第一話『執事、紅々緑青』
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「お嬢様、それではこれから一週間、私めはお嬢様の元を離れますが――本家からの使用人が入れ替わりでお嬢様のお世話を致しますので、どうか一週間、ご無事でお過ごしくださいませ」
「うん、うん、分かった」
「休暇中とは言え、それでも常に連絡は取れる状態に致しますので、何かありましたらご遠慮なくお申し付けください」
「分かった。で、緑青はどこに行くの?」
「休暇中の予定でございますか」
「そう。誰かと、どこかに行ったりするわけ?」
「いえ、ただちょっと、資格のようなものを取りに行こうか、と考えております」
「そう。仕事に役立つものなら結構だけれど」
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誰もが望まれて生まれてくるわけではない。また、誰もが喜ばれて生まれてくるというわけでもない。忌み嫌われて、面倒がられて、絶望されながら生まれてくる命だってある。当然ながら、ごくごく少数と言っていいだろう。そもそもにして、生み落したくない命は、育つ前に、形成される前に、潰されてしまうこともあるのだから。潰されることなく生まれてくる命は、大半、望まれている。だから本来であれば、望まれずに生まれてくる命などというものは、あり得ない。あり得てはならない。生むか、生まないか、の二択。生まない、という選択肢がかなり一般的になって久しい現代である。医療技術に限らず、そうした人体へのケアを、莫大な税金を払わせる代わりに無償で提供しているこの世界でなら――国外はともかく、日本、それも総本山のある関東地方であれば――望まずに生命を宿してしまった女性がいても、あるいは女子――ともすれば女児がいたとしても、それを生まずに、処理することは可能だ。文字通りの処理。人権も尊厳も無視して、ただただ、処理してしまう行為は、可能だ。それも無償で――犯罪行為の末に宿してしまったものなら、あるいは慰謝料だって請求出来るのだから、潰してしまうのが、処理してしまうのが、本道である。
しかしながら、紅々緑青は、生まれた。
生み落されてしまった。
親の名前も、親の顔も、彼は知らない。が、事実として残っているのは――彼はポケモントレーナーの子どもであったということ。そのことを、彼自身は知っている。母親がどのようにして生命を宿したかということはあまり考えたくはないが――女性トレーナーの一人旅に必ず付きまとう危険性を、あまり考えたくはないが――それでも、どれだけ政府が慎重に危険区域を警邏していようと、隙はどこにでもある。それに、口実だっていくらでもある。勝負に負けて金が払えないこともそうだ。旅の途中、金に困って窃盗を働くこともあるだろう。全員が全員、まともな生活を保障されているわけではない。街中ならあるいは――ポケモンセンターに駆け込めば、食糧を与えてもらうことも可能だろう。空腹を満たし、飢えをしのぐくらいのことなら出来るはずだ。しかしそれだけ。それ以上の介入を、政府は行わない。路上での、素人同士の戦いに、その結果として行われる金銭の受け渡しに、政府は関与しない。
あるいは自発的に体を売り物にするトレーナーだって、いないわけではないのだ。珍しいポケモンを手に入れるため、その交換材料として、体を差し出す者だっていなくはない。それは性別に限らず、である。性差なく、行われる。それを単純な『悪』や『闇』と割り切ってしまうのは、早計だろう。そもそも、一生物を飼い馴らすという行為自体が、地球規模で見れば勘違いも甚だしい行為である。ならば、若い体を売り物にして、武器にして、自己欲求を満たす行為を否定出来るはずもない。
まあ、緑青の母親がどのようにして緑青を宿したかということは、想像の域を出ないことではあるし、その事情を知る者はもうこの世にはいない。いや、もしかしたら、それを実行した――つまり緑青の父親となる人物のことだが――がその事実を記憶していて、その後の動向を見守っていたとしたら、事実はその人物の記憶の中にのみ存在するのだが、少なくとも、現時点では公開されていないし、緑青の父親が誰なのかということも、分かっていない。
