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平成ポケノベ文合せ2012 〜春の陣〜 【終了】
日時: 2012/04/30 20:50
名前: 企画者

こちらは「平成ポケノベ文合せ2012 〜春の陣〜」投稿会場となります。

参加ルール( http://pokenovel.moo.jp/f_awase/rule.html )を遵守の上でご参加ください。


◆日程

テーマ発表 2012年04月18日(水) 0:00
投稿期間 2012年04月28日(土)〜2012年05月27日(日) 23:59
投票期間 2012年05月28日(月)〜2012年06月16日(土) 23:59
結果発表 2012年06月17日(日)20:00
日程は運営等の都合により若干の前後が生じる場合がございますので、どうぞご了承ください。


◆目次

>>1
【B】ため息と一緒に毒を吐く

>>2
【B】ポイズンガールは終わらない

>>3
【B】ポイズンガールは終わらない(裏)

>>4
【B】夢追い人の代償

>>5
【A】「助け」の手

>>6
【B】フェアトレード

>>7
【A】勇気のタネ

>>8
【A】颯爽と吹き抜ける涼風

>>9
【A】桜井さんのお花見

>>10
【B】毒を前に、進め

>>11
【A】希望の大地

>>12
【A】Skyme to the moon

>>13
【A】 Good night, a good dream.

>>14
【A】百日紅の木の側で

>>15
【B】リフレッシュ

>>16
【A】故郷

>>17
【A】もふだね。

>>18
【B】パンドラの匣


★結果発表★ >>19
メンテ

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ため息と一緒に毒を吐く ( No.1 )
日時: 2012/04/28 00:31
名前: 一葉

テーマ:B「毒」


「はい?」
 すっとんきょうな言葉が返ってきた。だからもう一度、一字一句違わずに繰り返す。
「自転車が、盗まれたの」
「あー……」
 彼は掛ける言葉を探して視線を彷徨わせる。その挙げ句、彼の口から出た言葉は「災難だったね」なんて当たり障りのないものだった。
 災難だった、なんて他人事な言葉だろう。彼にとっては他人事だ。恋人であろうと自分ではない、盗まれた自転車も自分の物ではない。そんなつもりではない、とわかっていても苛立たしい。
「自転車が盗まれたの、とても悲しいわ」
「うん、そうだね」
 そうだね。そうだね、それだけですか、そうですか。自転車が盗まれた事にも腹が立つが、目の前のとんちんかんにも腹が立つ。恋人が自転車を盗まれて怒り心頭です。そうだね、問一、だったらどうするべきでしょう。どうせ、取り返す、なんて出来る訳がないのだから、選択肢はあまり多くは無いと思う。
「……とりあえず、気晴らしにでも行こうか」
 思い切り睨み付けてやったら少しは伝わった。でも出来ればもう一言欲しい。だから「甘いものが食べたい」と伝えた。
「……わかった、奢るよ」
 ようやく観念したようだ、彼の奢りにまで漕ぎ付けた。なんか私が強欲で守銭奴みたいじゃないか。自分の自転車が盗まれて苛々するし、少しは凹んでいる。だから彼氏さんに甘やかしてもらいたいだけで、決してタダ飯が食べたい訳ではない。
「で、どこ行こうか?」
「駅前のケーキ屋さん」
「……結構遠いな」
 結構遠い、そんな事はない。自転車なら三十分もあれば到着する、自転車ならば。
「運転、お願いね」

 私の自転車がないので、当然二人乗りする事になる。男の子みたいに荷台に跨って乗った方が安定するのだろうけど、そうすると結構大きく足を開かなければいけないのが恥ずかしくて、横向きに腰を掛ける。そして体を安定させる為彼の腰に手を回すのだけど、これが意外と細くてムカついた。
 彼は痩せ形だ、まるでもやしのようにひょろい。それなのによく食べる、でも太らない。私は太り易いから甘いものは出来るだけ我慢している、よく流されるけれど。必死に我慢して運動も少しして今の体重と体型を維持している乙女を前に、よく食べてよく寝て運動あまりしないけど太らないなんて、私に、全世界の女の子に対する挑戦だとしか思えない。脇腹にグーでパンチしてやろうかと思ったけれど、自転車で転ばれても大変だから止める。私はケガしたくない。
「でもなんで盗まれたの?」
 なんで盗まれたのとは随分な質問だ。なんで盗んだ、だったらきっと明確な答えもあるだろうに、好き好んで盗まれた訳ではないので、なんで盗まれたと聞かれても返答など出来るはずもない。朝コンビニに寄った時に鍵を掛け忘れて、ちょっと少年サンデーを立ち読みしている間に盗まれたなんて事は、彼の質問とは全く関係ないはずだ。
「もうその話は終わり、今はもう私の頭にはスイーツの事しかないの、美味しいスイーツで嫌な事は忘れるの」
「……まぁそうだね」
 嫌な事は忘れるに限る、と思っていたら「ケーキ一つでさっぱり忘れてくれるような性格なら、僕も楽だったんだけどね」なんて呟いてきた。今度ばかりは後ろ頭にチョップを入れてやった。もちろん加減はする、転ばれたら私が大変なので。
「まさか自分がそんな潔い性格だと思ってるつもり?」
 言われるまでもなく答えはノーだ。自他共に認める程執念深い。だからと言って、それを他人に指摘されても気にしない訳ではない。
「今の一言で深く傷付いたの、具体的にはウインドウショッピングで冷かして回りたいくらい傷付いたの」
「……わかった、付き合うよ」
 やった、と心の中で呟く。ついでにガッツポーズもとってみる。自分で思っている通り執念深い私は、自分で思っていた以上に甘えん坊だったようで、彼が仕方なさそうに応えた一言が予想以上に嬉しかった。
「奢り?」
「っ、あのね、僕の経済状況も少しは考えてくれると助かるんだけど、ケーキ一つで勘弁してくれないかな」
「レモンタルトとコーヒーで手を打つわ」
「……わかった」
 少し間が合った。きっとレモンタルトとコーヒーの値段を思い出し、財布の中身と会議していたに違いない。そもそもウインドウショッピングに奢りも何もない事をわかっているんだろうか、冷やかすだけで何も買うつもりはないのだから。
 割と他愛もない話が続いた。彼はすぐに余計な事を言う、だからその度に後ろ頭を小衝いてやった。その数六回だ、如何に彼が一言多いかがわかる。自転車で転ばれたら困るから手加減はしているけれど、もしかしたら私のストレスを発散させようとやってるんだろうか。一々腹が立つから逆効果のような気もするけど、でも自転車の事は少しだけ気が紛れたような気がした。
 やっぱり甘えてる。そう思ったのは嫌な気分ではなかった。

 甘さは控え目だが酸っぱ過ぎず、さっぱりとした味わいが自慢のレモンタルト。サクサクのビスケット生地にとろけるようなレモンクリーム。とろけるような、は過小評価だ。口に入れた瞬間に溶けて消えてしまうほど滑らかで、口いっぱいにほのかな甘味が残る。コーヒーと言ったけどあれは嘘、レモンタルトにはコーヒーより紅茶が合う。お値段はコーヒーよりも割高だけど、ケーキを引き立てるように厳選された紅茶の数々はどれをとっても絶品なのだ。別にコーヒーが美味しくない訳ではないけれど。
「……食べてる時だけは幸せそうだよね」
 彼が呟いた。失礼だ、それでは私が食いしん坊キャラみたいではないか。
「そんなことは、ない」
 断言する。だけど「口元弛んでいる」との指摘には返す言葉もなかった。女の子は甘いものを食べてる時が一番幸せな時間なのだ、異論など認めない。
「でも、食べてる時だけ、ではない」
 例えば、女の子が三番目に幸せな瞬間。
「可愛いものを見てる時も幸せそうだと思う」
 猫とか、子猫とか、とら猫とか……
「あぁ、そうだね」
 何かを思い出したのかクスクスと彼が笑った。むぅ、墓穴を掘った気分だ。猫に夢中になって色々とやらかした事は両手で数えきれない程になる。どんな失態を思い出されたのか検討もつかないくらいだった。
「……忘れて」
 じゃないとグーで殴って記憶を飛ばすしかなくなる。
「忘れてと言われて忘れられるような記憶でもないかな、インパクトが強過ぎた」
 一体何を思い出した? 知りたい気もするけど知るのは恐ろしくて聞けない。それよりも、だ。
「忘れろ」
 すっと握りこぶしを作ってみせる。一刻も早く記憶の消去が必要だ。それには武力行使も辞さない、今は自転車に二人乗りじゃないから私に危険もないし。
「わかった、もったいないけど忘れよう、暴力反対」
 どうせ忘れる気など無いんだろうけど、本当に覚えているのか確かめる方法もないので諦める。忘れると言った以上それをネタにする事はないだろうし。ネタにしたらその時はグーで怒突き倒してやれば良い。
「さて、ケーキも食べ終わったし、この後はどうしようか」
「……」
 考えていなかった。帰ると自転車を盗まれた事ばかり考えてしまいそうで、まだ帰りたくない気分ではあるが、特に目的もない。ウインドウショッピングと言っても見たい物すら決めていなかった。
 何かないかと窓の外へ視線を彷徨わせる。
「……あの自転車」
 不意に何台か並んで信号待ちをしている一台に目が留まる。見覚えのあるピンクのフレーム、後輪に付いた白いボンボンは二つ連なっている。鍵に付けてあるキーホルダーは青い首長竜にも似ていた。
「私のだ」
 思わず席を立った。駆け出して外へ飛び出る。信号が変わった。走りだされたら追い付けない、思い切り叫ぶ。
「自転車泥棒!」
 振り向いた。信号待ちの自転車が一斉に振り向いた。事態を掴めず停車したままの自転車、きっとこれが正しい反応。だけど、一人だけ、私の姿を見るやいなや、慌てるようにペダルを踏み、立ち漕ぎで逃げていく。逃がすものか、土下座でも足りない、しっかりと警察に突き出して当然自転車も返して貰う。
 彼の自転車に飛び乗ると、ガチャリと言う音がした。当然だけど鍵が掛かっていた。走って追い掛けるか、彼から鍵を奪ってくるか、迷っている内に私の自転車は見知らぬ誰かを乗せたまま、どこかへ消えてしまっていた。

「どうしたのいきなり?」
 今頃遅れて彼が出てくる。
「私の自転車、だった」
 間違いない、フレームの色も、後輪に付いているボンボンも、鍵に付いていたあのキーホルダーも、絶対に私の物だった。
「見間違えじゃなくて?」
「泥棒って言ったの、こっちを見て慌てて逃げたの」
 私達は学校帰りにそのまま来ているから当然制服のままだ。ならば、私がどこの高校の生徒か一目でわかっただろう。私が自転車を盗まれたコンビニは、高校のすぐそばのコンビニで、うちの学校の生徒が立ち寄る事で有名だ。確率として、通学の時間に盗めば、当然その自転車はうちの高校の生徒の物である可能性が非常に高くなる。だから逃げたのだ。私の姿、制服を見て。
「もっと早く来てくれたら追い掛けられた」
 せめて自転車があれば追い付けたかも知れないのに。
「ごめんね、でもレジでお金を払ってたんだ」
 そういえば、まだお金を払ってないのに出て来た事を思い出した。
「奢りだから大丈夫」
 とは言ったものの、せっかくの気分が台無しだった。レモンタルトのほのかな甘味がどこかに消えてしまった、さっぱりとした酸味ももう思い出せない。
 自転車を盗まれただけでも腹が立つのに、レモンタルトの至福な一時さえ邪魔をされた。怒り心頭を通り過ぎて笑みがこぼれてくるくらいだ。クスクスと含み笑いを漏らすと、彼があからさまに引いていた。
「落ち着こう、別にひゃくまんえんもするって訳じゃないんだし」
 そうね、引換券も貰った記憶はない。安物の自転車には違いないのだけど、それとこれとは別の問題だ。私の自転車を盗んで、私に悲しい想いをさせた、当面の問題はこの一つだ。

「……そうだ」
 思い出したように彼が言う。顔もよく覚えられなかった自転車泥棒にどう復讐してやるか考えていたところだと言うのに。
「小鳩屋寄っていこう」

 小鳩屋はこの近くにある大きなデパートだ。七階建てのそのデパートは、特に目立った特徴もなく世間一般的なデパートと変わりはない。一つ特徴をあげるとすれば、良くイベントを開催している事くらいだ。先月開催していた「世界のわんにゃん展」には三度足を運んだ。仕方なかったのだ、世界中から可愛いわんにゃんが揃う祭典、女の子として見逃す事は出来なかった。もちろん、彼には黙って行った。思わず取り乱すかもしれない、実際あまりの可愛さに少し取り乱した。さすがに彼氏に見せたい姿ではない。
「先月のわんにゃん展には来てたんだって?」
 なのに何故知っている。
「先輩が見掛けたって言ってた、ずいぶんはしゃいでる子がいたって」
「……忘れて」
「らしくて可愛いと思うよ」
 お褒め戴きましてありがとう。
「でも忘れろ」
「そうだね、善処しよう」
 やっぱり彼の返事は忘れるつもりなど更々ないようだった。猫とスイーツに関しては少し自重しよう、せめて知り合いに見られていないか気を配れるようにしよう。
 今日は厄日だ。自転車は盗まれるし、スイーツだけではなく猫にも制限が掛かるなんて。しかし、スイーツの制限を緩和すれば体重が眼もあてられなくなるし、にゃんこによる癒しを制限すれば甘いものに走りたくなってしまう。にゃんこは肥えると言うリスクもなく、日頃の悲しみから救ってくれる唯一の手段だったと言うのに、これから私はいったいどうしたら良いんだろう。
「あのね、聞いてるかな?」
 呼び掛けられて我に帰る。ずいぶんと話し掛けていたらしく、いつの間にか彼は真正面に立って私の顔を覗き込んでいた。
「ごめんなさい、ちょっと考え事していたの」
「エレベーター、来たよ」
「……うん」
 それならもっと早く教えて欲しい。他にエレベーター利用者がいなかったから良かったけど、開いているエレベーターの前でぼーっとつっ立っていたら迷惑極まりない。
 二人でエレベーターに乗り込むと、彼は六階のボタンを押した。六階、玩具売場やゲームコーナーがある階だ。
「今、何かやってるの?」
「そうだね、着いてからのお楽しみ、と言うのはどうかな?」
 ケチだ、それくらい教えてくれたっていいのに。仕方がないからエレベーターの到着まで待つ。六階までの間が保たない、彼がお楽しみなんて言うから聞き辛いし、他の話題なんてぽっと出てこない。何も考える事がないとすぐに自転車の事を考えてしまうから、六階でどんなイベントをやっているのか想像してみる。玩具売場だから、なんて考えていたらもう到着してしまった。
 正解は……
「ポケモン?」
 エレベーターが開くと、真っ先に眼に飛び込んできたのは詰み上がったポケモンのぬいぐるみだった。ツタージャ、ポカブ、ミジュマル、イッシュ地方の始まりのポケモン、御三家で出来たぬいぐるみタワー。
「正確には、ポケモンぬいぐるみフェアだね」
 彼は「好きだよね」と笑った。確かにポケモンは好きだ。新作の予約が始まったので抜かり無く予約してきた。特に水ポケモン、ラプラスの耳とか可愛いと思う。
 だからと言って、ポケモンのぬいぐるみに浮かれて自転車を盗まれた怒りを忘れられるほど子供っぽくはないつもりだ。この悲しみを塗り潰したければ、この世すべての猫でも連れてこい、と。猫まみれどころか、物理的に猫に押し潰されそうだと思ったので、せめてこの近辺だけにしておこうと思う。この町内すべての猫でも連れてこい、だ。
「こっちこっち」
 虎猫の肉球をぷにぷにしているところで、現実に呼び戻された。我ながら現実と見間違うほどリアルな妄想だった。少し残念、しかしこんな事では猫制限など到底不可能なのかもしれない。頭の中の猫達も名残惜しいが、呼ばれたので彼の後を付いていく。
「一応今回のイベントの目玉商品、看板商品だったかな?」
 彼がそう説明した。思わず言葉を失う。ネットでは見たこともあるけれど、実物を見るのは初めてだった。
 水色の身体、トゲトゲの甲羅、そしてつぶらな瞳。
「……ラプラス」
 ラプラスのおっきなぬいぐるみ、その高さ、なんと三十センチ、そのお値段の高さ、なんと八千五百円。
 思わず手に取ってみた。さすが最高級ラプラス、その手触りは低反発枕のようで、抱き締めたくなる衝動に襲われた。むしろ抱き締めた。抱いて寝たら最高だろう、そんな感触だった。
 チラリと彼を見る。だが彼は即行で目を逸らした。横顔が八千五百円は無理だ、と語っている、わかってたけど。逆にこんなに高い物を買ってもらったりしたらこっちが困ってしまう。ケーキを奢ってもらうくらいがちょうど良い、それくらいなら私もたまにジュースを奢ったり、たまにお菓子を作ったりで差し引きゼロだ。
「ねぇ、このラプラス触り心地がすごく良い」
「そうだね」
 触ってみて、と彼にラプラスの頭を押し付ける。ぽんと頭に乗せた手が軽くラプラスを撫でる。その様子を見ていたら、彼が怪訝そうに眉をひそめた。

「どうしたの?」
「なんでもない」
 思わず目を逸らしてしまった。顔もたぶん赤くなっている。彼は不思議そうにしていたが、それはわからなくても良い。
「だ、抱いて寝たら気持ち良いと思うの」
「うん? 確かに抱き心地は良さそうだね」
 突拍子もない、と言うほどでも無かったが少し不自然な話の振り方だった。ラプラスの頭を撫でる手を見たとき、ふと、あんな風に私の頭も撫でて欲しい、なんて血迷った事を考えてしまった。いくら何でも恥ずかしすぎて、彼の顔も直視出来ない。
 これは忘れよう、なにか別の事を考えよう。隣に飾ってあるぬいぐるみセレクションでも、逆隣にある等身大ピカチュウドールでもなんでも良かった。なのに、何故か、よりにもよって何故か、自転車が盗まれた事を思い出してしまった。
 女の子の幸せな時間第二位、好きな人と一緒にいる時間も台無しになるまさかのどんでん返しだった。ほら、自分の自転車がないから帰りは送ってもらえる、彼は歩いて帰れなんて言う人じゃない。ついでに家に寄って貰っても良い。そうだ、自転車が返ってくるか、買い替えるまで迎えに来てくれるかもしれない、私の家から学校までは少し距離があるから、頼めば遠回りになるけどきっと来てくれる。彼の細いウエストにぎゅっと抱き付いてみても良いかもしれない。きっと恥ずかしがるけど、離れろとは言わない。それからそれから……
 ダメだ、もう考えないようにしようと思うほど、逆に意識してしまう。自転車が盗まれた、私の自転車が盗まれた。
「……喉渇いたから、なにか飲み物買ってくる、ケーキのお礼、奢るよ、何が良い?」
 口にして、不自然だ、と思った。あまりに突然だ、きっと態度もおかしかった、うまく笑えてもいなかった。でも顔を合わせていたらもっとボロが出る。「いつもコーラだよね、コーラで良い?」「あぁ、うん」短い会話で強引に押し切り、彼から離れる。
「ちょっと待っててね」
 彼から逃げる。少し距離を取った所で振り向くと、律儀に待っていてくれたのか、追ってくる様子はなかった。
 追ってきて欲しかったのだろうか。自分勝手だ、でも心配して付いてきてくれたらきっと嬉しい。ささくれだった心も少し落ち着く。
「……待っててって言ったの、私か」
 やっぱり来ない彼に悪態を付き、自動販売機を探して歩く。自分でもわかるくらい様子もおかしかった、だったら少しくらい心配して付いてきてくれてもいいじゃない。本当は喉も渇いていない、見つからなかった事にして戻ろうか、と思っていたら自動販売機を見つけてしまった。いつもならコーヒーなのだけどペットボトルの物がなかったからコーラとオレンジジュースを一つずつ。そしてオレンジジュースに一口口を付けると、彼を置いてきた場所に戻った。

 ちょっと待っててね、と伝えた。飲み物を買いに行った時間はそんなに長くない、ちょっとのはずだ。なのに、彼はそこにいなかった。私を置いて先に帰った、とは考えられない。だけどいない、周りを見渡してもいない。腹が立つ。待っててと言ったのに。あぁもう、なんで待っててくれないの? 追ってきて欲しいと思ったら律儀に待っている、そう思ったのに自分だけ何処かへ行ってしまった。腹が立つ、苛立たしい、ムカつく。
 置いて帰ってやる。歩いて帰れば一時間以上掛かる、構うものか。日が暮れる、物騒な事件なんて聞かないけれど、今日に限って起きれば良い。そうなったら全部彼のせい、私を一人にした彼のせい、あぁ、自分から一人になったんだっけ? もうやだ、嫌な事ばかり考えてしまう。泣いたら戻ってきてくれるかな、今日はいつもよりきっとワガママだったから、戻ってきてくれないかもしれない。甘えん坊なのは少しだけ認める、でも弱気なのは私らしくない。なのに、なのに……
「あ、早かったね」
 後ろから彼の声がした。随分とあっさりとした声だ。人にこんな寂しい想いをさせて、あ、だ。怒鳴ってやりたかった、思い切り叩いてやりたかった、それ以上に抱きしめて欲しかったのは、嫌な事があって情緒不安定だからだ。だから、抱き付いてもきっと許されるに違いない。
 そう思って振り向いたら、顔からそれに突っ込んだ。
「あ、ごめん」
 紙袋で頬を少し引っ掻いた。それは我慢する、抱き付くタイミングを完全に逃した、この寂しい気持ちはどうしたら良いのか。
「……それ、なんなの?」
 彼がぶつかった拍子に落とした紙袋を拾い上げる。さっきまで紙袋なんて持っていなかったはずだ。だから、私が飲み物を買いに行ったそのちょっとの間に、彼が何処からか用意した物と言うことになる。
「うん、まぁ、そうだね、おっきなラプラスは無理だけど、ちょっと元気出してくれたらいいなって」
「……」
 頭の中が真っ白だった。それは、つまり……
「くれるの?」
「僕がぬいぐるみ持っていても仕方がないと思うよ」
 中身はぬいぐるみなんだ。悲しくて、寂しくて、苦しくて、泣きそうだったのに、今は、嬉しくて泣きそうだった。
「……ありがと、中、見てもいい?」
「どうぞ」
 おっきなラプラスは無理だけどって言ったから、きっと小さなラプラスだろうか。自転車の鍵に付けていたラプラスのキーホルダー、もしかしたら彼がくれたものだって覚えていてくれたのかもしれない。中を見たら涙腺が崩壊する、彼はきっと慌てる、頭を撫でてくれるかもしれない。今日はもう甘え過ぎている、だから、これ以上どれだけ甘えても恥ずかしくはない。だから……

 結果から言うと涙腺崩壊は免れた。ついでに感動も何処かへ飛んで行った。紙袋の中にいた物、茶色くて不思議な顔をした物体。なんとも形容し難いそれの名前を私は知っている。
「……あの、なんで……マッギョなの?」
「え、可愛いから」
 台無しだった。なんかもう、全部台無しだった。ラプラス、ラプラスのはずだった。絶対ラプラスが入っているべきだった。百歩譲ってシャワーズ、ポッチャマでもいい、ミジュマルはダメだ、スイクンでも許せる、シチュエーションを思えばラブカスでもいい。でも、マッギョは、ダメだ。マッギョだけは、絶対に、ダメだ。そもそもマッギョは水ポケモンではない。
「この顔、癒されると思うんだけど」
「……」
 返事に困った。予想外なんてレベルを通り越していて返答のしようがなかった。
「あれ、ダメかな?」
「……うん」
 あぁ、なんだろうこのやり場のない気持ち。それからマッギョのマヌケな顔。深く、深く、ため息を吐く。なんか、もうどうでも良い気がしてきた。自転車を盗まれた事には腹が立つけれど、そればかり考えているのも馬鹿らしく思えてくる。これ、癒されてるって言うのかな、なんか違う気がする。
 ふと、適切な言葉が浮かんだ。きっとため息と一緒に抜けていったに違いない。

「毒気を抜かれたみたい」
メンテ
ポイズンガールは終わらない ( No.2 )
日時: 2012/04/28 15:22
名前: 月光

テーマB : 毒

 シッポウシティ……それが私のいる街の名前。百年前の倉庫をそのまま再利用していると言えば聞こえはいいが、単に予算がないだけじゃないのだろうか。
 この街のジムリーダーであるアロエさんはパッとしない博物館の館長の奥さん、要するに金銭感覚が庶民並み。必要以上に金を使わない。
 別にそれならそれで良いのだけれど最近はイッシュ地方全体の就職状況や経済状況がよろしくないのは承知のはず、要らない機材と土地と労働力が余っているのだからもう少しどうにかならないものかしらね。
 カフェの窓から見える外の景色を眺めつつ、経済雑誌を読む私は漠然とそんなことを考えていた。よく見てみれば空が曇っているわね、午後の天気は雨かな。
 未来の自然環境を察知する力でも持っているのか、マメパトやハトーボーがヤグルマの森へと帰って行く姿が見える。私も彼らみたいに、本能で生きていければ嬉しいんだけど……

「ちょっとアミカ! 何で私のライブに来なかったの!?」
「ん? あぁ、なんだホミカか。ライブも何も、ただ公園で爆音響かせてるだけじゃない。アレはライブって言わない、騒音公害って言うのよ」

 現実問題こいつの音楽は聞けたもんじゃない。ベースのホミカが自己主張し過ぎるせいで低音が目立ちまくり、理性を吹っ飛ばすどころか醒めて来てより具現化する。
 残念なことに彼女はベーシストをしているよりもポケモンバトルの方がしっかりセンスがあるのよね。適材適所、ホミカの才能ならジムリーダーにもなれる可能性があるのに、不運なことに音タイプなんてポケモンは存在しない。
 確かカントー地方にはマチス、シンオウ地方にはデンジ、ここイッシュ地方にはカミツレが電気タイプのジムリーダーとしているわね。
 こいつなら多分将来的にジムリーダーやるなら電気タイプになるんだろうけど、それだとかなり競争率が激しい戦いになりそう。あーいやいや、そもそもこいつがバンドを組む可能性だってあるわ。
 でも絶対にジムリーダーになった方がホミカのためだと思うんだけどな。人間って自分のことは自分が一番知っているとか思うらしいけど、大多数の人間はそんなの無理。他者の判断方が基本正しい。
 人は周りの物を見て自分の価値を判断する。周りを見て周りの価値を判断する。なのに、自分自身のことを知り尽くしたつもりになって、本当は全然知らない人間が沢山いる。

「ホミカはそのタイプかなぁ」
「な、何よ。何の話?」
「別に。それより何の用があって私に会いに来たの? ポイズンガールはお嫌いなんでしょ。それとも、文句を言うためだけに会いに来たのかしら」

 ポイズンガール、この呼び方にも慣れて今では自分でも自虐的に使ったりはしている。
 私は毒タイプのポケモンが大好きだから、持っているポケモンはペンドラー。毒のことなら何でも知っているつもりで、尊敬する人はカントー地方の四天王の一人、キョウさん。
 いつかは弟子入りしようと思っているが、如何せんイッシュ地方からでは距離が遠い。引き取ってもらった家から疎まれる私に、今の両親が金を出すはずがない。

「相変わらず毒々しく陰険だよねアミカって。何でさ、親戚なのにそんなに余所余所しいわけ」
「親戚と言ってもホミカのお父さんのお兄さんの結婚相手の妹の結婚相手の弟さんの娘よ、私は。血縁的には七次も離れているし、殆ど赤の他人じゃない」

 どうしようもない私を引き取ってくれたのはホミカの家族。他の近い親戚は尽く私の受け入れを断って、盥回しにされてイッシュ地方まで転がり込んだ。
 当たり前である。私の両親は自殺したのだ、毒を使って。いや、一般的なニュースではそのように扱われているが真実は違う。
 私が殺したのだ。両親の結婚記念日にケーキを作って、ちょっとした毒のスパイスを使って、本当なら大丈夫なはずだった。知らなかっただけ、父さんと母さんがあの毒に異常なまでに弱かったことを。
 世間は私を疑った。親戚も私を疑った。当たり前、疑われて当たり前。だけど私は言えなかった。怖かったから、そして私は今、空っぽだ。虚無を生きている。

「そんなことはどうでもいいのよ! 血縁とかは、心に響く音楽とは関係ない!」

 だったら言わないでよ、紛らわしいわね。

「私はアミカに私の音楽を聞いてほしいの。だってアミカ、何かいつも……寂しそうだからさ」
「私は別に寂しくもないし、今の生活に不満があるわけでもない。貴方の様に情熱を捧げられる趣味もないし、ジムリーダーになれるような素質もない」
「ジムリーダー? 何それ」
「ホミカはポケモンバトルの才能がある。私はそう思っているわよ、貴方がどうかは知らないけど。私にはそれがない。だから……ね、そゆことよ」
「夢がないなー本当に、毎日何考えて生きてるのよ。そもそも私がジムリーダーになると何かいいことあるわけ? ないでしょ」
「あるわよ。ホミカが今、一番望んでいることに繋がるわ。ジムリーダーと言えばバトルが強い、バトルが強いと人気者、人気者ならば人が来る。必然的にホミカのライブに人が来る。どう、簡単な方程式でしょ」
「そ、それ本当なの!? ぬうう、そっかそっか、そういう方法もあるのか。分かった、私はバトルでも人の理性を吹っ飛ばせるようになる! じゃあねアミカ、次のライブは来てよ!」
「騒音じゃなければね、少なくとも今のままじゃ行く気にならないわ」

 さっきまでの不機嫌が不思議なほどに無くなってまあ、清々しく出て行くこと。まったくもう、その安直さと素直さが少し羨ましい。
 ホミカは気付いていないのね、あの子にはポケモンバトルの才能がある。私だって小さい頃は夢見なかったわけじゃないけど、私にはどう頑張っても届かない領域だった。
 それを自覚した時に気が付いた。人には向き不向きがあり、可能と不可能がある。自分に可能なことと不可能なことを知って初めて、人は自分を知るのだと。
 不運にもそれは私の両親が教えてくれた。ただの毒ならば中和して解毒できる自信があったけど、極度のアレルギー反応を示してしまったらもう手がつけられない。助からない。私には、助けられない。
 同じように引き取られてホミカを初めて見たときに、私は分かった。彼女こそがジムリーダーになれる存在、私はなれない存在。だから、別のことをしようと。

「柄にもなく熟考しちゃったわね。いくら考えたって、知識以上のことを想像することは私には不可能。だってもう、心が死んでいるんだから」

 正直な話、私はあまり生きていることに執着していない。考えることが億劫になって、思い出せば吐き気が混沌とする迷路に迷い込んで、私を意識の闇へと誘って行く。
 だから私は放棄したのだ。普通の人が望むであろう『一生懸命生きること』を、『夢を持って生きること』を。私は投げ出して、逃げ出した。
 そんなことを考えながらストローを啜ったら中身が出て来ない。見るとカフェオレはもうなく、カラカラとプラスチック製のカップの中を、若干凸凹した氷が犇めき合って蠢いている。
 私の心はこの氷と同じね。冷たくて、凹凸は滑らかで刺激が無く、欲を失い透明になってしまった哀れな残骸。あら、私としたことが少し詩的な表現になっちゃったわ。

「濡れるのも嫌だし帰ろうかしらね。家にいても良いことはないけど、長居したら店側に悪いって……傘? あぁ、ホミカの奴、忘れて行ったのね」

 そう言えば店に入って来た時は右手に傘を持っていたけど、出て行く時は何も持っていなかった気がしないでもない。
 午後も公園でライブをいつもやってたっけ……届けてあげるかな。雑誌を本棚に戻して準備完了、お金はテーブルの上に置いておけば厄介なレジをしなくて良いのがこの店のチェックポイントよね。セキュリティ上問題ある気がするけど。
 外に出て空を確認すると鉛色の部分がさらに重苦しくなって、これはいよいよ大雨の気配がして来た。残念だけど、午後のホミカのライブは中止ね。
 巡回バスに乗っておよそ十分、歩いても三十分、カフェから公園は意外と近い。途中でホミカとすれ違うかとも思って道を確認していたけど、どうやら彼女もバスを使った様だ。見つからなかった。
 あの子は濡れると幽霊みたいになる。ただでさえ幼い体形をしているのに、鬱陶しそうな前髪が額に張り付いて幽鬼を思わせるのだ。見た目がアレなのもライブに人が来ない原因の一つではないかと私は推測する。

 ふと思った。本当に何の前触れもないんだけど、思った。何で私は、ホミカのことになるとこんなに積極的になるのだろうか。
 絶望の淵に立たされてれ、突き落とされた私を引き取ってくれたのは確かにホミカの家族だが、私は彼らに何の恩義も感じていなければ悪意も感じていない。
 彼らは世間体と家族内優先順位の序列に引き摺られて、自分達の都合で私を引き取ったに過ぎないのだ。だから私を疎ましく思う。
 尤も、別にそんなことは私の知ったことではない。だから私も彼らには関心を抱かない。私を疎ましく思ってくれればそれで良い、それで気が晴れるならいくらでも疎んでもらっても構わない。どうせ心がないのだから。
 だけどホミカは違う。あの子は空っぽの私の心に気付いているのかいないのか、いつも前向きで笑顔で努力して、まだまだ下手だけど持ち前のライブで必死に私を元気付けようとしてくれている。
 これが偽善から来るものなら、きっとそれこそ私は悪意と殺意を思えたはず。だけどそんな気持ちは全くない。
 そうか、私はまだまだ私を知っていなかった。こんな些細なことでも人は気付くことが出来るのね。私は……ホミカが好きなんだ。私には無いものを沢山持っている彼女を、私は好きなのね。

「どうして気付かなかったんだろう。そう言えば、去年の今日は私に『誕生日ケーキ作ったよ』って言って、塩だらけの岩塩ケーキ持って来たっけ……ふふふって、なんだ、私もまだ笑えたんだ」

 醒め切った心のどこにこんな熱が残っていたのか知らないけど、少なくとも私は、カフェオレの中に残った氷よりは温かい心を持っているようだ。
 バスを降りればすぐ目の前には公園がある。きっと騒音を響かせる準備をしているんだろうな。でもまあ、たまには良いよね、騒音も。

「ん? うわ、ポイズンガールが来た!」
「嘘ぉ!? ホミカのライブを騒音と断じて止まないあの冷徹機械毒女が来るなんて、この世の終わりだ! シッポウシティが壊滅するぞ!」
「……アンタら、普段から私のことをそう言う目で見てたんだ。今度から宿題は地力で解決することね」

 ここの子どもが学校から出された宿題を、ホミカを通して私に聞いていることぐらいは知っている。あの子は人が良過ぎるのよ、少しは利用されていることを怒りなさい。

「傘届けたら帰ってあげるわよ。それで、ホミカはどこに行ったのかしら。もう着いているんでしょ、ステージ裏?」
「それがね、『ジムリーダーになる準備して来るから今日の私のライブの番は飛ばして』って言って帰っちゃったよ。ヤグルマの森に行くんだって」
「全く、本当に行動が早いわね。それが彼女の良いところなん……だ……けど……ちょっと待って、どこに行ったって言ったのかしら」
「ヤ、ヤグルマの森だけど」
「この時期に、このタイミングで……あの馬鹿! 何で私に一言も言わないのよ!」

 走り出していた。このままじゃホミカが危ない。今この時期にヤグルマの森に行ってはいけないことぐらい、普通の大人なら知っていること。
 だけど彼女は大人じゃない。まだ子ども、私より小さいくせに私よりアクティブ。いくら夢のためとはいえ短絡的過ぎる。握った傘が握力で折れてしまうんじゃないかと思った、そんな力無いけど。
 バスはさっき出てしまった。それに巡回型だからどうしても回り道が増えて遠回り。体力に自信がある方じゃないけど、今はそんなこと言っていられない。
 クールで冷徹キャラの私が――別に狙ってはいなかったけど――こんなに走るなんて、いつ以来のことかしら。色々なことに疲れ果てていて、体力がとにかく酷く訛っている。
 息が苦しい。肺が痛い。転びそうになる。それに加えて鉛色の空は耐えかねた痛みに涙を流すかのように、大粒の雨を落とし出した。寒さが加わって、手が悴みながら走り続けた。
 途中で転んでしまった。服が泥だらけになる。膝を擦り剥いた、だけど止まるわけにはいかない。もう失いたくない、私の心に宿った熱を。大事な人を。

「ホミカ……はぁ……はぁ……絶対……はぁ……無事でいて!」

 すれ違う人々に変な目で見られながら、時にはポイズンガールと言うことで避けられながら、私はただひたすらに走り続けた。
 私のペンドラーは酷く雨を嫌う。冷たいし体中が痛くなるのだから当然だ。だから私は雨の日にこの子を出さないことにしていたけど、今はもうそんなことを言っている余裕がない。

「お願いペンドラー、貴方のことも私は投げ出していた……はぁ……はぁ……都合が良いと思うかもしれない。けど! 貴方の力を、私に貸して!」

 モンスターボールをこんなに勢い良く投げるのって、いつ以来? 何となくで一緒に生きて来たペンドラーをこんなに頼りにして出したのは、何年前?
 出て来たペンドラーは何も言わなかった。ただ黙って背中をこっちに向けて、後ろ脚を曲げてくれた。
 早く乗れ――そう言っているように瞳は訴えかけている。ホミカは毒タイプのポケモンがあまり好きではないらしく、私がペンドラーと適当に遊んだり接していると、決まって距離を取る癖があった。
 だからペンドラーはホミカのことが嫌いだと思っていた。いや、もしかしたら実際に嫌いなのかもしれない。ひょっとしたらそれを通り越して、私が大多数の人間に抱くように無関心かも。
 それでも背中に乗せてくれる。私をホミカの所まで、連れて行ってくれる。走り出したペンドラーは早くて、私は必死に胴体に掴まった。

「この時期のヤグルマの森はホイーガやペンドラーの産卵、スピアーやドクケイルみたいに遠くの地方からも毒ポケモンが来る。十分な準備がないと、自殺に行くようなもの」

 体に打ち付ける雨が痛かったけど、景色が一瞬にして暗くなると同時に肌を打つ雨が急激に弱くなり、変わりに四方八方からの騒音がその量を増した。
 ヤグルマの森はその生い茂る木々の葉で雨と光を遮っていたがそれでも地面は泥濘が酷く、長距離をダッシュして疲れているペンドラーをボールに戻して私は走り出す。

「ご苦労様、後で私のへそくり使って最高級のポケモンフーズ買ってあげる。ここから先は、私に任せて!」

 そもそも頼ったのが私なのだから任せてって言うのも変な気がするけど、今はどうでも良い。ホミカの無事、今の私にはそれ以外の何もいらない。必要無い。
 とは言えこれだけ広大な森の中で探している人を速攻で見つけるなんて奇跡に等しいレベル、でもまだ子どものホミカが本道を外れて脇道に入ってくとは思えない。必ず、近くにいるはず。

「ホミカ、返事して! どこにいるの!?」
「きゃあああああ!」

 聞こえた! 悲鳴だけど聞こえて良かった。
 草むらを掻き分けて少し脇道にそれたところにホミカがいた。思っていたようにホイーガやスピアー、ドクケイルとついでにアリアドスまで参加している。
 たった一人の子ども相手でも自然は容赦がない。悲鳴を上げて倒れたのか、うつ伏せになったままホミカが動かない。

「失わない……失う訳には、もういかない! ペンドラー、ホミカの周りの奴らを薙ぎ払って!」

 本日二度目、雨の中のにごめんね。
 長い体を丸めたペンドラーはタイヤの様になってホミカを囲む集団に突っ込み、ポケモンバトルをしない私のポケモンが久しぶりに『ハードローラー』なんて豪快な技を使った。
 空白が出来る。ホミカの周りに纏わりついていた虫達が居なくなったのを確認してから体の様子を見たけど、一目で分かる……これは、酷過ぎる。
 スピアーの毒針にドクケイルの毒の粉、アリアドスの毒糸にホイーガの吐き出す純粋な毒。体中がとにかく毒だらけ、こんな状態になったらもう普通の毒消しじゃまず確実に対応できない。
 何でよ。何でホミカがこんな目に遭わないといけないのよ。そもそも何でアンタはこんなところに来たのよ、手持ちのポケモンなんてまだヨーテリーだけじゃない、何やってるのよ!
 仰向けにした彼女の表情はやはりと言うべきか青ざめている。今の私も相当青ざめてると思うけど、それとは比較にならない程に彼女の状態は酷い。
 毒針を全て抜く。毒の粉を全て素手で払う。知ったことではない、後で手が腫れるぐらいだ。表皮に付着した毒も手で叩き落とす。死んじゃ駄目、絶対に死んじゃ駄目!

「死なないでよホミカ、絶対に死なせない。貴方が死んだら……私は……また、一人に……」
「アミカ……?」

 返事をした!? よかった、意識があるだけまだ良かった。意識が無い状態ほど幸先不明で不安なことなんてない。

「どうして、何でこんな無茶したのよ! どんなに才能あったって、どんなに夢があったって……死んだら、そこで終わりなのよ!」
「泣い……てるの? アミ……カ……」
「当たり前でしょう! 後で覚悟してなさいよ、家で二十四時間説教するわ! アンタが隠し持っているロックバンドの写真集も没収する! やらなきゃいけないことがたくさんあるの! だから、死んじゃ……だめだよぉ……」
「驚かせ……たかったの。私が……一人でポケモン……捕まえってこと……見せたくて。だって今日は……アミカの、誕生日……でしょ?」

 ……え? そう言えばそうだった、さっき電車の中で思い出していたばかりじゃない。そうよ、今日は私の誕生日だった。祝ってくれるのって、決まってホミカばかりだったっけ。
 そんな大切なことを忘れて、私が毎年毎年忘れてることをホミカはたった一人で覚えていてくれていて。
 私は馬鹿よ。今日の今日まで無意識ではホミカのことを大切に思っていたくせに、悲劇気取って自分の心に自分で蓋して、彼女に近づこうと努力すらしなかったくせに。
 ホミカをこんなにしたのは、私じゃないの! 死なせない、絶対に死なせない! 誰が言ったか知らないけど、私はポイズンガール……こと毒に関して、私の右に出るものなんていない。
 例えそれがキョウさんでもアンズさんでも、私は毒に関して譲ってはいけないの。目の前の大切な少女一人助けられないで、そんなことは語れない。

「安心してホミカ。私は貴方を絶対に助けるよ、なんて言ったってポイズンガール……毒女だからね。品の無い言い方だけど、今は素直に認めるわ。私に任せて、私を信じて!」
「うん……私ね……別に毒タイプ……嫌いじゃ……な……」

 意識が弱くなってる。落ち着いて、考え抜くのよ。いつも常備している毒消しはあくまで単体の毒に対してしか効果を発揮しない。
 スピアーの毒針とアリアドスの毒糸、まずこれらは通常の毒消しでも問題ないわ。問題はドクケイルの毒の粉、一般にはあまり知られていないけどこれには麻痺の作用も若干含まれている。しかも他の毒と交わることで効果が増す。
 毒消しの量は通常の一倍強、麻痺治しも同時に若干量調合する必要があるわね。ただホイーガの毒はまた別モノ、配合量を少し減らさないと駄目。
 集中するの、私! ドクケイルの毒の粉は皮膚も荒らすから、軟膏も盛り込んだ方が良いわね。後は右手と左足に毒針……え? あれ、私の右手と左足に、毒針?

「そ、そりゃそうよね。ペンドラーが頑張ってくれても、穴はできる」

 振り向いた先では未だに戦っているペンドラーが心配そうに私を見たけど、私は首を左右に振って無視を促した。気にしていたら、ペンドラーまで危機に陥る。
 首筋に激痛が走る。ドクケイルの毒の粉が服のスキマを狙って襲い掛かるが、雨のおかげで半分近くは流れてくれた。服に染み込む分で駆け引き零だけど、全体的に見れば良い方ね。
 アリアドスの毒糸が左腕に絡まって身動きが取れなかったのを、ペンドラーが気を利かせて切断してくれた。左腕がドククラゲに刺された様に痺れるけど、今はその方が良い。
 嘗めてもらっては困る。私はポイズンガール、毒を以て毒を制す。私の体を蝕む毒は、むしろ先ほど以上に私を冷静にしてくれる。
 感じて思い出したがアリアドスの毒にもそれなりに麻痺の効果があり、酸を盛り込んでいるのか炎症にも似た症状があるように感じられた。火傷治し入れるべきかもしれない。
 ホイーガの毒はただの毒ではない。『どくどく』による猛毒、他の毒の作用をさらに引き出している可能性は十分にある。全てを計算に入れて、作るんだ。調合するんだ!

「アミカ……寒い、暗いよ……」
「そりゃ雨が降ってるから寒いわよ! 森の中なんだから暗いわよ! そんなこと気にしてんじゃないの。全く傘を忘れるなんて、ホミカは本当にドジね!」
「あはは……そっか、傘……あの時忘れたんだ。不思議、理性が……ぶっ飛んで来た……」
「馬鹿! 阿呆! 濡れ幽霊! とにかく私を見なさい! 普段の元気はどうしたのよ! 私にライブを聞かせてくれるんでしょ!?」
「ライ……ブ……聞いて……くれるの?」
「当たり前じゃない! 私は、雑音だらけだけど一生懸命なアンタのライブ……結構、好きなんだよ」

 最初は本当に雑音でしかなかった。人の部屋まで押し掛けてはいきなりベースの低音だけ響かせて勝手に熱狂して、非常識極まる子どもだと思った。
 でもそれは違った。ホミカはホミカなりに私を励まそうとしてくれていた。まだ小さくて数学もパソコンも出来ない癖に、私より背も小さくて年下の癖に。
 私より小さいその手は、私よりずっと大きなものを持っていて、私よりずっと大きな可能性に満ちている。だから死なせてはいけないの。私の勝手な願いだけど、ホミカには幸せになってほしい! 夢を掴んでほしい!
 雨のせいで調合が上手くいかないと思ったけど、自分でも不気味なぐらいに上手くいってる。後は数種類の毒を中和剤として入れればそれで終わ……あ、あれ、目が!?
 視界が霞んでる。雨じゃない。これは、ホイーガの毒! 顔に掛かったのね、何でこんなときに!? 耳もなんだか聞こえにくい、鼻も……駄目!

「何でよ、最後の最後で何でッ!? あーもう、噛んだ。血の味って鉄臭くて嫌な……そうだ、味覚が生きてるならまだ行ける!」

 毒の瓶は私の体の一部、ラベルを見ないと中身は分からないけど腰の後ろに差していることは覚えてる。後はその毒を……な、舐めるしかない。
 中和剤用と言っても毒は毒。今以上に私は毒まみれ、いくらポイズンガールでも毒はやっぱり苦しいの。だけど、毒にだって味はある。幸いなことに、無味無臭の毒は今回必要無い。
 片っ端から舐めた。酷く舌がビリビリと痺れたけど、問題ない。中和剤だと思われる毒を見つけたら、それを霞んだ視界で慎重に混ぜる。
 落ち着いて……落ち着いて……落ち着いて……私なら出来る。私は毒の天才、ホミカとは違うけど、これは私の領域。
 最後の毒を入れて、完成した! まずはこれをホミカの皮膚に、雨で効果が薄れないように木の下に移動したいけど、贅沢は言っていられない。
 表皮用でもあるけどこれは飲めるようにも作っておいた。後はこれをホミカに飲ませれば、きっと大丈夫。お願い、目を覚まして!

「お願い……神様……創造神、アルセウス……ホミカを……ホミカを、助けて……」
「アミカ? あ、あれ。私……何で倒れてるの?」

 目を覚ました! 良かった、速攻性重視だったけど、ちゃんと効いたわね。私はやっぱり……ポイズンガール。毒に関して、私は誰にも負けない。
 私が今作った特別製の毒消し、学会に発表すればきっと高評価もらえちゃうわね。特許もありかも。
 ホミカの皮膚の色も良くなってきたし、視界がぼやけてるけど顔色も良くなった様に見える。安心したら、今度は私が眠くなって来ちゃったか。
 仕方ないもんね、毒だもん。毒を以て毒を制すって、ははは、そんな馬鹿なことあるわけないじゃない。人間毒をこれだけ喰らっておいて、制するなんて出来るわけないじゃないのよ。
 何で私は後先考えず、ホミカのこと助けたんだろ。無視してれば、他の大人に頼ってれば、少なくとも私がこうなることはなかったのに。そう思うでしょ、誰だって。

「ホミカ! 返事をしろ! どこだ!?」
「お父さんの声! お、お父さん! ここ、ここだよ! 早く助けて、アミカが! アミカが……死んじゃうよ!」

 あぁ、大人達が来たのね。さすがに耳悪くなっても、これだけ耳元で叫ばれたら分かるわよ。
 よかった、ホミカが助かって……あれ、何で泣くの? 助かったんだよ? 嬉しくないの?

「なん……で……?」
「馬鹿! 何で、何でアミカがそんなにならないといけないの!? 嫌だよぉ……ねえ、死なないでよぉ……」

 そっか、今度は私が死にそうなんだ。失敗したな、ホミカ助けることだけ考えてたから自分の分の毒消し作ってないわ。他の人に作れるわけないし。
 まあ良いか。どうせ私は生きてても大したことしないんだし、ホミカが生きていてくれなければ、私の心は今度こそ死んでいたわけでしょ。
 だからこれで良かったのよ。もちろん死ぬのは怖いわ、でもそれ以上に残念。ホミカのライブを聞けなくて、ホミカがジムリーダーになる姿が見えなくて、ホミカの笑顔が……もう、見れなくて。
 赤の他人みたいな関係を勝手に作ってたけど、私はホミカが大好き。本当の妹みたいで、可愛くて、自分の意志を貫ける子。大丈夫、ホミカなら大丈夫。
 泣かないで。私は別に、後悔はしていない。むしろ感謝している。考えてみれば、私は誰かに愛されたかった。
 両親を間違えて毒で殺してしまったのも、構って欲しかったから。関心を持ってほしかったから。私の両親もホミカの両親も、誰も彼も私に大した関心を向けず、自分達の世界から私を排他し続け、私は拒絶され続けた。
 ホミカ、貴方と出会えたことはこれ以上ないほどの奇跡なの。毒ってのは私にとって毒にも薬にもならないものだったけど、最後の最後で、私は毒に救われたのね。

「泣くな……ホミカ……」
「アミカ! よかった! 今お父さん達が来るから、きっと助かるから! だから、助かるよ! 大丈夫だよ!」
「ねえ、顔良く見せてよ……」

 そんな泣き顔、アンタには似合わないって。あぁもう、最後の最後までその前髪が鬱陶しいって思っちゃうな。可愛い顔なのに、台無しじゃん。
 動け、私の両手。どうせ最後の仕事なんだから、口より楽な仕事なんだから、動きなさいっての。
 私の後ろ髪の髪留め。ついてる二つの珠が紫色に濃い水色、これってなんて言う名前の色だっけ? あーいやいや、今はそんなのどうでも良い。どうでも良いけど、なんか毒っぽいなぁ。
 ホミカはもしかしたら嫌がるかもしれない。さっきは意識が朦朧としてて本心を言った可能性は大きいけど、私を心配させまいと意地張っただけかもしれないしさ。
 動いて私の上半身。無駄に発育した胸は今は要らないから、もう少し……ほら、やっぱりだ。ホミカの前髪、上げた方が断然可愛いわね。

「こ、これってアミカが大切にしてる髪留めでしょ。な、何で今なの? ねえ」
「ほら……やっぱり……ホミ……上げ……が……」
「アミカ! 嫌だ! 目をもっと開けてよ! 私を見てよ! ライブを聞いてよ!」
「ねえ、ホミ……カ……お願い……聞いてくれ……る?」
「うん! 聞くよ! 何でも聞く! だから、死なないでってば!」

 私は死ぬ。だけど、私は私の生きた意味ぐらいは残したい。それと欲を言ってはアレだけど、ホミカに忘れられたくない。

「ジムリーダーになった……らさ……毒タイプ……使って……くれない?」
「アミカだってなれるよ! いま私見てたもん! アミカのペンドラー、凄い強いじゃない! だからそれは、アミカが――」
「あぁ、そうだった……」

 まだ、口に出してなかったっけ?

「ホミカ……大好き……だよ……」
「ア、アミカ? ねえ、嘘でしょ? ねえ……アミカ!?」

 私の世界は、ここで終わる。だけど私は、私の存在は、この世界に残り続ける。
 知ってるでしょ、毒ってしぶといのよ。私の毒は、アミカがきっと引き継いでくれるはずだから、まだまだこれから。
 もう雨の冷たさも感じない。ホミカが何を言ってるのかも分からない。彼女の顔は、もう見えない。
 見えなくて良い。ホミカが泣く顔なんて、もう見たくない。
 大人達が来てるからもう大丈夫でしょう。ホミカは生きて、きっとジムリーダーになる。私は、信じている。



 そう、終わらない



 ポイズンガールは……終わらない……

メンテ
ポイズンガールは終わらない(裏) ( No.3 )
日時: 2012/04/28 15:07
名前: 月光

テーマB : 毒

 ふと空を見上げると、鉛色の雲がどんどん重苦しそうな色に変わりつつある。雨が降りそうだ。念のため傘を持って来たけど、どうやらその判断は正解だったみたい。
 今日は大切な人の誕生日。毎年毎年その張本人は忘れてるみたいだけど、私は忘れるわけにはいかない。だって、私は彼女が好きだから。
 一人っ子でどんなに一生懸命頑張っても、褒めてくれるのは決まっていつもお父さんとお母さん。友達が頑張るとやっぱり友達のお父さんとお母さんが褒めてるけど、姉妹同士の笑顔が私にはとても羨ましかった。
 そんなときにお父さんのかなり遠い親戚だけど、私よりも年上の女の人が私の家にやって来た。両親が死んじゃって、色々と辛いことが沢山あって巡り合えた偶然。
 私はとても嬉しかった。でも彼女の心はどこかいつも悲しそうで、私が必死にライブに誘っても、彼女は見向きもしてくれない。
 今日も今日とて彼女はお気に入りでもさしてない喫茶店でカフェオレを飲みながら、のんびり良く分からない雑誌を見つつ空の景色を眺めていた。
 だけどそんなことはどうでもいいの。私が彼女に会いに来たのは、今日の午前中のライブは私の今までのライブの中でも会心の出来栄えだったのに、誘ったのに見に来てくれなかったことへのクレーム。

「ちょっとアミカ! 何で私のライブに来なかったの!?」
「ん? あぁ、なんだホミカか。ライブも何も、ただ公園で爆音響かせてるだけじゃない。アレはライブって言わない、騒音公害って言うのよ」

 直球も直球、私がどれだけ一生懸命ライブを行ったとしてもアミカの答えは毎回コレ。とりあえず私の刺激的な音楽を騒音として処理して、会話を終わらせようとする。
 二三言葉を交わしただけでアミカはまた私の顔を見ているにも関わらず、どこか浮いているような、捉え所のない虚ろな瞳で私を見ていた。
 本当にいつも何を考えているのか分からない。大方今夜晩御飯は何かなーって考えているだろうけど、今夜は私の作った特製ケーキを食べてもらう。去年の様に塩漬けの失敗はしないわよ。
 もしかしたら去年のケーキが印象的過ぎて、今年のケーキが大惨事にならないか心配しているのかな? それならそれでアミカが誕生日を覚えたってことで嬉しいんだけど。

「ホミカはそのタイプかなぁ」
「な、何よ。何の話?」

 全然関係ないこと考えてたみたい。はい、私の予感外れました。何よ、笑いたければ笑えば良いじゃない!

