『君の歌声は眠らない』
ポケルス。
世界はそれを、無害なウイルスだと認識していた。
ポケモンが育成しやすくて、強くなりやすい。戦うことが目的であるポケモンにおいて、その育成を簡略化出来るウイルスは、本当に有用だった。感染も簡単で、実害はない。だからみんなことぞって、ポケルスを感染させた。人から人へ、渡り歩いた。
しかし、ポケルスは、ウイルスだ。
ウイルスが、良いこと尽くめ、だなんておかしい。
そのことに、何故誰も気づかなかったのだろう。あるいは、気づいていても、その波を止められなかったのか。異変を感じたときには、時既に遅く、ぼくたちは、未曾有の災害に、見舞われていた。
「残して行ってすまないね」
ぼくは海辺にいた。足下では、波が岩場にぶつかって、飛沫を上げている。飛び降りれば死んでしまうような絶壁。ぼくはそこで、最愛のポケモンであるジュゴンと一緒に、遠くを眺めていた。
「君を強くしたいだけだったんだけど」
ジュゴンもポケルスに感染している。
ポケルス――つまり、ポケモンウイルスは、成長能力を上げる機能がある。ポケモン間でのみ感染し合い、効力を発揮する。しかし、それがもし人間に適用されるのなら、人間としての性能も上げられるのではないか? と考える者がいた。
その考え方は、別に、特殊ではない。
誰でも考えることだ。
誰だって、楽をして、害のないウイルスに感染するだけで身体能力が上がるなら、試してみたい。
だから、人間たちは、それを行った。
「結果、ぼくたちは死ぬことになった」
とある大学が研究した結果、ポケルスを人間に感染させることは可能だった。そして、格闘家とか、スポーツマンたちが、こぞってポケルスに感染していった。
その結果、彼らは死んだ。
人間としての肉体が、ポケルスに耐えきれなくなったのだ。
ポケモンは戦闘に特化した生物だ。身体の構造が、人間とは違う。ポケルスによる過度な疲労や、細胞の変化を受け入れ、順応出来た。けれど、人間の肉体は、そうではなかった。
副作用の変化に耐えきれなかった。
そして、死んで行った。
感染してから、およそ七日。
それが平均の死期。
「……いい歌だね」
当然ぼくも、感染してしまった。
ポケルスは空気感染だ。ある程度の距離にいれば、感染してしまう。気づかないうちに。けれど、ちょっとした目印が出来る。感染している本人は、気持ちの高ぶりだったり、動悸の速さで気づける。
「君がついてきてくれて嬉しいよ。残して行くのは、忍びないけど」
ぼくは、このまま死んで行くだろう。
今日は七日目。
だから恐らく、そろそろ限界だろう。
感染してから数日は、どうすれば治るのかを必死に考えた。けれど研究者たちはみんな死んでいるし、人口は半分以下に減っていた。恐らくもう、人類は終わりだ。ポケモンたちが生き残って、人間は滅びる。
散々好き勝手やった末路だ。
受け入れるさ。
けれど、ジュゴンと別れるのは、寂しいものだ。
「ねえ、ぼくがいなくなったら、君はどうする?」
歌い続けるジュゴンに訊ねてみる。ジュゴンは、ぼくに視線を向けたかと思うと、すぐに顔を背けた。そんな野暮なこと聞かないで、と言っているようだった。
何故ぼくは、ジュゴンに歌を歌ってもらっているか。
それは、死の瞬間は、眠っていたかったから。
自発的に眠るだけでは、死の衝撃で目覚めてしまうということが、もう何度も繰り返されていたし、睡眠薬は高ぶった肉体には作用しないということも、分かっていた。
だから、ジュゴンに歌わせていた。
ポケモンの歌による入眠は、支配的だ。
人間のコンディションには関係がない。
ただひたすらに、暴力的に眠らせる。
そうやって死んで行くのが流行っていた。
「それにしても、眠くならないね。まあ、大した確率じゃないからな、歌は」
オススメの入眠自殺は、キノコ胞子。
