46 真実の鏡
【新しき世界は、近い】 ホウオウ
46 真実の鏡 レッパクは、走るのがそれほど好きではなかった。
もう4年も前の話だ。
チビのくせして目つきだけはいっちょ前だったイーブイのレッパクは、ゴールドとの様々な行動を通じ、その都度体と頭を使うことを学び、たくわえていった。それらひとつひとつはかけがえのない時間の断片であり、今のレッパクを形成するのに大きく関わってある。それは間違いない。話し方や気の持ち方が主と似ているのも、恐らくはここからなのだろう。
しかしながら、生き続けていれば悩ましい点も当然浮き彫りとなってくる。いくら頑張っても体格はイーブイそのものなため、どう逆立ちしても歩幅では主にかなわない。かけっこでアキレスのようにハンデを貰っても、いつも主の独走でちっとも勝てやしない。これが面白くなんかあるわけない。つまりは、走るのなんて好きではなかった。
ところが現実はどうだ。神の気まぐれか悪魔の導きか、サンダースに進化してからというものの、格段に飛躍した運動能力に頼らなければ、これまで全ての戦いの旗色を悪くさせられていたはずだ。体つきも良くなったし、コンプレックスを改善できたものだから、いくらかのカタルシスはもちろんあった。多少は前向きな部分を持てたが、反面で水への恐怖心を植え付けられることもあった。あちらを立てればこちらが立たない。日頃の気持ちの問題というもので、足に自信を貰えるのは戦っている時だけだ。所詮は天賦の才であり、種族の恩恵と鍛錬の延長線に乗っかっていただけに過ぎない。総合して正負を勘定してみる。やっぱり、走るのなんて好きではなかった。
誰かとかけっこして、置いてけぼりにされたくない。
誰かとかけっこして、置いてけぼりにしたくない。
そんなことをして、誰かとの優劣を決めたくない。
そう、走るのなんて、生まれた時から大っ嫌いだった。
レッパクは、たった今、そういうことに決めた。
だから、俊足な自分なんか、これっぽっちもいらない。
だから、種族がなんであれ、自分の足で立てて、道を進めるだけでいい。
だから、サンダースであっても、そうでなくても、気質に差はできないはずだ。
だから、イーブイのころに戻ってしまっても、なんの未練もない。
だから、イーブイのころにまで戻りたい。
どうか、戻してほしい。
目の前にいる主が、己の足で立っている時間にまで、全部戻してほしい。
誓う。何を懸けても構わない。未来を知る力に頼ったことは何度もあるけれど、過去を悔やむことはこれっきりにするから。絶対にだ。
だから、
どうか、
― † ―
「主、主!」
「ゴールド、ねえ、起きてよ――。ゴールド――」
オボロが主を掻き抱き、絶望にうなされて喉を震わせる。その周りを、レッパクたちが矢継ぎ早に呼びかける。
だが、主は答えない。まぶたを固く閉じて、呼吸すらしていないように見える。薄い胸板、魂を抜き取られ、体が空洞になっている気がしてならない。それでもオボロは、血の通わない機械のように、なおも主の体を虚しく揺さぶり続ける。
「ご主人に、ご主人に何をしたんですか!」
酸鼻を極めたドロップの叫び。ホウオウはすらりと返した。
「奪魂の術。もう半分のこころもいただいた」
半分という言葉。レッパクとグレンゲとドロップは、耳に憶えがあった。忘れもしない、1年前のあの日。
「さよう。吾と初めて対面したときに、あらかじめ半分は預かっておいた」
「あらかじめー!? あんた何様のつもりー!?」
「おい、まさかレッドの旦那も、お前さんが――!」
グレンゲがピカチュウたちを見るも、ピカチュウたちは暗い表情で目線をそらすだけだった。
「そこな少年、レッドとやらの力。吾とて驚くほどであった。このまま器を認定しても良かった≠フだが、お前たちの主のほうにも、可能性を見出す必要があった」
その時、レッパクの頭に鋭い何かが差し込まれた。ホウオウが持論を述べるよりも早く、無意識的に、
「可能性を、手っ取り早く調べるには、お互いを戦わせるしかない。けれど、あの人のこころは強力に完成されていて、下手にもぐりこんで、そそのかすことは、できなかった――」
少しずつ加速してゆき、思考回路にも速さが伴われる。混沌とする思想の奥からひとつひとつの言葉を正確にすくいあげて、勝手に繋いでいく。
「だから一度、力尽くでも、あの人のこころを全て奪い、人質にとって、ピカチュウたちの抵抗を、封じなければならなかった」
