第三話『愛娘、玉虫知恵』
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「パパ、起きてください」
「ん……」
「私は明日から深奥地方に行っていていませんから、ご飯とかは自分でなんとか用意してくださいね」
「ああ……一子さんは? つまり、知恵のお母さんで、私のお嫁さんのことだけど」
「四年前に亡くなりました」
「もう四年か。早いものだね」
「感傷に浸っていないで、仕事に行く準備をしてください。帰ってくるのは明後日になりますから、それまで何とか自力で生き延びてください」
「私はね、結婚するまで一人暮らしをしてきたんだ。だから大丈夫だよ」
「本当ですか? じゃあ、しばらく深奥に行っていても構いませんか? 具体的には一週間ほど」
「一度楽を覚えた人間は、過去の環境には適応出来ない。早く帰ってくるんだ」
「話していることが支離滅裂です」
「話すという行為はね、概ね支離滅裂だよ」
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山吹大地から逃げるように、朽葉乱麗と紅々緑青は早々にホテルをあとにした。午前七時前のことだった。もともと乱麗はショートスリーパーであり、緑青は主人よりも遅く寝て早く起きる必要があったので、さらに睡眠時間は短かった。乱麗は年齢相応の服に身を包んだ。仕事の面会に合わせて、また着替える予定ではある。が、仕事のない時間は、乱麗にとって、数少ない休暇であった。こうした服装が出来る時間は、限られている。
「移動は徒歩かしら」
「この時間ですとそうなります。あるいは海路か空路を、私のポケモンで移動するという手段もございますが」
「無知な主人を許して頂戴」
「いかがなさいましたか?」
「この前知ったのだけれど、空を飛んだり、海を渡ったりという作業には、相応の資格がいるみたいね。それも、結構難易度が高いらしいじゃない。それを知らずに、私は今まで緑青に無理を言っていたのではないかしら」
「とんでもございません。資格を必要としている人間が誰でも取得出来るよう、比較的難易度の低い試験のようなものが設定されておりますので。規定の開催日に合わせて、尚且つきちんと対策を練れば、子どもでも取得出来る資格でございます」
「でも、緑青の休暇日の不安定さを考えると、その試験日に合わせられるはずがないのよね。となると、なんだったかしら。道場破り? のようなことをしなければならないみたいね。何人ものジムトレーナーというのをなぎ倒して、本命を倒さなければならないのでしょう?」
「……お嬢様、どこでそのような知識を」
「緑青が休んでいる間、他の使用人に聞いたわ」
「ま、まあ確かにお嬢様の言う通り、そうした手段もございます。私も空を飛んだり、海を渡ったりするための資格は、仕事に有利になるかと思い、取得致しましたので」
「やっぱり強いのよね、緑青は」
「買いかぶりすぎでございます」
「思えば日本全国どこに行っても問題なくそれらの行為が可能なのよね。それってつまり、緑青は日本全国……いえ、海外ですらもその資格、あるいは免許を持っているってことよね?」
「詮索は美徳とは思えませんお嬢様」
「……まあいいわ。今日は歩いて行きましょう」
「かしこまりました」
まずは朝食を提供してくれる場所に向かう必要があった。二人が上陸した澪市は、深奥地方の最西端にある市だ。そこから、『218番道路』という国道を東に向けて通ると、山吹大地が言っていたイベントが行われる、寿市がある。深奥地方の首都と言って良いだろう。そこからさらに東へ進むと、今回乱麗が行くべき都市、鐡市がある。
「鐡市は炭鉱町として有名でありますので、上品な朝食は期待出来そうにありません。寿市でのイベントは正午過ぎからの開催であるようですし、まだ山吹大地様もホテルにいらっしゃる頃でしょう。寿市で朝食を済ませるのが賢明かと」
「じゃあそうしましょう」
