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どこへ行ってもカミツレさんとフウロさん、それに緑葉を加えた美女三人(誇張しすぎか?)の軍団は目立ってしまうものらしく、結局、ライモンシティで夕飯を食べることになっても(せっかく海外に来たのだから、と、本場の味を堪能させていただいた)店中の視線を集めることになった。カミツレさんがライモンシティでは有名人であることに加え、同じくジムリーダーのフウロさんまでも人気者であることは頷けるのだが、その二人が揃うことで起きる化学反応に対する人気度は、ちょっと僕には理解出来なかった。というのも、カミツレさんとフウロさんが仲良くしていらっしゃるのを見て興奮している方々は、なんというかその、ただの仲良し二人組を見るというよりは、そこに恋愛関係みたいなものを見出しているような気がしたのだ。ジャパニーズ的表現で言うところの、百合か。
……僕の思い違いであればいいのだが。
果たして真相やいかに。
「美味しかったねー」
お腹をさすりながら、緑葉が言う。僕と緑葉は、夕飯を終えて、ライモンシティにあるホテルに来ていた。と言っても、手続きしてくれているのは、なんとカミツレさん。この辺、やはり緑葉の天真爛漫な性格が作用したというか、それとも緑葉の年上に可愛がられる性格が災いしたというか、あるいは僕とカミツレ師匠の師弟関係に起因するのかもしれなかったが――
「今夜は寝かさないわ」
という謎セリフを放ち、カミツレさんが面倒を見てくれる形で、僕と緑葉の宿を確保してくれるということに相成った。ちなみにフウロさんは、夕食を終えて、さっさか地元に戻ってしまった。その際、「滞在中にまたフキヨセにも来てね!」と元気良く言っていらっしゃったので、まあ帰るまでにはお礼も兼ねて、もう一度くらいは会っておきたいところである。性的欲求とか、下衆な感情とかを抜きにしても、あそこまで芸術的に実った体つきは、もう一度くらいは観賞させていただきたいと、割と本気で思っていた。多分、日本でああした体型を見ることはほとんどないであろうから。緑葉もそこまでスタイルが悪いわけではないが――やはり、食生活が問題なのだろう。あんな爆乳は、あり得ない。
さて、遊園地には付属のホテルがあるというのは割とメジャーなのか、ライモンシティもその例にもれず、いわゆる遊園地の敷地内にあるホテルに僕たちは泊まることになった。今はロビーで待機中。どうにも、こうしたホテルは何ヶ月待ちだというのが普通というイメージがあるのだが、それとは別に、VIPルーム的な部屋が、常に空いているのだという。そこに泊めてもらえることになったらしいが……いやはや、いいんだろうか。それを「いいんだろうか」と五秒ほど自問自答するくらいで結局は受け入れるようになったのは、僕が歳を取ったせいか、あるいは数年間の旅人生活で、他人の厚意を無碍にするのはよろしくないという価値観が備わったからなのかは謎である。
「いやあそれにしても……ライモンシティ、賑わってるよなあ。もう八時だぜ? と言っても、関東の山吹とか、上都の黄金あたりは、同じようなものかな?」
「うーん、でも、やっぱりレベルが違う気はするよね。土台からはっちゃけてる感があるし、ライモンシティはいろんな施設が二十四時間稼働してるみたいだし」
「だねえ……流石に遊園地区画のアトラクションは動いていないみたいだけど、北にあるジムと……あとなんだっけ、真ん中の」
「サブウェイ?」
「ああそう、地下鉄。あの辺はずっと動いてるみたいだもんな。ほんとすごいよ」
「サブウェイ、普通の地下鉄もそうだけど、『バトルサブウェイ』っていう電車も走ってるみたいだよ」
「へえ?」それは初耳だった。
「さっきフウロさんから聞いたんだけどね、うーん……日本で言う『バトルフロンティア』みたいなところかな? 私はまだまだ未熟者なので、行ったことはありませんが……」
「力量は関係ないって。僕もないし」
「イッシュでは結構、有名な施設みたい。電車移動がメジャーっていうのもあるみたいだけど、そのバトル施設が人気なんだって」
「へえ、行ってみる? っていうか、行ってみようか。悩む必要ないもんな、時間もあるし……今日じゃなくても、明日とか、滞在中にはさ」
「うん」
そんな会話をしながら待っていた僕たちのもとに、カミツレさんがモデル歩き(というかモデルが歩けば全部モデル歩きか)でやってきた。その間も、宿泊客の視線はカミツレさんに釘付けだ。遊園地目的で泊まる宿泊客が多いのだから、カミツレさんを知らない人間は一人もいないはずである。
