三章――Host
 思い起こせば――無理矢理に、思い出してみれば、気になるところは、いくつもあった。
 元々、大人しいジュペッタだった。
 自分から散歩に出かけることもなく、自分からあちこち歩き回ることもなく、大抵、僕と一緒にいた。懐いているのか、それとも面倒臭がりなのかは分からなかったが、それでも大抵一緒にいたので、そういうものなのだと認識していた。
 だから僕は、今日、ここ『桜花亭』に来るに至るまでの出来事だけを、簡潔に、思い出してみることにした。
 巴と会った時。
『逢阪屋敷』に向かい、巴と会話をした時点で、僕はここ、『桜花亭』という目的地を定めた。そこから思い出して見れば――なるほど、僕は、ジュペッタをただ『生きているものとして』認識していただけなのかもしれない。
 巴は――知っていたのだろうか。
 多分、分かっていたんだろう。
 何しろ、霊能力者。除霊師だ。
 霊が宿っているかどうかくらい、分かったはずだ。それでも巴は、何も言わなかった。むしろ、ジュペッタが生きているものとして扱った。玄関口で、巴はジュペッタの頭を叩くと、そのまま拾い上げた。あの動作はもしかしたら、僕に何も気取らせないための動きだったのかもしれない。
 専用のスツールに座らせ、ジュペッタ用のマグカップを出した。あの時ジュペッタは、マグカップに触れなかった。当然だ。動けないんだから――動けないものは、何にも触れない。
 僕は、気付かないままだった。
 ジュペッタの鳴き声は、
 あるいは挙動は、
 全て僕には、幻覚として、幻聴として、リアルな体感となっていたはずだった。
「……死んでいる」
 僕は寝室の敷居をまたがず、ただ立ち尽くし、ジュペッタを眺めた。その他大勢となった亡骸ではなく、死んでしまった、僕のパートナーを。
「いつから……」
「いつからでしょう。思い出しているのではありませんか?」
「ええ……そうです」
「私も初めのうちは、すぐには気付きませんでした。長期間動き続けるジュペッタもいれば、すぐに亡骸になってしまうジュペッタもいましたから。ただ、大人しいのだと思うことが多くありました。すぐに死んだとは思えず、大人しくなったとか、口数が少なくなったとか、思っていました。ねえ立花さん――それに他の方も、きっと私のことをひどい女だと思っていたはずだわ。『逢阪屋敷』に行った時、私はジュペッタを囮にした。けれど、その時既に私は、今と同じような状態だったのです」
「生きているか死んでいるか分からない……?」
「ええ。だから、実を言えばあの時でさえ、ジュペッタが生きているかどうか判断出来なかったのです。ただ大人しいだけなのか、本当に死んでしまったのか……ただの人形になってしまったのなら、囮に利用したとしても、心は痛まないはずでした。いえ、どのみち亡骸になるのなら、生きていたとしても――」
 僕が『スケープゴート事件』と呼ぶあの事件。僕のジュペッタは、彼女に捨てられたものだと思っていた、けれど――そう、彼女にとっては、生きているのか、死んでいるのか分からないジュペッタの一匹でしかなかったと、そういうことなのだろう。
 今だって僕は、床に転がったジュペッタの、
「ぎゅるぎゅる」
 という鳴き声を、
 聞くことが出来る。
 聞こうと思えば――聞きたいと願えば。
 そして同時に、僕は荻野六という男との再開について、思い出した。あの時、彼は多分、このジュペッタが『生きている』ということすら、知らなかったはずだ。
 彼は確かに『ジュペッタ』と言ったはずだが、それは存在としての呼称だ。彼の中ではきっと、バラバラになったジュペッタを縫い合わせて、人形として蘇らせたという程度の認識でしかなかったのではないだろうか。
 それに、彼は僕の体質のことを知っていた。が、それがジュペッタには適用されない……ということまでは、知らないはずだ。であれば、別れ際、「ジュペッタには何もあげられないですから」と言ったことも、違う意味に取られているのだろう。
 あるいは、ジュペッタにパートナーの幻影を見ている、哀れな男に映ったのだろうか――
「降霊の儀式まではしていないと言いましたけれど……その準備までは、私はしていたのです。それは結界であったり、そういうものです。この『桜花亭』から、霊は抜け出せません。すなわち、除霊することも、成仏することも、出来ないのです」
「……素人の貴女にそんなことが出来るとは思えませんが」
「もちろん、私の独学ではありません。ただ――ツテはあります。『人形愛好会』で集まる皆さんもそうですし、それ以外にも」
「どうして、そこまでして」
「もちろん、雛様にもう一度お仕えしたいからですわ」
 数ヶ月前に行われた『仮面舞踏会』での出来事――そこでの心花さんの立ち位置を思うに、それだけのツテを持っていても不思議はない。あるいは重鎮のように、あの場に存在していた。