前を歩く乱麗は、今は少女そのものだった。朽葉財閥という言葉はあまりに似合わない。同時に、仕事の鬼という表現も似合わない。なんだか、この世界において、妙に浮いている存在と言えた。妹のよう――と表現するのは主に対してあまりに無礼ではあるが、しかし緑青の感慨は、それに近かった。
昨晩眠る前に一通り調べは終わっていたため、緑青は寿市内にある店をいくつか頭の中にリストアップする。今日の乱麗の気分に合いそうなのは、イートインが可能なパン屋だろう。『寿屋』という老舗のパン屋らしく、老舗のくせにメロンパンが有名であるようだった。もっとも、一般的なものではなく、メロンの果肉の入ったパンであるようだったが。
「何かお好みの朝食はございますか」
「何でもいいわ」
この「何でもいい」を鵜呑みにすると機嫌を損ねる可能性がある。十年近い執事生活の中で、緑青は嫌というほど知っていた。
「有名なパン屋がございますので、そちらで朝食をと考えております。七時開店ですので、丁度良い頃合いでしょう」
「じゃあそうしましょう。近い?」
「寿市の澪市側にございますので、218番道路を抜ければすぐでございます」
「じゃあ、ちょっと早めに行きましょう」
「かしこまりました」
足早に寿市へ向かう乱麗の足取りは、やはり要人とは思えない。燕尾服にスーツケースをいくつも担いだ緑青がいなければ、ただの少女にしか見えないだろう。ポケモントレーナーですらない。そんな人間でも、鶴の一声でいくつかの土地のジムリーダーの首を刎ねられる権限を持っているのだから恐ろしい限りだ。
『ポケモンリーグ』という力関係を見れば、最下層にポケモントレーナーがおり、その上にエリートトレーナーが存在する。ジムリーダーはその一つだけ上の階層に位置する。さらに上に、ポケモンリーグという組織があって――『関東御三家』の面々は、それよりも絶対的な権力を持っている。それよりも上位となると、実質『チャンピオン』くらいなものなのだが――さておき。
「緑青、もう少し早く歩いても平気? お腹が空いてきたの」
「仰せの通りに」
地位があるだけで、権力があるだけで、それを行使する気などないのだろうというのが、緑青の見解だった。『関東御三家』の面々は、ほとんどの場合において、他人の活躍に興味がない。
2
「あら、美味しいわ」
「美味しゅうございますね」
『寿屋』のテーブルにつき、二人で朝食を堪能していた。多すぎるスーツケースは邪魔になるかとも思われたが、流石は老舗というか、観光客に慣れているのか、預かってもらうことが出来た。体型に反して大食らいの乱麗は、三人分はあろうかという量を購入していた。緑青は名物のメロンパンと、コーヒーだけを購入した。恐らく乱麗の食べきれなかった分を食べることになるからだ。こうした予想は大体当たる。最近では、それを見越して大量に注文しているのではと思うほどだった。
「仕事は何時からだったかしら」
「午前十時に鐡市の炭鉱事務所へ」手帳を開きながら、緑青は言う。「瓢太様と面会のご予定でございます」
「ジムリーダーの人よね?」
「流石はお嬢様。よくご存じで」
「澪市にあるジムのリーダーとご家族だと聞いたけれど」
「左様でございます。澪ジムのリーダー、冬瓜様のご子息でございますね」
「当然、緑青はお二人と戦って勝ったことがあるのでしょう?」
「――まあ、ええ」
「どうして言葉を濁すのかしら」
「決してそのようなことは」
「もっと自分の実力を誇示していいのよ。実際のところ、あなた、どれくらいの地位にいるわけ?」
「お嬢様にも言えないことがございます」
「あらそう。秘密主義者なのね」
「話を戻しますが――現在は瓢太様が鐡炭鉱を管理しているようです。瓢太様の希望で、他地方への運搬ルートを見直そうというお話のようです」
「みたいね。大雑把には調べたけれど、詳しく簡潔に説明してくれる?」
「それまでは深奥の業者が、鐡炭鉱で取れた鉱石類や化石などを運搬していたようですが、最近は関東地方への輸出入がほとんどになったようです。また、紅蓮島と鈍市への提供が格段に多いらしく、それならば関東側の業者に頼む方が都合が良いだろうと。それもあって、朽葉の輸送船へ一本化するとのことです」
