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普段より一時間はやく夜が訪れた。
僕は急いで書庫から出る。窓のない部屋にいても分かるくらい、外は雨足が強くなっていた。屋敷中の窓という窓を閉め、しっかりと鍵を掛けなければならない。この屋敷はとにかく、水に弱いものが多い。書物、木製家具、暖炉もそうだし、薪もある。それに、値打ちものの人形も、多く存在していた。
屋敷中の窓の鍵を掛け終え、僕はすぐに暖炉に向かった。そろそろ火を起こさなければならない。この屋敷に電気ストーブのような便利なものはない。何しろ電気が通っていないのだ。灯りもわざわざ脚立に上って、天井からぶら下がっている時代錯誤のシャンデリアに火を灯さなければならない。ここは、もう百年以上も昔に建てられた屋敷だそうで、そういうオーパーツが多く残っている。
暖炉の火を起こす。昨日から燻っていた薪に火を付ける。この作業にも慣れたものだった。火加減の調整はまだまだ未熟だけれど、火を付け、消すことだけは上手くなった。ここで一週間も生活していれば、慣れるのも当然かもしれなかった。
一人で暮らしているから、大広間や食堂の明かりは灯さない。僕には携帯用の洋燈だけがあれば十分だった。料理は作らないし、やることと言えば読書くらいだし。書庫の明かりは一日中付きっぱなしになっている。これは電池式のデスクライトを家から持ってきていた。替えの電池もまだまだある。多すぎるくらいだ。だから屋敷中が暗くても、特に困ることはなかった。
……ああ、しまった、玄関マットが出しっぱなしだ。
今朝、寝ている間も小雨が降っていた。そのせいで少し濡れてしまった玄関マットを乾かそうと、玄関よりも少し前の日の当たる場所に置いてあったのだった。この調子だと、今朝以上に濡れていることだろう。日も沈んでしまったし、暖炉で乾かそう、と、僕は洋燈を持って、玄関へと向かった。
古い建物の玄関は大きい。建物の顔だからか、それとも権力の象徴なのか。煩わしい手順を踏んで鍵を開け、戸を開ける。人一人が出入り出来る程度の隙間から体を出す。
「あっ」
すると、すぐに人の気配があった。
「あれ」
珍しい、誰だろう、雨宿りかな? 色んな言葉がすぐに脳裏を過ぎる。僕が動きを止めると、その人――十代半ばの女性だ――は慌てて僕に向き直り、頭を下げた。
「す、すみません。突然雨が降ってきたので、雨宿りをさせてもらっていました」
「ああ」そう、そんなところだろうと思っていた。「失礼、ちょっとこれを持っていてもらってもいいかな」
「え、あ、はい」
女性に洋燈を渡して、玄関に立て掛けてある蝙蝠傘を手にする。彼女にプレゼントするつもりではない。僕が思っていた以上に玄関マットは遠くにあって、雨は強かったのだ。
蝙蝠傘を大きく広げ、玄関マットをつまみ、持ち帰る。女性は――少女と言うべきか――熱くない持ち手を模索しながら、僕の行動をじっと見ていた。
「ありがとう」
「あ、いえ」
「良かったら上がる? 手伝ってくれたお礼に」
「えっ」
とても困惑したように、少女は固まってしまう。そりゃあそうだろう。僕はどう見ても年上で、実際、二十歳を超えている。そして、一人暮らしであろう雰囲気が目に見える。雨宿りでお邪魔するには、適切ではない人材だ。
「え、でも、ご迷惑じゃ……」
「玄関先で雨宿りをされるより、目の届くところで大人しくしていてもらった方が、助かるかな。この豪雨の中、走って帰るって言うなら別だけど」
「あ、う……」
空の気配を今更ながらに確かめながら、少女は困惑している。
「旅人さん?」
「そう、です」
なるほど、僕は頷いた。よくいる人種だ。同じ人種と戦いを繰り広げながら、生活している人たち。この世界の人口の六割は、そうした人種と思って間違いはない。
「じゃあ、尚更入ると良いよ。敷地内で野宿をされるくらいなら、余っている客室でゆっくり眠ってもらった方が、夢見も良い」
「え、っと……でも」
「お礼だから、気に病む必要はないよ。それに、安心して良い」
何にだろう? という風に、少女は首を傾げる。
「君は、旅人」
「そうです」
「なら、パートナーがいるよね」
「います」
「僕にはいない」
少女は、えっ、と、小さく声を漏らす。それは彼女がそういう人種だから驚いた、という意味ではない。この世界において、人間が、人間ではない生き物をパートナーとして連れ歩かないことは、異常と言っても良いことだった。どちらかと言えば、哀れむ類の、異常性。