口づけで死んだり、催眠術で死んだり、と色々手段はあるけれど、ぼくは確率よりも、自分の最愛のポケモンであるジュゴンによって、逝きたかった。
確率が高くないのは、仕方がない。
一曲歌い終わっても、ぼくは全く眠れなかった。
「もう一度歌ってよ」
「アオ!」
ジュゴンは元気良く言って、また歌い始めた。眠気を誘う、陰鬱とした旋律。ぼくは水平線を眺めながら、思い出を掘り起こしては、過去に涙する。
海岸を選んだのは、ぼくが死んだあと、ジュゴンがすぐに、海に戻れるように。
それに、ここは誰も来ない。
ぼくと彼女だけで、最期を迎えることが出来る。
「ねえ、もう、何年になるっけ。十年? 十五年?」
さあ、どうかな、とでも言いたげに、ジュゴンは首を振る。その間も、彼女は歌い続けている。
メスのジュゴンはいつか人間になる、という噂を、確か小さい頃に聞いた。それで、海にパウワウを捕まえに行ってから、それ以来ずっと、ぼくは彼女と一緒だった。戦闘の面でも、私生活の面でも、良きパートナーだった。そして最期の瞬間も、彼女と一緒にいる。
他のポケモンは野生に返した。
これからは、彼らの世界になる。
人間が消えた、野性的な世界。
ジュゴンを最後の最後まで連れているのは、ぼくの最後のわがまま。最期の瞬間は、彼女といたい。
「ジュゴン、気が抜けてるんじゃないの? 全然眠くならないよ」
ぼくが言っても、ジュゴンは気にせずに、歌い続ける。けれどぼくは全く眠くならない。
「ぼくに、もがき苦しめって言うのか?」
「アウ?」
まったく意に介さない様子で、ジュゴンは歌を歌い続ける。もう、三度ほど歌い直しただろうか。まあ、実戦でも、そう上手く眠らないのが、ぼくのジュゴンの悪い癖だけれど。
「ねえジュゴン、出来れば一目、君が人間になるところを見たかったよ。ま、そんな噂話信じてる方がどうかしてるのかもしれないけど」
ジュゴンの綺麗な身体を撫でる。
その噂を聞いたのはどこだったっけ。
人魚に憧れていたんだっけ?
よく思い出せない。
「……まあ、もうどっちだっていいか」
どうせ死んでしまうのだから。
でもせめて、一目、会いたかった。
人魚伝説。
絶世の美女。
一目見たかったものだ、なんて。
「……ん、あれ」
眠さとは違う、怠惰な感覚。脱力感。身体全体が麻痺するような、そんな違和感。後ろについていた手が、がくがくと、痺れ始める。
「おかしいな」
死期が来てしまったのだろうか?
目を開けていられなくなって、目を閉じる。
でも、激痛はない。
ポケルスに感染してしまった人たちが訴えた、痛みや、恐怖はない。ただ、朦朧と、意識だけが、堕ちていく、堕ちていく、堕ちていく――
「ジュゴン、なんだかぼくはもうダメみたいだ」
視界が失われ、海の音と、ジュゴンの歌声だけが、響いている。彼女を撫でていた指先の感覚も、もう失われた。
「ぼくが死んだら、海に帰りなよ。君を捕まえたのは、この海だからね。まあ、もう仲間もいないだろうけど」
「私は海には帰りませんよ」
と、そんな綺麗な声が聞こえた。
その声の主を知りたくて目を開けようとするけれど、ぼくの目は、ぴったりと閉じられたままだ。
「誰?」
「誰でしょう」
それは、歌うような口調。
美しい、滅びの旋律。
「おやすみなさい。長い間、一緒にいてくれて、ありがとう」
聴覚だけを残して失われたぼくの身体に、その囁きが浸透する。ああ、今、ぼくの耳元で、彼女は囁いている。彼女の歌声で、眠れる気はしない。けれど、このまま滅びて行けるような、そんな気がした。
もう、声を出すことも叶わない。頭の中で反響するこの歌声は、今歌われているものなのか、ただの残響なのか。
ポケルスなんかに殺されるより、幾分マシな死に方だ。少しの満足感を得ながら、ぼくはゆっくり、思考を放棄した。
ああ、君の歌声は、眠らない。
そしてぼくと一緒に、消えて行く。