/新規作
『人形師の一人遊び』
 一

 影、と呼んでいる生き物が、私の家に住み着いている。正確には生き物ではないのかもしれないが、意志を持ち、独りでに動くのだから、そうした分類にしてしまっても良いだろう。
 私には家族運というものがない。生まれた時に母を亡くし、成人する頃に父を亡くし、妻には先立たれ、妻の忘れ形見であった娘さえ、つい先日に流行り病で失った。
 そんな不運な人生ではあるのだが、それでも私は健康体で生きている。生まれてこの方病を患ったことはないし、怪我らしい怪我もしたことがない。悪いのは家族運だけだ。天分にも恵まれ、家族運の悪い以外は、とても満足した人生を送っている。
 私の仕事は人形を作ることで、それは今では生き甲斐でもある。今日もいつもと変わらぬ運動を、朝四つから続けていた。仕事場で、作務衣を着、人形を拵える。今日の作業は、珍しく依頼品だった。節句の人形を所望する数奇な御仁がおり、そのために人形を作っている。普通の人形作りなどは数年前に飽いていたが、それでも暮らして行くための報酬がもらえるのだから、贅沢は言えない。私は丹念に、人形を組み上げていく。毎日人形ばかり作っていれば、作業も速くなるというものだった。
「ぐう」
 一人遊びにも飽きたのか、影が仕事場にやってきた。
 影は黒い。夜であれば闇に紛れてしまうほどに、光の射さない黒色をしている。そんな黒色が、幼児のような鈍い歩みで私に近づいてくる。私は作業の手を止めるでもなく、影に注意を向けるでもなく、ただ影の流れのままに身を任せる。
「じゅっ」
 私の足下で、影は立ち止まる。そして、身体に対して妙に長い手を使って、私の脚を掴む。木登りの要領で、影は私の脚を上り始めた。私はしかし、作業の手を止めない。影のこうした挙動はいつものことだ。いちいち関与してなどいられない。
 影は私の膝上までやってくると、満足そうな表情をしたあと、脚の間にすっぽりと収まった。椅子に腰掛けると、身体が小さいものだから、作業台よりも頭が出ない。だから自然、影は私が手に持つ人形を見上げる形になる。
「ぐっ」
「影、これはお客様の手に渡る人形なんだ。触ってはいけないよ」
 手を伸ばした影から、私は人形を遠ざける。人間の言葉が分かっているのかどうか、それとも遠ざけるという反応から拒絶の意を感じ取っているのか、影はそれ以上、悪さをしようとはしない。見た目に反して、案外聞き分けの良い生き物だ。影が大人しくなったのを見計らって、私はまた、作業の続きをする。
 影は、この位置が好きらしい。
 それは、影が生き物となる前から変わらない。
 影がまだ人形だった時、影の後ろにいたのは、私ではなく、娘だった。
 そう、影は私の娘が大事にしていた人形だった。元はこんなに黒くなく、こんなに薄暗い顔をした人形ではなかったが、確かに娘の人形だった。
 影は恐らく、その人形に宿った霊魂なのだ。