「部屋は確保出来たわ」
言って、カミツレさんは髪をかきあげる。
「なんだかすみません……」
「緑葉ちゃん、気にする必要はないわ。あなたからは大和撫子のソウルを感じたから」
「そ、そうですか。なんだかよく分かりませんが、ありがとうございます……」
「黒髪にしたり、制服を着てみたりしても、なかなか日本のロック魂には到達出来ないわね」そりゃそうだ。「もう少しおしとやかに、たおやかになるべきなのかもしれないわね」
「カミツレさんは、もはや文化を超越しているような気もしますけど……」
「ふふ、ありがとう」またも髪をかきあげた。「それと子羊君」
「はい」
「お耳を拝借」
いちいち謎な言い方をするのはどうしてなんだろうと思うが、恐らく少佐が教えた日本語のせいなんだろう。カミツレさん、しっかり者に見えて他人を疑うということを知らなそうだから、なんでもほいほいと信じ込んでいる可能性が高かった。
お耳を傾けつつ、VIPルームの宿泊代金とかについての話なのかと思い、言葉を待った。ただの耳打ちだということを心の底から理解していても、その美貌が左半身に近づくというのは、恐ろしく緊張する行為だった。
「VIPルームなのだけれど」
「はい」
「部屋はとても広いの」
「はい」
「しばらく泊まって行くのでしょう?」
「……の、つもりです」
「ライモンはサブウェイがあるから他の施設にも移動がしやすいし、もしよければここを拠点にして頂戴。私も楽しいし、ジムリーダーとしても、ライモンの顔としても、ライモンシティを気に入ってもらいたいの」
「それはもう……そうですね、はい」こんなに長いセリフを耳打ちする必要はあるのかと考えあぐねる。「とても綺麗で豪華なホテルですし、各地に行きたい施設もあるので、ここを拠点にさせていただけるなら、願ってもないことです」
「ありがとう。ところで一つだけ問題があるの」
「問題……ですか。ええ、そのことについて、ちゃんとお話ししていなかった僕にも問題があるんですけど――そうですよね、いくら顔が利くと言っても、VIPルームですもんね。こういうの、本来は僕からお話するべきでした。えっと、あの、お部屋代ってどれくらい……」
「部屋代はいいの」カミツレさんはきっぱりと言った。「ほとんど私の持ち物だから」
「いやいやいや」
「その代わり、VIPルームなのだけれど」
「……はい?」
「ベッドがね、一つなの。ごめんなさい、さっき案内されるまで、すっかり忘れていたわ」
「……ああ」
ああ、そうか、と、僕は思う。なるほど、まあ、予想はしていた……こういうのは、お約束、というのだろう。いっそ、清々しい気持ちだ。お約束を、きちんと果たせることが、気持ち良い。快感を覚えるような人間に、いつの間にか、僕はなってしまっていたようだ。
「いわゆるキングサイズという」
「ええ。見たところ、あなたも緑葉ちゃんも、ただの旅仲間という関係ではないでしょうから――大丈夫だろう、とは思ったのだけれど、もし万が一、私の思い違いだった場合、大問題でしょうから、確認しようと思って」
「えーと……まあ、ええ、そうですね、問題ないっちゃあ、問題ないです。幼馴染なんで……あ、幼馴染って、通じますか?」
「ええ、もちろん。隣の家に住んでいて、小さい頃からお風呂に一緒に入ったり、一緒の布団で寝たりして、思春期になると窓を通じて互いの部屋を行き来する関係のことよね」
「日本人と概ね認識の間違っていないところが困りものですが……まあそういう関係なので、最悪、困らないかな、というのは」
「それならいいわ」
耳打ちをやめようとするカミツレさんを引き留めるように(というか既にここまで長引いた会話で耳打ちも何もないんだが)僕は「一つこちらからも」と素早く言った。
「何かしら」
「いいと言われても、流石に……タダで泊まらせていただくというのは、なんていうかこう――気になります。一宿一飯の恩義と申しますか、日本人気質と言いますか、フリーなものに特に臆病なんですよ、我々は」
「気にしなくていいのだけれど」困ったように人差し指を下唇に当てるカミツレさん。セクシーの権化である。「それなら、こうしましょう」
「はい」
「私に勝ったら、無料でいいわ」
「……はい?」
「ジムの前で、白昼堂々戦った先の戦いは、あなたの勝ち。あれ以上戦っても意味はないと見て、私は降参を選んだけれど――そうね、そうしましょう。私と本気でぶつかって勝てれば、あなたたちが帰るまで、VIPルームを確保してあげるわ。その代わり、負けたら……」
「負けたら……?」
「私と組んで漫才師になりましょう」
「……!」
ま、負けられない!
