『次の世界では、君と一緒に』
0
出会えて良かった、と思うことなんて、一度だってなかった。
けれど、それでもぼくは、それを夢見ていた。
ゴミ捨て場のなか。
ずっと、ずっと。
1
この世界のどこかに、衰退して、汚れてしまった地域がある。そこに住む人々は貧困していて、怖ろしいまでに、ギラギラとした目をしていた。生きることに必死、という相貌。彼らは一日を生きることを、とても大切に感じていた。明日、目を覚ます保証はない。明日、目が覚めた時、眠る前と同じ景色が見られるという保証もない。だから、眠る前に、全てのことをしておくという意識があった。後悔しないような生き方を。それが基準で、だから、明日に回してしまおう、などという甘ったれた考えをする者は、一人もいなかった。
その地域の中でもさらに廃れ、汚れてしまった村があった。この村は、その思想がさらに煮詰まったような場所だった。住人は全員が顔見知りで、結託していた。ギスギスとして、余所者を寄せ付けないような雰囲気を持っている。けれど、村人同士は、比較的良好な関係だった。最下層であるが故に、それ以下の存在に自分がならないよう、意識しあっていたのかもしれなかった。もし『自分より下』という層を作ってしまえば、いつか自分がその立場になるかもしれない。本能的な恐怖だ。彼らはそれを恐れ、表面上は、良好な関係を築いていた。
テリトリーを荒らす者は部外者だ。
そういう者からは、全てを奪って良い。
その村に住む人々は、そういう思想の元、生まれ、育ち、そしで死んで行く。
それは何年も繰り返されたサイクル。
覆ることはないと考えられていた。
2
ところが、ある季節のこと。
その村に異変が起きた。
その村では、それでも結婚や新たな命の誕生が行われていた。生まれた子どもたちは生まれを呪い、境遇を恨みはしたが、両親を憎んだりはしなかった。両親は家族で、村人も家族だ。悪いのは村の外にある、規律や、規則、あるいは裕福層たちだった。村の中に生まれ、育った者はみな仲間である。それは鉄の掟として、そこにあったはずだった。
しかしながら、異変は起きた。
その村に、生まれてはならないほどに美しい少女が誕生してしまった。彼女の名はステラと言った。両親の、何が作用したのだろう。生まれた時は、分からなかった。子どものうちも、分からなかった。その少女が十歳を過ぎる頃、みなが気づき始めた。この子は普通ではない。この子は美しすぎる、と。
野性的な男たちは、その美しすぎる少女に心惹かれてしまった。ある者は求愛を重ね、ある者は貢ぎ続けた。しかし、両親はそれを受け付けなかった。この村にある掟が崩れてしまうからだ。もちろん、男たちは面白くない。しかしそれ以上に面白くなかったのは、村の女たちだ。
美貌は敵だった。それは、裕福な層が持ちうる武器だった。生まれもっての武器。自分が持っていないから、人は羨む。村の女たちは、ほとんどが、その少女を羨んだ。もちろん、その美貌を傷付けるだとか、そういった直接的な危害は加えない。けれど、まず挨拶をしなくなった。次に、目を合わせなくなった。そして、交流を絶ち始めた。少女が可愛いために心惹かれていた男たちは、負い目を感じ、そんな村の女たちの仕打ちを責められない。かくして、ステラ一家はその村から孤立した。
助けの手はない。
村人は全員敵になった。
そして、最下層を生まないことを約束した村に、あまりに美しすぎるが故に、最下層に位置してしまった家族が誕生した。
3
ステラは孤独だった。
美しい姿の彼女は、順調に育った。十二になる頃には、嫉妬心を捨て、諦念を覚える女も出て来たほどだ。それでも、村全体を覆う『差別』という感情は揺るぐことはなく、ステラは疎外され続けた。ステラの両親もまた、村人から疎まれた。仕事などはほとんどない。かと言って、盗みをするほど汚れた心は持っていなかった。彼らは毎日をひもじく過ごし、常に飢餓の危険性と戦っていた。
