序章『異端者会議』
「浮気した、とか思われないだろうか……」
 ちょっとブルーな気持ちで、僕、ことハクロ青年は考える。いやいや、まさか本当に浮気をしているはずなんてなく、もはや僕は恋人である(と心の中で自称することくらいは出来るような心の余裕はある)緑葉一筋、これから一生、恐らくそれ以外の女性関係を持つことはないであろう、という自信に満ちあふれているのだが――しかしそれは僕の一方的な考えであって、多分僕がいくら言葉で『愛している』だの『君だけだ』だの『たまたま好きになった緑葉が女の子だっただけで、緑葉が男だったとしても、僕は緑葉を愛し続けるよ』くらいのことを言ったとしても、信じてはもらえないだろう。いやいっそだからこそ信じてもらえないのかもしれないけれど。
「い、いや……まあ大丈夫だろう。喫茶店に待ち合わせのために一人でいるところを誰か知り合いに見られたくらいでは浮気に達することなどないだろうし。うん、大丈夫大丈夫」
 と、僕が独り言をぶつくさ呟きながら喫茶店で人を待っていると、不穏な影が近づいて来て、
「独り言するような歳じゃないだろうに」
 と僕に向けて言った。
「おわっ……いつの間に」
「今この瞬間だね」
 僕の発言に冷静な突っ込みを入れつつ、僕の待ち合わせ相手であるところの、季時九夜先生はやってきた。スクールに通った経験のない僕が『先生』と呼ぶのは、ポケモンの師匠であるところの、上都は丁子ジムのジムリーダーである柳先生以外では、彼だけということになる。東北の辺りで高校教師をしている人で、生物学を担当している、らしい。らしい、というのは、その話を聞いたのが本当に一瞬で、ただ自己紹介レベルに聞いたに過ぎず、結果的にそれ関係の話をすることないまま、このように喫茶店で個人的に待ち合わせするような仲になってしまったからだ。今さら聞くに聞けないし、なんとなく教えてくれない気もする。「僕の受け持ち……? うーん、秘密だね」とか言いそうだ。まあ、『生物学』というのが、概ね『ポケモンに関する知識』を詰め込む学問であるのだということさえ理解出来れば、付き合い方に支障はないはずだ。
「あー……お久しぶりです季時先生」
「久しぶり。一年ぶりくらい?」
「かもしれません。いやあ本日はお日柄も良く……とか言うところですか」
「何歳なんだ君は」
「いやしかし、まさか季時先生が関東にいらっしゃるタイミングで連絡を取るなんて、良い偶然でした。その翌日にこうして会おうという気になるなんて……こう、なんて言うんですかね、僕も大人になったなあ……みたいな。フットワークが軽くなりましたね、なんか」
「君は元からそんな感じだよ」
 季時先生は席に着き、ウェイトレスを呼ぶと、エスプレッソを注文した。僕が生まれてこの方飲んだことのない飲み物だ。ただ漠然と、苦いらしいということは知っている。
「まあ僕も暇をしているからいいんだけどね」
「暇してるんですか、季時先生」
「今日は日曜日だからね」
「あー……そうか、そうですね。僕はですね、曜日感覚が死滅して久しいんですよ。いや、今日が何曜日かってことは分かるんですけど、それが世間的に休日なのだということを忘れて久しいです」
「羨ましい限りだ」
「季時先生もトレーナーになったらいいんじゃないですか? 腕も確かですし、何より似合いますよ」
「冒険するには歳を取り過ぎたね」
「いやいやいや……四十路を過ぎた山男とかたくさんいますよ。定職のなさそうな方とか。季時先生はその中では、まだ若い方かと」
「僕は体力ないからなぁ」
 注文したエスプレッソがやってきて、季時先生はゆっくりと香りを楽しんでいた。その間、僕は二杯目のコーヒーを口に運ぶ。
「君は最近は何してたわけ?」
「僕ですか? えーとですねえ……ああ、一番大きな話と言えば、去年、海外に行ってました」
「へえ。どこ? ハワイ?」
「イッシュ地方ですね。いやー、なかなかスリリングな旅行でした。結局一週間くらい滞在しましたかね……波瀾万丈という感じの旅行になりましたが」
「ふうん、いいなあ。仕事してると長期休暇は取れないしね、海外旅行なんて夢のまた夢だ」
「盆と正月くらいですか」
「そうだね。ああ、でも春は割と暇かな」
 現在も春である……というか、四月も始まったばかり、という季節だった。イッシュ地方に滞在していたのが去年の九月頃なので、もう半年も昔の話になる。うーん、月日が経つのが早い。恐ろしい速度である。
「じゃあつい最近休みが終わったって感じですか」
「そうだね。至福の時間だったんだけどね……終わってしまったよ。地獄の始まりだ」
 季時先生はテーブルに置いてある砂糖瓶から大量の砂糖をさっとエスプレッソに入れて、一気にぐいっと飲み干した。
「甘党なんですか」
「何が?」
「いや、砂糖を……」
「ん? ああ……」季時先生は不思議そうにカップと僕を交互に見比べたあと、満足げにこう言った。「君は若いなあ。青いと言い換えても良い」
