/新規作
『いくつかのなきごえ』
『いくつかのなきかた』

 1

 長い長い一日の中、ようやく変化が訪れる。静かな屋敷に、チャイムの鳴る音がした。屋敷全体に、涼やかに響く。立花戦は重たい体を持ち上げて、玄関へと向かう。前にもこんなことがあったな、と思いながら、階段を下りた。
「どちら様ですか?」
「ああ、良かった。人がいた。まあ、大方予想通りだけど」玄関先には、黒いレインコートにスーツを着た男が立っていた。「ここは、人家ですか?」
「ええ、生憎、当主はおりませんけど」
「あの、雨宿りをするようなスペース――いや、用意、というか、そういうもの、ありますかね」
「いいですよ」立花は笑顔で応える。「来客は歓迎するように、というのが、当主の方針ですから」
「当主がいないのに、歓迎するわけですか?」
「前例があります」
 立花に案内され、客人は靴を脱ぐ。玄関には、立花が利用するための靴が一足と、傾斜のついた木製の台があっただけだ。そこに、客人のものが増える。
 廊下を渡ってすぐにドアがあった。ドアを開くと、コン、と乾いた音が鳴った。ドアに備え付けられている装置のようだ。
 立花はすぐに暖炉に火を落とした。瞬間的に、室内に熱が埋もれていく。しばらくはお互いに無言だった。必要な数言だけを交わして、客人はソファに座り、立花は紅茶を準備した。出会いから約十分後に、ようやくお互いは会話を始めた。
「季時九夜といいます。突然すみません」
「立花戦、と申します」
 季時と名乗る人物には、傘の用意があったようだが、雨はひどくなる一方であり、駅までの道のりを考えると、どこかで休息を取るのが得策だろうと考えたようだった。
「立派なお屋敷ですねえ」季時は天井を見上げながら言う。「地元なら、博物館にされそうな雰囲気だ」
「遠くからいらっしゃったんですか?」
「ええ、まあ。仕事で来たんですけどね、電車が十七時に出て、到着が二十一時」
「それはそれは……時間は大丈夫ですか?」
「まだ十五時半です」季時は時計を見て言う。「ああ、時計がないのか、ここには」
「あまりそうした概念に囚われない生活をしていまして」
「資産家?」
「いえ、お恥ずかしながら、無職です」
「ふうん。失礼だけど、年齢は?」
「二十四歳になりました」
「じゃあ、僕の方が年上か。ちょっと、面白そうな人だから、フランクに話しても良いかな」季時はネクタイを緩める。「このネクタイという文化も、敬語という文化も、普段からあまり僕には適さなくてね」
「構いませんよ。気を遣われるより、楽ですから」
「どうも」季時は片手を挙げる。
「先生をされているんですか?」立花が言った。
「どうしてだろう」
「どうして僕がそう思ったか、ですか?」
「いや、どうしてそう思われたのか、と、過去の言動を振り返っている」季時はようやく紅茶に手をつける。「ボロを出すような発言をした覚えはないな」
「あくまでも推察です。ただ、休日に出張をするということ、ネクタイと敬語に普段から慣れない職業を考えたところです。どうやら、スーツもあまり着疲れていないようですし。当たりですか?」
「残念ながら、当たっている」
「良かった」
「こんな人がいるんだと分かっていたら、最初からちゃんとするべきだった」
「ちゃんと、というのは?」
「ネクタイくらいは外してからチャイムを鳴らすべきだった」
「面白い方ですね」
「僕の気持ちを代弁したの?」
「この辺は、特殊な雨が降る地域なんですよ」立花はすぐに話題を変える。「もしかしたら、夜まで降り続けるかもしれません」
「その可能性は一概には否定出来ないね」
「まあ、ゆっくりしていってください。季時さんさえ許すなら、泊まって行って頂いても良い」
「ああ、それは……そう、魅力的なお誘いだ。何しろ、これから帰って、九時過ぎに家について、夕食をどうするか考えて寝るというのは、非常に億劫だ。出来れば、考えたくない、というくらいに」
「歓迎しますよ。夕食も、朝食も」
「ベッドは?」
「洗いたてのシーツですね」
「最高だ。宿泊希望にサインをしたい」
「口頭で結構ですよ。泊まって行きますか? しかし、切符が無駄になるのでは」
「領収書があれば交通費があとから支払われるシステムになっているから、切符はない。あまり、時間に左右される人生は好きではなくてね。基本的には、僕の考えた通りに動けるように構築されている」
「ゆっくりして行ってください」立花は微笑む。「どうせ、僕も一人で、暇をしていましたから」
「ふうん。ポケモンがいるのに?」
 季時は、まだこの屋敷に入ってから、存在を確認していないはずの生物の俗称を口にする。
「どうしてそう思われたんですか?」
「どうもこの屋敷は、彼らが生活するのに不向きだ」季時はぐるりと視線を動かす。「一緒に住むのに不適切な造りになっている。まあ、時代が時代だからだろう。百年くらいは経っていそうだ」
「ご想像通りです」
「しかし、いくつか痕跡が見える。例えば、玄関先の靴脱ぎにあった、小さな台。広間と廊下を繋ぐドアの下部に備え付けられた、小さな打ち木。ベルのような役割なのかな。これから、四肢のあるタイプのポケモンだと推察出来る」
「続けてください」
「あとは雰囲気かなあ。僕も似たようなタイプのパートナーがいるからね。ゴーストの匂いが感じられる。しかし装置は原始的だ。ということはゴーストの中でも、実体があるタイプ。ゴビットか、ヤミラミか、ジュペッタか」
「ゲンガーという可能性は?」
「彼らは段差をもろともしない。浮遊しているからね」
「詳しいんですね」
「世界が変われば常識とも言える」季時は両手を開く。「台の傾斜と、装置の位置で大体の高さが分かる。ヤミラミは除外されるね。ここからの二択を完全に当てる要素はないけれど、僕の長年の勘から言って、あなたに合いそうなのはジュペッタだ」
「……お見事です」立花は小さく賞賛の拍手を送る。「僕も一つ分かったことがあります。生物学の先生ですか」
「否定はしないね」
「話し方に独自のテンポが見られました。つまり、質問を受け付ける隙。大変勉強になりました」
「ジュペッタは?」
「彼のお気に入りの部屋にいます」
「ふうん。どんな部屋?」
「人形ばかりがいる部屋です。それも、呪われた人形」
「ああ、ジュペッタには最適だろうね」季時は深く頷く。「当主の趣味?」
「いえ、仕事です」
「集めるのが、仕事?」
「除霊師なんです」
「ああ、ふうん。僕とは縁遠そうな人だね」
 季時は満足そうに紅茶を飲み干した。