宿泊費を払うよりも怖い!
「子羊君、あなたの巧みな言葉使いはどうにも私のツボを刺激してやまないわ」
「僕は決してレベルの高いギャグセンスを持ち合わせているわけではありません」
「それでも――私は気に入ったの。波長が合うとでも言うのかしらね。だからもし私に負けたら、そうしましょう。あなたは向こう数年、ライモンを拠点に活動するのよ」
「勘弁してください。いや、マジで、ガチで、勘弁してください」
「ちなみにイッシュでの滞在期間の予定は?」
「明確には決めていませんが……まあ、一週間以上はいるだろうと思っています」
「そう。なら、宿泊費はざっと見積もっても七百万円ね」
「ななひゃくまんえん!」
「うふふ」カミツレさんは微笑む。「一泊百万円のVIPルームよ。それが払えないなら、あなたは私の相方になるのよ」
「いっぱくひゃくまんえん! は……払えるかそんなもん! イッシュの物価はどうなって……い、いや……待て……もしかして、僕、払えるのか……?」トレーナーズカードを取り出して残高を見る。四百四十数万円の残高。「いや……日本に帰らないと無理か……くそっ……こんなことなら口座の中身をそっくりトレーナーズカードに移しておくべきだった……!」
「わあお。お金持ちなのね、子羊君」
「これを見てその程度の反応であるカミツレさんも大概お金持ちな気がしますけれど」
「まあ、勝てばいいのよ、勝てば」
カミツレさんはそう言って、ようやく僕から顔を離し、肩に手を置いた。
「あなたのハッサム、確かに強かったけれど――それだけじゃないのでしょう? もっと強いポケモンがいそう。そうね……たまにポケモンをカードで表現することがあるけれど、ハッサムは差し詰めエースというところかしら」
「いえ――ハッサムは、そうですね」
カードで表すという文化はあまり知らなかったけれど――まあ、無意識に、僕もしていたか。とするなら、例えるカードは、絵札か。
ジャック、クイーン、キング、エース。
そして――ジョーカー。
その中に分類するとするなら、やはり『エース』はフリーザー、『ジョーカー』はダークライということになるから――
「強いて言えば、ジャック、ですかね」
「……そう、それは、とても楽しみ」
と、カミツレさんは笑った。
「すぐにとは言わないから、まずはイッシュ観光を楽しんで頂戴。準備が整ったら、戦いましょう。きっと楽しい試合になるわ」
「ええ、光栄です」
「それと緑葉ちゃん」
「ふぁい!」突然話を振られて慌てている。「なんでしょうカミツレさん!」
「長い間放置されても口を挟むことなくただ待つその姿勢、まさに日本女性の奥ゆかしさを感じたわ。グレートよ」
「あ、ありがとうございます……」
「きっとお母様は立派な大和撫子なのね」
「緑葉の母は海外国籍です」一応突っ込む。
「な、なんてことなの……」カミツレさんは頭を抱えた。「じゃあ、緑葉ちゃん、誰に似たのかしら……」言い方がおかしい。
「誰にって……いや、誰に似たんだろう」
「え、だ、誰に似たのかな……?」
「おじさんは豪気な海の男だし、おばさんは完全にテンションがテンションだし……赤火はその遺伝子を完全に受け継いでいるしな……うーむ、確かに、緑葉の大人しい感じの性格、誰に似たんだ?」
「う、うーん……そうだなあ、環境のせいもあるかもしれないけど、一番近いのは、ハクロのお母さんかな?」
「ん、ああ……それもあるか」と、なんとなく想像してみた。うむ、あり得ない話ではない。「ということは紫紺おばあちゃんの血統か。うん、それは、あるかもしれないな……」
「ふふ、幼馴染という間柄は、何故か男側の母親と女の子が仲睦まじくなるという法則があるみたいだものね」と、カミツレさんはまたも間違ってはいないが誤解のある表現をした。「とにかくそんなわけだから、気が向いたら話しかけて頂戴。大体いつもジムにいるから。連絡先を……と思ったけれど、何も持っていないのよね」
「あ、ええ……」