「別に。それより何の用があって私に会いに来たの? ポイズンガールはお嫌いなんでしょ。それとも、文句を言うためだけに会いに来たのかしら」

 ポイズンガール……誰が言い始めたのかは知らないけど、シッポウシティの子どもたちの間、ついでに大人たちの間でも、もはや彼女の通り名は完全に定着した。
 それもこれもアミカが元々毒について異常に詳しいことに加えて、両親を彼女が毒殺したなんて根も葉もない好い加減な噂話のせい。
 今でこそ本人も大して気にせず――むしろ何故か好んで使ってる気がしないでもないけど――反応しているけど、それでも最初の頃はやっぱり、ちょっとショックを受けてたみたいだった。
 だからって何もそこまで言うことないじゃない。それに私は別に毒タイプが嫌いと言う訳じゃない、ただちょっと怖いだけ。だって毒って危険だし、痛そうなんだもん。

「相変わらず毒々しく陰険だよねアミカって。何でさ、親戚なのにそんなに余所余所しいわけ」
「親戚と言ってもホミカのお父さんのお兄さんの結婚相手の妹の結婚相手の弟さんの娘よ、私は。血縁的には七次も離れているし、殆ど赤の他人じゃない」

 手を払ってからアミカはまた明後日の方向を向いちゃう。本当に彼女は他人行儀、どうしてそんなに他人に無関心で生きていけるのか、本当に不思議。
 でも大切なのは血縁なんかじゃない。そもそも音楽は大衆に向けて発信するものって、好きなギタリストが言ってた! だから、私は皆に、アミカに向けてライブをするの。

「そんなことはどうでもいいのよ! 血縁とかは、心に響く音楽とは関係ない!」

 あ、今絶対に『だったら言うな、紛らわしい』って感じの顔した! 絶対にした!

「私はアミカに私の音楽を聞いてほしいの。だってアミカ、何かいつも……寂しそうだからさ」
「私は別に寂しくもないし、今の生活に不満があるわけでもない。貴方の様に情熱を捧げられる趣味もないし、ジムリーダーになれるような素質もない」
「ジムリーダー? 何それ」

 さすがにジムリーダーと言う存在は私だって知っているし、ポケモンバトルだって私はするんだから彼らが凄い存在だって言うことも知っている。
 私が聞きたいのはジムリーダーがどういう存在なのかではなく、どうして私がジムリーダーになれるような素質があると言う話しになったのかってことに対して。

「ホミカはポケモンバトルの才能がある。私はそう思っているわよ、貴方がどうかは知らないけど。私にはそれがない。だから……ね、そゆことよ」

 相変わらずどうでも良いところでだけ察しが良いアミカは私の言葉の意味を汲み取ってくれたらしく、『ジムリーダーも知らないの? 馬鹿じゃない』みたいなことは言わない。
 その洞察力の百分の一でも良いから私がアミカに向けて発信しているライブに耳を傾けて欲しいけど、多分口で言っても彼女は分かってくれないと思う。
 そもそもアミカは毒のことに関してはその辺の子どもはもちろん、シッポウシティに住んでいる科学者の人達にすら知識と経験で上回る絶対的な才能を持っているのに、それを使わないなんて勿体無さすぎるよ。
 私は確かに音楽が大好きだけど、アミカの様に勉強が目立ってできるわけでもないし、冷静に物事を見ることが出来るわけでもない。
 昔アミカから教えてもらった諺。確か、隣の芝生は尖って見える……だっけ? なんか違う……そっか! 『青く見える』だ。
 今の状態はきっとそう、それに近い。アミカは本心か冗談か知らないけど私の様に情熱を費やせる趣味を持って無くて、私はアミカの様に頭が良くなかったり落ちついていられない。

「夢がないなー本当に、毎日何考えて生きてるのよ。そもそも私がジムリーダーになると何かいいことあるわけ? ないでしょ」

 頭で考えるより先に口で言葉が出ちゃった。アミカが他人行儀過ぎたからちょっと棘のある言い方になったけど、やっぱりアミカは無表情。

「あるわよ。ホミカが今、一番望んでいることに繋がるわ。ジムリーダーと言えばバトルが強い、バトルが強いと人気者、人気者ならば人が来る。必然的にホミカのライブに人が来る。どう、簡単な方程式でしょ」

 理性が吹っ飛んだ。そうか、ジムリーダーになるってことは人気者になって、人気者になればライブを聞きに来てくれる人も増える!
 そうだよ! 何でこんな簡単なことに気付かなかったんだろ、やっぱりアミカは頭が良い!

「そ、それ本当なの!? ぬうう、そっかそっか、そういう方法もあるのか。分かった、私はバトルでも人の理性を吹っ飛ばせるようになる! じゃあねアミカ、次のライブは来てよ!」
「騒音じゃなければね、少なくとも今のままじゃ行く気にならないわ」

 それは『時間が経てば聞きに行く』と捉えても良いはずね。やった、アミカが私のライブを聞きに来ることはこれで決定したも同然よ。
 ならば善は急げ。ジムリーダーになるためにはポケモンを育てなければならない。さすがに手持ちのヨーテリーだけじゃ心許ないから、あと数匹は揃えて仲間にするべき。
 丁度目の前に止まっていた巡回バスに飛び乗って、一直線にいつもライブをしている公園を目指す。
 鉛色の空がさらに曇って来てさすがに心配になって手元を確認したら、どこで忘れたのか傘が無い。あれ、公園に忘れた? それとも喫茶店に忘れた?
 今はどうでもいいや。雨に振られても音楽が出来なくなるわけじゃない。
 巡回バスでたったの十分、既に定例の子どもたち特製ライブステージが作られているけど、午後はこのステージには上がれそうもないかな。

「お待たせ!」
「おっ、ようやく来たなホミカ。お前の番は三番目だけど、最初の方がもう準備終わってるから急いだ方が――」
「ごめんね、ジムリーダーになる準備して来るから今日の私のライブの番は飛ばして!」
「ちょ、ちょっとホミカ! どこ行くの!?」
「ヤグルマの森! 毒タイプのポケモンを手持ちにすれば、アミカともっと仲良くできるかなって思って!」

 大人の人たちが話していたけど、この時期のヤグルマの森は普段より毒タイプのポケモンが豊富に揃って、普段は見ることが出来ないようなポケモンもいるらしい。
 スピアーとかアリアドスとかはジョウト地方から来たアミカにとっては別に珍しくもないポケモンなのかもしれないけど、イッシュ地方では期間限定のステージのようなもの。ここで行かない手はないよ!
 普通の巡回バスで行くには少し時間が掛かるけど、この時間帯になるとヤグルマの森方面に向かうトラックが何台かいる。
 私は小柄な方だから乗り込んでもバレはしない。こうして何度かヤグルマの森の方まで出掛けこともあるし、森に入っても大通りを大して外れなければ迷うことだってない。
 適当なトラックを見つけて……乗り込む! 心臓がドキドキするけど、バレてないみたいね。直通トラックだから数十分も掛からないわ。早く到着しないかな。

「アミカ、喜んでくれるかな。きっと喜んでくれるよね? だって、私だったら嬉しいもん」

 古臭い街並みが徐々に遠ざかり、木々と草花に囲まれた景色が眼前に広がったけど、こうも天気が悪いんじゃ色取り取りの景色も魅力が半減。
 ジムリーダーになればきっとこれだけ広大な場所に大きなステージを構えて、何千何万人の人達の前でベースを弾いて、たっくさんの人の理性を天国の上まで吹っ飛ばせるんだ!
 その最前列にはアミカが立っていて、今まで見せたことも無いような笑顔で私を見上げて、私の音楽に心揺らされて感動する。
 寂しそうにしているアミカだけど、他人行儀なアミカだけど、何だかんだで私の話しにはちゃんと付き合ってくれるのよね。だから私も、彼女に近づく努力をするの。
 そんな明るい未来を想像してたのに、とうとう溜まりに溜まった雨が降り出した。傘を持って無いから、帰りは濡れながら走って帰ることになるんだろうな。

「さて、あのカーブで減速する時に……とりゃあ!」

 飛び出し成功! まだ雨がそれほど強くないし、さっさと森の中に入って雨風をやり過ごそうっと。
 太陽の光が分厚い雲で遮られてるせいで、ただでさえ暗い森はさらに暗く見えて、鳥ポケモンたちの鳴き声も混じってより一層怖く感じられる。うぅ、体中の震えが酷い。
 兎に角まずは行動あるのみ! あまり森の奥深くに行くと強いポケモンが出る確率が高いから、大通りの外れぐらいで良いかな。

「えへへ、何から捕まえようかなーフンフフンフフーン♪ っと、あそこに見えるはフシデかな? 確かアミカはペンドラー持ってたはず、お揃いになれる! よーし、今すぐゲッ……ト……」

 えっ、ちょっと待って。フシデって団体行動するポケモンだったっけ? 一匹だと思ってのに、目の前の数……な、何これ? なんで、なんでホイーガまであんなに沢山いるの!?
 フシデ達だけじゃない。スピアーやアリアドスが沢山って、多過ぎるよ!? しかもなんか良く分からないモルフォンのようなガーメイルのようなポケモンまでいるし、何で皆こんな見るからに気が立ってるわけ!
 聞いて無い、こんなの知らないよ私! 普段より多くの毒タイプのポケモンが生息する時期なのは知ってたけど、こんな沢山いてしかも殺気立ってるなんて教えてもらってないよ。
 た、戦うしかない。でも私はまだヨーテリーしか持って無いし、アミカはポケモンバトルのセンスがあるって言ってくれたけど、さすがに目の前のポケモンは数が多過ぎる。
 そう言えば結構な頻度でヤグルマの森に毒ポケモンの調査とか言って行くはずのアミカが最近は余りこの森に来なかったのは、これだけ大量の毒ポケモンがいるのを知っていたから?
 嫌だ、こんな沢山の毒タイプのポケモンと戦えるわけない。下手したら私、死んじゃうよ。嫌だ、絶対に嫌だよ!
 逃げようとして振り返ったら、もう後ろにはスピアーの群れとホイーガの群れが私を囲んでいた。どうして、私が何をしたって言うの。私はただ、アミカが喜ぶ姿が見たかっただけなのに……

「誰か……誰か助けて!」

 死にたくない一心で私は走り出した。だけど逃げられるわけがない。横から突っ込んで来たホイーガに簡単に弾き飛ばされて、地面に倒れて服が泥だらけになっちゃった。
 右手と右足に激痛が走った。スピアーの放った毒針が何本も私の手足に刺さって、リアルに死の恐怖を感じて走り出そうとしたら、今度は左足が後ろから引っ張られる。
 アリアドスの毒が染み込んだ糸、まるで熱で暴走した楽器の機材を直接当てられたかのように熱い。しかもなんだか体全体が痺れて来て、虚ろに見上げると目の前には、あのモルフォンのようなガーメイルのようなポケモンが撒き散らす毒の粉。
 体中が痛い。痺れる。焼ける。アミカはこれを知っていたんだ、だからこの時期のヤグルマの森に近づこうとはせず、私にも興味を抱かせないよう何も言わなかったんだ。まさか、私がこうすること知ってて、黙ってたわけないよね。
 どんどん体の感覚が失われている中で、一際激しい痛みが襲い掛かって来た。ホイーガが放った毒……悲鳴を上げた……気がする……意識が、遠退く……

「ペンドラー、ホミカの周りの奴らを薙ぎ払って!」

 声が聞こえた。聞き覚えがあるけど、こんなに激しくて情熱的な声は初めて聞いた。視界の端に、アミカが居た。何でか知らないけど、凄い慌ててる。
 私の体に刺さった毒針や振りかかった毒の粉をアミカは素手で強引に払って、必死になって私の体の様子を眺めてからその顔が青ざめた。

「死なないでよホミカ、絶対に死なせない。貴方が死んだら……私は……また、一人に……」
「アミカ……?」

 どうしてそんなに震えてるの? どうしてそんなに悲しそうな顔してるの? 何でそんなに、泣いてるの?

「どうして、何でこんな無茶したのよ! どんなに才能あったって、どんなに夢があったって……死んだら、そこで終わりなのよ!」
「泣い……てるの? アミ……カ……」
「当たり前でしょう! 後で覚悟してなさいよ、家で二十四時間説教するわ! アンタが隠し持っているロックバンドの写真集も没収する! やらなきゃいけないことがたくさんあるの! だから、死んじゃ……だめだよぉ……」

 初めて見た。アミカがこんなに私のことを直視して、こんなに大きな声で叫んで、こんなに感情を剥き出しにしたのを、私は今日ここで、初めて見た。
 さすがに二十四時間の説教は嫌だなぁ。それに何で私がお気に入りのロックバンドの写真集を机の中に隠してるって知ってるわけ、没収なんてされたら私の理性どころか良識までぶっ飛んじゃうよ。
 今日だけは、大目に見て欲しいかも。だって今日は、アミカの誕生日だし……ってそっか、アミカ、忘れてるんだね。多分。

「驚かせ……たかったの。私が……一人でポケモン……捕まえってこと……見せたくて。だって今日は……アミカの、誕生日……でしょ?」

 ほら、やっぱり今思い出したような顔した。本当にアミカってば、自分のことですら無関心なんだから。
 ちょっとの間黙っていたかと思うと、アミカの表情が突然なんか逞しくなった。こう言うのなんて言うんだっけ? 勇ましい?

「安心してホミカ。私は貴方を絶対に助けるよ、なんて言ったってポイズンガール……毒女だからね。品の無い言い方だけど、今は素直に認めるわ。私に任せて、私を信じて!」
「うん……私ね……別に毒タイプ……嫌いじゃ……な……」

 そう言えばアミカって、私が毒タイプのポケモンが嫌いだって思ってるところあったよね。喫茶店の時だってそう言う感じのこと言って来たけど、私は全然嫌いじゃないよ。
 毒タイプは怖いし、痛い。それはやっぱり、今でも思ってる。周りを毒タイプの虫ポケモンばかりに囲まれて、いつまた襲い掛かって来るか分かったもんじゃない。
 目の前が暗い。アミカが必死で何かをやってるのは分かるけど、何をやってるのか分からない。どうしよう、体中が寒い。別に冬でもないのに、雪が降ってるわけでもないのに、体中が寒いよ。
 まるで洞窟に閉じ込められたみたいね……嫌だ、寂しいよ。ねえ、アミカ……

「アミカ……寒い、暗いよ……」
「そりゃ雨が降ってるから寒いわよ! 森の中なんだから暗いわよ! そんなこと気にしてんじゃないの。全く傘を忘れるなんて、ホミカは本当にドジね!」

 声が聞こえた。大きな声で、やっぱり怒鳴ってる。近くで怒鳴ってるはずなのに、まるで遠くから聞こえてくるみたいに音量は小さい。

「あはは……そっか、傘……あの時忘れたんだ。不思議、理性が……ぶっ飛んで来た……」
「馬鹿! 阿呆! 濡れ幽霊! とにかく私を見なさい! 普段の元気はどうしたのよ! 私にライブを聞かせてくれるんでしょ!?」
「ライ……ブ……聞いて……くれるの?」

 なんか色々と酷いこと言われた気がするけど、どれもこれも、アミカが私を元気付けようとして言ってくれていることぐらいは分かる。
 そんなことはどうでも良い。あのアミカが、私のライブを聞いてくれようとしている。アレだけ騒音騒音って言ってたのに、私の勝手な行動だったのに。

「当たり前じゃない! 私は、雑音だらけだけど一生懸命なアンタのライブ……結構、好きなんだよ」

 だったら今すぐ聞かせてあげる!――そう言いたいけど、今の私じゃ、アミカを楽しくさせて理性を吹っ飛ばすことはできそうもない。
 でも大丈夫。アミカが私を助けるって言ってくれた。絶対に助けるって、だから私はアミカを信じる。
 海の底みたいに暗くて、雪山のように寒い。一つ一つ消えて行く体の感覚がまるで闇の中から伸びて来る手の様で、アミカが来なかったら私は、絶対にもう死んでいた。
 きっとアミカが私を助けてくれる。そしたら私は、アミカをライブに誘うの。絶対絶対、アミカが心の底から満足するような音楽を奏でて見せるんだから。
 暗闇の中に浮かんで来たイメージ。いつもの公園だけど聞いてくれる人が沢山いて、最前列にはアミカの姿が見える。夢のような光景が、この先に待っている。

「お願い……神様……創造神、アルセウス……ホミカを……ホミカを、助けて……」

 その瞬間に、光が戻って来た。体中の痛みは完全ではないけど一気に抜けて行って、失っていた体の火照りが脈を打ち始める。
 毒がなくなってる。アミカの言った通りだ、本当に助けてくれた! 信じてた、アミカなら絶対に助けてくれるって!
 まだまだ雨が強いけど、アミカが私の忘れた傘を持って来てくれてるはず。さっさとこんな怖いところをオサラバして、いつもの公園でアミカと一緒に午後のライブに飛び入り参加!
 早くアミカと一緒に……その手を握ろうとして、私は気が付いた。倒れていた私が起き上がるのと引き換えに、今度はアミカが……倒れてた……

「アミカ? あ、あれ。私……何で倒れてるの?」

 嘘でしょ、なんかの冗談でしょ? たまたま今日は色々とテンションが上がってたから、私をからかってるだけだよね? 嘘だよね、こんなの嘘だよね!?
 顔色が青ざめてる。手と足にスピアーの毒針が沢山刺さって、顔や背中には毒の液や毒の粉、アリアドスの毒糸にやられたのか左腕が真っ赤に腫れて皮膚が爛れていた。
 まるで私の毒を全てアミカが引き受けたかの様に、私と彼女の状態が逆転してる。後ろではペンドラーが必死に戦っているけど、私とペンドラーだけじゃアミカを護れない。
 どうしてよ!? 私を助けてアミカが倒れたんじゃ、意味無いじゃん! どうしよう、どうすればいいの? 私は毒のこと、全然分からないのに……

「ホミカ! 返事をしろ! どこだ!?」
「お父さんの声! お、お父さん! ここ、ここだよ! 早く助けて、アミカが! アミカが……死んじゃうよ!」

 森の奥から聞こえたお父さんの声に、私は縋る様な想いで必死に叫んだ。ハトーボーやウォーグルが飛んで来て、私達を囲んでいたスピアーやホイーガーを牽制して遠ざけて行く。
 お願い。死なないでアミカ……私が音楽を必死で頑張ったのは、アミカと一緒に大空まで吹っ飛ぶぐらいにハイテンションになりたかったからなんだよ。だから……死なないでよ……

「なん……で……?」
「馬鹿! 何で、何でアミカがそんなにならないといけないの!? 嫌だよぉ……ねえ、死なないでよぉ……」
「泣くな……ホミカ……」

 まだしっかりと意識がある! よかった、確かアミカが昔少しだけ言ってた気がする。意識が無いよりは、意識がある方が断然助かる確率が高いって!

「アミカ! よかった! 今お父さん達が来るから、きっと助かるから! だから、助かるよ! 大丈夫だよ!」
「ねえ、顔良く見せてよ……」

 凄く泣いてたらしい。涙でゆがむ視界の中でアミカは弱々しく自分の髪をいじり、大切にしていた髪留めを外して私の頭に手を伸ばした。
 普段から前髪が顔に掛かり過ぎてどうのこうの、濡れると幽霊みたいだのと言われてた。そんな私の前髪をアミカは上の方で束ねて、持っていた髪飾りで一か所にまとめる。

「こ、これってアミカが大切にしてる髪留めでしょ。な、何で今なの? ねえ」
「ほら……やっぱり……ホミ……上げ……が……」
「アミカ! 嫌だ! 目をもっと開けてよ! 私を見てよ! ライブを聞いてよ!」
「ねえ、ホミ……カ……お願い……聞いてくれ……る?」
「うん! 聞くよ! 何でも聞く! だから、死なないでってば!」

 本当に何でも聞く! また私が毒に侵されたって構わない! だからアミカは死んじゃ駄目! 絶対に死んじゃ駄目なの!

「ジムリーダーになった……らさ……毒タイプ……使って……くれない?」
「アミカだってなれるよ! いま私見てたもん! アミカのペンドラー、凄い強いじゃない! だからそれは、アミカが――」
「あぁ、そうだった……」

 言葉を遮られた。アミカの手が震えながら私の顔に近づいて来るけど、もう何も見えてないのか、その手が私の横をただ虚しく通り過ぎて行く。
 知らず知らずの間に、私はアミカの手を力強く握っていた。普通なら痛いぐらい強く握ったのに、アミカの表情は変わらない。
 握っているはずの手はまるで鉄パイプでも握ってるかのように人の熱を感じない上に、人の手を握っているのとは何か違う、無機物を持ってるかのように酷く重かった。
 私は分かってしまった。アミカは分かっていた。助からない。助けられない。でも私はその事実を認めたくなかった。
 お父さん達が来たのか、後ろの茂みが揺れる。私は絶対に振り向かない。例え後ろにいるのが危険な毒タイプでも、人を呪い殺すゴーストタイプでも、凶悪なドラゴンタイプでも、私は絶対に振り返らない。
 目の前のアミカが私を見ている。だから私はアミカを見る。神様、私はアミカに助けてもらった。私もアミカを助けたい! 一度で良い、人生に一回で良い! お願い、助けて……

「ホミカ……大好き……だよ……」

 初めて言われた。アミカが私の家に来てから、今日この瞬間まで、彼女が私のことを『好き』だと言ってくれたのは、今日が最初で、そして……最後になった。
 握っていた手が崩れ落ちる。アミカの瞳から光が消えた。消え入るような呼吸が聞こえなくなった。アミカが……死んだ……

「ア、アミカ? ねえ、嘘でしょ? ねえ……アミカ!?」

 分かっている。私がいくら叫んだところで、私がいくらアミカの体にしがみ付いて泣いたところで、アミカが私の名前を読んでくれることはもうない。
 何気ない日常はもう戻って来ない。簡単なおしゃべりもできない。アミカをライブに誘って騒音と言われるやり取りも、もう出来ない。アミカにライブを聞かせることは……



 あのあと、大人達がやって来た。虫ポケモン達を追い払ってくれたおかげで私は無傷だったけど、毒を受けたことに変わりはないから病院に連れて行かれた。
 大した日数も掛からずに私は退院を許されて、今は普段通りの日常にいる。私がどんな毒を受けたのか医者に教えたら、『そんな状態では数分放置されただけで、普通は絶対に助からない』と教えてくれた。
 毒の知識でアミカの右に出る者はいない。私は思い知らされた。アミカが死に際に私に頼んだ『願い』がどれほど途方も無い目標で、どれだけ長く険しい道のりなのかを。
 こんなことを考えている今でも、私はずっと現実から逃げる術を抱いてしまっていた。
 本当はアミカは生きていて、私を驚かせようとしているだけなんだ。もしくはこれは夢で、目が覚めると目の前でアミカが私のお気に入りのバンドの写真集を没収しようとしてたり、二十四時間説教を始めようとしてたり……
 そんなあるはずのないと分かっている希望や妄想は、全て壊される。私の足は自然とシッポウシティの外れにある墓地に向かっていて、気がつけば……アミカのお墓の前に立っていた。

「……アミカ、言ってたよね。私のライブを聞きたいって」

 こんなところで話したって、アミカに聞こえていないことぐらいは子どもの私でも知っている。でも、言っておきたかった。

「私はジムリーダーになって、ベーシストとしてもイッシュで一番になって見せる。イッシュ全土に私のロックを奏でて、皆の理性をぶっ飛ばして見せる。どこにいるか分からないけど、アミカにもきっと届けるから……待っててね、必ず届けるから……」

 持ってたお花を供えて、私は帰ることにした。あまり長くこの場所にいると、また泣いちゃいそうだから。



――頑張れ、ずっと待ってる……



「えっ?」

 声が聞こえた気がした。振り返ってみるけど、当然ながら誰も居ない。でも確かに、私にはアミカの声が聞こえた。
 ただの気のせい? 妄想の産物? 幻聴? そんな不確かなものじゃない、私には確かに聞こえたの。
 私は胸に手を当てて、大きく深呼吸をして前を見た。シッポウシティへと続く長い道のり、その先に見える古びた倉庫と建物の屋根、空を真っ赤に照らす太陽。
 先ほどまで泣きそうになっていたのに、今は勇気と喜びが私の心の中を走り回っている。眼を見開けば、こんなにもしっかりと道が見えるんだ!

「必ず届ける。その時まで、のんびりしててよ。アミカ」





 欠伸をしてソファーから上半身を起き上がらせる。何年も前の出来事を随分とリアルに夢見ながら、私は寝ぼけ眼を擦って脇に置いてあるベースの様子を確かめる。
 本日も絶好調。アミカの持ってたペンドラーに因んで、私のベースはペンドラーの形にしている。そう言えばペンドラー、いつの間にかどこかに消えてしまっていた。

「どこ行っちゃったんだろうね、たまには私のライブを聞きに来てくれて良いのにっと、挑戦者来てるの?」

 ポケモンバトルが繰り広げられてる音が聞こえる。最後のジムトレーナーを破ったのか、一人の少女が私の立っているステージの前までやって来た。
 ちなみに今の私が居るのはシッポウシティではなく、ここ数年で大きく開拓が進んだ全く別の街だから、探してくれていても見つからないって可能性がなくはないけど。

「ふぅん、見た感じ新人トレーナーだね。とんとん拍子でここまで来るなんて、これは久しぶりに白熱したライブが出来そうね」

 見ててねアミカ。もう少し時間が掛かるだろうけど、きっと届けて見せるから。

「いくよ! アンタの理性、ブッ飛ばすから!!」

メンテ
夢追い人の代償 ( No.4 )
日時: 2012/04/29 20:18
名前: 夜月光介

テーマB : 毒

−ポケモン全国図鑑568−

 ゴミぶくろが さんぎょうはいきぶつと かがくへんかを おこした ことで ポケモンとして うまれかわった。


 ボクがボクであると言う事を最初に認識したのは腐臭漂うゴミ捨て場からだった。
 周囲に誰もいない暗がりにたった1人でいたボクに声をかけてくれる者は誰もいない。
 時折ボクと違う姿をした二本の足で歩く者達が色々な物を捨てていくだけで、ボクに気付きもしなかった。
 たまに気付かれても悲鳴を上げて逃げ出されるか、悪態をつかれ捨てていく物を投げ付けられたりするだけで、近付いてもくれない。
 ボクは、孤独だった――

 常に日が差さない暗がりがボクの場所で、世界の全て。
 日が差している場所には沢山の二本足で歩く者達がいたけれど、傷付く事が怖くて外に出る事が出来なかった。
 ココがボクの生きていく場所。例え拒絶されようとも、居場所はあるのだと慰めにならない慰めを自分にかけて、何もしない日々を過ごす。
 そんな日々を送っていた時に、ボクは彼女と出会った。
 何時もの様にただ何もせずにいた時、明るい大通りの方から二本足で歩く小さな者がやってきて、通り過ぎようとする。
『待って!』
 ボクの声は多分正しくは伝わらなかっただろうけど、ボクを認識して近付いてきた。
「貴方も、私と同じなの?」
 ボクには何を言っているのかが解らなかったけど、ボクと同じで哀しそうな顔をしているなと思った。
 何かを取り出して、ボクに投げ付ける。不思議と避けようとは思わなかった。それは拒絶では無いと思ったから。

 カナエは人間の女の子だった。
 人間と言う生き物、ポケモンと言う生き物、ボクがいた場所、ボクが今いる場所。
 全てカナエがボクに教えてくれた。カナエは博識でボクが質問をすると何でも答えてくれる。
『ボクはポケモン?』
「そう、貴方はポケモン。ヤブクロンって言う、ゴミ袋から生まれたポケモンなの」
 人とポケモンの成り立ち、沢山の建物がある街、ポケモントレーナー、あるいはブリーダー……
 カナエは物知りではあったけれど、ボクと同じで皆から少し距離を置かれている女の子だった。
「私が羨ましいのよ、きっと」
 そう言ってカナエは何時も笑うけど、ボクから見ればとても羨ましい生活とは思えない。
 朝から夜まで勉強、勉強、勉強……学校でも塾でも自宅でも、殆ど休まずに勉強を続けている。
 本来ならボクみたいに友達や、仲間が欲しいと思うだろうに学校や塾では教師、家庭では親が常にカナエの事を監視していた。
「お前は他の有象無象の連中とは血統が違うんだ。立派な人間になる為に頑張らないとな」
 カナエのお父さんは何時もそんな事を言って彼女を机の前に立たせる。
 カナエのお父さんは街一番の大企業の社長で、奥さんはもういないのだそうだ。
 息子に恵まれなかった為に一人娘にかける期待が大きく、その為にカナエは苦しいとも哀しいとも言えずにただ耐えている。
 ボクはカナエと一緒にいて、彼女がボクと同じ孤独を抱えている事を感じていた。

 ある日カナエはボクと一緒に塾から家に帰るまでの僅かな時間を使って野試合を始めた。
 ボクの他にもカナエにはポケモンのパートナーがいて、ボクや他の仲間達と一緒に街のトレーナー達と対決する。
 最初は上手く戦えなかったボクも、必要とされる事が嬉しかったし、何よりもカナエの笑顔が見たくて必死に訓練を続けた。
 ボクは大きくなって力も強くなり、頼れる仲間として他のカナエのパートナーとも親しくなり、連勝を重ねる。
 何時しかカナエの噂は街全体に広がり、親に隠し続ける事が出来なくなってしまった。
『この街で最近勝ち続けてる女の子のトレーナーがいるらしい』
『扱いが難しいどくタイプのポケモンを使って勝ってるんだから、将来有望なトレーナーだろうな』
 そんな言葉が聞こえてくるのはカナエにとってもボクにとっても嬉しい事だったけど、彼女の父親には危険な噂でしか無い。
「お前にはそんなつまらん事をしている暇は無いハズだ。優秀な人間になる為の時間を無駄に浪費するつもりか」
 噂を聞きつけたカナエのお父さんは彼女を呼び出して激しく叱責し、言い分も聞かずに座敷牢の様な部屋に閉じ込めた。
「暫くその中で勉強しながら、反省しなさい」
 お父さんがいなくなった後、ボクはカナエと一緒にこれからの人生をどう生きるかと言う事に関して、真剣に考えなければいけないと思った。
「自由が欲しいの。人との触れ合いを捨ててまで、お金や地位なんて欲しく無い。生まれ変わりたい」
 涙を流してボクに訴えかけてくるカナエの姿を見て、ボクは今度はこちらが彼女を助ける番だと思い声をかける。
『だったら、逃げればいいんだ。この世界は頑張れば頑張っただけ報われる。自分のやりたい事できっと成功する事が出来るよ』
 ボク自身も変わりたかった。単なるパートナーとしてでは無く、彼女の人生を変える程の大きな存在に。
 翌日従順な振りをして部屋から出たカナエは長い時間をかけて父親に悟られる事が無い様細心の注意を払いながら旅の準備を始める。
 この世界に生まれてきたのならば誰もが憧れ、追い続けるトレーナーと言う職業……頂点を目指す為だった。

 ボクもカナエも孤独を感じ合う者同士惹かれあって、孤独から逃れ自由になる為に一緒に行動する様になった。
 お互いの利害は一致していて、ボクとカナエが目指す夢の為にはどちらが欠けてもいけない事が解っていた。
「明日、一緒に行きましょう」
 塾の帰りに僕を連れ歩きながらカナエがそっと僕に呟いてくれた時、心からボクは嬉しくなった。
 ゴミ捨て場にいる事しか出来なかったボクが、勉強を強いられそういう人生しか送れなかったカナエが、一緒に自由な旅を始められる。
 彼女のお父さんは哀しむかもしれないけれど、でもこの世界に生まれてきたからには自由の翼を広げて生きてみたい。
 ボク達は全て上手くいくと信じて疑わなかった。家に帰るなり彼女のお父さんに呼び出されるまでは。
「掃除婦がお前の部屋でコレを見つけた。随分大きなリュックだが……お前は何処へ行くつもりだ?」
 カナエのお父さんが座っている椅子も机も最高級品で、僕達が呼び出された部屋は紛れも無く彼女が嫌っていた権力と金に彩られていた。
「……私は自由になりたいの。自分の生きたい様に生きて、自分の目標を目指したい。1度きりの人生だから」
 企みが露見してしまった事でリュックが没収されるのを理解していたカナエは、涙を流しながら訴える。
「1度きりの人生だからこそ、石橋を渡らねばならぬ事が何故解らんのだ。お前には輝ける未来が待っている。
 良い生活をして、上流階級の者達と付き合って何不自由無く暮らせると言うのに、それを捨てる馬鹿が何処にいる?」
「ココにいるわ」
 確固たる決意のもと放たれた言葉に、カナエのお父さんは一瞬たじろいだ。
「自分の望んだ未来も描けない人生なんて死んでいるのと何が違うの。私はトレーナーとして世界を見てみたい。
 私の実力がどれだけ通用するのか知りたいの。生き方を選べない人生なんて嫌!」
 決意の重さを知っても尚、彼女のお父さんは説得を止めはしない。
「……カナエ、お前は今年で何歳になる?」
「16よ。旅に出るのが遅過ぎる位だわ」
 お父さんは感情のままに話すのでは無く、諭す様な口調に変えた。
「死んだ母さんの事について今まで話してこなかったのは、自分の恩着せがましい様な部分を知られたくなかったからだ。
 だがお前がそれ程意地を張るのならば、母さんの人生を話しておかなければなるまい」
 傍らでただ2人のやり取りを見ている事しか出来なかったボクは自分の無力さが心底情けなかった。
 出る幕は無く、割って入る事等到底出来ない。2人がそれぞれ抱えているものはボクより遥かに大きいものだった。
「お前の母さんはお前よりも小さい頃にトレーナーとして世界を巡り、自分の実力を示そうとしたが挫折した。
 世界の実力者と母さんとの間に立ちはだかる壁はあまりにも大きく、突破する事はとても出来なかったのだ。
 トレーナーは弱ければ無職のバックパッカーでしか無い。父さんと初めて出会った時の母さんの服はボロボロでとても人と話せる様な格好をしていなかった。
 父さんはそれでも母さんの容姿に一目惚れして結婚したのだ。母さんにとっては逆玉の輿の様なもので、贅沢な暮らしが送れる様になった」
 ボクはカナエの横顔を見たけれど、彼女の表情は決して変わってはいなかった。
「父さんが真面目な暮らしを送り必死に働いたからこそ、お前を今日まで育てる事が出来た。不慮の事故で母さんを失う前、私は何度も母さんに聞いたものだ。
 夢追い人だった頃の生活と今の生活。どちらが幸せかとね。母さんは何時もこう言ってくれた。夢だけじゃ生きていけないわと」
 カナエのお父さんの気持ちも解る様な気がする。今まで彼女の夢を阻もうとする悪い人としか思っていなかったボクにとっては衝撃的な話だった。
「今、お前は大事な時期を迎えているんだ。高校を無事に卒業して大学で懸命に勉強すれば、私のコネもあるから優秀な人材として就職する事が出来る。
 だが一時の夢の為に高校を中退してその先はどうなる。お前の履歴には何も残らんのだぞ。成功の道は限りなく狭く、厳しい道のりだ。
 それは私が母さんから聞いているからよく知っている。名誉と金を捨てて、針の穴よりも小さい奇跡に全てを賭けるなぞ愚かな事だとは思わんか?」
 普通の人にとってその天秤のどちらを選ぶべきかは明らかだった。1度トレーナーとしての道を選んでしまえば、もう後戻りは出来ない。
 また勉強をし直すと言っても高校を中退すれば山より高い大学の壁を突破しなければならないのだ。無理である事は明白だった。
『……ボクはお父さんの気持ちもよく解るよ。確率と言う点で言えばお父さんの言い分はもっともなものだと思う』
 カナエは驚いた顔をしてボクの方を見る。お父さんは僕とカナエの顔を見ながら1度頷いただけだった。
『でもボクは、最終的な判断はカナエに委ねる。ボクはカナエがどんな判断をしてもそれに従うし、一生ついていくよ』
 カナエはボクの方を見て微笑むと、お父さんの顔をしっかりと見据えながら自分の思いを告げた。


 あの時から2年の月日が経過した。
 ボクとカナエは自分達を閉じ込めていた籠であった街を飛び出し、イッシュ地方までも飛び出して現在はカントーで研鑽を続けている。
 強豪トレーナー揃いのカントーを選んだのは父親の助けを借りないと言う確固たる意思表示の為でもあり、また狭い世界しか見る事が出来なかったボクに世界の広さを教える為でもあった。
「じゃあ、今日も頑張ろう!」
 ボク達はバックパッカー同然の旅をよく2年間も続けてこれたものだと思う。1日の稼ぎは全てバトルでまかなう為勝てないと新しい服を買う事すら出来ない。
 何時もジムの宿舎を借りながら寝泊りをして移動を続ける。旅烏なので家にも全く帰っていない。孤独を感じる時もあっただろう。
「ダストダス、今日は勝って美味しいものを食べれたらいいね!」
 バッチは何個か集めたが途中で止まってしまい、今では野試合をしながらその日暮らしを続けている状態だった。
 それでもカナエは縛られていた時には見せなかった笑顔を何時もボクに見せてくれる。その笑顔だけでボクは救われる気がするのだ。
「正直、何時までもこんな暮らしを続けていけるワケが無いって言うのは私も解っているの。
 でも、ある程度の力はあるからポケモン関係の職業に就けれたらいいなって思ってる。今はまだ夢を諦めきれてないけどね」
 今になってボクは思う。本当はカナエにも未練はあったんじゃないかと。それでもボクを籠から出す為にこの道を選んだのでは無いかと思うのだ。
 怖くてとても聞けないけれど、その可能性もあるとボクは思っている。でも、ボクもカナエも楽しく生きている。それで良いんだろう……きっと。
「行こうか!」
 決して光り輝いてはいないけれど、何処までも広がる青空の下にある道をボク達は進んでいく。これからもずっと。


−○年×月△日の新聞記事−

 ライモンシティの有名な実業家であるマキノ氏が自宅で首を吊り自殺していた事が判明した。
 早朝にマキノ氏の自宅を訪れた家政婦が彼を発見。病院に搬送されたが間もなく死亡が確認された。
 マキノ氏は有名大学を卒業後建設会社で頭角を現し『建設界のドン』と呼ばれた程の人物で、彼の死により多くの著名人が衝撃を受けている。
 自宅からは彼の筆跡である事が明らかとなった遺書が発見され、トレーナーとして旅立った1人娘が離れた事により孤独となった胸の内が書かれていた。
 遺産は全て唯一の血縁者となった娘に讓ると遺書に書かれており、現在警察は所在が掴めていない彼の1人娘を捜索していると言う。
メンテ
「助け」の手 ( No.5 )
日時: 2012/04/30 20:47
名前: 美容室

テーマA「タネ」






ジャイアントホール

極低温の地で眠り、全てを凍らせる力を持つドラゴンがいた。

その強大な氷の力は、己の強靭な身体さえでも制御できず、身体ごと凍って深い眠りについている。

黒い鱗を纏い、幾多もの凝結した氷の結晶を体表のあちこちに携え、その様子はまるで氷山の一角を身につけているよう。

その氷の龍は、強大な氷の力を鼓舞する事も蹂躙することもなく、ジャイアントホールと呼ばれる空洞で、人に見つかる事なく、静かに停まっているという。

長い歴史の中で、このポケモンが人との接触がなかったのは、人気(ひとけ)のない静かな洞窟にあった唯一の氷柱を、巨大な身体を氷結させたドラゴンポケモンとは誰しも思わなかった為である。

故に、伝説と呼ばれる由縁がなく、伝承等や言い伝えも全く無かった。という訳ではない。

電気の力を纏う黒いドラゴン、ゼクロム。

火炎の力を持つ白いドラゴン、レシラム。

その双方のドラゴンの伝説が、古くからイッシュの地に存在した。

2体の龍が相対し対立する時、雷が広がり、炎が降り注ぐ。

イッシュの人々は、天災を伝説のドラゴンポケモンの2体に例え、その強大な力を伝説のポケモンとして崇め、伝承された。

・・・・しかし。

この伝承には矛盾がひとつあった。

.

イッシュ地方にて起こったプラズマ団による事件。『ポケモン解放』と立教し、ゼクロム・レシラムを捕らえて世界を危機にひんした事件があった。

それは、とある一人の年端のいかない若いトレーナーによる活躍で、事件は解決した。イッシュの伝説のドラゴンポケモンを手中に収める程の実力は、イッシュの新たなチャンピオンとして認可される程。

かくして、伝説のポケモンは、トレーナーの手に渡った。

・・・・・では何故、再びイッシュの地にて、雷が轟き、炎が襲う事態が起こるのか。

.

・・・・・答えは、

イッシュに生息する、もう一体の龍にある・・・。







「ウヒョヒョヒョ。壮観だな、いつ見ても。」

ホウエン地方という、南に位置する温暖地域にある、活火山のふもとに、俺達は拠点を張っている。エントツ山と呼ばれるホウエン唯一の活火山。周りの地域では広域にわたり、断続的な火山灰の被害を被っている。その火山は観光地にもなっており、ホウエンで1、2を競う標高の山を体感しようと、各地の旅行客や登山やトレーナーが足を運ぶ。山道や歩道の舗装整備、ロープウェイの設立等、人為的な保安がなされている。

そんな一目が増すようになった火山のふもとにて、俺達の組織は、穴をつくり、通路を掘り、基地をつくった。

正直に言うと暑苦しい。火口に溶岩が溜まっている現役の活火山の中に基地をつくると、蒸気が立ち込め、壁や床は摂氏百を越え、おまけに硫黄の臭いが鼻を突き刺す。この硫黄にやられて倒れた団員が何人も続出している。

流れる汗も、暑さで乾くような過酷な環境を、何故拠点にしたのかは、理由があった。それは、基地といっても仮設であり、常に根城にして活動する訳ではないから。

そして最大の理由は・・・。

「・・・グラードン、か。」

エントツ山の深部。周りの分子をすべて蒸発させるようなマグマが溢れ出す。ここまでくるとさすがに俺達も改装はできない。生命の侵入を拒むような地には、広大な溶岩の池、長い溶岩の河口。岩の裂目から黄色い閃光が光る。
そのマグマの池の真ん中に佇む、古代ポケモン『グラードン』は、俺達に気付く事なく、我関せずというように眠り続けている。その泰然としたオーラに、俺は『伝説』と呼ばれる由縁を再考する。
高台からその由々しき姿を見ていた俺と、隣にいるホムラという男。

「お前がマグマ団に入ってどれだけ経つ?」

「・・・半年です。」

「ウヒョヒョ!半年で幹部かよ!羨ましい限りだぜ。俺が長年チマチマしてんのがアホらしいってか!?」

隣で奇怪で特徴的な笑い方をする男は、マグマ団創立の時から、リーダーと共にいた。甲高い笑い声には、聞く者を見下すかのような印象を与える。が、まあ当人は自覚はないだろう。

「・・・そろそろ、定例です。」

「ウヒョヒョ、話逸らしやがって。」

俺達は、眠るグラードンの見張りを下っ端の警戒員に任せ、その場をあとにする。基地内の通路は、床は地面のままだが、壁にはパイプやパネルが取り付けられている。硫黄除去のファンが最近作られた。

歩くと道が舗装されたエリアに入った。重役以外の立ち入りを禁じるエリアだ。
・・・・俺がマグマ団に入ったのは半年前、持ち前の格闘センスとパワー、ポケモンバトルの実力を買われて、一躍幹部となった。その他にも、マグマ団に入団する人材を数十人提供した事により、組織の活動力は増大した。

俺とホムラはある部屋に入る。

「遅いぞ。早く席につけ。」

マグマ団リーダー、マツブサがテーブルの中央に座っていた。

俺達は頭を下げて所定の位置につく。

「・・・さて。グラードンの居場所はとらえた。資料によれば、グラードンを目覚めさせつつ、操作する事が可能な『紅色の玉』。場所は既に解っている。行動開始の見通しを早目にしたい。アクア団の動きもある。それまでに準備を整えろ。・・・では、各自報告。」

マツブサが、テーブルに座っている研究員に目配せし、各自資料を読み上げていく。

この組織の最終目的は、大陸の拡大。そのために、ホウエンに伝わる伝説のポケモン、グラードンの力を使い、人の住む土地を増やす。

リーダーのマツブサやホムラを始め、彼らは昔かつて、都市開発に従事している委員だったが、土地の高騰や貿易停滞等の問題を抱え、海を埋め立てて大陸棚を増加する案を持ち出したが、環境保全派の人間に妨害されて廃止。その後委員を下ろされた。彼らのやる事は私怨である。自らの考えを否定された悔いを憎しみに変えたのだ。

マツブサ達は有志を集め、陸地の素晴らしさを説きながら組織力を高めた。

・・・現段階では、海域を増やそうとするアクア団を警戒しつつ、グラードンの復活に勤しむ。

第二工程、天気研究所の占拠、トクサネ宇宙センターの占拠、アクア団の活動牽制及び壊滅。

課題はまだまだ山積み。グラードンの発見で浮足が立つかと思えば、意外にもマツブサは冷静だった。

「(・・・もう少し粘るか。)」

俺はそう思った。

定例が終わり、各自席を立つ。

「ヤシロ。」

マツブサが俺を呼ぶ。

「何でしょう、リーダー。」

「定例の間、辛辣な表情を浮かべていたが、どうした?」

マツブサは俺を見据えた。

・・・その洞察力は流石としか言いようがない。変にだまくらかすのも悪影響だ、・・・・少し揺さぶるか。

「・・・いえ、少し考え事を。」

「我々マグマに関する事であろうな。」


マツブサがしかめる。現在マグマ団は、活動が著しく厳しい状況だ。よって慎重性が問われるようになった。アクア団の件もあるが、最近子供のトレーナーが現れて、マグマ団の妨害をしていると報告がある。デボンからの『かいえん2号』の潜水艇設計図の奪取がうまくいかなかったのは、その子供が要因である。マツブサの機嫌も悪くなるわけだ。

「はい。海を画期的に埋め立てる案を考えています・・・・が、なかなか理論的に問題も多いので。」

「ふむ、興味深いな。話してみろ。」

「いえ、大した事ではありません。そこまで正確に考えが纏まっているわけではないので・・・。また纏まったらお話しても宜しいですか?」

「・・・・いいだろう。さあ、行け。」

俺達は部屋を出た。

「・・・ウヒョ。お前が言ってんのって、こないだの『寒暖エネルギー説』か?」

・・・ホムラには少し話していた。

「ああ、だが、大々的にうまくはいかないだろう。」

「ウヒョヒョ。理屈の話なら面白いぜ?地球上を無理矢理冷やして、マントルの温度を上げて活火山を活発に活動させる。発想はガキだが、永久に循環するしよ。噴火して陸が増えて、火山灰で地球が冷えて、また噴火。・・・話しゃよかったじゃねえか?」

ホムラはあざ笑った。

「そのうち話すさ・・・・。(そのうち・・・な。)」

.

20日後。

第三工程を終えた。

内容は、『紅色の玉』の奪取。

アクア団の動きが活発になり、先手を打とうとしたが、おくりび山にて鉢合わせし、『藍色の玉』を強奪された。

グラードンの宿敵、カイオーガは海を広げる力を持つ。そのカイオーガの力を操る『藍色の玉』を盗んで破壊する計画は見事に失敗。だが、『紅色の玉』は手に入れたからイーブンだ。

グラードン復活を翌日に控えた日だった。その日の定例に足を運ぶ。部屋に入り、所定の席に着いた。

マツブサがいつもより柔和な表情で話しはじめる。

「・・・時は満ちた。計画よりも早めになってしまったが、アクア団に先手を打たれる前にコチラから仕掛ける。・・・我々の最終目的は、『グラードンの復活』だ。力の制御・操作は課題が多い。グラードンを手中にする必要はない。グラードンをホウエンの地に放つのだ。そうすれば自然と力を発揮する事だろう。

・・・各自、ラストスパートをかけて準備を整えろ!アクア団を潰すぞ!我々を嘲笑ってきた奴らを見返す時だ!」

マツブサが怒号をあげた。その声色から、高揚が伝わってきた。

「・・・リーダー。」

俺は挙手をした。ここしかない。

「この間話した考案の件で。」

「おお、そうだったな。話してみろ。」

「はい。・・・この案は、グラードンの力の保険といったところでしょうか。グラードンの火山と地面の力を用いれば、簡単に海は枯れ果てるでしょう。しかし、グラードンの復活の度に出てくるのがカイオーガです。過去の資料や記録、古文書を確認してみても、必ず2体双方が出てきます。どちらか一体という事はありません。理由は断定出来ませんが、世界の均衡を保つためのシステム上と関係があるかと。


万一に備えておくべきだと俺は思います。そこで、このホウエンを始め、あたりの活火山の造山帯に、冷却拠点を置こうと考えています。」

「冷却拠点だと?」

「このあたりで活動している火山は、このフエン山のみです。

そこで、氷タイプのポケモンを捕獲し、ホウエンの海のどこかで集中的に寒波を生成します。次第に海が凍り、気候に変化が生じ、あたりは霰に見回れます。」

「それが陸地拡大と何の関係がある?」

「海から冷やした方が、より地表を冷やせます。温度は、より恒温を保とうと、冷めた部分を温め、熱い部分を冷まします。

地球の核やマントルは凄まじい高温です。急激に地表を冷やす事で、それに応じたエネルギーが集まります。そのエネルギーの影響を受けて、休止している山が活動を再開する可能性があるわけです。ホウエンでいえばおくりひ山やルネ、さらに海底火山も多いですから少なくとも。」

「ふむ・・・。冷やせば温度を上げようと、マグマを吹き出すという訳か。」

マツブサが神妙に思考している。

・・・もう一息だ。

「そのエネルギーは、復活したグラードンにも影響するかと思われます。海が凍ればカイオーガも戦闘に不利になります。

・・・以上が俺の考案です。如何でしょう?」

マツブサは顎に手を置いている。

「具体的な拠点は?」

「まだ未定ですが、マントル上にしようと考えています。」

「氷ポケモンというと、大変な数になるのでは?」

「遠方の地にアテがあります。この保険をつくる為には、少し時間と労力がいります。しかし、成功すれば、確実に陸上拡大に結びつくかと。」

研究員とのやり取りが続く。

・・・俺はマツブサの反応を見た。

「・・・保険、か。確かに必要事項だ。・・・いいだろう。ヤシロ、やってみろ。」

・・・・・・。

「・・ありがとうございます。少しの間、組織を離れる事になりますが。」

「構わん。ヤシロはよくやってくれた。後方支援隊として指揮をとってくれ。グラードンは我々に任せろ。」

俺はこのあと、必要な具体的な費用や人員を提案し、承諾を得た。

俺は部屋を出て、自室に向かった。

自室の簡易ベッドに腰を下ろした。

「・・・・・・・さて。」

・・・・・・行くか、イッシュに。









『助ける』とはなんなのか?

