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「人形を無効化するには、物理的に束縛してしまうのが一番だよ戦」
確かそれは、逢坂静の人形が『人形部屋』から脱走を図った時に聞いた話だった。
「物理的に束縛、ね」
「例えば、静お婆ちゃんみたいに巨大な人形だと、戦の前で内鍵を開けたり、物を壊したりするかもしれないけれど……大半の人形は人間の十分の一以下のサイズだから、そこまでの力はないんだ。戦もそれは、感覚的には分かるよね?」
「まあそうだろうね、実際あり得ないだろうし、ないと思うよ」
「例えば、ガラスケースに入れられている人形って多いよね」
「ん? ああ」
「ああいう人形のうち、髪が伸びたり、目が見開いていたりっていうのは、一種の罠で……うーん、自分じゃガラスケースを開けられないから、怖がらせて、開けさせようとしたりしてるんだ。つまり、人間の力で動こうとするんだよ」
「へえ、なるほどね。力のある人形なら、ガラスケースは自分でどうにかするってことか」
「うん。もちろん、他の人形が協力してケースを開けちゃうってこともあるかもしれないけど……結局、人形は非力だから、物理で攻めるのが一番だよ。幽霊と違って、呪いの人形って、物理現象に則って生きてるからね。肉体がある分、不便も多いんだ。それに人間も、感覚的に理解しやすいと思うんだよね。手品みたいなものだよ、物理的に不可能なことは、絶対に起こらない」
――という、巴の言葉を思い出し、僕はテーブルの上にいる二体の人形をじっと観察する。
見ている間は動けない。僕は二体の人形を引っ掴むと、中身のなくなっているガラスケースの中に人形を詰め込む。そして、書棚から辞典を数冊抜き取り、ガラスケースの上に乗せた。非力な人形たちは、この辞典を動かすことは出来ないはずだ。
ひとまず――『応接室』の対処は終わったはずだ。
三体目の気配はない。
これ以上の冒険はないはずだった。
「あと、気を付けないといけないのは、トラップか……」
非力な人形たちが特に利用するのは、人形という性質上もあると思うが、『糸』を利用したトラップだ。『逢坂屋敷』の中でも、僕はよく、糸で首吊りをした人形にからかわれた経験があった。特に被害はないのだが、見た目の衝撃が大きすぎる。ドアを開けて目の前に首を吊っている人形がいたら、嫌でも目を逸らしたくなるものだからだ。そして目を逸らせば最後、次に見たときにはまた違う恐怖を僕に押しつけようとする。
気を付けながら、細心の注意を払いながら、僕は『応接室』を出なければならない。心花さんを見つけるために、一つずつ、部屋を潰していかなければならない。
「……行くか」
わざわざ声に出すのは、自分の精神を安定させる必要があったからだ。『応接室』のドアノブを捻り、暗い廊下を、一歩踏み出す。
足元に、ぐにゃりとした感触。
だが……僕はそれを見ない。
「多彩なトラップだなあ……」
あえて感心してみせることにした。
恐らく僕が踏みつけているのは、人形。
だが、そちらに気を取られ、視線を向ければ、何が起こるかは明白だ。
ドアを閉め、ドアを背にする。もっとも気を配らなければならないのは、背中だ。だから背中は基本的に、壁やドアにくっつけている必要がある。僕はあえて、踏んでしまった人形を、さらに強く踏みつける。踏みつけている限り、一体は封じられる。
視線は変えずに、まっすぐ前を見る。廊下の反対側にも、部屋がある。そちらへ移動することを決めた。かなりアクロバティックな動きになっていたことだろう。腕を伸ばし、ドアノブに手をかけ、そのまま背中を素早く、ドア横の壁にくっつけた。そして、数センチドアを開ける。
「ぎゅる」
部屋の中から、鳴き声が聞こえた。
「……ジュペッタか?」
罠かもしれない、と思った。しかし、聞き馴染んだ鳴き声だ。ドアを開き、体を部屋の中に滑り込ませる。手さぐりで電気をつけると――そこは、客室だった。そうだ、案内されていたじゃないか。食堂に向かう前に、一度ここを訪れている。荷物を置かせてもらい、着替えさせられたではないか。
「……余裕がなくなってるのか」
あるいは、廊下の電気が消えていることで、位置取りが分からなくなっているのか。明るくなった室内で、すぐに死角となっている場所を調べつくした。が、人形の気配はなかった。荷物の中から、念のために持ってきていた懐中電灯を探り当てると――同時に、ジュペッタの姿も、そこに確認出来た。
「……ぎゅる」
「なんでこんなところにいるんだ?」
懐中電灯を胸ポケットに差し込み、ジュペッタを引きずり出す。
「ぎゅ……」
「怖くて隠れてたのか? お前だって呪いの人形だろうに……」
ジュペッタが危険に晒される可能性もある。だが、心強い味方になってくれる可能性もある。いずれにせよ、離れ離れでいるよりは安全だと判断し、僕はジュペッタを小脇に抱えた。
