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「ありがとう。そしてすまなかった」
リビングのダイニングテーブルにクロスを敷いていると、二階から荻野さんが降りてきて、開口一番そう言った。シルバーを揃えながら、「どうかしました?」と問いかける。
「いや、つい没頭しちまって。悪い癖なんだ。芸術品には滅法弱い。我を忘れちまうんだ」
「構いませんよ。そういう人はたくさん見てきましたから」
「何か手伝うよ。世話になる側に色々させるなんてな」
「ああ、それじゃあ、そこの脚立で……シャンデリアに火を灯してくれませんか。それと、そろそろ必要になる頃だと思うので、キッチンのオーブンに火を。適任ですよね」
「ああ、こいつの出番か」荻野さんはポケットからボールを取り出した。「やっておく。ついでに風呂も沸かそうか?」
「出来ればお願いしたいですね」
「任せてくれ。それに見合うだけの報酬は頂いたからな。眼福だった」
「喜んで頂けたようで何よりです。そう言えば……リーチェさんは?」
「ああ、あの子はまだ見てる。『もう少しだけ……』とか言ってたな。すぐ降りてくるんじゃないか?」
「そうですか。ありがとうございます」
「ああ。じゃあ、脚立借りるぞ」
配膳を済ませ、僕は単身二階へと向かった。やましい気持ちがあったわけではない。単純に、もうそろそろ頃合いだろう、という気持ちだった。和人形は相変わらず折り目正しく佇んでいる。そのことに安堵を覚えるほどには、僕はこの屋敷に慣れていた。
閉ざされていた扉をノックする。「はあい」と、嬉々とした声が返ってきた。僕がドアを開けると、リーチェは丁度『西洋人形』の箱に手を掛けているところだった。
「ああ、立花さん、ごめんなさい、こんなに長い間……」
「いえ……もういいんですか?」
「ええ、今お別れをしたところなの」寂しそうに、リーチェは箱を見つめた。「さようなら、私のお人形さん……」
「リーチェさんのものではないですけど……」
リーチェは床に置かれていたジュペッタを拾い上げた。リーチェに抱かれることには慣れているのか、今回はまったく微動だにしなかった。
「閉めても?」
「ええ。部屋に鍵が掛かっているなんて、厳重なんですね」
「別に、リーチェさんたちを怪しんでいるわけではないんです。どちらかと言えば、人形が独りでに歩き出さないように、ですね」
「ああ……でも、階段の和人形は抜け出してしまうのでは?」
「鍵を掛けたのは最近なんですよ。彼女が抜け出すことが多かったもので。もっとも、鍵をつけたら中から扉を壊そうとする音が響いたこともあったみたいで、彼女は好きにさせているようですけれど。等身大ですから、やることが派手なんですよ」
「素敵ね」
何が素敵かはさっぱりだったが、リーチェが嬉しそうなので僕も適当に相槌をうった。鍵を掛けると、人形部屋は完全なる密室へと変貌した。
「そう言えば……ごめんなさい、厚かましいと思わないでいただきたいのだけれど」
「何なりと」
「個室をお借り出来るのかしら」
「もちろん。空き部屋がいくつかありますから。もっとも、人形部屋で眠るというのは、許可出来ません」
「そういう手もありましたね」リーチェは無邪気に笑った。「ベッドか何かがある部屋が?」
「寝室用に設計された部屋が二つあります。もう一つは僕が寝るのに使っている書庫と、当主である逢阪さんの部屋。計四つですね。僕は逢阪さんの部屋を使います。皆さんには他の三つを使ってもらう予定ですが……」
「?」
「鍵のついた部屋は女性に譲るのがベストかな、と考えていたところです」
「つまり寝室には鍵が?」
「ええ、ですが奇妙というか奇特というか、この屋敷の寝室は、外鍵なんですよ。内鍵ではなくて」
「つまり立花さんだけは出入り自由ということかしら。あるいは、閉じ込めておくことも?」
「そうなります。もちろん、開けっ放しでもいいんですが……そんな不用心な寝室でも良ければ、どうぞご利用ください。もし不快でしたら……」