ステラ一家を生かしていたのは、ステラ本人だった。彼女はよく、村から少し離れたごみの集積場に一人で向かっていた。衰退した地域の、ごみばかりが集う場所。そこには、その村より少し裕福な地域から出た残飯などが集められた。ステラはそこに忍び込んでは、食べられそうなものを拾い上げ、家族の元に届けていた。もちろん、毎日残飯にありつけるはずはなかった。けれど、ごくたまに、下心を持って彼女に食べ物を与える村人がいた。彼らの厚意を、ステラは素直に受け取った。けれど、誰もステラを組み伏せようとはしない。村全体の、暗黙の了解だ。ステラに手を出すことは、すなわち、自らを最下層へと貶める行為であったからだ。
ステラはなんとか生き延びていた。人生の方向性はなかった。ただ、その日を生きることで精一杯だった。何故疎まれるのか、何故嫌われるのか、何故好いてくれる人がいるのか、何故自分はこんな村にいるのか。そうした思考のほとんどを、勘定から外して、生きていた。
それがステラの日常だった。
それが瓦解したのは、彼女が十三になった時だ。
4
ステラはいつものようにごみ集積場へ向かった。残飯にありつくためだ。最近では、両親の命にも危険が迫ってきていた。父親は衰弱している。ステラにはそれが何となく分かっていた。けれど、可哀想とか、哀しいとかいう感情よりも、死なないように食べ物を探さなくちゃ、という感情が強く芽生えていた。彼女は朝から晩までごみ集積場に滞在することが多くなった。
そんなある日、
彼女は出逢った。
「…………」
いつものように残飯を漁っていると、ごみの中に、動くものを見つけた。動物か、それとも人間が捨てられたのかと思った。動物であって欲しいと願った。もし弱っているなら、殺してしまえばいい。肉は栄養になる。ステラはゆっくりと、その動くものに近づいた。
「わあっ!」
ステラは声を上げながら、その動くものに飛びかかる。両手で、押さえつけるようにして、のしかかった。
「!」
彼女は周囲のごみを払いのけ、その動くものの正体を暴こうとした。
が、ごみはなくならない。
払いのけようとしても、なくならない。
不思議に思いながらその行為を続けているうちに、どうやら、自分が押さえつけているものがごみそのものだということに気付いた。何故ごみが動くんだろう。ゆっくりと手を離し、その全貌を確認する。
ごみだった。
ごみそのものだ。
ごみ袋を模したような生き物。しかしちゃんと目があり、口があった。手足らしきものもある。ステラがそれを確認している間にも、ごみは動き続けていた。好戦的な様子はない。むしろ、内向的ですらあった。
「うわあ……」
ステラは感嘆の声を漏らす。もの珍しいものが捨てられている。それだけで、ステラにとっては喜ばしいことだった。味気ない毎日に刺激を与えるには十分すぎる驚き。
「ごみだ」
「……」
そのごみは、人間の言葉が分かったのだろう、ごみ、と言われたことに傷ついたらしく、口元を歪ませ、しなっとしてしまった。
「かわいい」
しかし、ステラはそんな姿を見て、そう思った。ごみはやはり人間の言葉が分かるのだろう。少しだけ元気を取り戻した。
「どうしてこんなところにいるの」
ステラが尋ねる。しかし、ごみにはそれを答える術がない。理解は出来るのに。困惑したような様子に、ステラは質問を変える。
「捨てられたの」
残酷な質問だった。しかし、ごみはゆっくりと頷いた。ごみは、ごみというより、捨てられたことでごみとなってしまった、生き物の成れの果てだった。
「かわいそうだね」
まったくその通りだ、とごみは思う。自分は可哀想だった。ひどく愛され、ひどく大事にされたというのに、引っ越しを理由に捨てられ、様々なごみの中をたらい回しにされ、いくつものごみ捨て場を転々とし、気付けば自分自身がごみになっていた。これはあんまりだ。可哀想以外のなにものでもない。そうは思っていたが、どうしようもないことだった。
「友達いないの」
また、ステラは残酷な質問をする。ごみはこの少女を嫌いになっていた。なんでこんなひどい仕打ちをするのだろう。泣きたくなってきた。汚い液がこぼれ落ちそうだ。しかし、ごみが答えずにいると、ステラはごみの頭を雑に撫でた。
「私がなってあげるよ」
ステラは美しくわらった。
「私はステラだよ」
その笑顔が素晴らしいということは、そのごみにもよく分かった。
なんでこんなに汚い場所で、こんなに美しい笑顔が咲いているのだろう。
不思議でたまらない。
その日から、ごみとステラは友達になった。
