/新規作
『私が母親になった日』
 私が生まれてすぐに、お母さんは死んだ。
 事故なのか、病気なのか、寿命なのか。それとも私を生んだせいで死んだのか。真意は分からないけれど、とにかく私が生まれてすぐに、お母さんは死んだ。私と同じ姿をした仲間たちが、そう教えてくれた。
 私は泣き虫で、物心がつく前からよく泣いていたらしい。仲間たちは、独りぼっちで泣きじゃくる私に、お守りをくれた。そのお守りは不思議と安心出来るもので、私はそれに触れていると、すぐに泣き止んだ。しばらくして、私はお守りをなくさないように、肌身離さずに、身につけるようにした。
 私たちは野生の生き物で、人間たちからは捕獲対象とされているようだった。生まれてから十年が経過した頃、私たちの仲間が、何匹か連れ去られた。それが最後で、もう二度とは戻って来なかった。そういうものなんだよ、と、仲間は言う。別れたら二度と会えない。だから、死に別れることの方が、幸せなんだよ、と教えてくれた。残酷な世界の中で、母に生んでもらい、母のお守りを身につけ、死に別れた私は、恵まれている方なのだと知った。
 私たちは戦わなければならない生き物だ。外敵から身を守るために、領地を広げるために、生きて行くために。だから私もよく戦った。仲間たちに鍛えられて、戦いを学んだ。それでも敵わない相手が現れたら、潔く逃げた。私はメスで、戦士の誇りは持っていなかった。元より泣き虫で臆病者な私に、どうしても逃げられない戦いなんてなかった。
 ある日、私たちが暮らす集落に、大量の人間が押し寄せて来た。仲間の一人はこれを『乱獲』と呼んだ。何かの理由で、私たちを捕獲、あるいは惨殺する用事が出来たのだろう、と。全く身勝手なことだと思った。集落のオスたちは士気を高め、メスたちはそれを援護するために、戦いに挑んだ。
 あとで聞いたことだが、結果は惨敗だったようだ。どころか、半数以上の仲間が犠牲になった。捕獲されたもの、重傷を負ったもの、殺されたもの。残ったのはメスばかりで、オスはほとんどいなかった。前線で戦ったばかりに、死期をはやめてしまったのだ。
 もちろん、メスも犠牲になった。つがいのメスは、オスを守ろうとして死んだ。子があるメスも、死んだ。オスは仲間を守ろうとして、メスは特定の誰かを守ろうとして、死んだ。家族もつがいもいない私は、
 私は……、
 私は、逃げた。
 捕まるのが怖ろしかった。傷を受けるのが怖ろしかった。殺されるのが怖ろしかった。だから、きっと誰よりも先に逃げたのだろう。無我夢中で逃げて、気付いた時には孤独が待っていた。
 知らない生き物。
 知らない世界。
 それらが私を蹂躙した。
 それでも、仲間に教わった戦いの術を持っていた私は、生き残ることが出来た。周辺の生き物たちは弱いものばかりで、私にとっては相性も良かった。私はどこかに腰を落ち着けることもなく、ただ宛てもなく彷徨った。時々、どうしようもなく悲しい時は、高台にのぼっては泣いた。泣き虫はいくつになっても治らない。その泣き声に引き寄せられてやってきたものたちは、弱者であれば滅し、強者であれば逃亡した。卑怯で、狡猾で、悲しいくらいに愚かな生き方だったけれど、それでも私は、傷を負うのが怖ろしかった。
 どのくらい彷徨ったのかは分からない。どの方向へ歩いていたのかも分からない。けれど、殺戮から三度目の同じ季節、私はようやく、同じ種の仲間と出会った。
「おいっ」
 私は、良く似た姿のそれに声を掛ける。
「うん?」
「あんたっ、私の仲間だろう」
「誰だ」
 オスだった。同じくらいの年月を生きているように見えた。私のことを知らないようだ。だからつまり、同じ集落の仲間ではないらしい。
 私は暮らしていた集落の名と、長の名前を口にした。
「ああ、南の生き残りか。他には?」
「いない」
「そうか。災難だったな。良かったらうちに来い。仲間は歓迎する」
 彼は私を連れて、自分の集落へと向かった。その集落は、私が暮らしていたところに比べると小規模で、数も二十かそこらだった。それでも、穏やかで、私にはとても合っているように思えた。この周辺では、争った形跡もないし、人間の気配もない。途方もない旅に、私はこの時ようやく意味を見出した。
 集落に住んでしばらくして分かったことは、ここに住む仲間は争いを好まないということだった。だから、私より弱いものばかりだ。無論、戦わないで済むのなら、私もそれで良かった。それでもせっかく違う集落から来たのだから、ということで、私はよくオスたちに戦い方を教えた。彼もその中にいて、特に熱心に学んだ。
 彼は私にとてもよくしてくれた。その理由に、この集落には若いメスがいない、というものがあった。歳老いたメスか、若すぎるメス。頃合いが良いのが私だった。そんな見え透いた優しさでも、私には心地良かった。
 私は自然に彼とつがいになった。
