小説詳細/あらすじ/目次

ニライカナイ

筆者 : たま / 種別 : 掌編 (ページ容量 : 0.0KB)
投稿日 : 2011/10/12(水) 01:03 / 更新日 : 2011/10/13(木) 23:52
  • あらすじ




  •  人の手の届かぬ深い深い海の底にて、人知れず、人のため消え往く魂があった。

     遺品も遺骸も残らず、誰かの記憶にその最期を残すことすらもできない。



     何も残して往けない彼らのために、私は何ができるだろう。



     

     ある地の深海には、伝奇の行から出てきたような景観があった。
     それは例えるなら極地の寒空で見られる天の羽衣、極光。しかし夜闇より遥かに暗い深淵のそれは、本物以上に鮮烈に、そして不気味に映えている。
     極光と言えば天上では安らぎの色彩を放つ代表的奇観だが、それもここでは紺に紫、真紅の諧調。見事に真逆の趣だった。更にこの妙な違和感。その空間は外から見ると何所か立体感に欠けていた。中心部へ向け緩やかに渦巻く光には奥行きを感じるが、まるで動く一枚絵のような世界なのだ。
     享楽的な美しさこそあるが、歓楽として観るべきものではない気がする。否、まずそれを見る事ができることこそを眼福とすべきだろうか。
     ここは海溝の底。青く透き通り生命の鼓動を湛える海より深く、ずっとずっと深く潜り落ちたその先の、音も光も遠い烏羽玉の海。如何に世にも珍奇な事象だろうと、ここまで来る事ができなければそれを見ることはできない。故に、陸を統べる生き物達にとってこれは、伝奇の中の話でしかないのだった。
     "それ"が何であるか、今見ている己でさえも確定はできない。だが唯一つ確かな事は、陸の知的動物がこれを目にすれば伝奇では無く輿図にこう記すだろう。

     『死後の世界、黄泉の国――或いは冥界へと続く関所である』、と。

     その認識を裏付けるが如く、この場所には多くの"それらしい"生き物がいる。
     見た目は色形様々であっても、心臓は魂魄、そして思念を帯びた古物のような肉体。加えて霊的な現象、幽幻を司り、自然率に捉われないその性質という点で共通する。妖怪やら付喪神やらと見立てられていた生類の中でも異質な部類に入る彼らは、当時の言葉で確か『御霊宿し』と総称されていた。

     中でも特にこの関所に多いのが、これも当時の呼び名だが『独眼鬼』。暗闇でも火の玉のように輝く一つ目が特徴的な御霊宿しである。
     その黒く丸みを帯びた木乃伊のような体系は陸で見ると些か愛らしい。しかしながら郡を成してこの薄暗い空間を漂っていると、薬を塗り包帯を巻かれた死体が流されているようでやはり不気味ではあった。
     そんな独眼鬼を含め、御霊宿しは生命体としての機能を備えてはいるが、この世の律から離れた霊魂に近い。従ってこの時代、通例の上でその肉体は死を越えたものであり、永久不滅であるとされていた。
     しかし永久不滅とは所詮過大表現に過ぎない。彼らにもまた、他の命と形は違えど終わりはある。
     彼らにしか無い慎ましやかな"死"の形が。





     こうまで深い海では話せる仲間も少なく、役目に従事してはいるが時間は売るほどに余る。そうした余暇を使い関所を遍く観察し始めた折、それに気付いた。
     関所の空間とこちらの世界の間には見えない膜の様な何かがあるが、独眼鬼達がそれより外へ出てくる事は滅多に無い。
     しかし極稀に、膜を越えてこちら側へ出てくる者がいた。他の目を憚るように、そして黄泉の世界から逃げてきたように必死な様子で、彼らは必ず手にあるものを持っていた。
     蒼白く小さな蛍火。物質感は見受けられないが、独眼鬼は落としてなるものかと言わんばかりにそれを抱きしめている。まるで自分の命のように。
     余程大切なものなのだろうか。あまりの必死な形相に気づけば自分の事のようにそれを見守っていた。しかし、その後の独眼鬼の行動で思わずこちらの形相が変わった。
     なんと独眼鬼は大切に抱えていたその蛍火を、いとも簡単に海中へ放ってしまったのだ。その動作は投げるに近い。目一杯の力で上へと向かって。
     投げ出された蛍火は暗闇の中弱弱しい光を放ち、上へ上へと昇って行く。元々が小さい為か、すぐに闇に呑み込まれ、見えなくなってしまった。
     呆気に取られ、出てきた独眼鬼を振り返る。だが、そこにはもう何もいなく、膜の中で複数の独眼鬼が右往左往しているのみであった。
     初めはまったくわからなかった。この時彼らが何をしていたか。そしてこの行動の先にあるものが。

