14
翌日。
ライモンシティに聳える一泊百万円のVIPルームを有した高級ホテルの最上階で目を覚ました僕は、緑葉がまだ目を覚ましていないことに気付き、そっとベッドから這い出た。カーテンを閉めないままだった部屋には朝日が差し込んでいるが――しかしながら、まだまだ早朝のようだ。部屋に備え付けてある壁掛け時計は、午前七時を知らせている。もうちょっと寝ていたかったような気もするけれど、僕は仕方なく起きてしまうことにした。昨晩の戦闘の興奮が覚めていないのだろう。頭の中はポケモンのことでいっぱいだった。
さて……朝食の仕様がどうなっているのかを確認するためタブレットを手に取った僕は、そのタブレットを持ったままで、部屋から出て行くことにした。もぞもぞ物音を立てて緑葉を起こすのも忍びない。『散歩してくる』とだけ書き置きをして、部屋を出る。
部屋を出て、まずはこのホテルのフロアマップでも確認するか……と、廊下にあるソファに腰掛けてタブレットを操作しはじめる。タブレットの便利なところは、操作感を知らなくてもなんとなく使えるというところにある。タッチパネル式だから、操作と感覚が直結する。ここを調べたいと思ったところを触れば良い。まあ、テキストを打つことはやはりキーボードの方に軍配が上がるだろうけれど……と思いつつ、実際にテキストを入力する。フロアマップ……と。
「おはようございます」
突如上から声を掛けられ、視線をずらす。まず目についたのは高級そうな革靴と、スーツだった。そこから上に視線を向けていく。最初、ホテルマンかと思った。VIPルームの層なのだから、ホテルマンがいても不思議ではない。しかしその人物の顔を見るに至って、僕はとても複雑で、喜怒哀楽のどれにも属さない表情を作らざるを得なかった。
「紅々……さん」
「お早いお目覚めでございますね、空色様」
昨晩相対していた時とは少しばかり雰囲気の違う紅々。腰が低く、笑顔を絶やさず、非常に友好的だった。第一印象が最悪だったおかげで、裏では何を企んでいるのだろう……というような下衆な勘ぐりをしてしまう程度には、僕は紅々に心を許していなかった。
「昨晩は素晴らしい対戦をしていただきまして、光栄でございました。私、あのような施設で敗北を喫したのは、久々の経験でございます」
「それはそれは……悪いことをしたみたいで」
「いえいえ、とんでもございません。心の底から、嬉しく思っているのでございます」
「えっと……とりあえず、座りますか?」
「私、使用人という立場でございますので」紅々は控え目に笑顔を見せる。「特に空色様は……差別的な意味ではないのですが、上流階級のお方ですので」
「僕がですか?」
「どうかその敬語もおやめになっていただけると……私、年齢は十八歳でございますので」
「十八歳!? 嘘だろ!」
「事実でございます」
「僕より二歳も年下で……その長身とその風格はなんなんだ……」
「朽葉家の食事で育てられたからかもしれません」
「なるほどね……」
そう言われ、僕は理解した。そう、彼の主人は朽葉家の一人娘……朽葉乱麗。彼女がイッシュ地方に滞在しているのだとしたら、このVIPルームに宿泊しているのが当然だ。執事が同じ部屋に泊まっていても、不思議はない。
「執事……という立場上、敬称をつけられるのもあまり気持ち良くはないのかな」
「左様でございます。とは言え、空色様に強要出来るような立場でもございません」
「じゃあ、紅々。僕のことは苗字じゃなくて、名前で呼んで欲しいな。あんまり、好きじゃないんだ」
「かしこまりました、ハクロ様」
タブレットの画面をスリープさせて、ソファに投げ打った。
「それで……何か用? いや、邪険にしているわけじゃないけど……何かしようと思って通りすがったのかと思ってさ。用事があるなら、僕に構っていても仕方ない」
「ご用件と言うのでしたら、ハクロ様とのお話がそれに当たります」
「僕?」
「尾行をした……というわけではありませんが、昨晩の対戦のあと、帰路の途中でハクロ様と緑葉様がホテルに入って行くところを拝見しまして。当然、我々もホテルに戻る道中だったのですが」
「ああ、まあタイミングが被るのは当然だね。同じ場所から、同じ場所に帰るんだし」
「お嬢様から、ハクロ様にしっかりとご挨拶をしておくようにと。もちろん、私と致しましても、ハクロ様とはご懇意にと思っておりましたので……」
「ふうん?」
「以前から是非お話をしたいと思っておりましたが……機会が訪れなかったものですから」
