第五話『無能、朽葉乱麗』
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「それではお嬢様、お休みなさいませ」
「あ……うん。お休みなさい」
「来週には海外でございます。どうかご無理をなさらぬように」
「うん……」
「……お休みなさいませ」
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緑青に告白をしてからというもの、乱麗の生活は明らかに変化していた。
告白に対して、明確な答えが返ってきたわけではない。乱麗が止めたからだ。自分の今までの行いや接し方を考えると、あるいは結婚の話などを打診してきた過去を思うと、快い返事があるとは思えなかった。執事という立場上、好意の有無に関わらず、少なくとも一度は断らなければならないだろう。断られるくらいなら現状維持が良いと思っての判断だった。が、これではほとんど死刑宣告を待つ囚人と同等だ。緑青はまったく何事もなかったように接してくれているが、それだけに、自分のおかしさが目立った。
緑青は本当に、何事もなかったように、接してくれている。
乱麗の告白に対して、緑青は返事をしなかった。その代わりに、昔話をしてくれた。幼い頃、彼が炭鉱で働いていたことや、人には話せないようなあまりに過酷な生活をしていたこと。ポケモンバトルの実力は、生きるために必死で身につけたものだということ。そして――彼は、『白銀山』で産み落とされた命だということ。
あまりに壮絶な話に、乱麗はほとんど反応出来なかった。朽葉財閥という、考え得る限り最高の環境で生まれ、素晴らしい両親に恵まれ、何不自由なく育った乱麗にとっては、あまりにもかけ離れた世界での物語だった。
緑青の父親は未だ判明しておらず、母親にしてみても、十二歳の若さで彼を産んだポケモントレーナーだった――ということしか分かっていない。
そして、死んだ。
「誰かが埋葬したのでなければ、母親の死体は今も『白銀山』にあります。人の手が入らない場所ですから、骨くらいは残っているかもしれませんね。もっとも、それを今羅になって取りに行こうとか、ちゃんと埋葬してやろうと思っているわけではないんですよ」
と、緑青は言っていた。
昔話をするときの緑青は、普段と比べ、口調が優しかった。主人と執事という関係ではない、優しい上下関係だけがそこにあった。
「当主様はこのことをご存じです。その上で、私をここに置いてくれている。本当に素晴らしいお方です。私がトレーナーズカードを持ち、各地のジムへ挑戦出来るようになったのも、当主様が計らってくれたからです」
それから緑青は、最近のことについても、話してくれた。最初は仕事で役立つよう、ポケモントレーナーとして取れる資格くらいは取った方が朽葉家の役に立つだろう、という理由から、ジムに挑戦するようになったのだが……そうしているうちに、ジムバッジは各地のものが、全部集まっていたということ。
「もっとも、頭の片隅に、そういう欲求はあったのかもしれません。何分、最初にそのことを知ったのは小さな頃だったので、はっきりとは覚えていませんが……ポケモンリーグチャンピオンになれば、『白銀山』への入山許可が下りるとなれば、意識しない方が難しいでしょう。だから私は、以前の一週間の休暇で準備を整え、ポケモンリーグに挑戦したのです」
そして、勝利した。
しかし、人間性に問題があったり、出身に不明な点の多い人間は、チャンピオンにはなれない。チャンピオンには、チャンピオンになるべき資格が必要なのだ。歴代のチャンピオンを見てみても、それは一目瞭然だろう。
ポケモン学の権威である大木戸教授の孫である『グリーン』が当時最年少のチャンピオンとして君臨した。その後、元四天王であるドラゴン使いの弥が、数々の功績を上げ、チャンピオンとなった。他の地方を見ても――豊縁地方のチャンピオンは、デボンコーポレーションの社長令息である、石蕗大悟。現在は元ジムリーダーの三稜草となっている。深奥地方も、本業を考古学者としている白凪が担っていて、彼女は深奥地方では有名な七竈博士の教え子に当たる人物だ。どこを見ても、エリート集団で固められている。つまり、一般人では、どれだけ努力を重ねたところで、どれだけ強かったところで、チャンピオンには相応しくないと判断される。
