0
海外にいる僕は手紙を書く。こっちは元気にやっています、と。
別にそんなの電子メールでいいじゃんとか、電話すればいいじゃんとか、そういう考え方も出来るんだけれど、自分で旅をするようになって、改めて思ったことがいくつかある。一つ、手紙っていうのは、書いているうちに何度も内容を考える。手紙だから、書ける文字数に限りもあるし、そうすると、無駄なことをあんまり書かなくなって、本当に伝えたいことだけを書けるようになる。だから、何かを伝えたい時は、手紙の方が良い。二つ、手紙は送った先に物質が残る。手紙という物質。それは手紙をもらう側だったからこそ分かる感傷なのかもしれない。その手紙を何度も読み返して、相手の無事を祈れる。だから、味気ない電子メールや、電話なんかよりも、もっと優れていると、僕は思う。最後の三つ目。便箋は旅先で買うことが多いし、だからこそ、その場所での風土をそのまま送ることが出来る。それがとてもありがたいことだと、僕は分かっている。
「なーんて感傷に浸ってみたりしてね」
手紙を書き終えたあとで、僕はそんな風に笑ってみた。
旅人生活も板に付いてきた。実際、ここ数年間で、何度も手紙を出すことはあったのだけれど、流石に今回ばかりは、それを強く思わずにはいられない。なんたって海外だよ海外! 海外だから電話も通じない! まあ、電子メールは届くんだけど、ポケギアは繋がらないし、この地方についてまだ日が浅いから、ポケモンセンターに長居するというのが、ちょっと気が引けるというのもあった。ポケモンセンターのパソコンならどこへでもメールは飛ばせるんだろうし、ホテルのラウンジにあるパソコンでも、出来るだろうけど。まあ、それをするのはもう少しこの地方に慣れてからでいいだろう、ということで――
僕は今、イッシュ地方にいる。
僕の生まれた上都や、育った深奥や、暮らした関東や、縁の深い豊縁なんかがあるのとは、もはや土台を分かっている――完全に、海外。地続きではない、管轄違いの、正真正銘の、海外だった。つまりがアメリカの一部だ。このイッシュ地方がまさにそう、というわけではないのだろうけれど、大きな目で見れば、関東は朽葉でジムリーダーをしているイナズマアメリカンことマチス少佐の生まれた地方である。今僕は、その地を踏みしめているのだ! とか、そんな感じである。
「いやー……いい加減慣れたよなあ。船に乗っても何も思わなくなったし」
いやまあ、もちろんほんの少しの抵抗くらいはあるけれど、それでももう、船での移動なんてまったく気にしなくなってしまったし、過去の出来事を思い出すことも、少なくなった。常に心に秘めてはいるけれど、それをわざわざ蒸し返すことも、ない。
何しろ、時間が経過しすぎた。
正確な時間経過で言えば、どれくらいだろう?
……いや、それは何かを基準にしなければわかり得ない基準か。
ともあれ、それを僕が関東での生活から離れた時期とするなら――あるいは、旅人になった期間として換算するなら――実に三年以上の月日が、流れたことになる。
何せ、もう二十歳だものなぁ……。
丁度九月も下旬だから、二十歳になって、数日経過した頃。
正真正銘、僕は大人になっていた。
当時の僕からは考えられないような成長を経て。
当時の僕からは想像し得ないような経験を得て。
今僕は、ここに立っている。
「それにしても、ほんと、感慨深い」
僕はホテルの一室で、そんなことを、ただただ、呟いていた。イッシュ地方に降りたって、まだ二日目。というか、昨日の明け方に着港して、ホテルの予約をして、部屋に戻って爆睡。夕飯を軽く済ませたあと、ちょっとした買い物を済ませて、途中まで手紙を書いたのだけれど、訳あって、それを一時的に中断してしまったのだ。だから今、まだ朝の六時頃、世界が完全には動き出してはいない時間だというのに、僕はこうして机に向かって手紙を書いていた。差し出す相手は、紫紺お婆ちゃんと、木蘭さんだ。他にもお世話になった人は多すぎるし、計り知れないのだけれど――ジムリーダーの方々や、所在地不定の根無し草たちには送らないことにしておいた。それを除外すると二人だけになるというのだから、不憫な話だけれど。あ、青藍兄さんがいたけど……まあ、青藍兄さんは手紙より電子メールって感じだから、別にいいか。
