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「それじゃあ、はやく帰らないとお店が困っちゃいますね」
僕たちは四人でテーブルを囲んでいた。僕がリクエストした以上の出来の料理を前に、ようやく、僕たちはどうしてここに居合わせたのか、という、根本的な会話をしていた。本来、すぐに話し合っておくべき話題であったはずだが、こんなに時間が経っていた。楽しいからか、それとも僕が歳老いたせいか、時間の経過は自分が思う以上だった。
「ああ。とは言え、先方についたのが予定より早かったもんだから、そこまで支障はなさそうだ。もっとも、おかげでこんな良い屋敷に招いてもらえたんだから、嬉しい誤算だな」
「リーチェさんは?」
「私はお散歩をしていただけ」リーチェは妙に嬉しそうに言った。「それがこんなに素敵な日になるなんて、思いもしなかったわ」
「近くに住んでらっしゃるんですか?」
尋ねたのは僕だった。何故、彼女の内部を詮索するようなことをしてしまうのだろう。あるいは、一夜限りという会合が、結論を急いでいるのかもしれない。
「それほど遠くはありません。具体的な住所を知りたいですか?」
「いえ、この辺の地理には疎いもので」
「あれ、立花さんはこの辺の人じゃないんですか?」
「いや、実家は近所だよ。ただ、言葉通り、地理に疎いんだ。家か、この屋敷か、たまに仕事で遠出するくらいで、他に寄るところもない。夢見屋は逆に、地理に強そうだね」
「そりゃあもう旅人ですから。地図がなくても迷いませんよ」
「それはすごいな。そういう夢見屋は、何をしている最中だったの?」
「簡単に言えば旅の途中ですね。これからもっと北に行く予定なんです」
それぞれの理由は単純明快だった。
荻野さんは出張鑑定のためにこの地を訪れていたらしい。その帰り道、豪雨になって足止めをくらった。鑑定するものがものだったために、出張するしかなかったのだそうだ。お疲れ様、と労う言葉以外何も浮かんでこない。
リーチェの理由は嘘とも本当とも取れないが、別に追求するほどではないだろうと思った。どうせ明日には別れてしまう関係だ。もっとも、それほど近くに歩み寄った記憶もないが。
夢見屋はどこかサバサバとしている。こうした、一夜限りの関係に慣れているのかもしれない。旅人という性質上、色んな人に会うのだろう。人なつっこく、社交性に長けているのは、そうした理由だろう。
「そう言えば、立花さんはどういう理由でここにいるんですか? 詳しくは聞いてませんでしたよね」
意外にも、その質問をしたのはリーチェだった。他人のプライベートに干渉するようなタイプとは思っていなかったし、そもそもその話はさっき彼女個人にしたはずだ。しかしさっき個別にしたでしょう、というのもおかしな話だ。
「この屋敷の説明と、当主の話はしましたよね」
「ええ」
「夢見屋はあまり楽しくない話かもしれないけど」
「控えめにお願いします……」
「逢阪さんは除霊師なんだ。基本的には何でも除霊出来るらしいけれど、まあ、人形が主らしい。今もその仕事で出かけているんだ。もっとも今回は場所が場所で、一週間ほどかかる予定らしいけどね」
「一週間もですか?」
「国外だそうでね。僕はあまりよく知らないんだけど」
「へえ、すごいんですね。でも除霊って、幽霊を成仏させるってことですか?」
「正確には鎮めるとか、憑依している対象から追い出すというものらしい」
「上にあるお人形もそうなのですよね?」
「ええ。例外的に、逢阪さんでも手のつけられないものもあるそうです。階段にいる和人形がそうですね。あれは除霊を繰り返しても、憑依してしまうんだとか。もう、何十年以上も染みついてしまうと、どうしようもないみたいですね」
「何十年って……あの人形、そんなに昔から、呪いの人形なんですか?」
「僕も詳しくは知らないんだけど……どうも、例の人形師の『逢阪了』が、亡き妻を模して作った人形らしい。作品名も、『逢阪静』って言うらしくてね」
「奥様のお名前ですか?」
「らしいです。もちろん確認する術はないんですが、生前の奥様とそっくりであるとか。写真も残っていないし、そもそも写真なんて撮っていなかったのかもしれませんけれど、記憶だけを頼りに忠実に再現したのは、逢阪了の成せる技でしょうね」
「ふうん……じゃあ、奥様の霊が取り憑いているんですかね?」
「そうかもしれない。ああ、そうだ、面白い話がある」
「怖い話の間違いじゃないんですか?」
「そうとも言えるかもしれないけれど……普通、世の中の人形に幽霊が憑依すると、次第に色や形が変異して、ジュペッタと呼ばれる生き物になる。リーチェさんのジュペッタのような形に」
「そうですね」
「あ、そう言われれば、和人形は和人形のままですね」
「そう、あのままなんだ。逢阪さんに聞いた話だと、望まれた形の人形の場合、姿形を変える必要がないんだとか。だから、あの和人形に憑依しているのは、逢阪了の奥方、逢阪静さんかもしれない」
「へえ……そう言われるとなんか、そこまで怖くないかもしれませんね」