「なんですかその楽しそうな言い方は」
「エスプレッソはね、特殊なコーヒーなんだ。これが正しい飲み方」
「へえ……わざわざ砂糖を入れるんですか」
「とてつもなく濃く入れて、香りを楽しんで、そのあと砂糖を入れてさっと飲む」
「なんか贅沢な飲み物ですね」
「しかも機械がないと作れないからね。いわゆるエスプレッソマシーンというやつだ」
「美味しいんですか?」
「いや、どうだろう」カップをソーサーに置いて、季時先生は首をひねる。「僕はコーヒーを美味しいと思ったことがないかもしれない」
「じゃあなんで飲むんですか」
「それはね、歳を取ったせいだ」
 相変わらず正しいような正しくないような、わけの分からないことを言う人だ。けれど僕は、そんな季時先生が、嫌いではない。いや、自分の素直に言うならば、多分、好きだ。
「あーでも……うーん、僕も漠然とコーヒーを飲んでいますけれど、炭酸でも飲んでいた方が美味しい気はします。なのに最近はコーヒーを飲む割合が増えてきたような……」
「そういうものだよ、大人とは」
「でも、一杯でいいんですか? なんか一口で飲み干してしまうというと、もったいない気もしますけれど。せっかくこうしてお会いしたというのに」
「お昼を食べようと思って」
「ああ、そうだったんですか。ええ、どうぞ」
「どこかおすすめの店ある?」
「んー……ん? 場所を変えるんですか?」
「ここは喫茶店だよ。レストランじゃない。食事はレストランで食べるのが人間の務めだ」
「いや、でも僕は……」
 店内の時計を確認してみる。うん、どう考えても十二時を過ぎていて、午後二時頃だった。お昼という時間ではない。ついでに言えば、僕はしっかりお昼を食べてからここへ来ていた。お腹は減っていない。
「申し訳ないんですけど、さっきお昼を食べたばかりでして」
「大丈夫だよ、若いんだから」
 季時先生は無責任なことを言う。いや確かに食べられないでもないけれど、場所が問題だった。
 現在僕たちは、関東地方は玉虫市で面会していた。果たして玉虫市において食堂を探すとなれば、僕から提案出来る候補は一つしかなかった。
「君は地元民だし、どこか良いところ知らない? 美味しいところに行きたいな」
「美味しい……いえ、美味しいは美味しいんですけれど、ちょっと問題のある店でして。味は美味しいです。味は保障するんですけれど、店員に問題がありましてね……」
「僕より人間性に難のある人を他に知らないな」
「いやあどうでしょう……結構いい勝負ですよ?」
「そのコーヒー、飲まないの? 飲まないならもらうけど」
「ああいえ、飲み干します。そうですね……まあお昼、食べましょうか。ていうかお昼食べずに何してたんですか、こんな時間まで」
「病院にいた」と、季時先生は言って、お冷やを口に含む。
「病院? って言うと……玉虫大学の附属病院ですか」
「うん。人間の方をね」
「へえ、お見舞いですか?」
「みたいなもの。大体ね、月に一回は必ず来ている」
「へえ……」怠惰を怠慢で煮染めたような季時先生が、わざわざ東北から関東にまで月に一度お見舞いにくるというのが、僕には理解しがたい行動ではあった。「あそこ、入ったことないんですよねえ。流石に今から受験する気にはならないですし、まあ学校に通わなかったことを後悔しているわけではないんですが……ちょっと憧れますね、玉虫大学。頭良さそうで」
「そう思う?」
「ええ、まあ。大半の人はそう思うんじゃないですか? 玉虫大学卒、という肩書きがあると、なんというか、いいですよね。エリートトレーナーの免許とはまた違ったベクトルの良さが」
「僕はそうだよ」
 季時先生は少し得意げに言った。
「げ……季時先生、玉虫大学生だったんですか」
「うん。もう十年以上前の話だけどね」
「なんてこった……いやでもそうか、教師になろうというくらいの人ですから、そのくらいの知識がないといけないのかもしれない……あるいは箔が必要というか」
「大人になってみると、教員免許よりもエリートトレーナーの方がよっぽど便利だと思うけどね。ポケモンセンターが混雑している時も優先的に回復してもらえるんでしょ。あれは便利だ」
「そういう権限も一応ありますけど、普段はきちんと待ちますよ……ああでも、フレンドリィショップで買えるものの種類が増えるのは良いですかね。デパートまで行かなくて済むので」
「僕も取ろうかなあ」
「失礼を承知で言わせていただけるなら、季時先生がエリートトレーナーの資格を持っていないということが意外なんですけどね」
「なかなか時間が取れなくてね。別の言葉で言うなら、やる気が出ない」
「僕みたいなことを言わないでください」
 僕はコーヒーを飲み干すと、そのまま伝票を持ってレジに向かった。「昼は僕が出すよ」とだけ言って、季時先生は颯爽と喫茶店を出て行ってしまった。あの飄々とした感じは見習いたいものだと心から思う。うーん、あのくらいの気怠さというか、やる気のなさというか。少佐は絶対奢らせてくれそうにないしなあ……このフランクな関係は、心地良いと思う。