意味をいうなら、人に対して力になる、人を救済する等に当て嵌まる。俺はあの日、紛争地域の爆撃に巻き込まれ、両親が死に、俺は重傷を負った。痛みも感じない程の火傷を負いながら、重たい身体を引きずりつつ、戦禍から逃れようとした。
立ち込める砂塵。照りつける暑い太陽。遠方から聞こえる銃撃の音。ポケモンの雄叫び。燃える炎。人々の叫び。

俺は、自分自身の運命を呪った。
俺は何もしていない。生活の為、家計を支える為に、店頭販売をしていた。貧しくて治安の悪い街だったが、それが日常だった。それを一変に覆すようなクーデター。反政府の過激派によるテロ活動。理由はよくわからないが、多分不平等条約の問題や、宗教間の亀裂が原因だろう。

死に逝く身体を鉄板のように焼けたアスファルトに身を預けながら、俺は意識を投げ捨てた。

・・・くだらない生涯を過ごしたと回顧した。まだ12歳だった。親は爆撃に焼かれて、仮設学校に行っていた時の友達は銃で撃たれ、毎日俺の店に来てくれた女の子もポケモンに噛まれて死んだ。

故に、自分だけ何故助けられたのか、未だに受け止められないでいる。

意識を取り戻した時、俺は地区外の病院のベッドにいた。体中は包帯で巻かれ、腕や足はギブスでまかれ、点滴がついていた。
今の自分の状態を、何度もありえないと否定した。俺は死を選んだ。だが俺は生きている。それは何故だ。

「気づいたか?」


ベッドの横のイスに座って話しかけてきた男。筋肉質で剛健な体格に、あちこち汚れた白い胴着。泰然とした雰囲気から、強いオーラをかもしだしていた。

それが、俺とシバとの出会いだった。

「・・・なぜ、助けたんだ?」

俺は喉の痛みを堪えながら尋ねた。

「おいおい、俺に見殺しをしろというのか?」

シバは苦笑する。

「・・・そうじゃない、オレは、死のうとしたんだ。・・・だがアンタはなぜ俺を助けたんだ?・・・なぜ、オレだけ?」

自分で何度考えてもわからない疑問。目の前の男の真意が不明だった。俺は男の答えを待った。

「何を言ってる、人を助けるのは当たり前だろう。」

シバは言った。
からっきし質問の答えになっていなかった。俺は益々、『助ける』という意義に疑問を深めてしまった。

シバは、世界各地を旅しながら、武者修業をしている。格闘家という職業だそうだ。稼ぎは、ポケモンを闘わせてファイトマネーで賄うそうだ。
怪我が治った俺は、シバについていく事となった。いや、無理矢理連れていかれたといった方が正しいな。

シバは、各地の人の助けになり、ポケモンの助けになる活動をしていた。慈善活動というやつだ。
俺は長年、シバの側で付き添いながら、過酷な旅を続けた。毎日鍛練を行い、護身術、格闘術、筋力をつけて、体力を上げて、日々自分自身を追い詰める厳しい日課を共にした。

シバ曰く、鍛練をするのは力を強くする為ではなく、心を鍛える為だと常々言っていた。

「自分の為にか?」

俺は、白い胴着に付着した汗や泥を拭いながら、シバに聞いた。

「それもあるが、人と人が繋がっていく為にも、力が要るんだ。」

人はひとりでは生きてはいけないと言いたいのだろう。だが、ここでいうシバの言葉は、人を助ければ自分に返るという意味合いではない。『情けは人の為ならず』という諺があるが、格闘家として人を助ける事は、少々異なる意義があるようだ。

だから、俺はわからないでいた。

なぜ俺は、この男に助けられたのか。

「・・・シバ。」

「ん?」

「もう、5年になるな。シバに助けられて。」

「ああ、そうだな。」

「・・・未だにわからない、何故俺を助けてくれたのか。何故俺を連れていったのか。教えてくれないか。」

「・・・・・ふむ、ヤシロはあの時死にたがっていたと言ったよな。」

「ん、ああ。」

「俺はそういう風には見えなかった。荒れた道路に疼くまっていたお前は、一生懸命に生に執着していた。・・・・・ヤシロ、助ける助けられるのに理由は要らない。お前が小さい時は、親がお前を守ってくれていたはずだ。
人が困っている、誰かが泣いている、見ず知らずの者が死にかけている、人はな、支え合わなくては生きてはいけない。
・・・・・だが、いつの時代でも、生きる事を投げ捨てる人間がたくさんいる。・・・『心』の問題なんだ。力溢れて『心』なき者は暴力をふるい、力なく『心』なき者は押し潰されてしまう。
体裁だけ助けるのはただの情けだ。だが俺達が必死に鍛練をし、一生懸命に生き、技を磨き、『心』を鍛えていく事で、本当の意味で助けが生まれる。

・・・それが、ヤシロを助けた理由だよ、だいたいはな。」

「・・・・・・・・。」

シバは、人間として、また格闘家として俺を助けたという事だろうか。

だが、まだよく解らないでいた。

シバが何故俺を助けたのか。

助ける意義を、本当の意味で理解したい。

俺もシバのように生きれば、きっと『助ける』理由がわかるかもしれない。

だから、俺は格闘家となった。シバ式和桐(わどう)流。俺が17になり、今は一人で慈善活動をしている。

シバは、カントーで四天王に復帰していて忙しいようだ。・・・小耳にはさんだが、娘が出来たとか言っていたな。

今度カントーに顔を出してみるか。

俺はポケモンを持ち、胴着を着て、世界各地へと旅を続けた。


『こちらシンオウ地方のキッサキから中継でお伝えしています!今私は中継車の中にいるんですが、御覧のように全く前が見えません!雪が霰が霙がフロントガラスを叩きます!凄い風です!先程までシンオウ北部には避難命令が出されていましたが、政府の発令により、外に出るのは非常に危険な状態な為、外出禁止の命令が下されました!え〜現在外出禁止と発令されております!まだ外にいる人は、非常に危険ですので!速やかに近くの建物へと避難してください!・・・・・たった今入りました情報によりますと、水道被害を受けた件数が1029件へとのぼりました!千を越えています!突然の大吹雪に兼ね、氷点下の気候となった現在、キッサキを中心に水道の凍結の被害が出されています!その他、道路の凍結により、玉突きや衝突による事故が多発しています!警察は、キッサキ市内の車両交通を規制し、全般的に車を停めるよう命令を出しています!キッサキ市民の皆さんは、車を動かさないで下さい!滑走の恐れがあります!絶対に動かさないで下さい!』

中継と画面の右上にラップされ、それほど若くない女子アナウンサーが、声を張りながらテレビに映っていた。
その小さなテレビを見上げるように居酒屋にいる仕事帰りの男達はざわざわと見ていた。
季節は夏。
いくらシンオウ地方が雪国だとしても、テレビから見える光景を、異常と呼ぶ以外にない。

カントーのヤマブキの駅前通りの小さな居酒屋。酒とタバコの臭いが鼻をさす。しかし、その場にいる皆は、片手ビールに小さなテレビに釘付けになるようにかじりついていた。

「おい!雪が降ってるぜ!」

ガラガラと戸を開けた、工事現場帰りの男が居酒屋に入ってきた。

「なんだなんだ!?」

その場にいた男達は外を見た。

夏の夕方はまだ明るく、茜色の空が美しい。そんな趣のある情景を隠すような薄暗い雲が広がっていた。そしてシンシンと小さな雪が微量ながら降っている。

「・・・どうなってんだ?おりゃまだ、2杯しか飲んでねぇぜ?」
「は、は、ハックシーー!!さ、寒い!」
「なんだ!?急に寒く?」
「おい親父!なに冷房つけてやがる!とっとと暖房にしやがれ!」

・・・季節は夏。異常はシンオウのみではなかった。

『ザ、ザーーー・・・オウ地方は大吹雪に見舞われ、外に出られない状態が続いております。寒風が凄まじい勢いで吹き付けており、平均風速9メートルを記録しております!気象グループは原因を追求していますが、今のところ解っておりません!気象グループの発表によりますと、シンオウの他にも、カントー、ジョウト、ホウエン、イッシュ、オレンジ諸島等、中央大陸の活火山造山帯を中心に被害が予想され、シンオウのような気候が広がると予想されています。この気候の特徴としましては、北方の大陸の寒帯とほぼ同じで、氷点下の空気が北から強い風となって気温を下げていきます!現在異常な寒冷前線が広がっており、予想によりますと、中央大陸全土に広がるまで8日と発表がありました!地域のみなさんは、水分の確保、避難の準備、保温対策を進めて下さい!異常な寒帯気候になれば、水道が凍結する恐れがあります!・・・・・こちらはジョウトコガネラジオからお伝えしています!只今入りました新しい情報によりますと、先程まで、ホウエンで起きていた異常気象と関係が強い可能性があると気象グループから発表がありました!ホウエンの海域を中心に断続的に起�
3$C$F$$$?43$P$D$d9??e$N1F6A$+$i!"5$8uJQF0$NF0$-$,$"$k$H8+$FDI5f$,?J$s$G$$$^$9!#:#$N=j$OCGDj$G$-$^$;$s$,!"=8CfE*$J>e>:5$N.$H2<9_5$N.$N1F6A$K$h$j!"%b%s%9!<%s$KJQ2=$,@8$8$?0Y!"KL6K$N4(5$$,Mp5$N.$H$J$C$?$H2>@b$,N)$?$l$F$$$^$9!#$7$+$7!"%l!<%@!<$r3NG'$9$k$H!"6ICOE*$K5$29Dc2<$,5/$3$C$F$*$j!"%b%s%9!<%s$NB>$KA0C{$,$"$k$+D4$Y$r!&!&!&!&%6!"%6%6!<!<!<!#!Y&#65533;

ジョウトのアサギシティの海から、薄暗い雲が近づいてくる。すべての空を包み込むような巨大な雲の層。
まるで、今海間見える茜色の空が、この先見れないかもしれないという予感をさせた。

海をみながらラジオを聞いていた少女は、ポケギアを切り、港町に戻る。

その少女は再びポケギアの電源をつけ、歩きながら電話をかけた。

『・・・・なんだ?』

「あ!ラック!?久しぶりーー!!」

『・・・俺は何だと聞いてんだ。』

「ラック、今どこ?寒くて風邪ひいてない?」

『・・・・・ラジオの話か。俺はホウエンにいる。・・・そっちはどうなんだ?』

「あ。心配してくれてるんだ〜♪」

『アホか。誰がお前なんか。』

「こっちはまだ大丈夫!でも段々雲が近づいてるから・・・・クシュン!」

『・・・・・お前、まさかこの状況で泳いでたのか?』

「えへへへ〜♪だって依頼だもん♪」

『バカだろ。風邪ひけ。』

「えへへ〜♪」

『褒めてねぇ。』








歩けば歩くほど、人がごった返す。
建物の間の通りは、テントを張って商売に精をだす者が列をずらりとつくっていた。
皆、破れた服やローブ、ボロボロの靴を履きながら歩く姿を見て、治安の悪さが予想できる。まあ、俺もボロい胴着だからひとのことは言えないが。

・・・コロコロ・・・。

俺の足に何かが当たった。

サッカーボールだ。

どの方向から転がってきたのか、辺りを見回すと、黒い肌の小さな少年が手を振っていた。俺は蹴ってボールを返してやった。

ガッシャアアアン!!

・・・あ。

「コラアア!商品が台なしだああ!」

生まれて初めてのパスは、少年の方向へ真っ直ぐ軌道を描くはずだった。が、現実には右に大きく飛び、スピードはないが高速で回転しながらそのボールは、店の棚に突っ込んだ。

・・・俺は頭を何度も下げて、金を払って割れた陶器のような商品を受け取る。

あの少年が一部始終、腹を抱えて笑っていた。

「がはははは!兄ちゃん、おっかしぃ!」

自分の膝をバンバンと叩きながら笑いを抑えようとする。

「・・・るさいぞ。ホラ。」

俺はサッカーボールを渡した。

「兄ちゃん、芸道人?」

俺の服をまじまじと見ながら言う少年。

「ま、そんなもんだ。」

格闘家というのは伏せておいた。まあ、シバが自分から格闘家を名乗るなと言ってたし、というか、この格好で気づけ。

「変なの。ま、いーや。遊ぼうぜ!俺ひとりで退屈だったんだ!」

少年が俺の手を引っ張り、グングンとこの場から離れていく。・・・意外と力があるな、細身な手足で。

俺と少年は、しばらく広場でサッカーをした。ゆっくりだったら俺にでもパスは出来た。しかし、わざわざ他人を捕まえてサッカーに誘うのか・・・。

「友達は忙しいのか?」

俺はパスをしながら聞いた。

「いや、みんな病気で死んだよ。」

パスを片足で受け止める少年。

「・・・そうか。」

くだらない事を聞いた。後悔の念が立ち込める。

「いいよいいよ!気にすんな!行くぜ、バナナシュッ!!」

少年は俺を宥めて笑顔になり、シュートを出す。

ドン・・・パシィ!


綺麗な曲がるシュートだった。足では止められない高さだった。俺は跳躍して手で弾き落とした。

「おお!やるぅ!」

「だが、ハンドだ。」

「あれ?PKだぜ?」

「・・・パスワークじゃないのか?」

「どっちでもいいじゃん!へへ!」

・・・俺達は、日が暮れるまでサッカーをした。その間その少年は、本当に楽しそうな表情をしていた。

「俺さ、サッカー選手になるんだ!」

サッカーボールをリフティングしながら、目の前の少年、ラルクは言った。

「ポジションはオフェンス!とりあえず練習しまくって、相手のカットをトラップでかわし、そして最高のMFにサイド!そしてロングパスがゴール前に来て、来て、俺が!ヘディング!!ィシューー!!」

自演しながら夢を語るラルクは、本当に輝かしく思えた。

ラルクは、ボールを俺に投げて渡した。

「ヤシロー。ありがとな、今までで一番楽しかったよ。」

ニッと笑ったラルクは、歩いて帰っていく。

・・・・?

俺はラルクを追いかけた。

「おい、ボール。」

ラルクにボールを手渡すが、ラルクは手で遮る。

「いいよ、ヤシロにやる。」

ラルクの表情に、曇りがうつった。
・・・なぜだ?サッカーが好きなはずだろう?さっきまでの抑揚とした表情が消え、今では愛想笑いだ。

「ボールがなけりゃ、サッカーできないぞ。」

俺は言う。

「病気なんだ、俺。もうすぐ死ぬ。」

・・・衝動が駆け巡った。

「白血病みたいなやつでさ、一年ないんだって。」

苦笑いなのが見て取るようにわかる。

「・・・骨髄のドナーはないのか。」

「ドナーって何?」

ラルクの格好は、ハエがたかるボサボサの頭に、黄ばんだ緑のTシャツ。ジーンズをちぎったかのような半ズボン。
医者にかかわる金もないのがわかる。

「へへ、ヤシロ。俺さ、友達とサッカーなんてした事ねぇよ。」

ラルクは言った。

「だってさ、仲良くなってから死んだら辛いじゃんお互い。俺が病気だって知ったら、絶対に気ぃ遣うって。ヤダもん俺。」

「・・・健康体そのものに見えるがな。・・・・・だから旅人とかを誘ってたのか。」
「・・・ん。ゴメンな。」

「そうじゃない。」

俺はボールを半ば無理矢理押し付ける。

「何故諦めるんだ、しかも今更。」

サッカーをして、サッカーを語っていた時の無邪気な笑顔を見れば、どれだけラルクがサッカーが好きか、誰にでもわかる。

病気では確かに大人になる頃には命を落としているのかもしれない。というか、普通なら今ごろ絶望に苛まれて落ち込んでても可笑しくない。白血病だと知ってなおサッカーボールを持っていたラルクが、何故今俺にボールを渡すのか?

「・・・本当に楽しかったんだ、サッカー。ヤシロと一緒にやれて。俺、今までボールがあれば壁とか使えばサッカーできると思ってた・・・。
・・・でもさ、サッカーは人がいなきゃ出来ないね。ヤシロとやって解った。・・・・・だから、ヤシロにあげる。じゃあね。」
ラルクは走ってその場を去る。

・・・・・俺は、ラルクを助けてやりたい。

しかしどうすればいい?
病気を治す為に金を稼ぐ?いや、骨髄を移植する相手がいなければ話にならない。なら行って励ますか?いや、それは悪手だろう、ラルクには重荷にしかならない。

・・・・・・・・・・。

ラルクは俺から逃げるように走りつづけ、姿が見えなくなりかける。

「ラルク!!!」

俺は大きく張り叫んだ。

ラルクが止まった。夕焼けの逆光でよく見えないが、きっと俺の声に気付いている。

・・・・・・夢なんだろう?

「俺はしばらくこの街にいる!!だからまた明日来い!!相手してくれ!!」

俺は手に持ったボールを落とし、ゴールキックを放った。

ドンッ!!

俺の初めてのゴールキックは、高く放物線を描き、そして。

・・・・・パリィィィン!!

「こらあああ!!誰だウチの窓を割ったのは!!?」

・・・・・・・。

・・・・・・・少しはカッコつけさせろ。

俺はその住まいの方に頭を下げて、弁償金を払い、ボールをぶつけられた。

「がっははははは!」

隣にはラルクが、膝を叩いて爆笑していた。

「・・・・・//」

俺は、ラルクにボールを渡す。

すると、すんなりボールを受けた。

「ははは。しょうがないか。ヤシロ下手くそだしな。また明日サッカーやろう!」

そしてラルクは走りながら帰路を辿った。
ラルクの表情は、さっきとは比べものにならない。希望に満ち溢れた、幼げで明るい子供の顔をしていた。

・・・・・よくわからないが、きっと俺はラルクを助けてやれたような気がした。・・・有料だが。

.

しかし。

ラルクは死んだ。

.

俺はラルクの家を探し、街を走り回る。

そしてラルクの住まいに駆けつけた。

父らしき人物がひとり、ひっそりと泣いていた。

「・・あ、あんたは?」

涙を拭いながら、ラルクの父は聞いてきた。

「俺は・・・。」

友達か?知り合いか?
・・・・・いや。

「俺は、ラルクと今日、サッカーをする約束をしていました。」

「・・・・・・そうか。」

俺は、ある部屋に案内された。そこは小さな倉庫で、中には農具や掃除用具などが壁に立て掛けられ、ホコリが舞っていた。その部屋の中央に、一辺70センチくらいの木の箱が置いてあった。

俺は蓋を開けた。

・・・・開けなければよかったと、そう思った。

半年前、ラルクが急に倒れ、頭痛を訴えながら意識を失った。ラルクの父はなけなしの金をはたいて病院に連れていった。
余命一年。その言葉は両者にとって重すぎた。しかし、ラルクはサッカーをする事で気を紛らせていたのだろう。無理をして笑顔を取り繕うラルクは、父に心配をかけまいとしていたのだろう。父は胸を痛めた。

しかし、信じがたい出来事が降りかかる。ラルクを一度診てもらった病院に、街一番の有権者が来た。息子の心臓が病気らしい。院内の子供のリストに、ラルクの名前が明記されてあったのをいい事に、ラルクの心臓を差し出せと言ってきた。
ラルクは余命1年。白血病以外は健康体である。一方にとっては吉報で、一方にとっては最悪だった。

有権者には逆らうな。それがこの街で生きる為のルールでもあった。

ラルクの遺体の左胸には穴が空いていて、塞いだ跡もなかった。

俺とラルクが約束したその日。

その日は、ラルクが死ぬ日だったのだ。

昨日、ラルクはどんな気持ちで俺にボールを託したのか。

そして俺は、何故つき返すような軽はずみな行動をしたのか。

頭がグルグルと輪廻する。

俺はラルクの遺体の入った蓋を閉めた。

部屋の外へ出る。

父が、俺にあるものを渡してきた。

・・・俺が昨日ラルクに渡した、サッカーボールだった。

「ラルクからです、ヤシロさんへと。」

父は、俺を家から閉め出した。


家の前で呆然と立ち尽くしてしまう。

手に持ったサッカーボール。

投げ捨ててやろうか?

そう思ってボールを睨むように一瞥する。

・・・・・ボールに、何か書いてあった。

ミミズのような文字で、大きくマジックでこう書かれていた。

.

『ちゃんとゴールしろよな!ヤシロ!』

.

・・・・・俺は・・・・・・どうすればよかったんだ・・・。

俺は泣いた。大声で泣き叫んだ。

俺は・・・助けることが出来なかった。

助けたつもりでいた自分が・・・腹立だしかった。

.

.

.

その後も世界を廻って旅を続けた。

いろいろな人と出会った。

さまざまなポケモンと出会った。

彼らは、必死に生きていた。

そして、そんな彼らを迫害する人間がいた。

俺は、そういった奴らから彼らを助けてやりたかった。

・・・・・だが、旅をする度に辛さが募った。

学院で虐められている子の自殺を止めた事があった。俺はなんとか生きて欲しいと、武道を教えた。身の守り方、闘い方、力のつけ方等。そして最後に、『俺が教えた事は絶対に使うな』と教えた。「なぜ?」と聞いてきたから俺は、『武道は喧嘩の為にあるんじゃない。負けない心をつくる為にある』と教えた。

その子は、学院の登校を再開した。最初なんとか耐える事が出来た。

しかし、虐めは終わらなかった。

周りはポケモンを使い始めた。野生のポケモンと偽って、その子を影から襲った。その子は、正当防衛でポケモンを追い払った。

『ポケモン虐待』『暴力男』『反トレーナー』

そんなあだ名がついた。

その子は屋上から飛び降りて死んだ。

彼が机の中に残しておいた遺書には、こう書いてあった。

.

【ごめんなさい。武道を正しく使えなくて、暴力にしてしまって、ごめんなさい。ごめんなさい。】

.

・・・・・俺は、助ける意味を知りたい。

.

.

.

.

俺は28歳になった。

シバが四天王の座を辞して、2年が経っている。
理由は解っている、俺を探す為だ。

俺は、シバが受け持っていた道場に向かい、そこの道場生を集めて回った。
シバは、道場をつくっているが指導はしていないのは知っている。だから、体裁上そいつらは、シバの弟子の俺に肖ろうとついて来た。

・・・そして、ジョウトのシロガネヤマにて。

シバと対峙した。

「・・・ヤシロ。」

シバが言った。

「・・・・・10年ぶりです。」

「マグマ団に入るというのは本当か!?」

俺の言葉を遮るように、シバは言った。

「・・・ええ。しっかり考えて、決めたことです。」

「・・・マグマ団は、ポケモンを悪用し、自分達の都合のいいように好き勝手する組織だ。認めるわけにいくか!」

・・・・・人間なんて、どいつもこいつも都合がよけりゃいいのさ。

「・・・シバ師範。」

「・・・・・。」

「俺は、『助ける』事とはどういう事かを知りたくて、世界を旅してきました。そして、シバ師範が、俺を助けてくれた時の、貴方の気持ちを理解したくて、世界中の人やポケモンを『助け』てきました。

・・・・・結果、駄目でした。」

「なに?」

シバが顔をしかめる。

「シバ師範、貴方は俺に生き方を教えてくれました。お陰で俺はこうやってこの場に立っていられます。
・・・・・貴方の言う通り、人は一人では生きてはいけません。誰かが支えてやらなくてはなりません。」

「・・・・・。」

寡黙にシバは真剣に聞く。

「死にゆく子に手を差し延べ、落ち込んだ子に希望を与え、俺は繰り返し繰り返し、懸命に生きてきました。

・・・しかし、俺は気づきました。・・・俺達は、勝手で残酷な生き物だと。

天は二物を与えずといいます。人間には知能を、ポケモンには力を与えました。人間は知能で繁殖してきました。文明も、文化も、秩序も、そして心も。・・・故に、俺達人間は当たり前だと思っています。交錯した社会が、飽食の社会が、貧しい社会が。

・・・・・真面目に生きていく子供達が、バカを見て死んでいく。

・・・・・俺は、俺はそんな彼らを助ける方法を思いつきました。」

・・・人はみな生き物だ。ポケモンも、動物もしかり。

助け合って生きてゆかなくてはならない。

繰り返される訴訟や戦争。

反発する意志。

すべては、人間が自分勝手につくった社会やルールが間違っている。

なら、それを取り除こう。

俺は、これ以上生まれてくる子供達を苦しめたくない。

0からやり直そう。

かつて、地球上からひとつの有機物が、生命が生まれた時へと。



「俺は、地球上の全生命体を絶滅させる。」



「な!!!?」

シバは驚愕した。

「俺は本気だ。」

「・・・・・・ヤシロ。・・・お前は一度考えたら、最後までやる奴だ。・・・いまさらどうこう言うまい。」

シバは体から闘志を吹き出す。

俺を睨みつけるように言い放った。

「ヤシロ、お前は間違っている!俺が止めてやる!お前を助けてやる!」

シバが構えた!

「・・・・・助けるか・・。」

俺は、ドグロック、ニョロボン、エビワラー、バオンブー、カイリキーをボールから出した。

シバは、イワーク、サワムラー、エビワラー、カイリキー、カポエラーを繰り出した。

「考え直せ、ヤシロ!」

「・・・マグマ団には入る。既に貴方の門下生はマグマ団に送り込んだ。

・・・お前ら!俺に気合い玉だ!!」

「ドク!」
「ニョロ!」
「エビ!」
「リッキーー!」
「バオーーー!」

俺のポケモン5体は、気合い玉を発動し、各自パワーを右手に集め。

ドゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォォォンンンン!!!

俺に集中放火した。

「な!!ヤシロ!!正気か!!?」

シバは目の前の惨状に驚きを隠せない。弟子のヤシロがポケモンを出し、気合い玉を命じたと思えば、ポケモン達は躊躇いもなくヤシロを攻撃した。

・・・だが、疑問が生じる。
5つの格闘ポケモンのパワーがぶつかれば、その反動は凄まじいはず。

故にシバは身震いした。

なぜ、反動の爆風が生じないのか。

そしてなぜ、ヤシロから凄まじいほどの闘気が溢れてくるのか。

気合い玉の光が消えた。

中からヤシロが出てきた。

「・・・ヤ、ヤシロ・・!?」

シバは言葉を失う。俺の黒い髪は、さっきと変わって白髪になり、顔や胸板の肌が綺麗に光る。顔立ちもすっきりしていて、精練された身体がシバの目の前にあった。

「シバ。一対一だ。」

「・・・・・よかろう!」

シバは気を発した。

「《観空大(かんくうだい)》!!!」

シバは技名を放ち、俺に突っ込んだ!

そして、俺の目の前で消えた。

「・・・。」

俺は気配を探る。

俺は首を下げた。

ブゥゥオオワン!

骨を切断するような蹴りが、ヤシロの背後から襲うが、空振りに終わる。

「がぐっ・・・!」

俺はシバの首と水月(みぞ)を突き、捕らえた。

「終わりだ。」

ボキィ・・・・!

シバは地面に叩きつけられ、何度も転がる。

シバは息絶え絶えに、顔を青くした。
首を折られた。

俺はシバにトドメを刺す。

「・・・師範、いままで、ありがとうございました。・・・・・さようなら。」

ズボッ・・・!!!

.

.

.

プルルルル・・・!

発信機から通信が入る。

俺は通信を繋げた。

『ヤシロ!貴様!どういうつもりだ!』

マツブサの怒号が聞こえた。

「・・・何か?」

『ぐっ・・・今どこにいる!』

「空の柱です。」

平然と答えた。

『・・・なんだと・・・、ヤシロ、謀ったか?』

「ええ。」

『・・・・・この異常な吹雪に冷気。まがいもない貴様の仕業だな。何をしたんだ!』

「お疲れ様でした。あと、人材提供や費用援助、非常に助かりました。」

俺は通信機を切る。その通信機を空の柱の屋上から投げ捨てた。放物線を描いて落ちた通信機は、途中で氷づけになって粉砕した。

・・・ブリザードを生成したか。

目の前にいる巨大なポケモン、キュレムは、かつてレックウザが眠っていた場所で眠りについている。

現在、空の柱の周りには氷と風のバリケードを張り巡らせ、一切の生命の侵入を拒む。もし触れれば、さっきの通信機のようになるからだ。

俺はラジオをつけた。

『ザ・・ザザ・・・ホ、ホウエン全土にお住まいのみなさん!現在キナギタウンから東北へと、ブリザードが発生しています!大変危険ですので、近隣にいる人は、直ちに避難して下さい!ホウエン全土に、強風、大雪、雪崩、凍傷警報が発生しています!みなさんは速やかに建物内に避難して下さい!気象グループから、大変寒い天候が予想されています!保温の対策を・・・ザ・サザ・・・・!』

俺はラジオを切った。

来ていたマグマ団の服を脱ぐ。

周りから立ち込める寒気。

その発端が俺達だ。かつて氷河期により地球上の恐竜や植物が死んだ。

・・・自然の力に飲まれて、安らかに死んでくれ。

それが、俺が出来る最後の救済だ。

息を吐けば、曇るように真っ白い煙りが現れ、風とともに消える。

普通の人間ならば、凍りついて死ぬ気温だ。

今の俺は同期状態。ポケモンの気合い玉からパワーを貰い、代謝を高めている。

・・・まあ、そんな芸当できるのは俺くらいだが。

完全に孤立した世界が此処にはあった。

隣ではキュレムが寝ている。

・・・・・外では、地球上は急速に気温が下がっている。

火山も噴火するだろう。

まあ、その火山灰の影響で、太陽の力も無力化する。

・・・俺はようやく、人の為に助けになれたのだと、心から思った。

これから、全てが無に還った時、どのような『種』が生まれるのか。

それが、互いに支え合える『種』である事を祈る。

.

.

.

「ヤシロオオオオォォォォ!!!」

・・・しかし、『種』は潰しても。

『根』はまだ残っていた。

.

.

.

――――――――『ポケモン世界を歩こう3』side story―――――――― to be continue





マグマ団専用の飛行艇にのり、俺と団員下っ端はイッシュへと降り立つ。

団員はみな、俺が集めた元道場生ばかりを連れて来た。

「行くぞ。」

雪の積もる静寂な台地。

俺は目の前の断崖絶壁に向かって、カイリキーを出す。

「岩砕き!」

俺の指さす場所は粉砕され、大きな穴が空いた。

「おぉ!こんなところに!」
「ヤシロさん?ここに何があるんです?」
「なんだここは?」

団員が思い思いに言葉を発する。

「皆、ついて来い。」

俺が先導して、穴に入り、洞窟を進んだ。

.

ここで出てくる野生のポケモンは手強かった。部下に戦わせ、戦力を消費しながら、最奥部へと進んでいく。

「ヤシロさん。この先に何があるんです?」
下っ端が聞いてきた。

「それは見てのお楽しみだ。」

面白げもなく俺は返した。

「ひょっとして、行方不明のシバさんかな?」
「バカかお前、こんな寒い洞窟にいるわけないだろう。きっと、どっかの山奥で鍛練してるのさ。」
「シバさんもシバさんだぜ。4年も姿くらましちまって、引きこもってたほうがあの人は割が会うぜ。」
「ぎゃはははは!」

・・・・・・・・・。

最奥部についた。
ここまでかなり時間がかかったが、後は俺の仕事だ。

「・・・下がってろ。」

俺は部下を後退させた。

俺は、ポケモンを5体出した。

「気合い玉だ。」

ドゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォォォォォォンンンン!!!!

同期状態に入った。

後ろではザワザワとざわめく声が聞こえる。

俺は目の前の泉に目を向けた。

すると、突然吹雪が襲いかかる。

「「「「「うわわわあああ・・・!」」」」」

吹雪に晒された部下は、逃げるのに間に合わずに半数凍りついてしまう。

すると、洞窟の高い天井から、ソレは現れた。

ズシンと、地響きがなった。

『人間!ワシに何様だ!』

黒い氷のドラゴンは、威嚇しながら俺を見据えた。

「俺に力を貸して欲しい。」

悪びれもなく俺は言う。

『ほざけ!!』

キュレムの凍える世界!!

洞窟中が氷点下の空間になる!

部下は慌ててその場から逃げ出した。

俺は依然とキュレムを見たままだ。

『・・・ワシの技が効かぬとは・・・答えよ、人間から超逸した能力を身につけたか若しくはその遺伝を持つものか。どうだ!?』

「・・・・・格闘ポケモンの力を借りた。それだけだ。」

『格闘・・・気合いエネルギーか。不可能だ。人間とポケモンは相成れぬ存在。エネルギーの同調ならびに共用など。』

「確かめるか?」

『・・・・・・・フン。』

キュレムの絶対零度!!

カキィ・・・・・・・ィ・・ン・・!!

洞窟にある全てのモノが凍りついた。キュレム以外の森羅万象、全てを停止させた。

キュレムは驚愕した。

キュレムの眼下には、以前と変わらず、俺は居座っていた。

服とかは・・凍ってしまったが、身体は平気だ。・・・それでも、かなりの力だ。キュレム。

『・・・貴様、何故動ける?』

「ふん。」

ビュッ!

俺はキュレムの胴体へと潜りこんだ!

『(速い!)』

俺は掌底を腹に思い切り当てた。

ズガアアアアァァァァ!!

『がっっはぁぁぁ・・・!?』

キュレムは宙に投げ出された。

トンッ!

俺は追い撃ちをかけて跳躍し、キュレムに近づく!

俺は回し蹴りを放つ!

ドゴォォオオオ!!!

『うぐっ・・・・!!』

そのままキュレムは泉に落ちた。凍った泉に落ちたキュレムは、水の表面が割れた破片が刺さり、痛々しい。

キュレムはゆっくりと起き上がった。

俺は地面に着地する。

『・・・・・』

「・・・・・」

互いに見つめあう。

そして、キュレムが口を開いた。

『・・・・・ワシの負けだ。何が望みだ?』
メンテ
フェアトレード ( No.6 )
日時: 2012/05/05 21:43
名前: リング

テーマB:毒

 今日はいつも通りの日常だが、ただ一つ違いがあるとすれば、今日の農業経済学の授業は教授が出張により休みであることか。
 かといって、授業を休みにするわけでもなく、代理として元教え子だというビジネスマンの講義を聞き、それを1枚のレポートにまとめることが課題として出される。
 急行せずにきちんと授業を行ってくれた教授は中々責任感が強いと感じて、自分は少し交換を持った。授業に臨むにあたって自分はルーズリーフから一枚取出し、シャープペンシルと消しゴム、4色のボールペンをスタンバイして講義に臨む。受験もせずに1年バイトのために浪人して、自分で働いた金でこの大学に来たんだ、きっちり一字一句聞き逃さんようにしないと過去の自分に土下座物だ。どんな形の授業であれ、頑張らないと。
 現れたのは、山吹色に黒の縦線が入った明るい色のスーツを着こなす青年であった。年の頃は20代の後半ほどであろうか、自分から見て10歳ほどは年上だろう。
 黒や紺などの暗い色のスーツが多い中で、こんな明るいスーツを着ているとは変わり者だ。

「さて、皆さんこんにちは。ヨモギ教授出張のため、今日の講義を代理で務めさせていただきます、大木アサギと申します。今日は、よろしくお願いしますね」
 よろしくお願いします、と続いた声は小さかった。自分以外の皆は何を恥ずかしがっているのだろうかと思いながら、自分は前へ目を向ける。
「さて、皆さん。皆さんに今日話すのは、フェアトレードについてです。フェアトレードとは、読んで字の如く、公正な取引と言う意味でして……要するに、先進国に溢れるに日用品や嗜好品などの原産国での立場の弱い労働者を救うためにあるものです。
 さて、本格的に話に入る前に皆さんには、まずこのCMをご覧になっていただけますか?」
 教授の代理人であるアサギは、携帯出来る立体のホログラム装置を机の上に置く。上方にレンズがついた立方体箱にあるスイッチを起動してから、数秒操作をすると、虚空に平面画像が浮かび上がる。
 どうやら大学では一般的なホログラム装置の、平面画像のスライドや動画を映し出す気らしい。そのCMの内容は要約すると、この石鹸は従来の物よりも分解されやすい物質を使っているから、下水道に流しても汚染が少ないというものである。また、肌にも優しいのだとか。しかし、画像がちょっと古いところを見ると、少々昔のCMなのだろうか。
 最初の映像では、ヒンバスが漂う湖だった場所が、ミロカロスが優雅に踊る湖に様変わりするのだから劇的なビフォアーアフターである。そんなにうまくは行くまいと私は思うのだが。

「いい商品ですね。皆さんはそう思いませんか?」
 と、話を振ってアサギは挙手をさせる。いまどき、地球に優しいなんて触れ込みはありきたりだし、肌へ優しいなんてのも今時セールスポイントにすらなりやしない。
 一応、このCMは口だけは達者だから、CMで言っていることが本当ならばいい商品だと、私は手を上げる。
「では、手を挙げた人はどうしてそう思いましたか?」
 そう話を振られた時、自分はついつい「えーと……」なんて声を上げてしまう。それで最前列に座ってたりなんかしていたので、当然のように『どうぞ』なんて指名される。
「……いや、言っていることが全部本当なら、いい商品だと思いますが。でも、ありきたりな謳い文句に、都合のいいことばかりの表現。それに、使用感の感想だって、右下に小さく『効果の感じ方には個人差があります』でしたっけ? あんなものも書いていますし……
 そもそも、以前別の授業で聞いたんですが、綿花のように口に入れない植物は農薬をガンガン使うそうじゃないですか。石鹸肌に使いますが、口に入れるわけではないですし……その原料は……一体」
 自分は思ったことを口にする。すると、アサギはその発言がいたく気に入ったらしい。
「素晴らしいですね」
 というのが、アサギの第一声であった。
「そうです。私が言いたかったことを言ってくれちゃいましたね。商品としてありきたりな謳い文句だとか、使用感の個人差などについては、この際気にしないとしても……この石鹸の原料であるヤシの実の生産環境はひどいものでね。
 このヤシの実は、食用に使われることもあるけれど、これは完全に石鹸用に使うものだから農薬は使い放題というわけだ……そちらの金髪で深緑の服を着た方が言うとおりにですね」
 金髪で深緑の服。当然自分しかいないわけだから、私の言う通りと彼は言いたいわけだ。
「農薬を使い放題ですので、本来は何千倍という単位で薄めるはずの農薬を。大した希釈もせずにガンガン使っちゃってます。それで呼吸器や皮膚に影響があるのはもちろんの事、癌に掛ったり指などが変形することもあります。これが、そのスライドです」
 グロテスク、というわけではないが変形した指の写真や、侵された肺のレントゲン写真やら、えげつない映像が流れる。そのスライドを背景にしたまま、アサギは喋りはじめた。

「私は、こういった労働環境を改善しようと世界中を飛び回り、現地政府の援助を受けながら中売人や農場の地主。そして、小売り、卸売りの企業への交渉やアドバイスを行っています。その過程で、確実に話題に上がるのが……この生産ピラミッドの最低下層にいる人たち。農場などの労働者に対する賃金。つまり、金です。
 早い話が、フェアトレードというものは労働者に対して妥当な賃金を与えられるようにするためにあるものなんです。もちろん、先程の農薬や、怪我した時の保証などの問題も含めていろいろ改善しますがね」
 結論から言えばそうなのかもしれないが、大胆な物言いである。

「例えばこの石鹸の例であれば、我々が購入している石鹸の売り上げが直接労働者に届けば、生活するのに十分な賃金が行き渡るのですが……しかし、現実はそうもいきません。まず、農場の所有者から中買業者が原料を買い取ります。それを原料を加工する業者に引き渡し、それを海外へ輸出するために業者を仲介し、それに関税が掛かった上で、さらに加工されたものを包装する会社があって、それをさらに卸売し、さらにそこからスーパーやコンビニなどの小売店で販売する。
 この過程で、同じだけの原料が加工料金、運送料金、税金などで何度も何度も割増しされていくうちに、手元に届く値段となるわけです……それぞれ仲介していく業者が利益を出すためには、段階を踏むごとに値上がりしていくのは確かに仕方のないことなのですが……それをやりすぎてしまえば、安い値段で家庭に石鹸を届けるためには、最下層の人たちに犠牲になってもらうしかありません。労働環境が整わないために、排水や煤塵などの処理をまともに行えず、環境汚染を引き起こしてしまうところもあります。
 ヤシの実を樹から落とす時に、それがぶつかって死ぬ人もいます。ヘルメットがあれば多少は違うのでしょうがね、それすらもない。
 綿百パーセントを謳うジーンズの生産現場では、それこそヒンバスすら住めないような染料の色に染まった池なんて何度も見てきました……ベトベトンは放流したら、喜んで汚染された水の汚れを取りこんでいましたよ。
 先ほどの石鹸もそうです。地球に優しいと言いながら、生産の現場では人や土壌に害毒をばらまいています。言葉には説得力がなく、『言っておるだけ』というのがふさわしい」
 言いながら、アサギはスライドショーを早送りして、ジーンズを染める現場を見せる。労働者たちはゴム手袋でもして作業するべき色のような水に、素手、素足で四肢を浸けている。そして、カメラを別の場所に向ければ、排水は赤い池を作っていた。青いジーンズを作るのに、どこかで赤い何かを使う必要があるんだな、なんて暢気な思考と共に、こんな色の水はヤバイんじゃないかと言う思考が遅れてやってきた。
 そう思っている間にも、アサギの話は続く。

「しかし、労働者の賃金を上げようとなると、今度は商品の値段を上げなくてはなりません。つまるところ、価格競争では勝てなくなってしまいます……だから、ここでフェアトレードという事を売りにする。それが、フェアトレードの存在意義です。
 皆さんは、生きているうちにどこかで何かに募金をした経験があると思います。そういう風に、人間には少なからず良心というものがありますね? このフェアトレードというのは、そういった皆さんの良心に訴えかけることで購買意欲をそそり、価格競争の逆流に立ち向かうことを狙いとした商品です。
 『この商品はフェアトレードですよ』。『だから、これを買えば貧困層の人が助かります』『だから買ってください』と、売り出すのです。労働環境を改善した商品は当然高くなりますが、生産者の笑顔も含めての商品価値となるわけですね。
 フェアトレードの例として、例えば労働環境や生産過程を改善された綿花なら『オーガニックコットン』と呼ばれます。当然オーガニックコットンによって作られたジーンズやシャツは割り高です。ですが、労働者の健康や幸福が守られるなら……と、普及を目標にしている人もいますし、そうすることで助かる人がいます。
 そして私も、綿花や、それ以外の品でも公正な取引が行われること目標とする人の一人です。コーヒー、カカオ、ヤシの実、タバコ、綿花、サトウキビなど、他の工芸作物についても、無視はしません。
 ついつい前ふりが長くなってしまいましたが、これからフェアトレードの仕組みや、認証制度についてお話いたします」
 長かった前ふりを終えて、演説のようだった語気の強い授業は鳴りを潜め、退屈(と思う人の多い)授業となった。フェアトレードは、難しいことはよくわからなくとも、買うだけで出来る国際協力だ。まぁ、そのための流通ルートを開拓するのは自分で難しいことを覚え、考え、実践しなきゃいけず、流通ルートや認証制度の勉強には皆さん消極的らしいし、その事が分かっているアサギさんの授業は熱意が少々萎えたようなテンションの下がり具合だ。
 授業中に騒ぐような輩はいないから授業としての体裁は整っているが、授業風景はいつも通りといった感じだ。真面目に聞いてノートを取るのは、自分を含めて三割程度だろうか。せっかくお金を払って大学に来たというのにもったいない。

 真面目に聞いていると、彼は色々危ない目にもあったらしい。発展途上国という事で普通に犯罪に巻き込まれた話なんかも合ったが、労働者の賃金の値上げや農薬の使用法の改善について熱意をもって話していると、商売の邪魔だと思われ暴力を振るわれることもあったんだとか。
 ベトベトンを持っているのは、ベトベトンが喜んでいる映像を見せて『汚染されているという』事実を客観的に示すためでもあるが、同時に護衛の役割もあるのだという。野性のポケモンに襲われた時など役に立ったためしはあるが、それも数の前には無意味で数日ほど拉致監禁されて脅されたこともあると、アサギはことも無げに言っていた。
 そんな目にあっても日夜いろんな場所を駆け巡っているという事は、よほどの熱意でもなければ出来る事ではあるまい。自分のように、護身術やポケモン使役術に心得があっても怖いだろうに、無茶する人である。
 そして、それだけの熱意と理由があるのだろう。誰かを救いたいという理由と、熱意が。
「ちょっと、憧れちゃうな……」
 今まで流されるだけの人生だったのを打破しようと大学に入ったけれど、結局具体的に何を為すべきかを定めていない自分とは違う輝きがある。
 おこがましいかもしれないけれど、自分も手伝うとか、手助けできればなんて私は思う。今日はこの授業が終わったら、3コマ目の授業がないため4コマ目まで暇である。この授業が終わったら、もうちょっと踏み込んだ話を聞いてみるのもいいかもしれない。
メンテ
勇気のタネ ( No.7 )
日時: 2012/05/06 00:34
名前: 月光

テーマA : タネ

 平凡な人生を過ごしていた。小学校は地元の市立、中学校も地元の県立、高校は成績が特別良くも悪くもなかったから中ぐらいのところ。
 夢ならあった。あるにはあった。父親の影響だろうか、物心ついた時には既に小説家を目指したいと思うようになっていた……らしい。
 尤も父親は主に評論家として本を書いていたので厳密には小説家とは言わないが、若い頃は机に向かい、時が流れればパソコンに向かって自分の想いを現実に書き起こすそのスタイルに、どこか憧れを持った。
 数学と理科の成績は壊滅的――そもそも理解できる方が可笑しいよ――でも、国語と世界史は大好きと言える。日本史は同じ名前が続いて飽きる。許せるのはペリーとザビエルぐらい。
 一応勉強はしていたはずだった。そんな私が髪を染めて、威圧的な言葉を使い始めて、入学当初は屑と蔑んでいた連中と一緒にいる今の現状は、どこから始まってしまったのか。

「でさー、山下沢の禿げの頭に墨付けたて髪生やしてやったらさ、感動したのか体震わせてやがんの! あはは、傑作よね!」
「あいつの授業つまんねーし加齢臭するし、そもそも山下か山沢かどっちかにしろっての、紛らわしんだよねあいつの名字」

 もはや恒例となりつつある授業サボっての屋上でのお喋り、うちの学校は何故か屋上へ扉に鍵は掛けられていない。普通の学校は掛けられてるって聞いたけど、ありゃ嘘か?
 目の前の馬鹿みたいにテンションが高い馬鹿二人を見ながら私と言えば、喋るのが面倒臭いから煙草加えて手摺に寄り掛かってる。
 何もやる気が起きない。いつからだろう、私はいつから屑になったのだろう。そんなの分かり切っている、目の前で夢が呆気なく死んでいったとき。

「今度あいつのロッカーから金でも奪っちゃおうよ。ねえ苗華もやるでしょ」
「っだらね、ロッカーからとか言わず帰り道に本人からぶんどっちまえよ。二三発入れて脅せばどうせ差し出すだろ、あいつ根性ないし」
「わーお、流石は苗華、エグイねー容赦無いねー。そこに痺れるけど別に憧れはしない」

 なら言うなよ。

「しなくていーし……さて、私ちょっと用事あるから帰る」
「まだ授業終わってないけど、一応保健室行って早退扱いにした方が良くね? さすがに学校側五月蠅いと思うよ」
「知らないよ、別に大丈夫でしょ。じゃあな」
「男? あーもしかして男ですかい苗華さん。そりゃ学校なんて来てる場合じゃないよねー」
「ちげーよ、次言ったら鼻の穴から指突っ込んで子宮突き破るよ」
「おー怖い怖い」

 馬鹿の相手は疲れる。どうせ今さら成績とか授業態度とか気にしたって、何も変わらない。そっちは変わらないけど、やらなきゃいけないことはある。
 静かな校舎、授業中なんだから当たり前。静かな校門、さすがに昼過ぎての初っ端授業からサボって帰ろうとする生徒を監視する先生なんていない。

 私の夢は終わった。目の前で父親がトラックに撥ねられて死んだ去年から、私の中にあった何かが壊れて、夢の種は芽吹く前から腐って消えた。
 そもそも冷静に考えてみれば何を私は馬鹿みたいに小説家になろうと思ったのか、趣味で小説書いて掲示板に投稿していたのか。
 父親が死んだのは勿論ショックだったが、同時に自分の夢が全く確立されていない脆い基盤の上に成り立っていることが分かって、全てがどうでも良くなって放り投げた気がする。
 私は達観している。達観している気になっているだけかもしれない。人間なんてどうせ死ぬのに、一生懸命頑張ることに何の意味があるの。
 昔は考える必要すらなかったことなのに、最近そんなことを思ってしまう。思わずにはいられない。私の夢の種は、どこに消えてしまったのだろう、どこかに落ちているのかな。

 そんなことを考える余裕も今の私にはない。父親の代わりに働いていた母さんだが、元々体が強くなかったせいで体調は日に日に悪くなり、先日ついに倒れてしまった。
 医者によればしばらく休養が必要だとのこと。だから私が返って色々と家事をやらないといけないのだが、正直なところ凄く申し訳なく思っている。
 ただでさえ父親が死んでショックを受けているはずなのに、心労を押し殺して私を養ってくれていて、その娘が出来の悪い馬鹿共と絡んでいるのを見て、落胆しない両親なんていない。
 母さんが倒れるまで、そんなことにすら私は気付けなかった。調子に乗って染めてしまったこの金髪が、今はとても鬱陶しく感じる。ついでに耳のピアスも。

「やっぱり、ぶん殴られる覚悟で言うしかないかな」

 これ以上心配かけるわけにはいかない。これは意地だ。父親を失って夢を失って、母さんを心労でぶっ倒れさせる程の馬鹿だけど、私にだって意地はある。
 勉強するしかない。勉強して良い大学に行って、自立して少しでも母さんに楽をさせてあげたい。思い切り授業サボってる癖に今さら何言ってんだよって話だけど、別に良いよね。ただ……

「怖い……」
「ちょっとちょっと、そこの金髪サボり女子高生! そう、お前だよお前」

 声を掛けられた。語調から言ってその辺のチャラけた不良かと思って振り向いてみれば、カラフルなスーツにシルクハット、割と若い男だけどこれだけ見れば何ともシュール。
 これだけで完結していればただの馬鹿だが生憎その男の前には銀色の台に大きな布、近くには箱など様々な道具が転がっている。
 なるほどなるほど、こいつは所謂マジシャンだ。こんな人気の少ない川辺で練習なのか本番なのかは知らないが、あまりにも客が来なさ過ぎて自分の方から私に声を掛けて来たってところか。
 早く帰って家事をしたいから構っている余裕なんてなかったのだが、考えてみれば私はこいつの言う通りサボり女子高生、あまりに早く帰っては逆に母さんに心配を掛けるかも。
 それにこう言っちゃなんだけど、私って意外とこう言うの好きなんだよね。小さい時は父親が良くタネがばればれの手品を良くやってくれたっけ。

「客、全然いないんだね」
「おーっと開口一番に辛辣なことを言うねお前は。こう言うのはアレだけど、授業は受けておいた方が良いぞ」
「今日は午前授業なの。だから早く帰る、それだけよ」
「嘘は良くないな、朝から俺はここで準備をしていたけど、結構な生徒が通っていた。本当に午前授業ならもっと沢山の学生が帰路についてるはずだ」
「ふーん、マジシャンだけあって洞察力はあるんだね。じゃあ数時間後の学生を相手に商売してれば、じゃあね」

 マジシャンの癖に一言多いのよ、構っても仕方ないし別のところで時間を潰そう。

「待て待て待て! なに、お前は手品が嫌いなのか? 百円、いや十円でもいい、とりあえず見て行ってくれ」
「ただなら良いよ。私、そんなにお金持って無いの」
「なんだよ残念だな。まあ他の客が来るまでの練習ぐらいにはなるか、よしわかった! ただで良い、その代わりに俺の手品がどうだったか、感想は聞かせてもらうぞ」
「それぐらいなら良いよ。で、何を見せてくれるわけ。まさか在り来たりな帽子から鳩なんてやらないよね」
「な、何故分かった……」
「マジかよ……」

 いや、まさかそんなに驚かれるとは思ってなかった。え、なに? マジシャンって言うのは客が何も知らない馬鹿の集まりだとでも思ってるの?
 阿呆みたいに驚愕してるけどすぐに咳き込みして表情が戻ると、台の上に足元から取り出した木製の箱を乗せる。何の変哲もないただの箱、これなら少し期待が出来るかも。

「さて、それでは不肖ながら、わたくしミスターマリッコによる手品を始めさせていただきます! ほーら拍手拍手」
「うわー、すっげーパチモン臭い名前なんだけど。何よマリッコって、ミスターマリックのパクリじゃん」
「い、今時の子は知らない物だと思っていたが、意外とあのおっさんは若い子にも有名なんだな。ま、まあいいじゃないか名前なんて。重要なのは手品の質さ」
「この分じゃ、手品の質も期待できないんだけど」
「……相変わらず、一言多い糞ガキだ」
「何か言った?」

 今明らかに『糞ガキ』って聞こえたんだけど。なんか、気のせいかもしれないけど、こいつと私って……どこかで会ったことある?

「いえいえ、滅相もございません。それでは始めますよ。まずはこの箱を見て下さい! 御覧の通り、『タネも仕掛けもございます』!」
「……はぁ?」
「いやだから、見ての通り『タネも仕掛けもございます』って言ったの。今からこの箱を宙に浮かせますよ、見てて下さい。古臭いけど、ワンツースリー!」
「う、浮いた……て言うか、『タネも仕掛けも』もあったらそりゃ浮くでしょ! 何よこれ、私を馬鹿にしてるわけ!?」
「そんなことはない。じゃあ君、この手品のタネと仕掛けがどこにあるか分かる?」
「わ、分かるわけないじゃない。そもそもマジシャンってそう言うのを分から無くするものでしょ、私が見抜けるわけが無いでしょ」
「その通り! 手品師って決まって『タネも仕掛けもない』って言うけどさ、本当はあるんだよ。だから俺は手っ取り早く言っちゃうことにした、でも客はタネも仕掛けも分からない。面白いでしょ」
「面白いのはアンタだけじゃん。でもまあ、アンタが凄いってのは分かった。だから早く他も見せてよ、当然タダで」

 ちょっと小馬鹿にされた気がするけど、やっぱりマジックって見てると面白い。それに何だかこいつ、『タネも仕掛けもございます』なんて、ちょっと面白いじゃん。
 その後もマリッコ――しかし本当にパチモン臭い名前ね――は色々なマジックを披露してくれた。先ほど言った様に帽子から鳥が飛び出して来た。うんまあ、何でか鴉だったけどね。
 人通りが少ないとは言え、不思議なほどに人が来なかった。終始観客は私だけ、ありえないことだけどもしかしてこれもマジックだったりして。
 最初は期待していなかったけどマジックの技術は驚くほど高くて、本当にこいつがどんな方法でマジックをしているのかさっぱり分からない。自然過ぎて、糸口さえ。
 全ての演目が終了したのかマリッコが丁寧に礼をして、私は思わず笑いながら拍手をしてしまっていた。
 笑うなんて久しぶり。父親が死んで母さんがあまり家に居なくなって、会話すら全くかわさなくなって、こんな気持ち……久しぶり。

「あれ、泣くほど感動してくれた? いやー、タダでも披露した甲斐があったわー!」
「え? あ、あれ……」

 目頭の辺りを擦ってみると確かに濡れていた。どうやら私は泣いていたらしい。その事実に気付いた直後から視界が歪んで、世界が一気に現実を失った。
 さすがにいつまでも泣いてると格好悪い。直ぐに涙を拭って顔を上げると、マリッコは真剣な顔つきになって私を見ていた。こうして見ると悪くない男なのに、なんか勿体無い。

「俺の手品を見て感動してくれたのは嬉しい。だけど、その涙の理由はそれだけじゃないだろう」
「別にアンタには関係ないでしょ。マジックは楽しかったよ、さよなら」
「だから何でそうやって帰りたがる! 俺はこう見えてこの商売やる前は学校のカウンセラーだったんだ、相談に乗れると思うぜ。保健室の先生より赤の他人の方が相談し易いだろ」
「アンタがカウンセラー? むしろ適当にプリントだけ配って自分は教科書の豆知識だけ見て満足してそうな、どうしようもない国語の教師みたいに見えるけど」
「悪い、カウンセラーなんて大嘘。でも俺は流れの手品師、ここに長く居ることは無いから必然的に近くの奴に秘密が漏れることもない。話してみろって」

 何で他人のことなのに突っ込んで来るのよ。そりゃ悪い奴じゃないんだろうけどさ、赤の他人に話して解決するなら苦労は無いわよ。

「今さ、『赤の他人に話してなんになるんだ。そんなんで解決すりゃ苦労は無い』って思っただろ」
「……思ってないよ」
「じゃあつまり俺のカウンセリングを受ける気になったってことだな! さぁ、話してみろ」

 しまった、一本取られた。

「もしかして人の心が読めるわけ?」
「読めるわけないじゃないか。ところで、カウンセラーの仕事ってなんだか分かるか」
「んなの、困ってることの解決でしょ」
「違うな、カウンセラーの役割は徹底的に話しを聞くことだ。ネタばれになっちゃったけどさ、まずは叫べ。お前の心の内を、馬鹿みたいに曝け出せ」
「うわ、なんか変態っぽいんだけど。言っておくけど、なんか変なことしたら通報するからね」
「不安や困ったことがない人間なんていない。俺は今までそう言う奴を何人も見て来たんだ、安心して暴露しろ」

 相変わらずの変態チックな言い方だけど、不思議にもこいつは信用できる気がする。赤の他人を信用するって、変な話かもしれないけど……
 私は話した。私の今置かれている状態、私は一体何を夢見ていたのか、どうしてその気持ちを失ってしまったのか。私自身も分からないことをただひたすら話した。
 父親が亡くなったこと、母さんが倒れたこと。これ以上母さんに迷惑をかけたくない。心配を掛けたくない。
 いつの間にか、また泣いていたらしい。目の前が歪む。世界が歪む。体が暑い。鼻を啜る。一度話しだしたら止まらない。不思議なほどに止まらない。
 誰か来たら恥ずかしくて死んでしまうかも。でも誰も来ない。歪む世界の中で、マリッコがちゃんとこっちを見ているのを確認した。



 喋って喋って喋って喋って喋って喋って喋って喋って喋った!