     それから暫くして、再び同じ光景に会いまみえた。今度は別の、雌の独眼鬼だった。
     あの時と同じ。しかし今度の独眼鬼は少し違うものも感じさせた。焦燥とした感じは以前の雄と同じだったが、彼女は膜の外へ出るなり落ち着きを取り戻しその蛍火を見つめ始めたのだ。
     その時の眼差しは今でも覚えている。いつもの血に似た紅く慳貪な光は嘘のように、暖かく慈愛に満ちていた。普段人々から死神と揶揄される彼女らも、この時ばかりは聖のようにさえ映った。
     見つめることほんの一時。何事か念じかけるように再び胸に抱き、名残惜しげに彼女はそれを手放した。
     海中なので分かるはずも無いが、その時彼女はその隻眼に涙を湛えていた。そんな気がした。
     二度目の同じ光景。趣は多少違いあれど、同じ光景だ。きっと前回と同じように、彼女は何事も無くそのまま内側へと帰るのだろう。
     今度はこの不可思議な行動の意味を問おうかとも思ったが、彼女のあまりにも摯実な態度を目の当たりにし、そんな気はとうに失せていた。興の向く事あれば何にでも首を突っ込む我ながら柄では無いと思ったが、とにかく見守る。それがいいと直感的に思った。思えばこの時点で、同じ霊妙な類の力を持つ者として無意識にも何か感じ取っていたのかもしれない。
     こちらが見守っていることに気付いたのか、はたまた知っていて挨拶の代わりか。彼女はこちらへ向かって微笑んだ。
     今聞けば何かを教えてくれるかもしれない。やはり興好みの性格が災いし、見守るだけという心算は何処吹く風と消えた。
     しかしその次の瞬間、話しかけんとした心算が今度は嵐によって掻き消された。文字通り、嵐である。発生場所は独眼鬼の周囲。彼女を包み込むように、狭い範囲で黒い嵐が起きていた。周囲の海水が動かされ、こちらにまでその振動が伝わる。夢幻ではない。
     それではこれも現実だろうか。彼女の包帯のような模様の継目から薄く蒼い光が漏れ出し、そのまま体を覆い尽くす。まるで身を焼くように迸る光芒の中、彼女の瞳は今自分の身に起きている事が見えていないかのように虚ろだった。だが何処か優しく、微笑んでいた。
     やがてその空洞の体は透き通り、空間に刻む線としか見えなくなった。その中心には、藍紫色に燃える火の玉が。それは何なのか。それは人魂。そう、魂だ。以前偶々耳に挟んだ漁師の話が蘇った。

    『人の骨皮むきゃ心の臓が出てくるが、独眼鬼の鎧を剥げばそこにゃあ変わりに人魂があるってぇ話だ。とっ捕まえて身包み剥ぐ必要なんざ無い。ただ奴が大あくび垂れる所を真上から覗き込んでやりゃいいんさぁ』