「せ、先輩?」
主から離れたレッパクは、おぼつかない足取りで十歩だけホウオウに歩み寄り、呆然とした顔で見上げた。
「ピカチュウたちの協力が、どうしても、必要だった。戦わせて、お前の器に、どちらがふさわしいか、ずっと、高みの見物を決めていた。そういう、こと、なのか」
ホウオウはかなり意外そうな顔した。
「――? 察しがいいな。その通りだ。吾らを統率する器量、秘めた力を引き出す才気。吾からすれば、一種の興よ。いずれにせよ、お前たちは
畢竟、吾の掌中で踊っていたに過ぎぬ」
誰かに体を乗っ取られた気分だった。
何をどうすればその発想に至るのか、しかも何故ホウオウはこんなデタラメに肯定しているのか。二つの疑問がレッパクを板挟みにする。
そして、それでも、レッパクの思考速度はまだ収まらない。
ホウオウに渡されたこの羽根は、世界の色だ。あらゆるところを巡って、集積されて、情勢に合わせて色を変えて染まっていった。ホウオウに近づくことを容認され、己が存続を懸けて戦う、栄光と
淪落への片道切符。
主ほどの年齢のこころが、ホウオウが忍びこむのに一番適していた。まだ熟しておらず、純粋で若い、未完の大器。主がホウオウに恐怖を抱いたのも、意欲を減退させられたのも、やはり全てホウオウの潜在意識があった。こころの半分を預かったかわりに、ホウオウが精神の少々を埋めあわせ、主と共に各地を学び渡った。
そして、シロガネやまの頂上で、最後の試練。ホウオウを相手に戦い、底の知れる150年前と比べて人間は進歩し得たのか、審判を直々に下してもらう。改めて、ホウオウと共になれる。
認められれば。
認められなければ、その時は――その時は――
150年前の代償として、現代の人間のこころを差し出す。
レッパクは、自分でも自分が分からない。
どうして、こんなことを知っているのか。
ホウオウは、レッパクの見解に一切も否定せず、権謀術数の種を明かし続ける。
「そう。そして、思いがけぬことを耳にした。少年のほか、天賦の才に恵まれた者がカントーにいると。同じ時代に器が二人現れたから、その時決めたのだ。ひとりには吾のそばにあることを許し、もうひとりにはこころをさし出してもらうと。吾らのことを本当に良く想ってくれているのだろうその純情なる精魂を、150年前の代償として差し出せば、吾も溜飲を下げることとしたのだ。吾のそばにある器は、ひとりだけで良い」
「マスターは、マスターはそのことを、」
「当然、知らぬ。知る余地もなかろう。半分だけでは、吾の傷心や意図など届くはずもない。無意識下から働きかけることを企てたが、その少年のこころは、吾が思った以上に未熟すぎた。容れ物≠ェ小さいあまりに、吾の干渉する余地もほとんどなかった。――しかしだ。残った本心で旅をやりなおそうという道を少年が選んだことは、吾が保証する。それは間違いなく、少年の力の本質だ」
「なんで、主なんだ――」
考えの一致具合が実に気味悪く、レッパクは声を震わせるが関の山。
「器の候補に、主を選んだ理由はなんだ! どうして主じゃなければならなかったんだ!」
予想はしていた。それでも、怒声に含めて訊かずにはいられなかった。
最低な動機が返ってきた。
「理由など、特にない。お前の主人が、吾と共に器を探していたモミジに偶然出会って、鈴を鳴らした。そして吾が値踏みした。それだけだ。どの時代の、誰でも良かったのだ」
全員の顔に、ついに明確なる怒りが走る。真っ当な理由があった場合よりもずっと質の悪い痛憤だった。
ホウオウはその反応にせせら笑い、
「では、もう少し満足のいく答えを述べてみせようぞ。150年の時を経て、この地がどのように変質したのか、吾は知る手立てを欲した。ジョウトを旅するトレーナー。それだけで条件は揃っていたのだ。嗚呼、しかし――至極無念、吾の思ったとおりだ。永い歳月を積み重ねても、人間は、なんら進歩しておらぬ」
知るか。世界を知りたければ自力で駆けずり回ってろ。人間に絶望したならそのまま勝手に溺れて死ね。愛想を尽かしたならどこへでも飛んでいってしまえ。ジョウトの世相が揃っていないから虹色に染まった、ならばお前のその翼の色はなんなのだ。人ひとりのこころの窓から世界の一部を覗いて、何を知ったつもりだ。自説に酔いしれているだけに過ぎない。善悪に左右されるのは、人間たちだけではなく、自分たちものはずだ。人間を、甘く見るな。人間と共に生きる自分たちを、甘く見るな。