ステラは、破れてしまったごみ袋のようなごみに、ヤブクロンという名前をつけた。
5
ステラの生活に大きな変化は見られなかった。ただ、ヤブクロンと触れ合うことが、日常に追加された。両親は相変わらず不健康だったが、まだ死なずに済んでいた。ステラの残飯を獲得する量は、日に日に増えていった。その理由は単純だ。ヤブクロンが一日中その場にいて、ステラが食べられそうなものを蓄えてくれていたからだ。
「ヤブクロン、今日もきたよ」
ステラが声をかけると、ヤブクロンは嬉しそうに歩み寄った。ステラが来てくれることだけが、ヤブクロンの望みだった。ヤブクロンはごみだから、その場を離れることが出来ない。ごみはごみを失ってしまうと、生きづらくなるということに気付いていた。まるで人間が酸素を失ってはならないように、ヤブクロンは、人間が生み出すごみによって生かされていた。
「げんきだった?」
ヤブクロンはステラに撫でられることがとても好きだった。自分はこんなに醜く汚れた生き物なのに、ステラはとても美しくて、こんなにも綺麗だった。心も、体も、笑顔も。自分とはまるで対称的で、足並みを揃えることも出来ないけれど、それでも彼女の役に立てることが、何よりも好きだった。
「わあ、今日はこんなに拾ってくれたんだ。ありがとう。いつもごめんね」
ヤブクロンは精一杯頭を振った。そんなことない。ステラの役に立てるなら十分だよ。思い切りそう伝えたかった。けれど、ヤブクロンに出来ることは、イエスか、ノーだけ。それでもステラとの意思疎通は十分に図れていたと思う。
「最近ね、お父さんも元気になってきたんだ」
ステラは、まだ見ぬ彼女の家族の様子を、ヤブクロンに語ってくれた。ヤブクロンはそれを聞くのが楽しみだった。きっと、ステラより、ヤブクロンは世間を知っていた。もともとは、裕福な家庭で飼われていた生き物だったのだ。だから、世間を知っていて、だからステラの話にもついていくことが出来ていた。ステラは語彙が少なく、表現力が乏しかったけれど、それでもちゃんと物語を紡いでくれた。ヤブクロンはそれだけで、自分がここにいる意味を見出せていた。
ある日も、ヤブクロンはいつものように残飯を探してごみ捨て場を探索していた。新しいごみが捨てられたら、すぐに食べられそうなものを探して、おなかのなかにたくわえる。ステラがきたら、それを吐き出す。どうせごみの中にあったものなんだから、自分が食べても一緒だろう、という考えだった。
日がのぼり、ごみ収集車がごみを捨て、去って行き、それからヤブクロンがごみ集積場を三周する頃。それが大体、ステラが来る目安だった。ヤブクロンは、ステラが自分を呼ぶのを、今か今かと待ち構えていた。
「おい、ステラ」
けれど、聞こえたのは知らない男の子の声だった。
「ついてこないで」
「聞けよ」
「いや」
「いい話だろうが」
「あなたたちにとってはね」
「お前にとってもだよ」
「ねえ、ついてこないで」
喧嘩のように聞こえた。
ヤブクロンは、何故か、ごみの山に隠れた。見つかってはいけない、という考えと、その話を聞いていたい、という邪な考えが芽生えたのだ。
「そりゃあ、村のみんなも助かる」
「みんなだけでしょう」
「お前が一番幸せになれるだろ」
「私にかまわないで」
なんとなく、話が見えて来た。
けれどヤブクロンは顔を出さない。
「もう、みんな知ってる。村のみんなだけじゃねえ、町の方でだって、お前のことは噂になってんだ」
「私、知らない」
「なあ、話くらいしてくればいいだろ。別に、親父さんたちと一生会えないってわけでもない。それに、親父さんたちのことを考えれば、そうするべきって思うだろ」
「どうしてその話をしに来るのがあなたなの」
二人の足音が止まった。
少年と少女は、ごみ集積場のフェンスで、向かい合うようにしていた。ヤブクロンは視線を向けないまま、耳をこっそり澄ませていた。
「それは、俺が歳が近いからで、昔、お前に残飯分けてやったりしてて、仲が良いだろうって……」
「なあんだ、知られてたの。うまくやるから、なんて言ってたのに」
「しょうがねえだろ。でも、黙っててくれたし、お前に危害は及んでねえはずだ」
「そうだけどさ」
