208-彼等の時間 C
アラベスクタウン。アラベスクジムは面談室。
現アラベスクジムリーダー、ビートは、一週間ほど前にしっかりとアポイントメントを取ってから来訪してきた客人に、事前にきちんと用意していたアラベスク名物の蛍光色のケーキと最近嫌でも得意になってしまった紅茶を振る舞っていた。
「仕事には慣れたかい?」
「当然です、エリートの僕とってはこの仕事は天職のようなものですからね」
「まあ、たしかにそのように見えるな」
ビートの対面に座る何の特徴もない男の名はボーケ。『フューチャートーナメント』の出場者にして、伝説の第〇〇期チャンピオンカップセミファイナルトーナメントにて、ホップに敗北したトレーナーであった。
彼はまだ未成年ではあったが、ホップらに比べれば幾分か年上であった。現在ではシュートユニバーシティにて法学を学ぶ学生である。
ビートと彼の間に直接的な関係性があるわけではなかった。だが、セミファイナルトーナメントで知り合って以来、彼らは妙に馬の合うところがあった。
「あなたがどうしてここに来たのか、僕には当然分かりますよ!」
自らの自信満々な言葉をそのまま受け入れてくれるボーケに甘えるようにビートがふんぞり返った。
そして、ボーケもビートのそのような様子を咎めない。彼にはそれだけのことをしていい能力があると思っているからだ。
「へえ、それじゃあ当ててみなよ」
「ずばり『フューチャートーナメント』のことでしょう」
「流石、当たりだ」
ふふん、と、ビートは得意げに鼻を鳴らした。当たったことも嬉しいし、出場者であるボーケがこうして自分を頼ることも嬉しいのだ。
「任せてください! あなたを含め出場者たちのデータは把握済みです。早速傾向と対策を練りましょう!」
どこからか取り出したタブレットが小気味のいい起動音に、ボーケの「いや」という声が重なった。
「俺は、出ないことにしたんだ」
一瞬、面談室に沈黙が流れた。
そして、次の瞬間にはビートはその輝くような笑顔とハイライトの入った瞳を消し去り、ムスッと呆れるような表情となった。
ただ不機嫌に呆れているのではない、ビートの中には戸惑いと悲しみ、ほんの少しの怒りがあった。だが、それにふさわしい表情を彼はまだ知らないのだ。
「どうしてなんです? これはあなたにとって数少ないチャンスのはずだ。セミファイナルトーナメントをもう一度やり直せるんですよ。あなたがもう一度その権利を得るのは難しいはずです。考えられる限り最悪の選択ですよ」
ボーケの実力を軽んずる言葉であったが、ボーケはそれを気にしない。
「ああ、そうだろうな。俺がもう一度そのチャンスを得るのは難しいだろう」
ボーケは決して弱いトレーナーではない。だが、飛び抜けて強いトレーナーであるというわけでもない。
数度目のジムチャレンジ挑戦にてバッジをコンプリートできたことはもちろん実力もあるだろうが、その中には多少の運もあった。
「だからこそ、俺は辞退する」
「どうして!?」
ビートには信じられない。手を伸ばせばつかめるチャンスをみすみす逃すなど。
だが、ボーケは至極冷静にそれに答えた。
「俺の実力ではお前らに食らいつくことすらできない」
それは、諦めであった。
ホップに敗北したそのトーナメント以来、ボーケはトレーナーであることに見切りをつけた。彼のトレーナーとしての武器はあまりにも冷たい客観性を持つことの出来る視点だったが、それは自らにも向けられている。
そして、ビートはそれを即座に否定することはできなかった。
ボーケの実力というものを、ビートはある程度理解している。だが、それでも根拠なく奮起を促すだけの俗物的な反射神経を持つには、彼はまだ純だった。
「ホップに負けたとき、俺は彼が優勝すると信じて疑わなかった。何もできず、何も読めなかった。言い訳のできない敗北だった」
だが、と、続ける。
「そのホップが敗北し、その後は学業の道に進むというのならば、それこそ、俺に道はない」
「リベンジしたいとは思わないのですか? トーナメントの状況次第では、十分にありえます」
『フューチャートーナメント』の一回戦でボーケと戦うのは、カントーでの予選を勝ち抜いたモモナリというトレーナーであった。
かつてダンデとのエキシビションをおこなった彼のビデオを、ビートは当然予習している。
ダイマックスを使えばわからなかった試合を、ダイマックスを使わなかったことで敗北する試合にした男だった。
そして、三十過ぎのベテランという立場は、革新的な戦術に逆張りする思想を持つとしてもおかしくはない。
カントーにダイマックス戦術は存在しない、それだけを考えればボーケにも勝ち目はあるように思える。
「リベンジはしたいさ」とボーケは答えた。
「だが、それ以上に無様な敗北を晒すかもしれない……いや、その可能性のほうが大きいだろう」
彼は紅茶を一口含み、乾いた口内に潤いを与えて続ける。
「俺は、あの日の思い出を汚すことなくこの道から離れたい」