と。
完成した手紙を封筒に入れて封をしていると、後ろでもぞもぞと、気配を感じた。振り返るまでもなく、その相手は分かっていた。僕は手元を見ながら、「おはよう」と声を掛ける。
「んー……おはようハクロ」
「早起きだね」
「こんなに柔らかいベッドで寝たの久しぶりー……気持ち良かったぁ」
両腕を天井に向けて伸ばしながら、体中の硬化をほぐしているのは、緑葉。幼なじみで、同郷で――僕のパートナーのような、そんな女性。そんなことを臆面もなく考えられるようになったのも、僕が歳を取ったからと言えるかもしれない。緑葉と一緒に寝泊まりすることも、別段、特別とは感じなくなってしまったし、それが意味するところについて深く考えることも、なくなってしまった。それは少し寂しいようでもあり――でも、当たり前の変化で、だから、僕はそれを受け入れている。
「何してたの?」
「ああ、手紙。お婆ちゃんたちに」
「あー、そっか。私も書こうかなぁ」
寝ぼけた声で言いながら、緑葉が起き上がる音が聞こえる。僕は後ろを振り向かない。何故なら、色々とあれだからだ。そう、色々と、あれ。色々と、あれなんだよ! 親しき仲にも礼儀あり。いくらこうして二人で一つ屋根の下で生活出来る仲であったとしても、寝起きの女性をまじまじと見るものではないのだ!
……とか、まあ。
この余裕、僕も歳を取ったなあ。
いや、いいんだけどね。
それは順当な成長なんだろうけれど。
緑葉と一つのベッドで寝ていて、ほとんど一睡も出来なかった時期が懐かしいよ、とか、なんとか。思ったりね。
「今日はどうするの?」と、背後でもぞもぞと音が聞こえてくる。服でも着てるんだろうか。「早速ジム?」
「いや……うーん、今回はかなりゆっくりしようかなって思ってる。そりゃ、ジムが目的だけど……昨日の今日で行くつもりはないよ。ていうか、ここ、なんて町だっけ」
「ヒウンシティ?」
「ああ、そうそう。ヒウン……飛雲かな? なんでアメリカなのに町に和名がついてんだろうね。イッシュ地方だけなのかな」
「かもねー……そもそも言葉通じるもんね」
「ああ、まあ……確かに、最初驚いたよね。まあ、おかげで来やすかったし。日本人観光客が来やすいようになってんのかな。まあ、その辺の事情は僕が知るところじゃないけど――」
と、僕はようやく背後を振り返る。緑葉は着替えを済ませていた。二十歳になっても、服装自体はあまり変わらない。けれど、時代に合わせて、着実に、変化はしているようだ。スカートだったり、靴下だったり、色々と。一方の僕は、ほとんど変わらず、だけれど。
いや、まだ緑葉は十九歳か。
別に、僕と緑葉、言うほど頻繁に会っているってわけじゃないからなぁ。
特に、僕が旅人になってからというもの、緑葉と会うタイミングは、本当に激減した。お互いに色んな地方を渡り歩いていたから、当然かもしれないけれど――まあ、今回はせっかくだからということで、僕の希望で緑葉を連れてきた。旅費は僕持ちだし、緑葉にとっては母親の生まれ故郷でもあるわけだから、良いタイミングだったのだろう。
それに、大きな声では言えないけれど――とくに、緑葉に対しては口が裂けても言えないけれど――正直な話をすれば、気分転換みたいなものでもある。
努力やらコネやらを色々駆使して、今は歴としたエリートトレーナーとして活躍している緑葉であるのだが、歳を取るごとに、年を追うごとに、ポケモンマスターになるというような夢を、少々、諦めかけているようだ。それは、昔の僕が知ったら、諦めんなよとか、頑張ろうよとか、励ましたような事実なのかもしれないけれど――僕もまた、歳を取ったのだ。だから、緑葉が自分でそれを選んだのなら、僕はそれでもいいんじゃないかと、思うだけ。何も言わないで、そう思う。
