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「それじゃあ、立花さんには本当に、ジュペッタが生きているように見えていたんですね」
心花さんの部屋で、二人でアルコールを飲み交わしていた。ソファに腰掛け、並んでいる。サイドテーブルの上に、瓶や水が置かれており、グラスはそれぞれの手にあった。
「ええ。鳴き声が聞こえたり、触っていると、動いているように感じたり。だから、疑いもしませんでした」
「だったら、ひどいことをしましたね。私は立花さんのことを、私と同じだと思っていましたから。今だって……私は雛様が亡くなったことを完全には認められていないから、こんな服を着て、こんな生活をしているのです。私は自覚があってしていました。けれど、立花さんは違う」
彼女は僕のすぐ隣に座っていた。頭を僕の肩に寄せ、二人で同じ壁を見ている。壁には絵画が掛けられていた。綺麗な女の子の絵だ。人形同様、そこには完璧な美しさが描かれていた。
「同じですよ。それを理解した今でも、まだ完全に死んだわけではないと思っている」
「じゃあ、蘇らせませんか」
氷が揺れる。
甘い誘惑だ。
「魂の所在が分かれば、難しいことはありません。雛様とは違いますから……もともと人形に定着していた魂です、人形に再び定着させることは、そこまで難しくは……」
「心花さん」
「……はい」
彼女のグラスを持つ手を覆うと、彼女は急に真剣な表情を僕に向けた。熱のある視線だ。そのまま脳を焼かれてしまいそうだった。
「なんですか、立花さん」
「それはいけないことです」
とても魅力的な誘いではあった。
それでも、超えてはならない一線がある。
法律ではない。
道徳ではない。
けれど、失ったものを蘇らせる姿は、僕には美しいとは思えなかった。
失ったものは、失ったままに。
消えたものは、消えたままに。
そうすることこそが、美しい。
「貴女は自分の人生を生きるべきだ。陳腐な言葉ですが、雛さんが喜ぶのは、あなたが解き放たれることです」
「もう十分に楽しんでいます。こうして立花さんとお酒を飲んで、一緒に時間を過ごしている……十分じゃありませんか。それとも、何かご不満ですか?」
彼女は僕のグラスを奪うと、中身をすっかり飲み干してしまう。そしてそのグラスに、また新しくアルコールを入れた。もう、ほとんど酩酊状態だった。立ち上がったら最後、何もかも忘れてしまうはずだ。
「共通点を見つけました」
「何ですか?」
「幼い頃からパートナーを持たなかった僕と、もはやパートナー同然の扱いだった貴女とは……幼少期から野生生物と触れ合わなかった。違いますか」
「ええ、仰る通りです。雛様はそもそも、動物に興味がない方でしたから。本当に、嗜む程度で……私が自分で動かすようになったのは、雛様が亡くなられてからです」
「そう言えば、マニューラは」
「あれは借り物です。もうここにはいません。この家には、立花さんと、私だけ……」
「光栄ですよ。ただ……」
「さあ、お飲みになって」
グラスを渡され、中身を半分ほど飲み込んだ。強かったが、もう気にならなくなっていた。
「私、ハメを外しています」
「奇遇ですね、僕もです」
「自分の家だからでしょうね、何も気にしなくなっています。あとは眠るだけ……素敵ですね」
「ドアを開ければベッドもありますからね。連れて行きましょうか?」
「お誘いかしら」
「いえ、そろそろやめておかないと、自制が出来なくなる」
「私たち、元々自制が出来る人種ではなかったのではないかしら」
まだ冷静な頭で、彼女は言った。
「失われた命を、認められずにいる。消えてしまった魂を、認められずにいる。あなたも、私も、同じです。ずっと前から、冷静ではない」
「それはそうかもしれない。でも……二人で話し合えば、正しい生き方が見つけられるのではないですか」
「例えば?」
「例えば……僕も貴女も、もう忘れるんです。貴女は雛さんのことを忘れる。僕はジュペッタのことを忘れる。そうして……普通の生活をするんです」
「普通って?」
「目を覚まして、食事をして、趣味を嗜んで、会話をし、人と会い、読書をして、たまにお酒を飲んで、そして眠るんです」
「恋をしたり?」
「そうです。そうして自分のために生きるんです」
「私はそういう生活をする才能に恵まれなかったのでしょうね。幼い頃から、誰かに仕えてばかりでしたから……」
「そうですね……僕とは違う。最初から一人だった僕と貴女では、境遇が違いすぎる。たった数ヶ月出逢ったパートナーとの別れは、貴女の別れと同等に語っていいものではない」
「それとも、立花さんが夢中にさせてくれますか?」
彼女は身体をほとんど僕に寄せて、そのまま目を閉じてしまった。彼女の手からグラスを抜き取り、サイドテーブルに置く。自分のグラスも、中身を飲み干して、二つの腕は彼女のために使うことにした。
「どうしても、諦められませんか?」
彼女の頬はやわらかかった。白く、本当に人形のようで、美しい。化粧気の微塵もない肌。恐らく、桜祭雛から許されなかったのだろう。彼女が求めたものは――人形に狂った彼女が欲したものは、嘘偽りのない、美しさ。
ただ存在としての美しさ。
そして、その素材があるからこそ、着飾り、美しい所作が映える。あるいは人間であることを加味すれば、桜祭雛が求めた容れ物は、彼女だったのかもしれない。
「実を言えば、もうあてがないのです」
「人形ですか?」
「ええ……お金で手に入るものは粗方手に入れました。手に入らないものは、頂戴しに行きました。けれどもう、雛様が気に入るような人形は見つかりません。情報もありませんし、手詰まりを感じています」
「これから、どうしますか?」
「どうしましょう……」
彼女は、僕の膝の上に、仰向けに寝転んだ。そして目を閉じたまま、気持ち良さそうな表情で言う。
「ここは眩しすぎるわ」
「寝室に連れて行きましょう」
「持てますか? 重くないかしら」
「そこまで酔ってはいません」
彼女の背中と膝裏に腕を這わせ、抱き上げる。僕の首元に、彼女の腕が絡んだ。
「いい気分です」
「僕もですよ」
彼女を寝室に連れて行き、ベッドに横たわらせた。暗い室内は、目があまり利かない。絡められていた腕はそのまま僕を引き寄せた。
「誰にも言わないでください」
「何をですか?」
「今から言うことをです」
「約束しますよ」
「もう……疲れました」
彼女の腕の力が強くなり、僕は抱き締められる形となった。
「罪のない魂たちを閉じ込め、霧散させてしまうことも、新しい人形を探しに行くことも……」
「分かりますよ」
「ねえ立花さん……今日はお帰りにはなりませんよね」
「ええ」
「良かった」
ベッドの上にいるジュペッタを拾い上げ、隣の部屋のソファに座らせた。もう、命のないジュペッタだ。けれど、どうしても粗末に扱う気持ちにはなれなかった。
「どこへ行かれるんですか……?」
「ドアを閉めるだけです」
「寝てしまいますよ」
「すぐに戻ります」
ソファに座るジュペッタを見て、何を思ったのだろう。ただ、胸が締め付けられる思いがしただけだっただろうか。
失うことは、こんなにも簡単なのだ。
得ることは、こんなにも難しいのに。
「心花さん」
「はい」
「お互いに忘れましょう」
暗闇の中で彼女の手を取る。
「忘れたあとはどうするのですか?」
「新しい出会いを刻むんです」