「何年も朽葉にはいたつもりだけどね」
「マチス様から止められておりまして」
「少佐?」
なんの繋がりが……と一瞬思ったが、朽葉ジムリーダーにして朽葉港の管理者である少佐の名前が出てくるのは、別段不思議ではないか。
「ハクロ様はもう立派な大人の男性でございます。私よりも年長者でありますし、目上の方にこのような言い方をするのは失礼かと思われますが……現在は空色家の当主様でありますので」
「当主……なんか笑っちゃうね」
「しかし周囲からの評価は」
「まあ確かに、そうなんだろうけどね。社交界? みたいなものには、顔を出すべきなんだろうと思ってるよ。最近はそれなりに、少しずつだけど……そういう方面も、ちゃんとしようとは思ってる」
「そのようでございますね。こちらでも少しずつ、そのような変化を聞いておりました。匿名で寄付をなさっているというお話も、ちらほらと……」
「あれは……父さんたちの引き継ぎみたいなもので、僕個人の意志ではない」
「意志を継ぐのはご本人の意志でございます」
「……まあ、そうなんだろうけどさ」
「マチス様は、ハクロ様が自らの意志でそうした環境に関わるまで、そっとしておくようにと周囲に話しておられました。もっとも、そうした気遣いを無碍にして接触を図ろうとする輩も、多少なりいたようですが」
手紙を送ってきたり、勧誘してきたりする連中は、確かにたくさんいた。それが原因で、僕はさらに殻に籠もる結果になったわけだけれど。
「けど、僕がそういうことに積極的になったから、朽葉家も話しかけられるようになった、ってことかな」
「そういう側面もございます。もっとも、二十歳を過ぎればこちらからお話に伺うつもりではありました。しかし、関東にはいらっしゃらないようでしたから、機会を見てから……とは」
「じゃあ、昨日会ったのは偶然?」
「左様でございます」
「なるほどね。まあ、意外とそんなものかもね、巡り会いなんて……」
「と申しましても、ハクロ様にこれといってお願い申し上げることはないのですが……ご挨拶だけでも、と」
「わざわざどうも。しかしなんで朽葉家の人がイッシュに? それも、見たところ二人旅のようだけど……」
「お嬢様の仕事の都合でございまして。簡単にご説明させていただきますと、最近では鉱物の輸出入を。宝石などが多いですね」
「宝石……ジュエルとか?」
「左様でございます。ハクロ様もお持ちのようでございましたね」
「まあね。使いやすいから」
「それでしたらこちらは……お近づきの印に、と」
紅々はスーツの内ポケットから、小さな箱を二つ取り出した。すわ結婚指輪か、と思うようなサイズで、実際に同じような構造だった。
「これは、いくら?」冗談交じりに聞いてみる。「高価そうだけど」
「お嬢様からのささやかな贈り物でございます。強いて言えば――二十歳の誕生日プレゼントとお受け取り下さい。もう片方は、緑葉様に」
「昨日会った人にものを貰うというのは中々に抵抗があるけどね」
「ハクロ様にも、朽葉家の仕事に興味を持って頂きたいだけでございます。平たく言えば、下心のある贈り物です」
「仕事への勧誘?」
「主には出資のお願いを」
「そのくらいあからさまな方が僕は好きだね」
受け取った箱を開いてみる……と、中に入っていたのは、小さな石だった。宝石、と言うにはあまり美しくはない。ジュエルのような形状ともまた違った。
「進化の石?」
「ともまた違うようです。日本では発見されていない鉱物ですし、イッシュ地方でも恐らくは……カロス地方で出土したものです」
「カロス?」
「フランスにある地方でございます。先日までカロスに滞在しておりまして、イッシュを経由して日本へと……本日中には空路で日本に帰国する予定でございます」
「へえ……御三家の人は本当に忙しいんだ」蓋を閉じ、箱をポケットにしまった。「これはポケモンに持たせるアイテムなのかな」
「左様でございます。アブソルに持たせてみてはいかがでしょうか」
「どうして?」
「何もお持ちではなかったようですので」
「……ばれてたか」
「『不意打ち』『しっぺ返し』『剣の舞』それに……『泥棒』でございますか」紅々は、淡々とハクカの技構成を述べた。「特に持ち物の影響を感じなかったものですから、もしかしたら……と」
「ギャンブルが好きなんだ、僕は」
「相手の技に依存する戦いというものは、トレーナーの力量に左右されますからね」
「昨日は本当に危なかった」
「ラプラスの素早さが高いというのも、考え物でございますね。昨晩は勉強させていただきました」