 二

 人形師の私生活はだらしがない。
 妻や娘が生きていた頃は、それでもなんとか人間らしい生活をしていたように思う。しかしながら、一人暮らしとなると節制が効かなくなる。昼八つ頃、昼食に手打ちの蕎麦を食べたあと、さて続きをしようと作業台に向かったが、強烈な睡魔に襲われた。普通、人間は眠くなっても、日中は働くものだ。しかし人形師という人種は眠る。職業のせいだから仕方がない。私は作業を諦めて、すぐに居間に敷いてある布団に身体を抛った。
「じゅっじゅっ」
 私のあとを付いてきたらしい影は、不服そうに私の腹部を叩いた。もちろん、叩いたと言っても、影は人形である。綿の詰まった拳など、いくら頭を振ったところで痛くも痒くもない。私は丁度良いとばかりに影を布団に引き入れ、座りの良い枕として抱きかかえることにした。
「ぎぃ」
 不服そうな鳴き声がする。何しろ影は人形だ。人間の腕で捕まえられたら最後、自力で抜け出すことは叶わない。影はしばらく抵抗を試みていたが、無駄と悟ったのか、すぐに大人しく私の枕になった。
 娘がいなくなってから、そろそろ一年が経とうとしている。影の中に残る娘の匂いは、薄れてきてしまった。いや、もはや私の脳が嗅覚を騙しているだけで、影は何の匂いもしないのかもしれない。それでも、影に顔を埋めて息を吸ってみると、娘の匂いが思い出される。娘の匂いはすなわち、妻の匂いだ。妻に抱かれた娘がそれを嗣ぎ、娘に抱かれた影がそれを嗣いだ。花のような、透明感のある匂いだった。大の男が人形に顔を埋めるなど滑稽この上ないが、この行為は私を満たしてくれた。

 三

「ぎゅるるる」
 腹が鳴ったかと思ったがそうではなかった。
「どうかしたかな、影」
 安眠を妨げるほどの鳴き声を、影が上げていた。私は影の拘束を解く。珍しく、影から獰猛な殺気を感じ取ったからだ。あるいはそれは、影が持つ本来の障気のようなものなのかもしれない。
「ぎゅるっ。ぎゅるぎゅるっ」
「穏やかではないようだね」
 影は全力疾走をするような恰好で居間を飛び出したが、速度は私の歩行と同じ程度だった。歩幅があまりにも短いために、上手く進めないのだ。どうやら作業場に向かっているらしいことが分かったので、私は影の片腕を拾い上げ、影をぶら下げたままで作業場に向かった。
 すると、ああ、なんということか。
 作業台の上にある、作りかけの節句の人形の周囲を、黒い靄が囲んでいた。
 霊気。
 あるいはそれは、霊魂そのものだった。
 生い立ちのせいか、それとも職業柄なのか、私にはこうした非現実的なものが視認出来る。影がこの家に住み着いているのも、影の仲間が縁の下に住み着いているのも、そうしたものが作用しているのではないだろうか。
「髪を伸ばされると困るのだよ」
 私は握っていた影を、作業台の上にある人形に向けて放り投げた。影は空中で一回転し、器用に着地する。そして、今の芸当を評価しろとでも言うように私を見るのだが、私としては出来れば早く仕事をしてもらいたいのだ。
「影、憑依する前に片をつけて欲しいのだが」
 私が言うと、評価されないことが不満なのか、影は少しだけむくれた面をしたが、すぐに人形に向き直った。聞き分けの良い人形だ。
 そして一呼吸置いたあと、体に対して妙に長い腕を振るった。
 私の目には、まるで黒い怨霊を影が凪ぎ払ったように見えた。私の目に映っていた黒い靄は消えてなくなる。果たして怨霊というのは死んだものであることが多い。だからこれ以上命を落とすことはないだろう。あれは果たして浄化されたのか、成仏したのか。私には詳しいことは分かりかねるが、それでも、作りかけの人形が無事であれば、それで良かった。
「助かったよ、影」
 私が言うと、影は得意げに手を腰に当てて、胸を張って見せた。あまり図に乗らせるのも良くないのではと思ったが、心の赴くままに、私は影の頭を撫でてやった。