     そう言って漁師は笑う。そうしてわざとらしくも一転し、真剣な顔をして続けた。

    『だがな……なんでもそれをこの目で拝んだ時にゃ、もうそいつは現世の住人じゃなくなってるってぇんだ』

     では誰が初めにその話をしたか。覚えているのはここまでだが、恐らくはよくある怪談話と同じおちだったに違いない。要するにこれも言い伝え、伝奇の中の出来事でしか無かったのであろう。
     しかし事実はどうだ。漁師の言う手法とは違うが、独眼鬼の中に人魂があることをまさに今、この目で確認した。よもや既に、己も現世の生き物ではなくなっているというのだろうか。否、感覚も何もかもが未だ濁る事無く冴え渡っている。結局は、これもまた単なる噂話に過ぎないことだったのか、もしくは己が"神"とも称される比較的高位の存在であるが故か。それは定かではない。
     終わりそうに無い回顧は止め、ふと再び彼女に目をやる。気がつけば、先程は見えていた体の線も消え掛かっていた。体内の炎が激しく揺らぐ。
     嗚呼、我ながらなんということだろう。
     この時になってようやく、今目の前で何が起きているのか、大よその当りが付いた。
     簡単な話だ。一時強く燃え盛った蝋燭の炎。その末路は如何なるものか。如何に霊魂と言えど、その灯火が消えればどうなるか。
     予想図が結した時点でもう迷いも憚りも無くなった。『早まるな』、『莫迦なことはやめろ』、とただひたすらに念を送る。
     生憎にもこうした場合に何と言葉を掛けるのが最良かはわからず、ただ思い止まることを促すしかなかった。
     一体何の因果あってこんな事態になったのかは検討も付かない。訝しいのは先の蛍火だが、今そんな事を考えている場合ではない。助けなければ。兎角その一心で、念話を送り続けた。
     しかしながら、返答は無い。こちらからは聞かせる事が出来ても、あちらは念話は不得手だったろうか。それとも、既に手遅れか。
     その時、
    『……』
     僅かだが、脳に直接響く声を聞いた。
    『アリ……ガトウ』
     聞いたのは、その一言だけだった。
     激しく猛火の如く揺らいでいた魂は、やがて蝋が尽きたようにぷつりと消えた。後には煙すらも残らない。独眼鬼の存在そのものが、跡形も無く消えてしまった。ただ、最後の余波が体に伝わるのを感じただけで、それっきりだった。
     以前と同じように、膜の内側を何事も無かったように行き交う独眼鬼達。そして、呆然とするだけの己。
     間違いない。あれは、我々で言うところの"死"だ。初めて見た現象だが、何故か確証はあった。静かに伏すわけでもなく、苦痛にもがくわけでもなく、遺体すらも残りはしない。魂が消滅してしまったのだ。
     しかし、何故その死があんなにも唐突に訪れたのだろうか。あの蛍火は一体何なのだろうか。関心はより一層深まった。
     そして疑問がもう一つ。
     何故、あの時彼女は己に感謝したのだろうか。己がした事と言えば、ただ眺めているだけ。そして気休め程度にしかならなかったが、死を惜しむ言葉を投げかけたくらいなものだ。否、たかがそれくらいの事であっても、逝く際に情を掛けてくれた者はその者にとっての恩人となり得るのだろうか。

     それからもまた月日は流れ、幾度も幾度も彼ら御霊宿しの消え逝く様を見送ってきた。独眼鬼だけではなく、その変化前の黒頭巾、そして影法師や夢魔子が同じように魂を散らす様も。特にここ最近は、こうして命を捨てる輩が増えていた。
     何度か彼らが蛍火を放つ直前に接触し、思い止まるよう説得を試みた事もある。主に捨てられたか、或いは己の命に区切りを付けたくなった者が自らの命を捨てている、と初めはそう思っていたからだ。ここらの国では地上でも自害の風潮が蔓延っている。そんな時代の影響がここにまで来ているのか、と。もしそうなら、見過ごすわけにもいかない。人間の滑稽な風潮を真似するなど。
     しかし、彼らはどんな言葉を掛けようとも何も答えず、首を縦にも横にも振らなかった。ただ何処か寂しげに微笑むばかりで『お察しください』、『申し訳ない』、等と謝辞を述べてきた者もいた。
     そしてやはり、消える直前に『アリガトウ』と言われることもままあった。
     この言葉だけは、どうにも釈然としなかった。何が有難いものか。言われる度に、自然と歯噛みし体を震わせていたくらいだ。
     賛辞ではない。立ち会っていながら何も出来はしない、無力を恥じる己への慰めではないか。 敢えて深読みし悪意を見出し捻じ曲げる。それがどんなに愚かで無意味な行為かはわかっている。
     そう、以前にもあった。
     この苛立ちは、やたらに神だ神だと崇め奉られていた時の感覚と似ている。もう一羽の神と比べても、命は与えられず大地を癒す事もできず。ただ、心ならず与えられた過大な力で他を傷つける事に怯えるだけ。それだけに過ぎなかった。
     今も過去も、妬みや恨めしさが所以となったわけではない。ただ、あまりに滑稽な事だと思い、賞賛に見合わない己が腹立たしくて仕方が無かったのだ。
     消えかけた命を蘇らせる。そんな力があれば恐らくあの独眼鬼達を救い出す事が出来ただろう。謝辞を全うに受け止める事も出来たろう。
     しかし、例えあってもそれは本当の意味での神にのみ許される力だ。そうとは思えない己、否――その覚悟が無い己が行使していいものなはずがない。
     そこまで考え、はたと思考が停止した。
     もしや、と言い掛けたその瞬間、追い討ちを掛けるよう不意に漁師の話の続きが想起された。