 私は息を切らしていた。涙を流して紅潮して、全てを吐き出した私が最初に感じたのは……胸につかえていた何かが、零れ落ちたような感覚だった。
 目の前のマリッコは黙って聞いてくれた。こいつの言う通りだ。癪だけど、叫んだだけで幾分か心が落ち着いた気がする。
 これだけでさっきまでの不安とイライラが少しは無くなった。多分今の私の眼は充血してるんだろうけどな。と言うか、マリッコいつまで黙ってるの? いつまで私を見てるわけ?
 何でよ。何でそこまで分かっちゃうのよ。そうだよ、私はただ単に話しただけ。それなのに何でこいつは、私の不安が分かるのよ。止めてよ……甘えちゃうじゃん。

「私は、もうお母さんに心配は掛けたくない。気持ちの面でも、お金の面でも。だけど私は、夢を持ちたい。また追いたい!」
「だけど不安が残っている。自暴自棄になったせいで陥った、今の環境から抜け出しにくいってわけだ。そりゃそうだ、不良グループだからな」
「虫が良いかもしれないけど、私はちゃんと勉強したい。今のままじゃ、私はきっと屑のまま終わる。それは嫌だ。絶対に」
「女子高生、お前名前は?」
「苗華、芽吹苗華」
「良い名前じゃないか、考えてくれた父親に感謝することだな。苗華、お前はもう自分の状況を理解している。自分のやりたいことも分かっている。お前に足りない物は一つだけ」
「一つだけ?」

 一つだけ……多分、それは……

「勇気だ。世の中の事柄ってのは大抵勇気と責任、機転が働けば乗り越えられるものだ。今のお前に必要なのは勇気」
「そんなの分かってる。分かってるよ……でも……」
「今行動を起こさなければ、お前の中のタネは永遠に芽吹かない」

 芽吹かない? 永遠に?! 嫌だ、絶対に嫌だ!
 世界が揺れている気がする。優しかったマリッコの視線を直視できない。こいつは、何でこんなに芯があるのよ。
 
「分かった、俺が手品を見せてやる」
「はぁ?」
「俺は今まさに、お前の中に勇気のタネを仕込んだ。それはお前の勇気に反応し、一気に開花させる。勇気を持て。そうすればそれが助けてくれる」
「何言ってんのか訳分からないけど、ありがとう。アンタに会えてよかった。でもまあそんな種が、本当にあればなぁ……」
「あーいたいた! 苗華、ちょっと来いよ」

 嫌な声が聞こえた気がする。無視したいがするわけにもいかない。
 振り返ってみれば案の定、さっきまで人っ子一人いなかったはずなのにいつの間にか正午の二人を合わせてざっと七人の不良面子。
 色々あって腐ってたとは言え、何で私はこんな奴らとつるんじゃったのかなぁ。男三人はチャラ男だし。

「これからよ、職員室忍び込んで金目のもん貰っちゃおうってんだけどよ、お前も来るよな、とーぜんさ」
「来ないって分けないよなー苗華ちゃん? 最近なんか付き合い悪いけど、まさかグループ抜けたいなんて思ってないっしょ。あんだけ面倒見てやったのによ」

 お前らに見られた面倒なんて殆どなかったと思うけどね。とは言えどうしよう、断りたいけど相手が七人じゃ……断ったら、絶対殴られたり虐められる。

「わ、私は……」
「断りたければ断ればいい。行きたければ行けばいい。だがな苗華、さっきも言った通りだ。腐った土壌で逞しく育つのはあくまで物理的な植物、お前の心は永遠に芽吹かない」
「あんだよおっさん、関係ねーんだからすっこんでろよ。てかなんだそのキショイ格好? マジシャンか? だったら客にへつらって頭から鳩でも出してろよターコ」
「タコの頭から鳩は出ないだろ。何言ってんだお前は、高校生なのにそんなことも分からないのか」
「ッチ、この爺……ぶっ殺してやりてーけど今はほっといてやるよ。どうなんだよ苗華? 来るよな、てか来ないなんてことねーよな」

 行きたくない。もう関わりたくない。でも行かないと私は……誰か、助けて……

「苗華、もしお前が誰かに助けを求めているなら。そりゃ甘えだ。自分でやったことだろうが、自分のケツぐらい自分で拭け。誰かに助けてもらって解決したんじゃ、お前はこれからも誰かに甘える。腹をくくれ、こんなのは人生の一瞬だ!」
「マリッコ……うん、ありがとう。リョウ、私は行かない。今後一切、アンタらの不純な活動には付き合わない。もう誘わないで。私は……正しく生きる」
「フーン、あんだけ一緒に楽しんでおきながら自分は見切り付けてドロップアウトかよ。そこまで清々しく断られると冷静になり過ぎて、いっそ血管ぶち切れてその面原型無くなるぐらいボコボコニしたくなっちまうよ!」
「あぐぅ!」

 殴られた……まぁ、当たり前だけど。こいつらそう言う奴だし。あたしが入って数ヵ月後に抜けた言って行った奴が居たけど、そんときゃ私もデコピン程度だけど混ざってたっけ。
 確か全治三カ月ぐらいだったかな、そいつ。私の場合はどれぐらいだろう。半年ぐらいなら良い方かも。違うよ、軽いか重いかじゃない。こんなことをすることに、されることに問題があるんだよ。
 凄く痛い。気の弱い方だった里香と綾奈と正久は遠巻きに見てるだけだけど、他四人が寄ってたかって私一人を殴って蹴って……
 酷いったらないね。私って今まで、こんなことに参加してたんだよね、形だけでも。こんなにされてどうなるか分からないけど、またやられるかもしれないけど、何でかな……気分に良いや。
 別にマゾってわけじゃない。あ、口の中切った。ただなんだろう、本当に自分のやりたいことを、言いたいことを言った時は清々しい。私一人じゃ、きっと無理だった。

「何笑ってんだよこのブス! 止めて欲しけりゃ今すぐ土下座して靴でも舐めろや豚が!」
「あー学生さん、豚は別に靴は舐めないぞ。そもそもありゃ清潔な生き物だ、それに最近ペットとしても人気があって可愛らしいじゃな――」
「うるせーなオメーはさっきからいらねー雑学垂れやがってよ! お前ら、ブスはまた後でやるとして、こいつもやるぞ」
「でもさリョウちゃん、一般人はマズくね? 警察行かれたら厄介っしょ」
「こいつだって携帯なり名刺ぐらい持ってんだろ。ボコって奪って名前や住所抑えりゃ、また何度でもボコれる。つまり、こいつは通報できなくなる。通報したら何度でもやっちゃうよー俺ら」
「昔の学生も血気盛んだったけど、最近の学生も負けず劣らず血気盛んで良いことだな。ゆとり教育でゆとってると思ったのに」
「テメ、ガチで殺してやろうかコラ!」
「マリ……アンタは、逃げ……」

 やば、リョウの奴ナイフなんて持ってたの? こいつらは一般人でも容赦なくやるし、本当に殺されちゃうかもしれない。だってマリッコ、見るからに貧弱そうでヨナヨナしてるもん。
 もう嫌だ。私のせいで誰かに迷惑をかけるのは。特にこいつは何の関係もない赤の他人なのに、一円にもならない私の話しを聞いてくれた。勇気をくれた。背中を押してくれた!
 だからここは私とこいつらだけでケジメをつけないと駄目! 殴られ過ぎてもう何か体の感覚無くなって来てるけど、動いてよ私の体。せめて、こいつだけは助けさせて。

「困ったな、俺は喧嘩が得意な方じゃない。仕方ないから、手品で相手をしてやるよ」
「くだらねーショー見てる時間も暇もねーんだよ俺らは。そうだな、まずはそのフザケタ帽子と髪の毛と頭皮辺りをザクザクいこっか。頭に真っ赤なバラが咲くぜ」
「さーて、これからミスターマリッコによる手品を始めます! ご注目ご注目! この手品、『タネも仕掛けもございません』!」

 ……あれ、『タネも仕掛けもございます』ってのがアンタの定型句じゃなかったっけ?
 ってそんなこと気にしてる時じゃないのよ。早く逃げろって、私の責任増やさないで、お願いだから。

「まずは手始めに、そうですね……リョウさんと言いましたか、貴方以外のお方の記憶を消させていただきましょう」
「はぁ、何言ってんだお前。電波なサイコさんかよ。アハハハ、聞いたかお前ら。記憶消すってよ!」
「嘘八百で乗り切ろうとしてんのバレバレー必死過ぎワロスーって感じー。マジでキモイんですけどーリョウちん早くそいつ刻んじゃってよー」
「正真正銘『タネも仕掛けもない』手品、さあ私の持つこのハンカチを良く見ていて下さい……とか言っている間に、実は消えてます」
「なんもおきねーじゃん。うわマジキモイこいつ、電波過ぎてうぜぇし。お前ら、さっさとこいつ殺して苗華のリンチ再開すんぞ」
「誰よアンタ、て言うかいつからあたしらと一緒にいたわけ? うわキモ、話しかけないでよ。てか私達もこんなところで何してんだろうね。帰ろ皆、教頭に見つかるとうっせ―から」
「ちょ、ちょっと待てよ葉菜、テメー何勝手に俺に見切り付けてんだよ!? 待てって、おいコラ!」

 嘘、本当に……帰って行った? リョウはこのグループのリーダーなのに、本当に皆、ここに何をしに来たのか、リョウが誰なのか分かってないみたいだった。
 どんなに叫んでも誰も戻って来ない。それどころかあいつらは表面上あからさまにリョウを排他する視線を向けて、さっきまで私が受けていた視線を、今度はリョウ自身が受けている。
 マリッコって本当に、人の記憶を操れるって言うの? ちょっと待って。じゃあ私が絞り出した勇気も、こいつの力なの?
 聞きたい。本当にそうなら、私は絶対にこいつを許さない。体中が痛いけど、私はどうしても今すぐ確かめたいの。私の尊厳、意地は……私が守るんだから!

「さて、記憶が無くなると言うのは恐ろしい。先ほどまでの自分が無くなって、存在が否定される。お前が今まで他者にして来たことだな。良いか、糞ガキ」
「ちょ、軽い冗談じゃねーかよ。そんな、一般人殺すなんて日本で出来るわけねーじゃん。ば、馬鹿じゃねーのお前」
「出来るさ。極論で言えば、消しゴムでだって人は殺せる。何個も喉に詰まらせれば良い。素手なら死ぬまで殴れば良い。そして俺は、お前の記憶を殺すこともできる。いいか、今後も苗華に絡むようなら……お前の精神年齢赤ん坊まで下げてやるよ」
「イカれてやがるこいつ! つ、付き合ってられねーよ!」
「重ね重ね言うがこれからは精々質素に、俺の目を避けて慎ましく生きて行くことだな。記憶を失いたくなければな」

 リョウは性質が悪いことにボクシング部を引退した実力派の不良だったのに、貧弱そうなマリッコがあいつを追い払うなんて……正直、想像出来なかった。
 でも今はそんなことはどうでも良いよ。私が知りたいのは、さっきまでの私の決意が……本物だったのか、偽物だったのかってことだけ。

「おい、無理するなよ。骨折は無いようだが、内出血が激しいぞ」
「聞きたいことがある。さっきの私の勇気は、偽物だったのか? 私を……私の記憶を……操ったの?」
「はぁ? お前馬鹿か、人間の記憶なんて素手の人間が操れるわけねーだろ」
「だ、だって目の前で現実に――」
「あいつらもお前と同じだ、心の底では何かを感じていたみたいだ。リョウってガキにも付き合いきれないところがあったんだろ。一人当たり三十万円でな、芝居を打ってもらうことにしたんだ」
「そうなんだ……あ、あはは、心配して損しちゃったよ。ってちょっと待って。その言い方だと、アンタは今日の出来事を予想してたってこと? なんで、その、私を助けてくれたの?」
「……隠しても意味無いか。お前の亡くなった父親、俺の伯父さんなんだよ。お前とも……そうだな、十年ぐらい前に会ってたと思うぞ」

 十年前、まだ小学生になって間もない時か。さすがにちょっと覚えてないかも。
 でもどこかで会ったことがあると思ったのは間違いじゃなかったのね。そう言えばうちのお父さん、車とかバイクが苦手だったから親戚の家に行くってことは殆どなかった。
 どう言う理由で手品師なんてやってるか知らないけど、この人は偶然か必然かここに来て、私を助けてくれたのね。
 正直、なんか色々と納得いかないところは多い。こんな漫画や小説みたいな展開が実際に起きるなんて、実は夢じゃないの?
 頬を抓ろうとしたけど全身の痛みの方がリアルに現実を教えてくれる。安堵が緊張を上回ったのか、途端に足が笑って膝が地面に着いちゃった。

「そっか、親戚だったんだね。ごめん、名前忘れちゃった」
「昇陽、芽吹昇陽だ。ちなみに手品の基礎はお前の親父に教えてもらった、あの人の手品は正直上手じゃなかったけどさ、アレが俺の原点だ」
「あっ、名前で思い出した! 『考えてくれた父親に感謝しろ』って、普通は『両親に感謝しろ』って言うよね。そっか、昇陽は私の名前を考えたのが父さんって分かってたのよね」
「あの時は思わず口が滑ったと思ったが、バレなくてよかったよ。昔と同じで鈍くて助かったけど」
「に、鈍いって言うな! でも、ありがとう昇陽。格好良かったぞ、金の力だけど」
「だから一言余計なんだよお前は! しかし女子高生に言われると中々気分が良いな、親戚じゃなかったら彼女にしちゃうところだ」

 さすがにその発言は……ちょっと、引く。さすがに近親相姦とかそういうのは、ない。

「おい、何で少しずつ離れるんだよ」
「だってさ、久しぶりに会った親戚がロリコンだったらショックでしょ。私のことも少しは考えてよ」
「ロリコンじゃねーよ」
「……ねえ、昇陽の手品には『タネも仕掛けもある』んだよね?」
「当たり前だ。『タネも仕掛けもない』手品なんてこの世にあるもんか。て言うか、あってたまるかっての。そりゃ手品じゃなくて魔法だ」
「納得。私、家事があるからそろそろ行くね。昇陽は、まだしばらくはこの辺にいるのかな」
「確かに俺は親戚だが、あくまで流れの手品師だ。明日には別の場所、明後日にはさらに別の場所、一ヶ月後には地球の裏側にいるかもしれない。だけどまあ、たまに顔を出すよ」
「うん、分かった……それとさ、最後に教えて。私は、自分で勇気を出せたんだよね。操られてなんて……ないよね」

 やっと学生が帰路につき始めて客が増える時間だって言うのに、昇陽は台車に機材を載せて場所を変える準備をしようとしてた。ひょっとして、私が見に来ると思って恥ずかしがってる?
 振り向いた昇陽の表情は一瞬『何言ってんだこいつ?』って言いたそうな顔だったけど、すぐに微笑みに変えてくれた。どうしよう、ちょっと……マジでカッコいいかも。

「勿論、『タネも仕掛けもございません』」
メンテ
颯爽と吹き抜ける涼風 ( No.8 )
日時: 2012/05/07 21:15
名前: 鏡花水月

テーマ:A「タネ」


 人間からすれば、色違いのピジョットはかなり珍しいようだ。俺の存在が、そのことを証明している。俺は人間に捕まるのが嫌だったから、やつらからずっと逃げ続けてきた。やつらが変な球からポケモンを出して追いかけても、俺の攻撃で一発KOだった。そんな風に、俺は自分しか持っていない金色の羽を振り撒きながら、人間からゆうゆうと逃げ回っていた。そんな姿を見た人間たちから、俺は“涼風”という渾名をつけられているそうだ。これは、知り合いの鳥ポケモンから聞いた噂だが、そのお陰でポケモンたちからも涼風と呼ばれるようになってしまった。人間からつけられた渾名なんぞ俺にとっては無用の長物でしかないが、妙にかっこいい響きでしかもその由来もかっこいいとくれば俺はこの名前をどうすればいいのか迷ってしまう。
 俺はキャタピー一匹を食べ終えると、小さな木立を抜けて人間どもが生活を営んでいる場所に飛んできた。“街”と呼ばれる場所だと聞く。ところどころに生えていて、黒い線をつないでいる柱の上に降り立った。そこで少しの間羽繕いをするだけのつもりだったが、叫び声一つ、俺の平穏を見事に破ってくれた。どうやら骨のある人間どもが俺を見つけてくれたらしい。俺は颯爽と飛び立ち、逃走にはいった。
『見つけたぞ、涼風! 追いかけろエアームド!』
「キシャァァッ!」
 背後から人間の声が聞こえたかと思うと、鉄色の鳥が迫ってきた。鋼タイプのくせに相当スピードには自信があるようで、気付いたときには俺の背後にぴたりとつけてきていた。確かに早いけど、甘いな。
 俺は電光石火で、エアームドを振り払おうとした。雲が頭上を通り越していく。そこでエアームドも負けじとスピードアップしたが、やはり俺からじりじりと引き離されていった。
「待ちやがれぇっ!」
「んなこと言われて素直に待つ馬鹿はいねえだろうよ!」
 と叫びあったところで、俺は上に方向転換。そして百八十度後ろを向いて元来た道を辿り始めた。エアームドの姿は見えなかったが、きっと翻弄されて抑制力を失って、下に落ちているところだろう。……ん?
 目の前から緋色の龍が飛んできた。リザードン、か。そのリザードンの上には、俺を捕まえようとしている人間が球を携えて乗っていた。逃げようと後ろを振り返ったら、視界には落っこちたと思っていたエアームドが。あの野郎、まだ追っかけてたのか……。
『観念しろ、涼風! 火炎放射っ!』
「うおああああ!」
 リザードンは雄叫び一つ、炎を吐きだした。まずい! 俺は下に潜り込むと、やつの黄色がかった白の腹へ突撃した。間一髪、いや、一髪でも多すぎるという判断だった。炎は俺の翼の先端を焦がさない程度にかすめるとエアームドに直撃した。ざまーみろ、と俺は調子に乗った。エアームドは落ちていく途中で、人間の球に吸い込まれていった。
『エアームドッ!』
あろうことか、そのまま逃げ去ればいいものを俺はそのままリザードンに突っ込んでいった。つばめ返しで切りつけようとして、ドラゴンクローで返り討ちにされた。右翼の付け根に広がる痛みをこらえて、やつと同じ高度まで上がるとエアスラッシュを打った。
――――人間が従えているポケモンは、なかなか実力があったようだ。
「はん、そんな攻撃くらいじゃ痛かねえよ!」
 リザードンはエアスラッシュを頭から受け止めた。なのに、額がかち割れるどころか傷一つなく弾かれてしまった。
「ふん、石頭の阿呆か」
 俺はそんな捨て台詞を吐き捨てると、背中を見せた。その辺を彷徨い歩きながら食って生きてる俺に、プライドとかそんなもんはありゃしない。逃げるが勝ちってやつだ。
「阿呆はおまえだろーがよ。俺のご主人はお前を捕まえようってのに、ぬけぬけと突っかかってきやがって!」
『リザードン、龍の怒り!』
 人間が何か叫んだかと思うと、俺の背中に衝撃が走った。リザードンを完全に殲滅しようと後ろを振り向いても良かったのだが、今の状態では勝てそうになかったからスピードをあげて逃げることに専念した。電光石火でスピードを上げて、そのままの勢いで飛び続けた。痛みとダメージで速度は下がっているだろうけど、相手はただでさえ重たそうなガタイで、人間を乗せている。いつの間にか眼下には果ての無さそうな樹海が広がっていた。追いつけは出来ないだろうと考え、全力で少しの間飛んだあと、後ろを振り向いた。
「……ちっ」
 リザードンは着実に、しかも結構速くこっちに近づいてきている。下は森だったから、高度を下げて、相手を森の中にぶちこんでやろうと思った。一旦入ってしまえば、そのときはあの巨体のことだ。木々に引っ掛かって動けなくなるに違いない。
 だが、現実は甘いものではなかった。
『もう一度、龍の怒り!』
 空を切って、人間の声が届いてきた。少し後ろを見たところ、リザードンがさっきの技を放とうとしていた。あの距離から? 無理に決まってる!
「お前、甘く見るなよ」
 リザードンは物騒極まりない一言を漏らした瞬間、俺は龍の怒りが体にぶち当たるのを、その痛みを、体に浸透させた。翼はその機能を失って、俺は自分が仕掛けた罠に自分から掛かりにいってしまった。不幸中の幸いだったのか、木々に阻まれて、人間は俺を収納する球を投げることができなかったようだった。それでも、枝が体に引っ掛かって痛い。翼は半分折りたたまれた状態だというのに滑空は続き、ある木に衝突して俺はようやく止まった。
「いってぇ……」
 体の左側をぶつけたために、そこだけがうずうずと痛む。しばらく翼も足も放り出して寝そべっていた。やがて、さっきの戦闘で受けた傷を癒そうと、オレンの実かオボンの実でも探さねば、と立ちあがったところ、目の前に何かが落ちてきた。青い柑橘系の果物――――オレンの実? 何で俺が探しているものがこんなにタイムリーに出てくるんだ?
 俺は不審に思って上を見た。そこには、オレンの実と同色の生物がいた。頭に三つの綿毛の塊を付けている。ワタッコ? こんなところにも生息していたのか。密林とまではいかないが、なかなか深くて光もさほど差し込まないこんな中で暮らすのは楽じゃないだろうに。
「あなた、涼風さんですよね?」
「あァ?」
 俺は眉根を寄せて、その名を呼んだやつを見た。ワタッコの他にものを言いそうなやつはいないから、こいつに違いないだろうな。
「もしかして、また追われていたんですか?」
「黙れ」
 オレンの実をついばみながら、生意気な口を叩くワタッコの野郎を睨み据えた。
“鋭い目”という特性は視界を守るには役立っても相手をひるませるには及ばないらしく、ワタッコはいかんともしない表情を浮かべていた。くそっ、こいつもついばんでやろうか……!
「……」
 戦闘で傷ついた俺の体は、オレンの実の一つや二つでは足りないようだった。傷が癒えないのは構わないが、腹が減って仕方がない。
「あ、足りませんでしたかー? もうちょっと取ってきますね」
 のんきそうな声でワタッコは言うと、ぴょこんと跳ねながら茂みの中へ入っていった。
「能天気なやつだな、俺を狙っていた人間がその辺をうろついているかもしれないってのに」
 俺はオレンの実の残骸の種をくちばしで弄んでいた。さっきは苛立ちと殺意を覚えたが、話し相手がいなくなるとどうもつまらない……。ここに落ちてきたときよりはだいぶ楽になったから、その辺を散策してみた。ワタッコが消えていった方とは別の方角に行ってみると、数十秒で開けた土地に出た。開けた、とは言っても光が周囲よりは多く射しこんでくる程度で、やはり木々に覆われている。俺はその真ん中へ行くと、脚で穴を掘ってそこにオレンの種を植え付けた。
 元の場所に戻ってきてみると、ワタッコがすでに戻ってきていた。オレンの実はどこにあるのか、と思いきや奴の頭部から生えている綿毛の中に青い塊が幾つも埋まり込んでいた。
「お前、いくらなんでもその運び方は酷えよ……」
「あ、戻ってきた。何されてたんですか?」
「なんでもない」
 俺はぞんざいにこう答えると、右翼を前に出した。ワタッコは綿毛を揺らし、オレンの実を五つその上に乗せた。
「サンキュ」
「いえいえー。あ、私この辺に住んでるので、いつでも声かけて下さいね。タネっていう名前なんです」
「タネ? ……分かった、気が向けばまた来る」
 来たくてここに来たわけでもないし、用が済んじまえばとっとと立ち去ろうと思っていたのに、こう返事した俺は……。嘘を吐く性根じゃない。つまり、戻ってこようとは思っていたってわけだな。
 休息をとっていると、やがて夕闇が訪れて星が空で煌めきだした。俺はさっきの言葉を撤回し、明日になったらこの森を立ち去るつもりで眠り込んだ。優しくしてもらったのは久しぶりだな、と夢うつつに感じながら。

 すぐに立ち去ろう、と思っていたのに、いつの間にか長居してしまっていた。たんに一夜二夜過ごすなら話は別だが、今や両足の指に加え両翼の羽全てを使っても数えきれないくらいの夜をこの森の中で過ごしていた。どれくらい経ったのかは分からないが、少なくとも森に住むポケモンと流暢に話すくらいには。
「お前、ピジョンにしては防御力は高いみたいだな。だったらフェザーダンスなんざ使ってもあまり意味無いぞ」
「うっす、御指導ありがとうございました!」
 俺が涼風であると知ってか知らずか、はたまた色違いだから強いポケモンだと思われたのか、毎日森のポケモンが鍛錬として俺相手にバトルを挑みにくる。人間から狙われるような色違いのポケモンは群れから爪弾きに遭うと思っていたが、全くその逆だった。一度不思議に思って、タネに訊いてみた。
「だって、骨のある人間でも滅多にこんなところに立ち入りませんよ? 薄気味悪くて何もない場所なのに……」
 いくらなんでも、自分の住む場所をこんなに悪く言うだろうかと思ったが、鎌首をもたげたそんな疑問は無視した。
「珍しいポケモンや財宝を求めるような人間ですら来ないのか?」
「今の人間は命が何よりも大事なんですよ」
 タネのそんな言葉を訊いて、俺はこの森に入る前に俺を追った男のことを思い出した。俺が考えるような人間がそんな武骨なら、あいつはもう俺を捕まえているだろうな。この森には来ていないだろうし、来たとしてももう帰っているだろう。
 なんだ、こいつ。やけに悲しそうな表情をしてるな。
「おい、タネ」
「何ですか?」
 誰か、俺に親しくしてくれるようなポケモンがいたら訊こうと思いながら、今までずっと思っていなかった。
「お前、人間と暮らしたいと思ったことはあるか?」
 多分、生まれも育ちも野生(確証はないが)のタネははいとは答えないだろう。
「人間と、ですか? うーん……」
 ただ、俺は何故か無闇にいいえとは答えられない。もしかしたら、人間といる方が楽しいんじゃないかって今でも思う。かと思えば、やつらに虐げられて悲鳴を上げるポケモンだっている。俺は、仮に誰にも看取られずに無様に死んでいくとしてもあんな愚劣極まりない人間のこき使われ役として生きていくのだけは嫌だった。そんなのは生きてるっていわねえよ。
「付き合う相手を間違えなければ、楽しいんじゃないですか?」
 ……ほう。
 タネは、言葉を選んだようには見えなかった。こいつは人間の下にいたことがあるのか? そこまで強くもない、普通のワタッコのように見えるのだが。
「じゃあ、ポケモンが人間と一緒にいたくないって思うのは自然なことか?」
「……」
 タネは答えなかった。
「涼風さん!」
 ニョロゾが来て、俺は鍛錬の相手をすることになった。

 それから、また沢山の夜が過ぎていった。ここに是非とも留まっていたい、というわけではなかったが別の場所に行こうという気概も段々薄れていった。
 タネは、不思議なほど人間たちのことを知っていた。ポケモンを捕まえる不思議な球のことも知っていた。“モンスターボール”というその名前を、俺は彼女から聞いた。
「お前、何でそんなに人間どものことを知っているんだ?」
「一回だけ、町に来たことがあるんです」
 そう苦笑いするだけで、タネはそれ以上教えてくれなかった。よく考えれば、名前が付くポケモンというのも珍しい。俺みたいにそこいらで暴れまわって有名になるか、人間の手下となるかしか名前をつけられる方法はなかった筈だ。まさか、コイツ――――?
 いつだったか俺が種を植えたオレンの樹が誇らしく若葉を茂らせ、青い実をたわわに実らせていて、地面に落ちた果実も多くあった。運が良ければ、その果実の中の種子がまた遠くへ飛ばされて新しい樹となるだろう。
その樹の根本に、タネが来る筈がないと言っていた人間が一人座っていた。隣にはリザードンが控えている。俺は、そこで初めてタネの叫び声を聞いた。
「マスター!」
 人間は肩を跳ねあげてこちらを見た。それは奇しくも、俺をこの森に追いやったあの人間だった。
『タネ! それに……涼風!』
 人間は、長い間追いかけてきた俺が目の前にいることよりも、タネがいることに驚いていた。彼女は走っていき、その青い姿を人間の体にうずめた。俺は人間に近づこうとはせずにその場で成り行きを見守っていた。人間は愛おしげにタネを抱きしめて泣いていた。
『何処に行ってたんだ! ずっと探したんだぞ……』
 まさか、とは一瞬思ったがやっぱりな、という気持ちの方が強かった。自分の仲間を取り戻したあの人間は俺をどうするつもりだろうか。
 リザードンが、俺をじっと見つめていた。やつは俺のところまで歩いてくると、静かに話し始めた。
「貴方が涼風か。話すのは初めてだな」
 態度こそ堂々とした好青年だったが、いかんせん顔が厳つい。無意識的に技を放つ構えをとってしまった。
「随分と警戒されてるなぁ……。お前さ、俺たちに着いてくつもりはねえの?」
 何だと! 俺がそんなあからさまな誘いに乗るような馬鹿に見えるのか!
 逆上し、気付けば翼を上に振り上げていた。リザードンは難なくかわしたようで、一歩後ろに下がっていた。金色の羽が一枚、ひらりと舞い落ちる。残念ながら飛んだ軌跡に虹を残す伝説のポケモンの羽ではない。かわされたことに対し苛立ちこそ覚えたが、よく考えればエアスラッシュを額で受け止めるようなポケモンだったな。
「危ねえなあ」
『涼風』
 リザードンの横に人間が歩いてきた。傍にはタネもいる。
「涼風さん、お世話になりました」
 彼女は礼儀正しく頭を下げた。どうやら、タネはこの後人間に着いて行くらしい。この森は、彼女が件の人間から離れて迷子になったときに迷い込んだところでこんな森の奥地じゃあ迎えに来てくれる筈がないと諦めていたのだそうだ。こいつは、こんな森の奥地でもはぐれたポケモンを迎えに来るというのか。
『お前、俺たちに着いてくる気はないか? 一緒に来てくれないか?』
 残念ながら、まともに人間と接したことがない俺はこいつが何を言っているのか理解できなかった。タネに翻訳を仰いで、その言葉をじっと脳内で繰り返した。
 俺は人間の目を見た。“鋭い目”という特性を持っている筈なのに、何故か目を逸らしてしまった。タネと人間が再会してから、俺の中でこの人間に対するイメージが全く異なってしまった。
「ちょっと……考えさせてくれ」
 答えかねる質問を弄びながら、俺は来た道を戻っていった。人間は俺を追おうとはしなかった。かなりの距離を歩き、すぐに戻るには飛ぶしかないところまで来ていた。
「タネ……?」
 だが、彼女は俺に着いてきていた。金色に染まった俺を無垢な瞳に映す。
「……」
 俺が名前を呼んでも、何も言おうとしなかった。丁度よかったから、俺は言いたいことを全て言うことにした。
「お前、あの人間に会えて嬉しかったか?」
「……はい」
 小さい声だったが、滲み出るのは明確な意志だけで曖昧さは感じ取れなかった。俺はもう一つ、最早これは言いたいことじゃなくて訊きたいこと、だな。
「あの人間、なんのためにポケモンを連れているんだ?」
 今度は返事までに少しばかり時間がかかった。やがて、タネは二回、三回と息を漏らした。
「多分、私達と仲良くなりたいんだと思います。仲良くなって、世界中の皆に幸せになってもらいたいんだと……思います」
 人間とポケモンが仲良くなることが、何故世界中のやつらの幸せにつながるのか、と疑問に思ったが、そのときあの人間の誠実そうな瞳が脳裏に浮かんだ。今なら、その瞳の奥に何があったかも断言できる。人間も、良いワタッコを仲間にしたもんだな。こーりゃまいった、降参だ。
「お前は、タネじゃねえな」
「え?」
 何であのとき、大人しくあの人間に着いていこうと思わなかったのか後悔したが、あのときの俺は人間など微塵も信じていなかったことを同時に気付いていた。
「タネはあの人間だ。いつか、ラフレシアよりもでかい花を咲かせるよ。どんな花かは知らねえけどさ」
「は、はぁ……」
 ワタッコは、俺の意味するところを理解しかねているようで、首をかしげていた。俺は、まさに俺自身が種を植えたオレンの樹の幹に寄りかかっていたあの人間を頭に思い浮かべていた。
「で、俺はあの人間さえよければそのタネが芽吹いて花になるまで手助けしてやってもいい」
 人間に着いていくことがとても楽しいものかどうかは知らないが、こいつはどう見ても楽しそうじゃないか。
「……そ、それって」
「合格だ、人間。せいぜいこの涼風を楽しませてみろっ!」
 俺はそう言い、ワタッコを掴むと颯爽と翼を動かして将来の大きな花の元へ飛んで行った。
メンテ
桜井さんのお花見 ( No.9 )
日時: 2012/05/08 23:06
名前: 夜月光介

テーマ:A「タネ」

 それは、何時もと代わり映えの無い晴れた日の事だった。
「――初心の人、ふたつの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、はじめの矢に等閑の心あり。この文章の中に出てくる『等閑の心』とは何か」
 僕は古淵先生の言葉を耳にしながらも、窓の外に立っている桜井さんの事が気になって仕方が無い。
 他の生徒は教室で授業を受けているけれど、桜井さんはそうする事が出来ない理由がある。
「桜井、等閑の心とは一体どういう心の事か解るか」
 灰色に近い頭髪を掻きながら片耳に付いている無線インカムに意識を集中させた先生から目を離し、教室中の視線が外にいる桜井さんに集まった。
 皆と同じ教科書を手に持っている桜井さんが何かを言っているのが解る。古淵先生は微笑みながら頷いた。
「そうだ、なおざりの心。すなわちどうでもいいと思ってしまう心の事だな。
 この文では二本の矢を持ってしまうと二本目の矢があるから大丈夫だろうと思ってしまうから、初心者の場合自分を戒める為にも二本の矢は持つなと諭しているワケだ」
 外に立っている桜井さんに皆の視線が集まる。
「流石桜井、頭良いよな」
「でも、頭でっかちとも言えるぜ。見た目もそうだけど」
 桜井さんがこの場にいない事を良い事に軽い悪口を言う者もいた。校庭に立っている彼女の事は当然他のクラスや他の学年の生徒もよく知っている。
 恐らく学校内だけでは無くこの市内で彼女を知らない人はいないだろう。誰よりも知名度がある彼女は、誰よりもまた孤独だった。

『最初はちょっとした事だったんです。でもそれが大変な事になってしまうのですから難しいですよね、人生って』
 桜井さんの言葉が脳裏をよぎる。僕は彼女の言葉を頭の中に浮かべながら彼女の境遇に関して思いを巡らせた。
 彼女が普通の人とちょっと違う様になってしまったのはこの私立桜ヶ丘明星高校に入学するずっと前。
 当時まだ幼稚園児だった頃に起こった出来事からだと彼女は言っていた。
『先生が私達に種を抜いたさくらんぼを持ってきてくれたんですよ。先生の実家から沢山送られてきたみたいで。
 でも手作業で種を抜いたと言う事は当然不手際も有り得ますから、私が運悪く種が入っていたさくらんぼを引いちゃったんですよね』
 彼女は誤って種を飲み込んでしまい、その場は何も無かったけれど数日後に髪の毛が全て桜色に染まってしまった。
 さらに数ヶ月後には頭の頂辺から芽が出てきて、あっと言う間に成長して桜の木が生えてきてしまったらしい。
『芽の段階で抜こうとしたり、成長した後に切り株にしてしまおうとか両親も色々してくれたんですけど、全部駄目でした。
 痛くて痛くてどうしようも無かったんですよ。木が生えてきた事以外は体も普通なので今はそのままにしちゃってますね』
 桜井さんが校庭にいる理由はこの大きな桜の木にある。あまりにも大きいので教室に入って授業を受ける事が出来ないのだ。
 自宅ではお父さんがお金持ちなのでとても高い天井の家を作ってもらい生活しているのだが他の場所にはそうそう入る事が出来なかった。
 他の人の家、施設、電車にも車にも乗れない。勉強は出来るが体育関係は全て見学。彼女は孤独だった――

「毎度ただ得失なく、この一矢に定むべしと思へといふ。本村、この文章を今の言葉に変換して答えてみろ」
 考えを巡らせている時に突然指名された為、僕は慌てて立ち上がった。
「ハッはい。何時も仕損じる事が無い様に、一本の矢を射つ事に集中するべきだと言う事ですよね」
「そうだ。その矢が敵に当たらないと言う事は即ち敵の矢が自分に向かって飛んでくると言う事でもある。
 何時も神経を集中させて一本の矢を射つ事に臨まなければ戦いには勝てないと言う事だな。
 それにしても本村が授業に集中していないとは珍しいな。頼むから私の授業の時でもちゃんと集中してくれよ」
 古淵先生の軽いジョークに他のクラスメイトも笑って僕を野次ってくる。
「そうだよ委員長、満開の桜井さんを見てる暇があったら先生の話を聞いてろって」
 僕は赤くなりそうな顔を必死に抑えて再び席についた。他の人達も薄々僕の気持ちに気が付いているのだ。桜井さんの事が、とても気になっていると言う事に。

 放課後、僕は何時も桜井さんと一緒に下校する。帰る道は途中で分かれるが家の前まで送る事にしていた。
「桜井さんの桜も丁度今頃が見頃だね」
「そうなんですよ。家の中で風を避けるので散らずに済んでいます。でも、満開なのはもってあと数日かもしれませんね」
 今の所風も穏やかで付近の桜も見事な花を咲かせていた。だけど、僕の目には桜井さんの桜が一番綺麗に映っている。
 でも僕は恋に関しては臆病で、今まで彼女に自分の気持ちを伝える事がどうしても出来ないでいた。
 彼女の家の前でさよならを言い、帰ろうとしたその時、後ろから声をかけられる。
「有難うございます。本村君だけですよ、私とまともに話してくれる人は。これからも仲良くしてくださいね」
 僕の頬に涙が伝い、振り向く事が出来なかった。彼女を助けてあげたい。その為に何をするべきなのか。
 僕は桜井さんと他のクラスメイトに交流を持たせる為に何か企画をしなければならないと思った。

「古淵先生、何か良いアイディアはありませんか?」
 翌日、授業が終わった後で僕は担任でもある古淵先生に桜井さんの事について話を持ちかけた。
「そうだな、私も桜井が優秀な生徒であるにも関わらず避けられているのは良くない事だと思う。
 集団の中に紛れ込んだ異分子であると認識されて避けられるのなら、いっそ異なる所を利用して混じってしまえばいいんじゃないか」
 古淵先生はそう言うと教室の壁にかけられているカレンダーに目を向けた。僕の視線もそちらへ動く。
「明後日は日曜日だな。近くに広い公園があるから桜井の花見でもしようじゃないか。
 あそこなら徒歩でも充分行ける距離だし桜井が入れない様な場所じゃ無いからな。たまにはワイワイ騒いでみるのも一興だろう」
 黒縁眼鏡と口髭が似合う先生は僕に向かってそう言うと、校庭に立っている桜井さんを見て微笑んだ。
「あんなに綺麗な桜は都会ではなかなか見れないぞ。この辺は常緑樹ばかりが植えられているからな」
 確かに彼女が他の生徒と交わる事が出来れば、今の状況を改善出来るかもしれない。
 期待に胸を膨らませ、僕は全ての授業が終わった後、帰りの会での皆の反応に期待する事にした。

 そして当日、古淵先生と僕の呼びかけによって集まったクラスメイトは全体の八割にまで達した。
 用事があって来れない者を除いてもこれだけの仲間が集まってくれたのは心強い。何処でその話を聞いたのかお祭り感覚で参加した他のクラスの生徒も数名いた。
「皆も知ってる場所だと思うが、近くの公園まで歩くぞ。蓙を敷いて飲み食いする許可は取ってあるが、あんまり騒ぎ過ぎるなよ」
 全員に釘を刺しながら先頭に立って歩き始めた先生の後を僕や今日の主役である桜井さん、そして生徒達が続いて歩く。
「桜井さんの桜も今日まで散らずに済んだね」
「本当、先生から話を伺った時には今日までずっとドキドキしてましたよ。散ったら申し訳が立たないとずっと思ってました。
 何とか満開の状態を保ってくれて良かったです。それに、皆と色々お喋り出来る機会も今までありませんでしたから……」
 桜の事も心配だっただろうけれど、桜井さんとしてはこれ程大勢の人達と行動を共にするのは初めてだろう。
 桜井さん本人や御両親に頭を下げて通った今回の企画を、僕は何としても成功させなければならないと思っていた。
『うちの娘を見世物にする様な真似は、ちょっとねぇ』
 最初に僕と先生が直にその企画の話をした時、やはり明らかに御両親は乗り気では無かった。
『でも私、皆と話せる機会が持てるのなら、そうした方が良いと思うの。
 私がこういう頭だから上手くコミュニケーションを取れないできて、初めて巡ってきたチャンスだから逃したくない!』
 彼女本人の説得により最後は折れてくれたもののそこまでこぎつけるだけで数時間はかかってしまった。
 この企画は僕と桜井さんがもっと親密になれるチャンスでもある。女生徒と笑顔で話している彼女の姿はキラキラと輝いていた。

 高校から歩いて二十分程の距離にある広々とした公園には遊具らしい遊具は殆ど置かれておらず、少し盛り上がった一面の芝生になっている。
 ベンチが何個か置かれているが僕達は芝生に蓙を敷くと桜井さんを中心にして昼食の準備を始めた。
「おい、桜井の方にも蓙敷いてやれ。座っていいからな」
 靴を脱いで蓙に座った彼女に皆が作ってきたサンドイッチが手渡される。桜井さんは授業中には出来なかった雑談を存分に楽しんでいた。
「この公園桜が全然無いから、花恵ちゃんがいると美しさが際立つねー」
「先生、今日は無礼講ですよね」
「馬鹿、酒なんか持ってきてないだろうな。酒はあくまで成人している奴が飲むもんだ」
 古淵先生はそう言いながら自分が持参した日本酒を御猪口に移すとぐいっと飲み干す。
「ホラ、桜の花びらが酒が入った御猪口に落ちて綺麗だろう。上杉謙信は一生は一杯の酒の様なものだと言ったが、まさにそんなものなのかもしれん。
 美しい桜を見ながら奴さんも一杯やったんじゃないか。ま、後で全員が片付けなきゃいかんがな」
「えー、片付けなきゃいけないんですか?」
「当たり前だ。この公園の芝生に桜の花びらが落ちたままになってたら苦情が来るぞ」
 特に大騒ぎする事も無く花見は進行していった。どちらかと言えば桜井さんとの親交を深める為の企画だったのでそれが一番なのだろう。
 僕も皆の輪の中に入って会話を続けていた。

「そういやさ、お前って桜井さんと仲良いみたいだけど付き合ってるの?」
 唐突にクラスメイトにそんな事を聞かれ、僕は面食らった。桜井さんも顔を少し赤くしている。
「いやさ、俺達も桜井さんは綺麗だなって思ってたんだよ。でも会話する機会があんまり無いじゃん。
 それでいて大人しいから全然話す事が無くなっちまったんだよ。それでも本村は一緒に帰ってたりしたろ?」
「そうそう、私達も花恵ちゃんと話す機会があんまり無いからちょっと近寄り難くなっちゃって……
 今になってみればもっと色々話しておけば良かったわ。花恵ちゃんの方は本村君の事をどう思ってるの?」
 酒が入っているワケでも無いのに突っ込んだ質問をしてくる彼等に対して、僕と桜井さんは顔を赤くして俯く事しか出来なかった。
「わ、私は本村君の事は好きですけどまだそんな所には……」
「じゃあもう公然に付き合っちゃえば?本村君もその気はあるみたいだし」
「そうだよ。いっその事カップル成立しちゃえばいいじゃん。相思相愛なら尚更さ」
 男子生徒も女子生徒も無茶な事を押し付けてくる。すっかり顔を赤くしてしまった僕は何も言う事が出来ないでいた。
「コラコラあんまり本村と桜井を虐めるな」
 古淵先生が笑いながら助け舟を出してくれた。皆虐めているワケでは無いと言い訳しながらもその話を切り上げてくれる。
「私も恋の話は嫌いじゃ無いが……覚えておけよ。恋には勇気と覚悟が必要だ。支え合いが一番大事って事もな」

 風は穏やかだったけれど、満開の桜は散り時だったらしく帰る頃には沢山の花びらが落ちてしまい、片付けも大変だった。
 自分が出したゴミだからと桜井さんは懸命に箒で掃いていたが、僕やクラスメイト、先生も一致団結して協力し何とか全ての花びらを拾い集める。
「ちょっと寒くなってきたしそろそろ帰ろう。綺麗な桜も殆ど落ちてしまったが、また来年が楽しみだ」
 公園での現地解散だった為殆どのクラスメイトはバラバラになり、古淵先生と数名の生徒と共に僕達は家路を急ぐ事にした。
「夏休みになったら高校生活最後の夏だし遠出出来ると良いな。私の息子がトラックの免許を持ってるから荷台に桜井を乗せて運べばいい」
 古淵先生は早くも次の企画を考え始めている様子だったが、僕も桜井さんも先程の話がまだ少し気になっていた。
「なぁ本村、お前は大学行くの?」
「まだ、ハッキリとは決めてないけどその為の勉強はしてるよ」
「そっか。俺は卒業したら親父が手伝ってくれって言ってるんだよ。思いっきり遊べるのも多分今年までだな」
 周りの皆も桜井さんも僕も、結局は同じだった。子供から大人になる最初の扉、それが高校を卒業すると言う事なんだろう。
 まだ僕達は子供でいれるけれど、きっと来年はこうやって花見をする事は出来ない。そう考えると少し寂しかった。
「あの、さっきの話ですけど本村君は私の事……どう思ってるんですか?」
 他の生徒と距離が遠くなったのを見計らったのか、桜井さんは僕の近くに行き小声で僕に聞いてきた。
「好きだよ。でもまだ……そうやってハッキリ言うのは照れ臭いし先生が言ってた覚悟が足りないと思ってる」
「そうですか……奇遇ですね、私もそんな感じです」
 桜井さんは微笑むと、付け足す様にこう言ってくる。
「でも、貴方の事をヨウ君って呼んでもいいですか?」
 僕は頭を掻きながら笑って頷いた。


「皆、高校最後の夏休みだ。勉強も大事だが息抜きもちゃんとしろよ。遊べる時に遊んでおけ。メリハリをちゃんと付けろ」
 季節は移り変わって夏になった。夏休み前日の帰りの会では既に僕を含め多くの生徒達が期待感を隠せない。
「それと……前々から言っていたが桜井と一緒に海を見に行こう。まだ桜井は海を見た事が無いらしいからな」
 校庭に立っている桜井さんは外に立っている為に日焼けが目立ち、美しい青葉を木に沢山茂らせていた。
 皆も僕も彼女が笑顔でいる事に喜び、窓の近くに立って彼女に見える様に大きく手を振る。
 淡い恋も僕達の最後の夏休みも始まったばかり。眩しい太陽の下で佇む彼女の姿を想像しながら、僕は彼女の笑顔に応えてまた大きく手を振った。
メンテ
毒を前に、進め ( No.10 )
日時: 2012/05/27 21:42
名前:

テーマ:B

 隙間からやってくる穏やかな風もあってまさに春の麗らかな陽気といったところか。しかし今俺が対面している状況は昼下がりにお茶を飲みたくなるようなリラックスした雰囲気ではなく、緊張で頭が真っ白となってしまった俺にとっては修羅場とでも言うべき場面であった。
 俺の目の前にいる人は一人のお爺さんだ。
「――というわけで、この子をしばらく預けたいのです。宜しいですか?」
 お爺さんが尋ねてくる。宜しいも何もない、引き受ける他に道はないのだ。
「はい……」
 なんだか言葉が震えている気がする。我ながら情けない。
「では、宜しくお願いしますね」
 お爺さんはにっこりと笑って席を立つ。慌てて俺も立つと、相手は余裕を持った物腰で会釈をした。それに対してほぼ直角の礼を返すと、二人は扉を開けてその場を後にした。
部屋に残された俺はただ呆気にとられるだけだった。あっという間に進んでいった会話の内容を改めて追い、そしてふと現実に返ってテーブルの上に置かれた一つのモンスターボールを見下ろす。それはお爺さんがここに残していったものだ。隣には数枚の紙があり、まだ深く目を通していない文字の羅列が並んでいる。
俺は一つ溜息をついた。緊張で強張った体は緩んできたが、代わりに訪れてきたのは孤独が身に染みる時に似た不安。
加奈子さん、早く戻ってこないだろうか……。
ぼんやりと俺はここの育て屋の経営者であり、自身の先生といえる人の帰りを待ち望んだ。

 数分経った後、からんという鈴の音と共に扉の開く音がして、俺ははっと顔を上げた。
「あっれ己一くんこんなところで何やってんの? そこは私の席じゃんね。はいどいたどいた。あとこれ片づけて」
 言い切るか言い切らないかのところで両手に持っていた大きな茶色の紙袋を放り投げてくる。もちろん、俺に。突然のことながら日常だしその攻撃がやってくるのは分かっていた。何度受け取ってきたと思ってんだ、立ち上がって器用にそれを受け止める。けど今日の荷物は固いものが入っているようでそれが腕に圧し掛かりさすがに痛みが走る。
「……加奈子さん、そろそろ荷物投げるのやめましょうよ」
「んー、なにそれ」
 清々しいほどのシカトを繰り出し、こちらに歩み寄ってきてテーブル上のモンスターボールを手に取り次に紙面に目を通す。
「へえ、あたしが居ない間にお客さんが来たの。それも難しい子が来たね」
 加奈子さんは顎に手を軽く当てて考えている素振りを見せる。
 俺は加奈子さんの荷物をソファの上に一度置くと、肩を落とす。
「はい……だから接し方がよくわからなくて……」
「分かるけど、たまにこんな人も来るのよ。良い経験さ」
「わざわざ加奈子さんが居ない時に来なくても……」
「うだうだ言ってもしょうがないじゃない。あんたはあたしが居るより一人で居た方が自分で考えるから成長するし。はい、これ」
 直後、加奈子さんは手に持っていたものを僕の方にそっと放り投げる。慌てて受け取ったそれは、一つのモンスターボール。
 しかし突然押し付けられたかのように思われ俺は思わず加奈子さんの方を怪訝な目で見つめる。その表情はにこにこと笑っていて、さばさばとした彼女がそうやって笑うのは何か意味あってのことだと俺は分かっていた。
「あの、加奈子さん?」
「あんたもあたしの助手は飽きたでしょ。一度自分だけで育てなよ」
 予想の範囲内、いや、予想のど真ん中を射抜いた。
ここ最近加奈子さんは俺一人に育成を任せることを含んだ発言をするようになっていた。そのたび俺は流してきたが、いつかは来る現実というものがやってきた。
それでも俺は拒否を示そうと顔をあからさまにしかめる。
「初めから俺一人で、ですか? 急ですって」
「急じゃないわよお。前からそろそろって言ってたじゃない」
 そうですけど、と言おうとしたところで、それにと加奈子さんは付け加える。
「己一くんって受身なところあるじゃない。もっと自分で考えて行動していかないと」
 真っ直ぐに向かれた視線が突き刺さり、心に小さな痛みを残す。何も言い返すことができずに、俺は手元のボールに目を落とした。光を反射して照るボールの中を外側から見ることはできないが、中からは見えているだろうか。この手の中のポケモンは俺の第一印象をどう持つのだろうか。
「じゃあ、頑張ってね。あたしはタマゴの様子を見てくるから」
 加奈子さんは軽く手を振りながら、玄関側とは反対の裏口の方から外へと出て行った。扉が開いた途端に隙間から零れてきた風をすっと吸い込む。不安とは別の理由でも高鳴る心臓の鼓動を抑える。
掌に収まっている生き物の名前は、ドガース。
確かに、難しい子、だ。



