第二話『恋敵、山吹大地』
0
「おやマチス様。ご無沙汰致しております。このような時間にお会いするとは」
「おう、緑青か。いやあ、最近遊び相手がいなくて暇でなあ。港の管理くらいしか気合い入れることがねーんだ」
「本業に力を入れてみてはどうでしょうか」
「ジムは後続を育てなきゃなんねーからなあ。あんまりジムに入り浸りじゃねー方がいいんだよ、俺みたいなやつは」
「なるほど。素晴らしい方針かと存じます」
「んで? 朽葉の嬢ちゃんはどうした?」
「お嬢様は既に船内で仮眠を。私めは二時間の船旅の間お嬢様により良い飲料を提供するための買い出しでございます」
「そうかそうか。ご苦労なこったなあ。ああ……ところで、ひょろ長い若者が総本山に殴り込んだって聞いたけど、あれ、お前だろ?」
「……さあ、何のことでございましょう」
「とぼけたって無駄だ。この世界は情報が早いんだぜ? 前にジムに来た時に強そうだとは思ってたが、まさかここまでとはな……」
「どうか、お嬢様にはご内密に」
1
『シーギャロップ号』での船旅は特筆することなく終わってしまった。そもそもにして、朽葉乱麗の立場からしてみれば、『シーギャロップ号』に乗る寸前からほとんど記憶がなかった。徹夜明けの身体は、「寝てもいい」という信号にまるで弱かった。家を出てからの記憶が曖昧で、『シーギャロップ号』から降りて、深奥地方は澪市にある『タタラ・イン』という、真新しく見えるホテルのロビーに座るところまで、ほとんど死んでいたと言っても良い。
「お嬢様、手続きが終わりましたので、こちらへ」
三人分はあると思われるスーツケースを軽々と持ち上げながら、紅々緑青は乱麗をエレベーターへ案内した。ホテルマンの案内は全て断る。乱麗は一応にして、要人としての立場もあった。初対面の人間には軽々と気を許してはならないという教育を受けていた。
「眠いわ、緑青」
「かしこまりました。お部屋につきましたらすぐに就寝の準備を」
「お風呂にも入りたいの」
「ではお嬢様のご入浴中に準備を致します」
「身体を洗って欲しいんだけれど」
「大変申し訳ございませんが、私はベッドメイクを致しておりますので、お嬢様のお手伝いは出来ません」
「そう。緑青が二人いればいいのにね」
「私もそう願います」
『タタラ・イン』は他地方からも移動がしやすい町の宿、という側面もあったため、宿泊客が多かった。職業柄、様々なホテルに訪れる機会が多かった緑青は、ロビーやエレベーターを観察しながら、『タタラ・イン』の評価を考えていた。少なくとも、機会があればまた利用しようというくらいには良いホテルだった。
物理的に無理のある体勢でエレベーターのドアを押さえ、乱麗を通す。記憶していた部屋番号を一瞬で探し出したあと、スムーズに乱麗を通した。半分眠りながら、緑青のあとをついていく。
「パソコン持って来た?」
「ご用意しております」
「メールを見ないと……」
「端末でもよろしいのではありませんか?」
「Cギアはお風呂の中で見ちゃうし、見てる間に寝ちゃうから……」
「返信の必要はございますか?」
「あるかもしれないわ」
「ではお嬢様のご入浴中に新着分をプリントアウト致します。睡眠前は紙媒体の方が目に優しゅうございますので」
「そうね、そうして頂戴」
部屋のドアを開け、乱麗を通し、緑青はゆっくりと荷物を部屋に置いた。たった一日滞在するだけなのだが、服の種類は三日分あった。全てを着るわけではないが、その日の気分で着たいものが変わるため、ベストなものを選ぶためにはこれだけの量が必要だった。もっとも、緑青としても、主には常に美しくいて欲しいという願いがある。そのためなら、この程度の運搬は苦ではなかった。
「それでは早速準備に取りかかります」
「準備」
「お湯を張る必要がございます」
「そうね」
どうやら我が主は頭が回っていないようだ、と判断し、極力無駄な会話は避ける方向へシフトする。上着を脱いで、シャツの袖を捲り、バスルームを乱麗に合わせて整えて行く。ユニットバスではなく、バスルームはバスルームで完結していた。脱衣場は別に設けてあり、バスローブが二着吊してあった。脱衣場とバスルームの間には、ガラス製の透明なドアがある。間違っても脱衣場では待機出来ないなと考えた。