「主な取引先は博物館と研究所ということね」
「左様でございます。もっとも、上の方でほとんど話し合いは済んでいるようでございますので、お嬢様は最終決定をするための視察が主なお仕事となります。鐡炭鉱へ入っていただいて、見学していただいたり、と」
「なるほど、大体分かったわ」
緑青は手帳を閉じて、再び朝食の続きを食べて行く。
今回の仕事は、ほとんど顔を売る目的だった。関東のみに留まらず、他地方との関わり合いを持つようになる乱麗を、様々な人物に紹介しようという腹づもりなのだろう。恐らくは乱麗の父親――つまり、朽葉家現当主の計らいだ。緑青にとっては、元雇い主。現在、緑青は乱麗に直接雇われているため、その辺の思惑は聞き及んでいない。実際、最後に会ったのがいつだったか思い出せないほど、疎遠になっている。使用人の存在というものは、縁が切れれば住む世界が違うものだと思い知らされる。
いつか乱麗とも疎遠になる日が来るのだろうか……と考えてはみたが、謙遜も過信もなしに、自分がいなければ乱麗は生きて行くことすら困難を極めるであろうことを、緑青はよく分かっていた。
3
「――あっ、乱麗さん」
「あら、知恵ちゃん、お久しぶり」
「これは知恵様。ご無沙汰致しております」
乱麗の前にあったパンが半分ほど消費されたところで、二人は知り合いとばったり遭遇することになった。玉虫知恵という、こちらも『関東御三家』の家系の者だった。まだ九歳という若さでありながら、世代としては四代目。乱麗の一世代上の人間ということになる。
「珍しいですね、乱麗さんが深奥にいらっしゃるなんて」
「私も同意見だわ」
「知恵様、どうぞこちらの席に」知恵の持っていたトレイをテーブルに置いて、そのテーブルを乱麗のものとくっつける。「今日はお一人でいらっしゃいますか?」
「どうもありがとうございます。私は、昨日から一人旅なんです」
「なんと……ご立派でございます」
「でしょう?」
「昨日の今日で、こういうのは偶然と言うのかしら」乱麗は大地のことを言っているのだろう。「それとも、必然かしら」
「私が推察するところによりますと、知恵様は本日ここ寿市で開かれるポケモンバトルのイベントに参加されるためにいらっしゃったものかと」
「わあ、流石緑青さん。その通りです」
「恐縮でございます」
「山吹主催のイベントというやつ?」
「はい。ポケモントレーナーとしては、一応、出ておこうかなと。玉虫家復興のために、色々と、手を焼いているんです。知名度を上げないといけないので、こういう大会には積極的に参加しようかなって」
「私としては、玉虫が一番知名度は高いと思うのだけれど。ねえ緑青」
「一般的な知名度という意味では、玉虫大学があり、そこに数名の玉虫家出身者がいることを考えれば、そうでございましょう。朽葉や山吹は、どうしても地名としての認識が強いようですから」
「でも、うちはみんなやる気がないので」
それもそうだな、と緑青は心の中で頷いた。
玉虫知恵の父親は、玉虫博士という研究者だ。玉虫大学で教授職についている。年齢はもう五十をとうに過ぎていて、結婚したのは四十過ぎ、娘は知恵一人である。玉虫家直系の長男だったため、知恵が生まれたことで家督云々で一悶着あったと聞くが、最近はそうしたもめ事の話を聞かないとこを見ると、決着はついたのだろう。知恵が玉虫家を復興させようとしているところを見ると、彼女が跡継ぎになるのかもしれない。
緑青の目から見ても、玉虫博士という男は家柄とか知名度とか、そういう小さなことに興味がなさそうだ。もっと、世界単位で、百年単位で、世界や未来を見通している。ポケモンバトルに並々ならぬ興味を持っている緑青としても、一目置いている人物だった。恐らく『関東御三家』の中では、乱麗の次に尊敬している人物だ。
