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「……あの」
「はい?」
「やっぱり、やめませんか」
「いえ、やめません」
この『桜花亭』には、長い間、当主である桜祭雛と、その侍女の心花さんの二人が暮らしていたのだろう。だから僕はこの建物を、そこまで広くない、こぢんまりとしたものだと思っていた。しかし、よくよく考えてみれば、元は桜祭家が暮らしていた屋敷だ。こんな部屋があってもおかしくはない――いや、あって然るべきなのだろう。
けれど。
「とても、食べづらいです」
「立花さん、私、怒っているんですよ」
「あの……え?」
「突然、何の準備もしていないのに、尋ねてくるなんて……怒っているんですから」
エプロンドレス――いややはり、メイド服と表現した方が良いのだろう。白と黒を基調とした、いっそ制服、だろうか――を着て、彼女は食事の準備を整える。カートに乗せられている料理も、全て彼女が一人で作った。そう言えば、『逢阪屋敷』で彼女と会った時も、彼女は僕の想像に反して、家事を容易にこなしていた。ここで桜祭雛に仕えていたのなら、そのくらいのことは出来て当然だったのだろう。
少しずつ、彼女のことを理解していく。
それも、外面的にではなく、心に染み込むようにして。
「せっかくですから、ワインも開けました」
「いや……」
「全部、私の持ち物ですから、気にしないでください」
彼女はおざなりに言った。
僕は今、長いテーブルに座っていた。長い、とても長い、十人は優に座れるであろうテーブルに。僕はその短辺に座っている。人一人分だけの席。その横で、心花さんは着々と準備をしている。
ついでに言えば、僕は着替えさせられていた。スーツというほどではないが、少なくとも、山登りのための恰好に比べれば、この場の雰囲気にあったものに。フォーマルな服装、というやつだった。
「あなたは……その、心花さんは、食事はしないんですか」
「しますよ。立花さんのお食事の準備が終わったら」
「……まさか、別々に食べる、ということはないですよね」
「ええ。ただ、もう癖のようなものなので、先に用意をさせてください」
どうにも彼女は、今のやりとりを楽しんでいるようだった。それは単純に、普段人と会えない彼女が、人との接触を楽しんでいるのか。それとも、自分のテリトリーに誰かを置いていることが、楽しいのか。
僕の前に料理が並べられたあと、最後にワインを注いで、今度は僕のすぐ横に、料理を並べ始めた。こういう配置をなんというのか、と思ったが、そう、僕が座っている位置は、いわゆるお誕生日席というやつだった。
「失礼しますね」そう言って、彼女は席についた。「それでは、食べましょうか」
「……食べながら、話をしてもいいですか」
「ええ」
ナイフとフォークを手に取り、彼女は食事の体勢に入る。少し考えをまとめてから、僕は口を開いた。
「僕は、あなたを止めに来ました」
彼女は食事を続けている。だから何となく、僕もナイフとフォークを手にした。会話にだけ集中してしまうことは、彼女に失礼かもしれないと思ったからだ。
「私の、なにをですか?」
「あなたのその……執着です」
「執着?」
「もちろん、雛さんを忘れた方が良いとか、この屋敷を捨て去った方が良いとか、そういうことを言う権利は僕にはない。けれど……そうだ、逢阪巴という人物を知っていますよね」
「ええ。逢阪家当主、除霊師。そして、立花さんの遠縁のお方」
「彼女が言うには、降霊という儀式は、除霊に比べて、明らかに危険だと――あなたにさえ、何か問題が起こるかもしれない。だからやめた方が良いと、忠告しに来たんです。多分、一番あなたに言いたかったことは、それだと……思います」
「歯切れが悪いんですね」
「すみません。僕自身、未だにここへ来てしまった情熱とかが、理解しきれていないんです」
「そうですか……」彼女は少し嬉しそうに微笑んだ。「降霊……そうですね、そういう呼び方が、本来は正しいのでしょうけれど。けれど、降霊をするかどうか、それを決めるのは雛様です。私はその準備をしているというだけですから」
「儀式は行わない……ということですか」
「強制的な降霊はしませんし、実を言えばやり方も詳しくは知りません。それは雛様の望みとは違うものですから」
「でも、もし、もしあなたの願いが叶って、雛さんが何らかの人形に憑依したとして――あなたはそのあと、どうするんですか」