「私も実力はあってもチャンピオンにはなれませんでした。まあ分かっていたことなんですけどね……これは、公言してはならないことになっています。だから、お嬢様もどうか、内密にしてくださいますか」
「うん……そうする」
「長いお休みをいただいたあとに、一日休みたいと言ったのは、『白銀山』へ行く手はずが整ったからなんです。流石にポケモンも私も疲れていましたから、許可をもらってすぐに、というわけには行かず……先延ばしになっていたのですがね。まあ、今となっては、急いで行くこともないかなとは思っています。私も同じように、お嬢様と離れていた時間は、どうにも孤独でしたから」
緑青はそう言っていたが、どこまでが本当なのか分からない。ずっと、乱麗のために生きてきたような男だ。悲しませないために、嘘くらいつくだろう。それは、優しい嘘だが、冷たい行為だった。
「もう、母が亡くなったのは、二十年近く前になりますから。今さらどうこうはありません。ただ、私にとって、『白銀山』は大切な場所なんです。帰るべき場所とまでは言いませんが、今自分が生きていることが幸せだと認識出来るような場所です」
「……ねえ、そのお母さんが誰だったのか、分からないの?」
「分かりません。断片的な情報だけですね。私がこうして生きていられるのは、まったくの奇跡なのですよ。当時もやはり、私のように、チャンピオンとはならずとも『白銀山』へ出入りするようになった実力者がいたようです。その青年が、私と、私を生んでもはや虫の息となっていた私の母を見つけました。『白銀山』という環境ですし、当時はCギアのようなものもありませんでしたから連絡することも出来ず……母親の頼みもあり、仕方なく私だけを拾い上げ、下山したそうです。しかし、これも、又聞きの又聞きなんですよ」
「直接話したことはないの?」
「ええ。私が昔世話になった炭鉱夫がいまして、彼がその青年と旧知の仲であったと言います。私を預けた青年は、いくつかの伝言を残したと言います。母親が死んだこと、彼女の名前は分からず終いだったこと、私は母のポケモンたちによって温められ、守られ、生かされていたということ――そのくらいですね。私の紅々緑青という名前も、その青年がつけたものだそうです。いわゆる、属性の三つ巴ですね。火、草、水の色を取ってつけた名前だとか。今から十年近く前までは――色の名前をつけるのが、流行っていたそうですから」
「じゃあ、本当に、何も分からないんだ」
「そうです。分からないから、分かりようがないから、知ろうとも思いません。どこまで考えたところで、想像の域を出ませんから。炭鉱夫も、鉱山が閉鎖されてからは会っていませんし、もうどこにいるかも分かりません。それに、彼を見つけたところで、命の恩人である青年を見つけ出せるとも思えません。母にも会えません。父親のことなど、考えたくもありません」
「……そうね」
「だから、お嬢様にはあまり深く考えないでいただきたいんです。私は朽葉家の使用人で、お嬢様の専属執事である。それだけで、十分に、幸せなんです。こうして生きていられることが、とても、幸せなんです。『白銀山』へいつでも行けるようになった現状ですが、すぐにでも行こうとは思いません。ただ、その環境があるというだけで、随分と気が楽なんです。やっと過去との通路が開けたんだな……とでも言うような。ですから、機会があればでいいんです。お嬢様は優しい方ですから、私をすぐにでも『白銀山』へと考えるかもしれませんが……どうか今まで通りにしてください。私は、危険に晒されるわけでもなく、飢えも渇きもしない日常をこそ愛しています」
そんな壮絶な話を聞いたあとでは、緑青のそのセリフも、大袈裟ではないことが分かった。多くを求めず、ただ生きていられることが幸せなのだという理想は、乱麗には一生かかっても理解出来ないものなのだろう。
「……はあ」
記憶から現在に戻り、乱麗は机の上に突っ伏した。
結婚だの、告白だのということをした自分の脳天気さを呪う。しかし、きっと緑青にとってみれば、気にしないでくれ、という程度なのだろう。それは乱麗の体質を、乱麗自身が気にして欲しくないのと同じなのかもしれない。だが、いざ自分がその立場になってみると、気にするなというのは無理だということがよく分かる。
「人間関係って難しい」
当たり前のことをぼやいてみる。
十七歳にして、ようやく知ったことだった。