一般に毒タイプのポケモンはあまり手持ちにするのに好まれていないのが現状だ。
俺自身もトレーナーとして過ごしていた頃に毒タイプのポケモンを持ったことはないし、加奈子さんに弟子入りしてからも殆ど見たことはない。
 元々気性が荒いポケモンも多く、やはり扱いづらいというのが誰も声を揃える。
今回託されたドガースは扱いづらいポケモンの中でもなかなか上位に当たるポケモンだろうと俺は思う。今、加奈子さんの持つ大量の蔵書をあさって情報を集めるまでそれは仮定でしかなかったが、それが明らかに真実であることが分かってきた。
人間の生み出した廃棄物質から生まれたポケモン――ある図鑑でビジュアルと共に載せられた文の羅列の始めには、そう書かれていた。
兵器工場の毒ガス貯蔵倉庫で最初に発見され、薄い膜のような体の内側には猛毒のガスが目一杯に詰め込まれている。まさに毒入りの風船のようなものだ。ただの風船なら良いものを、体のあちこちの穴からガスは当然吹き出すし、時には小さな刺激でも大爆発を起こすときた。そして匂いも天下一品なことでよく知られているようだ。なぜこのようなポケモンをお金持ちが持っていたのだろう。まあ道楽か何かで手に入れてみたら予想以上に扱いが難しく手に負えなくなり、育て屋に押し付けたという流れは容易に想定できる。
俺は今手に持っている分厚い本を閉じた。同時に大きな溜息をついた。これは扱いが難しいなんてものじゃない、もしかして、もしかしなくても相当危険な仕事なのではないだろうか。
机に山積みになった本の隣には、まだ開けていないボールがある。調べれば調べるほどにマイナスな情報しか出てこない。それが一層不安を煽る。ボールを開くというその簡単な動作をする勇気すら出てこない。
お客さんからもらった書面をもう一度読む。行動の履歴も載っているがやはり爆発騒動もあったようだ。気にかかるのはそういった行動の詳細が四か月程前を境に途切れていることだ。要は、その頃から日の目を見ていないのだろう。文字通り臭いものには蓋をしたということだ。
ドガースの気持ちも汲めるが、人間側の気持ちも理解できるというのが、また難しいところだな。
 また一つ溜息をついてしまう。
とりあえず相手のことを知らなきゃ始まらないと思ったのに、結局止まったままじゃないか。こんな重い役をわざわざ最初に回さなくてもいいのに。思わず加奈子さんのことを恨めしく思ってしまう。
少し気分転換でもしよう。
ゆっくりと椅子から立ち上がって肩を伸ばす。大きく鳴る音が書庫に響き、埃っぽい窓を思いっきり開ける。
眼前いっぱいには若々しい草原が広がっている景色がある。柔らかな青い空と、黄色や白といった可愛らしい色合いの花もちらちらと見える草原の中で、あらゆるポケモン達が走り回ったり昼寝をしたりしている。小さな池の傍で丸いお腹を上に向けて気持ち良さそうに寝ているコダックの姿が丁度目に入り、思わずにやけてしまう。池から顔を出したハスブレロがその様子を発見し悪戯に笑うと、忍び足ならぬ忍び泳ぎでコダックに近い位置までやってきて、その黄色く丸いお腹の上で手を小刻みに這わせる。瞬間コダックは安眠からぱっと解放され、悲鳴と共に地面から数センチ跳びあがった。ハスブレロは手を叩いて笑うと池の中に逃げるように潜る。コダックは睡眠妨害に腹を立ててすぐに追いかけて行った。ハスブレロは悪戯好きでのんびり屋のコダックは良い標的である。
 のんびりとした時間だ。ここに流れる空気はゆったりとしていて、同じくゆっくりマイペースな俺には合っている。できるならずっとこうして浸っていたいのに。
「おや、サボりとはやりますなあ己一くん」
 妙に纏わりつくような声色で寄ってきたのは、加奈子さんだ。ここは加奈子さん一人が経営しているから当然といえば当然だけど。
 苦笑いで流すと、彼女の隣にいる黒い毛並の気高い様相をしたグラエナにすぐに気が付いた。
 他でもない、そのグラエナはその進化前であるポチエナの頃からずっと一緒だった俺のパートナーともいえるポケモンだ。ただかっこいい外見とは裏腹にその名前はヒナだ。
「ヒナー久々だな。足の具合はどうだ?」
 窓から身を乗り出し、その頭を思いっきり撫でてやる。ヒナは気持ち良さそうに笑い、上機嫌に尻尾をぶんぶんと振っている。まったく可愛いやつだなあ。もっとなでてやる。
「順調よ。今はリハビリに散歩しているの」
 喋れないヒナの代わりに加奈子さんが教えてくれる。
 ヒナは俺が転向して以来、育て屋のポケモン達の世話役の一端を担っている。ただ数週間前にポケモン同士の喧嘩を止めようとした際に、噛みつかれたために大量出血するほどの怪我を負った。
トレーナー時代は些細なことでもすぐに落ち込んでしまう俺の傍にいつもいてくれた。目立ったことはしないけれど、落ち込んでいるときには隣にくっついて離れなかった。時には叱咤し、不甲斐ない俺を励ましたその心には頭が上がらない。
「ところでドガースくんはなんとかなりそう? まあ、その様子だと手こずってるみたいだけど」
 話を戻され俺は肩を落とす。
「まだ、ボールから出せてもいなくて。俺ドガースのことなんて全然知らないからまず本を読んでどんなポケモンなのか調べたんですけど、なんか逆に落ち込んだ、というか……」
 ああ、情けない、加奈子さんやヒナの前でこうやってすぐに落ち込んでしまう。
「まあドガースはねえ、どうしても疎外されてきたし、作者もそりゃあ危険な部分を指摘するわね。危ないところが特徴だし」
「俺、うまくやれる気がしないですよ」
「でも、本とかメモに書いてあることが全てじゃないから。ポケモン自体を見なきゃ、なんにも、なーんにも、意味ないからね。ここ重要。はいヒント終了」
「ええっ」
「言ったじゃないもっと自分で考えろって。あたしじゃなくて本でもなくて、自分がやりな」
 さばさばと加奈子さんは言い切って、ヒナに声をかける。ヒナは名残惜しそうに俺を見たが、加奈子さんの歩みに沿ってゆっくりと歩き始める。その歩き方はぎこちなく痛々しい。でもヒナは痛みに耐えて頑張っている。俺もやっぱり頑張らなくちゃいけないんだ。
振り返って机上のボールを手に取る。
頭の中に周辺の地図を描き、先程読んでいた本を一つともらった書類とペンを合わせて持ち、書庫から直接外に出られる扉へと向かい、その場を後にする。
全身に受ける自然の息吹に心を落ち着かせる余裕は特に無く、少し速いスピードで歩く。
 広大な土地を数分横断すると、鬱蒼と茂る林の傍までやってくる。林は林で虫タイプを初めとして別のポケモンがいるが入口付近はいつも空いている。
歩幅を徐々に小さくしていき、地面にボール以外の持ってきた物を落とす。そしてドガースの入ったそれを改めて見つめる。
廃棄物質から生まれ兵器工場の毒ガス貯蔵倉庫で発見され体内には猛毒のガスを溜め込みそのおかげで臭くちょっとの刺激で大爆発を起こす――。
短時間で得た情報が脳内を駆け巡る。
 ふぅと息を吐く。一人緊張が走る中で開閉スイッチをついに、押した。
ボールが開き、中から眩しい光が跳びだし空中で形作られていく。そして見た目が完全に形成される前に何よりも真っ先に鼻に異臭が飛び込んできた。臭い、臭いなんてもんじゃない、酷い匂いだ! 随分と放っておいた生ごみの匂いと似ているけれどそれより一段階臭い。思わずむせ返った。
 目がきんと痺れて歪む視界の中で、黄土色の煙が広がる。その更に内側に、紫色の球体が浮かんでいた。図鑑で見た写真と一致する。
目を瞑りながら腕で僅かな風を起こしてガスを払う。
涙が止まらないがようやくガスが風に乗って消えていき、問題児と対峙する。
 目を擦って改めて見ると、少し間の抜けたような顔つきが俺を待っていた。口から小さく低い鳴き声が漏れる。
こいつが……ドガースか。
 
そこで、ふっと視界が暗転した。




 気が付いて視界にまず入ったのは、オレンジ色の天井だった。
目の開いた俺の顔を突然生温かい舌が舐めてきた。それがヒナの仕業だと気付くのにそう時間がかからなかった。
切なそうに鳴くヒナの頭を撫でようと体を横に動かすと、額に乗っていたらしい湿ったタオルが床に落ちる。ヒナもオレンジ色になっていた。そうしてその色が太陽の光であることに気が付く。
 どうやら応接間のソファに寝ていたようだけど、記憶は曖昧に霧がかかっていて、はっきりと思い出せない。それにしても頭が痛い。殴られてるみたいだ。それに体がやたらと怠い。
ヒナが早歩きでその場を離れるのを見届けると、ゆっくりと上半身を起こす。その瞬間胃からせりあがるような吐き気が襲い掛かってきた。思わず体を畳むが、口から出てくるのは唾液のみ。
深呼吸を繰り返すと新鮮な空気が循環し、少し気分が良くなる。
 ソファに背中を預けて虚空を眺めていると、だんだんと数時間前の出来事が蘇ってくる。
そうだ、ドガース……。
ドガースがボールから出てきて、一緒に跳びだしてきた毒ガスを思いっきり吸ったせいで倒れたんだ、きっと。それで夕方の今の今まで気を失っていたんだ……。
 その時部屋の中に固い足音がやってくる。顔を上げると安堵の表情を浮かべた加奈子さんがいた。その隣には先程まで一緒にいたヒナの姿もある。
「良かった。さすがに顔を真っ青にして気を失ってるのを見た時には、どうしようかと思ったわ」
 加奈子さんは言いながら、半透明の白いジュースのようなものが入ったコップをテーブルに置く。
「モモンの実のジュースよ。大分薄めてあるけど、きつくなければ飲みなさい」
 ああ、なんだか加奈子さんがやたらと優しい。別人みたいじゃないか。
「……じゃあ、遠慮なく」
 軽く会釈をしてからコップを手に取りゆっくりと飲んでいく。確かに薄味だが今の自分には丁度良かった。ほんのりとした甘さが口の中に広がっていく。
「そういえば、ドガースは?」
「散歩中。他の鳥ポケモンが様子を見てくれてる」
「……そうですか」
 とんでもないスタートを切ってしまった。まともにスキンシップも取れずにこっちが倒れるだなんて。
「どうせ自分の傍でボールから出したんでしょ? あんだけ用心して本も読んだのに、そういうとこがまだまだ甘いわよね。とりあえず危険なポケモンは少し距離を置いて様子見なきゃ。それを怠ったせいで毒ガスをまともに吸い込んで気絶、目覚めたから良いけどほんとなら笑いごとですまないから」
 次々と出てくる加奈子さんらしい毒の効いた節。しかしその表情はいつになく真剣で厳しいものだった。
俺は流すようにへたへたと笑うこともできず、ただ俯いて己を恥じるしかなかった。
「でも、仕事を投げ出しちゃだめだからね」
 叱られている子供のように、黙って頷いた。
「このドガースの世話は、しっかりやりな。きっといろんなことが見えると思う」
 無防備な心に、彼女の剣のような言葉が突き刺さっていく。
 完全に黙り込んだ俺を見かねたのか、加奈子さんは浅い溜息をついた。
「もう今日はいいよ。ゆっくり体を休ませな」
 軽く俺の肩を叩いて、ソファの背もたれにかけてあった薄い布団をかけてくれる。その後もう一度外に出ていき、部屋の中には俺とヒナだけが残された。
 時間をかけるほど、加奈子さんの言葉が重く深く沈んでいく。裏が無い性格だからこそ真っ直ぐに届いてきた。向いてると思っていないというのも本心だろう。実際、俺もバトルの道を避けて選んだという消極的な道だから言い返すこともできない。
才能とかそういう眩しいものはきっと自分には無い。何をやっても中途半端で空回りして、落ち込んでの繰り返し。何も昔から変わっていない。
 と、ヒナが突然ソファの上に飛び乗り、隣に寝そべるように座り込む。ポチエナの時に比べ随分と大きくなった体であるが故にソファが一段と狭くなる。さらさらとした毛並が触れ、生き物独特の香りが鼻をくすぐる。甘えるように上半身を寄せてくる。グラエナらしい勇ましい様子は欠片もない。でもヒナがまた、隣で励まそうとしてくれているのだということはすぐに分かった。
「ありがとう、俺、明日からもう少し頑張ってみるよ」
 呟くと、ヒナの喉が低く鳴った。
その日は随分と深く、眠ることができた。



 時は巡り、朝がまたやってくる。
 再びドガース入りのボールと毒消しの錠剤を手に、またあの林の入口へと足先を向けた。
木漏れ日の下、俺はボールを見つめる。昨日の失敗と加奈子さんの言葉を思い返し、ボールを少し遠くへと投げる。物理的に少し離れた場所でボールは開きドガースが出てくる。そして昨日と違う点に瞬時に気が付いた。昨日は視界が眩むほどの量だった毒ガスなのに、今日は少しも出ていないのだ。
なぜだろう? 本の内容を思い出してもその理由は出てこない。
 でもこれで少しは臭さが薄れるし、昨日より安全に向き合えそうだ。勿論、油断は禁物だけど。それにしても少し遠い。数メートルの差がある状態で話したとして、ドガースに届くだろうか?
「え、っと……改めて初めまして、己一です」
 他人行儀の言葉を並べると、ドガースは体を斜めに傾け目を細める。人間でいえば首を傾げているような心情が伺える、気がする。
「その、昨日は折角出したのにすぐに倒れてごめん……って、ええっ!」
 いやいやいやそんな、ドガース俺の方とは反対側に行こうとしてるんですが!
つまり完全に無視なんですが!
「待って待って待ってちょーっとでいいから会話ってやつをしようよ、ああー飛んで行かないでほんと」
 ふわふわと風船が動いていく。慌てて数メートルの差を埋めてドガースの傍に寄り無理やり止めようと手を伸ばした。その瞬間、ドガースの体の穴からガスが噴き出す。思わず顔をさっと避け体を引いてしまう。
 だめだ、これじゃいけない。もっとドガースを身近で知らなきゃ。思いが走り、息を止めた状態でドガースに触れた。思っていたより柔らかい体で、力を入れれば割れてしまいそうだった。
 しかしその時指先に跳ね返すような力が加わり、直後ドガースの体内が白く光るのが分かった。それが意味するところを、昨日の情報から簡単に予測することができた。
 さすがにまずい、そう思ってドガースから離れて思いっきり体を伏せた。数秒後、ドガースの体全体が光る。
直後、大きな破裂音と共に小規模ながら爆発が起こった。
爆風が体を吹き飛ばさんと襲い掛かる。
びんびんと震える鼓膜。震えを越して響く、痺れるような痛み。
一瞬の出来事に呆気にとられ、巻き上がる灰色の煙が晴れていくのを待つ。草原は抉られ、それほど大きくなかったとはいえ大きな威力を発揮させていた。
そして煙の中心には地面に目を回した状態で倒れているドガースの姿があった。気のせいか体は少ししぼんでおり、また浮かび上がる気力ももう無いようだ。
少しの刺激でも、爆発を起こす。
確かにそう書いてあったけど、ちょっと触っただけでも爆発するなんて、いくらなんでも繊細で神経質すぎるだろ。それじゃあどうやって接していけば良いというんだ。
とりあえず、完全にのびているドガースの傍に寄り、座り込む。爆発がドガース自身の意思と関係なく起こるのだとしたら、今触ったらまた爆発が起こる。
どうしたらいいんだ。
どうやって接していけば良いというんだ。
尋ねようにもドガースは気を失っていて、ただただ途方にくれるだけだった。



三十分も経たないうちに、ドガースは目を覚まし、ゆっくりと浮遊をし始める。ふらついているけど、意外と大丈夫そうだ。柔らかな体だけど、案外丈夫なのかもしれない。
それでも浮いていられるのは地上十センチ程の高さで、相当の体力を消費したのは目に見えている。
「無理はしなくていいよ、……もっと休んでおけばいいって」
 とりあえず、声をかけてみた。ドガースは恐る恐るといった風に俺の方に視線を向ける。ガスが少し漂っている、それに怪訝な目をしていて明らかに警戒している。思い込みでそう見えるだけだろうか、警戒しているのは俺も同じなのだから。
 結局お互いに近づくこともできず、それからしばらく沈黙が続いた。
 今は力を失っていて休んでいるけれど、元気があればさっきのように空へと飛んでいくだろう。昨日も鳥ポケモンと一緒にこの辺りを回っていたというし、空が好きなのだろうか。確かに昨日も今日も散歩には絶好の機会だけど。
 今は、何を考えているんだろうか。まだ殆ど会話していない俺のことを、どう思っているんだろう?
 よく見ると、ドガースはずっと向こうの方を見つめていた。
「……広いとこだろ? ここら一帯は、全部加奈子さんの土地なんだ」
 ドガースは俺の方を見る気配はない。それでも、独り言のような会話を投げかけ続けてみることにする。
「加奈子さんっていうのはこの育て屋の経営者で、元々は親族の……確かおじいちゃんだったかな、その人のものだったんだけど、亡くなられて長く放置されていて、寂れていたんだけど、加奈子さんがここをもらったんだ。今の景色じゃそんなの想像できないだろ。俺だって信じてないよ」
 一人勝手に笑う。ドガースの表情は固いままだ。空しくなるけど、ここで引き下がるわけにもいかない。
お互いに警戒を解いていかなくちゃ、始まらない。
「俺は前にトレーナーやってて当たり前みたいな感じで旅もしてた。でもバトルに勝てなくて落ち込んでばかり。バトルの息つく間もないスピードについていけなかったんだよ。俺、マイペースだから。これからどうしたらいいのかも分からなくなっていた時に、ここの近くに来て、そしたら突然加奈子さんがすごい顔でやってきてさ、逃げ出したポケモンを追いかけるのを捕まえてほしいって言うんだ。懐かしいな」
 ただの思い出話になってる。これでドガースのなんの気を引き付けようっていうんだ。でも他に話題がでてこない。
「加奈子さんってけっこう性格は男っぽいとこある人なんだけど、もう初めて会ったときからもそうなんだよ。俺もヒナももう走らされまくってさ、あれはほんとに疲れた。でも人に頼まれることってあんまり無かったし、ちゃんとやったよ」
 息が切れて心臓がはちきれそうになっても走り回った。逃げ出すようなポケモンはすばしっこいものが殆どで、勝ち目の無い鬼ごっこをしているような気分だった。
 加奈子さんも加奈子さんでジャージ姿で走り、ポケモンを使ってなんとか事態を収拾させた。
ジャージで髪もぼっさぼさで勿論化粧もしてないのに、加奈子さんがありがとうって言ってくれた時に、ああ、充実してる人の顔ってこんな感じなんだと直感した。
「そう、それで加奈子さんとちょっと話したりして育て屋のポケモンを見たりして、なんかここに俺の探してる答えがあるかもしれないなんて、思ったんだ……クサいけどさ」
 ドガース相手に何を話してるんだ。
思わず自分に笑ってしまってちらりと横目で見ると、ドガースがこちらに目線を移していた。
 ……焦らないでいこう。
 ここはバトルの世界じゃない。息つく間もないスピードは存在しないんだ。ドガースのペースに合わせていくんだ。



「ドガース、これ」
 言いながらドガースの前に、ピンク色の真四角の固形物がいくつも入った器を出す。ドガースは目を細め不安そうにそれを見つめる。
器の中身はポロックだ。ホウエン地方から発信したポケモン専用のおやつで、これはモモンの実を原料としている。この間ドガースが他のポケモンたちとモモンの実をおいしそうに食べていた姿を見てヒントを得たのだ。毒タイプなのに解毒の効果があるモモンの実を好むなんて変な話だけど、単純に甘いものが好きなのだと踏めば、このポロックもきっと好きだと思う。
ドガースが育て屋にやってきてから一週間が経つ昼下がり。一週間で俺はドガースと特別な関わりを持ったわけじゃない。挨拶と簡単な会話だけで、基本的には環境に慣れさせることに専念させた。
「食べてみなよ、……美味いから」
 あぐらをかいてドガースが来るのを待つ。
「俺には少し甘いけどさ、ほら」
 言いながら俺は先にポロックを一粒拾い、口の中に放り入れて噛み砕いてみせる。深みのある甘さが一気に口の中で弾けて浸透する。やっぱりちょっと甘すぎ。
 その様子を終始見るドガースに向かって、仕上げのように最後に笑った。
「美味いよ」
 もう一つポロックを手にとり、ドガースの目の前に差し出した。さすがに手で直接あげるのは、警戒が完全に解けない今では早いだろうか。
 ドガースは固まったまま動かない。やっぱりまだ早いか。仕方なくドガースのすぐ傍の地面にそっと置く。興味津々といった風にポロックを見つめ、そしてゆっくりとその体が下に沈み始めた。じっとポロックを見つめ、次の瞬間ぱっと口を開けると一気に飲み込んだ。
 あっという間の出来事に思わず笑みがこぼれる。
 ドガースは味を確かめるようにしばらく難しげな表情をしていたが、自然と幸せそうに目が上向きの三日月型となり、低い声が漏れた。
「ほらもっと食べなよ。俺も食べる」
 ドガースはポロックに対する警戒心は取れたのだろう、一転して自ら進んで食べ始める。
合わせて俺もまた一つ食べる。ああ、甘い。俺はこれくらいにしておこうかな。ドガースに食べさせてあげた方が余程良いか。
 ふぅ、と手を地面につけて空を見上げる。なかなか空を見上げる余裕もしばらく無かったけど、改めて見ると空は大きい。よくドガースは空を泳いでいる。いつも見るたびに羨ましくなる光景だ。
「やあ己一くん、匂いには慣れた?」
 突然声をかけられ背後を見ると、加奈子さんがこちらに歩いてきているところだった。一緒にいるのはヒナではなく、珍しくコダックだった。
「なんとか、慣れました」
「そう、そりゃ良かった。この子はまだ無理みたいだけど」
 加奈子さんは苦笑しながらコダックに視線を落とす。確かにコダックは明らかに嫌そうな顔をして、大きな口の根本を抑えている。目にも涙がうっすらと溜まっているのが分かった。
「でも、ここは育て屋だから、これからが本番だからね」
「分かってます。ところで、この時間にコダックといるなんて珍しいですね」
 俺の言葉に加奈子さんは静かに頷いた。その表情に一瞬影が差したが、すぐに払うように小さく微笑んだ。そしてコダックの頭を優しく撫でながら、そっと口を開く。
「この子、明日飼い主が迎えにくることになったの」
 あまりに淡々と彼女の口から出てきた言葉に、一瞬息が詰まる。
絶句する様子がそのまま表情に出たのだろう、俺の顔を見て加奈子さんは笑みを深くした。
「良い悪戯相手がいなくなって、ハスブレロが寂しがるだろうね」
 ただ、平坦に感情を隠すように話す。


「覚えてる技は『えんまく』に『ヘドロこうげき』、ああ、やっぱり『じばく』も覚えてるんだ。自分の意思でいつでも爆発できちゃうといえばそうなのか……『くろいきり』もか、へえー」
 床に座りもらった書類の内容を読む。
今いるのは家に隣接した小さな屋内の広場だ。柔らかな砂が敷かれ、夜に何らかの訓練をしたり雨天時の炎ポケモンの遊び場になったり、使われ方は様々だ。
このドガースは夜になると何故か元気を失う。夜というよりは暗い場所をあまり好んでいないようで、今のように明かりがついたこの空間では何の問題もなくふわふわと浮遊している。ただ、窓や扉といった外へつながる場所へは近づこうとしていないのが観察していると分かる。
ボールに入れて休ませても良かったけど、もう少し様子を見ていたいという思いがあって今もこうして一緒にいる。
ヒナが部屋の隅で寝転がり、大きく欠伸をした。今は日が沈み外はすっかり暗くなった時間帯であり、眠気がやってくるのも当然の話。ヒナは見た目は夜に強そうだけど人間と同じ体内時計を持っているようだ。
窓の外から夜行性の虫ポケモンのささやかな鳴き声が聞こえてくる。
文字から目を離し、ふと加奈子さんが昼間に言ったことを思い出す。コダックは明日ここを出ていく。ドガースもいずれは出ていくのだろうか。育て屋に留まることは多分、幸せなことではない。それは文字通り人間に捨てられることを指すからだ。だからポケモン達は引き取られるべきであり、その時元気な状態で見送ることができるようにするのが育て屋の役目なんだ。分かっている。
 そう、分かっている……。
 ――あっ。
「忘れてた、夜になったのにケンタロス達を戻してない! うわ、ヒナ、ちょっと留守番頼む」
 少しここから遠く、一回り大きな柵に囲まれたエリアにいるケンタロスをはじめとする力強いポケモンを、夜になる前にボールに入れるのが毎日の仕事の一つだ。
 これを忘れると加奈子さんから雷が落とされる。それは避けなければ。
ヒナが返事をしたのを聞き届けると、急いでこの建物から出る。その瞬間小雨が降っているのに気付く。視界が暗いのに加えて雨だなんて、本当についてない。ヒナを連れて行きたいけど、まだ足は完治していないし仕方がない。とにかく、急がなければ。
決心して雨の中を走る。足元が滑りやすくなってる。あたりがぱっと光り、雷までやってきていることがわかった。
 そしてこの間に大事件が起ころうとしていることなど、この時に分かっているはずがなかった。



 びしょ濡れの俺を迎えたのは、慌ててタオルを用意してくれた加奈子さんだけではなかった。
 タオルで髪を拭いているときに玄関の扉をゆっくりと開き足をふらつかせてやってきたのは、なんとヒナだった。
「ヒナ!」
 思わず悲鳴のような声をあげてしゃがみ込む。ヒナは俺の体までやってくると力尽きたように倒れこんでくる。舌がだらりと口から出て、鋭い目は弱弱しさだけがおぼろげに光っていた。雨に濡れているせいでまるでボロ雑巾のようだった。そして体から昇ってくる雨で消しきれない匂いは嗅いだ覚えのあるものだ。ヒナの体臭ではないそれは、ドガースから漂う独特の悪臭だった。
「ちょっとどいて!」
 鬼のような形相で加奈子さんが俺をヒナから引きはがすと、ヒナの容体を診る。ようやく落ち着いてきたと思った心臓のテンポが再び速くなっていく。耳元で刻んでいるようにやたらと大きく感じた。
 加奈子さんは立ち上がり睨みつけるように俺の方を見た。
「ドガースはどうしたの!」
「え……」
「絶対に離れないようにしてって言ったでしょう! これ、あの毒ガスにやられてる。ヒナは私がなんとかするから、あんたは早くドガースのところへ行きな!」
 加奈子さんの迫力に負けて半ば追い出されるように玄関を出ると、訳が分からないままに屋内広場へと走る。雨は強いが隣だからすぐに辿り着く。
 ヒナが通った跡なのだろう、扉が少し開いている。そこに近づいた瞬間に分かった。視界には分からないが真っ先に鼻が感知する。毒ガスが蔓延し、ここまで溢れている。見れば、中は何故か真っ暗で中の様子を見ることもできない。もしかして、雷で停電でも起きたのか?
 不規則な呼吸の音が体内に響く。茫然と体が竦んだまま動かない。もしこれで爆発でも起こせば、一体どうなってしまうんだ。ここら一帯が焼け野原になってしまうんじゃないか。
 そんな最悪の状況が脳裏を駆ける。
昼間を始め、ドガースの心に近づけたような気がして油断していた。どんなに懐かれようと、毒タイプを持つ危険なポケモンであることは変わらないのだ。
ドガースをボールに戻して一緒に行動すれば良かった。ここに置き去りにしたのがまずかった。
どうしたらいいんだ。
 どうしたらいいんだ……。
考えようとしても頭が回転しない。停止したまま当然何も浮かんでこない。こうしている間にも時間は過ぎていくだけ。
暗闇の中、容赦なく降り注ぐ雨をただ身に受けるだけだった。

どれだけの時間が経ったか分からないが、気を失っていたように茫然としていた俺にかかる雨がふと止んだ。振り返ると、ビニール傘をさし懐中電灯を持った加奈子さんが憐れみに似た感情を浮かべた顔つきでじっと見つめてきていた。
 そしてゆっくりと屋内広場を見て、その目を細める。
「……もう、手に負えない状態か」
 低い声が雨の中でもはっきりと聞こえてくる。
それに同意したくなかったけど、いつの間にか静かに頷いていた。
「あたしが悪かったよ。まだ未熟なあんたに押し付けたのがミスだった。すぐにでも、毒対処の専門を呼ぶよ」
「毒対処……」
「被害が広がる前になんとかしないと。自爆する可能性も十分ある。もう、あたしたち育て屋がなんとかできる次元じゃない、わかるでしょ?」
 どうして加奈子さんはなだめるように言うんだろう。そして俺は、加奈子さんの言うことを理解しながらどうして否定したい心があるんだ。
 バトルじゃなくても息つく間もなく状況は一変する。それに追いつけなかったなんて言い訳は、もう通用しない。
「でも、毒対処の専門って……そうしたら、ドガースはどうなるんですか?」
「観察対象になって別のところに引き取られる」
 コダックの時と同じように、淡々と加奈子さんは話す。けど、その表情は少し歪んでいた。
「でも、きっともう、戻れない」
「戻れない?」
 思わず聞き返した。加奈子さんは小さく頷いた。
「ドガースの履歴に、ここ四か月程の記録は無かったでしょ、それについて飼い主に電話で尋ねたの。そしたら、家であった爆発事件がけっこう大きなものだったらしくて、危険なポケモンとして一度施設に預けられたの。ただしばらく様子を見ている限りドガースはおとなしくて特に問題が見られず、飼い主の元へ戻された。でも飼い主はそれを喜ぶはずがなくて、厄介払いがしたくて、それでうちに話がきた」
 加奈子さんは少し早口で話していく。その状況をすぐに噛み砕くことができなくて、いや信じたくなくて、加奈子さんから目を逸らす。
一呼吸を置いてから、また彼女は話し出す。
「……わかる? このドガースが大きな問題を起こしたのは二度目なのよ。もう、後には引けない」
「そんな、あいつ確かに危ないけど、けっこう良いやつで、ようやく仲良くなってきたところで」
「その油断がこの事態を招いたってこと、忘れないで」
 思わず押し黙るしかなかった。
けどその一方で、頭の中が急速に冷えていくのが分かった。止まっていた思考が不思議と回りだして、周りの音が遠くなっていく。加奈子さんの顔もおぼろげになって、自分の世界に入り込む。
もっとドガースを理解してやるべきだったんじゃないか。
もっと行動を思い出せば、その性格が見えて分かり合えるんじゃないか。
「……あいつは、寂しがってるだけです、怖がってるだけです」
 言葉が出てきて、繋がっていく。
「爆発事件がどうして起こったのかわかりませんけど、ドガースが突然自爆したんじゃない。あいつはそんなことをしちゃいけないって分かってる。だから今だって爆発しないでいる。四か月施設でおとなしかったのは、自分を反省したからです。でも戻ってきてすぐにここに連れてこられて飼い主から捨てられたようなもので、ストレスもあって寂しさもあってで毒ガスを出し続けて、それで初めて会ったときにあれだけのガスが出てきた。でもその後ガスが少なくなったのは、ここでポケモン達と触れ合ったり自由に動くことができたから。要はストレスが薄くなったから。暗闇を怖がるのは、一人でいるのを怖がってるから。あいつは何も悪くない。施設に入れてこれからまた拘束する方がよっぽど危険です」
「そんなの、ただの仮定じゃない」
「そうですけど、少なくとも、加奈子さんより俺はドガースのことを分かってる」
 加奈子さんは真っ直ぐに強気な目で睨みつけてくる。でもここで折れるわけにはいかなかった。それはなんとなく、なんとなくなんて弱いけれど、駄目なんだ。
「……じゃあ、何か良い案でもあるというの」
 最早脅すような口調だ。でも加奈子さんの言いたいこともわかる。加奈子さんは今まで俺よりずっとたくさんのポケモンを見てきて、別れも経験してきた。寂しくてもポケモンを手離し、危険な状態には瞬時に対応する。そこには加奈子さんなりの、預けられたポケモン達を第一とした思考が見える。
 なら、今俺がこうして反抗しているのは間違ったことなのか?
わからない。
 でも俺は今の俺なりに、ドガースのためにやれることがないか考えたいんだ。
「俺が中に入ります」
 加奈子さんの目が明らかに丸くなった。
「入口の傍に電灯を点けるスイッチがあるからまずそれを押して電気をつけます。そこからドガースにサインをして、俺がいるってなんとか分からせます。迎えにいってやるんです。それで、『くろいきり』を指示します」
「『くろいきり』?」
「はい。ステータス変化を元に戻す技で有名ですけど……昔読んだ本に、状態異常を回復させる効果もあると書いてあったんです」
「それ、データが古いんじゃない? それにあまりに危険そんな賭けには出られないわ」
「そもそもは俺が油断したせいです。多少の無茶は覚悟しなきゃ」
「無茶じゃない、大馬鹿野郎っていうのよ、そういうのは!」
 荒々しい叫びにも似た怒号に、思わずひるんでしまう。でも今更引き下がれない。
「俺はやれます、鳥ポケモンに風を起こさせて周りのガスを追いやれば大丈夫です」
「どうしてそうやっておかしな考えが出てくるの。あんた忘れたの、こないだも毒ガスを吸って気絶したのよ。今度はそれですまないかも、死ぬかもしれないんだよ……この馬鹿!」
 瞬間、頬に拳が飛び込んできて激痛が走り、なすすべなくその場に倒れこんだ。地面の泥が顔について、きたない。そんなことよりまさか殴ってくるなんて。
 思わず加奈子さんの方を凝視すると、彼女の肩は大きく上下していて、表情は皺が寄って大きく歪んでいた。
「どうして……どうして」
 先程までのヒステリックともとれる声色とは裏腹に、今にも消えそうな炎の如く小さな声で彼女は呟く。時折鼻水をすするような音もする。目は充血して、いつもの強気な面影は見当たらなかった。
 でも俺の気持ちはもう、一本の道筋を辿っていた。
「……俺は、ドガースとこんな形で別れたくないです。いつかは別れがくるだろうけど……でも、こんなのは嫌なんです。ドガースを助けなきゃ。今だって絶対、誰かが来るのを待ってるんです」
 ゆっくりと立ち上がって加奈子さんと向き合う。彼女の目は既に針のような鋭さが無い。優位なのは俺だと思う。俺は、折れない。
 数秒間沈黙が続き、加奈子さんは視線を地面に落とし、懐中電灯を黙って俺に差し出した。それを静かに受け取ると、加奈子さんはいつも腰に巻いているウェストポーチから数個のモンスターボールを三つと青い小さなカプセルを出した。カプセルの方は見覚えがある、毒消しの効果があるものだ。
「ピジョンとオオスバメが二匹入っている。なるべく迅速に済ませてよ」
 いつもの口調に加えて彼女の瞳に強さが戻ってきた。腹をくくったのだろうけど、それにしても、よく認めてくれたな。許してくれなくてもいくつもりだったけど。
 彼女の持つ諸々の物を受け取る。それから、と加奈子さんは思い出したように付け加え、ポケットからまた一つ別のボールを出す。傷だらけのそれがなんなのか、何故かすぐに分かった。ヒナが入っているボールだ。
「お守りというわけじゃないけど、あんたはヒナが居た方がきっと安心できるでしょ」
「……けっこう、考えてくれるんですね」
「どうして、間違ってることなのに止められないんだろうね」
 重く疲れ切った表情が印象に残る。俺はこの状況にもかかわらず、急にへらりと口元だけ小さく笑ってみせた。
「今まで受身だった俺が、ようやく自分で考えてしかも強情になってるせいじゃないですか」
「やるならさっさと行って。いつ自爆してもおかしくないんだから」
 追い払うような背中の押し方だ。
少し震えている足を俺はぱんと思いっきり叩いて、呼吸を整える。そしてもらったボールからピジョンとオオスバメを出す。雨の中でも貫くような甲高い声が辺りに響いた。その元気強さに勇気をもらい、扉の方を見た。ヒナのボールを握りしめる。大馬鹿野郎の俺についてくれる人やポケモンがいる。ドガースにも俺や他のポケモンがついている。
 地面を思いっきり蹴る。加奈子さんの傘から跳び出して、再び雨に打たれる。そんなのどうでもいい。走り、少し大きな両扉に両手をかける。もう止まっている場合じゃない、扉を開いた瞬間すぐに後方に下がって、大きく口を開けた。
「かぜおこし!」
 手で方向を示すと三匹は指示通り俺の前にやってくると翼を大きく羽ばたかせ扉の中に風を送る。ガスが大量に漏れ出る前に風で押し返す。数秒後風に乗るようにそこに飛び込む。三匹も追うように中へと入っていく。
 暗闇の空間に入ってすぐの右手の壁に手を叩きつけた。もう何度も使ってきた位置だ、体が覚えている。スイッチを押し、屋内広場の天井のいくつもの明かりが次々に点いていく。そうして今の現状がさらけ出されていく。
 そうして実際の光景を目の当たりにして、想像と少し違うことに気が付いた。
ガスは、上にだけ固まっている?
下、つまり俺の立っている高さから数メートルほど上までは大した量のガスはない。けれど高い天井の方に向かっていくと、見覚えのある黄土色の煙がもくもくと広がっている。
ドガースの出す毒ガスはそういえば空気よりも軽い。だからガスを溜め込んだドガースも空中に浮くんだった。
 これなら意外と安全にいけるかもしれない。
「かぜおこしストップ!」
 従順に三匹は強い羽ばたきを止める。風をやたらと起こした方が空気が循環し危険だとみた。
「ドガース、いるんだろ! 落ち着け、もう明かりはついた! 俺はここにいる!」
 力の限り叫び、呼びかけを続ける。返事はしない。十中八九あのガスの中にいる。距離はそう遠いわけじゃない。声は届くはずだ。
「迎えにきたよ! 早く帰ろう!」
 言いながら俺はポケットに入れておいたポロックを数個出した。ピンク色の小さなもの。モモンの実を原料とした、ドガースの大好物。
「ドガース! 気付けええええええええっ!」
 喉が割れんばかりに叫び、手の中のポロックを渾身の力を込めて上に向かって投げた。一直線にガスの中へと飛び込んでいく。気付け、気付け、気付け、気付け! 頼む、気付いてくれドガース。迎えにきたんだ!
 荒い呼吸、念のためにもらった毒消しを唾を使って飲む。ポロックが数個空中から落ちてきた。ドガースは気付いたのか、気付いていないのか、返事はない。
もう一度声をかけようと一気に息を吸ったとき、遠いガスの中からゆっくりと紫色の球体が一つ、出てきたのが目に映った。
ドガースだ。
顔が歪んでる。なんか食べてる。ポロックを食べてる。あいつ、気付いたんだ。
俺はドガースに向かって手を振る。ドガースはいつもののんびりとしたスピードではなく一直線に飛び込んでくる。すぐに俺のところにたどり着く。風のおかげで忘れていた強烈な臭さがすぐ手元にやってくる。でも、何故か我慢できるようになっていた。
だけどこれで終わるわけじゃない。俺はドガースを真剣な表情で見ると、ドガースも空気を察知したのかかたい顔立ちに変わる。
「すまないドガース、一仕事してくれ、くろいきりだ!」
 がらがらの声の後に、ドガースは再び上へと昇り体にあるいくつもの穴から黄土色の毒ガスではなく、黒い気体を噴射した。瞬く間にそれは充満していく。電気が薄れるほどの視界の中で、俺はドガースの名を呼びながら声をかけ続けた。霧があって視界が暗かろうとドガースは孤独じゃない。夜の中でも一人じゃない。少なくとも、俺がいる。
 黒い霧が毒ガスを包み込んでいく。不思議と匂いが薄まっていった。




 時が経ち、騒動の夜は明け朝が訪れていた。
 今、加奈子さんが呼んだ専門家とやらに周辺の毒ガスの濃度をチェックしてもらっているところだ。黒い霧の効果は意外とあったようで、咄嗟の判断は運良く吉と出たわけだ。
「大馬鹿野郎」
 加奈子さんはその言葉を繰り返し俺に浴びせた。そして、もう当分仕事を任せないとまで言った。まだまだ見習いだ、と。まったくその通りだと思う。
一番毒の被害を受けたヒナも、しばらくは安全なボールの中で休みながら時々外に出すことで養生している。加奈子さんの迅速な対応のおかげで命に別状はなかったようだ。ちなみに今はボールから出て、俺のとなりに寝転がっている。
ただ、全てがうまくいったかというとそういうわけではない。
 調査が進んでいる一方で、応接間にて俺と加奈子さんはスーツに身を包んだ四十代の男性と話を進めている。ただ加奈子さんに釘をさされているため俺が話すことは一切無く、ただその場にいるだけだった。男性は書類を机に整理した後に、一つのボールを手に取った。それはドガースの入ったものだった。
「では、少し様子を見させてもらいますので」
「よろしくお願いします」
 男性が立ち上がるのとほぼ同時に加奈子さんも立ち上がり、営業スマイルとでも言おうか、晴れやかともいえる笑顔を振りまいて男性を送る。俺も心にたまる歯がゆさを押し込めて軽く礼をした。
 男性が部屋を出て行ってから、俺はようやく加奈子さんと対峙する。
「本当に、ドガースは戻ってくるんですよね?」
「そういう風に話を合わせたじゃない。毒ガスの検査は念のためであって、ドガースが暴走したなんて言ってない。毒ガスの結果が出るのもすぐじゃないし、あっちが少しドガースを疑ってるだけ。おとなしくしてくれれば数日で戻ってくるわ」
「本当に、本当にですよね」
「ちゃんと正式な契約までしたもの、大した異常ないんだからすぐに帰ってくる。ドガースにも言っておいたんでしょ、数日我慢するようにって」
「そうですけど……」
「やっぱりあたしが全部応対して正解だったわ」
 少し呆れたように加奈子さんは溜息をつく。そしてソファに勢いよく倒れこみ、その上で思い切り伸びをした。
「ああ、疲れた」
 まったくその通り。体中が重く気怠い。でも毒ガスにあてられたような違和感は今のところなく、我ながらなんて強運だろうか。あんなの冷静に考えれば、いや冷静に考えなくても誰もが分かるくらい無茶苦茶な行動だ。
「……ポケモンと向き合うって、大変でしょ」
 ソファで体勢を崩したまま、加奈子さんは言う。
「己一くんを見てると、ちょっと前のあたしを思い出すよ。一匹一匹と丁寧すぎるほど会話して向き合って、無茶なこともたくさんやったしさ。だから止められなかったのかな」
 柔らかな雰囲気の目はどこを見つめているのだろう。思い返して、俺くらいの年代の出来事を見ているのだろうか。
「ドガースと向き合って、どんなことが見えた?」
 俺もソファに座り、ヒナの頭を撫でながら思い出す。いつも落ち込んでばかりで、ヒナに励まされる日々。ポケモンのために何もできない無力な自分。トレーナーをやめてここに入ってからも明確なものは見えてこなくて、なんとなくに加奈子さんの助手として毎日を過ごしていた。
ドガースのお世話でいろんなことが見えてくると思う――。
加奈子さんは、毒ガスで気絶した日にそう俺に言った。
この育て屋の厳しさがまず第一に挙げられる。もちろんドガースの今回の騒動は滅多にないことだと思うけど、形を変えてハプニングは多々あるだろう。でもポケモンと時間をかければ向き合えること、理解できること、それで前に共に進めること、多くを得ることができる。そして、俺はポケモンのために動くことができる、そのことが確信できた。少しだけ自信が持てた。その過程でたくさんの支えがあった。加奈子さんやヒナがいてくれたから俺は倒れても前を向けた。
でもそんなこと、恥ずかしいから声に出すのはやめておこう。
「……いろんなことが、見えましたよ」
 茶化すように言うと、加奈子さんは生意気だ、と笑った。
メンテ
希望の大地 ( No.11 )
日時: 2012/05/27 23:44
名前: きとかげ

テーマA「タネ」



 トモコはもう泣きそうだった。トモコを取り囲む老人たちの言うことが至極もっともで、自分に非があるのだから、謝りたかった。しかし、トモコの口は「申し訳ございません」「検討いたします」のふたつしか言えないのだ。
 だがそれが事態を好転させるとは思えなかった。老人たちの雰囲気は益々険悪になっていく。誰かのヌオーでさえも、とぼけ顔なのに今にもハイドロポンプをぶっ放しそうな殺気を放っていた。

「もうあかんわ」
 老人の誰かが言った。険悪な雰囲気がふっと緩んで、その僅かな隙にもトモコは溺れている間に息継ぎが出来たような安堵を感じた。
「お嬢ちゃんでは話にならん。会社の偉い人呼んでくれんか」
 その言葉をきっかけに、また険悪さが巻き返して轟々と唸る。「そや」「社長を出せ、社長を」――轟々の合間に嗚咽が聞こえて、誰だろうと思ったらトモコだった。気付いたらせき止めるものも何もない。トモコは一張羅のスーツにボタボタ涙を落とし始めた。「泣いたらええと思たんか。それで女を寄越したんか」険のある言い方に、トモコの涙は益々止まらなくなる。言っても言い足りない老人たちが益々言葉を募らせる。――「どうせきのみぐらい、工場で作ったらええわと思てんねんやろ」「お金払ろたら終いやと思てんのやろ」
 その一々が真っ当で、トモコは居場所をどんどん追われていく気がした。いやそもそものはじめから、トモコの居場所なんてなかったのだが、風船がペシャンと空気を吐き出して居場所を明け渡すように、トモコにもそうしろと周囲の空気が迫っている気がした。
 何故だろうとトモコは思う。化粧品で有名なKという会社に入って、女では珍しく研究課でバリバリやって、いずれは自分が作った口紅で世の女たちの唇を染め上げたいと思っていた。その最初の一歩だったはずなのに、どうしてこうなってしまったのか。老人たちの怒号が、重なって響きあって、わんわんとトモコの耳を潰してくる……


「ここらへんでお茶でもしませんか」
 この場にそぐわない、脳天気な声がした。ひときわ若い男の声だ。老人たちが振り返り、彼を見る。トモコと同じくらい、青年に毛が生えたような、と言っては失礼だが、そんな年頃の男性が、集会所の無味乾燥なアルミの扉を開けた所でつっ立っていた。
 テツジ! と老人のひとりが怒鳴った。テツジは村の出身者なのあろう。しかし、日焼けしていない白い顔を見るに、普段から村にいるとは考えにくかった。この折に帰ってきたのだろうか。
 災厄の折に。それを思い出して、トモコの胸は忘れかけていた罪悪感でズキズキ痛んだ。
「カントーから帰ってきたと思たら、何を脳天気に」
「あんまり彼女に言うても、どうにもなりませんよ。僕も会社勤めやし分かるのやけど」
 うなぎのぼりに上がりかけた老人の声を、テツジはのんびりした調子でやんわり下す。
「それより、彼女お茶菓子持ってきてくれはったんでしょう。折角やしいただきましょう」
 言うなり、テツジは給湯室に引っ込んでしまった。残された老人たちは、毒気を抜かれたように静まりかえってしまった。

 気まずいお三時が終わり、「補償の話はまた後日ということで」と老人たちは三々五々帰っていった。集会所にはテツジとトモコ以外、誰も残らなかった。
 急に力が抜けてきて、トモコはぐったりパイプ椅子に沈み込んだ。テツジは黙々と、並びの崩れたパイプ椅子を片付けていた。
 その半分以上を片付け終わった頃、テツジはトモコに「帰りますか」と声をかけた。村の老人たちと喋る時とは違い、訛りの感じられない話し方だった。トモコは黙って頷き、立ち上がった。さして高くないヒールがガクガク震えた。
「大丈夫ですか」と差し伸べられた手を断って、トモコはひとりで立ち上がった。何とか歩けそうだった。
「送っていきますよ。ポケセンですか?」
 宿を尋ねた彼に頷いて、トモコは歩き出した。彼がさっと前に立って扉を開けてくれた。

 途端、深呼吸しているような春の空気が、トモコにどっとぶつかってきた。
 トモコは集会所の冷たい壁で体を支えた。彼が集会所の扉を閉めている。テツジは立ち止まったままのトモコの視線を探って、ああ、と納得したように声を上げた。

 村の中心を貫いて控えめな川が流れている。その川を避けて道が伸び、あちらこちらで交差しては、地を区切って果てまで伸びていく。道の白みたいな黄土色が区切る中には、

 何もなかった。完膚なきまでに、何もなかった。

 黒っぽい土なら存在するが、それだけでは何もないのと同じなのだ。何もない土の黒茶と、川の色と、農道の黄土色が、地の果てまで続いている。草一本ない。コラッタ一匹いない。
 それが、今のこの農村の姿だった。この農村にやってきた春は、紛れもなく沈黙していた。


 数日間、村のポケセンに泊まりっきりで、トモコは村の老人たちの相手をし続けた。
 補償金の話を何度もした。それが何年分の補償になるかという話を、何度も何度もした。新しい住居の話もした。そこに何年住む見通しになるかという話になると、いつも紛糾して、決裂して終わった。
 けれど、いつもいつも同じ所に立ち返ってくるのだ。
「仮にお金で済ますとしましょう」
「いつまでも給水車に来てもらうわけにもいかへんし、村も出るとしてですよ」
「畑を何年も放っておいたら、どないなりますか……」
 トモコが村にいた最後の二日間、老人たちも怒鳴る元気が失せてきたらしく、小さな声で祈るようにポツポツと喋るようになっていた。その祈りは誰に届くのか。きっと届かないだろう。老人たちがそこまで考えているようで、トモコはやるせなかった。
 最後の日、老人たちを集会所から見送って、トモコは中に戻った。老人たちの背中は、すっかり萎んだように見えた。トモコもすっかり、疲れ切っていた。パイプ椅子に腰を下ろすと、西日が直接入る窓から外を見た。何も決まらなかったという話を、会社に持って帰らなければならない。会社の人たちは、この惨状を見たら何か動いてくれるだろうか……
「もう、お帰りですか」
 テツジがトモコに声を掛けた。彼はいつも、集会所の隅で静かに座っていた。
「ええ」
 上の空でトモコは答える。窓枠に手をかけて立ち上がる。テツジが扉を開けて待っていた。
「送っていきますよ。ポケセンですか」
「いえ」
 もう列車で帰るんです、とトモコは蚊の鳴くような声で答えた。テツジは黙って頷いた。

 夕焼けに染まった村は、虚しかった。今頃は旬の来た作物が西日を跳ね返していただろうと思うと、ただただやるせなかった。トモコがどれだけ矢面に立っても、農村の人の心が氷河期の氷のその向こうよりも届きっこないと絶対に分かっているのが、腹立たしかった。
 こんな時でなければ、いい村だったろうに、というトモコの胸中はひょっとすると漏れていたのか。
「僕が帰る前はもっと綺麗でしたよ。果樹園にぱっと日が当たって、葉っぱが光って。木にひとつずつきのみが生ってて、太陽に照らされているのをひとつずつ、葉っぱの陰から見つけていくんですよ」
 テツジはく、と言葉を呑み込んだ。嫌味ではなかった。トモコは続きを聞きたかった。
「その時の光景、トモコさんにも見せてあげたかったなあ」
 トモコは暇を告げた。

 列車の窓からも、裸になった大地が見えた。それが切れてこちゃこちゃした街並みになるまで、トモコはずっと窓の外を見つめていた。ふと見ると、集会所の窓枠にかけた指が汚れていた。



 Xデーは突然やってきた。
 朝の水撒きを済ませ、朝餉を食べて畑に戻ると、農村の人々はすぐ異変に気付いた。
 果樹が見る見る内に枯れていくのだ。
 まるで、焚き木にでもされたかのようだった。まず葉がチリチリとなって焦げ落ち、次いで幹が小枝のようにパッキリ折れた。残った幹を引くと、根が音もなく千切れた。ちょうど実りであったクラボやチーゴは、ゴルバットに根こそぎ吸われたみたいに干からびていた。燃え滓を突いたかのように、果樹園はボロボロ崩れていった。
 誰かが走って隣の畑まで行った。そこでも同じことが起こっていた。その隣も、その隣も。やがて被害が村全域に広がっていると知れ渡った時、村人たちの目は川の上流に向いた。そこには、数年前に出来た化粧品の工場がある。村人は一致してあれが犯人だと決めつけた。そして、それは間違ってはいなかった。工場が、確かに毒水を流していたのだ。村人は工場に乗り込み、どうにか畑を元に戻してくれと嘆願した。
 工場の側は、過失は認めた。けれど、
「すぐに元に戻してくれ、っていうのは無理ですね」
 いつまでかかるんだ、と問うと、
「そうですねえ。安全基準を下回るまでなら、十年ぐらいは」
 老人たちの声が、ブウンと工場を震わせた。まるで地獄の亡者が反乱を起こしたようだ、と工場長は言ったそうだ。

 工場と村民では収拾がつかない。話は会社に上がり、代表として村に送られることになったのがトモコだった。
「はあ」とトモコはため息をついた。会社のあるタマムシには、いくらでもため息のつける居酒屋がごまんとある。そのひとつに入り浸って、さてどうしようか、どうすればいいかと当てのない考え事をしていた。
 いや、トモコにはまるっきり当てがないわけではなかった。しかし、その当てをどうするか、会社にどう話すかと思うと、また気が滅入った。
「はあ」とトモコは何度目かのため息をついた。村から戻ってからの、会社でのやりとりを思い返す度に胃が締め上げられた。結局、トモコがやったことはないも同然で、会社はただ体裁の為にトモコを送り込んだのだ。報告をした時の上司の態度は、石にでも話しているのかと思われる程凝り固まっていた。
「補償金は十年では足りないかと」
「十年もあれば新しい生活基盤も出来る。不要だ」
「補償金の見積もりが低すぎます」
「そんなもんだ。今時きのみなんて工場で出来る」
「早急に」
 トモコはここで力を入れた。
「汚染の除去に着手し、数年内に村に戻れるようにと」
「要らん」
 上司ははっきり言った。
「何故ですか」
「要らんものは要らん」
「理由を言わないと先方も納得してくれません!」
 トモコの言葉の最後の方は、ほとんど悲鳴になっていた。出来る限り早く村に戻り、畑を作ること。それが彼らの一番の望みなのに。
「会社にそんな義務はない」
 上司はその後も何やら言っていたが、トモコの耳には入らなかった。拒否された。それだけで十分だった。

 トモコは次の朝早くに出社した。
 自分の席に行き、サンプルを眺めた。K会社の研究課で唯一女だった自分の席。女性が職に就くのが珍しくないとは言え、やはり上の方は男性が多いし、それ故の気苦労もある。トモコの場合、研究課に女性がいないから余計に、だったかもしれない。村に事件が起こったのはトモコの提案した商品をラインに乗せた直後で、トモコに矢面に立てと言っているようなタイミングだった。「でも、それじゃ言い訳ね」とトモコは自嘲した。
 トモコは机を片付け、課長に辞表を出すと、他の社員が来る前にさっさと会社を去って行った。まずは旧友に会いに行く。まずはそこからだ。


