07 ハイドスタンス
【ブラックタール、それがあなたを捕らえに来るわ。どこにいようとも】 ミリィ
07 ハイドスタンス 王の座が確約された青年がいる。
その
本名を知る者は、組織の内部でもごく少数にとどまっている。理由は多説。ひとつ、本人を間近で謁見したこともなく、名乗られたこともない。ひとつ、その名で呼ぶ者が更に一掴みの人間のみであること。
そしてひとつ、別称で済ませることによる、神話化の計らい。政治的威嚇を込めた、世界への脅迫。
王への忠誠、野望の実現という根底は大体同じであれど、組織は大きいだけ人間の思想も口数もまた様々で、全員が全員、身柄拘束からのつるのムチに屈しないとも限らない。志半ばでの
遁逃もありうる。組織の末端から情報を切り離し始めることで、神話顕現の作戦はすでに形を持って始められていた。こうすれば青年とはまるで組織の上層部が作り上げた架空の幽霊にも等しい存在となり、そいつが内部外部問わず一人歩きしてあらぬ噂までも片端から取りこんでいくようにもなる。神話の範疇を越え、頭と足で天気が違うほどにまで、抑えようもなく膨れ上がっていくこともいくらか危惧されるだろう。
誰かからすれば、それも思惑の一種であったはずだ。
しかしその青年は本当に実在しており、現に有言実行の才に恵まれていた。その点だけは、全員が言葉にせずとも内心に理解を染み通していた。
そして何より、怖いのだ。
天下分け目の勝負を征するだろう英雄の、本当の名前を知ることが。
自分たちと同じ『人間の名を持っている人間』だという事実に、直面することが。
ナチュラル・ハルモニア・グロピウス。ポケモンをこころから愛し続け、対話をし、しかし世界を白黒へ分裂、人間とポケモンの歴史をここで断ち切ることを決意し、個々に眠る真の闘いを目覚めさせようとする、それは、
それは、ヒトの名前だった。
― † ―
イッシュ地方のポケモンリーグが占拠されてからすでに八時間以上はたち、その内訳の中で、リーグ地下から大山のごとき洋館が現れてからはそろそろ六時間。イッシュの革命へ、詰めの一手にまでさしかかっていた。激動の午前から暮夜へと時計はめぐり、緊張状態はなおも極度のまま一向に崩れない。史上でも類を見ない籠城戦の、ここは渦中に該当する。
組織的な暴動といえばそうでもあるし、個人によるリーグの制圧といえども何も間違ってはいない。一人と多勢。前者が公式な連戦を経て、一騎打ちの果てに敵将の首を見事掻き取る。後者どもが開城された本丸へ殺到して、これ見よがしに残党兵を一網打尽に斬り伏せる。大きく分けて二つから成り立つこの計略は水面下で静かに進められており、リーグ側は不覚にも二度連続で足元を救われるという、散々たる結果を残した。
付近を徘徊する男はもちろん放浪者ではなく、組織――プラズマ団に属する一員であり、リーグふもとで口開けるチャンピオンロード内部にて、とあるポイントの哨戒を引き続き担っていた。リーグ向こうの建造物内で石像となるよりかは、こうしてある程度は体に融通を利かせられる分だけ、気が紛れる。それでもやはりつくづく損な役回りであるために、顔は難しそうなまま崩れない。
現に前チャンピオンと闘って運命の大金星をあげたのはあの青年一人だけなのに、その腰巾着と化している老人共といえば具体的にこれまで何をしてきた。くだらない嫌がらせを企画し手を回し、言葉だけの命令を放ち、それらが裏目に出て、ことごとく手痛い失敗を喫した。おかげでまともな発言力を持つのはやはり青年の父親のみとなった。力強く突き動かしてくれるほどの実力をもった青年とその父親を名乗る老人くらいしか、説得力が伴わない。以下の無駄飯ぐらいどもは今もなお、あの洋館だか城だか船だかわからない建造物の中で今後の行く末をまじなったり、盤上の駒を動かすことにふけたりでもしているのだろうか。
待ちわびた勝利、爆音の喝采。焔のような興奮もつかの間、あろうことか青年はころりと態度を改めて、件のトレーナーを待つと全員に通達した。
パズル、その最後の一ピースを、あの少年に見立てるというのは青年が以前から密かに決めていたことなのだが、そんなささやかな思いはびたいちと察せられなかった。現に、男にとっては興醒めも甚だしかった。
何を悠々と待機する必要があるのだろうか。