 同時に僕は、『人形愛好会』という言葉から、ここに来るまでに出逢った人物である、哀野恋のことを、思い出していた。ジュペッタと同席し、ジュペッタが確かに存在し、生きていることを知っていた彼女――だが彼女は、僕のジュペッタについて、一切の疑問を抱かなかった。
 彼女は目が見えない。
 触れなければ、ジュペッタの存在など、あってもなくても同じだったのではないだろうか。視界に入らないのであれば、生きていようが、生きていまいが、一緒。むしろ、ジュペッタの存在を認識していなかった可能性だってある。
 鳴き声を上げないのなら、
 物音を立てないのなら、
 彼女にとっては、いてもいなくても、同じこと。
 いや、あの口ぶりを思い出せば、もしかしたら彼女は、ジュペッタがその場にいないものとして、話していたのかもしれない。
「雛様の望みは、人形のように完璧な姿を手に入れること。そして私は雛様にもう一度お仕えしたい。そのためにやれることを出来る限りしました。たった一年――けれど、毎日忙しなく生きていれば、とても長い一年でした」
 一年間。
 その間で、少なくとも五十体はあろうジュペッタが、寝室に敷き詰められている。犠牲……と呼んで良いのかは定かではない。しかし、確かにそこには――
「……待って下さい」
「どうかなさいましたか」
「ここにいるジュペッタたちは、元々、人形だった。恐らく雛さんが買い集めた人形たちを――つまり、雛さんが満足するであろう姿をした人形たちを、媒体として利用した」
「最初はそうでした」
「それが失敗に終わったから、貴女は他の人形を集め始めた。『逢阪屋敷』の人形を手に入れたのも、そういう理由ですよね」
「ええ、そうです。あの人形も、もうジュペッタになってしまいました」
「そうなるためには、憑依する必要がある。あなたは、人形に何かが憑依した時点で、雛さんであるかどうかを判別出来たんですか?」
「もちろんですわ。雛様と出会ってから、私は雛様のお側を一日たりとも離れたことはありませんでした。歩き方、手の上げ方、首を曲げる角度――どれか一つでさえ分かれば、雛様であると断言出来ます」
「じゃあ、ここのジュペッタたちに宿ったのは一体……」
「もしかしたら、桜祭家のご先祖たちか――あるいは、桜祭家に恨みのある子どもたちの霊か。それとも単に、浮遊霊かもしれません」
 彼女はぽつりと言った。
 人身売買に利用された、子どもたち。
 一歩間違えば彼女もそうなっていたであろう子どもたちの、霊。
「最初の数日から数週間は、憑依した西洋人形も、そのまま人形として動いていました。けれど適合出来なくて、みんなジュペッタになりました。考えてもみてください、立花さん。もし雛様が憑依したとして、ジュペッタになることはあり得ないんです。怨念の集合体が人形を黒く染めて、ジュペッタになります。それなら、そこには怨念があったということ。人形になることを望んでいた雛様が、現状を愁うことなどあり得ません」
「……」
 確かに、彼女の言うことはもっともかもしれなかった。けれどどこか、狂信的な――何かを見落としているような気がしないでもない。
「……そうですか」
「立花さんが、ここまで私を追ってきてくださって、あんなに情熱的に、私を真っ当な人間にしようとしてくださって――嬉しかったです。けれど、私は既に幾多もの霊や、いくつもの人形を犠牲にし、まだ同じことをしようとしているのです。こんな人間には、人並みの幸せを得る権利はありませんわ」
「……今日はこの話はやめましょう」
 僕は、床に落ちたジュペッタを拾い上げる。いや――亡骸だ。ジュペッタの、亡骸を拾い上げた。
「さっきまでと今とでは、事情が変わってしまった。僕はあなたを責められないし、あなたを止める権利もない」
「……どうしてですか?」
「ジュペッタが死んでしまったことを、理解したからです」
 ジュペッタの片腕を掴んで、だらりとぶら下げた。
「なくなってしまった命ともう一度会いたいという貴女の気持ちが、僕には分かる」
「……そうでした、立花さんにとっては、唯一のパートナー……。だからきっと、今日ここに至るまで、ジュペッタが死んでしまったことを、お認めにならなかったのですわね」
「お酒でも飲みませんか」
 僕は、寝室に入り、ジュペッタをベッドの上に置いた。そして心花さんの手を取り、立ち上がらせる。
「聞きたいことがあります」
「なんですか」
「ここにいた人形たち……呪われていないんですよね」
「普通の人形たちですか? ……ええ、呪われていません。あの人形たちは、雛様が欲する外見とは違う人形でしたから。ただの人形ですわ。どうしてですか?」
「いえ、気になっただけです」
 僕は彼女の手を引いて、部屋を出て、食堂へと戻った。ジュペッタたちを置いて――二人だけで。
 いや、最初から二人だけだったのだ。
 呪われた人形など、いなかった。
 食堂に戻るまでの道のりにも、僕を邪魔した呪いの人形の姿はなかった。
 そう、全ては――


戯村影木 ( 2014/01/25(土) 12:52 )