自分がいかに甘えた立場にいたのか。
自分がいかに、大切にされていたのか。
2
「やあ知恵ちゃん、久しぶりだね」
「お久しぶりです大地様」
共通の目的を見つけて意気投合した山吹大地と玉虫知恵は、約一ヶ月ぶりに再開した。それまでは電話やメールで連絡を取り合っていたが、大地に呼び出される形で、ようやく顔を合わせての話し合いをすることになった。
場所は当然、山吹家だった。
山吹市と玉虫市は隣合っているので、行き来もし易い。
「ようやく色々と準備が整ってね。計画を実行に移せそうだ」
「お疲れ様でした。ちなみに準備と言うのは、どのようなことをしていらっしゃったんですか? びっくりさせたいからとメールでは仰っていたので、気になっていたのですが……」
「うん、それなんだけどね……どこから話そうか……そう、深奥から帰ってすぐに僕の理想を父上に話したら、あまり快い返事をもらえなかったんだ。利益が出ないというのが一番の理由で、次にやはり知名度がないということだった。それに――二十歳を過ぎたんだから、いつまでもポケモンなんかしているな、というようなことも遠回しに言われたかな。早く姉上のように独立して事業を展開しろともね」
「あわわ……そうですよね。やっぱり、ジムリーダーとか、チャンピオンくらいにならないと、知名度は上がりませんもんね……」
「その通り。やはりポケモン界で知名度をあげるなら、ジムリーダーかチャンピオンになるのが手っ取り早い。しかし、ジムリーダーになるには色々と踏まなければならない手続きや、超えなければならないハードルが多い。時間が掛かるというのは僕には少々億劫だったから、ポケモンリーグに挑戦してきたんだ」
「?」
「四天王とチャンピオンに挑戦してね、勝ってきた。いずれは超えなければならない壁だと思っていたから、この機にと思って攻略したよ。きちんと育成して、きちんと四天王やチャンピオンに合わせたポケモンを用意したから、突破は容易だった」
「? あの、か……勝っちゃったんですか」
「うん。勝てた」
大地は淡々と言う。
ポケモンを利用する人間たちにとって、最終目的に近いであろう行為を、易々と口にした。
「そ、それでは大地様は、ちゃ……チャンピオンに、なってしまったんですか?」
「そうそう、それなんだけどね……どうも、僕は今までよく知らなかったんだけど、チャンピオンっていうのは、エリートしかなれないみたいじゃないか。全員倒したあとに、色々と審査みたいなことをされたよ。それに見合わなかったがために、歴代のチャンピオンの中にも、不適合として除名されたものが何名かいたようだ。僕のように、山吹グループの跡継ぎを確約されている立場であれば問題なくチャンピオンになることが出来たんだろうけれど……しかしどうも、その程度の地位であればこちらから願い下げだと思ってね、辞退したよ」
「じ……辞退ですか。チャンピオンを、辞退……ですか」
「そう。その代わり、『白銀山』と『縹の洞窟』への出入り許可証をもらったよ。あとは雀の涙ばかりの賞金かな」
「ああ……『白銀山』というと、関東と上都を分かつようにして聳えているあの山のことですね」
「うん。最初はチャンピオンになることで知名度を高めて、集客をしようとしたんだけど……その許可証をもらって、身体に電撃が走ったようにね、はっと閃いたんだ。『白銀山』に娯楽施設を作ってはどうかってさ」
「娯楽施設?」
「知恵ちゃんは、バトルフロンティア、という施設を知っているかな」
知恵は小さく首を傾げた。関東地方以外にはほとんど出ない知恵であるので、外の文化には疎かった。
「関東では確かに知名度が低いよね。僕は豊縁地方を旅していた頃によく利用していたんだけど……ポケモンバトルを極めたような施設だよ。僕はバトルファクトリーという施設で勝利を重ねてエリートトレーナーとなったんだけど、日本のポケモン文化の主要地方――深奥、関東、上都、豊縁のうち、関東地方にだけ、バトルフロンティアがないんだ」
「確かに、聞いたことありませんね」
