変わりゆく幸せの中で
雨はやみ、水たまりに青い秋晴れの空が映っていた。私はボールからエリキテルのエルを外に出し、彼と並んで高校への道のりをだらだらと歩く。ふぁ、とあくびしたらエルも同じようにあくびをしていた。
あー、このまま角を曲がって、ナギサ湾にでも行ってしまおうか。季節外れの波打ち際で、一日中寄せては返す海を眺めていたい。エルとビーチバレーするのも楽しそうだな。ここのところ雨続きだったし、エルに思いきり太陽の光を浴びさせてあげたい。そんなことを思ううちに、私の足は勝手に私を高校まで連れて行く。まあ日常なんてこんなもんだ。何の変化もありゃしない。ただずるずると伸びていくだけ。
教室の手前でエルをボールに戻す。席について鞄を下ろす、一連の動作がやけに手馴れている。
「おはよー」
「もーにん」
机に突っ伏したまま私に手を振るカナにあいさつする。
「ヒトミは昨日のドラマみたー? “熱き氷の舞”。ハチク様かっこいいよねえ……あのクールな渋さっていうか」
「あー、わかる」
よくわからなくてもわかるのだ。なにそれ意味わかんない、なんて言ったりはしない。カナだって私が心の底からハチクの魅力をわかっているだなんて思っちゃいないだろう。
「まーでも、昨日の話はちょっと、作り話っぽいつーか、ありがちだったよねえ」
「確かにね。あそこでの“せんせいのツメ”発動からの“ぜったいれいど”命中は出来過ぎだったかな。逆転の手段はそれしかなさそうだったけどね」
あ、いけない。しゃべりすぎた。ついついポケモンバトルのことになると熱くなってしまう。
「んー、その辺のことはよくわかんないけど、絆? の力で勝ったとか、そーゆーのちょっと古いかなって」
うんうん、と私は聞きに回る。
こうしていつも通りに朝の時間は他愛無い話の内に過ぎてゆく。そんな雑談をチャイムの音、ガラガラと立てつけの悪い教室の引き戸の音がかき消す。毎朝チャイムちょうどにやってきて、無駄なところで律儀な担任である。そのくせ体格はだらしなくて、誰が呼んだかビーダルとあだ名されている。
「はーい、ショートホームルーム始めるぞー」
ビーダルの話をよそに、私はぼんやりとカナの話を思い返していた。
「人間とポケモンの絆ってなんなの? バトルでもしてりゃできんの?」
ま、カナの言いそうなセリフだ。カナはポケモンバトルしないからな。信頼関係がなければバトルに勝つのは難しい。でも絆があれば勝てるわけじゃない、そんなに甘いものじゃない。そういうのはお話の中だけだろう。逆に、バトルが弱くたって絆が弱いなんてことにはならないはずだ。
でもやっぱり、エルと私の間に切れない絆があるかって問われたら私は答えに詰まるだろう。それがなんだか寂しい。
「最近この付近で不審者が出没しているらしいから皆注意するように」
ビーダルはまだ教壇で話を続けている。
「先生、それはどんな様子の人なんですか?」
委員長のユウカが問う。
「背は低くて、小太りで……」
「せんせーとどっちが太ってますか―?」
「俺は太ってない!」
ビーダルは後方から飛んできた野次に向かって本気で怒る。さすがたんじゅんだ。だけど、太ってないは無理があるよ。それ以上体重が増えたらあだ名がハリテヤマになりかねん。
「静まれ! とにかくだ、そいつはコートを着込んでいて、女子に向かってその、前を広げて見せるらしい。うちの生徒も被害に遭ってるそうだから気を付けること! 以上!」
「そんなのどうやって注意すんの?」
「うわ小さっ! って言うと逃げていくらしいよ」
「それって見せられたあとじゃん。きも」
確かに、どうやって注意するんだろう。
一時間目はポケモン学の授業だった。この科目の先生は結構なイケメンで、ビーダルとは違って人気が高い。ちなみにこの先生のあだ名はレントラー。髪型が似ているから、だとか。
見た目がいいと授業も集中して聞くから、あの先生は教え方がうまいなんて言われる。ビーダルは案外わかりやすい授業をしているのに誰も聞いていない。教師なんて結局見た目だな、と思う。
「今日は前回に引き続きこのシンオウ地方のポケモンについてやります。まずは復習から。全国図鑑番号461番のポケモンは? はい、ユウカさん」
「マニューラです」
「はい、正解」
なんでそんな番号を覚えているんだろう。ま、私もエリキテルの番号なら覚えてるけどね。
「では次。マニューラの覚えるあくタイプの物理技を四つほど挙げてもらいましょう。じゃあ、ヒトミさん」
「“つじぎり”、“はたきおとす”、“だましうち”、“ふくろだたき”です。“どろぼう”、“おしおき”などもあります」
「うん、よく勉強していますね。その通りです。さてマニューラというポケモンは群れを作り……」
