第六話『稚者、玉虫知恵』
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「やあ久しぶり」
「どうも、ご無沙汰してます。その後の経過は……という質問は、無意味でしたね」
「まあ、概ね君に話した通りだよ」
「一年……二年くらいですか」
「完全に回復するにはそのくらいかな。今だって、記憶はほとんど失われていない。私たちとの関係も良好だ」
「しかし、過去の記憶は戻らないのですよね」
「君は、過去と未来、どちらに価値があると思う?」
「幸福度によります」
「なら、君が決められる」
「そう願いたいですね」

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 朽葉乱麗が精神的に不安定になった日の夕方、彼女の元に、玉虫博士から連絡があった。娘の知恵であればまだしも、博士が直々に乱麗にコンタクトを取ることはほとんどないので、心底意外だった。それも、家の電話ではなく、乱麗のCギアに直接だった。
「こんにちは乱麗ちゃん。元気にしてた?」
「ええ……どうも、ご無沙汰致しております。先日、深奥で知恵ちゃんに会いましたけれど、玉虫様とは半年ぶりくらいでしょうか?」
「そうだねえ。知恵から聞いたよ。うん、まあ昔から君たちは縁が深いからね。世代ってやつだろう。知恵は少し年が離れているけど……ああだめだ、無駄話をすると年寄りと思われる。ええと、緑青君はいる?」
「緑青ですか?」使用人に用件とは珍しい。もっとも、緑青は博士とは個人的な繋がりがあるようだったが。「ええ。替わりましょうか」
「あ、いや……それだと乱麗ちゃんを電話番にするみたいでよくない。使用人のことなんだから、乱麗ちゃんに聞くよ。明日緑青君の身体が空いていたら、大学に来てくれるように言ってもらえないかな? ちょっと話したいことがあるんだ」
「緑青にですか? ……ええ、明日は、特に用事はないので、向かわせます。どのくらいの時間に向かわせましょうか?」
「いや、一時間程度でいいんだ。時間はいつでもいい。基本的にいつも大学にいるから。気を遣わなくていいからね。それじゃ」
 電話を終えて、乱麗は少しだけ考えた。実は、博士と緑青の関係性を、乱麗はよく知らない。恐らくポケモンのことだろうとは思っていたので、自分は関与する必要がないと思っていたのだ。思えば、過去にも何度かこうした用件があったような気もする。その時は大して気に留めていなかった――どころか、玉虫家に貸しが出来るならいいだろうくらいにしか思っていなかった。
 果たして、どういう用件なのだろう。
 やはりポケモンに関することなのだろうが……タイミングがタイミングなだけに、なんだか嫌な予感がした。
 緑青の部屋に向かい、ドアをノックする。すぐにドアが開かれ、「お嬢様に足を運ばせるなどと……」という無駄な弁明があった。
「ねえ緑青、明日、暇よね?」
「そうでございますね。明日は通常業務がほとんどになりますので、激務というほどではございません。本日と同じような一日になるかと思われます。しかし海外に向けての買い物をする時間は取れそうにありませんので、週明けが理想かと思われますが。土日はどこも込みますので、明日、明後日は様子を見た方が宜しいでしょう」
「ううん、そういうことじゃなくて、緑青は特にすることがないわよね?」
「私でございますか? ええ……お嬢様のサポートをする以外には特には」
「玉虫様が緑青に用があるみたいなの。明日、時間を見つけて玉虫大学に行ってくれる? あなた一人で」
「玉虫様が、でございますか……かしこまりました。しかし一体どのようなご用件なのでしょうか……」
「それは聞いていないけど。とにかく、お願いね。カードを渡しておくから、何か菓子折でも買って、持って行って」
「かしこまりました。失礼のないように致します」
「それと――もうすぐ海外に行って、しばらくは帰ってこないわけだから、少し自分の買い物でもしてきたらいいんじゃないかしら。私もたまにはゆっくりしたいし、のんびりしてきていいわよ。と言っても、遠出するほどの時間はないけれど」
「お一人で、でございますか」
