第八話『廃人、紅々緑青』
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「お嬢様、それではこれから一日、私めはお嬢様の元を離れますが――」
「いいから早く行ってきなさい」
「……かしこまりました」
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『白銀山』で野宿をし、山吹大地は自由と孤独を同時に味わっていた。今まで、世界を放浪した気でいた。日本全国を旅していたつもりでいた。しかしながら、ここには何もない。人の手が全く感じられなかった。入口の比較的安全な場所に、ポケモンセンターがぽつんと一軒あるだけだ。洞窟内に一歩足を踏み入れれば、光も届かない。深部に進めば、洞窟の構造上か、それとも目が慣れたせいか、光を灯さなくとも歩くことは出来たが――視野が狭いため、野生のポケモンを回避することは出来なかった。
いくら一匹の野生のポケモンに対しては優位に立てるとは言え、その戦いが何十戦と続けば、消耗してくる。結局大地は、初日には最深部に到着することなく、適当な場所を見繕って、シュラフにくるまって一晩を明かした。もっとも、腕時計を頼りに一日を計測しただけで、朝日を拝んだわけでもない。
今は朝食のレトルト食品を温めているところだった。ポケモンたちも、様々な道具を与え、体調を万全に整えてある。
「……自然の驚異だな」
大地の呟きには、何も返ってこない。水の音や、ポケモンの鳴き声が、洞窟内に反響している。ここでは、まず他のポケモントレーナーに出会うこともない。恐ろしく自然に塗れていた。
「今日はもう少し奥まで進んでみよう。まだ道もある。大丈夫だ」
独り言は誰に向けたものでもなかった。ただ、確認するようにして言ったのだ。旅をしていても、常に誰かがいた。同じように旅をしているトレーナーや、遠くの親戚、知人。それらと切り離されたこの場所は、やはり、異質だった。
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紅々緑青は、いつもと同じ燕尾服のままで、ポケモンリーグを訪れていた。単身での移動だったので、空を飛び、山吹市から常葉市までの移動を簡略化した。ポケモンリーグの関門をバッジの提示でパスし、そのまま『白銀山』へのルートを移動した。
「許可証を」
「よろしくお願い致します」
ポケモンリーグから『白銀山』へ至るゲートの前で、許可証の提示を求められる。許可証とは言うが、カードサイズのものだった。本物であることを確かめられたあと、緑青はゲートをくぐり、『白銀山』へと足を踏み入れた。
「……ああ」
一時的にとは言え、『チャンピオン』の座についてから、約一ヶ月が経過していた。ポケモンリーグ本部とは種類の違う静寂があった。解放感に満ち溢れた、自由な静寂だ。目線の先にポケモンセンターを見つけたので、緑青は漠然とそこへ向けて歩き出した。
野生のポケモンに対する畏怖があった緑青は、一応、フルメンバーでやってきた。フルメンバーというのは、文字通り、現在の緑青にとって最強のメンバーである。これ以上はないというパーティメンバーだった。ポケモンリーグに挑戦したときも、このメンバーだった。対人戦はもちろん、野生ポケモンとの戦闘でも負ける気はしない。
状態もベストに整えてきたが、それでもやはり、洞窟に入る前に、ポケモンセンターに立ち寄ることにした。一度回復してもらえば、安心出来るというものだった。
「こちらのポケモンたちを回復していただきたいのですが……」
「はい、かしこまりました。白銀山洞窟へ行かれるのですか?」
「ええ。仕事のようなもので……本日中には下山する予定でございます」
「そうですか、どうぞお気をつけて。あと……昨日にもお一人、洞窟へ向かったトレーナーさんがいらっしゃいました。恐らく洞窟内で野宿をされているとは思いますが……一応、気にかけていただけますか? 『白銀山』を訪れるトレーナーさんですから、心配はないとは思いますが……それでも、念のため」