ビートは、なんとかそれを否定できる言葉がないかと探した。だが、これと言ったものが出てこない。彼は、ボーケのそのような思想を理解できなかったのだ。
「……それならば、どうして今日ここに来たんです?」
故に、彼はボーケの行動の矛盾をつこうとした。
もし、出場を辞退したいのであれば、ビートにではなくポケモンリーグ協会に連絡を入れればいいのだ。突然決められた出場だ、辞退したとしても責められないだろう。学業に専念するとでも言えば言い訳も立つ。
ボーケには、まだ迷いがあるのではないかと、ビートは思ったのだ。
だが、ボーケは「それが今日の本題なんだが」と、その質問を待っていたかのように続ける。
「俺は、君に代わりに出てほしい」
その言葉に、ビートは表情を固めた。
「何を馬鹿な」
「何もおかしくはないだろう。君はあれだけ見事な乱入を見せた。俺の代わりとして君は最適だ」
そこまで言って「いや……」とボーケは自らの言葉を否定して続ける。
「俺の代わりではない、そもそもこのトーナメント、俺よりも君のほうがふさわしいんじゃないのか?」
「それは違う!」
ビートは強い口調でそれを否定する。
「僕はジムチャレンジをクリアしたわけではない。あなたとは違って」
「だが君はトーナメントに乱入して、チャンピオンと好勝負を繰り広げたじゃないか……俺と違ってね」
「当てつけのつもりですか?」
「まさか、自らの実力不足を年下の友人で発散するほど落ちぶれてはいないつもりだ……君こそがこのトーナメントにふさわしいと思っているのは本心だよ。君以外の代役は用意しない」
ビートは押し黙った。これはチャンスだとボーケに放ったあの言葉が、今度は自らを縛っている。
これほどのチャンスが舞い込んでくることなど早々ない。
不幸なことに、ビートはボーケを思う心で、すでに出場者たちのデータを把握している。その気になれば、その準備はできるだろう。
だが、それにはいと答えることには抵抗がまだあった。
当然、ボーケもそれ以上を告げない。告げたいことは全て告げた。
二人の沈黙が、もう少しばかり面談室を支配しようとしていたときだった。
不意に、その扉がノックされたのだ。
そして、部屋主であるビートの返答を待たず、その扉が開かれる。
「やあ、はじめまして」
突然に現れ、スマホロトムの翻訳機能でそう挨拶したその男を、ビートは知っていた。
「あなたは……」
「ポプラさんからここだろうって聞いてね」
その男は、カントー・ジョウトリーグトレーナー、モモナリであった。
当然アポイントメントなど取っているはずもなく、彼の分のケーキは用意されてなどいない。
そして、モモナリの目線はビートにではなく、その対面に座るボーケに向けられている。
「出場者のボーケ君だね」
ボーケがその言葉を否定する理由などなかった。だが、彼はそれをすぐには肯定できない。
不躾に現れすぎたその男は、ここがガラルメジャージムリーダーのまさに本拠地であることを知ってか知らずか、自らがここの長であるように振る舞っている。それでありながら、その男は周りを威圧するような強烈な個性を持っているわけではない。その気になりさえすれば、今すぐにでも『なんでもない男』としてガラルの喧騒に紛れることができるだろう。その傲慢さに反比例するように、その風貌が凡庸すぎるのだ。
そして、ボーケはそれを『得も言われぬ事』と判断していた。その男の行動と、その男の風体との調和が取れていない。ということは、これこそがその男の素であるのだ。
「礼儀がなっていないようですね」
表情を険しくさせながら、ビートがモモナリを睨みつけた。
わずかばかり前、その男がアラベスクジムに殴り込んだということを彼は知っていた。最もそれは、彼がジムリーダーになる予感すらしていなかった頃の話ではあるが。
「あなたがこの部屋に入ることを許可した覚えはありませんよ」
憤りのこもったそれに、モモナリは微笑みを返した。
「少しくらいいいじゃないか。そりゃあ手土産もないのは申し訳ないけれど、ポプラさんには土産を持っていったんだよ? それに、ここは客間だろうに」
「あなたねえ」
「いやいいんだ、いいんだビート」
憤りを隠そうともしていなかったビートをボーケが制した。
彼は、自らがその男の要求に答えれば場が丸く収まるのだろうと思った。
なにか言いたそうなビートにかぶせるようにして彼は続ける。
「はじめましてモモナリさん。確かに僕は『フューチャートーナメント』にエントリーされているボーケです。何か御用ですか?」
そう言って差し出された右手を、モモナリは特に思うことなさそうに握った。
「いやあ、取り込み中に悪いとは思うよ。だけど、このチャンスを逃すともう次がなさそうだからね」
彼はポケットからメモ帳とペンを取り出した。
彼らはその無遠慮を絵に描いたようなその男が、まさか文筆業で収入を得ていようなどとは想像すらしていないから一瞬身構える。
「簡単なインタビューだよ。何、身構えることはない、思うことを、思うままに答えてくれればそれでいいんだ」
彼はボーケの答えを待つよりも先に問う。