「ええ。そうね、緑青が出かけるなら、私も外で仕事をしようかしら。じゃあ――ある程度仕事を片付けてから、三時過ぎにでも二人とも家を出て、たまには外で夕食にしましょう。六時頃に待ち合わせ。どう?」
「かしこまりました。それでは早速、レストランの手配を致します」
「ええ、お願い。それじゃあ、そんな感じで」

 2

 そんな感じで、緑青は翌日の正午過ぎ、『森の羊羹』の詰め合わせを朽葉のリニア乗り場で購入した。どこで買っても北の銘菓には変わりがない。どこでも各地方の銘菓が買えるのは良い時代というべきか、粋ではないというべきか、判断に苦しむところだ。
 玉虫大学に訪れるのは、半年ぶりにもなるだろうか。学歴というものに縁のない緑青であったが、それでも大学という場所に興味はあった。玉虫大学は基本的には開放されている。博士は精神病を専門としてはいるが、ポケモンの育成や成長に関しても明るかった。緑青は主にそちらの面で、彼と言葉を交わすことが多かった。
 エレベーターを利用して、十五階にある玉虫教授の研究室へと向かう。中から話し声が聞こえたので先客の存在に気付いたが、ひとまず訪問だけでも伝えることにした。ノックを三回し、反応を待つ。
 声より先に、ドアが開いた。
 知らない男がドアを開けたようだ。
「こんにちは」
 白衣を着ていたので、研究者だろう、と緑青は当たりを付ける。それなりに歳を重ねているように見えた。玉虫教授とまでは行かないが、それでも、三十歳は過ぎているだろう。
「はじめまして。私、紅々緑青と申します。玉虫博士教授は――」
「ああ、いますよ」緑青の発言を遮るように、男は言った。「先生、お客様です……ああ、どうぞ、入ってください」
「失礼致します」
 研究所は広かった。出入り口からすぐに、大きな机がある。その奥に、本棚に囲まれるようにして、玉虫教授の机があった。一歩足を踏み入れると、玉虫教授の姿がすぐに確認出来た。
「ああ、緑青君、よく来てくれたね」
「ご無沙汰致しております」
「……先生、それじゃ僕はこの辺で」
「いや、せっかく玉虫くんだりまで来たんだ、もう少しゆっくりしていきなさい。どうせ今からポケモンの話をするんだから」玉虫教授は立ち上がり、自分の椅子を大きな机の方へと持って来る。「こっちで話そう。ああ、それは何かな?」
「日頃から玉虫様にはお世話になっておりますので、心ばかりの……」
「ああ、気を遣わなくていいと言ったのに。乱麗ちゃんは律儀だね。それとも君かな」
「お嬢様のご提案でございます」
「またお礼をしないとな」
「相変わらずのお礼戦争みたいですね」研究者は困ったように言った。「新しいコーヒーを淹れましょうか?」
「うん、そうだな、せっかくだからもらったものはすぐに食べてしまおう。これは……ああ、見たまえ季時君、こりゃ羊羹だ。深奥の銘菓だよ」
「羊羹? ああ、じゃあ僕はここに残りますよ」季時と呼ばれた男はそう言って、コーヒーメーカーの方へと向かう。「お客さんもコーヒーでいいですか」
「どうかお気遣いなく」
「二人分も三人分も手間は変わらないから、三人分にしよう」独り言のように言って、季時はコーヒーをセットする。
「以前は知恵が世話になったようだね。何か迷惑をかけなかったかな」
「とんでもございません。知恵お嬢様のご成長ぶりにはいつも驚かされます。まだ九歳という若さで、立派に玉虫家を背負っておいでです」
「うん……それがちょっとね、問題なんだ。ああ、緑青君、羊羹開けてもらっていいかい? 私はね、こういうの苦手なんだ」
「では僭越ながら……」
 執事として生活するようになってから、緑青は長いものには巻かれるようにしていた。果たしてどちらが失礼にならないか、というようなことをよく考える。この場合は、一緒にこの場で羊羹を食べるのが失礼に当たらないだろうという判断だった。
「先生、この方は執事ですか」
「あ、よく分かったなあ。流石だ」
「ステレオタイプな恰好ですからね」残っていたらしい冷めたコーヒーを口にしながら季時は言う。「どうも、季時九夜です」
「はじめまして。私は朽葉乱麗様の専属執事を務めさせていただいております、紅々緑青と申します。よろしくお願い致します」
「映画みたいだ」季時は笑いながら言った。
 羊羹を箱の上に並べる。幸いにも、一口サイズにカットしてあるタイプだった。爪楊枝を三つ刺し、コーヒーが出来上がったところで、ようやく玉虫教授は話をはじめた。