別に、ポケモンマスターになるのに年齢制限などがあるわけではないと思うし、諦める必要なんてまったくないとは思うのだけれど……それでも、人には人のタイミングってものがある。自分の実力は、自分が一番よく分かる。夢を諦めるということは、人生を諦めることじゃない。他の選択をするために、一つの夢を諦めることだって、必要だろう。
今、緑葉は、それについて真剣に悩んでいるようだった。
関東地方で元チャンピオンだった弥さんは、チャンピオンになった時には二十歳をとっくに過ぎていた。だから、チャンスはいくらでもある。緑葉はちゃんとエリートトレーナーになった。取得したバッジの数も、上都地方を拠点にして、八個取得した。一つの地方でバッジを八つ取得すれば、ポケモンリーグへの挑戦は可能である。
けれど、緑葉は悩んでいる。
別に、悩む必要なんてなくて、ただただ挑戦すればいいじゃないか、と、人は思う。
けれど、四天王に対峙することは、実は危ないことだ。
自分の実力を、知ってしまうから。
ジムリーダーが用意してくれる対戦とはまるでレベルの違う、有り得ない強さの戦いを、強いられる。そこで実力の差を痛感してしまうと、今まで持っていた自信を取り戻すことは、難しい。
だから――
「じゃあ、今日は観光でもしよっかー」
緑葉がこうして、ポケモンリーグから距離を置いた場所で心の底から笑顔を浮かべてくれることが、僕は何より嬉しかった。
「そうだね。あー、そう言えば今って夏時間なのかな。九月だから……うん、夏時間か。夏って、何かあるのかな」
「どうだろうねえ。そういうのもちゃんと調べないとね。あーでも、ヒウンアイス食べたかったねー。あれ、冬季限定らしいよ」
「らしいね。まあ、冬まで滞在してもいいんだけどね。どっかにアパート借りて、一緒に住むとかさ。うん、それも一興だ」
「ハクロ、それ、本気で言ってる?」
「まあ、半分くらいはね」
僕は曖昧に、頷いておいた。
実際、急いでいるわけではないのだ。緑葉に内緒にしていることではないけれど、僕は日本の四地方にあるジムで、ほとんど全てのバッジを、取得した。グリーンバッジを除く、三十一個のバッジを。だから、やることがなくてイッシュ地方に来たという側面も、あったりするのだ。例えばそれは暇潰しだったり、馴染みのないポケモンと出会うことだったり、色々あるけれど――まあ、大きな理由は、本当に、観光。ここ数年、ちょっと忙しくしていた僕への、休息の意味も込めて。それとやはり、緑葉への時間提供という理由もあったりする。
だから、別に、イッシュに住むのも悪くない。
もちろん、生き急いだっていい。
それを考えるための、休息期間。
「んー……とりあえず、一番近い名所ってーと……ああ、スカイアローブリッジでも見に行く?」
「あ、それいいね。うん、じゃあ、普通に観光しよっか」
「他にも、ヒウンシティを北上すると……ライモンシティだっけ。賑わってるとことかあったよね。あの辺行ったりして……まあ、今回は、のんびりしようよ」
「うん」緑葉は元気に頷いて、「えへへ」そして、ちょっと過剰なくらいに、笑った。
「どうかした?」
「ううん。ハクロとこうやってのんびりするの、久しぶりだからさー」
「あー……そうかもね。いつ以来?」
「去年……はゆっくり出来なかったか。うーん、一昨年もジム戦とかで色々あったからね」
「僕が家を出てからは、かなり忙しかったかな。四年ぶり、とか? そんくらい?」
「うん。ハクロが朽葉に住んでた頃以来かもねー」
「かもなぁ……まあ、そういう色々もあって、うん、たまにはゆっくりさ。色々忘れて、遊ぼうよ」
「……うん、それもいいね」
なんて、明らかにゆっくり出来ないフラグを、僕と緑葉はお互いに立てあって。
とてもゆっくりとした、朝の空気の中で、笑ってみせた。