故に、知ろうともしない。
別にどうだっていいのだ。
ただ、母親が不憫だっただろうとは、緑青も思う。その生き様――いや、その死に様を知っている緑青は、彼女のことを、不憫な人だと思う。既に、彼女の年齢を超えてしまった緑青だからこそ、そう思う。
十二歳でこの世を去った母親を。
緑青は彼女の名前を知らされていない。顔も知らない。見たことはあるのだろうが、自我が芽生える前に母親は亡くなった。より正確に言うならば、緑青を生み落してすぐに亡くなった。現在、緑青は十八歳になっていたので、既に母親より六歳年上になっている。だからこそ考える。果たして母親は、どんな苦労と、どんな苦悩を抱えて、自分を生んだのかと。生み落すその寸前まで、どのようにして、葛藤と戦っていたのかと。
今、緑青は、全く無機質で、まったく人気のない部屋にいた。そこでくつろぎながら、彼は思う。果たして人は――どうして生まれてくるのか。もし母親が自分を宿したことが、ただの間違いだったとするのなら、そんな些細な間違いでも、人は生まれてしまうのである。それを悲しいと取るべきか、興味深いと取るべきか。
まったくの平坦さで、緑青は思う。
少なくとも彼は、母親の想いを尊重しようとか、自分に存在価値を認めようと思って、この部屋にいるわけではない。自分が有名になれば、あるいは価値を手に入れれば、母親が報われると思ったわけではない。それに、母親の悲願を達成すれば――ポケモントレーナーの夢など、ポケモンマスターに他ならないのだから――自分が生まれた意味が出来るのだ、などと思ったわけではない。それとこれとは無関係だ。死んだ人間の意思など、緑青とは無縁のものだし、また、母親の願いを子どもに託すなど、非合理的だ。無意味だと言っていい。そんなことをしたら、今度は緑青の願いを、緑青の子どもが達成しなければならなくなる。無限に続く押し付け合いが、美徳だとは思わない。
けれど、それでもやはりなんというか、緑青は嬉しかった。それが嬉しい、という感情なのかどうかすらも定かではなかったけれど、それでも、気持ちは良かった。一応にして目標としていた場所に立って、噂で聞いていた部屋に立って、そこで、これから叱責を受けるのだろうと、望んだ未来が待ち受けていないのだろうということを知っていても、それでも彼は、嬉しかった。
子どものように、
喜んでいた。
「……おめでとうございます」
噂では、ここにはポケモン博士や、あるいは『チャンピオン』と呼ばれる人物がやってきて、『殿堂入り』のやり方について説明してくれるはずだった。その上で、自分のポケモンたちを登録し、未来永劫に記録するはずだった。
「紅々緑青様ですね」
「ええ」
細身の青年は、軽く頷く。
「まずは、関東・上都ポケモンリーグの制覇、おめでとうございました。あなたの戦闘能力の高さは、証明されました」
「ありがとうございます」
話しかけてきた男は、ポケモンリーグ員であるようだった。豪奢な制服に身を包んでいる。リーグ員、などとひとくくりにしてしまってはいるが、それでもかなり、腕が立ち、地位の高い人物なのだろう。
「しかしながら、私どもの判断では――残念ですが、あなたを『チャンピオン』として迎合することは出来ません。率直に申し上げまして、『チャンピオン』として王座に君臨することが、性格上、あるいは人格上、困難であると判断されたためです」
「承知しております」
そう、緑青はそれを知っていた。
『四天王』と呼ばれるポケモンバトルの最高峰を凪ぎ倒し、『チャンピオン』として君臨している人物を倒したところで――自分がその座につけないことを、緑青はよくよく理解していた。育ちの問題――ではない。しかし生まれの問題ではある。緑青は、法的には存在しない人物だ。戸籍上、この世に存在しない。まあ、そういう人物も多い世の中であるから、誰かのところに養子に行くとか、どこぞの組織に属すればその問題は解決されるのだが――だからこそやはり単純に、人格上の問題だった。ポケモントレーナーとして、まったく、模範にすべきところが欠片もないという問題で、拒絶される。
「しかしながら、『チャンピオン』に勝利したことに対し、正規の賞金をお渡し致します。同時に、『白銀山』と『縹の洞窟』への入場許可証もお渡し致します」