そんな玉虫博士の一人娘である玉虫知恵も、緑青にとっては尊敬に値するであろう人物だった。九歳にして、玉虫大学に籍を置いている。学業面では天才と言って良かった。ポケモンバトルの腕も、一般人では歯が立たないだろう。
「知恵ちゃんも大変ね」
「いえ、不甲斐ないパパの汚名を返上するためにも、私が頑張らなければならないので」
「玉虫教授を不甲斐ないと言えるのは、きっと知恵ちゃんだけでしょうね」
「私めも同感でございます」
ポケモントレーナーに直接的な関わりがない研究をしているというだけで、分野によっては権威である。むしろ、一般人、それもポケモンバトルなどをせず、ポケモンを生物として認識している層にとっては、玉虫博士こそがポケモン博士という認識だろう。
「あの、それで……乱麗さんも、そのイベントに?」
「ううん。私たちはお仕事なの」
「あ、そうなんですか。お宿は?」
「今日はもう泊まらずに帰るのよね、緑青」
「はい。会食の予定はございません。もしあったとしても、連絡すれば『シーギャロップ号』をこちらへ向かわせられますので、本日中には関東へ戻れるかと。他にも片付けなければならない仕事がありますので、あまり長居は出来ませんね」
「ということみたい」
「はー……乱麗さん、お忙しそうですね」
「そんなことないわ。今は休んでいるもの」
「うちのパパに爪の垢を煎じて飲ませたいです」
「玉虫教授の爪の垢なら私が飲みたいくらいだけれど。知恵ちゃんのもでいいわ」
「何の役にも立ちませんよ」
「もう少しくらい、暗算力と記憶力が身につけば良いと思っているんだけどね。純粋な頭の良さなら、緑青の方が上だもの」
「そんなことはございません。お嬢様は問題なくお仕事を全うしておいでです」
「たまに緑青の部屋にある数式の書かれた紙って何を意味しているのかしら。あれ、私には全く理解出来ないの」
「お嬢様……」
「よく数式の横に書かれている『確一』って何のことかしら」
「お嬢様、そろそろ出発の準備を致しませんと」
「ああ、乱麗さん、『確一』というのはですね……」
「知恵様、本日はご健勝をお祈りしております。知恵様が参加されるのでしたら、優勝も不可能ではございません。どうか私めの代わりに優勝を」
「あ、え、はい……緑青さんも参加されれば宜しいのに」
「私めはお嬢様のボディガードという務めがございますので」
「まあ確かにそろそろ出なければならない時間ね。知恵ちゃん、まだ手をつけていないから、良かったらこれどうぞ」乱麗はパンを知恵に押しつける。彼女にとって、知恵は妹のような存在なのだろう。「ではまた関東で。今日は頑張ってね」
「はい……ありがとうございます」
「それと、これは私からの餞別でございます。どうか勝利の女神が知恵様に微笑みますよう」
緑青は金属のケースから、小さな緑色の木の実を一つ取り出して、テーブルの上に置いた。
「あれ、どうして……」
「どうして、とは?」
「ええ、昨日の深夜に、イベント関係の掲示板に、主催者が睡眠持ちだという情報がリークされていたので……緑青様もご覧になったのですか?」
「あ……いえ、偶然これを持っていたものですから。睡眠対策はどのような状況でも重要でございます。それに、関東地方では土地柄、木の実もなかなか手に入りませんからね。これはお気持ち程度に」
「それがラムの実というやつ?」
「あ、乱麗さんすごい、詳しいんですね」
「え? ああ……まあそうね。偶然知っていたの」
「……」
「何よ緑青」
「いえ、お嬢様もお詳しくなられたと感慨深く思っているだけでございます」
「早く出ましょう。間に合わなくなってしまうわ」
「……そうでございますね。それでは知恵様、これにて失礼致します。胞子にはどうかお気を付けくださいますよう……」
4
鐡市に到着して、二人はしばらく炭鉱を観察していた。まだ九時を少し過ぎたところだった。実は関東地方には、こうした無骨な土地がほとんどない。一番雰囲気が近いのは、鈍市近郊にあるお月見山か、朽葉市付近のディグダの穴だろう。もっとも、ディグダの穴は数年前にあった事故のおかげで、近代化されてしまっているが。
「緑青はどういう感想を持つかしら」
