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体質というものはどうにもならない。
僕は小さい頃から、人間以外の生き物に抵抗感を覚えられる。人間の『パートナー』と呼ばれる類の生き物には、特に。種類は千差万別、姿形も様々なその生き物たちに、僕は受け入れられない。そういう体質で、それは今も続いている。
同じ空間に存在することも、視線を合わせたりすることも大した問題ではないが、どうにも触れ合うことが出来ない。それは小さい頃からずっと続いていて、だから僕は成人して、そろそろ生まれてから四半世紀になるという歳になっても、そうしたパートナーに巡り逢えていない。
「自己紹介をしませんか?」
広間だった。暖炉の前で腹部を床につけ、両腕で頬杖をつきながら、夢見屋が言う。完全にくつろいでいる恰好だが、多分、靴下が予想以上に乾きにくいのだろう。先ほどから、行動の全てにちゃんと意味がある。背中を乾かして、ハーフパンツを乾かして、靴下へ。衣類を脱ぎ散らかさないのは、せめてもの配慮かもしれない。それとも乙女の意地なのか。
「一人一人の自己紹介、まだですよね? この際にやりましょう」夢見屋はとても明るい口調だった。「私は夢見屋眠子と申します。十七歳の旅人です。パートナーはゴンベ。よろしくお願いします」
寝転がったままお辞儀をするという難易度の高い芸当をやってのける。僕らも頭を下げた。
「では次は私が」
リーチェが静かに言う。傘を持っていたせいかあまり濡れていなかった彼女は、今は一人用の椅子に座っている。その膝の上にはジュペッタがいるが、妙に大人しい。先ほどから身動き一つしない。本物のジュペッタを見るのは初めてだから、本来がどうなのか判断しかねるが、どうにも生気を感じなかった。まるで人形のようだ。
「私はリーチェと申します。年齢は……どなたか興味がおありですか?」
「あ、いえ、大丈夫ですよ!」夢見屋が言った。「でも、私よりお姉さんですよね?」
「そうですね。立花さんと同じくらいじゃないでしょうか?」
リーチェはゆっくりとした質問を僕に投げる。どう答えるのがベストなのか三秒ほど考えたが、タイムリミットだ。「僕よりは若く見える」と、当たり障りのない発言を返した。
「立花さんはおいくつなんですか?」
「二十四歳」
「あら……じゃあ、同じくらいですね」リーチェは怪しげな微笑みを浮かべた。「でも、確かに立花さんよりは年下です」
「つーことは俺が一番年上だ」
僕の服――サイズが小さそうだ――を着て、リザードの尾を懸念している荻野が言った。流石にほぼ全裸の状態で広間に通すわけにはいかなかったので、女性陣は彼の全裸状態を知らない。
「俺は荻野六。数字の六で、りくって読む。家は質屋で、歳は二十八。ややこしいな」荻野はそう言って、屈託なく笑う。「ま、立花さん、あんたのおかげで俺もこいつも助かった。招いてくれてありがとうな」
荻野さん――年上ならさん付けをするべきだろう――は、あぐらをかいた状態で、両膝に手をつき、頭を下げた。その仕草は何故だか彼の人の良さを感じさせるものだった。
「どういたしまして。まあ、迷惑ではないですよ。あまり、気にしないで」
「そう言えば、ここ、立花さんのおうちじゃないんですよね?」
つまさきを触りながら、夢見屋が問う。しばし思案したが、隠し事をする必要はないと考えて、全て話すことにした。
「うん。この屋敷は『逢阪屋敷』という名前の建物なんだ」
「おーさかやしき」
「逢阪。人の名前だよ」
「むー? じゃあなんで立花さんはここに住んでいるんですか? あ、親戚とか?」
「当たらずとも遠からずかな。逢阪さんっていう、僕の知り合いがいるんだ。ここの現当主はその逢阪さんって人なんだけど、少し家を空けていてね。一週間くらい、仕事で出かけてる。僕はその間、留守番を頼まれてるんだ」
「え、それ、私たち、入れてもいいんですか?」
