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「桐島様は外出中でございます」
僕が二ヶ月ぶりに『仮面屋敷』に顔を出して、一番最初に顔を合わせたのは、哀野愛という名のメイドだった。彼女とは別にそこまで親しいというわけでもないのだが、彼女の妹である、この屋敷の管理人(本来言葉の意味ではこの表現が一番正しい)にして監視人であるところの哀野恋と仲良くしていたというのもあって、いくつかの繋がりがあった。
「そうですか」
「何が伝言がありましたら」
「ああいえ、近くを通ったから寄ったとか、その程度のことなんですが……あの、恋さんはいますか」
「おります。よろしければ、どうぞ中へ」
「入って大丈夫ですか?」
「ホールまでは玄関先のようなものですので、構いません」
誘われるがままにホールに通される。中には、あの日、パーティが行われていたのとは全く違う景色が広がっていた。その翌朝、朝食をとった時とも違う。テーブルなんて全くない、簡素なホールがあるだけだった。美術館のように、部屋のところどころに、背もたれのないソファが配置されている。僕はそのうち一つに通されて、恋を待つことになった。
天井を見上げる。あの日見た大量の蝙蝠の群れはそこにはなかったが、それでも何匹かがぶら下がっているようだった。途方もないくらい高い天井なので、僕とは物理的距離がひどく離れていた。ここまで距離があれば、僕の体質も影響はしない。
「ぎゅるぎゅる」
「長居するつもりはないよ」
隣に下ろしたソファから、ジュペッタの抗議の声が聞こえてくる。最近分かるようになったことなのだが、ジュペッタはどうやらこらえ性がないらしい。最初は緊張していたからだろう、あまり不平不満を態度に表さなかったのだが、最近はよく僕に抗議してくる。慣れてきたのならそれは幸せなことなのだけれど、どうなのだろう。
「久しぶりね、戦」
と。
不遜な態度で現れたのが、この屋敷の監視人である哀野恋だった。今日は当然仮面を被っていないが、頭にシルクのリボン(という表現で正しいのかは分からない)を巻いていた。左耳の上辺りで蝶結びにされている。随分と長いリボンのようで、肩まで垂れ下がっていた。
「久しぶり」
「私に会いに来てくれたのかしら。だとしたら嬉しいわ」
そう言って、恋はスカートの裾を広げて、膝を軽く曲げた。今日はあまり丈の長くないスカートを穿いていた。そこから伸びる脚は、折れそうに細い。少女性を垣間見る細さだった。
「まあ……近くを通ったからというのが、本音かな」
「つれないのね」
視力の弱い、あるいは全く機能していない恋は、手探りしながら僕の隣のソファに座った。正方形のソファが、また正方形を形成するように四つ配置されているため、隣のソファは二つ存在していることになる。片方にジュペッタ、片方に恋だった。
「お姉様には会ったの?」
この場合、お姉様というのは実の姉である哀野愛ではなく、僕が会おうとしている彼女のことだ。
「今から会いに行くところだよ」
「あら、自慢しに来たのかしら」恋は不快そうに言った。「というか、お姉様がどこにいるか知っているのね」
「知っているというか、突き止めた」
「一歩間違えれば犯罪じゃないの」
「いや、これはただの犯罪だよ」
僕は思ってしまう。
意外と、犯罪ってのは簡単だ、と。
思えば、『逢阪屋敷』で起きた――僕は便宜上『スケープゴート事件』と呼んでいる――出来事があってから、僕の周囲は変化した。けれどそれは犯罪が起きたから起こった変化で、決して褒められるようなことではない。その後、この『仮面屋敷』で起きた事件も、それに拍車を掛けている。
そう言えば、僕に銀色黄金と名乗った男性は、捕まったのだろうか。
彼が人形を持ち去ったはずなのだが。
逢阪製と噂される、日本人形を。
とにかく色々あって、僕はこの数ヶ月で、犯罪というものに対する見方を完全に変えていた。誰かが傷つかなければ、あるいは損害を被ったとしても、それが美しい動機によるものであれば、許せるのではないかと。
そのくらい、犯罪は簡単なものだ。
結局、規制があるだけ。
人間の欲望は咎められない。
「まあ、僕は犯罪にあまり敏感な人間ではないからね。生死に関わる犯罪は、流石に見過ごせないけれど、許される犯罪なら、別に構わないと思っている」