私は昔、ポケモントレーナー目指してトレーナーズスクールに通っていたことがある。今でも、ポケモンの覚える技ならひととおり暗記してる。
あの頃の私は、将来バッジをすべて集めてポケモンリーグに挑戦するのだ、なんて無邪気な夢を抱いていた。でも、そんな夢はあっという間に破れてしまった。今ではちょっとバトルにうるさい、ただの女子高生だ。それでもあの頃のことを時々夢に見る。苦くて甘い思い出。
物思いに耽っているうちに、授業の終わりを告げる鐘が鳴る。私は伸びをして、お手洗いに立つ。
ポケモントレーナーとして強くなるにはいろいろな条件がある、と思う。そのうちの一部は努力でなんとかなるものだろう。たとえば、どれだけ多くポケモンの技を覚えているか、とか。だけど一方で、才能という部分もやっぱりあると思うのだ。
私は努力の部分に関しては人並み以上にはやったつもりだ。ポケモンの技だけじゃない、タイプ、とくせい、主な戦術まで、片っ端から全部覚えた。だけど、いくら知識を増やそうとも、実戦に活かせなきゃ意味はない。そう、私は実戦にとても弱かったのだ。
実際のポケモンバトルは机上論とは違う。相手のポケモンの動きを見て、素早く自分のポケモンに指示を出さなければならない。私にはそのとっさの判断力、決断力、反射神経、勘、勇気、言葉は何でもいいけど、そういうものが欠けていた。
100%でない賭けには飛び込めない。それは互角のバトルの勝敗を分ける。
もちろん、ポケモンバトルはトレーナーだけで決まるんじゃない。ポケモンの能力にも左右される。私がバトルで勝てないのはエルにも問題があるとスクールで言われていた。性格がバトルに不向きだ、って。
バトル用のエリキテルの性格は臆病がいいと言われる。臆病なエリキテルは、相手のポケモンを恐れる気持ちからすばしこく動き回り、強烈な特殊攻撃を決める。そして、私のエルの性格は勇敢、だった。
臆病とは正反対の性格。勇敢なエリキテルは果敢に相手のポケモンに立ち向かい、攻撃は高い。でも、そのためにかえって相手の攻撃を避けられずに受けてしまう。むしろ、自ら受け止めようとすらする。勇敢な性格をバトルに活かせる種類のポケモンももちろんいる。ただ、電気を操り守りが脆いエリキテルには、勇敢な性格はバトル面ではマイナスにしかならない。ポケモンバトルについて必死に勉強した結果、私はその事実につきあたった。皮肉なものだ。エルが臆病で、私が勇敢ならちょうど良かったのに。
手を洗い、鏡を見る。ごく普通の女子高生の顔が映っていた。旅の苦労も厳しいバトルも知らない、のほほんとした顔。スクールをやめて四年になる。私は心躍る冒険と引き換えに、このゆるゆるとした日常を手に入れた。スクールをやめるという決断を後悔はしていない。それでも、ときどきたまらなくなるのだ。
エルと一緒に戦うことにこだわらなければ、もっと長く続けられたのかもしれない。だって、未練たらたらの私がスクールをやめる決意をしたのは才能がないとかどうとかよりも、エルが敗れて傷つくのをあれ以上見たくなかったから。
エリキテルのエル。シンオウには珍しい、外国のポケモン。単身赴任から帰ってきた父さんが、カロスみやげだと言って私にくれたのがエルとの出会いだった。
「あれから十年、かぁ……」
ジョウト地方の憧れのトレーナーの言葉を信じて頑張ったけど、私にはだめだった。そんな言葉はきれいごとだと言い切った少年は、ビッパを見捨ててギャラドスを育てていた。エルの10万ボルトでギャラドスが倒れてからは、カバルドンを育てていた。バカみたい。彼は私よりも先にスクールをやめた。その時はほら見ろ、私が正しかったんだと思ったけど、私もやめてしまったのだから早いか遅いかの違いでしかなかった。
それでも、私のそばにはエルがいる。彼のもとにギャラドスやカバルドンやビッパはいるのだろうか。私はエルがいてくれればそれでいい。今はそう思うことにしている。
誰か知らない生徒が入ってきたことで、私は我に返る。出しっぱなしだった水を慌てて止めて、そそくさとトイレを出る。廊下をぺたぺたと歩く。騒がしい声が教室からあふれていた。
「だいたいヒトミってありえなくない? さっきのなんなのアレ。四つしか聞かれてないじゃん。なんで六つも答えるわけ?」
私の足がぴたりと止まったのは、その言葉の内容のせいじゃなくて、その言葉がカナの声で発せられたからだった。
「れんとら先生が好きなんじゃないの? あの人イケメンだし」
「うわ、ないわー。あの子もエレなんとかっていうポケモンも可愛くないじゃん。あたしとミミロルちゃんのコンビの方が千倍可愛いわよ」