 四

「逢坂」
 私の仕事を邪魔するのは何も影だけではない。
 今日もいつものように仕事をしていると、一人の男が勝手に家に入り、勝手に仕事場までやってきた。藤堂二助という男だ。村の神社で神主をやっている、不真面目な男だ。
「どうした藤堂」
「いや何、お前が生きているか確認しに来たんだよ」藤堂は近くの椅子に、無断で腰を下ろす。「影は元気か?」
「今は縁の下で遊んでいるよ」
「そうか。それは結構だ」
 さほど熱気もないはずだったが、藤堂は扇子を取り出して悠々と仰ぎはじめる。
「それは何だ」
「どれのことだ」
「今お前が作ってる人形だよ、逢坂」
「桐山家のご依頼品さ」
「ああ、あの物好きか。既製品でも買えば良かろう」
「そのおかげで私は食べていけるわけだ。そうでもしなけりゃ、今頃飢えている」
「木組みで随分儲けたんじゃないのか?」
「ほとんどが材料費に消えたよ」
「そうか」溜息混じりに、藤堂は頷いた。「ところで……その人形、容姿については何か依頼されているのか?」
「いや、特には。どうしてだ?」
「いや、ちょっと気になっただけだ。ふうん、しかし、気をつけろよ。人間に似せすぎると、霊は寄って来やすくなるからな」
「分かっているよ、藤堂」
 私は仕事の手を止めて、無言で勝手に向かった。藤堂は何も言わない。お互いに幼い頃から、お互いが分かっている。古い付き合いだ。何しろ、物心ついた頃から知っているし、亡き妻である静は、この藤堂という男の実妹なのである。縁も腐りきり、今では我々を繋ぎ止めるものもないというのに、こうして顔を付き合わせているのだ。
 私が茶を淹れていると、一人遊びにも飽きたのか、影がやってきた。影は私の足下をくるくると回っている。
「藤堂が来ているよ」
 そう言うと、影ははっとしたように私を見上げた。影はどういうわけだか、藤堂が好きだった。もちろん、彼と一緒に暮らしたいというほどの欲求ではないだろうが、彼が訪れると、とても喜んだ。今も、私を気に掛けながらも、廊下の方をちらちらと見遣っている。
「……ああ、影、藤堂が悪さをしないように見張っていてくれるか」
「じゅっ!」
 影は嬉しそうに飛び跳ねると、すぐさま仕事場へと向かった。藤堂の存在もそうだろうが、純粋に客人が喜ばしいのかもしれない。
 私は茶を淹れたあと、二人分の湯飲みを持って、仕事場へと向かう。影は私が普段座っている椅子に立っていた。藤堂に乗せてもらったのだろう。影は藤堂が来るととても喜ぶのだが、藤堂の前ではあまりその感情を見せない。気恥ずかしいのだろうか。
 私は影を抱き上げ、膝の上に乗せる。湯飲みに茶を注いで、藤堂に差し出した。
「影に気を遣ってやっているか?」
 藤堂が突然に言い出す。
「どういうことだ」
「影は人形ではない、ということだ」
 藤堂は分かりにくいことを言って、湯飲みに手を伸ばす。私も同じように、茶を啜った。
「誰かの霊魂ということだろう? 分かっているよ」
「まあ、そうだ。しかし、誰か、ということでもないんだがな」
 藤堂はまた不可解なことを言って、影に手を伸ばした。影は決して自分からは動こうとしなかったが、藤堂に撫でられ、喜んでいるようだった。