「なあ、よく考えてみろよ。いい話なんだ。なにも、お前、体を売れって言われてるわけじゃないんだぞ。ただ、裕福な家庭の子どもになって、幸せに暮らすってだけだ」
「どうして私なの」
「どうしてって、綺麗だからだよ」
「そう」
がん、と、フェンスを叩く音がする。
「でも、私は行きたくない」
「どうしてだよ」
「離れたくない理由があるの」
「親父さんたちか?」
「それだけじゃない」
「……わかんねえよ。俺だったら、こんな村、すぐにでも出てってやる。こんなチャンス、二度とないかもしれないんだぞ。考える必要なんてないだろ」
「あなたには分からないよ」
「……期限は二日後だ。知ってるだろ。それまでもう一度考え直せ。金持ちのおっさんたちが、村の入り口で待ってる。あとはお前がそこに行くだけだ」
「そんなに私にいなくなってほしいの」
「いなくなって欲しいわけねえだろ」
最後の言葉は、とても小さく、ぶっきらぼうに放たれた。もしかしたら、それはステラには届いていなかったかもしれない。けれど、ヤブクロンにはちゃんと聞こえていた。ああ、ステラに値段がついたんだ。ヤブクロンは世間に明るい。だから、そんなことも、よく知っていた。ステラに値段がついて、その両親だけじゃなく、村全体にまで、対価が払われる。
「ヤブクロン、いないの」
ステラの呼ぶ声がした。ヤブクロンはねぼけたふりをして、ごそごそと、ごみの山から這い出した。
「あれ、珍しい。寝てたの?」
ヤブクロンはちょっと迷ったあと、ゆっくりと頷いた。ステラは太陽みたいな笑顔を浮かべる。
「ごめんね、いつも無理させて」
ヤブクロンは全力で頭を振った。そして、ステラのためにかき集めた残飯を吐き出した。
ステラが誘いを断る理由は、自分にあるのだろうか。
そう思った途端、ヤブクロンは今まで幸せだった気持ちが、一瞬で吹き飛んでしまった。
6
次の日、ステラは来なかった。次の日も、ステラは来なかった。どれだけ待っても、ステラは来なかった。残飯は集めるだけ集めていて、それを吐き出すことなく、二日を終えた。こんな日が来たことはなかった。ヤブクロンは不安な想いで、おなかが優れなかった。
お月様が綺麗だった。ヤブクロンはぼんやりとそれを眺めていた。すると、ごみを捨てるような時間じゃないのに、誰かが走ってくる音が聞こえた。ステラの足音じゃない。ヤブクロンはごみの中に隠れた。
「いたか!」
「いや、いない」
「くそっ、どこに行ったんだ」
「ここだと思ったんだけどな」
片方の声は、昨日聞いた少年の声だった。もう片方は、大人びている。大人の男の声だ。必死そうな声が、とても耳に痛い。
「あいつは今や黄金より価値があるんだ」
「わあってるよ親父……」
「いいから探せ! お前、こういうことがあるかもしれないと思って、お前を咎めずにいたんだぞ。いざっていうときに役に立たないなんてのは、許さんからな!」
「元はと言えば、親父たちのせいだろ……」
「なんだ?」
「親父たちが、ステラの親を殺したせいだろ!」
ヤブクロンは耳を壊したくなった。
なんだって?
殺した?
「殺してない」
「殺しただろうが! ステラを説得させようとしたんだろうけどな、あんなに弱り切ったやつら、ちょっと縛り上げただけで死んじまうよ! そのくらい分かるだろ!」
「黙れ!」
かたい、何かと何かがぶつかる音がした。地面に崩れ去る音。ああ、殴られたんだ。世間を知っているヤブクロンは、その音を知っていた。
「俺たちの村が生き延びるためだ!」
「そのために村人が犠牲になってもいいって言うのかよ!」
「正義漢ぶるな!」
また、嫌な音が聞こえる。ヤブクロンは聞いていられなくなった。ああ、なんてことだろう。今、未来は悪い方へと進んでいる。直感で、ヤブクロンはそれを感じ取った。
「俺も殺す気か」
「……ッ」
「俺も殺す気かよ、親父!」
「黙らねえか!」
もう見ていられなかった。
ヤブクロンはごみの塊を、立っている方の男に投げつけた。その威力は、ヤブクロンが思っている以上に鋭いものだった。
「ぐあっ!」
男は持っていた鍬を取り落とす。少年の目がこちらを向いていた。
「なんだてめえは!」
大人の声。ヤブクロンは続けて、二度目の投擲を行った。次の塊は腹部へ命中した。これは効いた。男は前屈みに倒れ込む。