「ようやく現在地が分かってきたな。応接室と、客室……僕がいた食堂より奥の方に、心花さんはいるのかもしれないな。玄関からリビングだったり食堂までは地続きとしても、住居はまた一つ垣根があるのかもしれない」
「ぎゅる?」
「ああ……そうか、今まで隠れてたんだ、分からないよな。と言っても、僕の言葉も通じてないんだろうけど……心花さんがどこか行っちゃったんだよ。いや、リーチェさんと言うべきかな」
「ぎゅるる!」
「リーチェさんって言葉には反応するんだな。まあ、とにかく彼女を探さないと。人形を相手にするのは、危険すぎる」
部屋の中に、人形の姿はない。
呼吸を整える。まるでここだけ時間が止まったような気分だった。ジュペッタの柔らかい身体を抱いていると、心が癒される。目を完全に閉じて、ジュペッタの温もりを感じながら、心を落ち着けた。
「……よし、行くか」
意を決して、ドアを開けることにした。人形に対する不信感、不安感は拭いきれなかったが、ジュペッタという確かな質量があったから、先ほどまでに比べて恐怖心はほとんどなくなっていた。
「――――あれ」
――しかし。
人形は、いなくなっていた。
どころか、廊下には電気が灯っている。
まったく普通の、室内環境。
僕は懐中電灯の光を落とす。人形はいない。ジュペッタは小脇に抱えられている。
「……何がどうなってる」
何もかも、なかったことになっていた。
呪いの人形も、幽霊も、何もかも。
あるいは自分の異変を疑うように、
これもいたずらの延長線上なのか、それとも罠なのか……あるいはもう飽きてしまったのか? いや……とにかく僕は、この勢いで、心花さんを探してしまうことにした。ジュペッタを抱えたまま、心花さんがいるであろう部屋に向かう。食堂の奥の部屋。雰囲気からして、勝手に入ってはいけないような部屋。その部屋のノブに手をかけて、ゆっくりと捻る。
夢でも見ているように、僕は状況を判断しきれていない。部屋の中には、人形たちが整列していた。いや、むしろずっとそこにいて、一切動いていなかったのではないかと思えるような佇まいだ。
「……心花さん?」
見たところ、彼女の自室のようだった。クローゼットがあり、ソファがあり、本棚があった。人形もいくつかあり、見覚えのある人形も――逢阪家から盗まれて行ったものだ――あった。そして恐らくは寝室へ続くであろうドアも、部屋の中にある。
「いらっしゃるんですか」
「…………はい」
ドアの方から、か細い声が聞こえる。
「入っても良いですか」
「おやめになった方が良いかもしれません」
「どうしてですか?」
「立花さんには、刺激が強すぎるかも」
「眠っていらっしゃったんですか?」随分過去の軽口を思い出す。「けれど今は貴女を見て安心したい。それに、失礼したことをお詫びしたい」
「失礼だなんて……では、どうぞ。どうなっても、知りませんから」
僕はドアノブに再び手を掛け、それを捻った。そして、心花さんが暮らしているであろう寝室を見る。
寝室は真っ暗だった。
しかし、僕がドアを開けたことで、部屋の明かりが差し込み、真っ暗な室内が、次第に色づいていく。
黒塗りの、木製のベッド。
黒い床、黒い壁、黒い棚、黒いテーブル。
唯一色の違う、白いシーツ。その上に、彼女の姿があった。ちゃんと服を着ている。憂いのある表情が、垣間見える。つまらなそうにも見えた。白いストッキングに包まれた脚が、気怠げに投げ出されている。細い腕に手袋はなく、身体を支えていた。
ドアを完全に開き、室内の様子が覗えるほどの光量に達した時――僕はそこで、室内の様子を、ようやく完全に把握した。
黒いと思っていたもの全てが、
家具の色、家の色ではないことに、気付く。
ジュペッタが、
ジュペッタが、
ジュペッタが、
ジュペッタが、
ジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタがジュペッタが、
部屋の一面に、ジュペッタが、敷き詰められていた。
ベッドの上に、棚の中に、上に、床に、テーブルの上に、椅子の上に、そして天井からもぶら下がって――部屋という部屋に、空間という空間に、ジュペッタは敷き詰められていた。
「な……ん」
「ぎゅぅ……」
「これ、なんだと思いますか、立花さん」
「ジュペッタが……」
僕が思わず、小脇に抱えたジュペッタを見た。
同じ形の、生き物。
呪いの人形の、成れの果て。
僕のジュペッタは今、僕の腕の中で、ぐったりと、四肢を投げ出している。
「亡骸です」
「……一体」
「降霊のために用意されて、雛様のために捧げられた人形の末路です」
「どうしてこんなところに」
「……ごめんなさい、立花さんに突然あんなことを言われて、先ほどは一瞬、心が揺らいだんです。正直に白状してしまえば、なんだかとても嬉しかった。だからここへ逃げてきたんです。私はもう、普通の人生を望んではならないのだということを確認するために。これだけの犠牲を出した、罪深い女です」