「知恵は概ね良い娘なんだよ」
「一子さんの娘さんですからね」季時は一人立ったまま、壁に体重を掛けていた。「頭も良いし、センスもあります」
「うん。だけどね、ちょっと気負っている部分がある。玉虫家という家柄に拘りすぎているきらいがあるんだ。私が実家を蔑ろにしたせいもあるんだろうが、少々、履き違えている部分がある」
 季時も緑青もそれについては何も言わない。この二人の共通認識として、玉虫教授は絶対的な目上の存在だった。おいそれと意見して良い存在でも、同情して良い存在でもない。
「どうも山吹のところの大地君に誘われて、あまりよろしくないことを画策しているらしくてね。知恵から直接聞いたんだが……」
「山吹大地様……でございますか」
「なんでもね、エリート戦闘集団を作るだの、戦闘施設を作るだの……ということらしい。まあそれも一つの在り方かなとは思ったんだが、どうも考え方が幼いらしく、おかしな方向に問題が飛び火しているように見受けられる」
「詳しくお話願えますか」
「私は、いわゆるポケモンの『三値』というものを、一般に広めるべきではないと思っている側の人間だ。知りたい人間が手を伸ばせば簡単に知ることが出来る、その程度の場所に納めておくべきだ、と考える。それは、世界のレベルが上がることで、必ずしもポケモンを楽しいものだと思えない層が出てくるからだ」
「おっしゃる通りかと」
「しかしね、大地君や知恵は、それを自ら発信して、世間のレベルを上げようと考えているみたいなんだ。まあ、気持ちは分かる。大地君も知恵も、ポケモンバトルで戦って勝つことが楽しいんだろうね。自分が楽しいと思っていることを他人と共有しようと思うのは、人間として当然の感覚だ。しかし……誰でもそれを楽しめるわけじゃない。戦うことには、才能やセンスがいる。誰もが平等に勝てるわけじゃない。だったら、言い方は悪いが、低レベルな世界は残しておかなければならない。それが分かっているから、ポケモンリーグもポケモンジムも、そういう世界に合わせて強さを設定しているわけなんだよ」
「そう……だったのでございますね。私は、そこまで詳しくは存じ上げませんでした」
「そう言えば、緑青君がチャンピオンを倒したことは、風の噂で聞いたよ」
 乱麗が喋ったとは思えなかったので、恐らく、研究者や、さらに上の人間同士の会話で話題になったのだろう。箝口令が敷かれた意味を失うような話だった。
「それに、大地君もチャンピオンを倒したようだ」
「それは――初耳でございます」
「大地君はね、若い。間違っているとか、そういう話じゃないんだ。ただ若い。だから、危険なんだ。とは言え、私はもう老いぼれだからね、大地君を止めることは出来ない。彼のような野心家を止めるにはね、やはりその一番尖った鼻柱をへし折るしかないんだ。私の知る限り、この界隈で一番強いのは緑青君だし、縁もあるから、君に頼もうかなと思ってね」
「鼻柱……でございますか。しかしながら玉虫様、その、確かに戦闘集団を作ったりというのは危険なのかもしれません。玉虫様のおっしゃる、専門的知識を一般化させることへの危険性も、未熟ながら理解出来ているつもりです。ですが、わざわざ止めるほどのことも――というのが、私めの正直な感想でございます。放っておいても自滅するのでは、と。長きに渡って守られてきた平均が、一気に変化するとも……」
「ああ、彼は頭がいいんですね」羊羹をつまみあげて、季時が言う。「今の話は初耳ですが、僕も同じ感想を持ちました」
「そうだね、要点を説明していなかった。私の……というか、研究者の悪い癖だ。大事なことをいつも最後に発表したがる。その方が食いつきがいいもんだからな」
「要点とは……何でございましょう」
「緑青君の言う通り、普通ならね、放っておけばいいんだ。今までも、大地君がそういう目論見をしていたのは聞いていたんだ。それは実際、放っておいた。しかし、『白銀山』を潰して、戦闘施設――いや、狂戦士育成施設と言い換えようか。それを作ると言い出した。だからね、それは流石に見過ごせないというのが、私の考えなんだ」
「育成施設――『白銀山』でございますか」
「そう。世間の認知度は変わらなくても、土地というものは、確実に変化してしまうからね」