もうだめだった。我慢の臨界点を、あいつはこうも軽々と突破した。
直感にささやかれるまでもない。
こいつとの戦いは、避けられない。
「あんたの目的なんかどーでもいいけどねー! リーダーを返してよこのー!」
添えられたのは威嚇ではなく、完全なる敵意。ソニアのミサイルばりが火種となった。
「効かぬ」
ずっと主の中に潜んでいただけはあって、手の内は全て読まれていた。
ホウオウは羽ばたくのをやめ、爆炎の塊ともいうべき火球を七つだけ周囲に生み出した。
――あ、
レッパクには、次に起きる未来の映像が完全に
視えた。
「散れぇ!!」
そばにいたピカチュウのしっぽに噛みつき、恐るべき速さで逃げる。グレンゲたちもそれにつられた。主はオボロに託し、全員がバチュルの子を散らすように走り回った。
以前、イブキのバンリがほのかに漂わせた制御の気配。北斗七星を模した着弾点。誰も成し得なかった、幻の秘術。
定石、『
七星屑』。
― † ―
正直な話、そのムウマがその道を選んだことに、特に他意はなかった。何か他の都合があれば、まったく違う道を進んだのかもしれない。だからこの銀色の険路が、これからの運命を暗示している――とは微塵にも考えていなかったことを、ここで強調しておく。
一言で済ませるとなれば、全て偶然だったのかもしれない。
近頃、山の雪が溶けている。ムウマの齢は壱で、つまりは子供で、しかもメスで、四季をひとめぐりしか体験したことがない。季節感を備えきれていないけれども、これは妙だと感じた。シロガネやまの雪が溶け始めるのには、時期的に早すぎる。変だなあと思いつつふわふわ漂っていると、ムウマはうまれて初めて人間に出会った。
見たこともない「生物」が、自分たちのような存在しか立ち入ることの許されなかったシロガネやまへやってきて、当時のムウマはかなりパニックだった。四本足でなく、二本足で立っている。前足がとても器用に動く。どこに内蔵をしまっているのだろうと思えるほど体が細い。衣服を知らないムウマには、肌の上に更に別の肌を身にまとっているように見える。
少しだけ、聞いたことがある。こういう生き物を、人間と呼ぶのだとか。このシロガネやまの周りには、果てなき大地が広がっており、人間と自分たちが共に生活をしているらしい。いつか外に出てみようと思いつつも、今日まで引き延ばしにしていた好奇心。
けれど、シロガネやまに立ち入られることは、不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ、目に痛い銀色が大半を占める殺風景な土地柄に、ムウマは申し訳なく思った。肩に乗るピカチュウと、暖をとらせてあげているリザードンが紹介するには、レッドという名を持ち、トレーナーとして馳せているそうだ。
何をしに、頂上を目指すのだろう。
その手に強く握られた羽根は、なんだろう。
興味が湧いてきて、ムウマはレッドのあとをついていくことにした。
「大丈夫、ですか?」
修行のために、時々はこうして頂上を目指して登山するそうだ。歩き慣れている。何度か声をかけて体調をうかがうムウマだったが、レッドはうんと無言でうなずくだけだった。いくら周囲の者が強くても、主人の体力がなければ意味がないと考えての配慮だったが、どうやら過ぎた気遣いだったようだ。
シロガネやまの頂上には、なんと先着者がいた。自分がこの前登ってきたときは誰もいなかったのに。
しかし、レッドにはその人物に会うことがそもそもの目的だったようだ。
今から何を始めようとしているのか。その場にいるのがなぜか悪いことのような気がしてくる。もうちょっとだけでもレッドの隣にいたかったが、先に勇気がくじけた。ムウマは二人からそっと離れ、木陰に控えて顛末を見守った。
――ようやっと、お出でになられましたか。ずいぶんと探しましたえ。
レッドが、なにやら顔で語っている。ピカチュウが仲立ちとなる。
――ええ、あんさんがよう修行のためにここへ参ると耳にしましたさかい。堪忍しておくれやす。ここなら人目にもつきにくいやろうて、あのお方が。こないなところ、どんなに物好きやっても来おへんやろうからねえ。
まいこはんが、何かを渡した。
二人の手が邪魔でよく見えない。
Ha Tey Na Reye Mi Sye Na
Soo
Ha Tey Na Rey Sa Aa.
