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僕には父親がいなかった。
この世界ではよくある話だ。病死であるとか、事故死であるとかではない。単純に『行方不明』というやつだ。僕が物心ついた頃には父親の存在はなく、母と二人で暮らしていた。母は僕を育てるために色々な仕事を転々としていた。僕はと言えば暢気なもので、母の苦労も知らずに野原を駆け回る普通の少年だった。
僕たちは、仕事の都合でよく住居を変えた。何度目の引っ越しかで、この地方にやってきた。その頃、僕は十歳だった。普通の子どもたちと同じように、自分のパートナーを欲しがった。けれど、うちには経済的な余裕はあまりなく、僕も幼いながら遠慮があったのか、ボールを要求したり、小遣いを要求したりということはしていなかった。ただでさえ、他の子どもたちより、パートナーへの要求は遅かったと言えるだろう。
その家での生活は長く続いた。今思えば、母の仕事がようやく上手く行っていたということなのだろう。僕は一つの土地に根付くという感覚をおぼえ初めていた。同時に、知り合いと呼べる人物が何人か生まれた。その中の一人が、逢阪屋敷現当主、逢阪巴だった。
彼女は僕より一つ年下の女性だった。しかしどうにも大人びていて、頭も良かったことから、僕は彼女の家来としてよく遊びに付き合わされていたように思う。彼女は出逢った当初から孤独だった。家族以外とまともに話しているのを見たことがない。それは僕も似たようなものだったので、仲良くなるのに時間はかからなかった。
時を重ねるごとに彼女との関わり合いも深くなり、いつしか僕と巴の絆は確固としたものになっていった。恋愛関係とも、友情とも違う、深い関わり合い。僕が他人と深く関わろうとしなかったせいか、また、巴も他人に深く踏み込まれなかったせいか、僕たちはお互いに、半身を共有しあうようになっていた。
この『逢阪屋敷』の敷居を跨ぐ許可を得られたのは、彼女と出会ってから三年目のことだった。当時の『逢阪屋敷』はほとんど幽霊屋敷の体を成していた。特別な建物だから、付き合いの浅い人を招くつもりはなかったようだし、また、特別だからこそ、親しい人も招きにくかったそうだ。
何故なら、逢阪巴は、
普通の人間ではなかったからだ。
彼女の姓は『逢阪』だが、実際には『逢阪』の血は流れていない。逢阪の血筋は、人形師『逢阪了』の代で途絶えている。その友人に当たる『藤堂』という人物の娘が、人形師『逢阪了』の養女となった。それが何を意味するのか? 俄には信じがたい話だが、彼女の直接の先祖である『藤堂家』は、代々神通力を持つ一族であり、その能力は今日に至るまで伝えられていた。
つまり、逢阪巴は、神通力の持ち主である。
そんな彼女は、長い付き合いの末、僕を自らの半身として認めてくれた。
そして、彼女を嫌悪しなかった僕もまた――
「逢阪さんと立花さんは――遠縁、ということですか?」
「ええ。百年程度ですからね、家系図は生きていたようで……どうやら僕の父親が、藤堂の血筋であるようです」
「ということは、逢阪さんとはご親戚ということでしょうか?」
「そういうこと……みたいですね。親等で言えば、結構、離れてはいるんですけど」
「そういう偶然もあるのですね」
僕の大雑把な説明を聞いて、リーチェは興味深そうに頷いた。確かに、出来すぎた話ではある。
「どこまで偶然かは分かりませんけれどね。あるいは、母は自ら、父の縁の地であるここへやってきたのかもしれませんし。とにかく……僕はそこで初めて、色々と聞かされました。神通力とは何なのか。藤堂家とは何か。どんな弊害があるのか、色々と……」
「パートナーをお持ちにならない理由が、そこにあるということですか?」
「簡潔に言ってしまえば、そうです。僕は負の感情を溜め込んでしまう体質にあるようなんですよ。人間に比べて、動物はそういうものに敏感ですから、僕が好意的に接しても、彼らは生理的に僕を受け付けようとしません」
「動物に嫌われてしまう?」
「ええ。それでも、僕はまだ良い方です。話に出た逢阪さんは、動物だけでは済まず、人間すらも寄せ付けない。彼女は自虐的に、『人払い』なんて言っていますけれど」
「人払い……」
「もっとも、十六歳になる頃にはそうした性質は激化して、除霊能力に至ったようです。今、彼女は二十二歳ですが、大抵の人には薄気味悪がられますね。もし今日この家にいたのが僕ではなく彼女だったら、リーチェさんたちは、ここで雨宿りをしようなんて思わなかったでしょう」
「俄には信じがたいですわ」
「僕自身も信じ切れていないですから、そういうものかもしれませんね。実際、彼女は今、除霊師として仕事をしています。今日、この屋敷にいないのも、それが理由です」
「ということは、このお屋敷にあるお人形は全て?」
「ええ、彼女が除霊した人形です」
こんな話をしても、他人を複雑な心境にさせるだけだと分かっていたはずだった。それなのにどうしてしてしまったのだろう。不思議だった。
「……つまらない話をしてしまいましたね」
「いえ、とても興味深いお話でしたわ。ただ、立花さんに嫌な思いをさせたのではと……ごめんなさい」
「そんなことはありませんよ」実際、どのくらいの時間話していたのか。誰も探しに来ないということは、そこまでの長話でもなかったのだろう。「リーチェさん、そろそろ、戻りましょうか」
「ええ。あの、私、お手洗いをお借りしてから参りますわ」
「分かりました。それじゃあ、先に行っています」
僕は彼女の部屋を出たあと、すぐにダイニングへと向かった。晴れやかなような、翳ったような、複雑な心境だった。僕はその時、本当に何も疑いはしなかった。
けれど、既に事件は起きていて、僕はそれを未遂に終わらせることが出来たはずだった。そのチャンスはいくらでもあったというのに、一体どこで、その事件に気付けたと言うんだろう?
あるいは、誰かは、その事件が起きたことに、気付けたのだろうか?