「ええ」
「ですが、それ以上の特権をあなたに与えることは出来かねます。『チャンピオン』の称号を与えることも出来ず、『殿堂入り』をしていただくことも出来ません」
「ご心配なく」
ボールから放り出され、床に腰を下ろしている少年の周りにいる六匹のポケモンたち。彼らも特に不満を持たずに、その場にいる。ただ、大人しく、そこにいる。
「『レッド』のせいでしょう」
「……それに関してはお答え出来ません」
『レッド』という人物がいる。
いや、過去に存在した。
今もいるかどうかは分からないが。
少なくとも、その『レッド』という当時十歳の少年が『チャンピオン』の座についたあと、行方をくらましたことで――ポケモンリーグは、『チャンピオン』となる人間の是非について、考え直さなければならなくなった。ただ強いだけでは、『チャンピオン』として認めるわけにはいかなくなった。性格上、頂点に君臨出来るのか。人格上、頂点を全う出来るのか。問題のあるジムリーダーや四天王、『チャンピオン』の多いポケモンリーグではあるが、それらの異端児たちの群を抜いて危険だと判断された人物は、『チャンピオン』には出来ない。
――何故か。
理由はとても明確で、いっそ原始的。つまり、『チャンピオン』になる資格を持つほどの実力者となると、その人物がその力を私利私欲のために利用しようとした場合――それを止められる人物は、この世に存在しなくなるからだ。
だから、その資格を、あえて渡さない。
権力を持たせない。
それが、ポケモンリーグの方針である。
あるいは、その破綻した人格を差し置いても価値ありと判断された場合は、『バトルフロンティア』と呼ばれる施設で雇われることもあるが――それは今は、ともかく。
「分かりました。私は『チャンピオン』にはならない。これでよろしいですね。ただ、もう少しだけ、ここにいさせて欲しいのですが」
「は……?」
「失われるとは分かっていますが、もう少しだけ、仮初の王座につかせて頂きたいのです」
「……承知致しました。それでは、お帰りの際にはこちらの通用口から」
「ありがとうございます」
清掃と手入れの行き届いた部屋の中に、緑青は寝転がる。彼は自分のことを、もっと淡泊で、もっと冷淡な人間だと思っていた。自分のことを、喜怒哀楽のない人間だと思っていた。
それでも、やっぱり、嬉しい。
そう思った。
「……頑張ったなあ」
緑青は満足げに言った。
しかし、まだこれが終わりというわけではない。
緑青は行かなければならない。
自分が生まれた、『白銀山』に。
自分が、生み落された場所に。
そして、自分の母親が、一介のポケモントレーナーが入れるはずのない『白銀山』に、少なくとも半年以上は住みついて、腹の中で自分を育てられたのかということを、調べてみたい、と思う。彼女が、望まなかった命を処理出来ず、ただただ生み落さなければならなかった状況を、だから――そんな危険しかないような『白銀山』において、もう一歩も動くことが出来ず、ただただ怯えながら生き延びるしかなかったその境遇を、味わいたいのだ。
事実を知ったところで何が変わるとも思えない。否、事実を知ることが出来るかどうかも分からないけれど。
それでも、行こうと思う。
自分の知らない、生まれ故郷に。
「一瞬でも、私は、チャンピオンになったわけですね」
紅々緑青。
『レッド』がポケモンリーグの頂点となった時を、『ポケモントレーナー』の歴史が変わった瞬間というのなら、それから約十一年が経過した、現在。
彼は、一瞬であるとは言え。
また、正規に認められないとは言え。
関東・上都ポケモンリーグの新チャンピオンとして、『殿堂入りの間』において、この上ない至福の時間を、味わっていた。
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「認めません」