 五

 私の人形師としての腕が着実に向上している。
 図に乗るつもりはないが、客観的に見て向上しているのだ。理由はいくつかあるが、もっとも有力なものが、霊が憑依したくなる拵えである、ということだ。
 生き物と成った存在である影も、元は私が作った人形だ。娘の遊び相手にと作った。娘にはいくつも人形を作り、与えてきたのだが、彼女が一番気に入ったのは妙ちくりんな人形だった。体に対して腕が長く、腹は出ていて、いつも不適に笑っている。いつだったか、兄弟子から譲ってもらった素材を口につけてある。外来品で、本来は袋の口に使う素材らしいが、開け閉め出来る口というのが珍しく見えたのだろう、娘は影の口でよく遊んだ。おかげで、影の口はしまりが悪い。
 その人形に、影は宿った。
 今まで、作りかけの人形などに霊が宿ろうとすることは何度もあったが、完成した人形に宿るということは影が初めてだった。それは単純な油断で、影が憑依してしまったのは私の不行き届きだった。
 以来、先ほどのように作りかけの人形に霊魂が宿ろうとすることは後を絶たないし、完成した人形の髪の毛が伸びたり、眼球が動いたりということも多々ある。その度に影に頼んで除霊を行って貰うのだが、いやはや、最近ではその数も増えてきて、除霊が効かずに、藤堂のつてで供養してもらわなければならなくなった人形もいくつかあった。
「綻びが目立ってきたね」
 夜、影を点検しながら、私は呟く。娘に色々な場所へ連れて行かれ、乱暴に扱われたせいもあり、また、その後私によってこき使われているのもあって、様々な部分に綻びや汚れが目立っていた。そろそろ一度、大規模な修復をしてやらねばならぬかもしれない。
「ぐう」
 影は疲労を感じさせるような声を上げて、ぐったりと頭を垂れた。ようやく気付いてくれたか、と言っているようでもあった。
「今作っている品が完成したら、次は影の修復をすると約束しよう」
「ぎゅるっ」
 本当か、と確かめるように、影は私を見上げた。私は出来るだけ優しい表情を努め、頷いた。
 本来、人形に霊障を起こすことは、人形師の禁忌である。影のような存在を放置していることが師匠に知れたら、私は人形師としての立場を追われるに違いない。
 しかしながら、影はその霊障を封じてくれる存在でもある。毒をもって毒を制すわけではないが、影がいるおかげで、それ以上の問題は起きずに済んでいる。
 言わば守り神のようなものだろう。
 そんな存在だから、目を瞑っている。
 それに、何を言いつつ、私も一人暮らしは寂しいのだろう。話し相手になってくれる影の存在が、私を活かしているのだと、自分でよく分かっていた。

 六

 普段はあまり私の人形に興味を示さない影であったが、今作成している人形に関しては、並々ならぬ関心を寄せているようだった。
 いつものように作業台に向かってせこせこと人形を作っていると、いつものように影がやってきて、私の膝の間にすっぽりと収まった。そして私の手元の人形を見上げる。その動作が妙に大人しかったので、少し不思議に思い、影を作業台の上に乗せてみた。
「じゅっ」
「どうやらこの人形が大層気に入っているようだね。何か感じるところがあったかな」
 私が尋ねると、影はしばらく思案したあと、人形に寄りかかるようにして座った。
 ああ、その光景を見て、私は気付く。
 あまりにも無意識であったせいで、気付かなかった。どうやら、今私が作っている人形は、亡き娘にとてもよく似ていた。顔の造り、表情、髪型。まるで面影を貼り付けるようにして、私は人形を作っていたようだ。
「なるほど、鈴によく似ている」
「じゅっ!」
 影は嬉しそうに両手を上げた。娘より一回りも二回りも小さいが、姿形はよく似ている。影にとっては、人形が自分と同じくらいの大きさであることが、より嬉しかったのかもしれない。
「でも、これは鈴ではないからね。いずれこの家を出て行ってしまう人形なんだ。あまり、情を込めてはいけないよ」
 それを聞くと、影は寂しそうな顔をして、項垂れた。そして、名残惜しそうに、人形の顔を眺める。
「……分かったよ。いずれまた、鈴に似た人形を作ろう。それまで我慢していてくれないか」
「ぎゅる……」
 影は不満そうに鳴いたが、仕方がないと諦めがついたのか、とぼとぼと作業台の上を歩いて、私の膝の上に飛び降りた。
 影の頭を一つ撫で、再び作業を始める。
 見れば見るほど、その人形は、娘に似ていた。人形師の私でさえ、命があるのではと疑ってしまうほどだった。影が気に入るのも致し方ないことだと思った。