「部屋に端末が備え付けてあるから、そこから私に繋ぐように言ってもらえれば大丈夫だわ」なんともVIPな扱いである。「話が長くなって悪かったわね。それじゃあ、夜のライモンを楽しんでね」
カミツレさんはそう言うと、数秒謎ポーズを取ったあと、ホテルをあとにした。宿泊客の大半はそのカミツレさんを視線で追い、彼女が消えたあとはまた日常に戻って行った。僕たちが何者なのかとか、そういうことは一切気にしていないようだった。
「……ということ、らしい」
「う、うん。内緒話してたみたいだけど、完全に聞こえてた……ごめん」
「だろうね……なんだったんだろう、あの謎行為。多分カミツレさん、耳打ちをすれば他人には聞こえないと思い込んでいるのかな」
「ま、まあ……ベッドが一つなのはね、全然、気にはしていないんですけど」と、緑葉は言う。「お部屋の値段は、流石に、困惑するなあ……」
「あれね、僕ですら躊躇う値段だ」
「ねえ、参考までに、ヒウンシティのホテルって、いくらだった?」
「一泊……五万円……です」
「それでもびっくりするほど高いのにね!」
「あれは僕もかなり冒険したつもりの値段だった。五万円……五万円だぞ! 自分でお金を稼ぐようになってから、これでもかなり常識的な金銭感覚が身についたつもりで……一人旅をしている頃、ポケセンがない地方でやむを得ず宿に泊まる時だって、素泊まり二千円とかのところを選んでいたというのに……!」
「わあ……私みたいな生活だ」
「なんだろう、一泊五万円……船を出てすぐのホテルだし、時差ボケ云々の対策として、初日はホテルに泊まりっぱなしになるだろうと思っての、あえての豪華なホテルという選択だったんだけど……それにしたって、ねえ」
「で、でも私は嬉しかったよ! ハクロがいいところを選んでくれて、綺麗なお部屋を選んでくれて……ね!」
もちろん緑葉が言っていることは本心なのだろうけれど、なんだか気を遣わせてしまった結果になった気がした。いやまあ、仕方ない。二十倍もする部屋を目の前にして、五万円の部屋がちっぽけに見えてしまうのは、仕方ないのだ。人間というものは、恐ろしい生き物である。生まれついて、比較という機能が備わっているのだから。
「ま……ともかく、一旦その部屋に向かおうか。そのまま部屋で寝ちゃってもいいし、また町に繰り出してもいいし。それにしても、お互い荷物が少ないのが幸いしたね」
「でも、あとでポケモンセンターに行ってパソコンは使いたいかな。荷物というか、服とかを引き出したいから」
「ああ、そうだね。じゃあ、部屋を見たら、一旦、外に出ようか」
「うん」
僕も緑葉も、まだ旧型の預かりシステムを利用している。旧型――と言っても、常に最新版にアップデートされ続けているシステムではあるのだが、俗称として、そう呼ばれている。現在の主流はいわゆる『ポケモン預かりシステム』の方である。システムは二種類あって、『ポケモンを多く預ける』か『ポケモンや道具やメールを預ける』かの違いであった。容量は一つのトレーナーズカードにつき一定であり、成果を上げるごとに増やすことは出来ても、課金なりなんなりをして無尽蔵に増やすことは出来ない。だから、多くのポケモンを管理するトレーナーは、『ポケモン預かりシステム』を利用して、僕や緑葉のように、ほとんど決まったポケモンしか利用しないトレーナーは、『旧預かりシステム』を利用する。それがイッシュ地方でも利用出来ることは既に確認済みであった。
この『旧預かりシステム』の利用者は今や全体の五パーセントにも満たないらしい。道具の小型化や、バックパックの大容量化などが作用して、道具を預けるという文化は廃れて久しい。ポケモンと違って、道具はいちいち預けるのが面倒だという人もいるようだ。法改正後の『技マシン』は使い切りタイプではなくなったし(主にエコロジー観点からの法改正であったようだ)、その『技マシン』にしてみても、昔は辞書ぐらいの大きさのハードディスクだったのが、今はトレーナーズカードよりも小さい記憶媒体に保存されているのだから、道具でボックスを圧迫することを考えれば、『ポケモン預かりシステム』に移行してしまって、いろんな種類のポケモンを育てることに重きを置くのが、本来のポケモントレーナーの姿なのかもしれない。