紅々緑青の関東・上都ポケモンリーグ制覇の翌日だった。彼の生活は、しかしまったくと言って良いほど、それまでのものと寸分違わぬものであった。彼は『チャンピオン』を倒したことを、誰にも話さない。自慢することに大した意味があるとは思えなかったし、そもそもにおいて、話せない理由があった。緑青はあの後、ポケモンリーグと公式に契約をすることになったのだ。守秘義務、というやつだろう。いわく、『チャンピオン』となった人物が受け取るのと同額の賞金を得ると同時に、『白銀山』と『縹の洞窟』への通行許可証を与える。その代わり、緑青は『チャンピオン』を倒したということや、『殿堂入りの間』に入室したことを口外してはならない、というもの。それを破った場合、あるいはそれが噂となって世間を騒がせた場合には、通行許可証は没収される――ということだった。
賞金が没収されるだけなら緑青はそれを口にしたかもしれないが、通行許可証を奪われてはたまらないので、それが自分の主であろうと、口にしない。
「たった一日でもいいのですが」
「昨日まで、一週間の休暇を与えていたというのに? あなたを一週間休ませるというのだって、私としてはかなり気が進まなかったのだけれど?」
だから、緑青は自分が『白銀山』へ行くために休暇を取ろうとしても、その理由を説明することが出来ない。ただ休みをくれというのは、普通に考えておかしな話だ。もっとも、これが普通の会社務めであるのなら、土日などの定休日を利用すれば良いのだが、緑青の場合は事情が違う。
彼は執事だった。
しかも住み込みで、いわゆる専属執事という、一人の人物の身の回りのことを全てこなすタイプの執事だった。そうした人種には、休日という日は存在しない。四六時中、主のために尽くさなければならない。だから、緑青の主である女性――朽葉乱麗という、朽葉財閥の令嬢である――が行くところにはどこへでもついていく必要があるし、いっそ緑青の場合はそのポケモンバトルの腕を買われて雇われたという側面もあるのだから、ボディガードとして、彼女を全面的に、日常的に、守る必要があった。
しかし。
「しかし、ようやく準備が整ったのです、お嬢様」
「そう。おめでとう。何の準備かは知らないけれど」
「我々が日本に……それも関東地方に長期間滞在している今がチャンスでございますので、出来ればこの期間中に行かせていただけないかと。他の地方からとなりますと、どうしてもさらなる休暇を申請する必要が出て参りますので……」
「一週間分の休暇を与えたのに?」
「それはまあ、そうなのですが……」
緑青は口ごもるしかない。
緑青にとって、乱麗は絶対の権力者だ。
これで彼女が暴君ならば、もっと言いようがあっただろう。いっそ、『チャンピオン』を倒した賞金があるのだから、しばらくの間執事などやめて、単身『白銀山』に行っても良かった。しかし、緑青は彼女に並々ならぬ恩義を感じていた。緑青が今日、この瞬間まで生きながらえたのは、全て彼女のお蔭で言っていい。過言ではない、という表現でも不足する。いっそ、『そうとしか言いようがない』とでも言うべきだ。
朽葉乱麗は、十七歳という若さで、かなり多くの仕事を任されている。そもそも、『朽葉』という名前からして分かりそうなものだが、朽葉家は、各地方の市の名前――つまり、関東地方で言えば、『常葉』、『鈍』、『縹』、『朽葉』、『玉虫』、『石竹』、『山吹』、『紅蓮』のうちの一つとして、また大地主として、古くから権力を持っている。時代が時代であれば、華族であるとか、貴族であるとか称されていた家柄だ。もっとも、事業に手を出して大きな失態を犯したり、時代の流れに取り残されたり、あるいは単純に地価を失ったりして没落していった名前もあるので、それらを除くと、現在、関東地方で大きな権力を持っているのは、『朽葉』、『玉虫』、『山吹』だけになっている。これを総称し、『関東御三家』と呼ぶ者も多い。
そんな『関東御三家』の一つである『朽葉』の直系で、日本が地方で区分けされてから――つまり『関東』という呼び方をされ始めた時を『初代』と数えると、それから五代目となるのが、緑青の主である、朽葉乱麗だった。
年齢など関係なく、資産家。
少なくとも、緑青以外にも、十数人は使用人を従えているような人物だ。
「そうそう、昨日までに決まっておいたことの中で、重要度の高いことを口頭で伝えておくわ。来月からまた海外に飛ぶから」
「海外ですか……」緑青は項垂れる。「かしこまりました。すぐに空路の手配を致します」
「あと、今週中にも、北に行く予定があるから、そちらもお願い。もちろんついてくるのはあなた一人でいいから」