「どないしたんですか、トモコさん」
 村で一番に出会ったのは、あれから少し日焼けしたテツジだった。これくらいの僥倖はあってもいい、とトモコは思った。これからどうせ、針の筵なのだから。
「実は、毒を取り除く方法を考えて」
「それなら、村の人呼んできましょうか?」
 踵を返したテツジを慌てて引き止めた。確証のない方法だ。村人の期待をかき立てて失望させたくない。それに、そんなことになったら、失点が大きい。村から追い出されれば、もうこの方法を試すことすら出来ない。
「薄い望みなんです。でもよければ、内輪で話だけでもさせてもらえませんか」
 テツジは、それならうちの家で、うちの家族と、と言って承知してくれた。しかし、実際行ってみると、かなりの人が集まっていた。
「なんや、姉ちゃんが会社と掛け合うて、毒を取り除く方法を持ってきてくれたんやと」
 まず、この誤解を解く所から始めなければならなかった。

「すぐに治らへんのやったらええわ」と、数人がさっさと家を辞した。それで既に、トモコは家がずいぶん広くなったように思えた。障子を開け放った木造屋は集会所よりは確かに広いのだが、それにしても妙に、スカスカ隙間風が吹き荒んでいるような感じがする。
「村を出て行った人が多いんですよ」とテツジが耳打ちした。
「会社が家用意する言うたはるけど、待てへん言うて」
 トモコは黙って頷くしかなかった。調査によると、工場の毒水は植物に有害で、多量に飲まなければ人体に影響はない、ということだったが、避けるのが人情というものだ。大体、調査だって怪しい、とトモコは思った。
「それで、取り除けるかもしれん方法とは、何です?」
 他の出席者に促されて、トモコは話を続けた。

「シェイミ、というポケモンがいるらしいんです。そのポケモンなら、毒を取り除けるかもしれないんです。……」


 話が終わる頃には、家にはテツジの家族と、あともう二家族しか残っていなかった。予想していたとはいえ、やはり胸が苦しかった。家が無闇に広く感じられるのも、今はありがたくなかった。
「それで、姉ちゃんは」
 テツジの肉親でない方の、老夫婦の夫の方が言った。
「つまり、こういうことか? そのいるか分からんシェイミというポケモンを呼び寄せる為に、畑を潰して花畑にしろと、そういうことやな?」
 全くその通りなので、トモコはそうですと蚊の鳴くような声で答えた。
「あほらし。おまけにそのシェイミがほんまに毒を除けるかどうかも分からんのやな?」
 また険悪になってきた夫を、「そこまで言わんと」と妻がたしなめた。トモコはただひたすら頭を下げていた。夫はまだ言い足りないらしく、トモコにさらに畳みかけた。
「そのグラなんちゃらを育てるのは、わしらの仕事か? 姉ちゃんや姉ちゃんの会社の人はしはらへんな、そんなこと」
「私がやります」
 はっきり、出来るだけ大きな声でトモコは言った。そのつもりだったが、トモコの声は老人に押し負けそうな勢いのない声だった。でも、トモコは続けた。
「どのみち、ここには住めなくなります。私は通いでも何でも残って、やり続けます」
「勝手にせい」
 老人はそう言って席を立った。ごめんなさいね、と頭を下げながら老いた妻がその後を追った。と、引き返してきてトモコにこう言った。
「すいませんね。もう何植えても育たへんものやから、気も腐ってるのよ。私らも疎開するから手伝えません」
 そして、目を宙に惑わせ、少し首を捻ってからこう付け加えた。
「うちの畑で良ければ、使ってください。でもさっき言うた通り、何にも育ちません。お花が育つまでに、また長いこと掛かると思うわ」
 そう言って、老婆は辞去した。

 トモコは老婆が去った方を、長いこと見つめていた。これで畑を使う許可が下りた、という喜びよりも、何だか訳の分からない悲しみの方が勝っていた。この悲しみはどこから来るのだろう、と思っている内に、テツジの家族以外でもうひとり残っていた老婆が腰を上げた。老婆は家の中でもヌオーを連れていた。
「ありがとうさん。面白い夢物語やったわ」
 その嫌味を言う為に残っていたとしか思えなかった。
 けれど、耐えなければならない。どうせ針の筵だ、とトモコは自分に言い聞かせた。そして、先の畑を使うのを許可した老婆が去って行った時と同じように、トモコは暗がりをじと見つめていた。

「さて」
 沈黙を破ったのは、テツジの父だった。他の老人連よりいくらか若い。年が近い分やりやすそうだと思ったのは一瞬で、彼は彼の世代の理論で来るに違いないと、トモコはまた気を持ち直さなければならなかった。
「ああは言ったけれど、ほんまにやりはるんですか」
「は、はい」
「ほんまにやりはるんですか」
「はい」
 思っていた質問ではなく、ただの確認が来たので戸惑う。トモコはやります、と答えながらも、テツジの父の疲れたような声が気に掛かった。そして、彼はこう言った。
「……やめなさい。農業はきついですよ。都会から出た娘さんに出来ることじゃない」
 テツジの父は、長く長く息を吐いた。
 慮っているのだ、とトモコは気付いた。これから、他人の畑を長く使うことになる。成果は出るかどうか分からない。グラシデアの種子を譲ってくれた旧友の言葉以外にはヒントもない。風当たりは強い。
 どうせ、途中で逃げるに決まっている。そう思われている。
 逃げません、と声を大にして言いたかった。しかし、果たして成し遂げられるかどうか、今のトモコにも自信がなかった。
「やめんでいい」
 はっとトモコは顔を上げた。テツジがいつの間にか隣にいて、父親と対峙していた。
「俺も手伝う。それでええやろ?」
 有無を言わせぬ調子でテツジが言った。しかし、テツジの父は疲れ切ったような声でこう答えた。
「好きにしなさい。……投げ出しても、責め立てたりしませんから」
 母さん、晩飯、と言いながらテツジの父は立ち上がり、障子で見えない向こうへフラフラ歩いて行った。トモコは気付いた。諦めているのだ。彼も、あの老夫婦も。
「飯、食うてく?」
 気遣うようなテツジの台詞は断って、トモコはまだ辛うじて開いているポケセンへ戻った。


 トモコが農作業を始めるのは、梅雨が明けてからになった。
「梅雨の雨で流したら、ちょっとは毒も薄まるかもしれん」とテツジが言ったのだ。本当は、村人たちの疎開が終わったらすぐにでも取り掛かろうと思っていたのだが、テツジにも一理あるのでトモコは引き下がった。それに、グラシデアはどんな気候で育つか、まだよく分かっていないのだ。梅雨みたいな特異な時節に植えるのは、どうにもまずい気がした。それに、どちらにせよ、疎開後でひと気がなくなってからなら構わなかった。好奇の目や罵倒に晒されて続けていく勇気は、どう見てもトモコにはなかった。
 ともかく、梅雨明けの雷が鳴った次の日から、トモコはグラシデアを育てることに決めた。

「なあ、長靴持ってる?」
 軍手にTシャツ、ジーンズ、スニーカーという格好で畑に降りようとしたトモコを、テツジが呼び止めた。
 集団疎開が終わって、トモコたちも移るよう言われたのだが、こうして我を張って残っている。トモコたちのように残っている人は少なかった。ポケセンも閉鎖だと言うし、これからは不便になる。今は無理を言って駅の詰所を借りているが、そろそろバラックでも建てねばなるまい。
 さて長靴である。
「持ってるよ?」
 言い終えてすぐ、自分が恐ろしく訛っていることに気が付いた。朱に交じったらしい。テツジはと言うと、自分の予想外のことが来た時の癖で、戸惑いを隠す為に後ろ頭をガリガリ掻いていた。
「そうじゃなくて」テツジは言い淀む。
「特別長靴というか、……えー、毒ポケモン育てる時に使うような、防毒のごついやつ。一応履いといた方がええと思て」
「本当? 軍手もそうした方がいい?」
 ああ、訛っている。イントネーションがどうもテツジ寄りになってしまう。
 テツジはコクコク頷きながら、母屋に入った。そして、程なく長靴を二足と軍手を一組持って現れた。
「あ、そうだ!」とトモコが叫んだ。
「グラシデアの種子は、まずポットに入れて育てるんだって。……ポットってある?」
「プランターならある」
「プランターかなあ?」
「鉢植えもある。ようけある」
「ポットって言われたんだけど」
 素人二人の船出は、不安材料に事欠かないようであった。

 ポットは畑を使っていいと言ってくれた老夫婦の家で見つけた。ありがたく使わせてもらう。黒い紙コップみたいな頼りないポットに畑の土を入れ、指先で穴を空け、大きめの砂粒みたいなグラシデアの種子を入れていく。トモコが連れているムウマにも手伝ってもらったが、いっかな役に立たなかった。テツジもポケモンを持っているようだが、「こういう仕事には向かないから」と言って出さなかった。やっている途中で日が暮れた。用水路から引いた水をぱっと撒き、続きは明日早くからということになった。
 夕餉はテツジの家で食べた。冷蔵庫に残った食材を使ってトモコが作った。簡単な食事だが、テツジは旨いと言って食べた。
「なあ、あれで良かったん?」
 夕餉の最中、テツジが尋ねる。トモコが「何が?」と聞き返すと、テツジは箸を止めて考えをまとめた。
「あれ、畑の土も川の水もそのままやろ。毒であかんようならんかなあ、って」
 トモコは白米を口に運びつつ、答えを考えた。旧友はグラシデアの種子をトモコに譲る時、色々言っていたっけ。
「毒は大丈夫なんだって」
 聞いているテツジの目が、思いがけず見開かれた。それでトモコはちょっと驚いてしまった。トモコもそれを旧友から聞いた時、驚いたのだけれど。
「他の植物が生えないような荒地でも、グラシデアだけは咲いて花畑になったっていう伝承があるんだって」
 旧友の受け売りなのだが、テツジが感心したように頷くのを見て、トモコは嬉しくなった。持つべきものは「クズみたいな種子やけど」と言いつつ後払いの約束で種子を大量に譲り、ついでに知識も惜しまず披露してくれる友だ。
「ただ」と言いかけてトモコは素早く算盤を弾いた。予想はしていたけれどやっぱり悪いことと、予想だにしてなくてやっぱり悪いことと、どちらを先に言うべきか。
 算盤勘定より、トモコの心情が勝った。予想できるけれど悪いことを先に言うことにした。
「ここらへんの気候だと育てるのは大変だろうって。南国でも北国でも育つ時は育つけど、どれが育つか野生種は分からない、って」
「園芸種は?」
 打てば響く鐘のようにテツジが返した。見ると、もうテツジの膳は空になっている。もっと作れば良かった、とトモコは後悔した。と同時に頭の中では友人から得た知識をまとめている。
 この地方では馴染みが薄いが、グラシデアはよく花屋に出回っている。当然、園芸用の品種もたくさんある。だが、
「園芸種は、そもそもビニールハウスの中で育てるからシェイミが寄ってこない」
「そうか」
 とはいえ、人の手による園芸種なら育てやすいだろう。友人から貰った中にもあるし、トモコも花屋を回って種子を買い求めた。
 気候が合いさえすれば、あるいは。
「おかわりない?」とテツジが尋ねた。トモコはいそいそとご飯をよそった。


 次の日、トモコは太陽も昇らない時間にテツジに叩き起こされた。
「まだ始発も来てないのに」
「そんなん待っとったら日ぃ暮れるがな」
 駅舎にトモコを置いて、テツジはさっさと畑に行ってしまった。トモコもさっさと起き上がろうとして、
「痛っ」
 腰に激痛が走った。これが筋肉痛だとばかり、足も棒のようになって動かない。トモコは固まった足腰をなだめすかし騙し騙し、テツジの畑の方へ向かった。杖がいるかもしれない、とトモコは真剣に考えた。

 黄土色の道を行く。どの家の畑も、相変わらず草一本見えなかった。毒を減らすのに十年。そう会社が言っていたのなら、本当は倍の二十年かかるだろう。そのまた倍の四十年ということも考慮に入れなければならない。見る見る内に植物を枯らしてしまえる毒が、そう簡単に薄まるとは思えないのだ。そう考えると、足元の防毒ブーツが急に得難い友人のように思われてきた。防毒の軍手も。グラシデアはいいかもしれないが、自分たちの方が先に参るかもしれない。ふと、トモコは腹に爆弾を抱えているような気がした。
 川のずっと上流に行ったのだろう、水汲みの桶を抱えたサイドンとすれ違ってなお歩き続け、やっとのことでグラシデアの畑についた。見れば、誰かいる。テツジかと思ったが、明らかに体躯が小さ過ぎる。
「何してるんですか!」
 思いがけず腹の底から出た大声に、人影はビクリと竦んでこちらを見た。ほっかむりの下のしわくちゃの顔は、見覚えのある人のものだった。グラシデアの話をした日、居残って嫌味を言った老婆だ。ヌオーは連れていなかったが。
 老婆はトモコを認めると、さっと立ち上がってさっと消えて行った。本物の山ん婆みたいな身のこなしだった。
 遅れてテツジが、彼のポケモンらしい紫の巨大サソリを連れてやってきた。トモコがさっきのことを訴えると、テツジは困ったように「ああ、そう」と言葉を濁した。
「多分、気になって来たんやと思うで。育ったらやっぱり嬉しいもんやし」
 そんなこと、私は泥棒かと思ったのに。けれど、口に出さなかった。トモコと違ってテツジはこの村の人なのだ。この村のことを承知しているのは、トモコよりテツジなのだ。
「今日もがんばろか。まだ種子もようけあるやろ」
 二人は黙々と作業した。次の日も、その次の日も、二人はグラシデアの種子を蒔き続けた。
 芽吹きますように。育ちますように。花が咲きますように。トモコは種子を蒔く度、祈り続けた。

 太陽は日に日に熱さを増すようだった。大地の焦茶色は太陽が焦がす所為だろうかとトモコは思った。
 大分生活にも慣れてきた。体はまだ辛いし、男のテツジの作業量には全く敵わない。しかし、朝起きて水撒き、テツジは水汲み、トモコは食事と用意と週一で町に出て買い出し、という生活のリズムが馴染んできたのを感じる。それが何故か嬉しかった。
 グラシデアの鉢は、まだ何の変化も見せなかった。暑さにやられたのか、毒にやられたのか。グラシデアは一部を除けば、寒さに強い品種の方が多い。秋蒔きにすべきだったか、いやそれとも、と迷っている内に、第一弾が姿を見せた。
 見つけたのはテツジでもトモコでもなく、村に残っていたお爺さんだった。テツジが「ヤマノの爺ちゃん」と呼ぶこの人は専ら山野で採集の暮らしをしているそうだ。採集に便利なのだろう、ジグザグマを三匹連れたその爺ちゃんが興味深い話を教えてくれた。
「そういえば、向こうのお山にも一時グラシデアの花畑があったなあ」
「どこですか、それ?」
 意気込んで聞いてみれば、爺ちゃんの若い自分、まだ十八か十九の時だと言う。爺ちゃんはまた山野に行ってしまった。その後を追うジグザグマたちは、揃いも揃って真っ直ぐ走っていた。
 あの花畑は残ってないだろうなあ、とテツジと二人、ちょっとがっかりして、それから笑った。
 グラシデアの芽生えはありふれた双葉だった。カイワレみたいなヒョロヒョロで、これからちゃんと育つか、心配になってしまった。
「それよか、まだ芽ぇ出てない奴の方が心配やな」
 夕餉の席で、テツジがポツリと呟いた。いよいよ暑さでやられたんかもしれん、と言う。
「まだ諦めるのは早いわ。一番の芽かて今日出たばっかやねんから」
「そやな。畑も最初育てんの大変やったって、親父が言うとった」
 おかわり、と言ってテツジが笑う。テツジを元気付けたつもりが、何だか自分まで元気付けられた気がした。

 テツジの心配は杞憂で、グラシデアの種子はその日をきっかけに、タガが外れたかのように次々と芽吹きはじめた。最初の方に芽吹いた種子も、ぐんぐん伸び始めている。カイワレみたいだと思った双葉はすぐ消え失せて、広い葉を次々と付け始めた。この頃にはもうトモコは駅の詰所から畑を借りた老夫婦の家に住まいを移しており、朝となく夕となくグラシデアの苗を見て回っていた。
 だから、真っ先に気付いたのだ。
「ちょっと!」
 トモコの声はいつの間にか、よく通るようになっていた。大声で咎められて、グラシデアを植えたポットにしゃがみ込んでいた人間が、慌てて顔を上げた。
 また、あの老婆だった。
「何してるんですか!」
 トモコには答えず、老婆はさっと逃げ失せた。トモコは慌てて老婆がしゃがみ込んでいた辺りに駆け寄った。
 ああ、と嗚咽とため息がないまぜになった空気が漏れた。焦茶をバックに、背丈を伸ばしていた若い緑が横倒しになっていた。黒いポットも転がっている。トモコは苗を立て、軍手で土をかいて畑に埋め直した。だめだろうな、という予感がした。

 水汲みから戻ってきたテツジに訴えると、テツジは暫く何事かを言い淀んで腐っていた。
 しかし、グラシデアの苗をいつになくクサクサした気持ちで見て回るトモコを見て決心がついたのか、口火を切った。
「あのマキノの婆ちゃんが言うててんけども」
 マキノ、というらしい。テツジは「えー」と不器用な間を置いた。
「そろそろ植え換えなあかん、と」
「植え換え、って?」
 テツジは頭の後ろをバリバリ掻いた。予想外のことが来て困った時の癖だ。
「せやから、もう畑の土にじかっぽに植えな、植物の根っこももう、ポットの中やと狭いから」
 あーっ、とトモコは声を上げた。トモコの目が真ん丸になっていた。植え換え。そういえば言われていたのに。
 慌ててスコップを母屋から探し当てた。テツジの教授を聞きつつ、十五センチになる苗をどんどん植え替えていく。作業の途中で、トモコは「もしかして」とテツジに聞いた。
「マキノさん、植え換えようとしてたの?」
「うん、そう」
 トモコは恥ずかしさで真っ赤になっていただろう。テツジは可笑しそうにしながらグラシデアの植え換えを続けていた。
 次の日、植え換えでしゃがみ続けて腰が辛いのを押して畑に行くと、テツジがずるをしていた。
 彼のポケモン、巨大サソリが巨大なハサミを使ってざっくばらんに地面にボコボコ穴を空けていたのだ。テツジは巨大サソリが穿った穴にグラシデアの苗を入れるだけ。
「横着やわ」と思わずトモコが言うと、テツジは笑って、農村に生きる人の知恵だと言った。
「ポケモンに頼めるとこは頼む。これ必須、な。ほんまは地面タイプとか水タイプの方がええねんけど」
「そういえばこの子、なんていうポケモンなん?」
 トモコが首を傾げて尋ねる。紫色の巨大サソリは紡錘形を数珠状に繋いだような姿をしている。サソリでなければ、柔軟性を手に入れたクレーンか、さもなくば戦車に見える。
「ドラピオン。サソリのポケモンや」
 なんだ、第一印象で合ってたんじゃないかとトモコは思った。ドラピオンのドラはグラシデアを巧みに避けつつ、植え換え用の穴を穿っていた。
「タイプは何やと思う?」
 植え換えをするテツジが、意地悪そうにニヤリと笑う。はじめて見る表情だった。
「何だろう」
 問題にするぐらいだから、難しいのだろう。テツジの言葉から地面でも水でもないらしいが、畑仕事を意気揚々と手伝っているから、次点の岩あたり。あとサソリだから虫だろうか。
「虫・岩」
「ハズレ、毒・悪でした」
「分からへんわ」
 トモコがそう言うと、テツジは何故か満面の笑みになった。
 ちまちまと穴を掘っていて、気付く。なるほど、毒タイプだから平気でこの畑にも出せるのだ。
 でも、例の毒水の内訳を知っているトモコとしては、少し落ち着かなかった。


 グラシデアは、そこが不毛の大地だとは思えない程順調に育った。全部が芽吹いたわけではなく、間引きや途中で枯れたのもあって、育ったのは最初に蒔いた種子の一割ぐらいしかない。それでも、最初でこんだけ育つんならグラシデアは丈夫な植物やとテツジは喜んでいた。
 一度、テツジの両親から連絡があったらしい。帰れるなら帰って畑を耕したいと言っていたそうだ。しかし、水が心配だ。テツジの両親はポケモンを連れていないから、上流まで水を汲みに行くのは骨になると言っていた。らしい。
 それと、訴訟の準備を始めたこと。その為、補償金の受け取りは拒否することにしたとも言っていたそうだ。予想できたこととはいえ、胸が痛んだ。テツジの両親はよくしてくれているが、自分は所詮よそ者なのだ。普段は人の少ない所にいるから分かりづらいだけで。
 もし、グラシデアがこのまま順調に育たなかったら、どうなるだろうとトモコは思った。他人の畑を実験台にして荒らすだけ荒らし、そのまま去って行った女とでも記憶されるだろうか。グラシデアが育っても、シェイミが来なかったら。シェイミが来ても、この地の毒を消せなかったら。
 トモコは早めに眠ることにした。悪い考えは凶事を引き寄せる。床に入るとムウマも寄り添ってきた。実体のないポケモンだと、こんな時抱けなくて不便ねと思いながら、間もなく夢のない眠りの中へ引き込まれていった。

 それから何日かして、風の強い日があった。雨戸を立てても家の外は夜中轟々唸り続けで、トモコは今日の風はずいぶん強いのだなと思った。
 次の朝、外は台風一過とはこのことだと言わんばかりの晴天がトモコを出迎えた。あるいは、本当に台風だったのかもしれない。大型はトモコたちの居場所を逸れ続けているが、小型がふとした弾みでこちらに寄ったのかもしれない。トモコは朝の水撒きに向かった。
 畑に近付くと、テツジが両手を振りながら駆け寄ってくる。
「トモコ、トモコ!」とずいぶんな慌てようだ。「とりあえずこっち来て」
 鷹揚なテツジのことである。これは只事ではないと、トモコも走って畑の中心部に向かった。そして、惨事を知った。
 まるで巨人が踏み荒らしていったようだった。みずみずしく、たくましく育っていたグラシデアたちは巨人のひと踏みで残らずやられていた。天に向かって伸びていた葉が、茎が、今は泥に塗れていた。テツジが黒いポットを集めていた。芽吹く見込みがなくて、もう中身を空けたものだったが、それでも隣の畑にまで飛んで散らばっているのは、ただ酷かった。
 トモコは指先で倒れた茎をつまんだ。地面に立てて、離す。また倒れた。あの苗も、この苗も、全部巨人が持って行ってしまった。
「テツジ」
 もう何も分からなくなって、トモコはただ名前を呼んだ。慰めてほしいのか、次善の案を考えてほしいのか、今はよく分からなかった。テツジはまだポットを拾い集めていた。彼の顔がこっちを向いた。

 ――きゅ、きゅうん。

 不意に、晴空に声が響いた。微かな声だが、トモコは聞き逃さなかった。
 空を仰ぐ。
 青一色の中に、ぽつねんと、見慣れない白っぽいポケモンがいた。
「シェイミ?」
 トモコが呟くと、白っぽいポケモンはクルリと空中で方向転換した。もう一度きゅうんと鳴いて、それがトモコにはイエスと言っているように聞こえた。
「シェイミ? 待って、待って!」
 シェイミらしきポケモンは、空に吸い込まれるように見えなくなった。テツジが「いたか」と言いながら駆け寄ってくる。
「いた。シェイミだった。でも、待ってくれなかった」
 テツジはちょっと躊躇してから、トモコの肩に手を置いた。
「シェイミじゃなかったんかもしれん。遠かったし、薄情やし」
 言われてみれば、確かに遠かったし、トモコはシェイミの正確な姿も知らない。台風のショックから持ち直すと、あれは鳥ポケモンの見間違いという気がしてきた。
「ありがとう、ちょっと落ち着いたわ」
 そやなあ、とテツジは言う。
「それから、これからどうするか考えよか」


「もう、やめへんか」
 台風後の後片付けをして、夕餉を食べている時だった。テツジの、いかにもテツジらしからぬ物言いに、トモコは思わず笑ってしまった。
「何をやめるの。お夕飯、もう作らんかったらテツジが困るのやない?」
「そやなくて」
 テツジが苛ついた調子で言った。
「トモコ、もうグラシデア育てんの、やめにせんか」
 突拍子もない通告だった。トモコは、何故それがテツジの口から出るのかが分からなかった。
「仕事はええんか」
 トモコに相槌も打たせず、テツジは言う。トモコが「そっちこそどうなん」と言うと、痛い所に刺さったらしく、テツジは顔をしかめた。
「トモコの仕事の方が大変やろう。難しそうやし。ずっとも休んでられへんやろ」
「もう辞めたよ。とっくの昔に」
 そうか、とテツジがぼやいた。今日は珍しく箸が進んでいない。変な味のものなんて作っていないはずだ。
「続けるよ」
 トモコはそう言って、ご飯をつつき始めた。暫くしてから膳を見る。やはりテツジの箸は進んでいなかった。
「親父とお袋が、秋口にこっちに戻るらしい」
 やっと漬物をつついたテツジが、ポツリと呟いた。水はドラピオンが汲むのだろうか。
「良かったね」とトモコは言った。
「せやから、無理して畑仕事せんでもいいよ。親父もお袋も乗り気やし」
「そんな」
「僕も続けるし」
 明らかにテツジの様子がおかしい。トモコはやっと気付くと、テツジの注意を引くように乱暴に椀を置いた。
 けれど、言葉が出てこない。
「すまんかった」
 結局テツジがそう言って、白米をかき込んだ。
 明日から、グラシデアの世話をすることは出来ない。


 トモコは秋蒔きに向けて、グラシデアの種子を探し始めた。しかし、花屋によっては扱っていなかったり、扱っていても高価だったりした。旧友の方も、秋の分は用意できないと連絡があった。グラシデアは秋から冬にかけて育てるのが主なのだそうだ。
 ならば、と大きな花屋に掛け合って大口の予約を入れてもらった。旧友に貰った種子も、春に使わなかったのがまだ半分程残っている。生育に向かない夏でもあれだけ育ったのだ、秋ならもっと育つ、と根拠の薄い自信を抱いていた。
 そして、シェイミについても調べた。こちらは全く収穫がなかった。スケッチを見ると、うさんくさい緑の毛玉のようなポケモンらしい。伝承はかなり多いのに目撃数になると極端に減る。シェイミが暮らすグラシデアの花畑の目撃例がまず少なく、花畑があってもシェイミが姿を現すとは限らない。幻のポケモンと銘打っている本もあって、そんなものかとひとまず得心した。

 台風の季節の終息を見計らって、村に戻った。ずいぶんと人が戻ってきていた。

 グラシデアが強毒の地でも育ったという噂を聞いて戻ったものらしい。その全員が自分のポケモンを連れていて、水汲みのことがどうしてもネックになるのだとトモコは思った。
 トモコが家を借りている老夫婦は戻ってこなかった。あちらも事情があるのだろう。また暫く、宿を借りることにした。

 日々は順調に過ぎていった。グラシデアの種子を植えるのも、少しだけ手際が良くなった。村に戻った人たちにグラシデアの育て方を教えながら作業する。種子の総数は、村民が自前で持ってきたものも含めて、中々馬鹿にならない数になっていた。それもすぐに植え終えてしまった。
 防毒ブーツや軍手が足りないだのといったトラブルはあったが、概ね順調に進んでいる、とトモコは思った。夏に植えた時が嘘のように、秋蒔きの種子はさっさと芽を出した。前程の感慨はないな、と思いつつ、トモコは安堵半分、失敗するかもという予想と諦め半分で畑を見ていた。
 そして、その視界の隅にはいつもテツジがいた。

「土地が戻らんかったら、グラシデアの農家に転職しよか」
 日々伸びていく緑を見ながら、誰かが冗談半分に言った。夕日に照らされる畑は、少しだけ荒野ではなくなっていた。
「せやけど腰きついで」
 誰かが答えた。数ヶ月畑から離れただけで、老人たちの筋力はずいぶん衰えたものと見えた。
「しかし、きのみは育たへんしなあ」
「毒が消えたらまた育てよか」
 老人たちが言う。ふと思い出したことがあって、トモコは彼らの会話に口を挟んだ。
「どっちにしろ、大変みたいですよ。グラシデアを育てると土地が痩せるみたいで」
 そんなん、オレンでも何でも一緒やわ、という人と、あんまり痩せても肥料代が馬鹿にならんな、という人に別れた。きのみ畑にするには何が大変なんや、と村人が聞く。
「グラシデアは他の植物を育ちにくくする性質があるらしくて、すぐに変えてもよう育たんらしいのです。土地を休ませた方がいいらしくて」
 彼らはトモコの講釈を熱心に聞いていた。そのままグラシデアの質問が続いて、どの肥料の割合が多いのかとか、どの品種が村に向いているかとか、トモコが答えられなくなってきた辺りで、村人のひとりが片手を上げた。
「テツジ、そんなとこで何やってんのや」
 トモコはぱっと振り返った。暗がりにドラピオンを連れたテツジが立っていた。暗くて表情は見えない。テツジはしどろもどろで何か言うと、ドラピオンをボールに戻して家へ駆けていってしまった。
 反射的にトモコも駆け出した。グラシデアの苗を蹴飛ばさないよう、ムウマを出して暗闇を照らしてもらう。ぎりぎり、テツジが玄関に入る前に捕まえた。テツジはトモコを振りほどこうとして、困った顔をした。
「なんで逃げるん」
「なんでって」
 テツジはまた口ごもった。トモコは黙って、テツジが逃げないよう、見張っていた。いざとなったらムウマに黒い眼差しを頼もうか、とさえ考えていた。
 たっぷり十分は黙った後、テツジはやっとのことで口を開いた。
「あれ、なんで黙ってたん」
「あれって」
「グラシデアの後は育てにくい、とか」
 言いたくなかったのだ。だがトモコはそれを誤魔化して、「言う時がなかってん」と答えた。テツジは、それ見たことか、とばかりに噛み付いた。
「言う時なんていつでもあったやないか。顔合わせたらグラシデアの話しかせんかったやないか」
「それは、」
 トモコは白旗を上げた。「ごめん」とだけ言って、後は何も言わなかった。テツジや村の人たちが自分のきのみ作りを愛していることは知っていたのだから。
「僕もごめん」
「それは何の」
 トモコに問い詰められて、テツジは「台風のこと」とボソボソ答えた。
「僕もまあ、疲れてて。とにかく謝る」
 もうええにしよ? とトモコは言った。ひと月も前のことで、これ以上どうこう言ったって仕方ない、と思った。テツジの方はずいぶん気にしていたらしく、ムウマのフラッシュに照らされた顔が明らかに安堵に変わった。
 気にしていたといえば。
「テツジは仕事どないなったん」
 案の定、テツジはビクリと肩を震わせた。それはその、と不明瞭なことを口走る。
「言いたくなかったら別にええわ」と言うと、「いややっぱり言う」と答えが返ってきた。
「実は、カントーで仕事してたんはちょっとだけで、後はずっと旅しとったんや」
 トモコは打ち明けられた事実が意外と軽かったので、思わず笑い声を立ててしまった。旅するポケモントレーナーなんて、コラッタ並に珍しくない。
「笑い事ちゃうで」とテツジは眉をひそめる。
「兄貴おってんけど、旅に出て行方不明になってん。それから両親とも旅というものに反対やねん」
 せやから黙っといてや、というテツジに、トモコは快くオーケーを出した。
 テツジが玄関を潜ると、家にぱっと明かりが灯った。早速ばれたらしかった。

 グラシデアは順調に育っていく。心なしか、夏の時よりも良く生長しているように思えた。
 緑は膝下程で伸びるのを止め、今度は台風の妨害も受けず、チラホラと紅色の蕾を付け始めた。蕾を見るのはトモコもはじめてだったので、素直に歓声を上げた。
「まだ終わりとちゃうで」と色んな人にたしなめられた。
「花がきちんと咲くかどうか。そこまでやらな」
 中には「順調にいきすぎて不安やわ」と言う人もいたが、トモコは聞き流した。出来る限りのことをやっている。花に栄養が行くよう、下の葉を何枚か取った。花と花の間隔は、シェイミが縄張りとするには少し広いが、確実に育てるにはこれが適正だ。上流の里山に手を入れ、下生えを取ってきて肥料作りもやった。

 後は花が咲くのを待つしかない。

「なあ、気持ちのええ丘があるんやけど、一緒に行かへんか」
 ある夜、テツジに誘われて、トモコは星明りの下をテクテク歩いて行った。

「ええ丘やろ」
 テツジに言われて、トモコは頷く。テツジの言う丘は、村から大分離れた場所にあって、普段はヤマノの領分で通っている所だった。毒の影響はなかったらしく、細い草が丘一面を覆っていた。テツジは両手を広げて丘に寝転んだ。
「ガキの頃によう来てん。野生のポケモンの住処からはうまいこと外れとるし、気持ちええし」
 トモコも真似して、寝転んでみた。草がクッションになってトモコの体を受け止めた。
「兄貴がおった時の話や」
 テツジが笑う。トモコも笑った。

 空にはたくさんの星があった。トモコは未だに、都会の空、黒に星ひとつふたつという感覚から離れられなかった。惜しげもなく砂粒みたいに星を撒いているのを見ると、心のどこかが物怖じしてしまうのだ。

「兄貴は物知りやったなあ。今思えばほとんど親か先生の受け売りやねんけどな」
 そう言って、テツジは昔話を始めた。
「前言うたっけ。収穫の終わった果樹園を巡ると、どの木にもひとつずつだけ実が付いてんねん」
 テツジは星空に手を上げた。風がぴゅうと吹いた。
「ポケモン用のきのみって、実を全部収穫したら枯れてしまうんや。工場で、機械仕掛けで作ってるようなのは全部取るらしいけど。ここのは違うで。一年育てたらきのみのええ、悪い、て分けて、ええ実のなる木は実を残して来年に残すんや」
 トモコは黙っている。テツジの言葉に耳をすませている。
「そうやって一年、次も実を付ける木が畑に残ってるんや。僕と兄貴は、いつも実が落ちひんかどうか見守っとった」
 今思うと無駄やったけどな。テツジは今きっと笑っている。
「葉をちょっとめくると、実がちゃんとそこに付いてんのや。そいで僕らはほっとする。木守りは、木の守り神はすごいなあって」
 今度はトモコの番だった。
「私のは旧友の聞き伝てやけど。
 シェイミって、グラシデアの花畑から花畑に渡んねんて。ひとつの花畑は三年くらいで枯れて、その時はシェイミたち、グラシデアの種子を持って飛び立つそうよ。その先に花畑が出来る。
 それで、花畑は三年はそこにあるらしいけど、手入れとか、せなあかんのやろね。シェイミの群れの一匹がそこに残って、三年間、グラシデアのお世話をするの。そのシェイミは花守りと呼ばれるそうよ」
 沈黙がふたりを覆った。心地の良い沈黙だった。星も、草も、全部ふたりの味方に思えた。

「帰ろうか」
 テツジがドラピオンを出した。

 帰り道、数珠のようで乗りづらいドラピオンに揺られながら、トモコが話す気になったのは何故だったのか。
「……化粧品作るのはね」
 ドラピオンが規則正しく土を蹴る音がした。
「毒ポケモンの毒を取って、そっから必要な成分だけ取ってきて作るの。せやから後の廃液は、人に使えへんものが凝縮して出来てる。これからどうなるか分からん」
 テツジはそうか、と言った。
 そうよ、そうなんよ、とトモコはか細い声で呟いた。


 数日後。
 トモコは空気が違う、と感じた。昨日までと同じ、蕾を付けたグラシデアの中にいるのに、昨日とは全く違うものをトモコは感じていた。
 しゃがみ込んでいたマキノの婆ちゃんが、それを裏付けるように首を横に振った。
 枯れていた。
 あともう少し、蕾が綻びるだけという所で、グラシデアは音もなく力尽きていた。
「毒が強すぎてんな」
 誰かが言った。それに同調する雰囲気が生まれる。丹精込めて育てたきのみを、チリチリに焦がして奪ってしまった、その猛毒を食らってここまで育っただけで、十分だ。誰かがそんなことを言った。
 来年、またやればいいと誰かが言った。来年、出来るだろうかとトモコは思った。グラシデアさえ首を折る猛毒を浴びているのは、結局自分らなのだ。それでなくても老人が多い。グラシデアが咲くまでに、何人生き残るのか。その後、また果樹園に戻せるかも危うい。それに、シェイミは来ないかもしれない。大地から毒を除くのに当てのない希望に縋り、命を削られるのは結局彼らなのだ。そして、その希望を振り撒いたのはトモコだった。

 トモコの指がグラシデアに触れた。天辺に三つ付いた蕾は、どれもなすがままにされ、力なく項垂れていた。
 いつの間にか、隣にテツジがいた。
「マキノさんの言う通り、夢物語やったんや。毒の方が強いんや。もう、何も育たんとみんな枯れてしまう」
 周囲に聞こえないよう、小さな声で話したはずの言葉は、周囲の誰にも聞こえているような気がした。
「大丈夫や」
 テツジがトモコの肩を抱いた。農業は気ぃ長いんやし一年二年なんて普通にかかるし、と喋りかけて口を噤んだ。そして、
「君の夢って、割りと好きやねん」
 と小さな声で言った。
「ありがとう」
 トモコは目を閉じて、テツジのシャツに額を押し付けた。テツジは空を見上げて、何も見ない振りをした。

 大地ではグラシデアの蕾が、ゆっくりと頭をもたげ始めていた。
メンテ
Skyme to the moon ( No.12 )
日時: 2012/05/27 23:42
名前: 乃響じゅん。

テーマ:A「タネ」


 道で倒れたおばあちゃんを負ぶってあげたら、種を一つ貰った。
 なんでも、幸せを呼ぶ種だそうだ。人の優しい気持ちを吸って成長するから、今なら埋めたらすぐに伸びる。育ててみたらいいと言われた。
 あなたに幸せが訪れますように。別れ際に、そう告げられた。


 種の成長は、想像以上に早かった。たった一晩で腰の高さにまで伸び、三日も経てば周囲で一番背の高い植物になった。伸びた植物は、木のようでもあり、蔦のようでもある。緑色の幹がうねりにうねって、空へと続いていく。
 更に三日経つと、とうとう空の雲に隠れて見えなくなってしまった。今日の雲は雨も降らさず、分厚く留まり続けた。
 次の日になると、今度は木の根元が細くなり始めた。幹が根っこから離れようとしている、そんな風に見えた。
 ふと見上げれば、昨日と全く同じ雲が空を漂っていた。雲の動きを、この木がロープのように地面に繋ぎ留めている。そんな気がした。
 私は幹に触れ、空を見上げた。種をくれたおばあちゃんは、幸せを呼ぶと言っていた。私はもしやと思い、この木を登ってみることにした。
 木がうねっているおかげで、足をかける場所にはこと困らない。一歩一歩、確かめるように進んでいく。
 半日かけて登りきると、そこは雲の上だった。

 太陽はとうに姿を隠し、満月が空に浮かぶ。雲の上はどうやら歩けるらしく、私は辺りを散策してみることにした。
 どこまで行っても、月明かりを照らす青白い風景が続いた。私は寝転び、仰向けになった。ここより高い所には雲は飛んでおらず、ただただ大きな月がきらきらと輝いている。
 よく見ると、小さな点が連なっていることに気付いた。かなり高い所にあるようで、目を凝らして辛うじて分かる程度だった。

 どすっ、と不意に何かが落ちる音がした。身体を起こして、確かめる。居所はすぐに分かった。白い風景のなかに、一点の緑色。恐る恐る、触れてみようとした。
 触れるより早く、緑色のそれは飛び上がった。ぷはぁっ、と吸い足りなかった空気をたっぷりと吸い込んだ。
 勢いに驚いて、私は飛び上がった。緑色の生き物が振り返ると、私と目が合った。ささっと私に近づくと、そいつは尻餅をついた私のひざに飛び乗った。
「ごめんね、びっくりしちゃったかな?」
 話を聞けば、これはシェイミという生き物らしい。仲間と一緒にいたが、風にあおられて落ちてしまったらしい。
「あたし、月へ行きたいの」
 シェイミは訥々と告げた。二人、月を見上げる。黒くかすかに見える点が、わずかながらさらに小さくなったような気がした。


 私はシェイミの望みを叶えてやることにした。
「月に行くとなると、ロケットかな。南の島に行けば、宇宙センターがある。ロケットに乗せて貰ったらいいんじゃないかな」
 私の提案に、シェイミは首を振る。
「あたしたちは自力で飛べるんだから、人間の手を借りる必要なんてないの」
 少し胸を張って、高飛車な口調でシェイミは説明を始めた。
 シェイミという生き物は(今でこそずんぐりむっくりだが)、グラシデアという種類の花を身につけると姿を変えるらしい。その姿になれば、空を飛べるようになるという。その姿を想像しようにも、うまくいかない。スマートなんだから、とシェイミは語った。
「グラシデアの花は、どこに咲くの?」
 私は聞いた。
「ソノオタウンってとこ。ここより大分北にある街で……ひんやりしたところよ。夏でも全然暑くないところかな」
「北か」
 シェイミがふと向いた方角に、目をやる。きっと彼女たちはそこからやって来たのだろう。季節が逆戻りしたような、冷たい風が吹いて流れた。夜はまだまだ寒い。

 いつのまにか雲は山にぶつかった。幸せを運ぶ種の木が地面から離れ、雲が動いていたようだ。夜が明けてから、私は山を降りた。
 シェイミを抱いて街中を歩いていると、シェイミはやたらと居心地悪そうにして、身を隠そうとする。上着の隙間に潜り込むと、シェイミは私にだけ聞こえる声で囁いた。
「あたし、たぶん追われてるかも」
 声を上げたかったが、内容が内容だけに押し殺した。背後をこっそり確認したが、怪しい人物は見当たらない。いつ何をされるか分からない緊張感が走る。足取りが自然と速くなった。
 私は車を借りた。調べてみれば、シンオウ地方のソノオタウンは電車も殆ど走らない田舎だ。近くに空港もない、車移動前提の街のようだ。目的地近くまで、シェイミを盗まれる心配をしなければいけないような状況は避けたい。レンタカーは高速用のカードも借りられ、現地で返却することも出来るようで、迷わずサインした。
「高速道路を飛ばすわ。休憩込みで大体三時間。渋滞もおそらく無いでしょう」
シートベルトを締めながら、私はシェイミに言った。
「免許持ってるの?」
「ゴールド免許三年目。ペーパーでもないから、安心して」
 私は車を発進させた。ブレーキのきつさに慣れない感覚を覚えるが、徐々に慣れてくる。身体にある程度馴染んだところで、話を切り出してみる。
「追われてるかもしれないって、それはあなたが珍しいポケモンだから?」
「うん」
 話を聞けば、シェイミが雲の上に落ちる原因となったに風は奇妙な動きをしたらしい。自分のバランスを崩すように、執拗に追いかけまわすようだった、とシェイミは語る。自然発生したものとは思い難い。
「あなたを空から落とした人物が、今私たちを追ってるかもしれない。そういうことね」
 私は戦慄した。思った以上に、深い溝に足を踏み入れているのかもしれないと覚悟を決めねばならなさそうだ。高速道路に入り、一気に加速する。エンジンが唸りを上げる。シェイミは身体がすくんでしまったようで、声が漏れる。すぐさま追い越し車線に入り、140キロぴったりまで速度を上げる。山の間に緩やかなカーブを描き、下り坂に入る。
「ちょっと飛ばし過ぎじゃない?」
「この辺は警察も張ってないし。今だけよ」
気楽な口調で言ってみたものの、胸がざわめくのを感じていた。シェイミが何に対して感じているのだろうか、不安そうな顔から確信を得ることは出来ない。ここは、話しておくべきだろうか。
私はバックミラーをちらと見やった。私の不安は確信に変わる。
「やっぱり、付けられてるわね」
「警察?」
「違うわよ。あんたがさっき言ってた追手ってやつ。まぁ、どっちも嫌な相手だけどね」
 私は左車線に戻り、スピードを落とす。ほどなくして、背後に三台、同様の動きを取る者がいた。 絶妙な車間距離だ、と私は舌打ちした。中の人物の顔まで窺い知ることは出来ない。
「二つ後ろの車、あなたの姿を悟られないように見れる?」
 やってみる、とシェイミは後部座席に移動した。だが、すぐに戻って来て、さすがに見えないと残念がった。
「やっぱり……残念ね」
 私はパーキングエリアへと向かう側道に入った。それを知ってか、追手の車も側道へ入った。休むこともままならない、とため息を漏らす。
 姿を隠しながらシェイミをつけ狙う連中。何をするのか知らないが、どうせろくな目的でないに違いない。絶対にそうはさせない。私がこの子を、月まで連れて行く。

 車を停め、シェイミを服の間に隠しながら外に出る。他人を装っているようで、三台の車が別々に止まっていた。下りる気配はない。
 軽い食事を取り、シェイミにも少し分けた。シェイミは案外雑食らしく、人の作ったものでも食べられるらしい。それでも、味が濃過ぎて美味しいとは思わないそうだが。主食は背中の緑で光合成した栄養分だそうだ。
 車に戻る途中、ふと声をかけられたことに気付いた。自分と同じ、二十代半ばほどの男だった。茶色のスーツに赤いネクタイ、控えめな茶髪を緩く流した、少し気弱そうな目付きの男が、そこに立っていた。右手には、紺色のハンカチが収まっている。左手の鞄には、何か大きな物体が入っているらしく、深く沈んでいた。
「あの、すみません。これ落としませんでしたか」
「ああ、私のですよ。どうもありがとう」
 私は素っ気なく答えた。ハンカチ自体は確かに私のものだが、今の私は神経質になっている。もしかしたら彼は追手の一人なのではないかという疑いが、今の態度に繋がっていた。
「あと、非常に申し訳ないのですが……」
「何ですか」
「車に乗せて頂いても宜しいでしょうか?」
 あまりに直接的過ぎる申し出に、賛成する気には全くなれなかった。
「悪いけど、他を当たって下さい。それじゃ」
 私は車のキーを立ち去ろうとした。
「待って下さい」
 男は泣きそうな顔をしながら、身の上を喋り出した。
「私、三原って言います。鞄の中身をソノオタウンまで届けなくちゃいけないんで、相方と二人高速を走らせてたんですが……信じて貰えないかもしれないですが、パーキングエリアに寄ってる途中に相方に置いていかれたんです。どうか途中まででいいんで、乗せては貰えないでしょうか」
 余りに必死な表情は、嘘をついているとも思いがたい。彼の告げた一つの単語が気になる。だが、彼が無関係ならば私達の都合に巻き込んでしまうことになる。
私は申し訳なく思いながら、少し頭を下げた。そのとき、誰かが怒りの声を上げた。
「うだうだ言ってないで、乗せてってくれたらいいんだよ! 優しくないな」
 彼の大きな鞄から、一匹の小さなポケモンが顔を出していた。どう見ても、これが喋ったとしか思えない。
「ば、ばか」
 三原は焦るように声を上げ、それを押し込もうとする。白い顔に緑の頭、顔についたピンクの花。彼の鞄の中に入っている生き物は、紛れもなくシェイミだった。三原は私の顔を見上げて、引きつるような笑みを浮かべた。

 高速を更に北上し、次々と車を追い抜いていく。大分街中から離れたようで、車の数が段々と減ってきた。それに加え、トラックの数も多くなっていく。バックミラーを確認すれば、やはり三台の車が張り付くように追ってくる。
「で、あなたがヒッチハイクしなきゃいけなくなった理由貰えませんかね」
 今までの旅路と違うのは、隣に一人の男を乗せ、シェイミがもう一匹増えたことだ。シェイミは、三原のシェイミと一緒に後部座席に収まっている。乗せて貰った安心感からか、三原は車を発進させた途端に馴れ馴れしい口調に変わった。どうやら彼は絵本作家で、私より二つほど年上らしい。皮肉を効かせた口調で、私は言った。
「長期休暇を貰っていてね。次回作の取材も兼ねて、友達と一緒にソノオタウンへ旅行しようとしたんだよ。そしたら、空からシェイミが降ってきて、窓ガラスに貼りついた」
「あの痛みは忘れられないね」
 三原のシェイミは憎々しげに呟いた。
「空を飛んでたら、突風が吹いてね。立て直そうと思っても、ずっと暴風に吹かれ続けて、落ちちゃった。まるでおれだけを狙ってたみたいだった」
 話を聞いていると、私が拾ったシェイミと良く似ていると思った。これは思った以上に深刻かもしれない、と自分の不遜な態度を戒め、私は言った。
「ただの突風じゃない、ってことね」
 三原は頷いた。
「友達は新聞記者だった。シェイミの話を聞いた途端、顔つきが変わったんだ。何か事件のにおいを嗅ぎ取ったんだろうな。僕の話も姿も、完全に忘れたように自分のことに集中していた。あのパーキングは外に出て少し歩けば駅があるから、そこから先に帰ってくれって言われたんだ。有無を言わさず、置いていかれた。本当はシェイミも彼と一緒にいた筈だったんだけど、こいつ、途中で窓から飛び出したらしいんだよ」
「あいつといても面白くなさそうだったからね」
 三原のシェイミはその一点張りを決め込んでるようだった。
「まぁ、こいつが僕と一緒に来るって決めた以上、ちゃんとソノオタウンまで届けてあげなくちゃ。そう思うんだよ」
 ちらと彼の顔を見やると、その目は真剣で、どこか楽しそうでもある。案外悪い人でもないのかな、と彼を思い直した。
「ところで、君はどうしてこのシェイミを?」
 三原は後ろを指差して、私の顔を見た。何と説明したらよいのだろう。
「……木に登ったら雲の上に出て、落ちてきたところで出会った、って言えばいいのかな」
「ジャックと豆の木みたいだな」
「巨人の城は無かったけどね」
「へぇ、すごいな……おっ、いい曲」
 ふと、彼がラジオの曲に反応した。
「Fly me to the moon。邦題は『私を月に連れてって』だっけ」
「そう。良く知ってるね。タイムリーな曲だと思わないかい」
「シェイミたちを連れて行くって意味ではそうかもね。でも生憎、火星とか木星の春を見に行けるほどロマンチックな気分には浸れないわ。どっちかって言うとHighway Starでも聞きたい気分ね。誰も前にいないし」
「ジャズにロックに。音楽にも詳しいんだね」
 彼は感心したように告げた。
「そんなこと。人並みよ」
 少し照れくさくなって、手元が寂しくなる。せめてマニュアルならよかったのに、と無いものねだりをしてみる。借りた車には、馬力も太いタイヤもありはしない。ラジオから流れるスタンダードに合わせて、鼻歌が聞こえる。三原のものかと思いきや、どうやらシェイミ達が歌っているらしい。
「似合わないわね」
 私は誰にともなく、呟いた。

 午後五時半になって、ようやくソノオタウンに到着した。山々に囲まれたのどかな風景なのだろうが、楽しむには少々暗い。太陽は既に沈みかけている。三原は携帯端末で情報を集めていた。
「ソノオタウンには自然公園があって、その奥にグラシデアの花畑があるらしい」
 言いながら、三原はカーナビに入力する。
 道中、三原の気づかいは細かいものだった。喉の渇きを感じ始めたころに、予備で持っていた水をくれたり、時々シェイミ達に体調を尋ねていた。カーナビの操作も手慣れたもので、あっという間にルートを割り出した。全ての準備は整えられた、そんな風に思う。
「良かった。今の時期なら、閉園時間は二時間伸びる。グラシデアの花は夜にも咲くらしいから、ライトアップもされるんだって。そのまま駐車場に向かって良さそうだ」
 私は彼の助言に従い、駐車場に車を停めた。降りた途端、少し気が抜けそうになった。お疲れ様、と彼は声をかける。
「早くこの子たちを群れに戻してあげないと」
 私は頷いた。三原のシェイミを鞄に入れ、見えないようにしてから、公園内を練り歩く。
「どっちへ行ったらいいのかしら」
「大分奥まで歩かなくちゃいけないみたいだな……こっちだ」
 彼の案内で、奥へと歩みを進める。
 空はとっぷりと日が暮れ、月と星が浮かんでいた。それでも園内は明るく、道を歩くのに不自由しない。こんな時間だと言うのに、歩く人も多く見られる。更に進むと、人だかりらしきものが見えた。柵で仕切られた向こう側を、皆一様に見つめている。私もそこに身体を乗り出した。そこには、ピンク色の花が一面に咲き乱れる風景があった。ライトアップに加え、丸い月が空に浮かんで、夜とは思えない光の動きを見せる。あまりの美しさに心を奪われ、思わずため息が出た。
「これがグラシデアの花畑か。すごいな」
 三原も興奮ぎみに告げる。思わず笑みがこぼれていた。
 ふと、三原は横にいる人物に気付いた。灰色のスーツを着た男の肩をぽんと叩き、慣れた口調で呼ぶ。
「一条」
 肩を叩かれた方は不意を突かれたようで、身体を震わせた。一条と呼ばれた彼は目を丸くして、驚きを隠せない様子だった。
「三原! どうしてここに」
「高速のパーキングで置いてく奴があるか普通? あの後シェイミがさ、俺のとこ戻って来ちゃったんだよ。どうにかしてソノオまで行かなきゃと思って、ヒッチハイク決め込んだんだよ」
 グラシデアの花畑の最前列を抜け出して、少し後ろに移動した。三原は私を呼び、一条に紹介した。私は頭を下げ、名前を名乗って挨拶した。
「この人が乗っけてくれたんだ。偶然彼女もソノオに向かう途中だったみたいでさ。一時はどうなることかと思ったよ。財布は一条の車に置き忘れて来ちゃうしさ」
「あぁ。悪い悪い。後で気がついたら、後部座席に財布だけ置かれてて、冷や汗が出たよ。完全に置いてけぼりにしたことはこの通りだ」
 一条は三原に手を合わせて頭を下げた。両手の間に長財布が挟まれており、三原はそれを抜きとって許してやる、と笑って告げた。
「なんだ。本当にどうしようもなかったのね」
 私は冗談っぽく言ってみた。
「そうなんだよ」
 彼は苦笑して、財布をポケットに入れた。
「ところで一条。ここで何の取材をするつもりなんだ?」
「ん? ああ。まぁ、このグラシデア畑のことについて調べて記事にするつもりさ。咲いてる期間もそんなにないしな。落ちてきたシェイミもちゃんと返さなきゃいけないな。窓から飛んだもんだから、どうしようかと思ったぜ。シェイミは無事だったのか?」
「元気だったよ。怪我とかしてなかったし」
「そうか、良かった」
 一条の笑みに、私は違和感を感じた。ただの安堵とは違う。心から喜んでいると言うより、何か別の都合で、怪我をされていたら困る、そんな印象だった。
 一条は茂みの方を指さした。
「ちょっと裏に入ろう。実は、ここに見えている以外にも花畑はあるんだ。そっちの方が奇麗なんだけど、一般客は入れない。そっちに入る許可が取れたんだ。付き添いって言えば通して貰えるよ。そこでシェイミ達を離したらいい。飛び立つ姿を写真に収めたら、今日の仕事は終わりだ」
「いいね。行こう行こう」
 三原は乗り気だった。
「あなたもどうですか?」
 一条は私に聞いた。一瞬迷ったが、行くしかない。そう思い直して、頷いた。