「……なんだお前」
問いかけるような少年の声だった。ヤブクロンは言葉を持たない。けれど、何かを伝えられるような気がして、おなかに蓄えていた残飯を、ぶちまけることにした。
「残飯……」
少年はそれを見て、ゆっくりと立ち上がる。
「……そうか、ステラの友達か」
存外、頭の良い少年であるようだった。何も伝えていないのに、恐らく、ステラからも何も聞いていないだろうに、そのほとんどを悟ったのだ。ヤブクロンは意外に思った。こんな村でも、正しい人間は生まれるのだと。
「なあ、お前……何ものかは知らないけど」
少年は鍬を拾い上げて、ヤブクロンに訥々と語る。
「もし、ステラが来たら、一緒に逃げてやってくれないか」
ヤブクロンは、少年の目を見る。
その目の中に、とても強い覚悟を見た。
「俺は、ステラは幸せな家族に囲まれることが幸せだと思ってたけど、お前みたいなのがいるなら、お前みたいに強い友達がいるなら、一緒に、好きなところまで逃げた方が、あいつにとっては幸せなのかもしれない」
ヤブクロンは、頷いておいた。
約束ではない。
ただ、少年の言葉の意味を、理解している、という意味を伝えるために。
「俺は、ステラがここへ来られるように、何とかするよ」
少年の父親は、意識はあるようだったが、ぶつけた塊が金属だったのがいけなかったのだろう、息をするのがやっとという風だった。
「さようなら、ステラの友達」
少年は鍬を大きく振り上げる。
「俺はお前のように正しくはなかった」
7
ヤブクロンは世間を知っていた。
もともと、裕福層で飼われていた。裕福層に、貧困層で生まれた、顔立ちの良い少年少女や、優れた頭脳を持つ人間を買い取るという文化があることを知っていた。だから、少年とステラの会話も、すぐに理解出来た。今、この村で起こっている惨劇も、容易に想像出来た。
ヤブクロンは、日が昇ると、はじめてごみ集積場を抜け出した。それが何を意味するかは、自分でもよく分かっていた。けれど、ステラは来なかった。夜になっても、朝日が昇っても、ステラは来なかった。約束の三日目は、今日だった。もう、これ以上は待てない。
ヤブクロンはごみ集積場を抜け出して、ステラを探した。ステラのいそうな場所の心当たりなんてなかった。けれど、ヤブクロンには、なんとなく分かった。彼がごみじゃなかった頃、まだ、可愛いとは言えなくて、生意気で、乱暴な少女に飼われていた頃、飼い主の少女が家出をした時、何故か彼女の居場所が分かった。今のヤブクロンにはその理由が分かる。匂いを辿っていたんだ。ヤブクロンは、ステラの匂いを辿りながら、その居場所を探した。
見つけることは容易かった。
ステラは、岩山にいた。
空腹が続いていたのだろう、少し疲れた様子で、ただ座って、泣いていた。
「ヤブクロン……」
ステラはヤブクロンに気付くと、そっと手を伸ばし、頭を撫でた。ヤブクロンはそれが嬉しかった。けれど、哀しい気持ちでもあった。
「どうしてここが分かったの」
答える術はない。ヤブクロンは、頭を撫でるステラの手を取って、引っ張った。
「どうしたの」
答えられず、ただ、彼女の手を引く。
「どこかに連れて行ってくれるの」
ヤブクロンは頷いた。そう、連れて行かなければならない。彼女を幸せに出来るのは、自分だけだ。あの少年は、ステラを幸せにしたがっていた。なら、自分がやるしかない。
「一緒に、逃げてくれるの?」
ヤブクロンは強く頷いた。
ステラの手を引いて走ることは難しかった。ヤブクロンは背が低い。けれど、がんばって手を伸ばせば、手を離さずに、走れた。村人の目を気にする必要なんてない。ステラを探している間に、ヤブクロンは気付いていた。
この村は、無人だ。
もう、誰もいない。
ヤブクロンは走った。走って、走って、ステラのことを考えた。どうしてステラのために頑張るんだろう。どうしてステラを幸せにしたいんだろう。理由は分からなかった。それでも、ステラはこんなところにいるべきではないと、ヤブクロンは思った。ヤブクロンは世間を知っていた。人には、居場所がある。不似合いな場所からは、遠ざからないといけない。
