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『人形部屋』と呼ばれているその部屋には、言葉通り人形が数多く置かれていた。窓のない部屋で、出入り口が一つ。扉には鍵がかかるようになっていて、その鍵はこの世に一つしか存在していない(少なくとも僕が知る限りでは)。そのため、僕が鍵を開け、その部屋に入る必要があった。中はそれなりに広く、大人が四人入っても問題なく見学が出来るほどだった。もっとも、動き回るほどのスペースはない。恐らく八畳ほどの部屋だろうが、その三分の一以上は、人形やその箱でひしめき合っていた。
「なんか寒くないですか?」夢見屋は僕の背中にぴったりとくっついていた。「外が雨なせいですか?」
「人形部屋だからじゃないかしら?」
「やめてくださいリーチェさん」
「本当のことなのに」からかうようにリーチェは言う。「ねえ、立花さん」
「確かにこの部屋は他の部屋に比べて、何故か寒く感じますね。数値的な気温差はないんですけれど、体感的にはどうしても」
「余計怖いんですけど」
荻野さんだけは談笑に加わらず、熱心に人形を見学していた。リザードはボールに収納されている。現在、部屋にある『生きている命』は五つ。人間が四つに、リーチェが抱えているジュペッタが一つだ。もっとも、それを生きていると捉えるべきなのかは難しいところだが、自我と肉体を持つ以上、生命と判断するべきなのだろう。
「なあ、箱は開けてもいいのか?」
「ああ、ええどうぞ。荻野さんは不用心な扱いをする心配もなさそうですし。ご自由になさってください。人形は触れてこそ意味があるというのは、逢阪了の意志です」
「素晴らしい職人だったんだな、逢阪了という人形師は」
嬉々とした様子で、荻野さんは床に置かれた箱を展開していく。その手つきはやはり手慣れたものだった。
「なんだか落ち着く場所ですね。私もこうしてお人形に囲まれて生活がしてみたいものです」
「気味悪いこと言わないでくださいよ」
「変な意味じゃないけれど、人形とか、生気のないものって美しいじゃない。それ以上でも以下でもないもの。家具や、骨董品。そういうものって、そこにあるだけで美しい。私、とても好きだわ」
「気に入って頂けたようで光栄です」
「機会があれば、また足を運びたいお屋敷だわ」
リーチェは上品な手つきで、近くにあった小箱に手を伸ばした。それは偶然にも、この屋敷に唯一存在する『西洋人形』だった。鼻が利くのか、それとも偶然なのか。何にせよ、その『西洋人形』はリーチェの手に触れた。
「あら」
見るからに嬉しそうな動作で、リーチェは箱の中身を覗き込んだ。四肢を投げ出して横たわっている、ブロンドの西洋人形。白とピンクを基調としたドレスを着ている。箱にも丁寧な細工が施してあり、日傘やティーカップ等の小物まで完備されていた。
「あら、まあ、どうしましょう」リーチェは抱き締めていたジュペッタを、床に優しく置いた。「立花さん、この子、抱いても良いかしら?」
「え、ええ……どうぞ」
リーチェは嬉しそうに目を細めて、西洋人形を抱いた。サイズ的にはジュペッタを抱いているのとあまり変わらない。むしろ、リーチェ本人の意匠と相まって、こちらの方がしっくりと来るようだった。
「わあ、リーチェさん似合いますね」
「ありがとう。うふふ、可愛いお人形さん」
「これも逢阪って人が作ったお人形なんですか?」
「この部屋にあるものは全てそうだから、必然的にそうなるね。彼はとにかく人形という人形に傾倒していたようだから」
「へえ……でも、ちょっと気になったんですけど、なんで逢阪さんが作った人形が、子孫の手に渡ってるんですか? こんなに可愛いお人形なら、買い手がつかないとも思わないんですけど……」
「それ、聞いちゃう?」
「……何ですか?」
「夢見屋はあまり好きじゃない話題だと思う」
「ああ、やめておきましょうか」