――さておき。
『旧預かりシステム』を利用し続けている僕と緑葉は、ポケモン関連の道具もそうだが、それよりも主に衣装ケースとしての使い方をしていた。僕が朽葉に暮らしていた頃は全く知らなかったし、そんなこと想像もしなかったのだけれど、緑葉はボックスにお風呂セットやらスキンケア関係の一式も預けてあるらしく、旅人でありながら身だしなみに気を使えるのはそうした理由からであったようだ。前述した『旧預かりシステム』の利用者の五パーセントのうち、九割は女性である。残り一割の男は、大抵、重い荷物を持ちたくないとかいう日和った考えの持ち主がそうだ。僕の無縁の兄である青藍兄さんも、その利用者に含まれる。
だから僕たちは、VIPルームに入ったら部屋に何が用意されているのかを確認し、必要なものだけをボックスから引き出そうと考えていた。僕だったら、例えばバスローブのようなものが用意されていればパジャマはいらないな、とか、緑葉なら、スキンケア的なものを持ってくる必要があるかどうかを確認する必要があったのだと思う。長期間滞在するのだが、一式引き出して、部屋に置いておく必要があるだろう。
そう言えばカミツレさんからルームキーを渡されなかったけどどうするんだろうと思いながらロビーでホテルマンに事情を説明すると、そのままエレベーターで案内され、最上階に位置する、極端に部屋数の少ないエリアに通された。ホテルマンは部屋のドアを開け、僕たちをVIPルームに通すと、一枚のカードを手渡してくれた。VIPルームはカードキーであるようだった。恭しく一礼される。ホテルマンは当然イッシュ地方の方だったのだが、流暢な日本語で対応してくれた。至れり尽くせり。チップを渡したいところだったけれど、生憎と僕は硬貨も紙幣も持っていなかったので、断念した。
靴を脱ぎ、綺麗に揃えてあるスリッパに履き替えて、恐らくはベッドルームに続くであろうというドアを開け――僕と緑葉は、戦慄した。まさか「部屋を見たら、外に出ようか」という発言が前フリになるとは思ってもみなかったのだ。あるいは、一泊百万円というバカげた値段で、予想するべきだったのかもしれないけれど。
「ハクロ、これって……」
僕とハクロは、部屋の中にあった機械を見て、思わず顔を見合わせた。
「うん、間違いない……小型転送機と、ノートパソコン……研究施設とか、企業にしかないと噂されている、転送機……」
「つまり……」
「部屋の中で、預かりシステムが利用出来る……ってことか」
まさか、そんなホテルが実在するとは、思ってもみなかった。預かりシステムが利用出来るホテル――なんて、末恐ろしい存在なんだ。そりゃあ、パソコンはもう安くなった。どこのホテルに行っても、ロビーには一台は安いパソコンが置いてあるし、ネットも利用出来る。グレードの高いホテルになれば、洒落た外見のパソコンが何台も置いてあって、無料で利用出来るところも少なくない。事実、ヒウンシティで泊まったホテルは、そういうタイプだった。
しかしながら――しかしながら、である。
まさか一室の中に、一式揃っているとは……そんな常識がまかり通るのが、イッシュ地方だからなのか、VIPルームだからなのかは、謎である。
「と、とりあえず……緑葉、お先にどうぞ」
「あ、うん……ありがとう……うわ、すごい、トレーナーズカードのカードリーダーまで搭載されてる。IDを打ち込む必要もないんだ……すごい……すごい! ハクロ見て! 指紋認証だよ! しかもパソコンがタッチパネルだ! 私たち、未来に生きてる!」
「あなどりがたし、イッシュ地方……!」
というかこんな仕様なら一泊百万円も頷けるというものである。普通、預かりシステムはIDとパスワードを入力するのが世の常であるが……ID入力をカードの読み込みで諸略、パスワードの入力を指紋認証で省略、ということなのだろう。五年ほど前から劇的に進歩を始めたタッチパネル文化は、既にここまで成長していたようである。