 2

 人形が多いという部屋に、二人は来ていた。立花の言う通り、その部屋にはジュペッタが存在していた。
「やあ、こんにちは」
 部屋に入り、季時が声を掛けると、ジュペッタはすぐに顔を上げる。そして、よちよちと近づいてくる。自立が苦手な様子だった。あるいは経験が足りないのか。
「ああ、あんよが下手だね」季時は言った。「よしよし。こんにちは。お邪魔しているよ」
「……」
「どうかした?」
「いえ……」
 立花は絶句していた。
 そのジュペッタは、元々立花の持ち物というわけではない。とある事情があって、置き去りにされたもの。それを、立花が引き取るという形を取った。現時点では、立花のパートナーと言ってしまって間違いではないが、まだ付き合いは浅い。そんな立花にとって、ジュペッタが人に懐くというシーンを見るのは、初めての経験だった。
「好かれやすいんですか?」
「僕? ああ、そうだね、どちらかと言えば。小さい頃からね、人間以外の生き物には好かれやすい」ジュペッタを撫でながら、季時は言う。「いや、最近は人にも、よく懐かれるかな」
「羨ましいです」
「即物的だね」季時はすぐに言う。「つまりトラウマだ」
「え?」
「君は頭が良いのに、僕のこの体質にプラスのイメージしか抱いていない。一つの側面しか捉えられないような人間ではないと思っている。ということは、逆説的なことがあるわけだ」屈み込んだ体勢で、季時は振り返る。「君、嫌われやすいわけ?」
「ええ……まあ」
「たまにいるね」
「普通の人とは、原因が違います」
「心当たりが?」
「非科学的なものを信じますか?」
「存在するならね」季時は言う。「もっとも、信じるも信じないもなく、あるものはあるだけだけどね」
「もっと科学的な方かと思っていました」
「僕が? 楽しい感想だね」季時は素直に笑う。
「僕の遠い先祖は、ちょっとおかしな血筋らしくて。神通力とか、分かりますか」
「九尾の妖かし」季時は言う。「そういう昔話を聞いたことがあるかな。キュウコンというポケモンの先祖にあたる妖怪、か。ポケモンのことを研究すると、特殊交配に行き当たることが多くある。君のご先祖様も、もしかしたらそういう一部の人間だったのかもしれない」
「特殊交配、ですか」
「古い時代に、ポケモンと人間が性交に至ることもあったようだ。その結果、生まれた人間。そうした人間が、人ならざる力を持っていたこともあるみたいだ」
「僕の先祖もそうだと?」
「かもしれない、という推論だよ」季時は立ち上がる。「そうじゃないかもしれない。突然超能力を持って生まれてくる人間もいるね。ただ、それが血統として残るのは、その可能性が高いという話だよ。生物学的にね」
「専門でしたね」
「遺伝子は専門じゃないけどね。その体質、どのくらい効果が及ぶのかな」
「ほとんど全てです」
「ふうん。けど、僕のパートナーは」季時はポケットからボールを取り出し、カゲボウズを繰り出した。「そんなに怖がっていないみたいだけど」
「あ……そうなんですか?」
「機嫌は特別悪くはなっていないからね」
「それじゃあ、やっぱり、ゴーストタイプには影響がないのかな……」
「その可能性はあるね。何しろ、ゴーストタイプというのは、元々は人間の霊魂だった場合もあるわけだから。もちろん、ポケモンの無念が集まったものという可能性もあるけれど。二つに一つ。そして一つ分かったことがある」