「かしこまりました。トレーナー同士は助け合いでございますからね」
「ええ」
太陽のような笑顔に見送られ、緑青は万全を期して、洞窟内へと、足を踏み入れることになる。そここそが、緑青の生まれ落ちた場所。いつか帰ろうと願っていた、思い出の地だった。
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ある程度の場所まで進んだところで、大地は立ち往生してしまった。コンパスが完全に使い物にならなくなったからだ。磁場の影響か、単なる故障か。デジタルコンパスだったため、修理するわけにもいかない。シルフカンパニー製であり、自社製品ということで使っていたのだが、やはりアナログの方が頼りになるのではないか、という気もした。
「参ったな。方向感覚が失われたとなると……闇雲に進むのは危険か」
数メートル先は暗闇だ。と言って、後方もほとんど視界が奪われている。自分の周囲はそれとなく分かるのだが、基本的には黒に包まれている。恐怖があったわけではないが、これでも大地はエリートトレーナーである。自然の脅威や人間の過信についての危険性を、重々理解していた。
自分の歩いてきた道にあるロープを辿る。本来は体やリュックに巻き付けて進むものだが、大地は歩いた直線上にロープを設置していた。先端を石に結び、それを床に置いていた。普段であればこんな使い方はしないが、やはり『白銀山』に対する畏怖があったのだろう。設置したロープを回収しながら歩いていく――と。
本能の警告を受けた。
何か、まずい生き物がいると思った。
過去に大地は、上都地方を旅しているとき、伝説級のポケモンとニアミスしたことがあった。恐らくは、伝説の三犬のうちの一匹だろう。影も残らぬような素早さで、その生き物が、草むらを疾走した。その時に受けた感覚と似ている。絶対的な等級の恐怖だ。足を止め、ロープから手を放し、ボールに手をかけた。『白銀山』に危険生物が住んでいるという話は聞いたことがなかったが――それでも、妙に成長した個体がいたとしても、不思議ではない。
大地はただ待った。
自ら動くのは得策ではないと判断した。
そして――それは現れた。
「……おや、山吹大地様ではございませんか」
紅々緑青。
朽葉財閥令嬢、朽葉乱麗の専属執事。
その男が――なぜここに。
「朽葉家の執事君……どうして」
「どうして、とは、どのような意味でございましょうか」
彼はいつもの燕尾服に、オールバック、銀縁の眼鏡である。およそ現実的とは思えない風景に、幻覚でも見ているのかと一瞬疑ったほどだった。
「まさかとは思いましたが、山吹大地様とお会いすることになるとは……これも廻り合わせでございましょうか」
「ほ……本物なんだよな。君……どうしてここに。どうやって、ここに」
「許可証を利用して、でございます。山吹大地様と同じでございます」
「……やはりか。強い強いとは思っていたが、チャンピオンレベルだったとは。いやはや、君は、本当に強かったんだな。本当に……お見それしたよ。使用人にしておくには惜しいレベルだ、本当に」
「いえいえ、滅相もございません。私は乱麗様にお仕え出来るだけで幸せでございますので。ポケモンバトルの強さは、二の次でございます」
「その乱麗ちゃんはどこかにいるのかい?」
「いえ……本日は私だけがここへ。『白銀山』は銀山であるという噂を聞きつけまして、調査に参りました。発掘作業をするのに耐え得る環境なのかどうか……と」
「銀山? 朽葉家で管理するということかい?」
「どうなるかは分かりませんが、可能なようならそうなるかと思われます。何か問題がございますでしょうか?」緑青は手を広げ、オーバーリアクションをする。「それとも、山吹大地様も同じような用件でこちらへ?」
「……おかしいな。乱麗ちゃんからは何も聞いていないのかい?」
「ええ……お嬢様からは何も」