 七

 事件は唐突に起きた。
 夜中だった。依頼品の人形も仕上がってきて、あと二日もすれば完成し、依頼人に渡せるだろうというところまで来ていた。
 日中の作業で疲れた身体と心を癒すように眠りについていた私だったが、霊障の音で目が覚めた。
 私の家の縁の下には、たくさんの霊魂が住み着いている。それらは悪さをしない、生死と関わりのない霊魂であるが、成仏出来ずに彷徨っている類の霊が近づいてくると、からからと音を立てるのだ。私はその不快な音で目を覚ます。恐らくまた、人形に憑依しようという怨霊だろう。
「影」
 私が呼ぶと、暗闇がもぞっと動いた。影は眠らない生き物だから、私が呼ぶといつでもそれに応える。近づいて来た影の長い腕をつまんで、ぶら下げたままで仕事場へと向かった。
 仕事場に向かうと、いつもと同じよう、霊障があった。闇に溶けてしまいそうな黒い靄。私は影を作業台に放ると、いつもと同じよう、
「一仕事頼むよ、影」
 と告げた。
 影にも、全く違和感は見られなかった。当たり前のように、腕を振り上げ、黒い靄を切り裂いた。
 そして、いつものように、黒い靄を浄化した。
 次の瞬間だった。
「ぎゅ、る……」
 影が小さく鳴き声を上げたあと、
 背中の布が裂け、中から真っ黒な綿があふれ出した。
「影」
 私は目を疑った。
 山奥に暮らしているから、夜目は利く方だ。そんな私だから、見間違えるはずはない。私は慌てて灯りを点ける。
「影っ」
 影を呼んだ。
 影は作業台の上で、俯せに倒れていた。その背中は裂け、黒い綿が溢れ出している。私は影を作った人形師だ。影の中に入れた綿が純白だったことを記憶している。素材だって、全て記憶している。だというのに、何故。汚れなのだろうか。娘が連れ出したせいで染みついてしまったというのか。
 しかし、その色の正体はすぐに分かった。
 影の綿から、黒い靄が立ち上る。
 障気だ。
 何故不思議に思わなかったのだろう。影は以前からこんな色をしていたわけではない。なのに全身が黒く染まってしまっていた。ああ、そうか、それは障気だったのだ。私はそんな簡単なことに、今更気付く。
 影の他にも、霊魂の乗り移った人形はいくつかあった。それらは元の人形の姿のままだった。しかし影は黒く染まった。その意味を私は理解していなかった。あれは、影が他の障気たちを、飲み込んでいたからなのだろうか。
 私は影を抱きかかえ、無我夢中で山を下りた。夜目が利いたのが幸いし、提灯も必要としなかった。目指しているのは藤堂神社だった。あそこには藤堂一人しか住んでいない。私も彼も、お互い、独り者だった。
「藤堂っ」
 彼と同じように、私も挨拶もなしに、床の間へと向かった。もぞりと暗闇が動いたかと思うと、
「逢坂。そろそろかと思っていたよ」
 と、彼らしい返事があった。
「藤堂、影が死んだ」
「お前の口から、誰かが死んだ、という言葉を聞くのは、これで何度目だろうな」藤堂はゆっくりとした動作で、部屋に灯りをつける。「人形は……ああ、一緒にいるな」
「どうしたらいい」
「死んでしまったものは、どうにもならん」
「影は元々死んでいるだろう」
「じゃあ、成仏したか。まあ座れ」藤堂は手を招き、私を座布団に座らせる。「安心しろ、冗談だ」
「どれがだ」
「落ち着けよ」
 落ち着けるはずがなかった。私は動かなくなった影を抱えて、じっと綿を眺める。黒い綿。周囲にほんのりと靄がかかっている。
「影の所業が分かったか」
「どういうことだ」
「こいつは、お前の人形を霊障から守ろうとして、その障気を内に蓄えて行ったんだ。それは長い時間をかけて布に、綿に、糸に染みこんだ。元はそんな、意地の悪い顔をしていたわけじゃないだろう。そんなに黒い色をしていたわけじゃないだろう。どうだ、違うか」
 藤堂の言う通りだ。不格好ではあったが、表情はもっととぼけたものであった。
「ただの憑依体ではないというのか」
「ああ。霊魂が一つや二つ、という程度でもない。影は、障気の集合体なんだよ」
「……何故もっと早くに言わなかった」
「言ってどうする」
「そうと知っていれば影にそんなことはさせなかった」
「ああ、お前は何も分かっていない」
 藤堂はふうと溜息をついたあと、部屋に置いてあった盥に、影の綿を浸した。
「なんだそれは」