「だからこの際、それを山吹が作ってしまうことにした」大地はなんでもないように言う。「聞けば、チャンピオンになれなかった者の中には、バトルフロンティアで、フロンティアブレーンという役職についている者もいるらしいじゃないか。彼らは、いわゆる三値を理解した人種だ。僕はイベントや大会だと小さい世界ばかり見ていたけれど、それだと規模が小さすぎる。だから思い切ってバトルフロンティア関東支部を作って、そこで三値についてレクチャーすればいいんだって気付いたのさ。『白銀山』なら、他の地方からもそこそこ移動し易い。いや、いっそ地下にリニアの駅を作ってしまってもいいしな……と考えた。まあとにかくね、辞退したとは言えチャンピオンの称号を手にしたことで、父上も僕がどれだけ本気か分かってくれたようで、僕のわがままを許してくれたよ。どころか、今ではそこら中に自慢しているくらいだ」
「それはそうですよ。チャンピオンになれるなんて……普通、すごいことです」
「普通はね。しかしあくまでも『普通』のバトルでの頂点だ。僕の目指しているものは、もっと上の戦いなのさ。各地でも、バトルフロンティアの賑わい方は尋常じゃない。二十四時間、年中無休でバトルが行われているんだ。すぐにとは言えないだろうけれど、長い目で見れば、必ず利益が見込める。既に他地方のバトルフロンティアの収益についても資料をまとめたし、経営者とも会ってノウハウも学んだ。父上も説得したし、姉上の協力も仰げることになった。以前は三人チームを作るなんて話をしたけれど――悪いけれど、それはやめだ。代わりに、知恵ちゃんには、フロンティアブレーンの一人になってもらう」
「ふ、フロンティアブレーンですか?」
「そう。知恵ちゃんは可愛くて、若くて……そして何よりも強い。加えて、玉虫教授のご息女だというんだから、人気が出ないわけがない。アイドル的な売り方をしたっていい。そうすればたちまち人気になって、全国から利用者が集まる。熱い戦いを見れば、誰でも自分もあんなバトルがしたいと思う。そこで、今まで理解出来なかった強さの秘訣や、三値の優しいレッスンをするんだ。僕がよく利用したバトルファクトリーのように、予め育成されたポケモンをレンタル出来る施設をより使いやすく改良する。そうすれば、誰でも一流の戦いを味わえる。誰だって、もう一度自分のポケモンの育成を見直そうと思うはずさ。そこで、育成しやすい道具も販売する。もっとも、ここは他のフロンティアと同じように、BPの概念を導入するけれどね。それを導入すれば、利用者は施設を利用せざるを得なくなる。ふふ……怖いなあ。夢が広がりすぎて、少し怖くなる。非の打ち所がない」
「わ……なんだかすごい、壮大な計画ですね。でも、その建物を作るとなると、どのくらいの規模になるんですか? 聞く限りだと、一つの町くらいは……」
「うん。だから『白銀山』なんだよ。ジムやデパートや会社程度じゃ済まないから……まあ少なくとも、『白銀山』は全て潰さないといけないかな。まあ、あの山は今となっては過去の遺産だ。未来のために犠牲になるのは、致し方ないことだろうね」
「新しい時代が来るということですか?」
「そう。ああいう、強者が武者修行をするのに使うような場所は前時代的だ。もっと効率良く、どんな場所でもより強いポケモンが育成出来る。そんな世界こそが、現代のスタンダードなんだよ」
3
最近は夜話に付き合わされることがなくなったな、と、自室で本を読みながら、緑青は思う。
彼の時間の潰し方は、もっぱら読書か情報交換サイトを閲覧することだった。この時間が一番心が安まると言って良いだろう。自分の考えたパーティがどれだけ強いのかをシミュレートしてみたり、自分にとってもっとも悪い組み合わせを予想し、それに対抗しうる策があるのかを考える。あるいは、図鑑を開いて目に留まったポケモンを、どれだけ強く育成出来るか、そのポケモンがもっとも輝ける育成方法は何かを考える。計算式を書き上げ、何パターンもの組み合わせを想像する。理想値と、理論値と、現実を戦わせる。その結果得られるものは満足感だけなのだが、緑青にはそれで十分だった。
実際――そこまで計算したところで、自分と同じレベルでポケモンバトルの考察をしている人間はほとんどいない。育成には時間と手間がかかるし、何よりその母体となるポケモンを捕まえることも骨が折れる。普通の生活をしていたらまず無理だろう。だから机上の空論で終わることがほとんどだ。
昔に比べれば、それでも幸せだ。独自の理論で三値というものを――当時はそのような呼び方はしていなかったが――見つけ出し、それを研究して勝ち進んできた緑青にとって、こうしてネットを介してその情報を交換出来るのは、至福だった。知識と計算、そして閃きを利用して、理論上最強のポケモンを生み出す。その瞬間にこそ、少しだけ、自分が生まれたことを、肯定できる。