「そうか……嫌われているのかな。それとも、意見の衝突を見越して先手を打たれたというところか」
「ええ……恐らくは後者かと。実を言えば、山吹大地様がここに施設を建設なさろうとしているのは、他の方から聞き及んでおります。しかし『白銀山』は一つしかありませんからね……これでは先着順ということになってしまいます」
「先着順か……いや、悪いけど、僕は譲る気はないよ。確かにこの『白銀山』は素晴らしい土地だった。最深部までは調べられていないが、それでも分かる。だが……限られた数名しか体感出来ない素晴らしさなんて、無意味だとは思わないか。ここにバトルフロンティアを建設すれば、もっと多くの人が利益を得られる。感動の種類は変わるかもしれないが、人の受けられる利益には変化はない。数の多さでは、施設の方が圧倒的に有意義だ」
「そうでございましょうか? お言葉ではございますが……この世界に平等などというものはございません。選ばれた者だけが訪れることの出来る場所があり、誰でも平等に利用出来る施設があり――もしこの世に平等なものがあるのだとしたら、それは『選択の権利』だけでございます。高みを目指すのか、ある程度の世界で満足するのか、その世界と無縁に生きるのか。山吹大地様のお話では、その世界に適応出来ない人間は、まるで不幸のようにも聞こえますが……」
「不幸……? 不幸と言うなら、確かにそうさ。ポケモンバトルで強くなる。それこそが理想だろう。現代はポケモンを中心に回っているんだ。どこを見てもポケモン向けの製品開発をしている。サービスだってポケモンを中心にしている。ポケモンセンターなんて無償で利用出来る。そんな世界で、ポケモンで強くなる以外に大切なことはないだろう?」
「……いえ、それは……」
「いや、君の言いたいことも分かるさ。それ以外の分野で活躍している人間がいることも分かる。だが……それで何になる? 君も強い人間なら分かるだろう……ポケモンリーグを制覇し、チャンピオンの座を手に入れて終わっていいようなものじゃない。もっと深みがあって、もっと高みがあるんじゃ。最強の座を手にして終わりじゃあ、あまりに寂しすぎる」
「しかしその『最強』になれるのも、ほんの一握りなのでございます」
「それは甘えだよ。結局……僕の父上も姉上も、ポケモンバトルの仕組みを理解出来なかったんだ。いや、夢を諦めた大人たちはみんなそうさ。誰だって、一度は最強を目指したはずだろう? それを、諦めてしまった。それは恐らく、環境のせいだ。周りに、真理を知る人間がいなかった。だから強くなれなかった。そして落ちぶれたんだ。それなら、地位も実力もなくとも、いい歳をして旅を続けているトレーナーの方が、まだ評価に値する」
「……どうか、それ以上は」
「いや、言わせてくれ。気付いたんだ。僕は確かに強い。四天王もチャンピオンも倒してしまった。そして、『白銀山』へ来て、やっと気付いたんだ。レベルの違う者を蹴散らし、栄光を手にしたところで、何の意味もないってことにね。全員が全員、同じレベルで勝利を見据え、その中で一番にならなければ意味がない」
「では……お尋ねしますが……ポケモンの扱えない人間は…………バトル中心の世界を作り上げ、そこに適合出来ない人間は、どうなりますか……? 生まれついて、ポケモンバトルを楽しめないような人間を、どうお考えになりますか?」
「適合出来ない人間? ああ、そうだな……それはまあ、仕方ない。君の言う通り、そうした人々に対する救済もするべきだろうな。なら……そうした人間は、バトルフロンティアの従業員として活躍してもらえるよう、優先的に雇用するのはどうだろう。同じ土俵には立てないかもしれないが、それなら世界の一員として立派に活躍出来る。ポケモン中心の世界においてそういうハンデを背負ったことは悲しいことだと思うが、やる気があればバトルをする方法はいくらでもある。それを実践しなかった時点で、その人間の甘え――」
「――何色だ」