というかそもそも、玄関(玄関という表現でいいのか?)からドアを隔ててやってきた部屋は、ベッドルームではなかった。一般的なホテルとは、部屋の構造からして異なっている。というかこれ、もはやホテルというよりマンションだ。パソコンと転送機が設置されている部屋は(設置というと生々しいので、小綺麗に鎮座しているというのが正しい)、リビングルームに当たるようだ。ソファがあって、テーブルがあって、玄関から向かって正面の壁は一面ガラス張りであった。そこから、なんとも美しいことに遊園地が一望出来る。観覧車の明かりは特に格別だった。夏時間ということもあって――恐らく、営業時間が長いのだろう。いいムードどころではない。考え得る限り、最高の環境だった。
リビングルームからアクセス出来る部屋は二つあり、片方はバスルームに繋がっていた。と言っても、バスルームとは言うが、いわゆるユニットバスではなくて、もうトイレと風呂は完全に別の部屋だった。ちらっと覗いたバスルームも恐ろしく広い。僕がよく泊まっていた素泊まり二千円のホテルの部屋くらいの広さはある。あまりに恐ろしくてすぐに部屋から出た。
逆の位置にはベッドルームがあり、ここはカミツレさんの予告通り、ベッドが一つだった。が、サイズが並ではなく、横に五人は並んで眠れるような大きさだった。これを一つのベッドと表現するにはいささか問題がある。興味本位で触ってみたら――あろうことか、ウォーターベッドだった。軋むこともなく、体にフィットするのか。あまりに恐ろしくて直視出来ない。ベッドルームの中にも椅子とテーブルがあって、グラスやらワインやらウイスキーやらがガラス戸の中に配置されていた。しかも全て新品未開封。ゲロが出そうだ。一泊百万円という値段が、妥当に思えてきた。いや、この酒類を考えると、百万円でも安いのかもしれない。
ベッドルームからリビングへと戻ると――二つあるソファのうち、片方のソファが座れない状態になっていた。緑葉の私物が、所狭しと積み上げられていたのだ。
「……何してるの?」
「あっ、ごめんハクロ」
「いや謝らなくていいけど……何してるのかなって」
「えっと……な、なんていうんだろう。普段、ボックスって公共の場でしか利用出来ないから、中身を全部取り出して点検とか出来ないし、ボックスの整理も出来ないから……この機会にと思って。庶民的ですみません……」
「え? ああ……なるほど。そう言えばそうだね、ポケセンじゃあ、電子情報としての整理は出来ても、物理的な整理は無理か。それを実行しようっていう非常識さを持っているなら、また別だけど」
「ハクロ、使う? すぐ代われるけど……」
「いやいいよ。バスローブもあったし、すぐに引き出す必要のあるものはないかな。でも、いいアイディアだから、あとで僕もそれをやらせてもらおう。まああんまり服も種類持ってないけどね」言いながら、もう片方のソファに座る。テーブルの上には、レストランのメニューのようなものがあった。開いてみると、サービスの一覧表だった。流石にテキストは全部英語だ。「緑葉、何か飲む? ルームサービスも当然あるらしいけど」
「あ、えーと……どうしようかな」
「甘いものとかもあるみたいだけど……パフェとか、ケーキとか。うわ、アルコールまでこんなに種類が……日本酒まであるし」
「と、とりあえず冷たい紅茶か何かかな。今日、食べすぎちゃった」
「僕はアイスコーヒーにしよう」メニューをめくっていくと、他にもいくつかのサービスが散見された。ポケモン関係のサービスも充実しているようで、マッサージやら毛づくろいやら、遊園地へ向かう際に預けておくことも出来るようだった。「電話で頼めばいいのかな……」と、最後のページを見ると、図解付きで、注文の方法が書いてあった。部屋に備え付けのパソコンで出来るようだ。