「君は、このトーナメントに出てどうなりたい?」
なんてことのない質問だった。聡明なボーケなら適当に綺麗事を並べてやり過ごすこともできただろう。
だが、ボーケはそれをしなかった。なぜならば、その質問に嘘でも答えてしまえば、自らの決意が揺らぐような気がしたからだ。
だから、彼は素直に言った。
「僕はこの大会を辞退しようと考えています」
それに、モモナリはビートほどには驚かなかった。
「へえ、どうして?」
「あなたを含むこのメンツに並ぶには、僕は実力不足ですよ。僕はもう戦わない」
お世辞を投げかけ、ボーケは微笑んだ。
だが、モモナリはそれにはなんの反応も示さない。
彼は、ボーケを見下ろしながら呟く。
「まあ、そう思うのも悪くないんじゃないかな」
それは、考え方によっては励ましのようにも聞こえたかもしれないだろう。
だが、激しく床をこすった椅子の脚の音は、それを受け入れなかった人間がいることを表している。
珍しく、額に青筋を立てながらモモナリと向き合ったのは、アラベスクジムリーダー、ビートであった。
「ダイマックスも知らぬこの星の裏側の旧世代は、礼儀どころか、倫理も持ち合わせていないらしい」
ボーケはビートのその変化に戸惑った。彼の中では、モモナリの言葉は激昂するようなものではない。
だが、ビートの中に存在する理ではそれは違った。
モモナリの言葉には、哀れみがあった。慰めがあった、悲しみがあった、慈悲があった。同情があった。
だが、モモナリの言葉には、共感が一欠片ほども存在しなかった。それを悲しいことだとか、不幸なことだとか、そういうことを思ってはいても、それに対する共感などない。そういう言葉だ、そういう視線だ。
施設で育ったビートは、そのような言葉、視線を多く経験してきた。可愛そうだ可愛そうだと口では言い、それなりの施しもあるが、かけらほどの共感もない人間を、彼は多く見てきた。
そして、彼にとってそれは耐えることのできぬ屈辱であった。それらの言葉を、視線を、施しをうまく利用する人間はいただろう。だが、彼はそれができるほど誇り低くはなかったのだ。
故に、彼は友人がそのような視線を向けられていることに我慢ができなかった。
「僕は、あなたこそがこのトーナメントにふさわしくないと思っている。あなたのようなロートルを呼び込んでおいて、何が未来だ。今この場で、あなたに辞退を懇願させても僕は構わないのですよ?」
その言葉でどうなるかなど、ビートは考えていない。ただただ、この屈辱を晴らしたいだけだ。
彼はずいと歩を進め、モモナリとの距離を詰めようとする。
だが、今度は残るもう一つの椅子が床をこする番であった。
突如立ち上がったボーケが、モモナリとビートの間に割って入り、モモナリを睨みつけたのだ。モモナリより少しだけ高いボーケの体格は、モモナリをわずかに見下ろす。
ビートはそれに驚いた。彼の知る限り、ボーケはそういうことをするような男ではなかったのだ、できる限り穏便に場を済ませようとする。彼はそういう男だ。
その驚きは、カッとなっていたビートの脳を混乱させるに十分だった。
だが、モモナリはボーケを見上げ、微笑んで言った。
「君はもう、戦わないんじゃなかったのかな?」
彼は、感覚的にボーケがその気になればボールに手を伸ばすであろうことを理解していた。
そして、その行動が、ボーケの言葉と矛盾していることは、この場にいる誰もが理解しているだろう。
ボーケは一瞬ビートをみやり、彼が冷静さを取り戻しかけていることを確認してからそれに答える。
「自分のためにはな」
笑っていた。
モモナリは笑っていた。
ビートに挑発され、脅され、踏み込まれようとしたその時まで、モモナリは笑っていたのだ。
平然を装っているのではない。
その瞬間、モモナリには恐怖も悲しみも呆れも敵意も怒りもなかったようにボーケには思えた。ただただ、彼はビートの挑発を受け入れ、それに喜んでいたのである。
ボーケの感性は、彼を狂人だと判断した。
だからこそ、割って入った。
年上として、ビートを守らなければならないと思った。この、この星の裏側から来た狂人から、ビートを、ガラルの未来を守らなければならぬと彼は思った。自らが法学を選ぶ道を歩んだことと、この決意は地続きのはずだと彼は思っていたのだ。
「それで?」と、モモナリは笑ったまま続ける。
「君はどうするのかな?」
彼は一歩踏み込んでボーケとの距離を詰める。
弱い心を暴発させる。彼を見上げる視線はそのようなものだった。
ボーケは右手でビートを制して答える。
「今日は見逃してやる」
「なるほど」
モモナリは心の底から残念そうに鼻を鳴らして一歩下がった。
「お邪魔したね。それじゃあ、トーナメントで会おう」
ボーケに手を振り、モモナリは開けっ放しの扉から消えた。
「ビート」
緊張の解けた部屋で、ボーケは振り返ってビートと向き合う。
「データはあると言ったな?」
友人の変貌に驚きながらも、ビートは首を縦に振る。
「よし、作戦を練ろう」
二つの優秀な頭脳に、時間はそれほど必要ではないだろう。