イッシュ地方征服を実現したとさっさと宣言すればいいのに。
その先にある真の目的も実行段階に移せばいいのに。
口先だけであったあのチャンピオンを征した青年相手に、若いを過ぎてむしろ幼い少年が、今更敵うとでも思っているのだろうか。
もしかすると、青年自身は思っているのかもしれない。
思っていなくても、今までしつこく抗ってきた(この点に関してはこちらもだが)その精神力にトドメのくさびを穿つべく、終幕にふさわしい舞台を仕立て上げ、堂々と迎え撃とうという腹なのかもしれない。山の峰に立ってから事と次第の恐ろしさに震え上がったなどという、この期に及んでの弱腰など言語道断で、士気を下げる言葉など聞きたくもない。
いずれにせよ、男にとっては至極どうでもいいことである。
あまつさえ青年は、少年にせよその他にせよ、侵入する輩は全力で相手しろとまで命じてきた。青年の術中がますます疑わしくなってきたが、なおも少年が自分たちに牙剥こうというのならば――青年には悪いが、この場で完膚なきまでに叩きのめして身柄を差し出すのも一興だろう。岩の壁を何かに見立てる暇つぶしにもいい加減飽きてきた頃だし、謀反者の一人や二人が現れるのがむしろ待ち遠しかったりもする。とっとと終わらせてしまえば、凝らしに凝らした神経を休めさせられるし、輝く明日を両手で受け入れることができる。この道はポケモンリーグに通ずる正規ルートなので、待ち受けるのならここで正しい。このポイントを割り当てられた自分の運の良さは、もう一歩だけ続いてもいいはずだ。実際に倒してしまえば禄も少しは上がるだろう。そうしたら普段より少し高い酒を飲んでもいいかもしれない。腰に携えるこのワルビアルにも少しはいいご飯を与えられて、少しは喜んでくれるかもしれない。それまでは、もうしばらく「一緒」だ。
そうだ、これは既に消化試合と化しているのだ。目につく残党兵はあらかた蹴散らしたし、残る敵は一人とそのポケモンたち。何も恐れることはない。
ところで今、男の立つその道の向こう、出足からやや外れる11時の方角にて、岩が力なく崩れる音がした。
男は反応した。
星の自転か、野生のポケモンか。
それとも――例の少年か。
少しばかりの興奮と不安が、男の警戒心を煽った。些事とは言え確認は欠かせない。右ひじを腰へ引く。親中薬の指が、腰にためるボールへかすかに触れる。重心を低く据え、慎重の域を脱さない、粘りのある早足で音の正体へ迫る。誰もいなければそれに越したことはない。
最後の一歩まで足音を抑え、男は岩陰の向こうを覗きこむ。
男の願いは叶い、そこには「誰」もいなかった。
しかし、「何か」はあった。
それも、ふたつも。
捨てられている小さな人形は、壁に一定の間隔で設置された常夜灯の光で、なんとも判別の尽きにくい彩りとなっていた。もうひとつ、人間が持ち歩くには大きさも造りもまるででたらめなかばんが落ちている。
男は、思う。
なんだ、これ。
足下を転がるこの小さな人形が何を意味しているかは、とうとう最後まで気づかなかった。
背後。
男の視界の、まるで正反対。
常夜灯の光から逃げる闇の向こう。呼吸と気配、心音すらも殺した何かが
ある。足が四本、目が二つ。たてがみあって尻尾なし。背筋をべっとりと深く沈めて微動だにしない。いくら体全体がそこへ溶け込もうと、一対の碧眼だけは潜伏がへたくそなようだった。墨を流したように黒々とした霧の中で水色の玉が二つ、亡霊のように仄揺らめいているようでもある。体長はやはり男よりもずっと小さい。しかし足はずっと速い。岩陰に潜んでいた『そいつ』は、男の肉眼に止まることを一切許さず、立ち位置をそっくりと移し替えていた。
男はなおも無防備に背後を晒しているが、のろくさと物案じているわけではない。男と同じ程度には緊張している『そいつ』の思考と動作が速すぎるあまりに、相対的に遅く感じられているだけだ。
男が、岩陰の人形をずっと眺めている。
碧眼が、男の首筋をずっと狙っている。
男の腕時計が、碧眼の腕時計が、一秒の経過を示そうとしていた。
か細くて小さい閃きが、両者を繋げるように、薄暗い闇の中を
疾走った。
男が一度分の声を出しきる寸前に、喉奥が痺れてめまいが起きる。頭とそこから下の神経を遮断されるようなものを覚え、膝をつき前のめりとなり、
そのまま意識を闇の中へ投じた。