「炭鉱でございますか」
「ええ」
「懐かしい、というのが率直な感想でございます。まだ六歳か七歳の頃、私はこのような場所で危険な仕事をしておりましたから」
「緑青の過去って、あまり聞いたことがないのよね」
「貧困街の出身者というだけでございます。お嬢様が知る必要はない世界のことです」
「思えばもう、十年以上になるのかしら。緑青はあの頃からポケモンが強かったのでしょう?」
「もう忘れてしまいました」
「朽葉家の警備員たちを全員なぎ倒して物乞いに来たという伝説も記憶に新しいわ」
「過去の出来事でございます」
「あのとき門前払いにせずにあなたをボディガードとして雇ったお父様の判断は賢明だったと思うけれど」
「当主様には未だに感謝の念しかございません。荒くれ者の私を懐に置いてくださる心の広さ。素晴らしいお方でございます」
「ところでどうしてさっきから動揺しているの?」
「動揺? 私がでございますか?」
「まるで会いたくない人に会う前みたい」
「決してそんなことは……」
「あっ、もしかして朽葉さん? こんにちは! 鐡炭鉱の、瓢太です!」
並んで炭鉱の様子を見ている二人に、背後から声がかかる。ゆっくりと振り返った。手にヘルメットを持った、赤髪の青年がいた。「あら、メガネ男子だわ」と乱麗が小さな声で言う。当然、瓢太には届いていない。
「初めまして瓢太様。本日はどうぞよろしくお願い致します。朽葉グループの朽葉乱鈴と、私朽葉乱鈴の専属執事、紅々緑青と申します」
「よろしくお願い致します」
「いやあどうもどうも! でも、うーん、執事さん? なんだか見覚えがあるような気がするんだけど、気のせいかな?」
「気のせいでございましょう」
「以前にジムにお邪魔したことがあるみたいです」
「お嬢様……」
「あっ、やっぱりジムに挑戦しに来た人かあ。スーツだったし、話し方ももの凄く丁寧だったから記憶に残ってたよ。あのときは楽しいバトルだったね!」
「大変恐縮でございます」
緑青はほっと胸をなで下ろす。彼の場合、戦闘中はほとんど自分を演じている余裕がない。何か粗相をしていなかったと、先ほどから怯えていたが、杞憂だったようだ。
「うん、じゃあ早いけど、待たせるのも悪いから、仕事の話をしちゃおうか! 退屈なことは早めに終わらせたいしね。と言っても、ほとんど話はついてるから、いくつか確認してもらうだけなんだけどね。じゃあ、事務所までついてきてよ!」
ジムリーダーという名詞には、恐らく人の話を聞かないという意味が込められているのだろうと緑青は思う。まあ、積極性のある人間であれば仕事は早く片付きそうでもある。二人は一瞬顔を見合わせたあと、素直に瓢太のあとをついて事務所へ向かった。
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数点の確認を終えたあと、二人は作業着とヘルメットを渡され、鐡炭鉱の内部に向かった。奥へ向かう前に、ポケモンを寄せ付けないスプレーを散布される。シルバースプレーだ、とすぐに分かったのは緑青だけだった。大量に使用しているから、シルバーを利用しているのだろう。
「間近で見るとすごいですね」
「うん。深奥地方はまだまだ自然が多いから、これだけ掘り進めても、まだまだ分からないことだらけなんだ。地方によって出てくる鉱石にも違いがあるし、化石もいくつか発掘されるし。ただ、深奥地方には天願山という山もあるし、どうしても深奥の研究所はそっちに力を入れているからね。鐡炭鉱は、もういっそ関東と提携しようかなって」
「答えにくい質問でしたらすみません。深奥で何か問題があったとか、そういうわけではないのでしょうか」
「うーん、難しいところかな。もともと、いくつか関東に流していたわけだけど、やっぱり深奥は関東と土台を分けているから、快く思わない、頭の固い人たちもいるみたいなんだよね。深奥の文化は深奥で完結させたいって人もいるんだ。僕は、ポケモンや鉱石類の発展のためなら、そういう区分けって意味ないなーって思うんだけどね」