今までこの場にいなかったはずの声が聞こえた。が、やはり、大地と緑青以外に、人間はいない。その声の主は、緑青だった。ただし、その声質は、口調は、明らかに普段の緑青のものとは違っていた。
「なに? なにか言ったかい?」
「ああ……俺は今、何色だって聞いたんだ」
「何色? なんの話だ?」
「てめえの三値は何色だ」
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山吹大地は、意識を失う。
一瞬にして人格そのものが変異したように見えた執事を見て――ではない。確かに、現実感を見失うような変化ではあったが、それでも冷静さを保っていたはずだった。
彼は、執事に促されるままに、ポケモンバトルをすることになったのだ。そう――確か、「三値は何色だ」という意味の分からない発言のあと、「世界の中心は何だ?」というような質問をされたからだ。だから、「ポケモンバトルと、その強さだよ」というようなことを、答えた。が、「お前は何も分かってねえ」と、瞬時に答えを否定されてしまった。
そこまでが、一つの記憶。
双方、モンスターボールを構えた。「今回はお前の世界で話をつけてやるよ」という不遜な態度を取られた記憶もある。恐らくそれは、『白銀山』の権利を賭けての戦いだったのだろう。大地がそれを了承したのは、負けるつもりがなかったからだ。
先に大地がポケモンを繰り出した。彼のメインポケモンは、キノガッサだった。様々な情報収集を経て、もっとも勝率が高いと思われたポケモンだった。キノガッサ――全ポケモン中トップクラスの物理攻撃力を持ち、命中率百パーセントの『キノコの胞子』を操ることで、眠った相手を殴り続けることの出来る、突出した攻撃性能を持っている。
さらに『ポイズンヒール』という特性に『毒々玉』を組み合わせることで、常に状態異常でありながら、体力を回復出来るという、防御面にも優れたポケモンである。
技構成も――大地の場合は、『キノコの胞子』『気合いパンチ』『身代わり』『タネ爆弾』というものになっていた。素早さで遅れをとっても、一撃を防ぐことさえ出来れば、一ターンで相手を眠らせ、『ポイズンヒール』で回復し、『身代わり』を置いて――『気合いパンチ』と『タネ爆弾』のうち、有効手で攻め立てれば良い。もし相性の悪いポケモンが相手であっても、『キノコの胞子』さえ撃てれば、その後控えのポケモンで相手の優位に立てば良い。
もちろん、あまりに強い戦法であるが故に対策される危険性はあるが――それを考慮しても尚、強いポケモンである。大地はこのキノガッサで、ほぼすべての戦いに勝利してきた。しかし――
大地は負けた。
それも、ただの負けではない。
六タテされた。
緑青が使ったポケモンは――もはやキノガッサと同様に、その存在を危険視しない方が悪いというほど、それへの対策を怠る方が悪いというほどに、危険視することが当然と思われているガブリアスだった。王道すぎるが故に、当たり前すぎるが故に、しかしその強さは絶対的であって――
初手で『剣の舞』を積まれて。
『ラムの実』で『キノコの胞子』を無効化されて。
そのあとは――『ドラゴンクロー』と『地震』と『げきりん』の三つを一切の選択ミスなく利用され――六タテされた。
為す術なく。
馬鹿正直に暴力的な戦法に、敗北した。
大地に出来た行動は、初手の『キノコの胞子』のみ。その後は、出すポケモン出すポケモン、一撃で葬り去られた。残り二匹になった時点で、大地は思った。ああ、勝てないんだ……と思った。『剣の舞』を積んだガブリアス。それは、絶望感さえ覚えるほど、圧倒的だった。知っていたはずだった。理論上、強いということは。しかしそのたった一回の『積み』が、そこまで勝敗を分かつのか――と、大地は知ることになる。
崩れ落ちた大地に、執事は言ったはずだ。意識を失う寸前の記憶。ひとしきり高笑いをしたあと、無傷で六タテを済ませたあとで、普段通りの口調になった執事は言った。
それはそれは饒舌に。
言った。
