13
僕はベッドで横になる。
勝利の余韻に、浸りながら。
「……ふう」
あまりに真面目に戦いに興じた僕は、ダブルバトル専用のトレインから降りたあとの記憶をほとんど残していない。緑葉が付き添ってくれて、なんとかホテルまで帰ってこられた、という状況だった。
僕は疲労しきっていた。
【闇】なんてものが、あるとして。
ポケモンバトルの中に、そんな領域があるとして……僕は初めて、その【闇】に踏み込んだ気がした。入ってはならない、立ち入ってはならない領域に、踏み込んだ。
もう、帰ってこられなくなるような領域に。
自分がいかに、生ぬるい場所で、心地良く暮らしていたのかを、思い知った。それはある意味では、幸せだったのかもしれない。自分以外の誰もが、ある程度にしか知識を有さず、ある程度にしか熱意を持たない世界。仮初めの世界。勝つことが当たり前で、いつしか自分が勝つことを当然のこととして、受け入れてしまっていたような、そんな世界があった。
勝つこと。
勝利すること。
その裏側を、僕は忘れていた。
見ていなかったわけじゃない。
目を反らしていたわけじゃない。
ただただ、忘れていた。
負ける、という、シンプルな二択。
敗北者という、立ち位置。
それすらも、失われていた。忘れていた。そして思い出した。勝負の世界には、勝ち負けがあること。
勝つ者がいて、負ける者がいること。
自分より弱いトレーナーと戦って――自分より熱意のないトレーナーと戦って――用意されたポケモンをただ繰り出しているような連中から勝利を奪い取ることに、慣れすぎていた。まるでコンピューターと対戦するような、ただの小遣い稼ぎ。それを繰り返して、エリートトレーナーなんていう自負を覚えたはずだったのに、僕は無敗のせいで、愚かにも、それを忘れてしまっていた。
負けてしまうかもしれない、という恐怖。
勝ちたい、という熱意。
それを、どこかで思い出したはずなのに。
だからこそ、先の戦いで、紅々緑青と名乗る男に、詰みの一歩手前を味わわされた僕は――その恐怖を、久々に思い出した。負けてしまうかもしれないという恐ろしさは、勝利を手にする興奮よりも強く、そして恐ろしい。
僕は思う。
僕と同様に、あるいは僕以上にポケモンに対する知識を有し、経験を持ち、それでいて最強を目指すことなく、ただ戦いの世界に身を置くことを楽しむ人間が、どれくらいいるのかということを。
紅々は、その一人のはずだ。
名前も知らない。あの強さを持ってして、朽葉家の執事という立ち位置にいる。無論、『朽葉』の人間であるということは、執事という立場であっても、なかなかにグレードの高い肩書きだと言える。少なくとも、一端のポケモントレーナーと比べれば、遥かに名が通っているだろう。
しかし彼から野心は感じられなかった。
野心――あるいは、野望か。
誰よりも強くなりたい、というような気持ちを感じなかった。そもそも、勝つことに固執したパーティ構成というわけでもなければ、そのための技構成でもなかったように思う。強い、けれど。普通に戦ったら恐ろしいほどの強さを有しているはずだけれど、それは、それだけ。強さを感じるというだけで、そこに絶対的な安定感はなかった。
だからあれは、楽しんでいるのだ。
戦いを、だ。
勝負を、ではない。
勝ち負けとは関係なく、戦うことを。
「ハクロ、勝ったのに元気なさそうだね」
「んー……いや、嬉しいはずなんだけど」
『滅びの歌』『眠る』『カゴの実』を搭載したラプラスに対して僕が選んだ選択肢は、『剣の舞』と『しっぺがえし』の高火力。回復されてしまうなら、耐えられてしまうなら、それを上回る破壊力で潰してしまえば良いだけの話。
結果として、それは功を奏した。
普通に考えれば、『剣の舞』で火力を上げたアブソルの攻撃は防げなくなるはずだ。それが何故通ったのかと言えば――紅々は読み間違えていた。いや、読み間違えるというか、そこまで読めなかったのだ。
紅々のラプラスよりも、ハクカの方が、素早さが遅かった。
恐らく紅々のラプラスは、全体的に能力値が高いのだろう。生物全体に言えることだけれど、基本的に、優れた両親からは、優れた子どもが生まれる。例外は多分にしてあるにせよ、それが一般的な認識だ。それはポケモンにしたって同じことだ。
紅々のラプラスは、繰り返された配合の末に産まれたポケモンなのだろう。
だから全体的に、能力値が高い。
素早さも、その恩恵を受けていたのだろう。