 茂みかと思った暗闇には、誰かが踏み固めて作った小道があった。足元は若干不安定だったが、一条が貸してくれた懐中電灯のお陰で転ばずに済んでいた。
 歩みを進めていくうちに、ふと木々が揺れる音が聞こえた。公園の明かりが遠ざかって行く。私達が今歩いているのは、一部の人達が特別に入れる優遇された場所とは程遠い。一歩でも足を踏み外せば落ちてしまいそうな、危ない橋のようなものだ。
「結構遠いな」
 三原が不満を口にした。
「もう少しもう少し」
 一条は笑った。
 更に進むと、湖が見えた。月が湖面に反射して奇麗に見えた。その岸にはグラシデアの花畑が広がっていた。
「さて、この辺りでシェイミ達を離そう」
 一条は告げた。私と三原は鞄の中からシェイミを下ろそうとする。三原のシェイミは全く降りてこようとしない。
「どうしたんだ。グラシデアの花畑についたぜ。仲間のところへ行けるんだ」
 ふと、三原は片手でしか鞄を掴んでいないことに気付いた。もう片方の手が後ろに回され、携帯をこちらに差し出すように握っている。一条の目を眩ませた、私へのメモということは、すぐに分かった。
「そうだよ。出て来なよ」
 私のシェイミも心配そうに声をかける。だが、恐らく演技だ。私は一条に悟られないように、三原の携帯を取った。電話画面が開いており、番号も既に入力されている。彼が私に何を求めているのか、一瞬にして理解した。だが、まだだ。この電話をかけるタイミングが、切り抜ける肝でもある。
「やだよ」
 三原のシェイミは、敵意をむき出しにして告げた。
「一条さんよ。何でこんな手前で降りなきゃいけないんだ?」
 歩き疲れた身で、何も考えていなければその思考に辿りつくことはなかっただろう。
「あの花畑はシェイミのものだ。私達人間は、ここで見守らせてもらうよ。すぐそこは湖だし、君達が飛んでいく姿を写真に収めるには絶好のチャンスだからね」
「とぼけんなよ」
 三原のシェイミは吐き捨てるように言った。
「アンタが三原を置いてった後、車の中で電話してた相手。あれは誰なんだ。アンタは元々、おれを何処へ連れてくつもりだったんだ?」
「電話? あぁ、あれのことか。本社に連絡を入れてたんだよ」
「嘘つけ! 俺達は耳がいいんでね。全部ちゃんと聞こえてたよ。俺のこと、海外に一千万で売り飛ばすつもりだったんだろう」
「俺がそんなことをするのかい。まさか、そんな悪人みたいなことはしないよ。今から我々人間三人、引き揚げたっていい」
 一条は言った。
「お前だけが引き上げたって、仲間がまだ隠れてるんだろ? 知ってんだよ」
「ほう」
 余裕の表情を浮かべる一条の手にモンスターボールが握られていた。いつの間にか、周囲に黒服の男が集まっている。胸に赤いRの文字をこしらえた集団。国で最も大きな力を持つポケモンマフィア。人間に危害を加えるように育てられたポケモンを完全に調教した集団。彼らにとってのポケモンは、ピストルに相当するほどの高度な育成法を持っている。下手を打てば、殺されると思った。
「じゃあ、逆らったらどうなるかも知ってるってわけだ」
 全員がボールを構えた。周囲を見回すが、逃げ場が見つからない。
「いや」
 三原はシェイミを抱き上げ、真っすぐに一条を見つめた。いや、見ているのは一条ではない。その後ろにいるものだ。
「逆らわないで、流れに乗るという方法もある」
 背後から、何かが弾ける音がした。一条が振り返る間もなく、それは彼の頭に直撃する。大分後になってから、それがシードフレアと呼ばれる技であることを知る。それを放った張本人が、その後ろでふわふわと浮いていた。
 白い身体に、細長い四肢。トナカイの角のような白い耳。緑色の頭部は、たてがみのようだ。首元から、赤い毛がたなびいている。
 初めて見るにも関わらず、それが私のシェイミだとすぐに気付いた。シェイミは口にグラシデアの花と私の携帯をくわえ、こっちに向かって飛行する。
「さあ、行こう」
 シェイミは、三原のシェイミにグラシデアの花を与えシェイミと同じ姿に変身させた。私は携帯を預かると、シェイミの足を掴んだ。その瞬間、身体がふうっと浮かんでいくのを感じた。地上があっと言う間に小さくなっていく。三原と彼のシェイミも、同じような体勢で上昇してきた。
 実は、自然公園に車を停めたときから私のシェイミは行動を共にしていなかった。独自にグラシデアの花を見つけ出し、携帯を持たせて連絡を取り合えるようにしていたのだ。

 だが、まだ脱出できたとは誰も思ってはいなかった。彼らの扱うポケモンの中には、空を飛ぶものもいる。案の定、翼を持った誰かが、私達を目がけて飛んできた。
「クロバットって呼ばれるポケモンだな」
 三原は言った。
「シェイミ、戦えるの?」
「任せなさいよ。足、絶対に離さないでね。どんなに強く握ってもいいから」
 クロバットのぎょろりとした瞳が、私達を捉えた。高速で羽ばたくと、とてつもなく強い風が身体を打ちつけた。思わず目を閉じる。手が滑ってしまいそうになり、両手でスカイミの足を掴む。恐らく、シェイミ達はこの風に翻弄されて落ちてきたのだろうと私は直感した。もし不意打ちだったのなら、きっと耐えきれまい。
 シェイミがシードフレアを放つ。緑色に光る種がクロバットを直撃し、クロバットは成す術もなく夜の闇に落ちて行った。
 その瞬間、自分の手が限界に近いことを悟った。握力が持たない。汗で滑ることも助長して、あと数秒もしないうちに落ちてしまうと思った。ずるずると、手がシェイミの後ろ脚の方へ滑り落ちて行く。
 その瞬間、三原が私の腕を掴んだ。
「もう少しだよ。頑張れ」
 彼はシェイミの身体を抱きかかえるようにして捕まっていた。
「あなたみたいにシェイミに捕まっておけばよかった」
 私は冗談を言うと、彼は少しだけ、笑みを浮かべた。
 地上に、パトカーのランプがチカチカと点滅している。一条らが逮捕されるのも、時間のうちだろう。

 シェイミが更に上昇すると、雲の上に出た。その雲の上に足を乗せると、ふかふかとした感触があった。乗れるようだ。
「これは凄いな」
 三原が驚いて、足で雲を突っついてみる。
「私がシェイミと出会ったのも、こんな感じの場所だったなぁ」
 私はしみじみと言った。へぇ、と彼は笑った。だが、どこかぎこちない笑みでもある。
「一条さんのこと?」
 私は聞いてみた。三原は頷く。
 一条が自分の素性を偽っていることは、何となく分かっていたという。ある日警察が家にやってきて、彼の素性を明かされた。にわかには信じられなかったが、大学を卒業してから一切音信不通になっていたのが気がかりだった。それが何故今回自分と会おうと思ったのか、その理由は定かではない。これから明らかになっていくことだろう。
「あいつとは、高校大学までの同級生だった。一時期仲も良かったんだ」
 月を見上げて、眩しそうに三原は佇んだ。
 シェイミがそう言えば見当たらないと思ったら、私達に背を向けて立っていた。二匹の距離は相当に近い。三原は私に顔を近づけて、ひそひそ話をする声で言った。
「ひょっとすると、そういう関係になっちゃったのかな」
「かもね」
 二匹の寄りそう後ろ姿を見つめていると、ふいに三原が『Fly me to the moon』を口ずさんだ。あの子たちには、きっとぴったりの歌だと思った。私もそれに合わせて、同じフレーズを歌った。空高い場所だからだろうか、いつもより月が大きく見えた。この星のこの場所に、春が訪れようとしている。それぞれの星に春があるとしたらどんな春なのだろうと、私はふと、そんなことを思った。


「ちょっとちょっと、三原さん! あなたの旦那さんの書いた本、とっても面白かったわよ〜! うちの息子にもしょっちゅうせがまれてね。もう参っちゃうくらい」
 近所に住む主婦仲間が、そんなことを告げる。
「ありがとう! 主人もきっと喜ぶわ」
 私は素直に喜んだ。
 あれから数年。三原……今の旦那は、私達の慣れ染めを絵本に起こした。それが百万部以上の売り上げたお陰で、旦那は一躍人気絵本作家の仲間入りを果たすことになった。
「ただいまー」
 私は家に帰ると、おかえり、との声が飛んでくる。仕事部屋でなく、リビングから。休憩中のようだ。
「ちょっと変わった封筒が入ってたんだけど。宛先は不明」
 私はポストに入っていた、白と緑の封筒を開けて見せる。中には、数枚の紙きれが封入されていた。
「……月にカメラってあるのかな」
「……あるんじゃない?」
 二匹の大きなシェイミと、五匹の小さなシェイミが写った写真を見て、私は微笑んだ。






・10620文字でした。
・一条と打ってエンター押すと二条と表示されるワードの妙な仕様のせいで、無駄に苦労しました。
メンテ
Good night, a good dream. ( No.13 )
日時: 2012/05/27 23:57
名前: とらと

テーマA:タネ

「すいみんのタネをくださいな」
 顔を上げると、そこには黄金色のポケモンが座っていた。
「七十ポケですよ」
「はい、どうも」
 手渡すのは黄色くて、小さなタネ。黄金のポケモンは九つの尻尾をふさりと揺らして、ありがとう、と笑った。その顔の向こうの空は紺碧に落ち、二匹の頭上も徐々に夕闇に冒されつつある。そろそろ店じまいの時間か。優美で上品に見えるのは専ら商売対象外だが、この彼が、本日は最後の客かもしれぬ。
「オニイサン、探検隊のポケモンで? そういう風には見えませんけど」
「いいえ」
「すいみんのタネなんて、別段旨くもないでしょうに。何に使うんで?」
 睡眠剤なら、粉の、もっと上質で安価な奴が、薬屋にも売ってるだろう。ちょっと引き止めて話したい気持ちもあって、商売としては不都合でもそんな雑談を振ってみた。探検に興じている連中が魔窟の最果てに息づいてるようなバケモンを眠らす道具なんかで、自分の眠気を誘うことなど狂気の沙汰。それを知らない非常識には、そこの獣はとても見えない。
 九尾の獣は、控えめに肩を竦める。
「コレを必要としてる友人がいるんです」
 斜陽の照らす狐の面は、穏やかな語り口とは対照的に、幾分火照ったようにも見えた。どうしても眠らせたい相手がいる、と。成程、何やら事情がありそうだ。しかし、それを無闇に詮索するのも粋ではなかろう。
「眠りって言うのはそう、我々ポケモンの三大欲求と言われるモンのひとつでありまして」
「ええ」
「ま、エライ学者サンのおっしゃってることなんざ、我々にはチンプンカンプンですがねぇ。食べること、眠ること。そして残ったもうひとつをお話しするには、幾分日がまだ高すぎる頃で――」
 ウフフッと黄金は微笑む。オニイサン、と呼んだが、その認識はよもや間違っていたかもしれぬ。
「それが満たされて、我々は生きる。満たされぬ人生など、生きた心地もしない。けれど食べること寝ること、これが満たされぬ時と言うのを、我々はなかなか体感できませんなぁ。空気のように当然にそこにあってから、阿呆な我々はそのありがたみを知らんのです」
 夕凪の刻で、風はなく。陽光に熱されていた大地も、のろのろと力を失っていく。
 微笑んだまま、黄金は揺れていた。美しい毛皮の衣は、しっとりと茜に濡れていた。その、炎のような赤の瞳は、じわじわと時の過ぎるにつれて、冷たい光を帯びていた。
「……これをもって、友人は、眠ることの尊さを覚えるでしょうか」
「そうだとええですなぁ」
 九尾の獣はくしゃりと笑う。
「店主、わたくしのこと、オニイサン、て呼びましたが。こう見えてわたくし、もう千年も生きているのよ」
 カクレオンは、ぺろっ、と長い舌を出した。
「ありゃ! こりゃあ失礼っ――」




 駆けずり回って、大声で笑って、泣いて、お腹いっぱいにご飯を食べて、太陽の匂いがする干し草のベッドで、昏々と眠りに落ちていく。
 ……そんな当然の幸福を、彼女は知っているだろうか。




 日が落ちきると、土は急速に温かみを失っていった。冷たい感触を足裏に確かめながら、黙々とキュウコンは歩いた。星空が回り始めた。月が昇り始めた。咥え、口に含んだ彼への贈り物を、ころころと舌で弄んで。ひややかな陸風が流れていく。目的の星の降る山頂は、もうすぐそこに近づいていた。
 ……眠りに落ちる、幸せ。そんなこともよかった。けれど、そんなことよりも、生きている事の充実さを、もっと噛みしめて欲しかった。彼女は自分なんぞよりずっとずうっと崇高な存在で、本来は手なんてきっと触れてはならぬ高貴なもので、生あるものどもの図々しい希望を叶える、私たちの賭ける『夢』みたいなもので。……けれど、彼女だって生きている。生きて、流れたはずの瞬くような短い時間を、もっと、自分のためにだって使って欲しかった。
 キュウコンが生まれたのだって、彼女のおかげだった。それを父母に聞かされてからずっと、こうして幾つもの久遠の年月を待ちわびて、ようやく与えられた報恩の機会。なのに、時間は短すぎた。その限られた時間の中で、彼女に課せられた身勝手な責務は、あまりに重すぎた。どうしようもなく膨大すぎた。
 彼女が目覚めてから、今日で八日目の晩。
 ――流星の降りそうな高台の頂に、今日も彼女はいた。小さな、赤子のような白い躰であった。星形の頭、ゆるりと地面に這う羽衣は、月夜に咲く幻の一輪花の如く淡い光を湛えていた。それが、本に夜空の星のようにか弱く儚く瞬いていた。時折ぱっと強く、徐々に弱く、消え入りそうなほどに細く、思い出したように強く、強く。……頭にぶら下がった、水色の、数えきれぬほどの短冊に、よろよろと両手を添える度に。何かに声を届けるように、輝く。そして、疲弊しきった表情だども、まだ他人の幸福を慈しむように、切なく微笑んで。
「……ジラーチ」
 呼べど、振り返ることはない。
「みんなのねがい、とどいている」
 ふわふわとして、幼い、浮ついた、掠れた声で彼女は言う。
「とどいているかな」
「届いているよ」
「かなっているかな」
「十分に、叶っている」
「ああ、それならしあわせだ。ぼくはとってもしあわせなんだ」
「……だから」
 もういいよ、と言う前に、彼女はふるふると首を振った。
 我儘が過ぎる人々の願いが、まだどれほど残っているのかキュウコンには分からない。ただ、ひとつひとつ確かめるように短冊に触れて、その哀れな願いを聞き入れようとする彼女に、口で分からせることは容易ではなく。また、このまま彼女が壊れていくのを、見届けることなんてできなかった。千年もむざむざと生きてきて、下手に暴力的な手段をとることしか、キュウコンはそれを止める術を得ることがとうとうできなかったのだ。
(……こんな方法でしか報いることができなくて、本当にごめんなさい)
 廃人のように願いを叶え続ける『ねがいごとポケモン』の背後で、キュウコンは起立し姿勢を正した。一度瞼を伏せ、微笑み、また目を開けた。頬の端に追いやっていた『すいみんのタネ』を、舌に乗せ、祈るような気持ちで唇に挟んだ。
 くつくつと、細かに彼女は笑っていた。キュウコンは目を細める。
「……おやすみなさい。よい夢を」



 願わくは。
 彼女の千年の眠りを、あたたかで柔らかな星のベッドが、ふっくらと優しく包み込まんことを――。



メンテ
百日紅の木の側で ( No.14 )
日時: 2012/05/27 23:55
名前: わたぬけ

テーマA タネ

 館の前で車を停めると見えない力で弾き出されるように私は車を降りた。鍵をかけるのも忘れて。それだけ事は急を要していた。館の敷地を堅牢に守護する高い煉瓦塀。こんな時が訪れても尚、中の屋敷とその主を守るために一切を寄せ付けようとしない。私はその唯一の出入り口である正面の門へと走る。その時真下から突き上げるような衝撃で軽く上に飛ばされると、同時に大地がうなり声を上げて振盪した。思わず塀に寄りかかって収まるのを待つ。もう本当に時間がなかった。私は車を走らせてきた道とは反対側の方向へと視線を移した。目にはM町、いやこの裾野の地域全体を見下ろす巨大な存在が映っていた。その中腹よりも上辺り――七合目辺りだろうか――のあちこちから漫画などでよくある怒りの表現で目にするような白い煙が噴出している。
 気象庁が浅間山で江戸期の天明噴火以上の大規模噴火が発生するという警報を出したのは一週間のことだ。その二ヶ月も前から浅間山では周辺で小さな地震が起きたり、山頂で噴煙が確認されるなどの火山活動が見られていた。それらは時間が経過するとともに次第に激化の一途をたどり、警報が発表された直後にはこのM町や軽井沢、長野原などの浅間山の裾野に位置する地域一帯が火山灰に覆われるような噴火が発生した。それでも迫りくる大規模噴火に比べればこれはまだ軽いジャブにも満たないものらしい。特に火山や地震の研究をしたことはないのでよく分からないが、テレビや新聞、週刊誌等が伝えるところによると今回起こりつつある大噴火では山体崩壊を伴い、巨大な火砕流によって裾野一帯はイタリアのポンペイやヘルクラネウムのようになるとまるで洗脳するように繰り返していた。私の脳裏には二十五年前に長崎の島原市にある雲仙普賢岳で発生した火砕流のテレビ映像がよぎっていた。伝えるところによると今回起こる火砕流はあれさえ遥かに凌駕してしまうほどの規模になるとのことだった。そして今、私の眼前で浅間山がまさに来るべき大噴火を起こそうとしている。遠くの空では浅間山が噴火する決定的瞬間をカメラに収めようと、いくつものテレビ局の取材ヘリが自衛隊の救助ヘリに混ざって飛び交っていた。自衛隊や地元警察による道路封鎖をかいくぐり、その先にもまだ続く見張りに気づかれずにここまで来られたのはもはや奇跡としか言いようがない。
 ようやく揺れが小さくなっていくと、私は塀づたいに館の門を目指した。細い黒鉄を格子状に組み合わせた門は、いつもなら外部の者を一切寄せ付けぬように堅く閉ざされているはず。だのに、今その門の錠は外されており軽く外側に開かれ、まるで私を招いているようにさえ見える。私は未だ不気味な蠢動を続けている地に何とか踏ん張りながら、果たして門扉へたどり着き敷地との境を跨いだ。
 敷地に入った人物を迎えるのは全体の面積の半分近くを占める広大な庭園――のはずだった。私が記憶の中で知っている館の庭園はまず燃え上がるような花を咲かせた薔薇壇が人々を迎え、そこを抜けると館の正門へと続く扉に至るまで左右に季節に合わせた花々がそれぞれを主張しあったり、あるいは引き立てあったりして整然と並んでいた。そしてそれぞれの花々から漂う香りが空間の中で混ざり合い、庭園そのものが一輪の花となりその豊潤な香りが充満しているというものだった。隅に配置してある池には鯉や亀を住まわせ、時折水鳥が飛来することもあった。いつか佳代子が言っていたがある年には鴨の親子が住み付き、子供たちが成鳥へと育つまでの拠点となっていたこともあったそうだ。しかし庭園は今、そのころの様子を偲ぶ由もない。私が知っている頃には影すら見なかった雑草が背高く生え、花壇とそうでない地面との境がまるで分からない。しかもその雑草たちも度重なる噴火による降灰で真っ白になっており、葉を低く垂れ下げて今にも枯れてしまいそうだった。なんとなく眠り姫の眠る荊棘の城に乗り込む王子になったような気分だ。しかし一方は青々と生命の輝きを見せる荊棘と花の庭であるのに対し、こっちは生命の輝きはおろか今にも死に絶えてしまいそうな火山灰の庭。比べるまでもない。
 
――今ね、M町の本家の屋敷にいるの。
 佳代子が電話越しにそう言ったのは二日前のことだった。その時私は東京の勤務先で浅間山噴火への影響に対する対応に追われていた。次々と鳴り響く会社の電話に頭が割れそうな思いをし、ようやく束の間の休憩をもらった時、私はふと携帯電話になんとなく見覚えのある電話番号からの不在着信と留守電の録音が休憩に入る二十分前に入っていることに気づいた。留守電の主は佳代子だった。メッセージは一言――気づいたらすぐ電話して――だった。箕浦佳代子、私がどんなに忘れようとしても忘れることの出来ない二人の女の一人。どうして今になって彼女から? しかもこんな時に。 私は胸の底に黒い熱を抱えたような気持ちになりながら急いで人目のつかないところへ移動し、電話をかけた。着信音が三度鳴り、四度目が鳴っている途中で繋がった。
――もしもし、武男さんね。
――佳代子さん。いったいどうしたんです?
 質問に答えず、佳代子は先述した言葉を言った。
――今ね、M町の本家の屋敷にいるの。
 私はあっけにとられた。同時に頭の中が処理でぐるぐると回るのを感じた。
――まさか? どうしてそんなところに!?
 『そこは危険区域でもう避難が完了しているはずじゃないか』『浅間山が噴火するんですよ』『早くそこから離れるんだ』同時に思いついたそれらの言葉が、一気に喉から出ようとして結果何を言っているのか分からないような言葉が口から漏れる。その時受話器の向こうからそんな私の動転ぶりが可笑しかったのか小さな笑い声が吐息とともに聞こえてきた。
――来て。
 花が囁く。
――“あの日”のことで、武男さんがまだ思うことがあるのなら、来て。
 そして私が言葉を返す間もなく、さらにこう続け、電話は切れた。
――待ってるから。庭の奥の百日紅の木の側で。ずっと待ってるから。
 それからM町へ向けて出発するまでのことはよく覚えていない。とにかく来るべき浅間山の噴火への対応でてんてこ舞いだった会社に強引に有給を取ったことだけは確かだ。戻ってきたところで私の椅子は無くなっているかもしれない。警察あるいは自衛隊などに連絡して佳代子を保護してもらうことも考えなかったわけではない。しかし私はその時既に熱に浮かされたように思考がぼんやりとしてそのような選択肢を選ぶという発想すらなかった。いや、例え思いついたとしても結局はこうして彼女の元へと向かうという選択肢だけを残しただろう。私にそうさせたのは彼女の電話口での最後の言葉だった。
――待ってるから。庭の奥の百日紅の木の側で。ずっと待ってるから。
 この言葉を耳にするのは初めてではなかった。いや、この十年間片時も私の耳から離れない特別な言葉。私が生涯忘れたくても忘れることの出来ないであろう二人の女の内、佳代子ではないもう一方の女。佳代子の双子の妹、箕浦美代子。美代子もまた十年前、同じように電話で私をM町の館へ呼び出し、その言葉を最後に電話を切った。頭の中で再現される“あの日”の記憶。もう十年も前のことだというのに、ビデオカメラで片時も逃さず録画していたかのようにその記憶は鮮明で生々しい。
 
 私はひび割れて荒れ放題の屋敷へと続く石畳を歩くと、やがて左脇の方へと抜ける側道へと差し掛かった。その荒れ様は凄まじく、両脇から伸びる雑草によってほとんど獣道の様相を呈している。しかしよく見ると両脇の雑草が何かの力によって折れ曲がっていることに気づく。誰かがこの道を頻繁に行き来している。この側道の奥に佳代子が、そして美代子が私に「待っている」と言った百日紅の木がある。私は雑草をかき分け奥へと進んだ。枯れた草が棘のようになってチクチクと刺さり、積もっている火山灰が舞う。草の種が服にくっつき、被った火山灰によって服は真っ白になった。
 そしてもう長い間この側道を歩いたと思われた瞬間、草をかき分ける手が空を掴んだ。半ば高い枯れ草を支えのようにして進んでいた私は前のめりになり、さらに次の瞬間扉を開けたように視界が開けた。なんとか体勢を立て直し顔を上げた私を待っていたのは記憶の中に眠っているものと全く同じ庭園の一角だった。雑草が綺麗に刈り取られ、石畳の輝きは当時と全く遜色ない。土がうず高く盛られ小さな丘を形成している。周囲は円形状に取り囲むように青々とした生垣が植えられ、そして中央――丘の頂上――には一本の百日紅の木が枝を葉を天に伸ばしていた。この場所だけ時が止まっているようだった。火山灰も降り積もっていない。ここだけが、この空間だけがなにか見えない力で守られている、そんな気がした。生垣に沿うように花壇が置かれ、そこにはいつでも植えられる花を迎えていいように畝が作られている。花壇境のれんがの上には植木鉢がいくつも置かれ、そこには苗が芽吹いている。
 そして彼女はいた。並ぶ花壇の内の一つで、白いブラウスに麦わら帽子を被り、畝の前にしゃがんでスコップを持ち土いじりをしていた。私が一歩歩み寄ると、気づいたのか佳代子は顔を上げた。そしてお互い目が合うと彼女は薄く笑う。その瞬間、私は彼女に会って言おうと思っていた言葉を胸の内に沈めた。早く逃げるように促すつもりだった。だけど、その思いはまるで風船の空気が抜けるように萎えていく。代わりに私の口から出たのは浅間山の噴火なんて起こっていないかのように穏やかな言葉だった。
「遅くなったね」
「ううん、いいの。来てくれただけで嬉しい」
「何をしてたのかな」
 どうしてこんなにも落ち着いているのかよく分からない。もう間もなく浅間山が山体崩壊を伴う大噴火を起こそうとしているというのに。不思議なことにこの場所に来てからあれだけ断続的に続いていた地震も収まったような気がする。静かだった。あの頃と同じ花の香り、空気の流れ、太陽の日差し、そして百日紅の木。
「種を蒔いていたの」
「花のかい?」
「ええ。マリーゴールドの花よ」
「寺山修司の詩みたいだね」
「聞いたことあるわ。有名な詩人よね。なんて詩?」
「『種子』って詩に出てくるんだ。

  たとえ
  世界の終わりが明日だとしても
  種子をまくことができるか?

 ってね。それと彼は詩人じゃないよ。彼曰く『私の職業は寺山修司です』だそうだから」
「まあ」
 佳代子は可笑しそうに声を漏らす。
 すると彼女はおもむろにスコップを手放し、立ち上がった。そして私の視線と佳代子の視線とが宙でぶつかる。胸が高鳴り、呼吸が乱れるのを感じた。それから私たち二人はまるで申し合わせたように中央の百日紅の木へと互いに歩み寄った。“あの日”、佳代子の双子の妹美代子が死んでからの時間の隔たりなど無かったかのようだった。

 私が初めて箕浦姉妹と会ったのは大学の時だ。顔の広い寺田という友人のツテでまず姉の佳代子の知り合い、そして佳代子のツテでさらに妹の美代子と知り合った。二人は演劇サークルに入っていた。箕浦姉妹の美しさ、双子という物珍しさ、そして双子の設定を巧妙に使った舞台によって、当時の演劇部は人気という恩恵を受けることに成る。一方の私はと言うと特にどのサークルや同好会にも所属せず、大学内外に大人気だった箕浦姉妹とこっそり付き合っているということに小さな誇りを感じる程度だった。最終的に付き合うことになったのは後に紹介された妹の美代子の方だった。勝気でサバサバとしていて何にでも突っ込んでいくが、そそっかしくよく物を失くすタイプの佳代子に対して、美代子は内気で慎重で几帳面で何事にも石橋を叩いてから渡るというタイプだ。しかし一卵性双生児で顔も声も背丈も同じ、それに性格は真反対なのになぜか趣味や服装などのセンスは共通しているという不思議な姉妹だった。
――性格以外で君たちを見分けるにはどうすればいい?
 いつだったかそんな質問を美代子に投げかけたことがある。すると彼女は「そうねえ」と前置き、うーんと頭をひねる。
――前は利き手がそれぞれ左右違ったんだけど……あ、あたしが左利きね――でも小さい頃に矯正しちゃったしからなあ。
 結局出た結論は「あたしでも分からない」というものだった。
 大学を卒業する年の夏に私は初めて二人の実家、M町の屋敷に招かれた。屋敷には二人の母親と何人かの家政婦がいるだけで他の家族は見当たらなかった。何か事情があるんだなと思いつつも私はついにそれを訊くことはなかった。それから私はそれから何度も屋敷へと足を運んだ。庭園の花選びをしたり、一緒に畝を耕したり。そしてあの百日紅の木。双子にとってこの木は特別な木だった。話によるとこの木は双子が生まれた年にこの場所に植えられ、二人の成長とともにこの木もまた一緒に伸びていったとのことだった。
――言うなればあたしたちは双子じゃなくてこの木を入れて三つ子ね。
 そう私に言ったのは佳代子の方だった。
 それから私たちはそれぞれ社会人になり、私は東京の会社に就職した。佳代子が関西方面の会社に就職し、美代子だけはM町に残り町役場に務めることとなった。二人が互いに違う道を歩んだのはこれが初めてだという。それからも私はちょっと長い休みが取れたら美代子の元に通い続けた。近いうちに私達二人は結婚する。自他共にそう思っていた矢先、“あの日”を迎える。
 事の起こりは彼女からの電話だった。当時既に普及して久しい携帯電話に非通知からの電話がかかる。受話器を押し当てた私の耳に入ってきたのは、美代子の明らかに何か動揺している声。私が「どうかしたのか」と尋ねると彼女はその質問には答えず、こう囁いた。
――明日、来て。
 口から花が咲くような声。
――待ってるから。庭の奥の百日紅の木の側で。ずっと待ってるから。
 そうして私が物言う暇もなく電話は切れた。その翌日は幸い休みで、ただならぬ気配を察知した私はすぐに東京からM町に向けて車を飛ばした。どうして非通知だったのかを考えもせずに。酷い胸騒ぎがした。第六感とか以心伝心とかそういう言葉には眉唾を覚えていた私だったが、結果的に私はこの考えを改めさせられることとなる。道中私は佳代子に電話を入れた。今から考えれば高速道路を運転しながら携帯電話とはなんて危険な行為だったことだろう。「美代子が?!」よほど驚いたのか電話口の向こうの彼女の声は裏返っていた。
 やがてM町の屋敷に到着した私は屋敷の門には目もくれず、百日紅の木のある小さな丘へ向かった。夏の暑い盛りで炎天下で蒸し暑い上、蝉がジージーと体感温度をさらに上げてくれるような声を響かせていた。胸は激しく動機し、あまりの暑さのためか頭がくらくらした。足元の石畳はさっきまで雨が降っていたのか水たまりができていた。
 そしてついに丘を囲む生垣を抜けた時、私の目に飛び込んできたのは天に向かって高く枝を伸ばす百日紅の木とそれにもたれ掛かって座っている美代子。雪のように白いブラウスを着て顔を隠すように麦わら帽子を被っている。両手はだらんと地面につき、眠っているように顔をうつむかせている。私は最初、彼女そっくりな人形が置いてあるのかと思った。それくらいその時の光景は現実離れしているように思えた。恐る恐る近づき私は美代子の名を呼ぶ。しかし返事はない。そして私が彼女を正面から見ようと回り込んだ時、影に隠れていた部分が顕になった。脇腹から真っ赤な薔薇が咲いていた。少なくとも最初の瞬間私の目にはそう見えた。変だな、いつか薔薇はあまり好きじゃない、と言っていたのに。そんな明後日な方向へと思考を向けたのは一種の現実逃避だったのかもしれない。そして次に視界に入ったのは赤い薔薇からにょきりと生えている木の柄。瞬間私は現実に立ち返り、美代子の名を叫びながら駆け寄った。脇腹から咲いていた薔薇の正体は彼女の体内を巡るはずの血潮であり、それが雪のように白いブラウスを緋色に染めていた。私は彼女の体を揺さぶり必死に名前を叫んだ。しかし対する彼女は物を言うこともせず、ピクリとも動かず、既に石のように冷たくなっていた。そして私が揺さぶったことで微妙な均衡の元に座った体勢になっていた彼女の体が、ゴトリと横向きに倒れる。まぶたはまるで眠っているように閉じられ、やはり動く気配もなかった。それから頭がぼんやりと曇ってよく覚えていないが、気がつくと警察が来ていたところを見ると、あの後私はちゃんと警察に連絡したらしい。そして遅れて関西から私の道中での連絡を受けた佳代子がそして当時何人かのご婦人仲間を連れて旅行に行っていた母親が到着し、物言わぬ双子の妹の亡骸を前に互いに抱き合って泣き崩れていた。
 凶器の包丁は屋敷の台所に置いてあるものだった。ほどなく第一発見者である私が疑われ、警察の取調を受けた。しかし美代子の死亡推定時刻、私はまだ高速道路を飛ばしている最中だった。そのことが証明されたのは皮肉にもスピード違反を取り締まるオービス。死亡推定時刻とほぼ同時刻に私が夢中で高速道路を飛ばしかなりのスピード違反をしている姿がしっかりと残されていたのだ。撮影された地点はM町からまだ百キロ以上も離れた場所。いくらなんでも撮影された二分後には屋敷に到着して凶行に及んだとは考えられず、警察は私を規定速度の四十キロオーバーのスピード違反でみっちりと絞る代わりに事件の無実を認めた。
 それから事件がどうなったのか私は知らない。あのときの電話口での美代子の声が頭に焼き付き、悩ませた。そして逃げるようにして箕浦家から離れ、佳代子とは以来会ってなかった。

「何も言わないのね」
 佳代子はポツリと呟いた。そして百日紅の木にもたれかかって座り込む。その姿はちょうどあの日の美代子のように見えた。
「じゃあ訊こうか。事件はあの後どうなったんだい」
 佳代子はすうっと深呼吸して空を仰いだ。
「あなたの無実が証明された後、続いてあたしとママが疑われた。でもママは旅行先で仲間と行動を共にしていたのが証明されたからほどなく無実、でもあたしにはアリバイがなかった。武男さんからの電話を受けた後あたしもすぐにここに車を走らせたから誰もあたしのアリバイを証明できなかった。そのせいで結構しつこく疑われたけど程無く事故死が立証されたわ」
「事故死だって?!」
 私は思わず叫んだ。
「どうして? 脇腹を包丁で刺されてたんだぞ。どこをどう見たらあれが事故死だって言うんだ!」
 すると佳代子は視線を地面に落とした。遠くの方で爆発音が響く。やがて躊躇うようにして彼女は口を開いた。
「あの子は武男さん……あなたを殺すつもりだったのよ」
 あまりに意外過ぎるその一言に言葉を失った。佳代子は構わず続けた。
「あの時、ここに来る途中の道が濡れてたりしなかった?」
 そういえばと、私は回想する。確かに雨が降った気配もなくカンカン照りだったというのに、百日紅の丘へと続く石畳は打ち水でもしたように濡れていた。
「警察が調べた所、農薬が撒かれていたの。しかも薄めていない原液をね。あの子はあなたが来るのを見計らって道に農薬を撒いた。そして武男さんに気化したそれをここにたどり着く道すがらにたっぷり吸わせて、弱ったあなたを殺すつもりだったの。でも実際は計算違いだった。夏の日差しで農薬は予想以上に早く気化し、しかも風向きの不幸もあって農薬はあの子を襲った。気づいた時には手遅れであの子は昏倒して倒れた拍子に手に持っていた包丁が運悪く刃を上に向き、落ちてきたあの子の脇腹に刺さった。その痛みで一時的にあの子は覚醒し、最後の力を振り絞って百日紅の木の下まで這い、息を引き取った」
 佳代子は淀みなくそこまで言い切ると雑草の一本を抜き、それを眼前にやって眺めるとぽいと放った。
 あの時、私は百日紅の木の元へたどり着く道すがら頭がぼんやりして、美代子を見つけた直後は本当に頭ががんがんして記憶がぶつ切りになっていた。私は今までそれを熱に浮かされたかのように夢中になっていたのと、美代子の亡骸を前にしたショックのせいだとばかり思っていた。しかしあれはあの時道に撒かれていた農薬のせいだった。だが……。私は食い下がる。
「だが、どうして美代子が私を狙った? いったい、何の理由があって?」
 記憶をどうほじくり返そうと美代子が私を殺すに至る理由となることなど思いつかない。しかし私の思いを知ってか知らずか、佳代子はまた口を開いた。
「実はあの子、あたしやママにも内緒にしてたんだけど悪性の腫瘍を患ってね。もう長くなかったのよ」
 頭をガツンと混紡で殴られたかのような衝撃だった。
「病院のカルテにあの子の診察記録が残ってたの。もう余命いくばくもなかったみたい」
 私の心がついに白旗を上げた。もう何も言い挟む余地もない。美代子は腫瘍によって自分の余命がもう残り少ないことに絶望し、私との無理心中を計ったのだろう。私を殺し、自分も後を追う。彼女らしくないが、それだけの絶望に打ちのめされたのだろう。今日ここに来る途中、今更美代子のことでなにか新しい事実を知ろうとも決して驚くまい、そう心に決めていた。にもかかわらず、私は気がつくと足の力が抜けてへたり込んでいた。目線が百日紅にもたれ掛かって座っている佳代子と同じ高さになる。
「あの時美代子はこんなふうに最期まであなたを待ち続けたんでしょうね。ほんと馬鹿な子」
 あの時の美代子と同じように腰を下ろしている佳代子。その目には涙が光っている。頭の片隅でどことない違和感を感じながら私は立ち上がった。そして佳代子の手に私の手を差し出した。意外だったのか彼女は慌てて手をパタパタとさせると、ゆっくりと私の手に捕まった。引っ張りあげると佳代子は「ありがとう」とこぼした。
 そして私たちはともに百日紅の木を見上げた。枝からは妖艶ささえ感じる濃紅の花が咲いている。
 また遠くで大きな爆発音が響き、腹の底まで振動した。浅間山はやがてこの辺り一帯を火砕流と火山灰で覆い尽くしてしまうだろう。庭園の最後に残ったこの百日紅の丘も燃えるか、あるいは火山灰の下に沈むか。私たちは丘の周りの花壇にそって歩いている。いつの間にか私の胸は最後までここに残ろうという気持ちであふれていた。恐らく佳代子も、最初からそのつもりでここに来たんだろう。
「あたしのこと恨んでる? あなたを呼びださなきゃ、ここで死ぬこともなかったのに」
「そんなこと思わないさ。一緒に美代子のところへ行こう」
 しかしそんなことを言う私を何かが後ろ髪を引いている。さっきから頭の片隅で感じる違和感が取れない。一体これは何なのだろう? そのとき、どこからか低い羽音が近づいてきた。そして次の瞬間生垣の向こうからアシナガバチが一匹、私達めがけて飛んできた。「きゃ」と佳代子が叫び、腕をふるった。幸い蜂は私達を通り過ぎ、反対側の生垣の向こうへと遠ざかっていった。
「こんな時になっても蜂はしっかり働いているのね」
 私は何も答えない。その時、さっきから頭の中で引っかかっていた違和感の風船が破裂した。
 視線を地面に落とす。
「どうして佳代子は美代子が座った体勢で死んでいたって知ってるんだ?」
 何を言われたのか分からず、佳代子はきょとんとする。
「君はさっきこう言ったよね。『あの時美代子はこんなふうに最期まであなたを待ち続けたんでしょうね』って。その時の君のポーズは百日紅にもたれて座っている形だった。どうしてそうだと思ったんだ?」
 佳代子の顔から色が消えた。
「あの時、私は美代子に駆け寄って身体を揺さぶったんだ。そしてその拍子に彼女の身体は横向きに倒れた。警察が確認したのもその横向きに倒れた美代子の姿だ」
 佳代子が何かを言わんと口を開きかける。まるでさっきと立場が逆転したかのようだった。
「君は少なくとも、座った体勢で死んだ美代子を見たんだ」
 覆いかぶせるように私は言葉を続けた。何かが私を追い立てるように言葉が次から次へと口から放たれる。それは自分でも止めることが出来ない。
「ここから先はあくまで……あくまで私の憶測だから違うのなら素直にそう言って欲しい」
 そう前置く。佳代子は何も言わず表情を硬くしてこくりと頷いた。
「さっき君が見せた動作。私が手を差し出した時とアシナガバチがやってきた時。まず私が手を差し出した時、君は慌てて両の手をパタパタとさせたね。最初は照れているのかと思ったけど、次のアシナガバチが君に近づいた時違うと思った。君はアシナガバチを左手で振り払った。誰かから聞いた話なんだが、左利きから右利きへ矯正された人間でも咄嗟の動作は左が出ることがある。僕が何を言おうとしているか分かるね?」
 彼女は目線を逸らした。その目の奥に彼女を見つめる私の姿が映っている。
「君は佳代子じゃない、元々左利きだったのを右利きに矯正した美代子だ。そしてあの時死んだのは美代子じゃなくて、姉の佳代子の方なんだ」
 私たち二人を取り巻く空間が世界から隔絶されたかのように静まり返った。私はまっすぐ目の前に立つ双子の片割れを睨む。片時も目をそらさない。対する彼女は、自身を守るように堅く腕を組んで目線を逸らす。
「武男さんが何を言ってるのか分からないわ。それだけの根拠であたしを犯人呼ばわりするの?」
「根拠はまだあるよ」
 彼女は思わず目を見開く。
「まず十年前のあの日、僕はここにたどり着く道中に佳代子に電話したね。その時の彼女の電話の応対、やたらと慌ててたように感じた。美代子の名を呼ぶ声に至っては妙に上ずっていた。まるでその名を言い慣れてないかのように。自分の一人称を名前にしない人物は普段からいい慣れてない自分の名前を口走る時、微妙に小恥ずかしくなる。かくいう私もね。その時間は確か私がオービスに記録されたよりも後の時間だ。君は美代子……いや佳代子を殺した後、彼女の携帯電話に私から着信が入ったことに慌てたはずだ。電話に出ないことのない彼女だから下手に無視すると怪しまれるかもしれない。そうでなくとも、凶行に及んだ君は若干正しい判断ができなかったのかもしれない。そして佳代子になりすまして君が電話に出た」
「それもただの憶測でしょう? 証拠にはならないわ。それに忘れたの? 美代子は悪性の腫瘍持ちで余命短かったのよ。まさか病院のカルテをごまかしたわけじゃないでしょうに」
「これも只の憶測だが、ある時佳代子がこの屋敷に戻ってきた時、なにか体の調子が悪かった。だけどそそっかしい彼女はあろうことか保険証を失くしていた。そこで彼女は君に保険証を借りて診察を受けたんじゃないかな。だからカルテには佳代子ではなく、美代子の名前が記録された。一卵性双生児で親ですら時折間違えてしまう君達を、他人である医者が判断できるはずがない」
 そして――と私は更に言葉を畳み掛けた。
「君は死んだ佳代子に成り代わり今まで生きてきた。性格の違い以外は誰にも見分けがつかない君達を周りは誰も疑わなかった。そして性格の違いすら君は克服したんだ。演劇をやっていた経験を生かしてね」
 彼女は何も言わなかった。時間が止まっているようにすら感じる。
 やがて彼女は低く笑った。
「これ以上否定しても、どうせあたしが死体が座っていることを知ってたから言い逃れできないか。あなたの言う通り、あの時死んだのは佳代子姉さん。そしてあたしは死んだはずの箕浦美代子」
 美代子は溜め込んでいた澱んだ空気を絞り出した。
「どうして佳代子さんを殺したんだ。腫瘍で余命短かったあの人を」
「本当はね、佳代子姉さんも武男さん……あなたのことを好いていたの」
 そんなことを言われても、私の腹の中は不気味なほどに据わっていた。
「大学の頃からね。表向きはあたしと武男さんの恋愛を応援していたように振舞ってたけど、本人は自分の本当の気持をずっと抑えてた。社会人になってからもね。だけどある時ここに帰省していた姉さんは隊長を悪くしたんだけど、保険証を失くしてしまって代わりにあたしの保険証を貸したの。そしたら例の腫瘍が判明してもう半年も無い命だと宣告された。ママにはそのことを話さなかった。あたしだけに教えてくれた。あたしも最初は悲しくて姉さんがもうすぐ死んでしまうなんて信じられなかったし、そうなって欲しくなかった。そしてその時姉さんは初めて自分の本当の気持をあたしに教えてくれた。今までずっと隠してたけど、本当は自分も武男さんのことが好きだった、ってね。だから最初は姉さんの計画に協力した。あなたを電話で呼び出して、死ぬ前に本当の気持を伝えようってね。でも途中からなにか変だって気づいたわ。注文もしていないのに農薬が大量に届くし、何か姉さんはまだ何か隠しているような素振りを見せていた。それでもついに決行の日がやってきたわ」
 そこで彼女は一旦言葉を切った。
「まずあたしが当日の前夜、武男さんに電話をかける。予め翌日が休日だということを把握してね。ママに腫瘍のことを知られちゃいけないから、しばらく家を離れているという条件を見つけるのには苦労したわ。それで電話をかけた後はもう姉さんに任せる。今となっては信じられないけどあたしは姉さんに応援の言葉を送ってたわ。
 だけど翌日になると何かおかしかったわ。姉さんは急に百日紅の木へと続く道に農薬を撒き始めた。しかもあたしの目を誤魔化してね。そしてあの日は家に誰も居なかったから朝ごはんを作ろうと思ったの。そしたら包丁が一本失くなってた。昨日の夜まで確かにあったのに。そして既に百日紅の木の側で武男さんを待ってた姉さんに包丁を知らないかと問うと、その手に持ってるのよ。そして問いただしたわ、それでどうするつもりだって。そしたら姉さん、逆上してあたしを襲ってきた。揉み合いになったわ。二人とも既に気化し始めていた農薬を吸い込んでぼんやりとしながらね。気づいたら……姉さんの脇腹に包丁が刺さっていた。そしてあたしの左手は包丁の柄をしっかり握っていたの」
 観念したように再び美代子は百日紅の木にもたれかかって座った。私は美代子からかかってきた二つの電話の言葉を比べる。道理で全く似たような響きで一字一句違わなかったわけだ。同じ人物によって発せられた言葉だから。
「その直後、姉さんの携帯にあなたから着信が入った。努めて自然に振舞ったつもりだけどやっぱりバレちゃったか。もっとも当時のあなたも気が動転して気が付かなかったみたいだけど。そして血や指紋を拭きとって、代わりに姉さんが自分で事故で刺したように見せかけた。そしてあたしは一旦その場から離れ、警察が到着した後を見計らって現場につい今しがた到着したかのように見せかけた。佳代子姉さんがあなたを巻き込んで心中しようとしたこと、これだけは本当」
「どうして、自首しなかったんだ。警察にきちんと事情を説明すれば、罪を軽くしてもらえたかも知れなかったのに」
「姉さんはね、昔からあたしが先に始めたことを真似して、しかもあたしより上手くやってたわ。なんでもあたしより後に始めて、あたしが得るはずの栄光を奪い取ってた。本人はそんな自覚なかっただろうけどね。演劇だってそうよ。
 だから姉さんを殺してしまった時、姉さんによって自分の一生が振り回されっぱなしになることに我慢できなかった。だから今度は姉さんが得るはずだったもの自分が奪おう、そう考えたの。自分で言うのもなんだけど、狂ってるわね」
 私は一つだけ解けない疑問を口にした。
「どうしてわざわざ佳代子さんを百日紅にもたれさせたんだ。事故を装うには倒れたままにしたほうが自然だったはず。あんな無駄なことさえしなければ私も推理に確信を持つことができなかった」
 そのとき美代子は薄い笑いを浮かべた。
「さあ……。なんとなくだけど、罪悪感からかもね。あたしたちの三人目の姉妹よ、どうか姉さんをお願い……って」
 そして美代子は立ち上がった。
「さあ、どうする? もうすぐ浅間山が噴火するわ。火砕流が起きたらここは間違いなく飲み込まれる。あたしは結局罪悪感から逃れられなかった。今回の噴火で自分の運命を決めた。あたしはここで種を撒き続けるわ。さっきあなたが教えてくれた寺山修司の詩みたいにね」
 そうして彼女は再び花壇に向かい、スコップを手にとってバスケットに入れた種を畝に蒔き始める。
「あなたのこと、好きよ。今でも」
 その言葉を最後に彼女は何も言わなくなった。
 私はその場に立ち尽くす。彼女が向ける背中は既にこの地に根付いているように見えた。その時再び大きな大地の揺れが襲う。世界が蠢動する。自分は何をしにここに来たのだろう。奇妙な自問自答が浮かんではうたかたのごとく消えて行く。
 風が吹く。百日紅の枝と濃紅の花が揺れる。
 私は熱に浮かされたように空を仰ぎ、最初の一歩を踏み出した。
メンテ
リフレッシュ ( No.15 )
日時: 2012/05/27 23:59
名前: となみ

テーマB:「毒」



 いつも隣でにこにこ笑っている彼が、いつも以上にうらやましく思えた。
 あたしの持っていないその笑顔が、今日はとびっきり、しあわせそうに見えたから。

「あたしってさ。どうしていつも、こんなにうまくいかないんだろうね」

 海辺の白砂に腰かけて、あたしは一気に吐き出した。今ならこの海が全部受け止めてくれそうな気がしたから。ため息がいっしょになって、それはそれはやるせない沈んだ青色の言葉になった。隣には珊瑚色をしたサニーゴが一匹。さっきの言葉にはもうひとつ理由がある。このサニーゴも、おんなじように黙って笑顔で聞いてくれると思ったから。

 仕事を放って定時退社。積み残しはあったけど、こんな日まで残業なんてしたくなかった。
 ポケモンを育てながら会社に勤めるあたしはただのオフィスレディー。今日も今日とて失敗をやらかした、入社二か月目の新卒研修生。今の研修はカスタマーセンターでの電話対応だ。この会社はポケモンのために専用の衣服だったり食べ物だったりを幅広く扱っているから、お客さまのクレームもその分だけ数多い。なのによりによって、今日のあたしはお客さまがお怒りのその電話口でミスを重ねたわけで。

 夕暮れ間近のコガネの海は、「さよなら」の「さ」の字を口にしようとしている太陽に照らされて金色に輝いていた。風は穏やかだったけれど水面はさざなみを湛えていて、揺れるたびに絶えずちらちらと光を振りまいた。
 あたしのぼやきに、とげとげ角のパートナーはあたしの顔を見上げる。笑っていた。口元を上げてにこにこと。それは決してからかいや嘲笑ではなくて、「どうしたの」、そう慰めながら聞いてくれているかのような笑顔だった。

 隣のこの子はミ・アミーゴ、つりざおに釣られたマイ・サニーゴ。名前はサン。中学生のころ、今と同じこの浜辺で釣りをしていたらまんまと食いついてきた。それ以来あたしとサンはずっといっしょ。だからこの子はあたしの気持ちをよく分かってくれている。いつでも笑顔を絶やさないから、こっちからは彼の気持ちを読んであげられないこともあるけれど。

 水面から躍り出た瞬間から、サンは笑っていたような気がする。そんなサンには、くりくりおめめ、とげとげの角。手の少し下にはところどころにお砂糖をまぶしたみたいな白の模様が点々とあって、さらに下の方は白一色。青海と白砂がコントラストをなすのと同じように対になった色味が愛らしかった。かわいいな、どうしようかな。迷っていたあたしのポシェットにはポケモンフーズが入っていて、ためしにそれを手に取って差し出してみたら、ぱあっと笑顔を咲かせておいしそうに食べてくれた。嬉しくて仕方がなかったのでお持ち帰りして、それから今日まで至るあたしとサンとの長い関係。
 あの日と変わらない笑顔にうながされるように、再び思いをめぐらせてとうとうと語りだす。


 重ねたミスは散々なものだった。お客さまのお名前を控え忘れて聞き返す、問われたことひとつに精一杯で他に思考が回らない、保留ボタンを押す前にうっかり大きな息を吐いてしまった、――思うにあんな最大級に災害級の対応は自分自身ありえないと思うし、あってはならない。分かっているから、余計に辛いんだ。

 程なくしてかかってきた電話に、あたしの教育係の上司がしきりに詫びていた。「先ほどの、……」という声が聞こえて覚えた胸騒ぎは、案の定的中した。
「キミがした対応にお叱りの言葉をいただいたよ、延々とね」
――上司が苦笑いしながら何気なく口にした言葉が、今でも耳から離れない。


「サン。あたしさ、今日も失敗しちゃったんだ。そのこと、気にしてて」


 あたしが苦笑いすると、サンは砂にちいさな足跡をぽちぽちと残しながら、あたしのさらに近くに寄り添ってくれた。あたしを覗きこむ黒の瞳は宝石のように曇りなく美しい。その瞳にぱちりと視線を合わせるだけで、心が安らいだ。

「分かってるんだけどさ、今よりも、これからのことが不安で」

 安らぎながらも、瞳はほどほどに現実を見据えている。この国じゃあ「仏の顔も三度まで」。既に二度は慈悲の糸にすくい上げられたあたしに許された猶予はせいぜいあと一度。次は許されないと思うと喉元が絞まって、日ごろから情けない声がさらに情けなくなる。
 苦情処理係が原因で苦情が来たなんて笑っても笑い飛ばせない。電話口でどころか、そもそも誰かにあんなに毒づかれたのは初めてだった。周りにはどんな目で見られていたのだろう。一人前になる前から、あいつは無能なヤツだと手を上げられてはいまいか。ガラスのうつわのようなこの心はひびだらけ、いつ割れたっておかしくない。――サンには、決してそんなそぶりは見せないけれど。

「ねえ、サン。あたし、どうしたら引きずらないで前に進めるのかな」

 いつまでも引きずってちゃダメだ。上司も「はじめのうちは誰だって失敗するさ」と励ましてくれるし、分かっているつもりだ。でも、あたしが失敗を重ねて上司の足を引っ張っているという事実が、しつこくあたしを苛む。しかもそれは毒液を湛えた棘のように、ちくりと刺さっては抜けないまま、あたしの心を、体を蝕んでいく。次に失敗をしたら? もういい加減見限られるんじゃないか? 尾を引いた不安が夢の向こうでも、そのまた向こうでも駆け巡る。――今のあたしは、失敗をするのがたまらなく怖い。