「何があったんですか……」
「立花さんも気付いているはずですよ」
「……何をですか」
「ここにいるジュペッタは、生きているように見えますか?」
「……いえ、僕には……」
彼女が言ったように、それらは『亡骸』に見えた。あるいは抜け殻と言っても良いかもしれない。生命力どころか、存在感すら感じられない、ただの物体。まったくその通り、ただの『人形』だ。呪いの人形ですらなくなった、ただの容れ物。
「いえ、もう生も死もないんです。亡骸です。ただの人形。動くことも、鳴くこともない、空になった魂の容器です」
「でも……いや、おかしい、ジュペッタは除霊が済めば普通の人形に戻るはずです。除霊師の、逢阪巴が言っていました。だから僕は、このジュペッタを除霊しなかった。除霊してしまえば、ただの人形に戻ってしまうから……」
「ええ、そうです。除霊すれば……あるいは成仏すれば、もしかすると、ジュペッタは本来の人形に戻れるかもしれません。でも……」
彼女は、床に落ちたジュペッタを一体拾い上げた。
そしておざなりに、反対側へ投げた。
まるで感情のない、愛情の欠片もない、粗末な扱い方を見せた。
「怨念が人形そのものに、あるいは別の何かに溶け込んでしまったら、もう元には戻れません。本来であれば、こんな状態になる前に、除霊をするなり、供養をするなり、あるいは捨ててしまうなりするはずなのです。除霊や供養をすれば、元に戻るでしょう。捨ててしまえば、野生で暮らすでしょう。けれど、憎悪の感情と、負の感情に包まれたジュペッタを飼い続ければ――飼い殺せば、こうなるんですよ」
心花さんは、またジュペッタを拾い上げて、投げ捨てた。
「飼い殺す……」
「立花さんだってそうでしょう」
「……何が、ですか?」
僕は不安な気持ちを押し殺した。
何も聞きたくないようで、
何か知りたいような。
「本当は黙っていようかとも思ったんですよ。立花さんのことを、傷付けたくなかったですし、それに……それを言えば私自身のことも話さなければならなくなりますから」
「だから……何が、ですか」
「立花さんが連れているジュペッタ……」
彼女は、僕が小脇に抱えたジュペッタを見ながら、言う。
「もう、動いていませんよね」
と、心花さんは言った。
僕は、小脇に抱えたジュペッタを見る。
「ぎゅる?」
と、ジュペッタは言った。
――――気ガシタ。
「いや……」
「そんなことはない、とお思いですか?」
「……バカな、そんな」
「少なくとも『仮面舞踏会』の時には、意識も自我もあったはずです。けれど、今日会ったジュペッタは、もう亡骸でした。本当に気付いていなかったんですか? でも、仕方ありません。そういうものですから。依存したものが終わる瞬間を、人はなかなか認められないものです」
……僕は、ジュペッタを掴んでいた腕の力を緩める。
ジュペッタは、するりと、物体が落下するように――実際、それは物体が落下したに過ぎない現象なのだが――落ちた。
床にたたきつけられ、
「ぎゅる!」
と、
怒ッタ、ヨウナ、気ガシタ。
――実際に僕の鼓膜は揺れたのか。
そんなことは、確認のしようがない。
ただ――ただジュペッタは、
まるで自分から、動こうとしない。
「う、う……」
「今日、立花さんがここへいらしたときにすぐに分かりました。まるでジュペッタを生きているものとして扱っていましたから……」
「今までは、どこへ」
「最初にお連れしたお部屋で、私と二人きりになった時――立花さんはジュペッタを廊下に連れ出しました。そして私が立花さんのお洋服を用意しに先に外に出た時、ジュペッタは廊下に放置されたままでした。私はそれを、立花さんの目に付かないように、移動させました」
「だって……生きていたんです、今まで」
「ええ。でも、別れは突然ですわ」
僕は、何がなんだか――
どうして、何が起きているのか、床に落ちたジュペッタを――確かに動いていない――見ながら、不思議な気持ちになった。動いていない。終わってしまった。止まってしまった。色々と、考えた。人形だから――鼓動もなければ、呼吸も目立たず、眠っているのか起きているのかさえ分からない、元々生物ではないだけに、いつだって死んでいるのと変わりなくて――
だから、気付かなかったのか。
僕は、ジュペッタが、もうずっと前から――動かなくなっていたことに。
「動揺しないで、立花さん」
「ど……どうして、何が……」
「染みついてしまったんですよ。ジュペッタの怨念や、憎悪や、悪意や、恐怖や、畏怖や、不幸は――全て、染みついたんです。ジュペッタが憑依した人形と同様に。つまり私たちは、呪われた身体なのです」
「あなたも同じ経験を……?」
「ええ、そうですわ」
彼女は僕を見て、
壊れた笑みを見せた。
「そして、ジュペッタはもう、蘇らないのです」