「困っている人を招いて怒るような人じゃないよ。いや、むしろ来客を断ったら、それこそ怒られる。気持ちの良い人なんだ。甘ったるいくらいにね」
「素敵な人なんですね」リーチェが唐突に口を挟んだ。「趣味も良いみたいですし。このお屋敷、その逢阪さんがお一人で?」
「僕はよく招かれるけど、基本的には一人で住んでいるらしい。確かに趣味が良いかな。収集するものの趣味も良いし……」
「内装が特に良いですよね」リーチェは僕の言葉をすぐに継いだ。「十九世紀の英国を意識していらっしゃるのかしら。今座っている椅子、アンティークですよね」
「多分。ここにあるほとんどの家具の値段で、一ヶ月は暮らせるでしょうね」
「げー、お金持ちなんですね」夢見屋は困惑したように言った。「私なんて万年金欠なのに」
「買い集めたわけじゃないらしいよ。古くからそういうものが家にあって、それを受け継いでいるだけらしい」
「外国の方なのでしょうか」
「いえ、純正の日本人ですよ。先祖代々。確かに、この広間だけを見ればそう思うかもしれませんけど、他の部屋は和洋折衷な雰囲気ですよ。ご覧になりますか?」
この発言の真意は、彼女に気に入られたいという心理や、彼女の興味本能を満たしたいという欲求から生まれたものだろう。僕の発言に、リーチェは微笑んだ。どうやら正解だったようだ。
「素敵な提案ですね」
「座って談笑もいいですけど、せっかくですから見学しましょう。ぐるっと探検して、そうしたら夕飯の支度でもしましょうか。雨の夜は長いですから」
僕はさっと立ち上がる。無言のまま、三人もそれに続いた。
『逢阪屋敷』を築いた人物は、一世紀以上前にこの周辺に暮らしていた一人の職人であったらしい。大層不思議な御仁で、家族に恵まれなかった。元は絡繰りや工作に熱心であったようだが、妻や娘に先立たれた反動でか、晩年は人形師、あるいは傀儡師として病的なまでの数作品を仕上げ、独り身のままこの世を去ったという。今でも人形愛好家の間では『逢阪了』という名は知られているようで、現当主の話によれば、全国から遺作を一目見ようと訪れる人も少なくないらしい。
では、どうして根絶えてしまったはずの逢阪家が今尚続いているのか。晩年、傑作を生み出し続けた人形師の逢阪了は、しかし商売に頓着がなくなっていたらしい。自分一人だけが生き、もはや養うべき家族もいない。いつ死んでも良くて、彼の興味といえば、ただ精巧な人形を作り続けたいだけだった。しかしいくら出してもその人形を買いたいという客が後を絶たなくなり、逢阪の無二の親友であった藤堂という男の娘が、養女として逢阪の姓を名乗ることとなり、彼女が人形の売買を仲介していたらしい。もっとも、逢阪家の存続と引き替えに、藤堂姓は絶えてしまったようであるが、そうした複雑な血筋の混雑は、当時はよくある話であったそうだ。
「聞いたことのある名前だと思ったんだ」
僕の話に、荻野さんが反応した。
「逢阪……たまあにそういうものがうちに流れてくる。なんつーか、人形っていうより、魂の抜けた人間って感じなんだよな。精巧すぎる。関係者の前で言うのもなんだが、正直、薄気味悪いくらいリアルだ。それが百年以上前の代物だってんだから、驚きだな」
「そうですね。それは現当主の逢阪さんも同じ意見のようです。逢阪の人形は、現実的すぎる。デフォルメがないって言うんですかね。現実に忠実なんですよ」
「へー、そんなにですか。ここにもあるんですよね?」
「今そこに案内しようと思っているところだよ」人形部屋は二階にあった。僕は進路を変え、階段へ進む。「リーチェさんは、そういうの、あまりご存じないですか?」
「お名前くらいは」リーチェはふっと表情を和らげる。「大変興味深いです。人形、好きですから」
「ジュペッタですもんねー」夢見屋が言う。「でも、リーチェさんのジュペッタ、随分大人しいですね?」
「ええ、とても臆病な子なの。戦ったりするのはこの子の本分ではなくて……それはマニューラのお仕事」