「山吹大地様……あなた様には経験が不足しておいでです。三値を理解した程度では……我々のような高みには到達出来ません。まるで『マシン』感覚で、ポケモンを見ているのではありませんか? ……それでは、到底、我々のように、文字通り命を賭けてきた者たちと渡り合えるとは思えません。失礼ながら……ポケモンは『数値』でも『マシン』でも『道具』でもございません。いえ、そもそもにして、私たちはポケモンを『操っている』のですらないのです。私たちがしているのは、圧倒的な力と圧倒的な能力を秘めたポケモンへのサポート――さながら執事が主人のお手伝いをするかのような繊細さが必要でございます。技を外した時に苛立ったり、状態異常の確率に悩まされたりしているようでは、まだまだ未成熟。あなた様のおっしゃる『ワンランク上』の世界が山吹大地様を基準にしているようでしたら――私から見れば、三つも四つも下の世界。いわば足元の世界です。『三値』『性格』『特性』を揃えたところで、勝てません。『道具』『四技』『調整』を完璧にしたところで――もっとも完璧などというものはございませんが――それでも勝てません。『読み』や『読み読み』などの技術を増やしたところで――それでも勝てません。ポケモンバトルとは不思議なものでございます。どこまで行っても、完璧な強さというものは存在しないのです。私のように――全種類のポケモンの全種族値、習得技を覚え、瞬時にそのポケモンが出し得る速度、威力、防御力を弾き出し、一瞬にして十通り以上の可能性を考慮し、その中で常にベストな選択をし続けたとしても――それでも完璧には程遠いのです。いっそ、『愛』だの『祈り』だの『やる気』だのという非科学的なものの方が、よほど勝率を上げるのではという気すら、最近は致しております。さて……そんな私から、失礼を承知で進言させていただきますが……山吹大地様、『三値』を理解した程度で――オーソドックスな戦法を知り、それをパターン化させたところで――あなた様の実力は精々、『一般レベル』でございます」
「そ……んな……これが……一般……」
「同じように『三値』を理解し、『育成』をしていらっしゃる方々は、分かっているのでございます。勝つことよりも、戦うことが楽しいのだと。同レベルでの読み合いこそが、ポケモンバトルにおいては楽しいのだ、ということが……ですから、もし私めが『三値』を知らぬ方々とお手合わせをする際には、無厳選無振り無調整の、同レベルのポケモンをぶつける程度でございましょう。それが『楽しいから』でございます」
「ばかな……勝てなくてもいいのか……」
「山吹大地様――年下の私めがこのようなことを言うのは、非常に心苦しいですが……我々人間は、ポケモンのように、目に見えてレベルが上がるわけではございません。それに、勝ち続ければレベルが上がるというわけでもございません。逆に負けたときにこそ、成長するものでございます。今回のポケモンバトル、明確な敗因があるのだと致しましたら――今までの人生を勝ち続けて来た山吹大地様、底辺からスタートした私めの、経験の差でございましょう」
「…………完敗だ」
大地はその言葉に、完全に打ちのめされる。
間違っているかどうかは分からない。
しかし完全に、心を折られた。
勝敗の定義は、絶対だ。
「……そうそう、一つ、宣言しておかなければならないことがございました。ポケモンバトルが世界の中心だとおっしゃられる山吹大地様に対して、その世界で私めの優位性が証明された今、言わなければならないことがございます」
執事は手を広げ、にっこりとほほ笑む。
「私は、ポケモンバトルの世界が中心だとは思っておりません。同時に、私自身の思想が正しいとも思っておりません。ですから――もし『白銀山』が失われるのでしたら、それを受け入れるはずでした。しかしながら、この世界の中心は、我が主、朽葉乱麗お嬢様にございます。強さや正義に興味はございませんが、間接的にとは言え、お嬢様の侮辱に当たる発言をした者には、それ相応の対応をしなければなりません。それでは失礼して――」