「いいえ、野宿に比べたら一流のスイートみたいなものでしょう?」リーチェの笑顔は特別だった。「それに、私、立花さんのことは、あまり嫌いじゃないの」
「誤解を招く言い方ですね」
「それは立花さんの自由ですわ」
僕はそれに対して何も答えなかった。期待をしすぎるのは良くないと知っていたし、そもそも、からかわれているだけだ。女性を信用して痛い目を見たことは何度もある。特に、巴には何度も見せられてきた。
階下に降りて、リビングではなく、寝室へと向かった。荻野さんは書斎で寝ることを嫌がるタイプとは思えない。あるいはリビングのソファで十分だと言うタイプだろう。彼には書庫で甘んじてもらおう。
「片方はお手洗いに近くて、片方は部屋が広いですけれど、どちらが良いですか?」
「お手洗いに近い方は、夢見屋さんに譲ってあげた方が良いのではないかしら?」
「それもそうですね」
僕はリーチェを広い方の部屋へ案内した。広いと言っても、四畳ほどだ。フローリングで、ベッドが一つ、デスクにチェア、窓が一つに、ランプが一つ。巴が日常的に掃除をしているため、そこまで汚れてはいなかったが、一週間放置されていたおかげで、うっすらと埃が見えた。
「あとで掃除をしておきます」
「いえ、この程度なら大丈夫です」
「失礼ですけど、服はそれしかありませんよね」
「ええ。どうぞお構いなく、夜は下着で寝ますから」
「当主の服がありますけれど」
「裸で寝ることも多いの」リーチェはジュペッタを抱き締めたまま、ベッドに腰掛けた。「こういう服、可愛くて好きだけれど、ずっと着ていると疲れるものだから」
「そういうものなんですか」
「ええ、だから、どうぞ気になさらないで。ベッドをお借り出来るだけで、十分」
「分かりました。もし必要になったらいつでも言ってください」
「ありがとう」
この間も、ジュペッタはずっと身じろぎ一つしなかった。
僕はジュペッタと少なからず関わり合いがある。もっとも、生きているジュペッタを見るのはこれが初めてだ。僕が関わったことのあるジュペッタというのは、『抜け殻』とされるジュペッタだ。何かしらの理由で霊魂が人形に染み込み、その後また何かしらの理由で霊魂が抜けた残骸。普通、霊魂が抜け出たジュペッタは元の人形に戻る。しかしすぐに形が変わるわけではない。何日、あるいは何ヶ月をかけて元に戻ろうとする。それまでの期間、僕たちはその人形を『抜け殻』と呼んでいる。この逢阪屋敷の人形部屋にある人形のうち、いくつかは過去に『抜け殻』であったものだ。
「どうかしましたか?」
リーチェは、僕がジュペッタに対してそうするように、じっと僕の瞳を覗き込んだ。化粧が派手ではあるが、それを度外視すると、とても端正な顔立ちだった。化粧をするのがもったいないとすら思える。彼女の真っ直ぐな瞳が気になって、僕は目を逸らしてしまった。
「いえ、その……」
「大人しい、ですか?」僕の心を読むように、リーチェは言葉を続けた。「私のジュペッタは、確かに大人しいですね。まるで本当のお人形のよう」
「普通のジュペッタは違うんですか?」
「ええ。いたずらっ子だったり、やんちゃだったり。もともと、成仏出来なかった霊魂が入り込んだわけだから、一筋縄ではいかない子ばかりなんです。でも、私のジュペッタはとても大人しくて。そういうところが、好きなのですけれど」
リーチェは一際愛おしそうに、ジュペッタを抱き締めた。しかし、ジュペッタはまったく反応を示さない。ただの人形を抱いているよう、そうとすら感じられた。
「立花さんは?」
「何ですか?」
「パートナーは……いらっしゃらないようですけれど」
「ええ、そうですね」
「これは、聞かない方が良かったかしら」
「別に構いません」何故か話すのは嫌ではなかった。「どちらかと言えば、聞いても面白くないかもしれない、という不安です」
「そうなんですか?」
「僕は、少し特殊な人間なんですよ」
「興味深いですわ。話してくださる?」
リーチェは要求するように首を傾げた。手短に話せば、どのくらいで終わる話だろう? 僕は初対面であるはずの女性に、気付けば自分の半生を語っていた。