そこから先のことを、ムウマはあまりよく憶えていない。
次に記憶しているのは、頂上から注がれるまぶしさだ。そして、気温の高さ。
子供の自分よりもひと回りもふた回りも大きくて屈強な、レッドの手持ちたちが、次々と打ちのめされていく。
木の上から溶け落ちてきた雪を頭にかぶろうとも、ムウマは動けない。あの人と対峙する、一体の巨大な鳥。あの者から発せられる悲壮なほどの気迫が、熱とともにこんなところにまで伝わってくる。
なんで、どうして。
何があって、戦わなければならないのだろう。あの人たちをそこまでやっつけて、何が楽しいのだろう。
疑問と恐怖がムウマをその場に縫いつけているうちに、戦いは終局となった。勝負ありだった。どちらに軍配が上がったか、一目瞭然だった。
レッドの体が、突如びくんと跳ねた。背筋がひきつったかと思うと、ひざが折れ、軽そうな挙動で伏した。
たまらずムウマは飛び出した。
ピカチュウたちと一緒に、呼びかけ、
ようとした。
レッドが突如起き上がって、ムウマは悲鳴をあげた。相変わらずの無言で、しかし誰とも視線を交わさず、ホウオウのそばへ歩み寄った。先刻とかわらぬはずのその目つきが、どういうわけか人としての何かを欠落させてしまっているように見えた。
にじいろのはねが、不気味なほど美しく光っている。
ホウオウが、戦場に居合わせなかったムウマに一瞥してきた。
「この者を助けたいか」
答えられない。
「お前には無理であろう」
何も、答えられない。
「だが、こころあたりならあるぞ」
ムウマは、頭の中に思念波を直接送りつけられた。内面に汚物を直接なすりつけられるような、形容しがたい不快感があった。感触の気持ち悪さのあまり、激しい抵抗を試みるも、ホウオウの記憶と思惑が滔々と流れこんで、ムウマの中で暴れ回る。
――吾は人間の器を探し求めた。150年前から、ずっとだ。時代が移ろい、まいこの血が薄れ、諦めていた頃に現れるのだから運命とは皮肉なものよ。吾らとの一番の絆を見せた者にのみ、そばにいることを許すことと決めたのだ。吾と運命を共にする人間は、ひとりで良い。しかし、吾にはもうひとつの可能性を試す機会がある。その機会となる、もうひとりの少年を連れてきてみせよ。そやつを引き替えにしてみせよ。お前が力を引き出してみせよ。さすれば、お前の望んだ結末となるはずよ――
ホウオウの告げる言葉の大半も理解できないまま、ムウマは逃げた。ひたすら逃げた。
自分の後ろ姿を見て、ホウオウはほくそ笑みながら追い打ちをかけてきた。
――そうだ、逃げろ。逃げるがいい。だが、必ずだぞ。吾の思うあの少年をここへ連れてこい――
視界がぐしゃぐしゃににじみ、色彩が光芒の玉となってぼんやりまとまる。自分の瞳からこれほどにも熱い雫を出せることを、こころの片隅が驚いていた。涙が点々と柔らかい粉雪にこぼれ落ち、足無きムウマの足跡とも言えた。
振り返ることなんてできなかった。体を透過させることも忘れた。山を下り、木々をかいくぐり、ふもとへ降り、台地を越え、滝を横切り、それでもまだ逃げた。好奇心を超える恐怖心で、ムウマは初めてシロガネやまの外へ出た。思わぬ温度差に平衡感覚を失い、一度だけ墜落。すぐに起き上がり、方角問わずに遁走した。無我夢中で逃げなければ、すぐに追いつかれると信じてやまなかった。
誰か、
誰か助けて、
誰か、