「かしこまりました」
「あとは他の人にリストにまとめてもらっておいたから、読んでおいて。あなたの部屋に置いてあるはずだから」
「かしこまりました」
「以上よ。とりあえず、その作業に専念して」
緑青は頭を下げて、部屋を出た。
『朽葉』姓でありながら、乱麗の事務所は朽葉市にはなかった。現在居を構えているのは、山吹市だ。ここは交通の便が良い。特に、リニアが開通してからというもの、上都との行き来は劇的に早くなった。
『関東御三家』に数えられる『山吹』が支配する山吹市に事務所を置いているのは心情的にどうなのか、という気もするが、意外と御三家でも事業は棲み分けされているようなので、大きな問題ではないようだった。
いわく、『玉虫』は学業方面に。
『山吹』は製品開発に、力を入れている。
では『朽葉』は何をしているのかと言えば、輸入や輸出が主な事業だった。『朽葉』という名を聞いて真っ先に思い当たるのは、朽葉港だろう。そして同時に、一般人であればそこに停泊する豪華客船を想像するだろうが、頻繁に利用されるのは連絡船である。『七島』と称される、関東地方の南方に存在するその名の通り七つの島へ、物資を送ったり、観光客を送り届けたりしている。乱麗は数か月前までそちらを担当していたが、最近では他地方との関わり合いを持つようになっていた。それもあって、ここ一ヶ月の乱麗は、多忙を極めていた。
だから本来であれば、こんな状況で一週間もの休暇を取れるはずもなかったのだが、これは「これから忙しくなるのだから、いまのうちに休んでおきなさい」という、ある種最後通告と言えた。言い換えれば、「これからあなたは戦場に旅立つのだから、今のうちに家族にお別れを行って来なさい」というようなものと、ほとんど変わらない。だから本来であれば、「一週間の休暇を与えた」という乱麗の言い草は正確ではないのだが、それに反論するほど、緑青は馬鹿ではない。
もとより、どうせ許可などもらえないとは思っていた。理由も説明出来ず、休んですぐにもう一日というのは、どう考えてもおかしいだろう。休暇をもらえなくても当然だ。しかし、何もしないで諦めるというのは性に合わないので、緑青は懇願したのだった。
まあ、やはり予想通り、不可能だったが。
「……やれやれ」
自分の部屋に戻って、緑青は机の上に山積みになっている書類に目を通すことになった。『事務所』とは言っているが、しかしいわゆるビルに入ったオフィスのイメージとは程遠い。山吹市に古くから残る一軒家で、内装はかなり乱麗の趣味に寄っていた。ヴィクトリア調のものが多い。緑青も、仕事中は常に燕尾服の着用を義務付けられていた。それだけにとどまらず、髪の毛はオールバックにさせられていた。毎日セットをするのは面倒だから、いっそ短髪にさせて欲しいという要求もしたことがあるが、
「それじゃあ執事じゃないでしょう」
という乱麗の一言で、緑青の髪の毛はある一定の長さをキープさせられている。
まあ、それくらいで済んでいるのだから、乱麗はかなり話の通じるタイプの主人と言っていいだろう。緑青もこれまで、乱麗に連れられて様々な場所に顔を出すことがあったが、そこで見かけた専属執事の中には、人権などないように、ゴミのように扱われている者も多かった。それらに比べれば、自分がいかに人間として扱われているか、しみじみと思う。
「だから、休暇を申請するなんてのは、お門違いなんだ。まあ、これまで何年も待ったんだし、まだ待てるだろう」
長年の執事生活で忍耐力を身に着けた緑青は、そんな風に、人生を達観していた。
3
「……お嬢様」
「なあに緑青」
机の上に乗っていた書類を粗方片付け、口頭で説明された、陸路と空路の予約を取ろうとしたところで、その日付について、乱麗に尋ねなければならなかった。一週間も仕事を休むということがどういう悲劇を招くのか、緑青は知っておくべきだった。
「深奥地方への移動となっておりますが」
「ええ」
「出発が本日の十八時となっております」
「あらそう。もう今日だったの」乱麗は顔を上げて、溜息をついた。「光陰矢のごとしね」
「お嬢様は出発の準備はお済みでしょうか」