緑青はにっこりと微笑み、言う。
「厳選からやり直せ、雑魚」
そして大地は意識を失った。
強さこそが全てなら、
強さこそが正義なら、
その言葉は全て正しく――負けた自分は、間違っている。
そのあまりに衝撃的な――あまりに程遠い世界を目の当たりにし、それを受け入れられなくなった大地の意識は――停止した。
5
「お嬢様、遅くなって申し訳ございません」
夕方になって、緑青は帰宅した。が、乱麗の部屋に向かっても、乱麗はいなかった。ノックをしても返事がなかった時点でおかしいとは思っていたのだが、姿がない。だが、鍵も掛かっていなかった。
不思議に思い家の中を散策すると――ダイニングには、乱麗の姿と、夕食の準備が整っていた。
「お嬢様……」
「お帰りなさい。やっぱり仕事は家でするのが一番ね。妙にはかどったから、たまにはと思って、料理をしてみたわ」
「ああ、お戯れを……お怪我はございませんでしたか」
「料理で怪我なんてしないわよ。まあ、味の保障は出来ないわね。最近はまったく料理なんてしていなかったから」
「……お嬢様にこのようなことをさせてしまって申しわけございません」
「早く手を洗って、上着を脱いで、席につきなさい。大体時間を見計らっていたつもりだったけど、もう五分も経っちゃった。温めなおすことになるわよ」
「すぐに参ります」
実際は、手を洗うだけでは不足していた。シャツのあちこちに、土汚れもついていた。緑青はすぐに自室に戻り、衣装の一切を、別の燕尾服に着替えた。片付けは後回しにして、ダイニングに戻ることを最優先させた。その素早い着替えでも、ポケットの中身を入れ替えるのは忘れなかった。
「お帰りなさい」
「それでは始めましょう」
二人とも未成年である。飲酒はしない。が、家の中には年代物のワインがいくつかあった。いつか解禁されたら飲むために保存してあるものだ。若かりし頃に酒の味を覚えてしまっていた緑青は、今日のような日は美味しい酒でも飲みたい気分だったが、まさかそのようなことは言えない。辛い日は煙草が吸いたくなるが、気分の良い日は、酒が飲みたくなる。
「今日はどうだったの?」
「お嬢様のおかげで、素晴らしい一日になりました。大変感謝致しております。このご恩は生涯忘れることはないかと」
「そ、そう? あら……そんなに喜ばれるとは」
「ちょっとした揉め事もございましたが、滞りなく終了致しました。『白銀山』は恐らく、しばらくはあのままの形で保存されることでしょう」
「どういうこと?」
「すぐにお分かりになることでございます」
「ふうん」
「それと――昔取った杵柄とでも申しますか、ダウジングを利用して洞窟内を調査してみましたが、あまり良い反応は見受けられませんでした。ポケモンの中には鉱物を主食にするものもございますから、期待するほどの銀は産出出来ないものかとも思われます」
「あら……まあそうでしょうね。『白銀山』を開くのにかかる費用を考えたら、利益は見込めないかしら」
「そうでございますね。あのままそっとしておくのが一番かと思われます。ですが……ダウジング中にこんなものを発見致しましたので、持ち帰ってまいりました」
緑青はポケットから、小さな塊を取り出した。小さな、とは言っても、直径二センチから三センチはある。
「なあに?」
「宝石でございます」
「宝石……」
「洞窟内は最初の通路は暗いのですが、深部に参りますと光がなくとも歩けるようになります。目が慣れたせいかとも思ったのですが、どうやら壁面には無数の鉱石が埋まっているようでございまして――その中からひとつ、大き目のものを拝借して参りました。情熱的な赤は、お嬢様にお似合いかと思いまして……」
「まあ……すごい、本当に綺麗。こういうものがたくさんあるの?」
「左様でございます。しかしながら、大変奥深くにございますし、恐ろしく獰猛な生物の住処となっております故、機械の設置等は困難を極めるかと……」