対するハクカは――『勇敢』な性格に加えて、素早さに恵まれなかった。結果として、鈍足以下の鈍さを身につけてしまった。
だからこそ――『しっぺがえし』が、恐ろしい技と成り得た。
ハクカが先制していたら、この勝利はなかったはずだ。
「嬉しいけど、怖かった」
「負けそうで?」
「それもある。負けることが怖かったし……勝った上でも、やっぱり怖かった。そういう人がいるんだってことを理解した時点で、怖かったのかもしれない」
「紅々さん?」
「うん。あの人は……よく分からない」
「すごく強かったし、なんか、言ってることも……あんまりよく分からなかったけど、すごかったし」
「だね。青藍兄さん寄りなのか分からないけど……知識も、経験も、どれを取っても一流だった。僕は運良く勝てただけ」
「そんなことないと思うけどなあ」
「多分、あの人レベルの戦いだと、ハクカみたいなポケモンはほとんど使われないと思う。能力値の高さが、すなわちポケモンの強さに直結してるんだから、ハクカみたいに素早さが低いポケモンはほとんどいないだろうね。ポケモンのイメージに反するような個体はさ……っていうの、緑葉は好きじゃなさそうだけど」
「まあ確かに、私は好きじゃないな……」
「愛情を感じない?」
「うん。ポケモンを、機械として扱ってるみたい」
緑葉はちょっと拗ねた様子で言った。が、もっともだ。最強を目指すあまり、マシン性能に特化しすぎて、自分のトレーナーとしての成長が止まることだってあるはずだ。もちろん、あの紅々は違ったが――
「けど、強さを求めていけば、ああいう風になってしまうのかもしれない。それも一概には否定出来ないよ」
「それはそうだと思うけど……私は、ポケモンを利用するだけのトレーナーにはなりたくないし、そうならなきゃ一番になれないなら、弱いままでいいや」
「ん、まあそうだね。多分……緑葉が正しいと思うよ」
そもそも、勝敗なんて、無意味なものだ。
と、考えるだけ、考えてみる。
最強の座なんて、常に変動する。
ポケモンリーグチャンピオンよりも強い人間がごろごろいるかと思えば、僕みたいに、トップを目指そうとせずに、ポケモンリーグに挑戦することもなく、ポケモンバトルに興じている人間もいる。
トップの座に立った人間が、すなわち最強というわけではない。
あくまでもその世界で、その大会で、強かったというだけ。
それだけの話だ。
栄光は手に入るかもしれないけれど。
名誉も掴めるのかもしれないけれど。
満足や、充足は、あるのかと言えば、難しい。
そう言う意味で言えば、緑葉のように、自分の信念と確固として向き合って、それを貫き、自分の設定した目標を達成出来たときにこそ、本当の満足を得られるのかもしれない。
そういう意味では――僕は、満足して良いはずだ。
譲り受け、名前をつけてもらい、僕が育てたハクカで勝利を手にできたのだから。
喜んでいいはずだ。
「……そう言えば、スカイアローブリッジ、見忘れちゃったね」
なんとなく、僕は話題を変えた。
ポケモンと距離を置きたかったのかもしれない。
「もうすっかり夜だもんねー」
どころか、もう部屋は真っ暗だ。
二人でベッドに寝転びながら、夜話を楽しんでいるだけ。
カーテンは、閉めなかった。
ライモンシティ。
眠らない街、というやつなんだろう。もう、深夜も良いところなのに、街の明かりは消えようとしない。しかし、ネオンはあっても騒音を感じない。だからこそ美しく思える。
「明日はしっかり観光しようか」
「うん。今日はジムリーダーさんたちに捕まっちゃったしね」
「それに、昼頃まで寝ていてもいいしね……今日は、海外っていうのもあってハイになってたけど、実際問題、疲れた。最後の一戦でどっと疲れが来たよ」
「あはは。私もだよ。そうだね、目覚ましとかかけないで、ぐっすり寝ようよ」
「うん……」
頷いて、返事をして、僕はもう目を閉じてしまう。
エリートトレーナーという立ち位置にあって。
旅の目的とは何なのか。
何のために戦っているのか。
そんな面倒なことを考えてしまう。
考えなくていいじゃないか、と思うのに、考えてしまう。理由なんて追及したところで、何か得られるものがあるとも思えない。もしそれを見つけられても、やり続けることには変わりないのだから、探すだけ無駄なのに、考えてしまう。戦うことの意味を。続けてしまうことの理由を。
どうして続けるのか。
楽しいから?