「運だよ、運」
「それが全てでございます」
「まあ……これはありがたく頂戴するよ。関東に戻ったら……今度は、こちらから挨拶に伺おうかな。朽葉にはいないみたいだけど」
「山吹市におります。ご連絡をいただければ、こちらからお迎えにあがりますが」
「いや……山吹は色々縁もあるし、こっちから行くよ。いつになるか分からないけど」
「お待ちしております」
紅々は懐から懐中時計を取り出して、時間を確認すると、「それでは私はそろそろ出国の準備を」と呟いた。忙しそうだ。
「プレゼントありがとう」
「とんでもございません。ですが……まだあまり研究の進んでいない分野の鉱石です。どのような効力があるかは分かりません……もし何らかの変化が見られましたら、教えていただけるとありがたいです」
「なるほど。じゃあ、分かったら報告するよ。連絡先は……聞いても無駄か、電話が通じないし」
「ご迷惑でなければ、お手紙が一番確実かと」
「だね。アナログ文化に勝るものはないか」
僕が手を差し出すと、紅々は白い手袋をつっと外して、それを握り返してくれた。出来れば上下関係とは無縁で、紅々とは仲良くしたいと考えていた。それは、単純に彼が、ポケモンバトルに強い人物だから……である。
「それではハクロ様、早朝から失礼致しました。またお会い致しましょう」
「うん。それに……また戦おう」
「光栄でございます」
「今度は紅々も、本気のメンバーで、本気の戦略で」
「……ばれておりましたか」
「お互い様だね」
軽く挨拶を交わして、紅々は自室へと戻っていった。さて……このまま本来の計画通りに散歩に行こうかと思ったけれど、プレゼントを持ったまま歩くのも忍びないので、タブレットを箱を持って、再び部屋へと戻った。
「あ、ハクロ、おはよー」
「なんだ、緑葉、起きてたんだ」
「んー、長年の旅人生活のせいか、寝不足気味でも朝になると起きちゃうんだよねー」備え付けの紅茶を準備していたようで、優雅にティータイムを楽しんでいるようだった。「ハクロも飲む?」
「んー、このまま朝食にしちゃおうか。って、タブレット持って来たからルームサービスとか頼めなかったのか、ごめん」
「ううん、なんか恐縮しちゃうから、私一人だとそういうの頼めなさそう……そう言えば朝ご飯って、バイキングとか?」
「レストランに行くか、部屋に持ってきてもらうか、どっちかだね」
「……どっちも気が重い」
「じゃあ、部屋に持ってきてもらおうか」
タブレットと箱を二つテーブルに置いて、案内に従って朝食を注文する。和洋中、様々なメニューがあったので、雰囲気に合わせて、洋食を頼むことにした。もちろんお任せコースである。
「ハクロ、これ何?」
「あー……話せば長くなるんだけど、同じ階に、昨日会った朽葉さんが泊まってたんだ」
「へー……って、よく考えたらそっか。ここくらいしか泊まるところなさそうだもんね」
「で、その執事である紅々がくれた。プレゼントだって。お近づきの印に、って。緑葉にも」
「私にも?」
「どっちがいい? なんか、よく分からないものなんだけど、ポケモンに持たせるといいみたいだよ」
「へー、ジュエルみたいなものかな」
箱を二つとも開けて、緑葉は黄色い方の鉱石を選んだ。消去法で、僕は白っぽいものを手に入れることになる。どんな効力があるかは知らないけど、持ち運びに不便なほどの大きさではないし、いいだろう。
「さて、今日はどうしようか」
「ジムにでも行く?」
「そうだね……目的はそのくらいか」
「今回は事件に巻き込まれることもなさそうだしー」
「何、その、今回はってのは」
「ハクロと長い時間一緒にいると、大体変な事件に巻き込まれるからね」
「なんだその名探偵体質みたいなのは……」
「でもそうだよ? ディグダの穴とか、檜皮の時とか、紅蓮島とか……さ」
「ああ、まあ……否定はしない」
「直接被害を受けたのはディグダの穴くらいだけどねー」
「まあ、今回は出来れば穏便に済ませたいところだね……事件という規模を広く見れば、ジムリーダー数名と鉢合っている時点で、もう事件だけどね」
「それはそうだけどー」
などという会話をしながら、僕と緑葉はテーブルを挟んで、和やかにタブレットを操作しつつ、本日の予定を立てていた。昼頃起きる予定だったのに、早々に目覚めてしまった老人体質の僕たち二人。今日という時間が長くあることが、なんだかとても幸せだった。
今日が早く終わればいいのに、
と、願っていた頃のことは、もう感覚的には思い出せないくらいに。