 3

 喫茶店の屋外席でノートパソコンを開いて優雅に仕事をしていたが、どうも色々なことに気が散ってしまい、乱麗はほとんど集中出来ていなかった。もう、アイスティーを三杯に、アイスコーヒーを二杯、それにケーキを二切れも注文していた。ストックされているはずの伝票には、喫茶店で使うべきではないような値段が書き込まれているはずだった。
 玉虫教授が緑青を呼んだ理由も気になるところだったし、それに加えて、『白銀山』の件についても、気になることは多かった。しかしどれも解決出来ず、ただただ無駄に時間だけが過ぎていった。
 一件の新着メールに気付き、ただ漠然とそれを開く。深奥地方、鐡市のジムリーダー、瓢太からだった。先日のお礼と、順調に進んでいる作業の報告だった。文章が実際に会った人物の口調そのままだったので、少しだけ気持ちが楽になる。掘削機や配線関係は得意でも、パソコンは苦手という印象があった。
 そのメールを読んで、ふと、思いついたことがあった。彼と話していたとき、『白銀山』は銀山であるという話になった。もしそれが事実なら、山吹家が手をつける前に、貴重な銀山であるという名目で朽葉家で保護してしまえば良いのではないか? ……そこまで考え、すぐに打ち消す。もしそれが可能になったとしても、大きく手を入れなければならないという点では、大地のしようとしていることと同じだ。『白銀山』をそのままにしておくためには、何らかの圧力をかけなければならない。普通の業者であればやりようがあったが、相手が山吹家となると、荷が重い。
「みーだーれーさんっ」
「? あら、知恵ちゃん」
 顔を上げる。通行中だった知恵が、乱麗に気付いて話しかけて来たようだった。乱麗はすぐに店員を呼び、アイスティーを追加注文する。
「久しぶりね知恵ちゃん。ねえ、座って。もし急用じゃなかったら、お茶でもどうかしら?」
「乱麗さん、お仕事中じゃないんですか?」
「ぼちぼちやっているところ。でも人がいた方が気が楽なの。知恵ちゃんは?」
「これから大地様のお宅へお邪魔しようかと思っていたところですけど、時間は決めていないので、お言葉に甘えますね」
「へえ……大地さん? 山吹のお屋敷にってことかしら」
「はい」
「何をしに?」
「最近、大地様とある計画を練っているのです。私はそのお役に立てるように、足繁く大地様の元へ通って、計画をどんどん大きくしているところなのです」
「へ、へえ……」嫌な予感しかしなかった。「それはちなみに、どんな計画なのかしら」
「ええと……どこまでお話していいんでしょう。『白銀山』に、大きな施設を作る、という計画なんですけれど」
「まあすごい」平坦な口調で言う。
「私がそこで戦う名物トレーナーの一人になるというお話なんです。有名になって、玉虫家を再興しよう、という……どうかしましたか?」
「いえ、なんでもないわ。とってもすごい、壮大な計画なのね、と思って」
「はい! 大地様のお考えには感銘を受けました。近々、乱麗さんや緑青さんのところにもお話があるかもしれません。大地様は、緑青さんの強さを欲しがっているようでしたから」
「あらそう……それじゃあ早めに話し合った方が良いかもしれないわね。来週には、私と緑青は海外へ行ってしまうの」
「海外ですか! 乱麗さんもお忙しいのですね」
「まあ、少しね。もし良かったら、今日、一緒に大地さんのところへ行ってもいいかしら。その計画に興味があるわ」
「ええ、もちろん!」
「じゃあ、少しだけ待ってね。今、メールの返信を書いてしまうから。お茶でも飲んで待っていて」
「はい。わあ、すごい、なんだか楽しくなってきましたね」
「ええ、とっても」
 なんとなく、相手の懐に入り込めば妙案が浮かぶのではないか、という漠然とした理由からの提案だった。少し自暴自棄になっているような気もしたが、実際計画を止めるつもりなら、発案人に話を通すのが、実は一番簡単なのかもしれないとも思った。

 4

 玉虫教授が呼び出されたあとの研究室に、二人の男が残されていた。季時という男と、緑青だ。季時は体中の筋肉が失われたような表情で、ぼんやりと書棚を眺めていた。
「季時様」
「ん? なにかな」
「先ほどのお話、どのようにお考えだったでしょうか」