「だろう? 僕はもう慣れたし、あの和人形を見る限りでは生前は美人だったんだろうから、あまり怖くはないかな」
「確かに、あんな美人なら呪われてもさほど悔いはないなあ」荻野さんは冗談めかして言った。彼の食事はもう終わっていたようだ。「いやあ、なんだかとても気分が良いな。こういう食事をするのは久しぶりだ」
「荻野さん、一つ確認しなければいけないことがあるんですが」
「うん? 何だ?」
「明日は、出発は早いですか?」
「いや、特に決めてはいないが」
「逢阪さんが贈り物で頂くものの中に、上等なお酒がいくつかあるんですが、彼女はお酒を飲まないので、溜まって行く一方なんです。これが木箱に入っていたりするものですから、場所を取って仕方がなくて」
「ああ、そいつは良くないな。中身だけ移し替えるというわけにもいかないわけだ。うん、そういうものは処分してしまわなければな」
「荻野さんが良ければ」
「是非手伝うよ」荻野さんは満面の笑みを浮かべる。どうやら行ける口のようだ。「リーチェさんは?」
「私、成人は済ませております」
「グラスを持ってきます」僕はすぐに立ち上がった。僕の料理はまだ残っていたが、残った料理と一緒に酒を飲むのは、僕の中で贅沢に分類される行為だった。「ああ、一応聞くけど、夢見屋は?」
「正直な年齢を言ったことに後悔しているところ」
「ウイスキーもワインもあるし、オススメはコニャックだ」
「私、手伝ってもいい?」
「じゃあ君はグラスを四つ運んでくれる?」
「えへへ」
夢見屋は嬉しそうに席を立った。
キッチンに向かい、床下に貯蔵されている酒の箱を取り出す。食器を利用する時に一度見たからか、夢見屋は難なくグラスを四つ取り出した。
「お酒好きなんだー」
「不良少女だな」
「普通普通。旅人なんて、十五過ぎたら大人みたいなものだもん」
「よく聞くね。否定はしない」
「立花さんは?」
「この屋敷に足を運ぶようになってから、よく飲んだよ。古かったり、高かったり、色んなお酒があってね。いい体験をした」
「いくつの時?」
「十年は前かな」
「氷は……って、冷蔵庫ないんだっけ」
「二階の倉庫にバッテリーがある。製氷機もある。僕は急いでそれを稼働させてくるから、夢見屋は配膳を終わらせて」
「なんでそんなものがあるの?」
「僕の唯一のわがままなんだ。ロック派でね」
呆れたような、楽しむような夢見屋の表情を見送って、僕は携帯用の洋燈を持ち、二階へと向かった。二階へアクセスするための階段は二種類あり、僕はキッチンから近い、どちらかと言えば梯子に近い階段を上った。倉庫に行く途中、廊下の窓を少し開けてみた。開けたことを後悔するような豪雨が音を立てている。もはや、豪雨というよりは、嵐だった。
「最高の夜だ」
僕は小さく呟いて、窓をしっかりと閉ざした。倉庫の中は薄暗かったが、バッテリーと製氷機はすぐに見つかった。これらは今回の滞在中にも一度利用していた。どれだけバッテリーが残っているかは怪しいところだが、大きな氷一つ分くらいは作れるだろう。
製氷機はありがたい機械だが、その駆動音は残酷の一言に尽きる。製氷機は廊下に置いて、わざわざキッチンから水を汲んでセットした。四十分ほど掛ければ氷は出来上がる。最初はワインで楽しんでいれば、良い頃合いに出来上がるだろう。
久しぶりに胸が躍っていた。別に、下心があるというわけではない。リーチェは美人であるし、夢見屋も元気が良く、特徴はないが整った顔立ちだ。荻野さんに至っては気持ちの良い人である。彼らと酒を酌み交わせるというだけで、気分が良かった。
ただそれだけの感情だった。
製氷機を駆動させ、広間へと向かって歩き出した。製氷機から遠ざかるにつれ、雑音は音を潜める。そんな折り、僕は確かに、すすり泣くような音を聞いた。
「なんだ……?」
当然のことだが、僕は人形部屋の前を差し掛かっていた。
まさかリーチェか夢見屋が泣いているわけではあるまい。また霊障だろうか? しかし、和人形以外の人形は、全て除霊が済んでいるはずだ。また憑依し直したとでも言うのだろうか? いや、まさか……。
幸い、部屋の鍵は携帯していた。客人を招いている以上、これを手放すようなミスはしない。それは霊に対する恐怖というよりは、それ以上にもっと残酷な悲劇に対する後悔だった。僕は鍵を開け、部屋に入る。
洋燈で照らす室内。窓のない部屋であるから、昼間も夜もないのだが、やはり夜の方が一層暗く感じられた。部屋はリーチェが出た時から閉ざされたままだ。そう、当たり前のことだが、閉ざされたまま。
すすり泣きの声は断続的だった。聞こえたかと思うと、すぐに消えてしまう。どこが音源なのかは分からない。僕はしかし、リーチェが特に気に入っていた『西洋人形』の箱に手を伸ばした。彼女を疑う気持ちがあったわけではない。単純に、特別な変化を感じさせる人形が、彼女だっただけだ。
洋燈を棚の上に置き、ゆっくりと箱に手を伸ばす。
鍵の掛からない木箱の蓋を開け、蝶番を軋ませた。
西洋人形は、姿を消していた。