「許される犯罪」
「例えば、僕が彼女を追いかけること」
「自意識過剰という気もするけれど」
「それはそうかもしれない。自画自賛も良いところだ。でも、なんとなくそんな感じがする」
「お熱いことね」
恋は呆れたように言った。
「じゃあ、こんなところで長居している場合じゃないんじゃないかしら」
「まあでも、恋の顔も見て起きたかったしね」
「それは光栄だわ」恋は言う。「なかなか、戦って、残酷な男なのね」
「何が?」
「分からないなら、いいんだけど」
「じゃあ、これは元々の予定ではなかったことだけど……聞いてみたいことがあるから、教えて欲しい」
「何かしら? 私の話なら歓迎だわ」
「恋は、多くのズバットを飼っているわけだよね」
天井にぶら下がる数匹のズバットも、全て彼女の所有物である。
「そうね。軽く見積もっても、百匹くらいは」
「それは全部把握出来ているわけ?」
「流石にそれは無理」恋は素直に認めた。「頻繁に利用したりする子なら覚えているけれど、そうね、一般的なパートナーのようには扱えていないわ。出来ればそうなりたいところだけれど、限界はあるわ」
「へえ……そうだったのか」
「もちろん、あの子たちの親にあたる、つがいのクロバットならよく分かるわ」
「ああ、クロバットも飼っているんだ」
「ええ、これはパートナーだけれど」
あまり詳しいわけでもないが、クロバットという成長過程に至るには、かなりの親密度合いがなければいけないという知識があった。つまりそれは、少なくともクロバットに限れば、恋はパートナーとして並以上の愛情を注いでいるというはずだ。
「そのクロバットたちの子孫が、ズバットなんだ」
「そう。だから生まれてからほとんどこの屋敷にいるわ。戦闘能力なんてほとんどなくて、世間知らず。でもその代わり数だけは多い。いざというときは捨て駒にもなるの」
「捨て駒?」
「戦はあまり野生生物との関わり合いが少ないみたいだから教えてあげるけど、彼らだって無限に戦えるわけじゃないわ。人間だって、いくら相手が子どもか何かだって、倒していくのは大変でしょう。それが例え一撃で倒せる力関係だとは言っても」
「まあ……そうだろうね」
「だから、百匹を相手にして、まだ戦闘を続けるというのは、大変なの。私の可愛いズバットたちは、一生まともに育つこともなくて、強くなることもない。ただ、諜報部隊として天井にぶら下がって、いざというときは捨て駒になるだけの存在なの」
「捨て駒になったこととか、あるのかな」
「どうして?」恋は不思議そうに言う。「戦、今日は妙なことを訊くのね」
「いや、本当に捨て駒になって……例えば死んでしまうことがあったとしたら、と思って」
「捨て駒と言っても、死ぬわけではないわ。いくら育っていないズバットとは言っても、そこまで生命力が低いわけではないもの」
そういうものなのか、と僕は思う。ジュペッタとパートナーになれた僕ではあったけれど、体質のせいで、野生で戦闘を行うことなど皆無だ。彼らの生命力というものを、僕は全く知らずにいる。
「それでも、もし死んでしまったとしたら、恋はどう思う? 悲しいかな」
恋は僕の方を見る。それは、目が見えていない以上、顔色を窺ったりという意味合いではないはずだったが、確かな言葉を伝えようという姿勢に見えた。
「繋がりがある生命が潰えたら、悲しい」
けれど、と続けて、恋は言う。
「悲しいけれど、引きずらない。私はそのために、ズバットたちを育てないし、捨て駒としてしか認識しないの。だって、いちいち悲しがっていたら、たくさんの生命を飼うことなんて出来ないもの」
「そうか」
「だから、もし戦のパートナーのジュペッタがいなくなったら、悲しいでしょうね。一匹しか飼っていない人って、そういうものよ。いなくならなくても、動かなくなってしまったのだったら……」
「でも、ジュペッタは死なないからな」
「いいえ」
恋はゆるゆると首を振った。
「死ななくても、成仏はするのよ」
それが意図的でなくても。
望みが叶えば、成仏はするの。
恋はまるで、経験でもあるかのように、言った。僕はその意味を、あまり深くは理解出来ていなかったように思う。そして同時に、理解することを、拒んでいたように思う。