「きっと綺麗なんでしょうね、その場所は」乱麗は宝石を一通り眺めると、そっと緑青に返した。「これはあなたが持っていて」
「私が、でございますか……」
「ええ、いつかのときのために、あなたが持っていて。そうね……宝石の使い道なんて、限られているでしょうけれど」
「――かしこまりました。肌身離さず、保管させていただきます。いずれはお嬢様のものになるものでございますから」
「そうなることを願うわ」顔を逸らしながら、乱麗は小さく呟いた。「それより……あなたの目的は達せられたの?」
「目的、でございますか」
「その……生まれ故郷、だったんでしょう」
「ああ……そうでございますね。当然記憶にはございませんので、懐かしさなどの感慨は感じませんでしたが……しかしながら、洞窟内にて、不思議な体験を致しました」
「どんな?」
「主に岩や地面など、洞窟に生息するポピュラーなポケモンたちを倒しながら進んでいたのですが、最深部付近では、見慣れない――いえ、いっそ見慣れたポケモンたちを目にすることになりました。付近の草むらで見るポケモンや、愛玩用に扱われるポケモンでございます」
「ふうん。私はポケモンの生態系はよく分からないけれど……深部にはそういうポケモンが多いの? 変わっているのね」
「いえ、一匹ずつしか確認出来ませんでした」
「? 不思議ね」
「左様でございます。そしてさらに不思議なことに……ポケモンたちは私を見ても、襲いかかってこようとは致しませんでした。ただ一ヵ所に、六匹が集まっておりまして、じっと私を見ておりました。そうでございますね――さながら、昔馴染みの人間がやってきた、とでも言うように」
「それって……」
「確かめる術はございません。しかしながら、ポケモンは長生きでございますから、そういう可能性もあるかもしれない、というお話でございます。ボールなど持たずに向かったものですから叶いませんでしたが、もしまた機会がありましたら、いつかはまた最深部に赴き、ポケモンを捕まえるのも一興かと思っております」
「そうね……でもそれは、海外の仕事が終わってからになるわね」
「承知致しております」緑青は微笑みながら頷いた。
「でも、私もそこに行ってみたいわ。出来るかしら」乱麗は素っ気なく、出来るだけ興味のない風を装った。「つまり、私もチャンピオンに挑戦できるのか、ということだけれど……」
「お嬢様が、でございますか……ええ、お嬢様でしたら、すぐにお強くなられることでしょう」
「……そう。ボールがなくても、バトルが出来れば良いのにね」
「そのことですが……お嬢様さえお嫌でなければ、この世界にはダブルバトルというルールがございますのでボールの所持、管理、扱いを私が担当すれば、私とお嬢様でバトルをすることも可能でございます」
「……そうなんだ? 二人で戦うの?」
「左様でございます。ダブルバトルは戦術の共有なども容認されております故、ボールの扱いなどは問題視されないことでございましょう。正式な許可を取れば、決して不可能ではない、と」
あまりに饒舌な説明に、乱麗は少し疑問に思った。緑青の知識は豊富かもしれないが、そうすらすらと言葉が出てくるのは、偶然ではないだろう。
「……ねえ、そのこと、緑青はいつから知っていたの?」
「そうでございますね……お嬢様のご病気を知った時からでございます。玉虫様に伺っておりました」
「どうして今まで黙っていたのかしら」
「何事も、押し付けるのは美徳ではございません。もしお嬢様がいつか興味を持たれる時が来たらご提案しよう、と思っておりました。その時が来たことを、大変喜ばしく思っております」
「……そう、なるほどね」涙が出そうになったが、堪える。確かに、病気を受け入れ切れていないときにそんなことを言われても、面倒に思っただけだろう。「ねえ、もし私が本格的にはじめたら、ちゃんとサポートしてくれる?」
「もちろんでございます」
緑青は小さく手を広げる。
「お嬢様の喜びこそが、私の人生でございますので」