準備を済ませて部屋に戻ると、乱麗はクマのぬいぐるみのように、両足を投げ出してベッドに座っていた。朽葉財閥の令嬢という立場ではあるが、それは肩書きの上での話である。身体そのものは、十七歳の少女。しかも、乱麗は発育が悪い方だ。見た目だけでは、十五歳以下に見られても不思議はない。
「お嬢様、ご入浴の準備が整いました」
「ありがとう……」
「上着をお預かり致します」
全裸の一歩手前まで、乱麗の衣服を剥いでいく。もう彼女との付き合いも十年目になろうかというところなので、裸体を見たことも一度や二度ではない。が、いくら慣れていても、気をつけなければならないところはあった。緑青にも、執事としての美学がある。
「んー……」
乱麗を立たせ、脱衣場まで連れて行き、持参したシャンプーボトルなどの説明をしたあと、バスローブを着て出てくるようにと念を押した。あえて脱衣場のドアは閉めきらず、音が通るようにしておく。きちんとシャワーを浴びているらしい水音を確認して、緑青はベッドメイク(と言うより、ベッドメイク崩し、と言うべきか。乱麗がすぐに飛び込めるよう、最適な環境に作り替えた)をして、乱麗の旅行用のノートパソコンを持って部屋を出た。脱衣場から出てすぐの場所に、乱麗のCギアを置いておいた。専用のアイコンをホーム画面に配置してあるため、ワンタップで緑青にコール出来るようになっている。
無駄のない動きに燕尾服を着せると、まるで彼こそがホテルマンのようだった。緑青は一階フロアの談話室に向かう。立って利用出来る高さに一体型のパソコンが何台か設置してあり、無料で利用出来るプリンタも設置してあった。幸いにも利用者はいなかったため、緑青はすぐに無線接続の設定を済ませ、移動中の二時間の間にあった八件の新着メールをプリントアウトした。読みやすい最適なサイズを選択する。
「やあ」
四枚目のプリントアウトが終わったところで、緑青は近くでそんな言葉を認識した。談話室であるので、コーヒーを飲みながら会話をしている者もいれば、裕福層という身なりをした子どもが甲高い声で話している姿もあった。自分に話しかけて来たとは思えないし、もしそうだったとしても、彼をホテルマンと勘違いしたのだろうと思った。
振り返ると、
そこにいたのはあまり会いたくない人物だった。
「……これはこれは、山吹大地様」
『関東御三家』のうちの一つ、山吹家の跡取り息子、山吹大地だった。実質、御三家の中でもっとも強い権力を持っているという噂だった。山吹地方が関東の首都として認識されている部分もあるし、リニア開通の理由も、山吹家の働きが関与しているという説があるくらいだった。
「いやあーっ、奇遇だねえ朽葉家の執事君」大地は常に緑青を『朽葉家の執事君』と呼ぶ。「ん? 乱麗ちゃんは?」
「お嬢様はお部屋でお休みになっております」
「へえー、まだこんな時間なのに? ディナーは?」
「お嬢様は二十一時以降はお食事をしないようにしていらっしゃいますので」
「あっそう。じゃあ今度彼女をパーティに誘う時には気をつけないとなあ」
緑青は大地のことをあまり快く思っていない。というのも、彼はいわゆる七光りというやつだったからだ。乱麗のように事業に手を出しているわけではなく、二十歳になるのに仕事らしい仕事をしていない。もっとも、エリートトレーナーとしての称号を取得しているらしいので、ポケモントレーナーとしてはそれなりの実力者ではあるようなのだが、つい先日『四天王』と『チャンピオン』を倒してしまった緑青には、評価対象にはならなかった。何より気に入らないのは、大地は、家柄どうこうではなく、政略性の欠片もなく、乱麗に好意を寄せているからだった。乱麗も大地を好いていれば、あるいは何の問題もないのだが、乱麗は明らかに大地を苦手としているため、始末が悪い。主の望まぬ人間関係を排除したいと思うのは、執事の本能だろう。しかし、『山吹』の一族を相手にするのは分が悪い。だから緑青も、乱麗も、大地のちょっかいには耐え続けなければならない。