「君にどら息子を止めろと言った部分か、それとも他のことか、どっちかな」
「主に、『三値』というものに対する見解についてですが」
「どうして僕に聞きたいわけ?」
「それは……このような言い方は失礼に当たるかもしれませんが……季時様の考察力は非常に興味深かったものですから。玉虫様との会話の中に見えた言葉も、何と申し上げますか、非常に独自な物が伺えました」
「ふうん。僕からすると、君の方が独自だけどね」季時はコーヒーを飲み干す。「あと、ひとつお願いがある。季時様、というのはやめて欲しいな。自分の立ち位置を見失いそうだ」
「失礼致しました。しかしながら、立場上、あまり簡易な敬称でお呼びすることに慣れておらず……どのような呼称をお望みでしょうか」
「うーん、じゃあ、季時先生でいいよ」
「先生、でございますか?」
「うん。ああ……そうか。こんな身なりをしていてややこしいかもしれないけどね、僕、高校教師なんだ」
「そうでございましたか。研究者の方かと……失礼致しました、季時先生」
「ああ、しっくりくるな」季時は少し機嫌が良さそうだった。「それで、なんだっけ。見解?」
「左様でございます」
「まあ概ね玉虫先生の考えと同じだよ。人間は平等じゃないからね。どら息子君がポケモンバトルのレベルを、世界レベルでワンランク上にしようとしているらしいけれど、それは健常者の意見だ。それに、ポケモンバトルが当然のように行われている世界での話だね。僕が勤めている高校がある地方は、ポケモン文化が結構遅れているんだけど、そういう世界に持ち込まれると非常にやりづらいだろうね」
「関東の北の地方でございますか」
「そうそう、よく知っているね」
「本日はお仕事でいらっしゃったのでしょうか?」
「いや、プライベートだよ。教え子……じゃないか。まあうちの学校の生徒が入院しているから、様子を見に来たんだ。玉虫先生にお世話になっている」
「ああ」緑青は理解する。玉虫教授が見る患者というものは、ほとんどが精神的疾患を抱えている。生徒というのも、その類なのだろう。「お手間を取らせてしまい申し訳ありません」
「報酬はちゃんともらったよ」季時は羊羹をひとつつまむ。既に、彼一人で七割ほど羊羹を平らげていた。「関東は全国の銘菓が買えていいね」
「同感でございます」
「ところでさ、君は玉虫先生とはどういう知り合いなわけ? ああいや……そうか、朽葉家の執事と言っていたっけ。なら、家柄か」
「そういう繋がりもございますが、最初のきっかけは……」
 主人の病気のことを口にするべきではないか、と思ったが、何故か緑青は、この季時という男ともう少し話がしたい欲求に駆られた。
「きっかけは?」
「私がお仕えしております朽葉乱麗様が『球体恐怖症』という病を抱えておりまして、その件で何度か」
「ああ、へえ、珍しいな」
 流石に知っていたようで、季時は素直に驚きの表情を見せた。
「そうか、なるほどね。『球体依存症』なんて名前だけれど、あれは実質モンスターボールに限った病気だからね。なら、君は余計に分かるだろう。ポケモンバトルが中心の世界になんてなったら、君のご主人様のような人は、蚊帳の外だ」
「はい」
「結局、中庸が一番なんだろうね。やりたい人だけ熱中すればいい。とは言え、先生はバトルフロンティアを作ることに対しては反対はしていないんだと思うよ。問題は、その根底にある思想と、場所だろうね」
「『白銀山』だから、ということでございますか」
「うん。あそこはね、霊山とも言われている。研究に値するポケモンがわんさか住み着いているわけだ。そんな場所を潰されるのは、研究者としてはたまらないんだろうし、一度行けば分かるけど、とても壊そうなんて思える土地じゃない」
「霊山……」
「野生のポケモンの成長の限界は大体決まっている。まあ、力の半分も出せるように成長すれば御の字だろう。だけど、時折そうした程度を越える野生のポケモンが存在する。関東だと、『白銀山』と『縹の洞窟』が顕著かな。まだまだ研究しきれていない部分が多いんだ。『白銀山』が封鎖されているのは、単純に、研究の手が行き届いていなくて、人間に荒らされたくないと思っているからなんだよ」
「そうだったのですか」