「もし君が、僕を大人の男として見ていて、何か、そう……危険な目に遭わせられるんじゃないかって思っているなら、安心して良い。君の身に危険が迫ったら、君のことはパートナーが守ってくれる。僕は生身の人間だから、野生動物には抗えない。だから、安心して良い。今、僕と君とで、どちらが強者かと言えば、間違いなく君だ」
僕は広げたままだった蝙蝠傘を静かに閉じる。玄関先には少女が雨宿りをしようと思える程度の屋根がついてはいたが、横殴りの雨は、十分に僕らを濡らしている。
「僕は入るよ」
「あの、それでは、お邪魔します」
僕が屋敷に入ると、少女もそれに続いた。彼女は洋燈を持ったままだったので、戸は僕が閉めた。安心して良い、と言った手前、彼女を招き入れてすぐに鍵を掛けるような真似はしなかった。
「静かだね」僕は言う。戸を閉めると、世界を一つ跨いだように、雨音が遠のいた。「自己紹介でもしておこうか」
「そ、そうですね」彼女はまだ緊張しているようで、視線を合わせようとしない。「私、夢見屋眠子と申します。旅人です」
「ふうん。なんだか、寝心地の良さそうな名前だね」
「はい。私、すっごいよく寝るんですよ」
彼女はそこで初めて笑顔を見せてくれた。僕はどうだろう? 上手く笑えていたかは分からないが、彼女の笑顔が止まらなかったところを見ると、問題はなかったようだ。
「僕は立花戦。まあ、立花と呼んでくれると嬉しいかな」
「立花さん。あの、不躾なんですけど」
「何かな、夢見屋さん」
「なんで、パートナーがいないんですか?」
彼女の素朴な疑問は、僕の心を深く傷付ける。まるで、独り身の人間に「どうして恋人がいないんですか?」と尋ねるような気軽さと残酷さを兼ね揃えている。
「さて、どうしてだろうね」
きっと僕は、さぞ落胆した表情をしていたのだろう。彼女はすぐに、顔を曇らせた。
「あ……すみません、私、いつもこうなんです。思ったこと、すぐに口にしちゃって。気に障りました?」
「いや、もう慣れているからね。それより、タオルを持って来るから、広間で休んでいて。暖炉に火がついているから、あったかいよ。外、もう寒いだろ。秋だからね。何か……紅茶でも淹れてくるよ」
「あ、その、お構いなく」
「そう言われても、暇なんだよな」
まず脱衣所に向かってタオルを調達したあと、彼女にそれを渡し、すぐにキッチン へと向かった。古風な屋敷に不似合いのカップラーメンの空容器が散乱している。一応、食材が用意されてはいるのだが、僕に料理の心得はなかった。まあ、あと一日だけではあるし、客人もいることだ、記念に一度くらい料理をしてもバチは当たらないかもしれない。
沸騰を待ちながら、彼女の寝床や、雨がいつまで続くのかということを考えていると、聞いたことのない音が屋敷に響いた。それが呼び鈴であるということに気付くのに、五秒もかかった。まだまだ音を立てそうにないポットをそのままに、広間を通る。キッチンと広間は一階にあり、隣接していた。
「今の、チャイムですか?」
広間で絨毯に横たわって、遠慮なく全身を乾かしている夢見屋が尋ねてくる。僕が答えるより先に、「もしかして、どなたかがいらっしゃる予定でしたか?」と質問を続けた。
「いや、約束はしていないよ。もしかしたら、君みたいな雨宿りかもしれない」
そのまま、広間を抜けて廊下へ。廊下は横に長く、玄関から見て右側にはトイレが、左側には倉庫群があった。そのどちらにも行かず、目的通りに玄関を開けた。
「……こんばんは」
立っていた人物は、片手で傘を持っていた。
女性……だろう。服装も奇抜で、メイクも独特だ。ゴスロリ、というジャンルだろうか。白と黒が基調となっていて、スカートがやけに膨らんでいる。
何よりも目を引いたのは――
「えっ」
「えっ?」
最初の声は僕の声だった。
彼女は片手で傘を持ち、片手でジュペッタを抱えていた。ジュペッタというのは、ぬいぐるみを模した生き物で、いや、生きてはいないのかもしれないが、ぬいぐるみに魂が宿ったという、とにかくそういう生き物だった。
「あの……?」
「ああ、申し訳ない。どちら様ですか?」
「リーチェです」
女性は凛とした口調で言った。奇抜な恰好をしている割に、日本らしい、奥ゆかしい印象を持った。こんなに流暢に日本語を喋っているのだから、恐らくは偽名だろう。
「リーチェさん。日本人?」
「ええ。本名に興味がおありですか?」
「いや、特には」嫌らしい質問の仕方をする人だと思った。「何か用があったのかと」
「泊めていただけませんか?」
単刀直入な言い方だった。
「宿泊希望、と。ご予約は?」
我ながら気障な言い回しだった。そうさせる何かが、彼女にはあった。