「もちろん、お世話をします」
「それじゃあまるで――」
と言いかけて、僕は口を噤んだ。
それじゃあまるで、あなたは一生人形みたいじゃないですか。そんな言葉を口にしようとしたのだろうか。あるいは、それじゃあまるで、奴隷のようだ。しかし、そのどれもが似つかわしくないようで、どうにも悪い響きしか生まないようで、僕は口を閉じてしまう。
そんな僕の言葉を引き継ぐように、
彼女は言った。
「それじゃあまるで……ジュペッタのよう、ですか?」
種族の名前を限定させて、彼女は言う。
ジュペッタのよう。
あるいはそれは、様々なパートナーに当てはめてしまっても、通じてしまう言葉なのかもしれない。
例えば荻野さんにとっての、リザードのように。恋にとっての、ズバットたちのように。
そして僕にとってのジュペッタのように。
「それは……」
「でもその通りです。私は、雛様のパートナー……あるいはペットのようなものなんです。ペットとして、仕えている。そのことに違和感を覚えたことは一度もありません。私はずっと、そのように生きていましたから」
「でも」
だけど。
人間とは違うはずだ。
僕はそう言いたかった。しかし、それを言う勇気や、確証が持てずにいた。それを口にしてしまえば、人間はあまりに勝手な生き物であることを、認めなければならない。人間はだめで、何故他の生き物なら許されるのか。その明確な線引きを、僕はすることが出来ない。
「でも、なんですか?」
「……人間だからやめるべきだとは言いません。いえ、あなたが人間であろうと、そうでなかろうと、きっと僕はこう言うんです。それを言うためにここに来たんです」
「……なにをですか?」
「僕はあなたを、自由にしたい」
「自由に、ですか。どうしてですか?」
「それは……」
恐らく、種族や立場とは無関係のこと。
考えれば、迷宮を彷徨ってしまいそうなことだ。
例えば人への好意や、そうではないものへの好意や。
何故、誰かを特別視してしまうのか。どうして、何かを特別視してしまうのか。まるで禅問答のような。あるいは哲学のような。壊れてしまいそうな感情を、大切に汲み取ってみる。透明で、心から溢れ出た、もしかしたら液体なのかもしれないそれを、僕は汲み取ろうとした。ずっと溢れ出たままだったそれを、両手で掬ってみる。
死を――意識する。荻野さんという人物を、僕はまだ、詳しくは知らない。ただ一夜を共にして、一緒にお酒を飲んで、今日、再会しただけ。その荻野さんのパートナーであるリザードのことだって、僕は詳しくは知らない。なのに、よく知らないくせに、あれはあれで幸せなんだろうと感じている。
荻野さんが良い人に見えるからか。
それとも、そういうものとして、僕が認識しているからか。
奴隷――と言えば、そうなのだ。
ジュペッタだって、僕と一緒にいてくれて、それを「慣れてきた」とか「ようやく打ち解けてきた」などという言葉で、概念で、解釈していたのは、きっと間違いだった。都合の良い理解の仕方。けれど。
それにしてみたところで、僕はそれを拒めない。結局のところ、自分勝手なのだろう。ジュペッタの気持ちも確かめず、暮らしていて、それなのに、それと同じような境遇の心花さんを、受け入れられない。やめた方が良いと、思ってしまう。自分勝手で、身勝手な感情だ。筋が通っていない。
そもそも、辞めさせて、どうする。彼女を救って、彼女という人間を育てあげた桜祭雛という女性を、心花さんから取り上げて――どうする。この家を捨てさせるのか。コレクションした人形はどうする。全く、そこまで気が回っていない。だからこれは、自分勝手で、おかしな発言だ。
分かっている。
僕は、人間は、勝手だ。
途方もないくらい、独裁的。
きっと、正義感なんてないのだろう。
ただの勘違いや、ちょっとしたミス。
ただ偶然――知り合ってしまって、それを、心地良いと思ってしまって――ただそれだけの、恐ろしく勝手な、勘違い。
それを、彼女に押しつける。
それもまた、身勝手な行い。
「それは、嫉妬です」
多分、そう、嫉妬。
桜祭雛への、嫉妬。
「僕は、恐らく……あなたに、恋をしている。だから、誰かに属していることを、妬んでいる。きっと、そういうことです。ただそれだけの理由で、僕はあなたに会いに来たんです。あなたが好きだから、あなたの興味を僕に向けたい」