だが――どうにも、最近は興が乗らなかった。
原因は明白だ。乱麗の様子がおかしいからである。
もう、あれから二週間――いや、三週間は経過しただろう。『ミロカロス号』の客室で乱麗と話してから、彼女はぼーっとしている時間が多くなった。仕事は正確にこなしている。ミスもない。生活リズムも規則正しくなっている。だが、二人の会話は明らかに減った。
緑青としては――乱麗が本気で望むなら、自分の今まで積み上げた生活を壊す覚悟もあった。乱麗との結婚を本気で考えることになれば、朽葉家との繋がりは切ることになるだろう。当主には顔向け出来ない。その際に何を頼ることになるか。真っ先に思い浮かんだのは、非常に心苦しい限りだが、山吹大地のことだった。彼は鬱陶しい人間で、善悪の区別がつかない、良い意味でも悪い意味でも世間と感覚が合っていない。だから、「困っているから助けてくれ」と言えば、緑青のポケモンバトルの腕を買って迎え入れてくれるだろう。本当であればそんな未来考えるのも嫌だったのだが、今の緑青は、それを現実的な頭で考えてしまうほど、真剣だった。
幸い、蓄えもいくらかある。乱麗のしてきた生活とは比べものにならないほど低水準の生活にはなるだろうが、人間として生きて行くことは出来る。エリートトレーナーとして、どこかで働くことだって出来るだろう。少なくとも、緑青のポケモンバトルの実力だけは確かだ。それだけが、彼にある確かなものだからだ。
「……まあ、許可が下りるとは思えないか」
復習するように、既に理解しているはずの情報を読み込む。毒状態にならないタイプの項目や、火傷の副作用、麻痺による行動制限の低下率。それを数値化した文章だ。専門書の扱いである。ほとんど論文と言ってもいいだろう。著者は玉虫姓で、女性のようだった。まあ、珍しいことではない。ポケモン関係の専門書のうち、三割強は玉虫姓の人間が書いている。三冊手に取れば一冊は玉虫家の手がかかっている。
あの日深奥に行ってから、大地とも知恵とも顔を合わせていないことに気付いた。もともとそう多く顔を合わせる関係でもないが、深奥で会ったのだから、大地あたりはアプローチがあってもおかしくはないのではないかと思いつく。まあ、あったらあったで鬱陶しいのだろうが。
状態異常の章を読み終え、緑青は本を閉じた。眼鏡を外し、髪を崩す。鏡を見て、疲れていないことを確認した。常に微笑みを忘れてはならない。
明日の予定を確認し、頭にたたき込んでから、部屋の電気を消した。執事たるもの、常に先を予測して、備えなければならない。
乱麗との関係がどうなろうと、どのような結末を迎えようと、執事たるもの、その後の展開を予測しなければならないのだ。
4
翌日、緑青の淹れた紅茶で頭を覚ましながらメールをチェックしていた乱麗は、一通のメールに目を通し、紅茶を吹き出しそうになった。落ち着いて口の中の紅茶を飲み込んでから、再びメールを読み込む。
山吹大地から送られてきたメールだった。
そこには、荒唐無稽な計画が書かれていた。『白銀山』を潰して、バトルフロンティアを建設する、というもの。乱麗も、バトルフロンティアという施設の存在は知っていた。直接的な関わりはないが、それでも食事の席で何度か話題に上ったことがある。
「……な、何なのこれは……」
緑青はキッチンで仕事をしているはずだったので、これは独り言になった。しかし思わずそんな言葉が口をついてしまうくらい、呆気に取られた。あまりに非現実的な計画で、乱麗はしばし呆然とした。
しかし、メールの末尾に、恐らくは自慢のつもりで書いたのであろう「チャンピオンの称号を手にしたが辞退した」という文を見てすぐに、乱麗はそれが現実的に可能なのだということを理解した。『関東御三家』の権力は、ポケモンリーグを上回る。その上、そのうちの一つである山吹家の直系の長男がチャンピオンになり、それを辞退してまで『白銀山』を潰すというのなら――出来ないことはないのだろう。確かに、関東地方は総本山と言われ、ポケモンリーグ発祥の地としての知名度はあれど、娯楽施設の数では他地方に一歩も二歩も後れを取っている。有り体に言って、目立った観光地がないのだ。当時は何でも揃うという名目で有名だった玉虫デパートも老朽化して久しく、さらにネット通販の時代になり百貨店の存在価値は格段に薄れた。サファリゾーンも閉園し、今は移住者以外にはほとんど価値のないパルパークがあるだけだ。