ヤブクロンは、幾度となく彷徨った。村の地形なんて知らなかった。それでもどうにか、たどり着いた。ヤブクロンは、ステラの手を引いたまま、間に合うことが出来た。
村の入り口。
屈強そうな男が二人。
優しそうな老夫婦。
強そうな、大きな車。
ああ、約束の日だ。
ステラは、ヤブクロンの手をぎゅっと握り締めた。
「……こっちじゃ、だめ。違う方から逃げよう、ヤブクロン」
けれど、
ヤブクロンは、
ステラの手を離してしまった。
「あっ」
そして、自分が出来る、一番怖い顔をして、ステラを睨み付けた。憎悪の感情を、作り出した。幸せだった日々、ステラとの会話、あの美しい笑顔。その全てを糧にして、その全てを燃やして、ヤブクロンは、憎悪の表情を作り上げた。
「えっ……」
「ああ、ステラちゃんだ」
優しい声がする。
ヤブクロンは尚、鋭い憎悪の表情で、ステラを睨み続ける。
「ステラちゃん、一緒に来てくれるんだね」
優しそうな老夫婦だ。ああ、ヤブクロンは思った。なんて優しそうな人たちだろうか。彼らなら、きっと大丈夫だ。そんなことを、醜い顔のまま、思い浮かべる。
「ヤブクロン、どうして」
「!」
ヤブクロンは、足下にあった砂を掬い上げて、ステラに投げつける。
「あっ……」
膝にかかる、小さな粉。
憎悪の感情。
敵対心。
自分の中に眠っていた、野生。
それを全部引きずり出して、ヤブクロンはステラを睨み付ける。
殺すぞ。
そう、伝えるために。
「どうして……」
ステラは泣き顔まで美しい。ヤブクロンは不思議と、そんなことを思った。表情は憎悪を表していたはずだ。けれど、汚い液が、ヤブクロンの両目から、こぼれ落ちていた。
「どうしてそんなことをするの……」
「おーい、ステラちゃん」
「ステラちゃん、はやくこっちにいらっしゃい」
ヤブクロンは、もう一度、ステラに砂をかける。消え去れ。立ち去れ。視界からなくなってしまえ。そう祈るように、砂をかけ続ける。
「ヤブクロン……」
「ステラちゃん」
ボディガードと共にやってくる、老夫婦。ヤブクロンは、彼らに認識される前に、ステラの前から駆け出した。
ああ、これでいい。
これでいいんだ。
ステラは幸せになる。
ヤブクロンは世間を知っている。
裕福な暮らしを知っている。
ステラは幸せになれる。
両親を失っても、
故郷を失っても、
友達を失っても、
あたたかい家と、美味しい食事と、優しい義理の両親が、ステラを幸せにしてくれる。
だからいいんだ。
これでいいんだ。
ヤブクロンは走った。
ごみ集積場へと向かって走った。
8
けれど、ヤブクロンに、走り続けるだけの余力は残っていなかった。
ごみの中で生まれて、ごみの中で育ったヤブクロンにとって、ごみを失ってしまうことは、命を削ることに等しかった。
ステラは人間だ。
ごみの中で生まれたとしても、
ごみの中で育つべきではない。
ヤブクロンはごみだ。
だから、ごみの中で生まれた。
ごみの中で生きる。
けれど、ごみのない場所では、生きられなかった。
方向感覚も分からない。どちらにごみ集積場があるのかも分からない。走っている途中、息苦しくなって、それを諫める考えを浮かべた。どうして苦しいのに、走るんだろう。生きたいから? どうして生きたいんだろう。
答えを考えた。
答えは出なかった。
もう、ヤブクロンが生きる理由は、なくなってしまったからだ。もし、もしあの老夫婦が、ヤブクロンをステラの友達だと思って一緒に連れて行ったとしても、きっと生きられなかっただろう。もし、ステラと一緒に逃げたとしても、彼女を幸せにすることなんて出来なかっただろう。
ステラは幸せになるんだ。
これでいいんだ。
ヤブクロンは幸せな気持ちのまま、横たわる。
太陽が眩しい。
視界が白く染まる。
熱さが体を焦がす。
ああ、幸せだ。
幸せにしたかった人が、幸せになる。
なんて幸せなことなんだろう。
ヤブクロンの視界が歪む。
遠くで、エンジンの音が聞こえた。
9
出逢わなければ良かった、と思うことなんて、一度だってなかった。
けれど、それでもぼくは、それを恐れていた。
ごみ捨て場のなか。
ずっと、ずっと。
けれど、きっとぼくは、君を幸せに出来た。
ぼくも、君を幸せにして、幸せになれた。
それでも、もし、願いが叶うなら、
次の世界では、君と一緒に。