「他にもいるんですね」
「ええ、ボールの中に」
「でも、リーチェさんって力持ちですよね。ジュペッタ、重くないですか?」
「そんなには。人間の赤ちゃんよりは重いけれど、やわらかいし、あまり重さは感じないわ。あなたのゴンベは無理そうだけれど……」
「荻野さんはゴンベくらいなら平気そうですね?」
「俺か? うーん、そうだなあ、あんたくらいなら持てそうだ」
「おーう、かっこいい」
二階への階段は折り返す形状になっている。この辺から、『逢阪屋敷』は姿を変え始める。
階段の踊り場。
上り階段の近くには、骨董品の椅子に、和人形が座らされている。僕はもう慣れているが、その人形と初対面の三人は、それを見つけて、動きを止めた。
「う、わ……」
どちらかと言えば嫌悪の感情の強い声を出したのは、夢見屋。幽霊です、と言われれば信じられるほどに、生気のない人形。しかも造形が幻想的というよりは現実的だから始末が悪い。そこにそっと佇んでいる。色白で、艶やかな髪を下ろした、赤い和服の人形。普段、人間の常識を逸した造形の生き物と触れ合っているにも関わらず、人間と同じ造形を見るだけで、どうしてこうも気味が悪くなるのだろう。
「人形……ですよね」
「そうだね。正真正銘、逢阪了作」
「へえ、こりゃあ……高く売れそうだ」荻野さんは興味深そうに人形に近づく。「逢阪了作ってことは、当然だが、完成してから百年以上経過しているわけか」
「そうですね。手入れはされているようです」
「本当に人間のようだ。ここまで劣化しないなんて信じられない。うちに流れてくるのは本当にごく一部……骨董品という言い方がしっくりくるようなものばかりだったんだけどな……すごい、これはすごい」
「値がつくなら、いくらくらいですか?」
僕は冗談で尋ねた。もちろん、現当主が売ろうとしないのは知っている。
「値なんかつけずに、愛好家の間で競るか、どっかの博物館や美術館に展示した方が良い。これはもう、商品の域を超えてる。芸術だよ」荻野さんは意外にも、見る目があるようだった。「一個人が所有出来る領域じゃない」
「同感です。ここの当主もそう言ってました」
「ところで立花さん」熱心に人形を見つめていたリーチェが口を開く。「どうしてこのお人形は、ここに?」
「ああ、箱にしまわれていないかということですか」
「ええ。とても貴重なのですよね? 室内とは言え、外気に触れさせるのは……と思いまして」
「さあ、どうなんでしょう。理由は人形に聞いてください」
「ちょ、ちょちょちょ……そういうのやめませんか立花さん」怖ろしい速度で夢見屋が反応した。「私怖いの苦手なんですよ」
「そう言われても……本当に。僕はもう慣れたけど……良ければやってみようか? 試しにこの人形を箱に入れて、翌朝ここに来ると、椅子に座ってる。椅子がなければ、立ってるよ」
「帰ります」
「まだ外は雨よ」リーチェが可笑しそうに言った。「立花さんの話が本当かどうか分からないけれど、別に不思議ではないんじゃないかしら。ジュペッタだって、本来はそういう生き物なのだから。ぬいぐるみに染みついた霊魂、でしょう?」
「……でもジュペッタは可愛いじゃないですか」
「そういう基準なのかよ」荻野さんが言う。
「まあ、この人形で限界って人は、やめておきましょう。一階の広間で休んでいてください。まだ興味があるって人は、どうぞ二階に。この人形よりもっと薄気味悪いものばかりですから」
「えー……じゃあ私リタイア」
「俺は行く。是非見学したい」
「私も当然」
「じゃあ、夢見屋は下で待っててくれるか」
「……分かりましたよ行きますよ。広間に一人の方がよっぽど怖いじゃないですか」
不服そうな夢見屋は、僕の背後にぴったりとくっついて、急かすように背中を押した。
この時、僕は彼らとの出会いを偶然の産物だと認識していた。しかし世界に偶然などという都合の良い解釈はないのだということを、僕は肝に銘じておくべきだったのだ。