胸がばくばくと音を立てていた。血液が激しく循環するのを感じる。こめかみが痛い。
私は知らず知らず止めていた息を吐き出し、精一杯平静を装って教室に入った。カナと、カナと話していた子はぴたりと話をやめて、わざとらしく次の授業の準備を始めた。ユウカは我関せずとばかりに本を読んでいた。
私も無表情の仮面をかぶって授業の準備をしたけど、その日の授業の内容は全然頭に入らなかった。
「はあ……」
太陽はつるべ落としに沈み、私はとぼとぼと帰り道を歩いていた。エルも陽の光を浴びることができずに、私と同じくうつむいていた。
「平凡な日常ってのも楽じゃないね、エル」
「しゃあ」
エルは顔を上げて大きな目で私をじっと見つめる。可愛い。カナがなんと言おうが可愛い。
「ま、エルがいてくれれば私はいいや」
私はエルににっこり笑ってみせる。エルもあわせてにっこりとしようとしたところで、――突然警戒態勢を取った。
「どうしたの、エル……?」
エルの視線の先には、電柱の陰にたたずむコートの男がいた。背が低くて、小太りで…………え、ちょっと待って。そんなバカな。でもベルトをカチャカチャさせてる音がするよ? え、え、え。どうすればいいの。小さいって言えばいいんだっけ。でもそれは見せられたあとなわけで。
私がパニクってる間に、エルはもう駆け出していた。勇敢な私のエリキテル。のろまなくせに相手に向かっていく、私の可愛いエル。
「エレ!」
男のどてっぱらにエルの渾身の体当たりが入る。うめき声をあげて倒れた男を、なおもエルは威嚇し続ける。
「そうだ、警察!」
私は買ってもらったばかりのスマホを取り出し、番号をプッシュする間ももどかしく110番した。
「はい、こちらナギサけいさ……」
「例の変態男です! すぐ来てください!」
「すみませんでしたあっ!!」
これでもかと、地面につかんばかりに頭を下げる。エルが気絶させた男はただの通りすがりの人だった、と警察官に説明された。なんでも、その人は散歩の途中で我慢できなくなり、電柱の陰で用を足そうとしたんだとか。それ目の前でやられるのは露出狂と同じくらい嫌なんだけど。花の女子高生の前でなんちゅうことを。
エルがぶっ飛ばした相手は数日ほど入院することになったらしい。おかげで私は警察の人に思いきり叱られてしまった。
「相手は被害届を出さないらしいから今回はこれでおしまいだけど、気をつけなきゃダメだよ」
「はあい……」
被害届、か。相手からしてみたら突然ポケモンが襲ってきた、っていう状況だもんね。勘違いしてたとはいえ、申し訳ないことをしちゃった。
「親御さんには連絡しておいたから。遅くなったら心配するでしょ?」
「はい……」
帰ったら母さんに叱られる。うえ。
「学校にも連絡したから」
なんで! 学校関係ないのに!
明日学校に行ったらビーダルにも怒られる。うええ。
今日はなんなの、厄日なの?
翌日。学校に行きたくないと布団にくるまってみたものの、抵抗むなしく私はカバンとエルとともに家を放り出された。
「昨日は散々だったね、エル」
エルはしゅんと下を向いている。なんでこう、いちいち可愛いんだか。
「エルが私のこと、守ってくれようとしたの嬉しかったよ」
「えれれ」
足元にすり寄る仕草も可愛い。
「そうだ、今度ヨスガのコンテストに出てみようか」
学校についたらまたカナの嫌味と、ビーダルの説教があるわけで、何とかテンションを上げていかねばなるまい。がんばれ私&エル!
でも、エルは相変わらずうつむいている。
「ほら、元気出してよ。エルが悪いんじゃないから。あれだけ似てたら……」
あれ、ちょっと待って。私は露出男の特徴を知ってたけど、エルが警戒したのはなんで? 誰にでも飛び掛かっていく子じゃないのに。じゃあ、あの時の男はもしかして……?
とか、ふとありえない可能性を思い付いたところで到着した教室ではカナが大騒ぎしていた。
「ねえヒトミ聞いてよ! 昨日の夕方あの変態男に見せられてさ! 超最低なんだけど!」
「ふーん。それで、あなたの可愛いミミロルちゃんはあなたのこと守ってくれなかったの?」
このくらいやり返したっていいよね? ぽかんと口を開けたまま固まったカナと、静まり返ったクラスメイトを尻目に教室を出た。宣戦布告しちゃったし、まだこれから波乱があるよね。でも、そんなケンカも、変態男騒ぎも全部、この日常の中に飲み込まれてゆく。私はそんな平凡な日常を、冒険するようにわくわくしながら生きていこう。隣にはエルがいてくれる。変わりゆく幸せの中で、それだけが変わらない。
カナの前に現れた男が逮捕され、その男がエルが気絶させた男だったと判明したのはそれから一か月後のことだった。