「なんですか?」
「このカゲボウズは、元は人間だったということだ」
 季時はリボンのついたカゲボウズの頭を撫でる。
「良いことを教わった。ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
「お互いが得しかしないなんてね」季時は大袈裟に両手を広げた。「まるで魔法だ」
「詩的なんですね」
「いや、普通はあり得ないという比喩だよ」
 季時は首を振る。しかし、楽しそうな表情だった。

 3

「カレーがお好きなんですか?」
「限定的にね」
 立花が台所から帰ってくると、季時は広間でジュペッタとカゲボウズを向かい合わせていた。自分の膝の上でだ。右膝の上にジュペッタが頭を乗せ、左膝の上にカゲボウズが座っていた。
「何をしているんですか?」
「さあ。誰に聞いてるの?」
「季時先生にですよ」立花は笑う。「僕は彼らと話せませんから」
「なんだか調子が狂う人だなあ。これ、良い意味でね」
「その言葉を良い意味に使う人は初めて見ました」
「初対面だからね」季時はカゲボウズの頭を掻くように掴む。「つまり、立花さん、君は……純粋な人だ。まるで子どもみたいだと、そう感じた」
「言い得て妙ですね。僕は外に出て働いた経験もないし、この屋敷か、実家に閉じこもっていることが多いですから」
「ヒモ?」
「なんですか?」
「ここの当主に養われているのかな、と思ってね」
「正しいです。逢阪巴という除霊師がいて、その方が不在の時に留守番をしています。それでいくらかの報酬を得る、という感じですね。もっともお金のかかる趣味はないので、十分に暮らしていける範囲ですけど」
「なんで留守番をするんだろう」
「先ほどの人形たち。とても高価なんです。知っている人が聞けば、喉から手が出るほどに」
「ふうん。人形ね。あまり興味がないな」
「そう言われる方がほとんどでしょうね」
「このジュペッタも、その中の一部?」
「いえ、これは――」
 かたかたと、鍋の煮立つ音が聞こえてくる。立花は無言でその場を去り、台所へと戻る。季時の右手は、ジュペッタの頭部から垂れる部分に触れる。ぎゅっと鷲づかみにすると、驚いたジュペッタが固まった。とても愉快な反応だった。
「もうすぐ米が炊けそうですね」
「音と匂いからして、炊飯ジャーじゃなさそうだけど」
「電気が通ってないんです」
「ふうん。へえ? いや、そうか……困ったな。携帯電話の充電が……いや、まあ別にいいか。明日は帰るだけだし」
「すみません」
「腰の低い人だなあ。嫌いじゃないよ」季時は携帯電話を開いた。「もう六時か。時間は正しく進んでいるようだ」
「体内時計が正確なんですか?」
「どうだろう。考えたことがなかった」
「おかしな方ですね」
「そういう反応を待ってたんだよ」季時は手を叩く。「うん、なんだか調子が戻ってきた」
「この屋敷にいると、妙な非現実感に苛まれることもありますし、そう仰る方も多いです。普段と違う自分を見てしまったり、とか」
「ふうん。まあ確かに。けど、屋敷というより、立花さんに問題がありそうだ」
「僕ですか?」
「君はなんていうか……裏表がなさそうだ。思考は複雑そうだけれど、素直というかね。僕みたいな人間には、天敵かもしれない」
「争うつもりはないですよ」
「ああ、そういうところだ」季時は首を振った。

