メビウスの歌 ( No.3 )
日時: 2013/11/10 21:28
名前: moon メールを送信する

 テーマ:輪



 男は長い間、膝をついて慟哭していた。
 低く、地の底にまで届くようなうなり声だった。絶望のすべてを、その大きな背にかつぎ込んだようなうめき声だった。
 どれくらいの間そうしていたのかわからなかった。だがある時、男は背後に気配を感じ、ゆっくりと振り返った。
 細身の人間が、ゆらりと佇んでた。男がしばらくぶりに見る生きた者だった。彼の背後には黒い人型の獣が、主人と同じようにゆらりと佇んでいた。男はその獣の名前がわからなかった。
 彼は言った。

 ――私は吟遊詩人です。通りすがりに、悲しげなあなたの声を聞いてこちらへ参りました。あなたはなぜ、そんなにも悲しんでいるのでしょう。
 男は答えた。
 ――私はすべてを失った。いや、すべてを消してしまった。かつて美しかったこの地も。その上に立つ生命も。そして、愛する者も去り二度と会えなくなった。
 詩人は男の言葉を受け、彼らの目の前に広がる広大な大地を見すえた。広がるのは地平線の果てまで続く焼け野ばらと、灰と、曇天であった。
 詩人は男へ微笑みながら再び言った。
 ――ああ、なんと美しい景色でしょう!
 男の心に衝撃が走った。思わず涙を流すことをやめ、立ち上がり詩人に迫る。
 ――いったいこの景色のどこが美しいというのか! 生きたのは自分だけ、ほかには何も残されていないこの地の、何が美しいというのか!
 ――それでも、この景色は美しい。きっとこの子も同じ気持ちでしょう。
 詩人はあくまでも柔らかな笑みを崩さなかった。そして、一緒につれている黒い人型の獣へ視線を寄越すと、獣は小さくうなずいた。
 ――この子は星の動きから未来を視ることができるのです。この子がこの景色を美しいと言っているということは、かつてこの地は豊かな緑と花々が咲き誇るそれは美しい場所であり、そしてこれからもまた新たな生命を宿し、再びこの地に美しさを取り戻すということなのでしょう。なので、その再生の瞬間であるこの景観は、とても美しいものなのです。
 吟遊詩人は文字通り歌うように男へ言います。しかし男はその場に崩れ落ちるように座り込んでしまった。
 ――この地がかつての美しさを取り戻せるはずがない。自分の手で壊してしまったのだ。だからわかる。ここは不毛の大地となってしまったのだ。草木など生えぬ。草木が生えねば獣も人も生まれぬ。二度と。
 吟遊詩人は男から、深い絶望と、怒りが静まった後の深い悲しみを感じ取った。今の状態の男には、何を言っても無駄なのかもしれないと思った。だが、それでも詩人は歌うように言葉を紡ぎ続けた。
 ――あなたは、メビウスというものをご存じでしょうか。
 男は放心したまま首を横に振った。
 ――メビウスというのは一つの輪。出発点から歩きだしても、一周すると再び々場所へ戻ってくるのです。果てを知らずに巡っては同じ場所へ立ち戻り、そしてまた巡る。
 詩人は懐から竪琴を取り出し、美しい音色を奏で始めた。
 ――この世の万物はすべてメビウスの支配下にあるのです。たとえば旅路。たとえば人生。たとえば歴史。例えば出会いと別れ。たとえば、生死。旅にでればかいつか必ず家路につきます。人生には回顧がつきものです。歴史は繰り返されるとよく言いますし、別れた者とはいつか邂逅します。
 ――私はたくさんの命を奪いすぎた。失った命は二度と戻ってはこまい……。
 ――全ての命は輪廻転生します。生命というものは生まれては死ぬことを繰り返すのです。死というのは、巡り巡る人生の一つの幕が閉じただけのことなのです。
 詩人は男の肩に手を置いた。
 ――そう、あなたの過ちは許されないものかもしれませんが、なにもあまりに悲観すべきことではないのですよ。
 詩人は不毛の大地を踏みしめ、手を広げた。
 ――そう、幸と不幸が代わる代わる訪れるように! 四季が変わりゆくように! 雨水が川となり海となり再び雨雲になるように! すべては巡り巡って、再び彼の元へ戻ってくるのです!
 ――愛する者も……。
 男はすがるような目で詩人を見上げ、細くつぶやいた。
 ――愛する者も、私の元へいつか戻ってくるのだろうか……?
 ――ええ。いつか、必ず。
 曇天に一筋の光が射した。奇しくもそれは男の心を鏡で映したかのような光であった。
 ――この世はすべてメビウスの輪の上。あなたが愛する者との再会を願うのなら、その思いは巡り巡って、再び彼の元へ愛する者を誘うことでしょう。そう、あとはその輪の上で立ち止まり、愛する者が出発点へ戻ってくるのを待つか。あるいはみずからが動き、愛する者のいる到着点へと赴くか。それは、あなたの自由なのです。
 ――待つか……。動くか……。
 男は立ち上がった。曇天はすでに視界の外へと引き上げはじめ、太陽が燦々と灰色の地を照らし始めていた。
 ――ああ、美しい。
 詩人は目を細めた。
 ――この風、この大地、この景色。この土地こそが、カロスと名乗るにふさわしい場所なのでしょう。
 詩人はそう言って竪琴で奏でていた曲の最後の一音を鳴らした。









 これは、とある旅の詩人が残した、とても古い歌。


 それから、長い長い年が流れた。

 時代はめまぐるしく変わった。数え切れない生と死が繰り返された。

 そして、輪の上を歩き続けた一人の男は、到着点にたどり着いた。