 誰に教わらなくとも、一対一の関係というものは育まれるのだと知った。私には親がいない。生まれた時に死んだのだという。そんな私でさえ、そうした未来を想像することが出来た。丁度良い年頃だから、という理由で結ばれた相手だったが、私はそれに不満を感じたりはしなかった。もし戦っていれば、もし逃げなければ、もしあの集落でつがいになっていたら――今の私はない。私はここで、おだやかに暮らすことが、たまらなく好きだった。
 季節が二巡する頃、私は彼の子を授かった。集落のみんなは、余所者の私にたくさん世話を焼いてくれた。体力も知識も、彼らより私の方が優れていた。それでもその気遣いは嬉しくて、私は彼らに甘えた。本当に家族のように思った。生まれた集落を嫌うつもりはないが、死んでしまってはどうにもならないと、私は考えていた。
 肌寒くなる頃、子どもが生まれた。私によく似たメスだった。とのことらしい。私は自分の顔が分からないが、少なくとも、周囲からはそう思われたようだ。自分と彼が合わさって出来た生き物、というのがよく分からなかったが、愛おしいことだけは確かだった。私はこの子のために生きようと決心した。私が生まれた意味が、初めて理解出来たような気がした。
 雪が降り始めた頃だった。
 まだ自力で立ち上がることも出来ない我が子を愛でながら、彼と穏やかな時間を過ごしていると、外が騒がしくなり始めた。慌てて飛び込んできた隣家のものが言う。
「人間が来た!」
 人間は、見たこともない生き物を連れて、周辺を荒らしているということだった。近いうちに、この集落にも来るかもしれない。だからどこかに隠れるか、集落を捨てて逃げろ、ということを伝えられた。私と彼はすぐに逃げる準備を始めた。
 子どもを抱き、外へ出る。
「うわあ!」
 目を疑った。
 隣家のものが、目の前で、見たことのない生き物に傷付けられていた。もう少しで、我が子を取り落としそうになる。ねぐらは倒壊していて、集落はなくなっていた。
「に、逃げるぞ」
 彼が言う。その通りだ。逃げなければならない。しかし……、
 私は背を向けられない。
 どうしてだろう?
 あんなに怖ろしい生き物がいるのに。
 生まれ育った集落が襲われた日を思い出す。
 無事で済むはずがない。
 みんな散っていった。
 けれど。
「やめろお!」
 叫び声を上げながら、それでも、集落のオスが立ち向かっている。歳老いたメスや、若いメスを逃がそうと、必死に耐えている。
 なってない。
 戦い方が分かってない。
 足止めにもならない。
 私は彼に我が子を預けた。
「何をする気だ」
「あなたは、先に逃げて」
 私は武器を手に取る。
 この集落で一番強いのは、私じゃないか。
 戦わなければ。
 私が守らなければ。
「みんな逃げて!」







 思っていた以上に、私は強かったようだ。
 私との戦いの末、見たことのない生き物は膝をついた。そして、人間は去って行った。もちろん、無傷ではない。私は尋常ではない傷を負った。易々と回復するような傷ではない。致命傷、というやつだろう。
 みんなは無事逃げたのだろうか。声は聞こえない。もし仲間たちを救えたのなら、私は満足だった。我が子も逃げられただろう。それだけで嬉しい。そう思うと、自然と涙が溢れてきた。泣き虫はいくつになっても治らない。けれど、その理由は、歳を取るごとに変わってきていた。
 立ち上がる気力がない。なんとなく分かっていた。このまま死ぬのだ。そう思うと、また涙が溢れる。我が子の成長を見届けられないのだ。そう思うと、悲しくて堪らなかった。
「おい、大丈夫か!」
 絶望に打ちひしがれていると、彼がやってきた。まさかと思ったが、帰ってきたのだ。我が子は……連れていない。流石にそこまで抜けてはいないようだ。我が子が安全なら、それで良い。
「しっかりしろ、今みんなのところに連れて行ってやるからな」
「ううん、いい」
「いいって、何言ってるんだ」
「このまま、死ぬと思う」
「おい!」
「もう、痛みを感じないの」
 事実、私はもう何も感じなくなっていた。視界も白い。涙のせいだろうか。
「しっかりしろ! 大丈夫だ!」
「ううん。それより、お願いを聞いて欲しいの」
「お願い?」
「あの子はね、きっと私に似て、泣き虫になると思うの」
 私と似ているとみんなが口を揃えて言う。なら、そうなるに違いない。
「だから、私の頭蓋骨を、あの子にあげて」
「お前のお母さんと同じようにか」
「ええ。こうしているとね、ずっとお母さんと一緒にいるような気がしていたの。だから、きっと私も、あの子と一緒にいられるわ」
「……分かった」
 彼は私を背負って、ゆっくりと歩き始めた。きっと私は、この道中で死ぬだろう。もしかしたら、最後に一目見られるかもしれない。けれど視界は薄れている。
「ねえ、あの子には、私が死んだ理由は、教えないで欲しいわ」
「どうしてだ」
「立派な母親だと思われて、あの子が強く生きたら、大変だもの。逃げて、隠れて、臆病なまま、生き続けて欲しいの。だから」
「分かった、そうするよ」
「ありがとう」
 私は、母に包まれるように、お守りの中に顔を埋めた。涙は止まらないままだ。私の涙は、母の頭蓋骨の中に飛び散り、まるで歌のように、からからと鳴った。

戯村影木 ( 2012/09/22(土) 00:42 )