頷いている。「もし潰れちゃったら、連れてって」
「いいよ」
「私は先ほどのお部屋をお借りしますね」
ふとリーチェの表情を見た。彼女の顔色はまったく変わらない。見た感じ、酒に強そうだ。ワインのボトルは既に空になっている。その半分以上は、リーチェに吸収された。荻野さんはあまり進んでいないようだが、単純にワイン党ではないのだろう。
僕の料理も気付けば片付いていた。氷もそろそろ出来る頃だろう。
「場所を替えましょうか。そろそろ冷えてきましたね」僕は皿を持って立ち上がった。「夢見屋、こき使って悪いんだけど、皿片付けてもらえる?」
「いいよ、泊まらせてもらってるんだし」
「暖炉の前で飲みましょう。その方が、雰囲気も良いでしょう?」
「よし、酒も変えよう」
「今氷を持ってきます。お水も入りますか?」
「俺はストレートでも行ける口だ」
「素晴らしい。ではどうぞ、先に始めていてください」
「悪い。セッティングだけしておくよ」
「お願いします」
氷を取りに行くことも理由の一つだったが、もう一つ、人形を探すという目的もあった。必ずどこかにあるはずだ。どこかに隠しているはずだ。誰が? どうして? そのことについての考察を、歩きながら、ようやく始める。
一番怪しいのはリーチェだ。あの西洋人形を気に入っていたのは彼女だから。理由は単純明快だ。しかし、リーチェが人形部屋を出る時、僕は確かに一緒だった。そして、彼女が箱を閉じているところを見たし、彼女が部屋を出る時、何も持っていないことを確認している。人形とは言え、サイズはそれなり。一メートルまでは行かなくとも、五十センチは超えている。例え隠せたとしても、鞄の類を持っていないのだから、彼女のスカートの中くらいなもの。もっとも、その状態で歩けるとは考えにくい。
そう考えると、荻野さんが怪しく思えてくる。だが、荻野さんが盗んだとすれば、リーチェと共謀している必要がある。リーチェは恐らく、僕が行くまで西洋人形を愛撫していたはずだ。室内で二人、お互いに共謀したのだろうか? 何のために? お互いに利益はあるのか?
二階に上がり、製氷機の様子を見る。まだ少し芯が緩い。もう少しだけ時間が掛かりそうだった。そのまま、梯子を通じて一階に向かった。
夢見屋が犯人という可能性はないのだろうか? いや、あり得ないはずだ。彼女はほとんど僕と一緒にいた。盗むタイミングはない。ないはずだが――現状、全ての人物に疑いの目を向けておくべきだろう。こういうことが起きないように留守を任されていたのだ。僕は自分の失態を恥じた。
部屋の整理も兼ねて、夢見屋が泊まる予定になっている個室を訪れた。この小さな部屋には、あまり家具らしい家具は置かれていない。棚もなければ引き出しもない。ものを隠せる場所はないはずだ。一応、ベッドはそのままにされている。ベッドの中と、その下を確認してみた。当然のことだが、人形は見当たらなかった。
大きな部屋に移動した。目下、一番怪しいのはこの部屋だろう。リーチェには既に案内してある。鍵は掛けていないままだ。もしかしたら、いつでも隠す時間はあったのかもしれない。洋燈を机に上に置いて、部屋を探し始めた。まずベッドを探すことにした。掛け布団を剥がす。ベッドを押し込んでみても感触はない。ベッドの下は? 空っぽだ。家具の裏や、中を見る。どこにも見当たらない。あるいは天井際に――
「どうかなさいましたか?」
僕の背後に声が掛かった。慌てて振り返る。そこにはリーチェが一人で佇んでいた。
「リーチェさん」
「私、何かお手伝いしようと思って」リーチェはジュペッタを抱いたままだった。「私、荻野さんや夢見屋さんのように、お役に立てていないから」
「いえ……」
「ねえ、何をなさっていたの?」
リーチェは後ろ手で部屋の戸を閉めてしまった。鍵は掛からない。だが、異様な密閉感が僕を包み始めた。
「どうして戸を閉めるんですか?」
「立花さんのお役に立ちたいの」
「氷を持って行かないと」
「ここにはありません」
「ああ……二階に行かないといけません」
「どうして私の部屋にいらしたの?」
「夢見屋の泊まる部屋にも行きましたよ」
「節操がないのね」
「部屋を整えておこうと思って」
「何か探していたのかしら」
あまりの衝撃に、内臓が逆流しそうだった。
「何を仰っているのか」
「何かを探している風でしたわ」
「見ていたんですか?」
「ええ、掛け布団を剥がしたところから」
「最初から、という意味ですね」
「お誘いを受けているのかと思いました」
「まだお酒の途中ですよ」
「それは、夜になってからなら、という意味?」
「もう戻らないと」
「何かなくなりましたの?」
リーチェは僕を責めるように距離を詰めた。狭い室内だ、すぐに僕は壁に追い詰められた。
「いえ、何も」
「本当?」
「少なくともリーチェさんが心配することではありません」
「だって、このお屋敷にあるものは、ほとんど全部、私のお気に入りですもの。もしなくなったのなら、大変。一緒に探さないと」
「大丈夫です。本当に何も起きていません」
「ねえ、あとでもう一度、あのお人形を抱かせていただけませんこと?」
まるで挑発だった。
普通、人とこんなに距離を詰めることはない。人間はある一定の距離を超えると、お互いに、おかしな気持ちになる。それはきっと許容の感情だ。懐を許す、という言葉がそれに当てはまる。リーチェが歩み寄ってくることは、僕を許容していることとイコール。そんなおかしな方程式を空想する。ああ、いけない。良くない状況だ。リーチェの手は空になっていた。ジュペッタはどこだ? ベッドの上に置かれている。空になった彼女の手が、僕の頬にさわった。
「リーチェさん」
「答えを聞いていませんわ」
「だめです、あの人形はもうおしまいです」
「どうしていじわるするの?」
「リーチェさんに気に入られると、そのうちなくなってしまいそうですから。あなたは欲しいものは何でも手に入れる、そんな気がします」
「あるいはもう……」
彼女のもう一方の手が、僕の脚部に触れる。
「……なくなっているのでは?」
「……もしそうだとしても、現時点では、リーチェさんを疑っているわけではありません」
「お部屋を探したから?」
「ええ、見当たりませんでした」
「でも、例えば……」リーチェの手が僕の手を取る。そして、その手を、自身の足下に近づける。「こういうところに、隠しているかもしれませんよ?」
思わず彼女に触れた。僕に与えられていた選択肢は二つ、腰に手を回すか、肩を掴むか。僕が選んだのは――後者だった。
「酔っているんですね」
「お酒は強いんです」
「調べるまでもありません。そんなところに隠せるはずがない」
「それほど大きいものがなくなったと?」
罠なのか、それとも本当に彼女ではないのか。真偽が定かではない。ただ、彼女が強気に出ている以上、本当に潔白か、隠し場所に自信があるか、二つに一つだろう。
「戻りましょう。氷が出来上がっている頃です」
「お誘いは受けてくださらないの?」
「夜になれば、分かりません。僕はお酒には弱いので」
「あら……」企むような笑みを浮かべて、リーチェは僕と距離を取った。「そう、戻ったら、お酒をお作りいたしますわ。出来るだけ強いお酒を用意してくださる?」
「お手柔らかに」
僕は彼女を躱すようにして、先に部屋を出て、二階へと向かった。息苦しさから開放され、大きく深呼吸をする。
そして、鮮明になった僕の頭の中に、一つの可能性が浮かんだ。