 4

 質素な夕食を終える。元々立花は料理をしない人間であったが、ジュペッタと暮らすようになってから、自炊じみたことをしはじめた。カレーくらいなら簡単に作れるようになっていた。もともと、不器用な方ではない。材料、器具、時間があれば、一ヶ月もすれば料理の腕は上達するだろう。
「正直に言うのは恥ずかしいんだけど、美味しかった」
「光栄です」
「いつも食事は一人で?」
「ジュペッタを椅子に座らせていますけど」テーブルを片付けながら、立花は言う。「食べるのは僕だけです」
「素晴らしいなあ。留守番稼業は他の地方で展開する予定はないの? 例えば、僕の家とか」
「独身……ですよね」
「理由があって、婚期が遅れていてね」
「どんな理由ですか?」
「機会があったら話そうかな」
「お付き合いされている方は?」
「生憎」
「僕が女性なら、なかなか良いプロポーズだと思ったんですが」
「本気にされると困るからね」
「そうなんですか? 残念ですね」
「ん? ああ……」季時は視線をあちこちに散らせる。「ええと……君はてっきり、当主の人と交際関係にあるかと思っていたけど」
「冗談ですよ」立花は微笑む。「軽口を嗜まれる割には、押しには弱いんじゃないですか?」
「その観察は正しいね。どうも、自分でも分かっているんだけど、この癖が抜けない」
「お酒は?」立花は言う。
「もう少し酔える話がある」
「お酒よりですか?」
「うん。僕はもともと、お酒というのは人と人との会話のレベルを合わせるためのアイテムだと思っている。立花さんとはそういうことをする必要はない。会話をしているだけで、心地良い」
「同感です」
「相談に乗りたい」季時は言う。「自分からこんなことを言い出すのもおかしな話だけど、うん、どういうわけか、そういう思想があって……つまり、何か悩んでいるように見えてね」
「僕がですか?」
「ジュペッタとどう接すれば良いか分かっていない」
 立花は言葉を飲み込んだ。そして、季時の前に座る。じっくりと聞く必要のある話だった。
「ジュペッタは君のパートナーとして成り立っていないようだ、ということが今までの会話の中でなんとなく分かった。でも、当主のポケモン、というわけではないようだ」
「仰る通りです」
「最近出逢った。しかも何らかのアクシデントで」
「アクシデントですか……ええ、一番正しい表現かもしれません。どうしてそう思われたんですか?」
「君に懐いていないということ、家に彼専用のギミックがあること、あまり話をしないこと、そして僕に懐いていることに嫉妬心を覚えないことだ」
「それで僕が悩んでいると?」
「君に限定したことではない。大抵の人はそういう場合悩むものだからね。けど、どう接したら良いか分かっていなくて、腫れ物にさわるように扱っているんじゃないかとね」
「確かにそうですね」立花は床に転がっているジュペッタを拾い上げる。「僕は、こいつとどう接して良いのか、よく分かっていません」
「どうしてだろう」
「元の飼い主に、捨てられたんですよ」
「ふうん」季時は険しい表情をした。「気持ち良くない話だ」
「でも、そのおかげで僕は、二十数年いなかったパートナーに巡り会えた。それには感謝しているし、飼い主に対する不信感も、あまりないんです。複雑ですけれど、そういうもので」
「まあ、君の気持ちは君が言う通りなんだろうから、深く追求はしない」
「だけど、嬉しいのは僕だけで、こいつは元の飼い主に会いたがっているんじゃないか、と思うことがあったり、外に出ずに屋敷で本ばかり読んでいるような人間が新しいパートナーじゃあ、こいつも嫌だろうと思って」
「負い目を感じているわけだ」
「かもしれません」
「人間は――」季時はカゲボウズの頭をぎゅっと掴む。「人間は勝手な生き物だ。野生に生きる彼らを捕獲して、自分のものとして扱おうとする。ひどい話だ」
「本当に」
「でもね、捕獲して、自分のものにしてしまった以上、僕たちには彼らを楽しませる義務がある。喜ばせる責任がある」季時はカゲボウズの頭を掴んだまま、親指で額のあたりをこすってやる。「負い目を感じるのは勝手だが、君から接して上げない限り、良好な関係は気付けない」
「……ごもっともですね」
「嫌われているとしたら、まあ仕方ない。でも、好かれているのに疎遠というのは、寂しいな。世の中には、体質なんかなくてもパートナーに恵まれない人もいる。せっかくの出会いなんだから、がむしゃらでいいんじゃないかな」
「がむしゃらにですか」
「そう。もっと愛してあげたらいい。ただそれだけ」
 立花は拾い上げたジュペッタを、元の持ち主がやっていたように、抱き締めてみる。決して綿のように軽いとは言えない重量。だが、とても心地良い重量感だ。
「ほら、嬉しそうだ」
「分かるんですか?」
「分からないけど、パートナーに抱かれて嬉しくない生き物はいないよ」
 季時は乱暴にカゲボウズの頭を撫でる。カゲボウズは嬉しそうに表情を転がして、催促するように、季時の胸に頭を押しつける。
「ほらね」
「仲が良いんですね」
「彼女がその理由だ」
 季時は溜息混じりに言って、カゲボウズを抱き締めた。