「いいえ、まったく。昨日から徹夜しているし、お風呂にも入っていないの。下着くらい履き替えたいところね。いくらずっと室内にいるのだとは言え、流石に汚れてくるでしょうし」
「お嬢様はいつもお美しくいらっしゃいます。同様に、常にお綺麗でいらっしゃいます」
「まあ、それもそうね」乱麗は何でもないように頷いた。「そうね、出発が今日だと、時間がないわ。早急に手配をして頂戴」
「かしこまりました」
「それと私の旅行の準備も」
出張、と言うべきところだが、乱麗はあえて旅行、とそれを表現した。少なくとも、乱麗にとって、移動時間ほど心休まる時はない。同様に、家に引きこもって仕事をすることに比べれば、現地での仕事は遊びのようなものだった。
「そう言えばこの一週間、本家の使用人を何人か呼び寄せていたから、寝室の物の配置が違うのよ。出発までに直せる?」
「問題なく」
「特にクローゼットの中がね……今日、本当はね、瞬間的にシャワーを浴びて、服くらいは着替えようと思ったのよ。けど、クローゼットを開けたら、下着類がなかったの。いやあったんだけど、私の履きたいものがなかったのよ」
「心中お察しいたします」
「だからその辺のところもやっておいて頂戴。ああ、深奥に向かうのだとすると、どういうルートになる?」
「朽葉港から船に乗りまして、澪市にて下船致します。到着は翌日早朝となります」
「そう。じゃあそれで。良い部屋でね」
「本日の朽葉港からは『ミロカロス号』が丁度良い時間に出港しておりますので、こちらを。もっとも、『シーギャロップ号』を利用して、早めに深奥に上陸後、ホテルに泊まる、という方法もございますが」
「いいホテルがあるの?」
「過去に波止場の宿と呼ばれていたあたりが開拓され、現在は二十階建てのホテルに替わっております。確認致しましょうか?」
「スイートが取れたら、『シーギャロップ』で行きましょう。そうでなければ、『ミロカロス』の良い部屋で行くわ」
「かしこまりました」
「それじゃ、よろしくね」
「もう一つだけご質問が」
「なあに?」
「私も同じ部屋でよろしゅうございますか」
「そりゃそうよ。当たり前でしょう。何言ってんの」
乱麗は手を振って、部屋から追い出すようなそぶりを見せた。緑青は深々と頭を下げると、音もなく部屋を去る。確かに時間はあまりないのだが、ボディガード役もしているとは言え、やはり確認なしに主人と同じ部屋に泊まろうとするのは難しかった。
緑青は再び部屋に戻り、真っ先に澪市にあるホテルに電話を掛ける。『シーギャロップ号』は朽葉家が管理している連絡船であるので、仕事で深奥に行くために使うのなら、いくらでも融通が利いた。となると、ホテルに部屋の空きがあるかを確認するのが第一だった。そして幸いなことに、澪市にあるホテル『タタラ・イン』には、最上階に一部屋空きがあった。しかし問題点が一つだけあったため、通話を保留にし、緑青は再度乱麗の部屋に行かなければならなくなる。
「……お嬢様」
「何よ」
「大変申し訳ございません。澪市のホテルのスイートルームには空きがございましたが、その部屋にはダブルベッドが一つしかないようです」
「あっそう。で?」
「私がソファで眠るのは確定と致しましても、お嬢様にも確認をと思いまして」
「あのねえ。じゃあもう、一線を越えたらいい? 一緒に寝ましょうか。もう結婚しよう。夫婦になりましょう」
「お嬢様、お気を確かに」
「もう緑青も十八歳でしょう。法的にも結婚出来るんだし、そうしましょう。そうしたらベッドの数でいちいち確認しなくて済むでしょう」
「失礼致しました。今後はある程度独断で決めさせていただきます」
「分かったら、行って」
緑青は深々を頭を下げ、乱麗の部屋を出た。結局、緑青は『タタラ・イン』のスイートルームを予約し、『シーギャロップ号』の最速機をチャーターした。十八時二十分に乗船し、約二時間で移動出来る。チェックインの時間と連絡先を手帳に書き込んで、緑青は溜息をつく。
もう彼は、『チャンピオン』とか『白銀山』とかいうことを忘れていた。否、思考の片隅にはあったが、それを無理に思い出そうとはしなかった。
しかし――彼がある意味趣味の領域として取得した『白銀山』の通行許可証が、まさか本業である執事の仕事で役立つことになるとは、まさか彼も思ってはいなかったことだろう。