排出の終わった紙を八枚まとめ、「それでは山吹大地様、私めはこれにて」と足早にその場を去ろうとした緑青だったが、肩に手を置かれ、進行を妨げられる。
「……何か?」
「まあ寝ている乱麗ちゃんを起こすつもりはないからさ、ここで君と話すくらいなら良いだろう? 乱麗ちゃんは寝ているんなら、急いで戻る必要もないだろうし」
「……左様でございますね」失敗した、と思う。もっとも、口が裂けてもこの男に『入浴中』ということは言いたくなかったが。「どのようなお話でしょう」
「立ち話もなんだから、コーヒーでも飲まないかい? ごちそうするよ」
「いえ、お嬢様に叱られてしまいますので」
「いいんだいいんだ。ここは僕のホテルだから。僕がお金を払うわけじゃないからさ。ああ、悪いけど、そこのテーブルにコーヒーを二杯」
一瞬、緑青は動きを止める。
今、彼はなんと言ったのか。『僕のホテルだから』と。聞き間違いでなければ、そう言ったはずだ。まさか深奥地方に進出しているはずがない、と思ったが、思い違いだろうか。あるいは、言葉の綾なのか。
「座りなよ、朽葉家の執事君」
「ですが……」
「いいんだいいんだ。コーヒーの一杯なんて、大した値段でもないしね。断られた方が気まずいんだ」
渋々と、緑青は席についた。座り心地の良い、一人掛けのソファだった。「少々失礼を」と言って、緑青は自分のCギアを操作する。乱麗に向けて、『山吹大地様と面会しております』という文章を送った。最初の四文字だけで、危険性は十分に伝わったことだろう。
素早く運ばれてきたコーヒーを前にして、大地は目を閉じ、深呼吸をするようにして、コーヒーの芳香を楽しんでいるようだった。そのいちいちわざとらしい仕草が、なんとなく鼻につく。
「今回は仕事かい?」
「はい」詳しいことは口にしない。
「そうか。まあ、僕も仕事みたいなものなんだけれどね」
「深奥地方でのお仕事ですか」
「うん。まあ深奥地方に山吹の名前をもっと知ってもらおうっていうキャンペーンさ。さっきも言ったけど、ここは僕のホテルなんだよ。姉上がいくつか新しい宿泊施設を建てたんだけど、管理が大変らしくてね。その管理人に、十代の頃に深奥地方で一人旅をしていた僕が、抜擢されたってわけさ」
「左様でございましたか……」
完全に緑青の調査不足だった。自分を呪う他ない。まさかここが山吹グループのホテルだったとは。早計だった。
「それにここは、昔よく訪れた場所でね。ジムバッジを取る際にも、澪市には何度か訪れた。一ヶ月くらい、図書館で勉強したこともあったかな。良い町だよ、ここは。ここから、いくつかの島に行けるのは当然知っているだろう?」
「存じ上げております」
「以前、特別に計らってもらってね、僕もそこへ行ったことがあるんだよ。確か……新月島、とか言ったかな。珍しいポケモンも入手出来てねえ。色々、縁が深いんだ」
世界規模で見て、『ポケモン』に関する研究や育成が盛んであるのは、恐らく日本だろう。その日本の中で、果たして『ポケモン』に関してもっとも力のある場所がどこかと言えば、関東地方ということになる。その関東地方の首都が『山吹』であれば、山吹姓の人間が、全国でどのような扱いを受けていても不思議でないのは明らかだろう。彼が七光りとして、多くの人間から疎まれているのは、そうしたところにある。
もちろん、彼自身、絶対的な評価としては、決して嫌味たらしい人間というわけではない。それは緑青も、乱麗も分かっている。が、生まれついて、鼻につく人間なのだ。嫌味がなくても、素直に鬱陶しい。悪意がない分、接しづらい。それが山吹大地という男だ。
「では、しばらく深奥地方に住まわれるということでしょうか」
「いやあ、ここに来たのは本当に偶然だよ。もし乱麗ちゃんが来るって知っていたら、招待している。管理はしているけど、そう頻繁に来ているわけでもないんだ」