「私も同意見です」
二人の話し合いの間、緑青はひと言も口を利かなかった。乱麗の仕事中は常に影となり、その会話を記憶に留めるのが緑青に務めだ。そうしながらも、常に乱麗の安全に気を配っている。
「ところで、関東には白銀山っていう山があるけど、知ってるよね?」
「ええ……そう言えば、なんだか似ていますね。鐡と白銀」
「これに上都の黄金を合わせると勢揃いだね」瓢太は屈託なく笑う。「まあ、黄金市は山はないみたいだけど……白銀山って、未開拓なんだよね? どうしてか、知ってる? 名前の由来からして、昔から銀山として有名だったみたいだけど……最近は、手が入れられているっていう話を聞かないからなあ」
「あそこは……そうですね、非常に危険な土地として認識されているようです。限られた者しか行けない土地としてポケモンリーグで管理されているようで……瓢太さんはあまり、関東のポケモンリーグとは……?」
「そうだね。土地が変わるとポケモンリーグの母体も変わっちゃうから。あー、出来れば色んな地方と懇意になりたいんだよね。本当のこと言えば、僕、豊縁地方のジムリーダーがやりたいんだ。あそこのチャンピオンとは話が合うからなあ」
「ポケモンリーグに属していても、白銀山へは入山出来ないんですね」
「多分、怒られるだろうなあ。ちなみに、どのくらいのレベルになると、入山出来るのかな」
「どうなのでしょう……緑青、分かる?」
「私の聞いた限りでは、チャンピオンと同等のレベルにならない限り入山は不可能であるとのことです。あるいは、ポケモンセンター白銀山支店の従業員になるくらいでしょうか」
「なるほどねえ……そりゃ流石に僕じゃあ無理だ」
「ねえ緑青、白銀山から定期的に銀を掘り出して輸出することは可能かしら?」
「――法には触れないかと思いますが」落ちている道具や生息するポケモンの捕獲が許されているし、洞窟内の岩を移動させたり破壊するのも許可されている。違法ではないだろう。「しかし、白銀山へ出入りすることが難関でございますから、非現実的と言わざるを得ません」
「それもそうね」
「有限な物資だから、どうしても一つの場所を探し続けても限界が来るんだよね。最近は金銀の市場価格も上がっているし……まあ何より、未開拓の山を掘るっていうロマンがあるんだよなあ」
「素敵だと思います」
「しかし、そうか、入るのが簡単じゃなかったんだね。今まで、鐡炭鉱のことでいっぱいだったから、そういうところまで意識が向いてなかった。でもまあ、もし本格的に作業をするとなると、数十人はその資格を取って貰わないといけないから、無謀か。うん、この件は忘れよう!」瓢太は潔く言って、手を叩いた。「とにかくこれからばんばん石を掘って、朽葉さんのところに流すよ。よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
二人のやりとりを見ながら、緑青は考える。幼い頃、彼は鉱山で鉱石を掘る仕事をしていた。どの地方だったかは明確には覚えていないが、暗いトンネルの中でひたすら石を掘っていた。色のついた欠片や、特殊な鉱石が出ると高く買ってもらえた。あの頃の技術が自分にまだ残っていれば、洞窟の壁面を掘るのは、さほど困難ではないのだろうか、と思った。もっとも、それをしに行く時間などほとんどないのだが。
「今日はどこかに泊まって行くの?」
「いえ、本日中に帰る予定です」
「帰りは船?」
「はい。朽葉港から出ている連絡船で帰ろうかと」
「そっか。じゃあせめて夕飯でも食べて行ってよ。せっかく来てもらったんだし。深奥地方はやっぱり魚介類が美味しいと思うよ」
「ええ、それではお言葉に甘えて……緑青、行くわよ」
「かしこまりました」
幻想だ、と考えを打ち消した。確かに、輸出を主な仕事にする朽葉家で、産出から管理出来れば非常に大きな利益を生み出せるとも思えたが、それはどう考えても、執事が口を挟む領域ではないはずだった。あくまでも、緑青は執事としての職務を果たせばそれで良い。