「霊障が残っているのかしら」リーチェは人形を抱き締めながら言う。「買い手がつかないというよりは、売りに出せなかったんじゃないかしら。現にどのお人形の箱にも、お札みたいなものが貼ってあるみたいだけれど……」
「ちょっとぉ……本当にはやくここ出ませんか」
「リーチェさんの言う通り、そういう理由で売られなかった人形がほとんどですね。独りでに動き出すとか、髪が伸びるとかならまだいいんですけど……ちょっと目を離した隙に首を吊ってる人形もいたらしいですから」
「あー無理。私もう無理」
夢見屋は床に置かれていたジュペッタに抱きついた。あまりに唐突な行動だったからか、ようやくジュペッタは生き物らしい動きを見せた。抱きつかれたことに驚いたのか、びくんと体を反応させたのだ。ちゃんとした生き物だったのか、ということに、僕は何故だか安心感をおぼえた。
「無理ですよぉ……お夕飯にしましょうよぉ……」
「どうしましょう、荻野さんはどうです?」
「ん? ああ……いや、素晴らしいよ」そんなことは聞いていない。「いやあ、こんな宝が眠っている場所がまだあったとは。日本も侮れないな」
「本当。まさに宝と呼ぶのが相応しいですわ。私がお迎えしたいくらい。この子になら呪われても構わない」
「立花さんー……」
「……もし良かったら、このまま見学してくださって結構ですよ。もちろん、壊さない程度に、ですけれど……お二人ともあまり無理な扱いをされていないようですし。僕たちは下で夕食の準備をしていますから、ごゆっくり」
「いいんですか?」
「ええ、もちろん」
欠片も人形を手放す様子はないのだから、そう言う他ないだろう。荻野さんに至っては「そりゃ助かる」と言いながら、僕の方を見ようともしなかった。悪い人ではないのだろうが、仕事のこととなると人が変わるのかもしれない。どうもくせ者ばかりを招いてしまった雰囲気だった。最初に非常識を疑った夢見屋が、一番まともに見えて来る。
「じゃあ、下に降りようか」
「はあい。あ、ジュペッタ残して行きますよ?」
「ええ、ありがとう。助かったわ」
僕たちは部屋を出て、来た道を戻った。途中、階段を下りるところで夢見屋が僕の背中に頭をくっつけているのには笑えてしまった。慣れというものは怖ろしいものだ。最初は僕も、あの和人形を恐れていたはずだったのだが。
「あの、疑うわけじゃないんですけど」
「何?」
「荻野さんたち、いいんですか? ここ、立花さんの家じゃないし、人形だって……」
「ああ、盗まれるかってこと?」
「まあ、平たく言えば……鍵も掛けてたみたいですし、高価なものなんですよね」
「最初にその辺のチェックはしてるよ。でも、もし夢見屋が残りたいって言ったら、拒否したかな」
「どういうことです?」
「荻野さんもリーチェさんも、荷物を持っていなかったからね。夢見屋、君だけはリュックを持っていたから、無断でこっそり持ち帰るかもしれない。でも、あの二人なら不可能だ」
「よく見てるんですねえ」
「一応はね。さて」
僕は夢見屋をキッチンへと案内した。主な理由は、夕飯を作ってもらおう、というものだ。僕はその手伝いをするためにここにいる。
「料理は?」
「自炊は旅人の基本ですよー」
「君って素敵な人だったんだね」僕は心から賛辞の言葉を贈った。「僕、厚く切った肉を焼いたものがいいな」
「それ、ステーキって言うんですけど、知ってました? ていうか、食材はあるんですか」
「一週間分あるから、なんでも使って」
「立花さんは?」
「お湯を沸かすのは上手いよ」
「……分かりました、やりましょう。一食一泊の恩義ですもんね。でも、失敗しても知りませんからね」
やれやれ、とでも言うように夢見屋は首を振っていたが、楽しんでもいるようだった。ようやく僕たちは、それぞれの人間性や本性というものに触れ始めたのだろう、と、僕はこのとき考えていた。
しかし、人間の本性などというものに、我々が直接触れられる日など永遠に来ない。僕はそんな単純なことにさえ、気付けずにいた。