それは恐らく事実なのだろう。そもそも、『タタラ・イン』に宿泊しようと決めたのはたったの数時間前だ。『シーギャロップ号』ですら二時間かかるのだから、それ以外の手段で深奥地方に来るのはほとんど不可能に近い。それこそ、どこぞの港管理者のように、ジェット機でも飛ばす他ないだろう。
「今回深奥に来たのは……ちょっとしたイベントがあってね。今日、おかげさまでホテルが満室になったのも、そのイベントがあるからなんだよ」
「なるほど。そういうわけでしたか」
「ポケモンバトルのイベントなんだ」
少しだけ、興味を持った。緑青の本能が疼いた、とでも言うべきかもしれない。もちろん、今は執事としてこの場に来ているし、彼は自分の人生を朽葉家に捧げることを決めている。そんな話題に興味を持つべきではないのだが。
「ほら、僕や乱麗ちゃんの家は『関東御三家』なんて言われているけど、仕事ばっかりで、ポケモンバトルに熱を入れている連中って少ないんだよね。若い世代でポケモンをちゃんと扱えてるのって、僕か、玉虫のところの知恵ちゃんくらいだろう」
「左様でございますね」
「やっぱりそうなると、若い世代の、特にポケモントレーナーとか、一人旅している人たちにとって、僕らの知名度って低いわけだよ。ああ、コーヒー、飲んでくれよ」「いただきます」
「そういう若い世代にも名前を売っていかないとね。ただの地名と思われている節がある。もはや、山吹と言うと、リニアか棗さんの印象が強いからなあ。あとはシルフカンパニーかな? まあ、今となっては山吹グループの傘下ではあるんだけどね」
「左様でございますね」
おざなりな返答になってしまうのは、大地の会話が単調だからというところも原因の一つではあった。リニア鉄道は上都地方側の企業の所有物であったはずだが、これもいつ山吹家に吸収されるか分からない。運搬を専門とする朽葉家としては、是非手に入れておきたい事業の一つではあるのだが。
「そうそう、賞金も出るんだ。良かったら、朽葉家の執事君も出てみたらどうだい? 君、確かポケモン強かっただろう」
「滅相もございません」
「いつだったか、乱麗ちゃんに聞いたよ。ポケモンの腕を買ってボディガードにしたらしいって」
「素人に毛が生えた程度でございますので、そのようなイベントに参加するような実力はとても……」
「そうかい? まあ、明日はどちらにせよ仕事か。イベントは寿でやるんだけど、君らは?」
「いくつかの土地を転々とする予定がございますので、明確には。もっとも、寿には立ち寄らない予定でございますが」と、緑青はあえて言葉を濁した。「もちろん、山吹大地様もご出場なされるのですよね。ご健勝をお祈り致します」
「まあ順当に行けば僕が勝つんじゃないかな……と言えるくらい、最近は自信がついてきた、ということなんだけどね」
今すぐこの場でこの男を力でねじ伏せてやりたい、というような気持ちになった。もちろん、大地の言い分は間違ってはいない。以前彼が直々に自慢してくれたことによれば、彼がエリートトレーナーとなったのは、バトルファクトリーという施設を突破したことに由来している。七光りではあるが、ポケモンの地位に関しては、彼は確かに実力主義者だ。金の力で図鑑を完成させたり、コンテスト入賞を狙ったりはしない。あくまでもマイペースで、レベルを高めている。そういうところがまた鼻につくのだが、それが流石に見当違いだということは、緑青にも分かっている。これは単なる、性格の不一致だろう。
「まあ、朽葉家の執事君は、時折はっとするようなことを言うからなあ。僕もね、君はもしかしたら、とんでもなくポケモンに詳しいんじゃないかと思っているんだよ」
「いえまさか……」
「二百一」
「ひゃ――」何かを言いかけて、緑青は口を閉ざす。「……何の数字でございましょう」
「何か言いかけなかったかい?」
「いえ。私のような人間には、ポケモンの専門的な数値の知識はほとんど備わっておりませんので」
「ポケモンの数値というところまでは分かるわけだ」
「想像の域でございます」
「まあ確かに現環境ではほとんど意味を成さない数値になったのは確かかもしれないな。素早さが全てという時代は終わりつつあるのかもしれないし」