「とは言え、山吹家の御曹司が相手となると、ポケモンリーグや研究会の方でも強くは出られない、ということだろうね。色々な想いが交錯しているんだろう。君に白羽の矢が立ったのは、一番正攻法で解決出来そうだからじゃないかな。ああ、君のコーヒー、もらっていい?」
「あ、ええ……冷めておりますが」
「羊羹には割と冷めたコーヒーが合う」
 緑青の飲みかけのコーヒーを飲んで、季時は時計を見上げた。
「玉虫先生は多分向こうで捕まったな……僕はもう一度生徒に会ってから帰るよ。電車だと結構時間がかかるから、今から行動しないとね。じゃあ悪いけど、玉虫先生によろしく伝えておいてもらえるかな」
「かしこまりました。本日はお相手していただき、ありがとうございました」
「こちらこそ」肩を竦め、季時は言う。「ところで君、歳は?」
「十八歳でございます」
「あそう」季時は絶望したような表情を見せた。「若いなあ。下手すりゃ教え子だ」
「学歴とは縁がありませんので……」
「関東地方ならそれもいい」
 季時は親指を下あご、その他の指を上あごにして、手で作った口を開閉しながら、「さようなら」と言った。
 不思議な男だと、緑青は素直な感想を抱いた。

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「あれ、季時君は?」
「お帰りになられました」
「ああそうか……いや彼には悪いことをしたな。結構時間がかかってね。緑青君は、時間は?」
「お嬢様との待ち合わせが午後六時でございますので、五時頃にはお暇させていただこうかと」
「うん、分かった。まあなんだろうね、結局のところ、大地君は冷静な判断が出来ていないと思うわけだ。彼は色々と、上手く行きすぎているからな」椅子に座りながら、玉虫教授は一気に説明していく。「色んなところから反感を買う。多分、山吹は世間を知らんからな」
「山吹家の当主様のことでございますか?」
「うん。彼と私は歳が近いからね。『白銀山』が世のトレーナーたちにとってどういう場所なのかを分かっていないし、研究者たちにとっても重要な場所であることを知らないんだ」
「先ほど、季時先生から伺いました」
「ああ……そうか。私欲と思われそうで具体的には言わなかったが、『白銀山』の研究は玉虫大学の人間も多く行っているからね。あの環境を破壊するのはいけない」
「あれだけ野生のポケモンが育つ環境はないから、でございましょうか」
「その通り。まあ順当に行けば色々な問題が発生して、『白銀山』を潰すなんてことは出来ないはずだ。しかし万が一ということがある。山吹は色々と無茶をするからな……だからそういうときは、本人を直接叩くのが一番効率が良いのさ」
「その役目を私が……」
「頼みたいのは大地君を止めることだけだよ。面倒事は私が引き受ける。いや、私に頼まれたと言ってくれてもいい。ただ、その、なんだ……さっきも言ったが、私の知る限りでは、君が一番強い。君には、恐らく私も敵わないだろう。もしかしたら順当に渡り合えるのは、さっきここにいた季時君くらいかな……」
「季時先生は、お強いお方なのですか?」
「うん。彼は勝負度胸があるタイプだな。まあ育成の方も人並み外れているが……大地君と似ているのはやはり君だ。理論派というか、数値派だね。同じタイプの人間同士が戦った方が良い。その方が、心が折れる」
「私が負けてしまうという可能性もございますが」
「いやあ大丈夫さ。大地君と緑青君じゃあ、文字通りレベルが違う」
「大地様のポケモンは拝見したことがないので詳しくは分かりませんが……それに、負けても逆に助長するだけということも考えられます」
「君の本性を見せてあげればいいさ」玉虫教授は薄く笑いながら言った。「ほら、まだ小さな子どもだった頃、自分のことをこう言っていただろう、ほら……なんだったかな。私はね、あの言葉が気に入っているんだ」
「私が私を、でございますか」
「そう。まだ、執事の教育も行き届いていない、世を捨てたような目をしていた頃だよ。強さこそ全て、というような考え方をしていた頃だ」
「お恥ずかしい限りでございますが……そうですね、私は自分をこう思っておりました」
 頭を掻きながら、緑青は恥ずかしそうに、
「『廃人』でございますね」
 と言った。

戯村影木 ( 2013/08/25(日) 22:32 )