伝統や元祖、関東伝説に胡座をかいた現在の関東地方は、移住者や挑戦者が減っているのも事実。関東ポケモンリーグが過去の栄光を取り戻すためにそれを許せば、『白銀山』にバトルフロンティアを作ることは――決して、不可能ではない。山吹家の財力ならばそれも可能だろう。最初は馬鹿馬鹿しいと思っていた乱麗だったが、徐々にその現実性に当てられて、気分が悪くなりはじめた。
何故なら、今の乱麗にとって、『白銀山』は侵入禁止の山というだけでなく、もっと大切な意味を持っていたからだ。それを全て潰して施設を作るというのは――見過ごせるはずのない事実だった。
しかし、だからと言って、なんと言って止めればいいのだろう。これだけ大規模な計画ともなれば、様々な業者とも提携していることだろう。無関係の乱麗の願いなど聞き入れられるはずもない。
「失礼致します、お嬢様」
「はいっ、どうぞっ」
メールソフトを画面から消し、背筋を伸ばした。自分の中で決着がつかないうちに緑青に聞かせることは無理だと判断した。
「……どうかなさいましたか?」
「ううん、全然、大丈夫」
「朝食のご用意が整いましたので、ダイニングへと……お嬢様、顔色が優れないようですが……」
「いいえ? ちょっと寝不足かしらね……大丈夫。今日は何?」
「オムレツを。パンはいつものように、朝五時に焼きたてのものを買って参りました」
「そう、ありがとう。すぐに行くわ。紅茶を淹れ直しておいて」
「かしこまりました」
緑青が部屋から出たのを確認して、もう一度、意味もなくメールを読み直した。きっと冗談ではないのだろう。この山吹大地という男は、自慢が好きなくせに、絵空事は自慢しない男だ。起こったこと、起こる確約のあることしか自慢しない。だから厄介だ。非の打ち所がない自慢しかしない。いや、そもそも自慢のつもりがないのだろう。
「ど……どうしよう」
頭を抱える。交渉の材料が一つもない。机の上のカレンダーに目を向けて、さらに絶望する。そうだ、来週から海外に飛ぶのだ、ということを思い出す。少なくとも一ヶ月以上は滞在する予定だ。このまま放っておけば、バトルフロンティア建設計画は、取り返しの付かないレベルまで発展してしまうのではないだろうか。
何故『白銀山』なのだ。他の土地ではいけないのか。いや、いけないのだろう。他地方のバトルフロンティア建設地を思い返してもそれくらいは分かる。要は大きな娯楽施設で人を集めて、その周囲まで盛り上げていこうという計画なのだから。もともと人の多い土地に建てても意味はない。その上で、アクセスのしやすさが重要になる。やはり非の打ち所がない。そうした観点で見れば、『白銀山』が入山禁止になっている理由である、『強すぎる野生ポケモン』さえどうにか出来ればいいのだから。
反論の余地がない。
計画を止める術がない。
「どうしよう……ううう……」
多忙を極めていた時期にも思ったことはなかったが、今回ばかりは、乱麗は「時間がない」ことを呪った。こんなことなら大地の無駄話に付き合っておくべきだっただろうか。いや、付き合ったところで、彼の計画は基本的には筋が通っている。軌道修正の余地はない。一度着工してしまえば覆すのは難しい。計画を白紙にするなら今しかない。しかし……果たして、どうやってそれを白紙にするのか。
「……お嬢様?」
「はいっ! 何? どうかした?」
「五分お待ちしてもいらっしゃらないので、何かあったのかと……ご気分が優れないようでしたら、仮眠をなさるのも宜しいかと存じますが」
「ううん、全然大丈夫。ちょっと目がね、疲れてたから。朝食にしましょうか。冷めちゃったかしら」
「ドミグラスソースは温め直しが効きますので、大きな問題はないかと」
「そう。じゃあ、食べましょう」乱麗は立ち上がる。「ちゃっちゃと仕事を片付けないといけないわ」
「……? はりきっていらっしゃるようですね、お嬢様」
「ええ、海外に飛ぶ前に、色々と、片付けておかないと。安心出来ないわ」
「心中お察し致します。やはり物理的な距離というものは、何かと不便でございますからね」
「ええ、その通りね」
適当に返し、乱麗は頷いた。それが現状、乱麗の取れるベストな対応だった。