「お話についていけなくて大変申し訳ございません」
「いやそんなことはないよ。僕はなんとなく、君は話が通じている気がするんだよなあ。普通、自分の知らない数値が会話に出て来たら、気になるものだろう」
「私からご質問などとてもとても」
「キノコ」
「ガ――」また何かを言いかけて、緑青は口を噤んだ。「何かの略称でございましょうか」
「いや、分からないならいいんだ。僕が明日使う予定のポケモンの別称だよ。ああ、うちにも君みたいな執事が一人いたら、さぞ対戦が捗っただろうにね」
「滅相もございません。私はお嬢様のお役に立つことに精一杯でございますので」
「まあ、今回は深奥地方ってことで誘わなかったんだけどね。今度関東で同じようなイベントがあれば誘うよ。最近はガチでバトルをしようという連中が少ないからね。もっと本気でやっている輩と戦いたいんだよ、僕はさー」
「私もそのような環境が整うことを切に願っております」
3
「大変申し訳ございません」
部屋に戻り、緑青はすぐに頭を下げた。謝罪の理由はいくつかあったが、主な理由は、ここが山吹グループのホテルであることを知らなかったことについてだった。
「別に構わないわ。メールを頂戴」
「こちらでございます」
「まあ、そんな偶然もあるでしょう。いいんじゃない、そもそも私たちの事務所も山吹にあるんだから」
「お目覚めのご様子ですが」
「そうね、湯船で五分くらい寝ていたら目が覚めたわ」
「危険でございます」
「今度からは気をつけるわ」
「何かルームサービスをお取り致しましょうか?」
「そうね、ケーキとかが欲しいわ。あと美味しい紅茶を淹れて頂戴。茶葉は?」
「全てご用意致しております」
「ウバが良いわ」
「かしこまりました」
ルームサービスを注文したあと、部屋に設置されていたケトルで熱湯を用意し、紅茶を淹れる。茶器の準備は部屋に全て整えてあった。茶葉もいくつかあったが、それは持参したものを使用する。
沸騰した頃にルームサービスがやってきて、別の種類のケーキが六個、一つの皿に丁寧に盛りつけてあった。ソファに寝転がりプリントアウトしたメールに目を通している乱麗の近くにテーブルを移動させ、その上にケーキと紅茶を展開した。
「ご用意が出来ました」
「ありがとう。いくつか返信するからパソコンも隣に置いて」
「私が代打ち致しましょうか?」
「ううん。緑青は休んでていいわ」
休んでいい、と言われ、緑青はようやく椅子に腰掛けた。もっとも、それも乱麗の世話をするためにである。彼女のすぐ横に腰掛け、ケーキを一つ食べ終えたら、さりげなく皿を回し、紅茶もすぐに追加する。もっとも、上着を脱いでその仕事が出来るだけ、緑青にとっては「休んでいる」環境だった。
「大地さんとはどんなお話をしたの?」
「明日、寿市にてポケモンバトルのイベントがあるようです。私どもは鐡市が主な目的地でありますので、ニアミスの危険性がございます」
「まあもし会ったとしても適当にあしらえばいいわね」
「かしこまりました」
「それより、ポケモンバトルのイベントなら、緑青も出れば? どうせ仕事の間は私一人で十分なんだし」
「お嬢様まで……」
「強いんでしょう? 緑青」
「朽葉家に仕える人間と致しましては、ポケモンバトルにおいても常に優秀な成績を、とは考えておりますが、大舞台で成果を上げるのは執事のすることではございません」
「たまにあなたの蔵書を見るけれど、ポケモンバトルに関するものばかりよね」
「お嬢様、執事にもプライバシーがございます」
「いいじゃない、減るどころか、増えていくものなんだし」
「確かにお嬢様のご好意で私めの蔵書も増えていく一方ではございますが……」
「いいのよ? 今回の仕事だって、日中は暇なんだから、出かけてきても。本当、いつプライベートをこなしてるのかって思うくらいだものね。ポケモンの育成とやらもしているんでしょう」
「確かに育成はしておりますが、これからお嬢様はお忙しくなられるわけですから、私もそれに追従しようと」
「何かの資格か称号でも取ればいいじゃない。私と釣り合うようになるわ」