「ちょっと緑葉、パソコンだけ使っていい?」
「うん、いいよー」
緑葉は既にほぼ全ての道具を取り出していたようで、立ったまま衣類のチェックをしていた。図説通りに、僕はパソコンのモニタを引っ掴む。
そして――分離させた。
「うわあ! ハクロがパソコン壊した!」
「いや……これ、どうやらタブレットになってるみたいだ」キーボード部分だけが虚しくテーブルに残る。「で、こっから注文出来るみたい。当然、無線接続みたいだね」
「……ねえ、ハクロってさ」
「うん?」
「順応が早いよね」
「何が?」
「こういう、高級ホテルとか、最新機器とか……そういうの触るの、初めてじゃないの?」
「流石に分離型のタッチパネル式パソコンは触るの初めてだけど……うーん、変化を受け入れることに慣れているのかもしれない」と、注文を終わらせて、冷静に自分を観察してみた。「もともとそうだったのかもしれないけど、旅の中でさらに培われたかな」
「ふうん」
「それに……僕の旅って、緑葉の旅とは少し種類が違って、ポケモンに関することだけじゃなかったからさ」
「そう言えば、東北のあたりも行ってたんだよね。私は移動に使ったぐらいで、いろいろ見たりしたことはないかなあ」
「あと……南の方。豊縁より手前の方ね。ああいうところに行くと、ポケモン文化がほとんど育ってなくて、戸惑うこともあったけど……そういうところで生活するなら、割と順応した方が楽だなってことに気付いたから、今は意識的に受け入れるようになってるのかも。郷に入れば郷に従えだね」
「カミツレさんたちと打ち解けるのも早かったもんね……」
「緑葉も割とそうじゃない?」
「内心はどきどきだよー」
そんなことを言いながら、緑葉はせっせと衣類を畳んでいた。思い出すようにサービス案内を見ると、案の定クリーニングサービスも行われているようだった。まあ、今すぐ着ている服を脱げ! というのもおかしな話なので、これは後々、利用すればいいだろう。
「このあと、どうする? 今日はもう寝ちゃおうか?」
「うーん……あんまり疲れてないけど、しばらく滞在する予定なんだよね」
「まあ……それにせっかくならこの快適な生活を手放したくないというのはある」
「ハクロって結構、楽したがりだもんねー」
「いい部屋に住んで、いい生活をするというのは、僕の理想だね……根無し草生活に慣れてしまったから、最近は特に強く思うよ」
「そう言えばハクロは、バッジもかなり集まったみたいだし……これからどうするの? ハクロ、図鑑集めでエリートトレーナーになっちゃったし、全国図鑑も完成させる予定?」
「……それも、考えてないな」と、僕はソファに横に寝転がった。「そういうことを考えたくて、わざわざイッシュに来たのかも。新しい発見がしたい、とかさ」
「ふうん」
チャイムの音が鳴り、緑葉が反射的にドアへと向かって行った。すぐにアイスティーとアイスコーヒーの乗ったトレーを持って戻ってくる。サービス良すぎだ。一生ここに住みたい。
「お待たせしましたしましたー」と、ウエイトレスのように、緑葉はアイスコーヒーを置いた。「アイスコーヒーになりまーす」
「これはどうも店員さん」
「ソファに座れないのでお隣失礼しまーす」
緑葉は僕の隣に腰かける。横を向けば、窓からネオンが見えた。美しい夜景、壮大な景色。けれど、あの日見た星空とどちらが美しいのだろう――というようなことを、考えてしまう。
「綺麗だね」
「うん……観覧車、ここに泊まってるうちに乗ってみようか」
「うん、乗りたい」
「……あれ、何故か少佐と乗ったんだけどね」
「男二人で?」
「最低だった。日中だったのが救いかな」
「仲良いもんね、マチスさんとハクロ」
「ああ……そう言えば少佐を置いてきたままだったことを、今ようやく思い出した。流石に居場所は割れてないみたいだけど……っていうか、あのまま奥さんのところに行ったのかな。ああ見えて、愛妻家な気がする」
「だね」
夜のライモンは、美しい。