 するとサンは、そこらに落ちていたらしい細い流木の枝をくわえて、砂のキャンバスに何か描きつけはじめた。しゅるりしゅるりと砂の上を滑る枝の先を、あたしは置いていかれないように目で追い掛ける。しゅる、しゅると筆のように枝は躍り、サンはそれから何度か頷いて、くわえた枝を放り投げた。

「……笑顔……?」

 仕上がったらしい絵は大雑把だけど、確かに女性の絵。目を細め口元を緩ませて、降り注ぐ日差しのようににっこりと笑っている。どことなくあたしの顔立ちに似ているような気がした。唯一あたしと違うのは、今のあたしよりもずっとまばゆい笑顔を浮かべた、その表情だけ。
 あたしの呟きにサンは何度も頷いた。さにっ、さにっ。しきりに声を上げる。「えがおがたりないよー」、何度も絵の方を手で指し示す姿はそう言っているように見えた。そうして彼は、突然いくつもの角を光らせた。

「……あっ、それ……!」

 角の先に灯る光は、黄金色の海よりもまばゆく宝石のように光っている。間違いなくこれは“ワザ”を使っている証だった。けれど“みずでっぽう”を撃つわけでもなければ“でんこうせっか”でどこかへ突っ込んでいくわけでもない。あたしが思いつくワザは、ひとつしかなかった。

 あれは今でも忘れない、中学三年生の夏休みだ。「受験前の息抜きに」、都合のいい口実を見つけて汗臭い虫取り少年の友達とポケモンバトルをしたときのこと。彼が繰り出した手持ちはアリアドス、女の子が持つにはちょっぴり毒々しいあの蜘蛛のようなポケモンだ。サンの体力をじっくり奪っていこうと思ったのだろう、彼が真っ先に命じたワザは“どくどく”だった。あたしはただただ狼狽えた。アイテムは使ってはいけないことになっていたし、かといってサンを即座に引っ込める決断ができない。慌てふためくあたしの顔から血の気が引いていくのが分かった、そんなとき。
 サンの角の先が、きらめいた。ポケモンが進化するときのようなまばゆい白の光が、魔法の杖の先のようにサンの角に灯っていたのだ。そしてその光がふっと消えたとき、毒を負ったはずの彼はけろっとしていた。あたしは目を見張った。少しも辛そうに見えない。そのときのあたしは、サンの身に何が起こっていたのか理解していなかった。

 ――“リフレッシュ”。
 戦いのあとに知ったことだけれど、体を休めて回復に体力を割くことで、自分の負った“まひ”や“やけど”、そして“どく”といった状態異常を取り去ることができるワザだ。“どくどく”から立ち直ったサンは獅子奮迅の勢いでアリアドスをなぎ倒して、……結局そのバトルでは負けてしまったけれど、あたしの中に鮮烈な記憶として今でも鮮やかに残っている。

「リフレッシュ……」

 その鮮やかな記憶が、口を突く言葉になってあたしを諭す。
 あたしは何も分かっちゃあいなかった。あたしにだって引きずらないで進む方法くらいある。未来のことなら今から手を打てる。だからあたしは、笑っていればいいんだ――

 サンだって、いつもこんなにヒマワリのような笑顔を浮かべているように見えるけど、本当はどこかで要らないものを抱え込んでしまっているに違いないんだ。だからこそ、サンはあたしのそばでずっと笑っているのかもしれない。あたしはふと、もう十年近くも連れ添ってきた愛おしいパートナーのことにはじめて気が付いた。

 気付かせてくれたサンを見やる。でも彼はこっちを見ていなかった。また砂のキャンバスの上に、流麗な線を描きつけている。今度のそれはハートマークをまっさかさまにしたような輪郭線。葉っぱのような形をしたものが、その下に左右ひとつずつ。ひと悩みして、ひらめいた。

「これ、……モモン?」

 あたしの言葉にサンは頷いた。さにさにっ、と声を上げながら、サンは手の先でなんども砂に描かれたモモンを指さして、それから大きく口を開けてもぐもぐと食べるようなしぐさをしてみせた。「いいからたべなよ」、そう言っている気がした。

「あはは、ありがと、サン。いただきます」

 サンのプレゼントなんて久しぶりだなあ、と思いながらその好意に手を差しのべたら、それよりも早く打ち寄せた白波が絵に描いたモモンを真砂ごとさらっていった。ざざーん。汐の香りを運びながら去りゆく波の音。唖然とするあたし。波の消えた場所にはまっさらなキャンバスだけ。ぽかんとした顔のまま横に目をやったら、なぜかサンまでこちらを見つめてぽかんとしていた。その呆然とした顔の間抜けなこと。きっと彼もそう思ったのかもしれない、誰もいない海岸にひとりと一匹の笑い声が盛大に響いた。

 サンはきっと気まぐれにモモンを描いたわけじゃない。モモンは毒消しのきのみだ。それを食べてすっきりしなよだなんて、気が利いている。あたしはモモンを気分の上ですら食べ損ねてしまったけれど、一瞬、なんだかあの棘の毒の痛みを忘れていたように思う。笑顔を止めることのできないでいる、今この瞬間も。それは外でもなく、彼の――

「あたしも、サンみたいにいつでも悪いコトを吹き飛ばせちゃったらなあ」

 あの日サンが見せたあのワザがたまらなくうらやましかった。あたしはサンのようなワザは使えないし、こんなにきらきらした笑顔で毎日を過ごせない。それにあいにく、あたしの悩みはモモンでどうにかなるようなものじゃない(あたしが食い道楽なのはさておき、ね)。「あたしだって、“リフレッシュ”を使ってみたいよ」と付け加えたら、彼はくすくす笑った。そうして一度視線を落として、それからもう一度あたしを見上げた。

 差し出した手をぽんと自分の胸元に当ててから、サンは瞳を閉じてにこっと笑ったまま上を向いた。「えっへん、ボクがそばにいるからだいじょうぶだよ、えっへん。」――そんな誇らしげな声さえ聞こえてきそうな、胸張りのつもりらしいポージング。頼りに思うけれど、自然に笑いがこぼれてしまう。こぼれてしまうけれど、本当に頼りになる、あたしのちいさなパートナー。

 夕陽が大きな声で「ら」の字を叫んで、今日のこの日に別れを告げて帰っていく。あたしも、今日のあたしとはこの海辺でオサラバだ。サンと今夜を過ごすのはいつものあたしじゃない。今日の彼にもらったいっぱいの笑顔のおかげで、悩みごとなんてきれいさっぱりなくなったあたしだけだ。


「あたしにはいらないか、そんなワザ。――あたしにはサンがいるもんね」


 いらないよ、そんなワザ。もう一度心の中で呟いた。
 だって、いつもそばで、太陽が生まれ変わったみたいな笑顔があたしの未来を照らしているから。


 今日は眠ったはずの陽光が、あたしの足元できらりと輝いた。
メンテ
故郷 ( No.16 )
日時: 2012/05/28 00:00
名前: レイコ

テーマA


ハクタイの しんわ

むかしむかしの ことです
ひとと ぽけもんが いっしょにくらす ひろいゆたかな もりがありました
やがて ひとびとは もりをきりひらき そこにまちをつくりました
すみかを うしなった ぽけもんたちは みんなどこかへ うつりすんでしまいました
そして ときはながれ あるとき おおきなせんそうが おきました
たくさんの いのちが うしなわれました
まちは やけのはらとなり みるかげもなくなりました 
そこへ じしんのような あしおとを ひびかせて やってくるものが ありました
せなかに いっぽんのきをはやした たいりくぽけもんたちの きょだいな むれです
たいりくぽけもんたちは いちぶの すきもなく あらそいの あとちを うめつくし
あれはてた とちに みをゆだねて だいちと ひとつになりました
こうして もりは かつての こうだいな すがたを とりもどしました


□   □


 草の要素が詰まった体は陽の光を充分に浴びてやっと活動的になるものだ。それが近頃は眠りも浅く、夜も明けぬうちに瞼が上がってしまうのはきっと歳のせいなのだろう。高い木の葉の間から漏れて差す星明かり。無音で通り過ぎた帚星があったように思う。彼は寝床から首だけじっと上向きに傾けて、日の出とともに肩身の狭くなっていく闇を見送るのが日課となっていた。
 だが今朝の目覚めはいつもと少し変わっていた。かさり、がさり、と乾いた音が未明の薄い意識に囁きかける。風もないのに葉擦れが起きる訳がない。彼は目を覚ました。
ぎくりとした。音は天蓋のように空を覆っている枝葉からではなく、なんと背中の上から聞こえくる。背中の甲羅に生やしてある一本の灌木を何かが荒らしているらしい。
 鼓動が速くなる。懐かしい感覚だ。
彼はこの森に住む生き物の中で最も巨大で最も高齢な、謂わば旧世紀の遺留品である。生存競争の第一線から身を引いてもその頑丈な体は年月に比例して堅さを極めていくようで、どんな荒くれ者も小島のような老体を一瞥しただけで立ち去ってしまい、身の危険を感じさせるような出来事と久しく縁が無くなっていた。

「誰かね。それはわしの木だよ」

 彼は朽ち木のように柔らかい物腰で尋ねた。しばらく食べ物を通す以外に喉を使っていなかったので、今聞いた自分の声がまるで別物のように感じられる。若い頃は樹皮のようにごつごつしかった声が随分角の取れたものだ。
 どんな僅かな言葉も聞き逃さないように、彼はじっと聞き耳を立てた。葉擦れの音が止まる。しかし答えはなかなか返ってこない。その代わり規則的な呼吸音が聞こえ始めた。背中の珍客は、灌木の葉に埋もれながら眠ってしまったようだ。
 さて、どうしたものか。枝葉に意思を届かせて振るい落とすことも出来る。だが、ここで辛抱強く相手の正体を探るのも一興かもしれない。何せ隠居生活は残酷なくらい暇なのだ。よし、見極めてやろうじゃないか。彼は相手が自然に目覚めるまで待つと決めた。どっちみち朝日を待つのと大差ないだろう。

 日が昇り、気温が高くなってくると背中の葉をかさかさ揺する音が再開された。思った通り動き出したようだ。
「おはよう」
 彼は明け方前に話しかけたのと同じ調子で挨拶した。返事はやはり無い。こちらの声が聞こえていないのだろうか。しかし、彼が一番気になったのは聞こえてくる音の質が少し変化したことだ。かさかさ、に加えて、ぎりぎり、とまるで何かを噛み切ったり縛ったりするような。予感を裏付けるように、鈍感ながらも神経の通った彼の枝葉が異常事態を告げている。
「お前さん、わしの葉を食べてるのか?」
 相手は何も言わない。口いっぱいに緑の繊維を頬張っている様子が目に浮かぶ。
彼がまだ幼くて頭に双葉が生えていた頃、鳥の形―カタチ―にその子葉の片割れをついばまれたことがある。あれは痛いというより恐かった。背中の灌木の葉を囓られるのも同様に痛くはないが、鼻先に息を吹きかけられているかのようなムズムズとした感触を得られるのが気になる。やはり振るい落としてしまおうか。そんな矢先、彼の耳は雨水が地面に垂れる音より早く、待ちに待った小さな声を拾い上げた。
 虫の啼き声だ。意味を持たない喃語とおぼしい。そうか。だから何も答え『られ』なかったのか。
背中の訪問者は、食欲と睡眠欲が活力の、生まれたての虫の赤ん坊。
厄介で、憎めない事実に直面してしまった。さて、どうしたものか。他所の木でも生きられるとして問題は振るい落とすことのほうだ。地面にぶつかった衝撃でころっと逝ってしまわないか。そんな命の奪い方をして良心が咎めないか。
仕方がない。食害は様子見だ。もう少しだけこのムズムズに付き合ってやろう。体が大きくなればより良い樹を求めて出て行くに違いないから。彼は気を取り直した。自分も朝食を採ろうと思った。いつものようにあの湖へ行って綺麗な水をたらふく飲んだら、水辺の花でも眺めながら光合成をして過ごそう。
大きな生き物たちが同じような経路を辿るうちに、そこはいつしか彼の体幅が楽々通れるほどの広い獣道が出来上がっていた。今日もその道を拝借して湖まで抜けると、起き抜けの太陽が早くも湖面を銀の粉をまぶしたように煌めかせていた。空では黒っぽい鳥のカタチが囀り、丸々とした鼠のカタチが水縁に打ち上げられた枯れ枝に白い前歯を立てており、耳先にふわふわの飾り毛がついた茶色い兔のカタチは美味しそうに青草をはんでいた。見た目は似ていないが彼と同じ草の力を持つカタチもたくさん来ていた。岸辺にいる花のカタチは赤と青の優雅に咲き誇る両手から誰が一番蠱惑的な香りを放てるかを競っているらしく、風も凪いでいるので辺りがうっとりするほど甘い香気で満たされている。
いつもと変わらない穏やかな朝の景色。その中でもとりわけ彼の中心視野を押さえていたのが、水面に儚くたゆたう一つのカタチだった。額には小さな角。くるりと巻いた耳。親近感の湧く灰色の甲羅。もたげた太い首は一瞬蛇の鎌首のように見えなくもない。青い皮膚は湖面が空の色を映した時によく溶け込んでいた。
この湖にあの甲羅のカタチが現れたのはそう遠い昔のことではなかった。当時、情報は足が付いたように森を駆け回り、あの見慣れないカタチが湖を独り占めする気ではないかと悪い噂も立った。彼は丸鼠のカタチ達が「人間の仕業だ。彼女は捨てられたのだ」と話しているのを聞いた。元はこの森の果てにある「海」という場所に住むカタチだということも。泳ぎに適したあの体では陸を行きたくとも行けないに違いない。以来、あの甲羅のカタチは誰と交わることもなく湖の真ん中で独り静かに暮らしている。
度々彼女は、全てを赤く染め上げる白日の終焉に身も凍るほど美しく哀調を帯びた調べを手向けた。二度と帰れない故郷を想っているのか。二度と会えない家族や仲間を偲んでいるのか。自分を捨てた人間を憎んでいるのだろうか。それとも今も愛しているのだろうか。
真意のほどは誰にも分からない。しかしあの甲羅のカタチの唄に耳を傾ける時、彼は自分の憂いが水気を絞り出されて昇華する心地になれた。彼もまた取り残された身空なのである。家族はすでに亡くし、冒険に憧れて森を出た仲間の消息はほとんど分からない。以前、旅から戻った数名が森の外で得た素晴らしい体験について語って聞かせてくれたことがある。あの眼の輝き、あの速い息遣い。いつ思い起こしても肌に熱い風が吹く。そして英雄達はみな口を揃えてこう締めくくる。どこで何をしていてもやはり故郷は忘れられない。だから帰ってきたのだと。
故郷に拘りを見せた仲間の胸中は、頭では理解できても深い部分で寄り添えた気がしなかった。じゃあ帰りたいと思いたくなくなるほどに荒れ果ててもか、と聞いてみると、ああきっとそのようなものだろうとあっけらかんとした答えが返ってきた。故郷を一歩も出たことのない若い彼はどうしても腑に落ちなかった。外界で山ほど珍しいものを見てきたくせに。本音を言うと彼は羨ましかったのだ。大胆不敵に外界に乗り出した仲間達の生き様が。若い時分の彼はとにかく自信のない男で勇敢な仲間達への劣等感で雁字搦めとなっていた。だから皆が旅に出る時は揃って逃げるように浸かり込んだ。幼い頃から慣れ親しんだ、平穏が一番の生活に。それが当たり前になりすぎて今さら有り難みを語られても実感は湧かなかったが、あの時は外界の引き立て役として故郷の名も大いに働いて聞こえた。それだけのことだった。
なのに。偉大な友は晩年まで愛し抜いた土に抱かれて、とうの昔に眠りについたというのに。自分はまだ生きて故郷の土を踏みしめている。皮肉な話だ。
湖に着いたのを境に背中の灌木を食い荒らす音は止んでいた。彼は子どもを持ったことがないので生まれ立ての頃というのは本当に喰っちゃ寝が仕事なのだと変に納得してしまう。それからこんな事を考えた。もしかすると、この虫の赤ん坊にとっては自分の背中が故郷になるのではないか。生まれ、そしてここで育つのだとしたら。そう思うと途端に心が侘びしくなる。自分にとっての故郷はこの森だ。こんなに広大な姿で在れる筈がない。仲間の亡骸を受け入れて未来への糧としたこの土地は、故郷とは、そう。命と想いも引き受ける永遠の器だ。しかし生きている限り、どう足掻いてもその時は訪れる。それならいっそ忘れられたほうが気も楽だ。元気に巣立ってくれればそれで良い。離れていく背中を閑かに見送りたい。だからその瞬間が叶うまで、自分も命を輝かそう。この子と一緒に、精一杯。
「いつか、行っておいで。そしてこの世界のどこかに、今度はお前の命の種を落としておいで」
もうじき夕暮れだ。日がな一日湖の畔で過ごしてしまった。さあ来た道を戻ろうか。甲羅のカタチが歌い出す前に。幼子にあの哀しい調べを聞かせるのは誤りなのだから。そして願わくばこの子にはあの旋律に魂を震わせることのない、正反対の余生を送って貰いたい。想うだけ切ない望郷の念など、これっぽちも抱かずに。
メンテ
もふだね。 ( No.17 )
日時: 2012/05/28 00:01
名前: 巳佑

テーマA:タネ

【0】
 ちゃいろい タマゴ が ころころ と
 こおか を くだって
 さぁ たいへん
 ディグダ が でてきて
 ごっちん と
 あたま に ぶつかり こんにちは


【1】
 大きな赤い鼻を持った一匹のディグダがある日、拾った茶色いタマゴから産まれたのは一匹のイーブイでした。
 ディグダの住みかであります広い地中の中で、イーブイは大事に大事に育てられ、すくすくと成長していきました。地中の中は暖かいですし、食べ物はいつもディグダが木の実を拾ってきますし、イーブイの生活に不便はありません。
 しかし、イーブイはディグダと一つだけ絶対にやぶっちゃいけない約束を持っていました。
 
 それは地面の中から出てはいけないこと。

 偶然にも育て親になったとはいえ、ディグダにとっては大事な我が子。
 その大事にしたいという気持ちは年月とともに大きくなっていき、その結果、イーブイを失わないようにディグダが考えたのが先程あげた約束だったというわけです。約束を交わす前までは、外の世界は広くて、小さいイーブイなどいずこかへさらわれてしまうのではないかと、ディグダは内心ハラハラしていましたが、約束を交わした後はいくぶん落ち着きが見られるようになりました。なぜならもちろん、イーブイがちゃんとその約束を守ってくれているからです。
「いいかい、坊や。外の世界には決して出てはいけないよ? 外の世界にはこわーいものがいっぱいあるからねぇ」
「……うん、わかってる」
 笑顔で応えるイーブイにディグダはよしよしと……いきたいところでしたが、手がなかったので、おでこでよしよしとイーブイのおでこをなでていました。
 このような感じでイーブイがディグダとの約束をいつまでもちゃんと守っているかと言われますと、実はそうでもなかったりします。普段は大人しいイーブイですが、年をとる度に外の世界に対しての好奇心がプクプクと膨らんできていたのです。
 
 外の世界ってどんなところなんだろう?
 本当に怖いのかな?
 実は楽しいところだったりして?
 例えばいっぱい木の実があったりとか?

 食べられるだの、さらわれてしまうだの、外の世界はとても怖いところだとディグダから何べんも聞かされていたイーブイでしたが、その恐ろしい言葉たちとは裏腹にいったん外の世界を想像してみるとあら不思議、イーブイの心をくすぐらせるようなものばかりが展開していきます。今はなんとか保っているというところですが、いつイーブイがディグダとの約束をやぶってしまうのか分かったものではありませんでした。
 怖いところのはずなのに、どうして体がウズウズしてくるんだろう、なんで尻尾を楽しげにフリフリしているのだろう。ディグダが作った約束はいわば、イーブイにとっては夢の世界に続く扉みたいなものでした。今、自分がいる世界とは違う世界、一目だけでも見れたらいいのにとイーブイはため息一つもらします。
 外の世界に行ってみたいなぁ、でも約束をやぶっちゃダメだし。
 そんな二つの気持ちがイーブイを夢の扉の前であっちこっちブラブラさせていました。
 
 ある日のことでした。
 いつものようにイーブイが夢から目を覚ますと、おいしそうな木の実がころころ転がっています。桃色で甘そうな木の実や、群青色で甘酸っぱそうな木の実など、見ているだけでよだれがぽたぽたと垂れてきそうです。おなかの虫を鳴らしながら、よく見てみると、その木の実の数がいつもより多いことにイーブイが気が付くと同時に、ディグダが現れました。
「おはよう坊や」
「……おはよう、ママ」
「昨日もぐっすり眠れたかしら?」
「……うん、おもいっきりね、かけっこするゆめをみたんだよ」 
「まぁ、それはとても楽しそうな夢ねぇ」
「……うん、とってもたのしかった」
「それは良かった良かった。ところで坊や、今日ママね、ちょっと用事があって帰りが遅くなってしまうんだけど……ちゃんとお留守番できるかしら?」
 ディグダの問いかけにイーブイはこくりと一つ、うなずきます。
 その返事にディグダはとりあえず一安心しました。普段から大人しい子であるし、これまで何度も外の世界が怖いことも教えてきましたし、これ以上は何も言わなくても大丈夫だとディグダは判断しますと、もう行かなければいけない時間のようで、最後に一言だけイーブイに残しました。
「今日はいっぱい木の実を置いておくから、いっぱい食べてちょうだいね。それじゃあ、行ってきます」
「……うん、ありがと。いってらっしゃい」
 用事に向けて前進していくディグダの背中をイーブイは左前足を上げて、ゆっくりと振りながら見送りました。ディグダの背中が小さくなっていくたびにイーブイはちょっと寂しい気持ちになります。このような形で一匹ぼっちになるのは珍しくありませんでしたが、やっぱりまだまだ育て親に甘えたい年頃ですから、留守番なら任してと口では言っていても、心の中では早く帰ってきてね、とイーブイは呟いていました。
 やがてディグダの背中が見えなくなりますと、イーブイのおなかからまた虫が早く木の実を食べさせろと鳴き始めます。とりあえず、まずは木の実を食べよう。おなかいっぱいになれば、寂しい心もぽかぽかに温まってくるはずだよと気持ちを切り替えたイーブイは早速、木の実を食べることにしました。桃色の甘そうな木の実を前足で持って、かじかじ、ぱくぱく、ごっくんと食べていきます。みずみずしい甘さがとてもすっきりとした感じでおいしいとイーブイは笑顔を浮かべます。あっという間に一個目の木の実が終わり、イーブイはすぐさま二個目に入ります。二個目も同じく桃色の木の実。いただきますとイーブイの口が開き、木の実をかじったときのことでした。
 がりっとなにか固いものをかみました。
 一体、なんだろうかとイーブイは口の中からそれを取り出して前足に乗せてみせました。それはちっちゃい一粒の種。その種を見ながらイーブイはそういえばと思い出します。
 昔、イーブイはディグダにある一つの質問をしました。

 木の実はどこからやってくるの?

 いつも食べている木の実は一体なんなのかと興味を持ったイーブイの疑問に、ディグダが教えてくれたのが種の話でした。
 木の実というのは、種というちっちゃい粒から産まれて大きくなったもののことを言うんだよ。ちょうど、坊やがタマゴから産まれてきて大きくなったのと同じなようなものさとイーブイはディグダから聞きました。
 その話を思い出したイーブイは大事そうにその種を首もとのもふもふした毛の中に入れました。ここで大事に育てたら、いっぱいの木の実がぽんぽん出てきたりするのかなと期待を膨らませながら、イーブイはうふふと笑います。早く出てこないかなと考えながら、イーブイは寝そべり始めました。けれど待てど待てど、中々出てきません。
 
 鼻歌を奏でながら自分の首元に向けるイーブイの視線。
 何も起こりません。
 じぃーっと自分の首元に向けるイーブイの視線。
 返事はありません。
 
 そんなに早くは出てこないものなのかなとイーブイは待つことを止めて、立ち上がりますと、その辺の土の壁を掘り始めます。
「……ママのまねっこってね」
 尻尾をふりふりしながら、イーブイは適当に掘っていきます。最初は軽い気分から始めたことでしたが、いつのまにかイーブイを熱中させていました。ディグダのようにはいきませんがそれでも少しずつ前進していきます。前足を使ってガリガリと、自分で道を作っていくその作業が楽しいなとイーブイが更に掘り進めていきます。
 そのときでした。
 イーブイが掘った先からちょろちょろと何か流れてきます。
 そのなにかをイーブイは前足に触れてみると、それは暖かいものでした。なんだろうとイーブイが軽くかしげながら、もうちょっとだけ掘ったら分かるかもしれないとワクワクしながら、もう一堀ざくっとな。

 壁が壊れて大量の暖かい水が溢れ出してきました。

 あわわと驚いてもときすでに遅し。
 イーブイの体はあっという間にその大量な暖かい水に飲み込まれてしまい、流されてしまいます。ごぼごぼごぼごぼと息を吐く中、イーブイは目を強くつむっているので、なにがなんだかもう分かりません。
 どうしてこうなっちゃったんだろう。
 それよりもこれからどうなっちゃったんだろう。
 頭の中をグルグルと思いっきり回しながらイーブイの意識が途切れてしまいしました。
  

【1.5】
 ここ ほれ ぶいぶい
 ここ ほれ ぶいぶい
 でて きたのは あったかい おみず
 じゃぶ じゃぶ のみこまれて 
 ぷか ぷか ういた
 ここ ほれ ぶいぶい
 ここ ほれ ぶいぶい 
 ほって でてきて こんにちは おんせん さん


【2】
 ここはどこなんだろう?
 そんな言葉がイーブイの頭の中に出てきて、ゆっくりと目を開けますと、イーブイの目に飛び込んできたのは青色と白色の天井でした。
「……まぶしっ」
 普段、地面の中では見ない輝きにイーブイは思わず目をつむりましたが、おそるおそるともう一度だけ目を開けると、確かに青色の中に白色がまざった天井でした。初めて見る色にイーブイは興味しんしんです。
「……うわぁ、すごいきれい……」
「そうだな、すごい綺麗だな」
「……え?」
「よっ! 目が覚めたみたいだな」
 イーブイが声のする方に目を向けると、そこにはオレンジ色のもふもふとした毛を持った赤いポケモンが一匹いました。額には王冠のマークが入った金色のハチマキが巻かれています。そのポケモンはイーブイに向けてあいさつ代わりに片方の前足を上げました。
「……おじちゃん、だれ?」
「おじちゃん!? ふぅ、おれさまもいよいよ渋さを取り入れたいい感じのブースターになってきたということか、そうか、それは喜ばしいことだな!」
 勝手に一人でしゅべり進めて、笑っているポケモン――ブースターにイーブイは不思議そうな視線を向けます。その視線に気がついたブースターは笑うのを一回止めました。
「まぁ、ともかく。おれさまはブースターっていうんだ。またの名をさすらいのキングスターと呼ばれているぜっ」
「……わたしはイーブイっていうの」
「ふふふ、見れば分かるぜ」
「え、わかるの?」
「世界をさすらっているおれさまに知らないものはない!(タブンネ)」
「……さいご、なにかいってなかった?」
「いや、なんにもないぜ?」
 とりあえず自己紹介を終えたブースター――キングスターがゴホンと一つ咳ばらいを入れますと、話し始めます。
「まぁ、とりあえずな。お譲ちゃん、あんたすごいことしたなぁ」
「……わたし、なにかしたの?」
「なにかって、覚えていないのかい? ここだよ、ここだよ」
 ここと言われてイーブイはようやく気がつきました。そういえば、なんだかポカポカすると思ったら、先程の暖かい水の中に自分がいるではありませんか。澄んだエメラルドグリーンの暖かい水がどこまでも広がっていて、もくもくと湯気が登っていっています。 
「……そういえば、ここはどこなんだろう?」
「え、どこって、温泉だよ、温泉! いやぁ、たまたまここの近くに通りかかったときにはビックリしたぜぇ? いきなり温泉が湧き立つわ、そこからお譲ちゃんがぽぽぽぽーんって出てくるわ。分かっているかい? お譲ちゃんは温泉を掘り当てたんだよ!? すごいことなんだよ!? まさにラッキースターガールなんだよ!!??」
 興奮しながら語ってくるキングスターでしたが、全くなにも知らないイーブイにとってはぽかーんと、なに一つ心に響いてきませんでした。むしろクエスチョンマークがイーブイの頭の上で大量生産されています。その様子に気がついたキングスターが納得いかないような顔を浮かべます。
「温泉を掘り当てるなんて、滅多にないことに喜びもしないポケモンも珍しいなぁ」
「……わたし、しらないから」
「へ?」
「……おんせんとかしらないし、よくわからないし、それにあのいちばんうえののきれいなものはなに?」
「え、あの一番上のって……空のことかい? え、え、お譲ちゃんは一体、何者なんだい?」
 キングスターに尋ねられたイーブイは自分のことを話し始めました。

 自分がずっと地面の中でディグダに育ててもらったこと。
 地面の中から出たことがないこと。
 外の世界を知らないこと。
 今回、掘り遊びをしていたら、こんなことになっていたこと。

 イーブイの話を聞くたびに、キングスターはふむふむなるほどと表面では納得したという顔を浮かべていましたが、心の中ではイーブイの暮らしやこれまでの経緯に驚いていました。まさか、そういうポケ生を過ごしているポケモンもいるのかと。
 やがてイーブイの話が終わると、キングスターはイーブイに置かれている状況を整理しました。
「つまり、だ。お譲ちゃんは偶然、温泉を掘り当てて、ここまで来ちゃったと。ママのところに帰りたいところだけど、外の世界を全く知らないので困っている迷子ちゃん、ということかな?」
 首を傾げるイーブイに、ブースターは困りながらもストレートでかつ分かりやすい言葉をなんとかのどからしぼり取りました。
「大丈夫! おれさまがお譲ちゃんをママのところに帰してあげるから、任して!」
「……ありがとう、きんぐすたーさん」
 ようやく笑顔を浮かべたイーブイに、キングスターもホッと一安心しました。


【2.5】
 あるひ おんせん の なか
 ぶーすたー に であった
 あれている とち の みち
 ぶーすたー と あるいた
 
 おじょうちゃん おしえましょう
 そと の せかい の こと
 いーぶい の しらなかった こと
 いっぱい おしえて あげましょう


【3】
 温泉から上がったイーブイとブースター――キングスターはイーブイのママであるディグダを探しに荒れている土地の中を進んでいました。
「それで、あの上にある青は空って言うんだ。それであの流れている白いものは雲って言うんだぜ」
「……へぇ、きんぐすたーさんってなんでもしってるんだね」
「なにせ、さすらいのキングスターだからよっ!」
「……どういうこと?」
「えぇっと、つまりだな、おれさまは外の世界をいろいろと歩き回っているんだよ。だからなんでも知っているんだよなぁ」
「……へぇ」
「でもなぁ、そんなおれさまにもまだ知らないことがある。それが世界っちゅうもんなんだぜ」
「……どういうこと?」
「世界は広いってことさ! それがおれさまをさすらいにさせた源になっているんだぜっ」
「……?」
「まぁ、お譲ちゃんにもいつか分かるさ」
 分からないと言うような顔を浮べるイーブイに、キングスターはにかっと笑いながら前足でイーブイの頭をぽんぽんとなでました。

 二匹が歩く道はどこまでも荒れている土地でした。
 なかなか歩きにくく、外の世界に慣れないイーブイが疲れて立ち止まることもしばしばありました。しかし、立ち止まる度に時間はどんどんと過ぎていってしまいます。ディグダに会えない寂しさも重なり、イーブイが泣きそうになりました。
「……わたしがママのいうとおりにるすばんしてたら、こんなことにはならなかったんだ……ごめんなさいママ……ママぁ……」
 ついに我慢しきれずにぽたぽたと涙をこぼすイーブイに、キングスターはひょいとその小さな体を自分の背中に乗せました。いきなりのことにイーブイの目が丸くなります。
「とりあえず、お譲ちゃんはここで休んでな。ここからはおれさまがなんとかするから」
「……え、え」
「気にするなって! 初めてのやつにはここのデコボコした道はやっぱりキツかったんだよ」 
 そう言いながら再び歩き出すキングスターの背中にイーブイは身をゆだねます。もふもふとしたキングスターの赤い毛がまるで揺りかごのようにイーブイを包んでいきます。体も心も不思議とぽかぽかになってきたイーブイに笑顔が戻ってきます。それを感じたのでしょうか、キングスターが再び語り始めました。
「おれさまは逆にお譲ちゃんにありがとうって言いたいぜ。温泉にも入れたし、こうやってお譲ちゃんにも会えたし、やっぱ世の中には色々なポケモンがいるんだなぁって勉強にもなったしな」
 確かにイーブイはとんでもないことをしてしまったかもしれません。でも、その代わりに外の世界のことを知ることができたし、面白いポケモンにも出会えることができました。ディグダのところに帰れたら、まずは謝って、それからキングスターと旅してきた今回のことを話して、それから――。
 これからのことを色々と膨らませながら、イーブイは夢の中に落ちていきました。その寝顔はとても楽しそうなもので、もしかしたら、夢の中で外の世界に対して色々と想像を膨らませて、冒険しているのかもしれません。
「ねちゃったかな。まぁ、いろいろ初めてづくしで疲れたんだよな」
 イーブイの寝息を聞きながらキングスターは呟きました。
 先程までは悲しんでいたイーブイの心をこんなにもポカポカと暖めたキングスターはまるで魔法使いのようです。そんなキングスターは歩を進めながら、ふいに疑問を感じました。
 どうして、イーブイは地面の中でずっと育てられてきたのだろうかと。
 今まで外の世界に出なかったのはどうしてなのだろうかと。
 そんな疑問を浮かべながらブースターは更に歩を進めていきました。

 再びイーブイが目を覚ました頃はちょうど夕暮れどきでした。
 どうしちゃったんだろうときょろきょろするイーブイにキングスターが気がつき、声をかけました。
「よう、お譲ちゃん。よく寝てたな」
「……なんかそらがへん」
「あぁ、これは夕暮れっていうんだよ。空は青以外にも、こんな風におれさまみたいな色になることもあれば、まっくらになることもあるんだぜ!」
「……へぇ」
「それとな、空がまっくらなときもすごいことがあってな――」
 話を続けようとしたキングスターでしたが、いったん、その口を止めて、前をじぃっと見つめます。いきなりのことでイーブイはどうしたんだろうとキングスターから降りて、隣に立ちます。不思議ともう疲れは残っておらず、元気です。
「きんぐすたーさん?」
「なにかこっちに来る。お譲ちゃん、おれさまから離れるなよ?」
「……う、うん」
 キングスターの緊張感が伝わってきたのでしょうか、イーブイもドキドキし始めます。
 二匹の前方からなにやら地面を掘るような音がしてきて、それがだんだんと大きくなっていきます。やがて、その音が二匹の前に止まったかと思いきや、地面の中から一匹のポケモンが現れました。茶色の顔に赤い鼻を持っています。
「ぼうやぁぁぁぁああ!!」 
 それはディグダ――イーブイのママでした。
 ディグダの声にイーブイも「ママぁぁぁああ!」と叫びながら、ディグダに近寄りました。
「まったく、探したのよ! 本当に本当に心配したんだからぁ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ママ!」
 ようやく出会えたという気持ちが爆発したイーブイがわんわんと泣きながら、ディグダにすりよります。そのイーブイをよしよしとなだめながら、ディグダはキングスターの方を見ました。彼がイーブイをここまで連れてきてくれたというのを理解するのに時間はかかりませんでした。
「坊やを……ありがとうございます」
「いやいや、おれさまはやることやっただけさ。気にしないでくれ」
 口ではそう言いながらもキングスターは尻尾を揺らしています。
「わたくしはディグダです。えっと、あなたは……? あぁ、なんとお礼をすればいいのだか」
「おれさまはブースターさ。またの名をさすらいのキングスターと呼ばれているぜ……さてと、それでディグダ。ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ、いいか? お礼はその答えでいいからさ」
「はい、なんでしょうか?」
 そこでキングスター尋ね始めました。
 
 どうしてイーブイは今まで地中暮らしを続けていたのか。
 外の世界に行かせなかったのはどうしてなのか。

 ディグダは少し困ったような顔を浮かべると、答え始めました。
「ここの土地……荒れているでしょう? ここまでくるのも一苦労だったと思います」
「まぁ……世界中を旅しているおれさまにとっては、平気だったけど。確かに並みのやつじゃ、たいへんだわな」
「それですね……なんといいますか。外の世界を初めて見るとなったら、この子にはこんな殺風景なところは見せられないと思いまして……外の世界は美しいところだと見せたくて、ここに花をいっぱいにするまでは、坊やに待って欲しかったんです」
「なるほど」
「まぁ、今となってはその夢も終わってしまったのですが……坊やにとって、今回のことがいい経験になれば幸いと、今は思います」
「……ママ」
 ディグダがしてきてくれたこと、それは自分を育ててきたことだけに限らずに、自分の為に素敵な場所を作ろうとしていたこと。
 そのディグダの想いがイーブイに伝わってきたのでしょう。また、イーブイがぽろぽろと涙をこぼし始めます。ディグダの想いがとても優しくて、それが嬉しくて。 
「……ごめ、んなさい、ママ、わたし、わたしっ」
 ディグダのやってきたことはもちろん嬉しかったのですが、今までなにしらなかった自分がとてもなさけなくってきて……そんなイーブイにキングスターは静かに前足をイーブイの頭の上に乗せました。
「……きんぐすたー、さん」
「お譲ちゃん。こういうときはありがとう、だぜ。ディグダはイーブイの為に頑張ったんだから、それに応えるのはありがとうじゃなきゃ、おれさまはだめだと思うぜ」
 ディグダがくれたものをもう一度、思い出しながら、イーブイがうなずくと、泣きながらもイーブイはディグダに伝えました。
「……ありがとう。ママ」
 
 ぽろぽろとイーブイが涙をこぼしたときでした。
 イーブイのもふもふとした首毛から花がぽんっと一輪。
 また一つ、もう一つ、ぽんぽんと現れては花が咲いていきました。

 その花にはもちろん、ありがとうが込められていて、外の世界を知ったイーブイの新しい始まりを示していました。
メンテ
パンドラの匣 ( No.18 )
日時: 2012/05/28 00:01
名前: ???

テーマ:「毒」


「グダグダと、くだらない事偉そうにぬかしてんじゃないよ…」
 マルコのいるボールからは、声の主の様子を直接伺う事はできない。だが、種族特有の切れ上がった金色の目に険の宿る様、全身を覆う紫の体毛が静かに膨れ上がる様はありありと思い描けた。
「この…」
 長い尾が揺らめく。鎌を象るかのような先端が、白い光を放つ。
「タコ!!」
乾いた音とともに、宙に紅い花が点々と咲いた。

「君のポケモンと話がしたい」
 あの若草色の髪をした男が思いもかけぬ場所でふらりと現れ、突拍子もない言葉をかけてくるのは今に始まった事ではない。マルコたちポケモンも、トレーナーであるトウコも皆いつものようなポケモンバトルが始まるものと覚悟した。後味が悪い事この上ないバトル。
戦っている間は良い。目の前の敵の出方を伺い、それにどう向かっていくか、それだけを考えれば良い。持てる力を揮うのは楽しい。だが、その後が問題だ。
 あの男が手持ちとして繰り出すポケモンの顔ぶれは毎回異なる。自分の事をトレーナーと呼び、連れているポケモンもモンスターボールに入ってはいる。だが、本心ではそのように「あるべき」事、そう「あらなければならない」事に嫌悪を感じていたのだろう。
 奴にとって、ポケモンバトルとは「ポケモンを一方的な都合で傷つける」ものだ。人間は命令を下すだけで、傷を負うのは全てポケモンたちだ。草叢での野生ポケモン相手のバトルも、人間が一方的に棲家に侵入し、住人達を痛めつける自分勝手な所業だ。そのような見方も決してありえなくはない。
 住み慣れた場所での気ままな生活から、無理矢理引き離されて、人間の命令を聞いて戦う。己の思うままに生きる自由を当たり前のように手にしてきた側からすれば、確かに不本意なことだろう。
 それが「わかる」から、戦いを終えたポケモンたちは野に帰す。元の「日常」に戻してやる。人間が、部屋を整理して物をあるべき場所にしまうように。その過程で「不要」と見なして捨てる物もある。例えば多く買いすぎてしまった薬。スペースを圧迫するモンスターボールはまとめて売って、もっと性能の良い物に買いかえた方が良いかもしれない。
 トウコもリュックを整理しながら、よくそんな事を言う。ため込むとキリがない、と幼馴染に指摘されたこともあると何時か漏らしていた。
 必要なもの。不必要なもの。
 それらを分けるのは、結局のところ選ぶ側の恣意だ。
 己のあるべき姿。いるべき場所。
 それらの答えが一つと決めたのは、一体誰なのか。

 あの男の言い分によれば、トレーナーつきのポケモンたちは憐れむべき存在という事になるらしい。本来なら、モンスターボールにも縛られず、人間の手の入らない自然の中で自由に暮らす。それがあるべき姿なのだそうだ。
 だが、マルコには生憎野生で暮らした経験がないから、理解にはひと手間かかる。
タマゴから孵った場所も、カノコタウンの研究所だった。まず目に入ってきたのは白い高い天井だった。隣を見ると、一足先に生まれたツタージャが短い腕を組んだり解いたりを繰り返していた。暫くすると、軽い足音と共にここの主だという明るい色の髪をした女が現れて、これからの事を説明してくれた。
彼ら3匹がここにいるのは、これからトレーナーとなる子供たちの最初のパートナーになるためである、と。
 一緒に旅をして広い世界を見に行く。外でなら、思いっきり技をふるう事だってできる。この研究所周辺にはチラーミィやミネズミなど小型のポケモンと互いしかいないが、外ならもっと他のポケモンとも出会える。バトルをしてトレーニングを積めば、今の自分よりも遥かに大きな相手と渡り合う事だってきっとできる。
 その日の夕方から夜にかけて、最後に孵ったポカブも交え、彼らは各々のやりたい事について語り明かした。
「草叢を思いきり駆けまわってみたい」
「海に行きたい」
「強い技を覚えて思いきり、ぶっぱなしてみたい」
「彼女を作りたい」
 彼ら三匹にとって、人間のパートナーを持つという未来は明るい光に満ちた素敵なものだった。
 そしてそれから数日後、ついにその日が来た。集まった子供は三人。最初にトウコがボールの一つを手に取り、後の二人がそれに続いた。
「よろしく、マルコ」
「ミジュ?」
「あなたの名前。気に入ってくれた?」
 彼女の青い目を覗き込めば、小さく自分の姿が映っていた。
「ミジュジュ?」
 マルコ。
 ポケモンである彼には、トウコと同じようにはそれを発音できない。
「アタシね、初めてのパートナーはミジュマルが良いってずっと思ってたんだ。名前も何にしようかずっと考えてて、昨日やっと3つくらいに絞れたところだったの」
 ミジュマルという種族なら、この世界には他にもいるだろう。種族名で呼ばれるとしても別に異存はない。だが。
「ミジュ〜」
だが、「マルコ」は、今ここにいる彼のために用意されたものだ。彼だけのもの。自分のもの。そう思うだけで、腹部のホタチをつけている部分がこそばゆくなってきた。なんだか落ち着かなくなって、顔を隠すように彼女の胸に顔を押し付けたら、笑いながら頭を撫でてくれた。

 あの日は、もう一つの誕生日と言って差支えがない。
 トウコのことは、母親のようなものだとも思っている。
 嫌いになるわけがない。離れて生きるなど、考えられない。

―君のポケモンの声を聞かせてもらおう。
 あの男と初めて会った時の事を思い出したら、腹が立ってきた。
―僕にはポケモンの声が聞こえる。彼らの言っている事がわかる。
―はいはい、さいですか。
 その時は、そう返した。
 頭を占めていたのは、男に対する、自分でも理由のよくわからない嫌悪と拒否の感情だった。
 馴れ馴れしい態度。対話をする意志が存在するかも疑わしくなる早口。左右両端を完璧に同じ角度に持ち上げて作った「微笑み」。茫洋とした目は、話しかけた相手を見ているようでいて、その実何も見ていない。訝しく思って覗き込めば、聞き取るのがやっとの早口でもって混沌の奥底へと連れて行き、玩び、砕こうとする。だが、そこに悪意があるわけではない。
 嫌だ。
 全身に鳥肌が立つのを感じた。
 こんな奴、放っておいて早くどこかに行こう。
 トウコにそう伝えようとした。
 しかし、男の方が早かった。
―君のポケモンの声、彼の声を聞かせてもらうよ。
 指が鉤爪のような硬さと冷たさをもって持ち上がり、指差す。静かな声の奥深くで、苛立ちの爆ぜる音がした。

 生理的な嫌悪。そして恐怖。
 それら二つをあの男に対して抱いていたのだと、今なら認められる。
 あの男が、初めて会った時から嫌いだった。
 ポケモンは「トモダチ」であると言って親しげな表情を作り、近づいてきた。
「お前の事は何もかもわかっている」と言いたげな風情は、マルコにとっては神経を逆撫でするものでしかなかった。

『…お前が何をわかっていたと言うんだい?』
低い声が言い募るのが聞こえる。
『そもそも、お前が何かを理解できた例なんてあるの?』
 そう、敢えて言うなら、この男の「理解」は、目の前の存在を分解し、あるいは無理矢理にでも結合し、己の中の公式に全ての要素を収める事だった。
―モンスターボールに入っている限り、ポケモンは完璧な存在になれない。
 確かにトウコがいなければ、「マルコ」という存在は成り立たない。確かに、この世に生まれた時点で、既に彼の進むべき方向は人間の手で決められていた。自然の中で生存競争にさらされるポケモンたちのように、己の力だけを頼みにする生き方など身に着くはずもなかった。
 だが、それが何だ。
 トウコと出会った。名前をもらった。支え合いながら、旅をしてきた。そして今、ここにこうして有る。誇りに思いこそすれ、卑下したり他の生き方を羨んだりはしない。
―ポケモンは人間から自由になるべきなんだ。
 喧しい、と今のマルコなら間髪入れずに返すだろう。
 でも、あの時の、未熟で自分というものについて知らない事の方が多く、考える機会も持ってこなかった自分は、どうすれば良いのかわからず、ただ立ちすくむだけだった。そして、相手はその隙を決して逃がしはしなかった。

「もっと」
 怖かった。
「もっと聞かせてくれ」
 トレーナーの命令に従い、攻撃してくるチョロネコの爪の向こうに、見えた別の何か。
『そぉれっ!』
 長い尾に鼻を叩かれて怯んだ隙に、回し蹴りが入る。一発一発の威力は軽いが、如何せんスピードに対応できない。反撃しようにも隙がなく、焦りばかりが募る。先ほど足を引っかけて転ばされた時の擦り傷がじくじくと傷む。
 起き上がり、目の前の敵を睨みつける。
『手ごたえのない奴…』
 チョロネコは腰に手を当て、足を組んだり解いたりを繰り返しながら、こちらを見ていた。
『このままじゃ、あたしの勝ちだよ?ねえ』
 意地悪く、目を細め、歌うように呟く。
『おまる』
 そのたった一つの単語で、全身を支配していた恐怖は、瞬時に怒りにとって代わられた。
 許さない。
ホタチに触れると、全身に力と熱とが満ち始めるのを感じた。
許さない。
よくも俺の名前を。俺の名前を馬鹿にするのは、つけてくれたトウコを馬鹿にするのも同じだ。
許さない。
「マルコ?」
「ミジュ!」
 コイツだけは許さん。俺だけではなく、トウコを馬鹿にしやがったこの猫だけは。
「わかった。行こうか」
 ああ。
同じ負けるにしても、一発殴らなければ気が済まない。

 おまる。
 今でもあの件は思い返すだけで腸が煮えくり返りそうになる。一度、詳しい事情も知らないままに、その呼び名を使った仲間を反射的にアシガタナで殴った事もあった。
どうも自分はキレやすい性質らしい。すぐに頭が熱くなる。口よりも先に手が出る。厄介だとは思う。
最近は、仲間の死角からの「ふいうち」で不発に終わる事もある。その後にちょっとした説教を食らう。自分なりに自制を覚えてきたつもりだと反論すると、レパルダスは鼻で笑った。
『よく言うよ。筋肉お馬鹿が』
『おい…』
『あれ、駄目?』
 当たり前だ。
『あたしはお前を尊敬してつけたつもりなんだけど?』
 どこがだ。
 第一、尊敬される要素が自分には見当たらない。むしろ、自分は彼女にひどい事ばかりをしてきた。
 彼女が、あの男の「トモダチ」だったから。それだけで十分な理由になった。
 カラクサタウンからサンヨウシティへと向かう草叢から、まるで幽鬼のような足取りで現れた理由については、考えようともしなかった。あの男と別れ、その代替品にトウコを、マルコにとってもう一人の「母親」を選んだとしか見えなかった。
 許せなかった。苛立ちと怒りは、全てイザベラに向かった。些細な事柄が起爆剤となって、取っ組み合いに発展した。生傷のできない日はなかった。彼女が声を失くしていた事も、喧嘩を激化させる一因になった。彼女の後頭部には今でも小さな傷が残っている。注意して見なければわからない程のものだが、その周辺に目をやるとやはり存在を無視できない。
 
「君のポケモンと話をさせて欲しい」
 あの男の申し出に、トウコが腰のボールに目をやった時、イザベラは無言のまま前足を伸ばし、ボールを揺らし始めた。
『ベラ姐…』
奥歯を噛みしめ、壁の一点を見つめ、ひたすら殴りつける。その鬼気迫る様子に隣のボールにいた仲間が怯えと焦りの混じった声をあげた。何とかしてくれ、とマルコにも必死で訴えてきた。
だが、何ができるというのか。
他の仲間では、十中八九相手のペースに巻き込まれる。マルコではひと騒動起こしかねない。いや、きっとそうなるだろう。しかもここはジムの前だ。
となると、選択肢は一つしかない。
 
 あの男は、まさか用済みになって逃がした「トモダチ」がこうして現れるなど、「トモダチ」と呼び心を通わせたと信じた存在に詰られるなど、想像もしなかっただろう。そして、イザベラにとっては、奥深くに押し込め封じてきた過去のしがらみを、開ける事を禁じてきたパンドラの匣を解き放つきっかけになってしまった。自分の中に巣食い、彼女を毒し続けてきた過去を。
メンテ
結果発表 ( No.19 )
日時: 2012/06/17 19:59
名前: わたぬけ

★結果発表★
(以下、敬称略)

>>1
【B】ため息と一緒に毒を吐く / 一葉
金×1(3pt)
銀×2(4pt)
銅×2(2pt)
ア×1(1pt)
10pt

>>2
【B】ポイズンガールは終わらない / 月光
0pt

>>3
【B】ポイズンガールは終わらない(裏) / 月光
金×1(3pt)
3pt

>>4
【B】夢追い人の代償 / 夜月光介
0pt

>>5
【A】「助け」の手 / 美容室
金×1(3pt)
ア×1(1pt)
4pt

>>6
【B】フェアトレード / リング
0pt


>>7
【A】勇気のタネ / 月光
0pt

>>8
【A】颯爽と吹き抜ける涼風 / 鏡花水月
ア×1(1pt)
1pt

>>9
【A】桜井さんのお花見 / 夜月光介
金×1(3pt)
銀×2(4pt)
銅×4(4pt)
11pt

>>10
【B】毒を前に、進め / 海
金×4(12pt)
銀×2(4pt)
銅×2(2pt)
ア×3(3pt)
21pt

>>11
【A】希望の大地 / きとかげ
金×4(12pt)
銀×4(8pt)
銅×1(1pt)
ア×2(2pt)
23pt

>>12
【A】Skyme to the moon / 乃響じゅん。
金×1(3pt)
銅×2(2pt)
ア×2(2pt)
7pt

>>13
【A】 Good night, a good dream. / とらと
金×1(3pt)
銅×1(1pt)
4pt

>>14
【A】百日紅の木の側で / わたぬけ
金×1(3pt)
銀×3(6pt)
銅×1(1pt)
10pt

>>15
【B】リフレッシュ / となみ
銀×1(2pt)
銅×1(1pt)
3pt

>>16
【A】故郷 / レイコ
ア×1(1pt)
1pt

>>17
【A】もふだね。 / 巳佑 
銅×1(1pt)
ア×1(1pt)
 2pt

>>18
【B】パンドラの匣 / ???(透)
銀×1(2pt)
2pt


◆ベスト3◆

【3位】 >>9
【A】桜井さんのお花見 / 夜月光介
金×1(3pt)
銀×2(4pt)
銅×4(4pt)
11pt


【2位】 >>10
【B】毒を前に、進め / 海
金×4(12pt)
銀×2(4pt)
銅×2(2pt)
ア×3(3pt)
21pt


【1位】 >>11
【A】希望の大地 / きとかげ
金×4(12pt)
銀×4(8pt)
銅×1(1pt)
ア×2(2pt)
23pt



▼運営より▼

どうも、運営のわたぬけです。参加者の皆様に於かれましてはこの度の平成ポケノベ文合せ2012〜春の陣〜にご参加いただき、心より御礼申し上げます。
今回の企画作品を振り返りますと、テーマの一方「タネ」と定めていた影響か、希望への予感を持たせて幕を閉じた物語が多かった印象です。
優勝作品である希望の大地のように真っ向から「タネ」というお題に向きあった作品もあれば、ため息と一緒に毒を吐くのようにちょっぴりひねくれた使い方もあってと、消化の仕方もそれぞれでとても楽しめるものでした。
作品数も前回を上回り18作と運営としても嬉しい悲鳴をあげることとなりました。

さて、ご存じの方もいらっしゃいますが今回で自分のほうが企画運営より手を引かせていただくことになりまして、自分の関わるポケノベ企画はこれで最後という形にさせて頂きます。
自分が運営に携わるようになってから色々失敗もありましたが、どうにか皆様のお陰でここまでやってこられたと思います。
今まで参加していただいた方、作品を読んでいただいた方、助言していただいた方、当企画を見守っていただいた方々に深く御礼申し上げます。

ベスト3となったきとかげ様、海様、夜月光介様、本当におめでとうございます。
メンテ

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