「いくら釣り合いが取れても超えられない一線というものもございますので」
「ああそう。緑青は私が大地さんと結婚して山吹姓になることを望んでいるわけね」
「決してそのようなことは……」
結婚を考えるには早すぎると思うのだが、最近の乱麗はよくこうした話題を口にする。十代特有の悩みなのだろうか。あるいはもう、自分の環境を完成させたいという欲求があるのかもしれない。お見合いの話もいくつかあるようだし、そうした煩わしさから距離を置くための防衛策なのだろうか。
もちろん緑青としても乱麗のことを快く思っていないわけではないが、恋愛対象として見るのが難しいというところもあった。命の恩人とか、自分を真人間に戻してくれた聖人というような位置付けであって、一人間として接するには色々と無理があった。
メールの返信を打ち込みはじめた乱麗は、ケーキを二切れ残して仕事モードに切り替わった。緑青はその残りのケーキを自分の腹に詰めていく。自分の立ち位置はこのくらいである方が気が楽だ、という気持ちがあった。
4
「……何見てるわけ?」
「起きていらっしゃったのですか」
乱麗が眠りについてから三十分が経っていたはずだった。緑青はソファの上でCギアを操作していた。乱麗はバスローブを着ていて、緑青はまだスーツに身を包んでいた。
「またすぐ寝るけれど。ちょっと目が覚めただけ」
「明日が辛くなります」
「ねえ、何を見ていたの?」
「情報サイトでございます」
「何の?」
「ポケモン関係でございますね」
「そう。研究熱心なのね」
「他に趣味がないのでしょう。暇さえあればこうしたことを調べております。昔に比べて逐一情報を収集出来ますので、対策が立てやすくなった反面、セオリーが失われつつありますね。最大公約数的なポケモンはやはり存在しますが……」緑青はCギアの画面をオフにした。「申し訳ございません、退屈なお話を」
「私はポケモンが出来ないから、楽しいわ」乱麗はのんびりとした口調で言った。「私、生まれついての無能でしょう」
「ご自身をそのように卑下するのは感心致しません」
「まあ仕方ないわよ。『先端恐怖症』とかなら分かるけど、『球体恐怖症』なんてものがあるとは知らなかったし。それを知った頃には、もうポケモンには興味がなくなっていたから、別にいいんだけどね」
「お嬢様が関与出来ないポケモンだけしか趣味のないという自分に、時折憤りを感じております」
「別にいいのよ。緑青は緑青なりに人生を楽しんでもらいたいから。私の代わりに、私の分までポケモンを楽しんでいると思ってくれればそれでいいわ」
「お嬢様がそのように思っていてくださるのでしたら――」
「それで、今は何を調べていたの?」
「明日の寿市で行われるイベントのルールや使用可能ポケモンについてです。やはり山吹グループ主催ということもあり、厳格なルールが定められております。しかし、一般トレーナーも参加するであろう大会の要項に、三値がどうの調整がどうのという記載はいかがなものかと……」
「何、三値って」
「お嬢様は恐らく生涯縁のない言葉かと思われます」
「ふうん。緑青は知っているわけ?」
「大変なじみ深い言葉でございますね」
「説明して?」
「そろそろお休みになるお時間でございます」緑青はソファから立ち上がり、乱麗に布団をかけ直した。「どうかごゆっくりとお休みください」
「緑青もちゃんとベッドで寝るのよ」
「これから少し汗を流して、それから眠ろうと思います」
「そう。じゃあ、先に寝ているわ」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
「ええ、お休み」
緑青がバスルームに向かったあと、乱麗はソファの上にあったCギアの画面をオンにした。緑青に依存しつつある乱麗は、どうしても彼の私生活や素顔が気になってしまう。
画面には、直前まで緑青が見ていたサイトが映し出される。掲示板のようだった。テキスト入力フォームに、『主催対策にラム推奨』とまで入力されていたが、何のことか分からなかったため、乱麗はそのまま画面を消して、眠りについた。