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桜祭雛という女性は、狂っていた。
もし彼女がほんの少しだけ、自分を嫌いになれたら。それともほんの少しだけ、自分を好きになれたら、そんなことにはならなかったのだろうけれど――しかし彼女は、不運にも、そうした精神状態に陥ってしまった。
自分の顔は美しいけれど。
自分の肌は美しいけれど。
自分の体は美しいけれど。
けれど――完璧ではない。
だから彼女は、完璧な顔を、完璧な肌を、完璧な体を、欲することになる。その条件を満たすのは、どこを探しても、人形という媒体のみ。彼女の熱意は、そして、人形蒐集に当てられることになる。
しかし人形を集めるのには、お金がかかる。そのためには、仕事をする必要がある。いくら桜祭家が、古くに運搬稼業で財を成したとは言え、それを自由に使えるほど余裕があったとは思えない。財力には終わりが来る。
その理由を、僕はこの場所で、彼女から――つまり心花さんから――初めて聞くことになるのだが、それを知って僕は、世界はとても汚いのだということを、思わずにはいられなかった。
科学技術の進歩によって需要が薄まった運搬業。桜祭家は早々にそれらの事業から撤退はしていたが、完全にそれをやめたわけではなかったのだという。ではどうやって暮らしていたのか? どうやって稼いでいたのか?
つまり、裏稼業。
違法な運搬を、続けていたのだという。
それは本来であれば、どうしてもしてはならないことだった。けれどそれは法律だからしてはならないというだけ。僕のような人間にとっては、実を言えば大した衝撃ではなかった。違法であろうと、必要としている人がいて、それを行おうとする人がいるなら、すればいい。例えば密造酒や、例えば麻薬。僕は、別にどうだって良いと思う。その二者間だけで完結することなら、それで良いと思う。
だからそういう意味で言えば、決して完全なる悪とは言い難かったけれど――それでも、気になることはあって、だから僕は、確認する意味も込めて、彼女に――心花さんに、問い正した。
「つまりあなたは……売り物だったと」
「そう教えられました」
決してもう彼女の中で終わったことだというわけではないだろう。それは深く、暗く、彼女の心の中に浸透しているはずだ。それでも、彼女は――そう、淡々と言った。そう教えられました、と。そういう事実だけでしかないのだ、と。
「雛様は、様々な才能に恵まれた方でした。学校には通わず、小さい頃から、大人と、人形に囲まれていました。雛様は、私よりも七歳年上で……私が拾われた時、私は五歳でしたから、雛様は十二歳にして、既に桜祭家の裏稼業をほぼ掌握していました」
まるで現実感のない話だったが、恐らくそれは現実なのだろうと、僕は思った。十二歳にして桜祭家を掌握していた、桜祭雛。それは、裏稼業というだけあって、史実に出てこない話なのだろう。
「私は、幸いにも、雛様が気に入る容姿をしていたみたいです。もっとも、容姿に価値があったからこそ、桜祭家というルートを利用して、これからまさに売られるところだったのですが」
「この時代において、人身売買なんてことがありえるんですか」
「現に、あり得ていました。二十年前までは、確実に」
しかし、と彼女は言う。
「もちろんそれがとても悪いことだという意識は、桜祭家にもあったようです。もっとも、その意識というものだって、果たしてどこまで人道的かは分かりませんが……少なくとも、私が雛様に拾われ、身の回りのお世話をさせていただくようになってからしばらくして、人身売買、あるいは移送の仕事からは身を引いたようです。それは同時に、雛様が桜祭家の当主として、実権を握ったからなのですけれど」
「十二、十三歳あたりで、実権を……」
「とにかくお金が欲しかったようです」
昔を懐かしむように、彼女は言う。
「実際、雛様の手腕は凄まじかったです。知識のない、まだ何も知らない私ですら、きっとこの方は、どんな大人よりも頭が良いのだろうと思っていましたから。そしてそれは、その通りでした。雛様は桜祭家を掌握し、この『桜花亭』すら、手に入れてしまいました」
「どうしてそこまでお金を?」
「お人形のためです」
彼女は視線を部屋の中に巡らせる。どこを向いても、人形が配置されている。
「雛様の人形蒐集癖は、八歳の頃には始まっていたそうです。私から見れば――雛様はとてもお綺麗な方でした。お人形のように、という表現が似つかわしいくらいに。けれど、どちらかと言えば、日本人的な美しさです。透明感のある、どこか霊的な美しさ。でも、雛様は、西洋人形のようになりたかった」