どうして楽しいのか。
好きだから?
どうして好きなのか。
どうして?
どうして?
……どうしてだろう。
自分じゃない生き物に命じて、行動をさせて、その通りに動いて、勝利を手にする。勝つことが楽しいの? なら、弱いポケモンを倒し続ければいい。それでは心は満たされない。強者との戦いをしたくなる。それで負けたら? 悔しくなる。悔しがるなら戦わなければいいのに、続けてしまう。愚かしいんだろうなあ、と思う。思うけれど、やめられない。
もう、病気なのかもしれない。
とっくの昔に、この【闇】の中に、僕はいたのかもしれない。それを忘れていて、今日、唐突に思い出したのだ。紅々という男と相まみえたことで、思い出した。
【闇】の中からは、明るい世界しか見えない。
だから、同じ【闇】を見て、客観的に、思い出す。自分が同じ位置にいたことを。
「……ねえハクロ」
暗闇で、好きな音色が響く。僕は返事になっているような、ただ喉が鳴っただけのような音を出した。
「私は嫌って言ったけど、ハクロがそういう、勝つために、強くなるためにポケモンを育てても、気にしないよ。私とハクロは、違うんだから」
「…………」
「なんとなくだけど、知ってるよ。ポケモンの強さにどうして差が出るのか。それぞれのポケモンの才能と、育成環境の違い。本で読んだから」
ああ、そうだ。緑葉は勉強家だった。
トレーナーズスクール等に通っていないというだけで、図書館に行けば学術書に目を通すことくらい簡単に出来る。興味があって、理解出来る脳さえあれば、覚えることが出来る。
「例えば私には、そういう才能がなかったとして、それをどれだけ伸ばしても、一流にはなれないし……でも、他に頑張れるところがあれば、それを伸ばすのがいいかな、とも思うんだ」
最初は何を言っているのだろう、と思った。
けれどすぐに分かる。
それが、大切な話だということは。
「私ね、ポケモンが好きだから、コンテストで優勝出来たとき、嬉しかったんだ。嬉しかったけど、それと一緒に、寂しかった。私の才能はこれだったのかなー、と思ったら、ちょっと。でも、それを伸ばして行くのも、いいのかな、って今歯思ってる。ポケモンと一緒にいられることには変わりないし……コンテストなら、ハクロにも勝てるしね」
ちょっと茶化しながら、緑葉は言う。
「だからさ、そういう、才能……って一括りにするのは、もしかしたら悪いことなのかもしれないけど、ポケモンバトルが強いっていう才能を伸ばして、それに対して努力しちゃえば、ハクロは一番になれるのかもしれないし」
「…………」
「さっき、否定的なこと言って、ごめんね。でも、私がするのが嫌なだけで……ハクロが強くなるのは、嫌じゃない。それだけ」
返事をしようかどうしようか、迷う。
茶化してしまおうか、笑い話にしてしまおうか。
勢いで否定してしまおうか、なんとなく肯定してしまおうか。
色々な思惑が、過ぎった。
戦闘の才能に恵まれ、それを伸ばせば、一流になれるかもしれない。
恐らく紅々は、そういう人間だ。
僕がこれから、成長を見込めなくなるまでの人生で、どこに、どう経験を積んでいくか。
二十歳。
もう、折り返そうとしている年齢で。
「なんでそんな話をしたの」
僕が問いかけると、緑葉は小さく返す。
「ハクロと私は、ポケモンがなくても、進む方向が違っても、一緒だよって思ったから。だから、どんな話をされても、ハクロがどんな風にポケモンを育てたか聞いても、嫌いにならないよ」
「……そうだね」
エリートトレーナーになった頃は、確か、覚悟を決めたはずだったのに、また僕は忘れていたのだろうか。あるいは、いつだって僕は、忘れっぽいのかもしれない。
いつも緑葉を心配しすぎるのか。
傷付けないようにとか。
心配させないようにとか。
だから結局、傷付けて、心配させてしまうんだろう。
「緑葉さ、ポケモンの基礎能力の話していい?」
「うん、聞かせて」
きっと、自覚があった。
ポケモンをマシンのように見ている自分に、嫌悪感があった。
だけど、やめられない。
これを続けるしかない。
僕は、そういう風に、生まれてしまって、育ってしまった。
ある意味では――才能に恵まれた連中に囲まれていた方が、そういうポケモンたちと一緒に居た方が、実を言えば僕は、心が安まっていたんだろう。
そんな話を緑葉にしたことで、僕は少しだけ、許されたような気持ちになった。