「もちろん、ここがホテルではないことは分かっています。でも、思っていたより日がはやく落ちてしまったし、雨は止む気配がないし。丁度良いところにお屋敷を見つけたので、泊めていただけないかと」
「なるほど。まあ、いいですよ」
「まあ、本当ですか?」リーチェは目を丸くして言った。強引な口調の割には、僕の返答は予想外だったのかもしれない。「ご迷惑ではありませんか?」
「特には。それに、先客もいますから」
「ご友人ですか?」
「これからそうなるかもしれない、かな」僕は冗談を口にする。きっと彼女のせいだ。「見ず知らずの他人です。女性が一人だったから、他にも誰かいた方が、僕も色々とやりやすいかな、と」
「まあ、それは……どうもありがとうございます」彼女は折り目正しく頭を下げた。驚いた時の表情と良い、メイクと衣装を剥げば清楚な美人なのだろうな、と思わせた。「それでは、お邪魔させていただきます」
僕は自然、ドアマンのように、彼女が入りやすい程度に戸を開けた。彼女は僕を通り過ぎる時に、幽かに姿勢を低くした。その仕草は非常に上品であって、彼女の役に立てることはどうにも喜びに近い感情だった。
彼女を室内に入れ、そろそろお湯も沸いた頃だろうと、ドアノブを引き入れようとすると、遠くから雨音とは違う、やかましい音が聞こえてきた。足音のようだ。
「うおおおおお」
それに付随して、やかましい叫び声も聞こえて来た。僕は決して男女を比較しない。その声の主が男性だからと言って、見捨てるような男ではない。ただなんとなく、叫びながら走るという人種に、面倒臭さを感じていたのは事実だ。
「うおおおおお」
戸を閉めず、室内から外を覗っていると、遠くに赤い何かが見えた。目を凝らしてみる。男性が、何かを抱えている。赤い何かだ。もう少し目を細めてみる。おかしい。彼は裸だ。何かを抱えているので、パンツを穿いているのかは分からないが、上も下も、何も穿いていない。いや、唯一、ブーツのようなものを履いているのは見えた。
「リーチェさん、はやく中に」
「どうかなさいましたか?」
「まっすぐ進むと広間があります。暖炉がありますから、乾かしていてください」
外に出て、無理矢理に玄関を閉ざす。もし不審者だった場合、危険だ。初対面の女性に対してそこまでの正義感を振りかざすのもおかしな話ではあるが、そこは人として当然の行いというやつだろう。
「屋根があるぞ!」
わざわざ口に出す必要はないだろう、ということを、僕は口に出さずに思考する。男が接近してくる度に情報は増え、彼が抱えているのはリザードという生き物であり、ひどく衰弱している様が確認出来た。そして男はパンツを穿いていた。パンツ一丁だ。この表現を、僕は生まれて初めて使った。
「あんた! ここの家の人か!」
「正確にはそうではないですが」
「すまん、屋根を借りるぞ!」彼はそう言って、玄関先に転がり込んだ。「大丈夫か?」次の言葉は、僕に向けられたものではないようだった。
彼の抱きかかえていたリザードは衰弱しきっていた。ヒトカゲ族の尻尾には火が灯っていて、それが消えると死んでしまうというのはあまりにも有名な話だ。もちろん、簡単な水くらいはすぐに蒸発させてしまう火力を持っているが、旅の疲れや豪雨も相まっていたのだろう、もう虫の息だった。
「なああんた、ちょっとここで休ませてもらってもいいか?」
「それは構わないですが……」
てっきり家に入れろと言われるかと思っていただけに、この控えめな要求に面を食らった。落ち着いてよく見ると、精悍な顔つきをしている。正義漢という感じだ。少なくとも、全裸で歩き回って悦に浸るタイプの人間ではないように見える。
「それより、一つ訊きたいことがあるんですけど」
「なんだ?」
「服は? ズボンもないようですけど」
「ああ、燃やしたんだ」
その言葉の意図するところが一瞬分からなかった。しかし衰弱したリザードを見れば分かる。彼は自分のパートナーのために、自分の衣服を燃やしたのだろう。
「……良かったら上がってください。立派な暖炉があるし、薪も潤沢にある。雨もまだ続くだろうし、リザードが不憫です」
「い、いいのか?」
「構わないですよ。もう既に、先客もいますから。気に病むこともありません。それより、火の手があると便利なんですよ。手伝ってくれませんか?」
「悪い、助かるよ。俺、荻野六ってもんだ」
「僕は立花戦です。よろしく」
彼のために戸を開ける。彼はリザードを抱えたまま、屋敷に入った。僕もそれに続いて、屋敷を封じ、しっかりと鍵を掛けた。
――この瞬間から、僕と三人が一夜を過ごすことになった『逢阪屋敷』は隔絶された空間となり、外部との関わりを一切持たなくなった。