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雨の降りそうな曇天が続いていた。
不安を抱えた心模様のような天気だ。
少し気が緩めば、泣き出しそうな張りつめた空気が、森の中に充満している。
僕はこの数か月、ぽっかりと穴が開いたような、空虚な時間を過ごしていた。
最初からなかったものなのに、どうして失ってしまったような気持ちを覚えるのだろう。一度も出会うことなく、一度も接点を持つこともなく死んで行く人は多くいる。この地球上に存在する生物のほとんど全てが、僕との関わりを持たずに生きて、死んで行く。それなのに、その中にあるほんの一握りの関係性を、僕たちはまるで奇跡のように信仰して、大切にしようとする。
その上僕は、今自分が追い求めている人物のことを、何も知らない。ろくに知りもしなくて、ろくに会ったこともない人を、追い求めている。それは冷静な頭で考えれば、狂気に似ていた。
あるいは、狂気そのものだったのか。
僕の知る彼女の名前。それらは全て偽名だ。だから、今彼女をどう呼べば良いのかは分からない。だから、僕は彼女を決まった呼び名で呼ぼうとしない。
「……疲れたな」
随分、長い間歩いてきた。これほどの長距離移動は久しぶりだった。公共機関を何度も乗り継いで、僕はこの土地に訪れた。僕の友達のジュペッタは、今はリュックサックから顔だけ出して呑気に森の景色を楽しんでいる。流石に長時間手を繋いで歩くのは大変だし、険しい山道ともなれば、彼を歩かせるのは難しかった。ボールに収納してしまうのも、何だか躊躇われたので、この方法を採用した。
「お前は楽そうでいいな」
「ぎゅる?」
「まあ、それでも、ようやく、辿りついたみたいだ」
険しい山道の先に、古めかしい、白とエメラルドグリーンを基調とした建物が見えた。
名前を知らない、森を構成する一パーツとしてだけの木々の群れの中、その建物の周辺だけが、桜の木で囲まれていた。幻想的で、退廃的な空間。足を踏み入れるのが躊躇われて、僕は動きを止める。
自分の行動に、苦悩してしまう。
よく知らない相手の所在を突き止めようとする行為は、まるでストーカーだ。僕の中にそういう自覚はあったし、そのせいで捕まってしまっても良いとすら思えてしまう。もう一度会いたいという、動物的本能だけで、僕はここにやってきた。それは、なんだかとてもみっともないことだった。男らしくない。それでも僕は、もうここに来てしまっていた。
『桜花亭』と呼ばれる、一軒家。
周囲に人家のない、孤立しきった屋敷。
そこに僕は、訪れた。
『逢坂屋敷』からも、『仮面屋敷』からも、地方の呼び名が変わるくらいに離れた場所だった。汗を拭って、水筒で喉を潤し、一歩を踏み出す。
西洋風の建物ではあったが、玄関には『桜祭』という表札が掛かっていた。木製の掛札で、彫られた名前に、墨が入れられている。
玄関先には、よく磨かれた真鍮の呼び鈴が備え付けられていた。風で揺れないよう、小さな箱で覆われている。僕は紐を引いて、控えめに鈴を鳴らす。
しばらく待って、戸が開いた。
「……ようこそいらっしゃいました」
どう呼べば良いか分からない女性。
とても久しぶりに会う女性。
不思議な昂揚感に包まれる。
「お久しぶりです」
「本日、当主は留守にしております」
侍女の服装だった。
露出のほとんどない、エプロンドレスに、頭飾り。今までの彼女の印象とは全く違う、地味で、生気のない姿。
まるで人形のようだと、そう思った。
「お邪魔しても良いですか」
「本日は当主が戻る予定はありません」
「あなたに用があるんです」
「……では、どうぞ」
彼女は、僕の知る彼女とは違って、控えめで、大人しかった。
彼女に連れられて、僕は『桜花亭』に足を踏み入れる。
その室内は、異質の一言に尽きる。
絵画の額を押さえるようにして飾られている人形、廊下の椅子に行儀よく座らされている人形、階段の手すりに手を掛けている人形……その邸宅では、精巧で美しい人形が、まるで命を持っているようにして、数多存在していた。
「……お久しぶりですね」
人形だらけの廊下を歩きながら、彼女は言った。
僕は何が知りたかったのか。
僕は何を言いたかったのか。
分からないまま、僕は訪れた。
使命感のようなものに、突き動かされて。
真相を、
真実を、
……そんなものが本当にあるのだとして。
そして僕がそれをどうにか出来るのだとして。
この耳で、
この目で、
その存在を、確かめるために。
出来ることなら、その呪縛から、彼女を救ってあげたかったのだ。