「それで、とにかく人形を買い集めた、と」
「ええ。雛様はご自身の容姿を受け入れませんでしたけれど、決して、整形や過度なお化粧で、自分を人形のようにしたいとは願いませんでした。ただ、人形に囲まれていれば満足だったようです。そういう満足に、幼い頃に切り替えたのでしょう。私も色々な服を着させられました。人形には劣るけれど、人形のような容姿をした私。それ自体は楽しかったのです。雛様が喜んでくださるなら、それで。私は雛様の人形として、忠誠を誓っていましたから。歳を取れば取るほど、世間を知れば知るほど、私がこのように平穏に暮らせているのは、雛様のおかげなのだと知って――だから私は、雛様のために、生きるようになったのです」
視線を僕に向け、彼女は微笑む。
「けれど、約一年前、雛様は他界されました」
「……ええ、そう、聞きました」
「雛様は人形愛好会などにも顔を出したり、精力的な活動をしていました。私は人形でしたから、外に出ることはほとんどありませんでした。肌が極端に白いのも、生まれつきというのもあるでしょうけれど、毎日こうした服装をしていたからです。雛様の人形であるため、肌の劣化には必要以上に気を遣っていましたから」
肌の露出を完全に防ぐ服装に、頭の上に乗った装飾。かなり大きめのそれは、日光を遮るには充分な大きさだった。
「二年ほど前から雛様は頻繁に体調を崩すようになり、ついには亡くなりました。ですから、二年前の時点で、仕事はほとんど終わっていましたね」
「仕事……と言っていますけど、裏稼業はやめていたんですよね。しかし、人身売買からは撤退したのでは?」
「ええ。人間ではなく、主に動植物を違法に流していました。『仮面屋敷』でも、同じようなことを」
「……ああ、なるほど」
なんだか、銀色黄金、という男と彼女の繋がりが見えたような気がした。いや、それだけではなく、『仮面屋敷』でのオークションがどうして行われ、そこに彼女が参加していたのかも――なんとなく。
もしかしたら、桐島は知っていたのだろうか。いや、知っていたのだろう。けれどそれを口にはしなかった。何故か? わざわざ知らせる必要がないからだ。
世の中には、こんなに裏側が存在している。
どこが表なのか分からないくらいに。
「晩年の雛様は、死を嘆いていました。まだ出会っていない人形がある、まだ見ていない美しさがある、と。そしていつからか、死んでしまって霊魂だけになったら、人形になりたい、と仰るようになりました」
それは――僕の想像と合致していた。
だから、口にする。
「雛さんが、あなたにそれを託したのですか」
「いえ」
彼女は否定する。
気まずそうな口ぶりだった。
「それをしているのは、私個人の判断です」
「僕は……無礼を承知で言わせてもらいますが、桜祭雛という女性を、もっと悪い人間だと思っていました。けれど、今の話を聞いている限りでは、人形を集めるのが趣味で、商才に溢れた――それが違法な仕事だとしても――普通の女性に思える。あなたを救い、育てたのも、彼女の手によるものなのでしょう」
「ええ」
「そんな女性が、死して尚、あなたの人生を束縛するようには思えない。僕の想像する桜祭雛は、あなたを自由にしたはずだ」
「そう」彼女はゆっくり頷いた。「私は雛様から、再三に渡って、『私が死んだらこの家と財産をあなたに譲るから、あなたは自分の人生を生きなさい』と言われていました。雛様はお優しい方でしたから、何年も人形として扱った私を、ついに自由にすることにしたのです。人形扱いした分の償いだとも仰って、財産を残したのです。雛様亡き今、私は自由の身になりました」
「じゃあ、何故」
「これが私の人生だからです」
雛様の望みを叶えることが、
私の、唯一の望みですから。
――彼女はそう言って、立ち上がった。僕は思わず、視線で追う。
「どうぞ、今日は泊まって行ってください。最近は、すぐに日が落ちてしまいますから。それに、想像は出来ると思いますけれど、人形を探しに行く時以外は、私は、とても退屈しているんです」
「ですが……」
「私のお話は、以上です」
彼女は脱いだ手袋をもう一度はめる。
「お食事を用意致しますね。立花さんのお話は、お食事をしながら、ゆっくりと」
「いや、あの……」
「ずっと誰かに仕えていた身ですから、誰かのために働く方が、気楽なんです。ね、立花さん」
魅力的な表情で、彼女は魅力的なことを言う。
「是非、今日は私のご主人様として、おくつろぎください」