 支払いを終わらせて外に出て、さて……僕は少佐の友人が経営している、玉虫市随一の大衆食堂に向かうことにした。ある意味、美味しくて行きつけの店というとあそこくらいしか思いつかない。いや、むしろ一般的な意味での『行きつけ』よりよっぽど『行きつけ』ている気もする。普通の行きつけの店であれば、「いつものを」なんて言えばいつも頼んでる料理が出てくるが、ことこの食堂に関しては、僕が店に入っただけで自動的に料理が出てくる。しかもランダムにだ。一説には、材料の余っているものから作れる料理が選ばれているのではないかという噂もある。あくまで僕の中でだが。
「ああ……関東は都会だなあ」
 僕が店を出ると、季時先生は大きく伸びをしながら、空を仰いでいた。高層ビルの立ち並ぶ景色。しかし玉虫ジムの特色も手伝ってか、自然の多い町である。
「特に玉虫は都会ですよねえ。山吹なんかもすごいですし……まあ田舎なところは田舎ですけどね。常葉とか、縹とか」
「僕は都会が好きだ」
「どうしてですか?」
「便利だから」季時先生は白衣のポケットに手を突っ込んだ。「便利は、楽だ」
「同感です。あ、そうだ、便利と言えばですね、年末にこういうものを買ったんですよ」
 僕はバッグから、タブレットを取り出した。
「おお……タブレット買ったのか」僕の端末を見ながら、季時先生は嬉しそうに覗き込む。「羨ましいな。ネットは?」
「ポケギアから無線で繋がってますね。そうそう、ポケギアも新型に変えたんですよ、ネットが共有出来るやつに」
「ああ……そうだ、思い出した、君は富豪の息子だったんだっけな。加えてエリートトレーナー。金銭的には余裕がありそうだ。昼を出すと言ったのは間違いだった。奢ってもらおうかな」
「いやいや……お戯れを」
「で、これは何が出来るわけ?」
「ポケモン図鑑が入れてありますね。ネットに繋ぐと、ボックスの整理とかもこれで出来ます」
「冗談だろう?」
「マジです」
「信じがたいな……」季時先生は僕からタブレットを奪い取ると、瞬時に使い方を理解したようで、軽々と扱い始めた。「繋がってる?」
「ネットですか? ええ、さっきまで使っていたので、繋がったままのはずです」
「僕のIDでボックスにログインしてもいいかな」
「大丈夫ですよ」
 片手にタブレットを置き、もう片方の手でIDとパスワードを打ち込む季時先生。漠然と、生物学は理系という印象である。そして、理系は機械に強そうだ……という、あまりに粗末な論法で、僕は季時先生の作業を見ていた。
「信じられない……出先でボックスに預けたポケモンたちの環境を確認出来る……いっそ怖いくらいだ」
「すごいですよね。いやもうこういうことが出来ると知った瞬間に買ってしまいましたよ。本当はラップトップも欲しいんですけどね、あれは流石に専用のケースを買わないといけないですし、値段もしますからね……」
「ラップトップだと何が出来るわけ?」
「ボックスから道具を取り出したり出来ます」
「白昼堂々と?」
「ええ」
「……貯金でもするか」
 季時先生はそのままタブレットを小脇に抱えて、歩き出した。返してくださいよと言いそうになったけれど、なんとなくそのままにしておくことにした。季時先生、しっかりした大人なのだろうけれど、興味のあるものを目の前にすると、たまに子どものように感じられる。いや僕も同じようなものなのかもしれないけれど。
「レストランでもうちょっと詳しく調べたい」
「タブレットの性能をですか」
「授業でも使えそうだしね。特にポケモン図鑑を生徒に見せるには、使い勝手が良さそうだ」
「ああ……割と真面目な調査だったんですね。構いませんよ、多分、食堂で使ってても怒られませんから。僕がタブレットを触ると何故か店長に怒られますけど」
「よしじゃあ早速席につこう。ゆっくりと堪能したい」
「そうしましょうか。僕も色々とお教えしたい機能がありますからね。ふふふ……こういうモバイル機器に興味を持ってくださる知り合いがですね、僕の周りにはほとんどいないんですよ。だから季時先生のように興味津々な方は、ありがたい……実にありがたい存在です」
「そう? それは良かった。しかしなあ……」季時先生は少し不満そうな表情をする。「ハクロ君と話していると、なんだかいつもの調子にならないな」
「どういう意味ですか」
「趣味が合う、ということだよ」
「いいことじゃないですか」
「でもねえ、僕のキャラが弱くなるんだよ」
 季時先生はなんとも天邪鬼なことを言った。
 四月後半。
 春先の出来事。
 季時先生と僕は、もう一年ぶりくらいの再会をしていて――そして、恐らくそれが、人生を一つ一つの物語で区切るとしたら、丁度良い節目だったのだと思う。
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戯村影木 ( 2014/08/05(火) 18:37 )