    『これを最初に見た奴の相棒もまた、同じ独眼鬼だったらしい。そいつが助けたおかげであの世に連れてかれる前にけぇって来れたが、相棒はそのままどっかいなくなっちまったんだと。俺も主人殺しかけた奴と同じ独眼鬼だ、もう一緒にいれねぇ、とか思ったんかもしんねぇなぁ』

     あの蛍火が何であるか。何故、その蛍火を放った直後に、御霊宿し達が消えてしまうのか。噂話と事実の切れ端が繋がった。繋ぐものはそう、"禁忌"だ。





     その日、また以前のように関所の膜から此方側へ出てきた独眼鬼がいた。その手にはあの蛍火。最初の頃はそれを見る度にやはり、と目を眇めていたが、今となってはまたか、とすら思う。
     さあ、解について応えをもらおう。独眼鬼が蛍火を放ってしまう前に。
     否、蛍火では無い。恐らくはこれもまた――
    『それは、主人のものか』
     不躾に問いかけてやると、その独眼鬼は一瞬身を強張らせた。返答は無い。だが、その何処か動揺の色が滲む瞳は、『何故』とでも言いたげだった。
    『一度常世へ踏み入った者を現世へ戻す。その行いの果てに何があるか、よもや知らぬわけではあるまいな』
     独眼鬼は黙したままだった。
     現世から黄泉への道は一方通行。行きはあっても帰りは無い。行き帰りが叶うのは御霊宿しのみ。
     そして本来は人の魂を黄泉へ連れて行く独眼鬼が、逆に黄泉から魂を持って現世へ現れた。これが指し示す事は一つだけだ。
     しかしながらそれを許されるのは、本当の神のみ。だが、非情にも彼ら御霊宿しの中には、それを許されていなくとも出来てしまう者がいるのだ。
     手の届く所へ禁忌があれば、自ずとそこへ導かれるのは理ある生き物の性。特にそれが、己の愛する者を守る為であれば殊更に。
     この度、その忌み事に手を伸ばしているであろう彼は、ようやく言葉を返した。
    『……覚悟ハデキテイル』、とただ一言。
     独眼鬼は、蛍火を――否、主の魂を両手で包み、掲げ上げようとした。そのまま放つつもりだったのだろうが、させてなるものか。すかさず念力を使い、その体ごと力場に縛り付けてやった。関所の者達に対し強行に出たのは初めてだが、これも致し方ない。
     対する独眼鬼は、すぐさまその瞳に慳貪な光を宿した。瞬間、視界を仄暗く邪な霞が包み込む。御霊宿しお得意の幻影だろう。念力を打ち破り念ごと捕らえてしまう幽幻の力は己にとって鬼門だが、如何せん桁が違う。逆に押し返してしまうくらい容易かった。それだけの力差を見せ付けられても尚、障害を排除せんとする独眼鬼の気概。先だった"覚悟"の言葉が重みを増す。
     そう、きっと日常的に魂に触れる彼らだからこそ知らないはずはないのだ。この行いが何を意味するのかを。
     恐らくは、もう何を言っても彼の決意を砕くには至らないのだろう。
    『待て』
     だからこそ問いたかった。
     何故己を犠牲にしてまで主人を助けようとする。他に方法は無いのか。後悔は無いか。
     しかし、対するは死を天秤に掛ける程の覚悟だ。恐らくこれらの質問を投げ掛けても、答えは寸分も揺らがぬ意思の形だけだろう。
     ならばと思い、こう尋ねた。
    『身を挺してまで主人を守り、その後お前達には何が残るのか』と。