「ただの塩水だ」
 みるみるうちに、水は真っ黒く染まっていく。それが障気の染みなのだろうか?
「お前の知らないところでも、影は障気からお前を守っていたんだ」
「どういうことだ」
「お前はそういう生まれなんだよ。生まれつき、霊気に好かれすぎる。それを影が追い払っていたんだ。お前、家族が死ぬのには慣れているだろうが、一人きりになったのは、生まれて初めてだろう」
 藤堂は盥を持って立ち上がり、部屋を出て行く。私は一人、その単純な事実に気付かずにいたことを、ひどく悔いていた。つまり、それは。
「しかしな、気に病むことでもないんだ」
 藤堂は今度は、影の布を盥に浸す。こちらもみるみるうちに、黒く染まっていく。
「影が他の人形に比べて、やけに活発に動けるのだって、たくさんの障気を蓄えたからに過ぎない。他の人形は、せいぜい髪が伸びるとか、知らぬうちに何歩か歩いているとか、その程度だろう。影が特別だったのは、障気を蓄えていたことと、もともとの霊魂が特別だったからだろうな」
「もともとというのは、どういうことだ」
「……ああ、これは、口を滑らせたな」
 藤堂は不快そうな表情をしたが、塩水に浸かる布を見ながら、ふっと笑う。
「まあ、いつかは言わねばと思っていた」
「何だ」
「静だよ」
 その名を聞き、私は愕然とした。
 影の中にいたのが、亡き妻だというのか。頭が痛い。破裂してしまいそうだった。藤堂は、影の布を、愛おしそうに洗う。自分の妹が憑依していた、人形の素材を。
「静に流れるのは紛れもない藤堂の血だ。藤堂家の人間に祓いが出来るなら、憑依なんてお手の物だろう」
「何故、静だと思ったんだ」
「影に会ってすぐに気付いた。俺への態度が静と同じだからな」
 私への態度はどうだっただろう。言われてみればそんな気もする。しかし、本当に……本当にそうなのだろうか。
「藤堂」
「なんだ」
「どうしてそんなに平気でいられるんだ。妹がまた死んだんだぞ」
「ああ。悲しいな、涙が出るよ」
 藤堂は自虐的に笑いながら言う。塩水はもう、布が見えなくなるくらい真っ黒に染まっていた。
「しかしな、それだけのことだ。死と生は日常なんだよ、逢坂。誰よりも人の死に慣れているお前が、まだ死を特別扱いするのとでも言うのか」
「悲しいだろう」
「ああ、悲しい。だがそれも日常だ」
 藤堂は襖から、純白の布を取り出した。畳の上にそれを幾重にも敷き、濡れたままの綿と布を乗せた。
「それはなんだ」
「ただの布だよ」
「どうするつもりだ」
「水気を取るだけだよ。なんでもかんでも特別なわけじゃないんだ。それに、これから先は、お前の仕事だろう」
「縫い直せということか」
「さてね、このまま棄てても良い。お前次第だ」
「……これで終わりなのか」
「何がだ」
「影は、こんなにあっけなく」
「ああ、そうだな。人間だって同じだっただろう。動かなくなって、終わりだ」
 藤堂は素っ気なく言った。藤堂の態度は、一見すれば命を粗末に扱い不遜なものに思える。しかし、彼は彼なりに、妹の二度目の死を尊んでいるのかもしれない。影が静だと気付かなかった私には、何も言う資格はなかった。
「また家族を失った」
「そうなるな」
「巡り合わせなのか」
「そういう体質なんだ、お前は」
「静の魂はどこに行く」
「さあ。静のやつ、弔ってやったのに現世に戻ってきたようだからな。案外、まだその辺をふらふらしているかもしれん。いや、藤堂の血筋の霊体ほど厄介なものはないな」
「また会えるだろうか」
「期待は身体を壊すぞ」
 藤堂は首を鳴らすと、話は終わりだとばかりに布団にもぐりこんだ。
「疲れているならここで寝ていっても構わんぞ。布団は腐るほどある。実際、いくつか腐っていた」
「いや、帰るとする。人形も心配だ」
「そうだな。ところで、お前が作っていたあの人形、鈴に似てるだろう」
「ああ、分かっていたか」
「気をつけろ。静の娘となれば、鈴にも藤堂の血は流れている。放っておくと、鈴が宿るぞ」
「……それはそれで良いかもしれん」
「馬鹿を言うな。鈴は静ほど上手くは行かん。憑依なんてのは、本来苦しいだけだ」
「そうなのか」
「ああ……帰るなら、灯りは消して行けよ」
 藤堂は口を閉じた。部屋の灯りを全て消し、私は純白の布で影を包んで、家を出た。塩水で濡れた影の素体はとても重たかった。