やはり、自然の美しさとは、種類を異にする美しさだ。幻想的で、記憶を蝕まれるような、麻痺の効果があるような美しさ。
ぼーっとしてしまう。
自然は、何かを考えさせられるけれど。
ただただ、心地よさに浸ってしまう。
稼働しているものを見ているからか。
行動していない自分を、顧みている。
「その……緑葉さ」
「ん?」
「僕は、せっかくだから、イッシュに滞在中、ハメを外させてもらう」
「ほう」
「せっかく二十四時間、眠らない街にいるなら――好きな時に行動することにする。人間らしい生活を、一旦やめて、時間を気にせず活動しよう……と思うんだけど、いいかな」
「うん、いいよ。何時にチェックアウト、とかもないんだもんね。連泊だし」
「門限もないみたいだしね」
「それをわざわざ宣言するってことは、今からどこか、行きたいところがあるの?」
「うん。さっき緑葉が言ってた『バトルサブウェイ』が気になるかな……イッシュに来て、既に何度か戦ってはいるけど、全部突発的なものだったし、意識的に戦いたいと思って。で……もし、緑葉も良ければなんだけど、多分あろうだろうから、一緒にやらない?」
「何を?」
「ダブルバトル、とか」
僕が言うと――緑葉は何故か、瞳を潤ませた。
「……ど、どうしたの」
「ううん……なんか、嬉しかったから。ごめん。悲しいわけじゃないの。ハクロに誘われて、なんか、嬉しくなっちゃった」
「いや、ど……ど、どうして」
「私とハクロって――あんまり、ポケモンで繋がってないよね。ハクロは私のポケモンをよく知ってるけど、なんていうか……ライバルみたいな関係じゃないし、師弟関係でもないし、旅仲間でもないしさ。だから、ちょっと、そういうことも出来るのかと思ったら、嬉しいなって思ったの」
「……そっか」
緑葉の眼には、そう映っていたのだ。
もちろん僕にとっても、緑葉は掛け替えのない存在で、ポケモンがあってもなくても、一緒にいられる存在ではあるのだけれど――緑葉にとっても、そうした不安は、もしかしたらあったのかもしれない。人生の大半をポケモンに費やした緑葉だからこそ、僕との格差みたいなものを、恐れている時が――もしかしたら、あったのかもしれない。
「別に、そんな、気にしてないよ。緑葉が望むなら、ダブルバトルのパートナーにはいつだってなるし、一対一のバトルだって……何度でも、するけど」
「えへへ、それは、またの機会でね」目尻をこすりながら、緑葉は笑う。「ハクロは強いから、足を引っ張らないようにしなくちゃね」
「そんなことないよ。緑葉は強いさ」
「本当に?」
「周りにいる人間がちょっと強すぎるだけで……トレーナーとしては、かなりのレベルだろ。案外、路上バトルで緑葉が負けてるところ、見てないしなあ」
「まあ、それはそうかもしれないけど」
「だからさ、僕は十分、緑葉の実力を知ってるし……認めてるよ」それに、信じている。「もう、九時くらいだけど……外を見た感じ、夜はこれからって感じだし、荷物の整理したら、サブウェイ、見学に行こうか」
「ん……」
緑葉は俯いて、小さく頷いた。
「どうした?」
「え、なんか……嬉しくなったから」
「そっか、それは良かった」
「遅くなってもいい?」
「何が?」
「サブウェイに行くの」
「整理、時間かかりそう?」
「ん、それは後回しでいいけど……そうじゃなくてさ……」
緑葉はグラスをテーブルに置くと、拗ねたような視線を、僕に向けた。
「……ああ」
緑葉の態度があまりにいじらしかったので、思わず、にやけてしまった。もしかしたら、僕はその日――不足を感じる以外の方法で、満たされている、という状態を知ったのかもしれない。これ以上ない、という環境を知って、その環境に適応して、あまりに充足した時間を過ごしていることに、気付いてしまったのかもしれない。
部屋の設備と完全に連動しているらしいタブレット端末は、説明書なんか読まなくても、使うのが初めてでも、簡単に部屋の照明を落とすことが出来た。窓から放たれるネオンの光だけでも、お互いの顔を見つめ合うには、十分だった。