 5

「それじゃあ……悪いね、お世話になって」
「いえ、全然。こんなに早くに出発されるとは」
「居心地が良くてね。このままだと退職しかねない」
「僕としては光栄ですが」
 立花は、ジュペッタと手を繋いでいた。玄関先で、一人と一匹で、客人たちを見送っている。季時の肩のあたりに、カゲボウズが浮かんでいた。カゲボウズは名残惜しそうだ。
「ジュペッタが気に入ったみたいだ」
「そうなんですか?」
「まあ種族が同じだから、大抵のジュペッタとは仲良くなるんだけどね。けれど今回はとくに。別れの挨拶をしようなんて殊勝な態度は、珍しいからね」
「良かったな」立花はジュペッタに向けて言う。「すみません、色々とありがとうございました」
「一食一泊のお礼としては足りないくらいだ」
「そんなことありません」
「それじゃ、また。それ、似合ってるね」
 季時はそのシルエットを評して言った。そして、それ以上何も言わずに、屋敷から離れていく。立花とジュペッタは、季時とカゲボウズが見えなくなるまで見送った。
「それじゃ、僕たちも戻ろうか」
 立花はジュペッタを先導し、玄関で靴を脱ぐ。そして、手を繋いでいたからか、それとも心境の変化だろうか。傾斜のある台を使わせることなく、ジュペッタを抱き上げる。もう、この台も打ち木も、必要はないな、と立花は思う。
 客人がいなくなった屋敷の中は、また同じように静かになった。また本でも読もう、と、立花は階段を上がる。人形部屋の前で立ち止まり、ジュペッタを廊下に下ろした。
「ジュペッタは、またここにいるか?」
 立花が問いかける。言葉を理解は出来ないはずだ。しかし、ジュペッタは書庫の前まで歩いて行って、
「……ぎゅる」
 と、ドアを指さした。
「ちゃんとした鳴き声を聞いたのは、初めてだ」
 立花はジュペッタを小脇に抱えて、書庫へ戻る。
 閉じられてしまったドアの向こうから、頻繁にではないが、楽しげな声が聞こえてくる。
 もう、一日を長く感じることはなくなることだろう。

戯村影木 ( 2013/04/29(月) 05:23 )