 八

 依頼品の人形には特別変化はなかった。私は影の素材をそのままに、まずは仕事を片付けた。仕事の邪魔をする者はいなくなってしまったので、随分と捗った。気付けば期限よりも早く人形は仕上がり、あとは引き渡しを待つばかりとなった。
 一日放っておいただけだったが、純白の布に包まれた影の素材は、元と同じ色合いに戻っていた。人の形を失った影から、霊魂は抜けきってしまったのかもしれない。
 また影を作れば、いくつもの霊魂が影に染みこんでいくだろう。そうと知ってしまうと、再び影に会いたい、などという考えは起きなかった。
 家の中はとても静かになった。藤堂が言っていた通り、一人きりになるというのは、ほとんど経験がなかった。娘がいなくなり、影がやってくるまでのほんの数日間。あれだけだ。静は、孤独な私を見かねて、影に憑依したのだろうか。死んでからも世話を焼かれるなんて、私は本当に手の掛かる夫らしい。
 人形師らしく、日の出ているうちから惰眠を貪ろうと思った。仕事場を出て、廊下を歩く。
「ぎゅる」
 縁側を通る途中、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「ぎゅるる」
「きゅる」
 それに似た、しかし声質の違う声も聞こえてくる。嫌な予感がして、縁の下を覗き込む。真っ暗闇が広がっているだけだ。姿は見えない。
「人形は作らんぞ」
 縁の下の霊魂に向かって、私は言った。「ぎゅる……」と、不満そうな声が聞こえてくる。誰の怪音なのかはすぐに分かった。
「もう家族を失うのはご免被る。これからは一人で生きていくことに決めた。人形も今後一切作らん」
「じゅっ」
「成仏しなさい」
 恐らく妻だと思われる霊魂に向けて叱責をし、今後の人生の指針を立ちどころに決め、さあとにかく寝て忘れてしまおうと一歩を踏み出した時、仕事場の方から、ごとりと、何かが落ちる音がした。
 人形のような何かが落ちる音が。
「……鈴か」
 ぺたり、ぺたり、という不慣れな足音が、仕事場の方から聞こえてくる。さて、どうやって霊魂を抜き出せば良いのか。困ったような、少し嬉しいような心持ちで、私は仕事場へ舞い戻った。


戯村影木 ( 2014/06/02(月) 00:32 )