毒を前に、進め ( No.10 )
日時: 2012/05/27 21:42
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テーマ:B

 隙間からやってくる穏やかな風もあってまさに春の麗らかな陽気といったところか。しかし今俺が対面している状況は昼下がりにお茶を飲みたくなるようなリラックスした雰囲気ではなく、緊張で頭が真っ白となってしまった俺にとっては修羅場とでも言うべき場面であった。
 俺の目の前にいる人は一人のお爺さんだ。
「――というわけで、この子をしばらく預けたいのです。宜しいですか?」
 お爺さんが尋ねてくる。宜しいも何もない、引き受ける他に道はないのだ。
「はい……」
 なんだか言葉が震えている気がする。我ながら情けない。
「では、宜しくお願いしますね」
 お爺さんはにっこりと笑って席を立つ。慌てて俺も立つと、相手は余裕を持った物腰で会釈をした。それに対してほぼ直角の礼を返すと、二人は扉を開けてその場を後にした。
部屋に残された俺はただ呆気にとられるだけだった。あっという間に進んでいった会話の内容を改めて追い、そしてふと現実に返ってテーブルの上に置かれた一つのモンスターボールを見下ろす。それはお爺さんがここに残していったものだ。隣には数枚の紙があり、まだ深く目を通していない文字の羅列が並んでいる。
俺は一つ溜息をついた。緊張で強張った体は緩んできたが、代わりに訪れてきたのは孤独が身に染みる時に似た不安。
加奈子さん、早く戻ってこないだろうか……。
ぼんやりと俺はここの育て屋の経営者であり、自身の先生といえる人の帰りを待ち望んだ。

 数分経った後、からんという鈴の音と共に扉の開く音がして、俺ははっと顔を上げた。
「あっれ己一くんこんなところで何やってんの? そこは私の席じゃんね。はいどいたどいた。あとこれ片づけて」
 言い切るか言い切らないかのところで両手に持っていた大きな茶色の紙袋を放り投げてくる。もちろん、俺に。突然のことながら日常だしその攻撃がやってくるのは分かっていた。何度受け取ってきたと思ってんだ、立ち上がって器用にそれを受け止める。けど今日の荷物は固いものが入っているようでそれが腕に圧し掛かりさすがに痛みが走る。
「……加奈子さん、そろそろ荷物投げるのやめましょうよ」
「んー、なにそれ」
 清々しいほどのシカトを繰り出し、こちらに歩み寄ってきてテーブル上のモンスターボールを手に取り次に紙面に目を通す。
「へえ、あたしが居ない間にお客さんが来たの。それも難しい子が来たね」
 加奈子さんは顎に手を軽く当てて考えている素振りを見せる。
 俺は加奈子さんの荷物をソファの上に一度置くと、肩を落とす。
「はい……だから接し方がよくわからなくて……」
「分かるけど、たまにこんな人も来るのよ。良い経験さ」
「わざわざ加奈子さんが居ない時に来なくても……」
「うだうだ言ってもしょうがないじゃない。あんたはあたしが居るより一人で居た方が自分で考えるから成長するし。はい、これ」
 直後、加奈子さんは手に持っていたものを僕の方にそっと放り投げる。慌てて受け取ったそれは、一つのモンスターボール。
 しかし突然押し付けられたかのように思われ俺は思わず加奈子さんの方を怪訝な目で見つめる。その表情はにこにこと笑っていて、さばさばとした彼女がそうやって笑うのは何か意味あってのことだと俺は分かっていた。
「あの、加奈子さん?」
「あんたもあたしの助手は飽きたでしょ。一度自分だけで育てなよ」
 予想の範囲内、いや、予想のど真ん中を射抜いた。
ここ最近加奈子さんは俺一人に育成を任せることを含んだ発言をするようになっていた。そのたび俺は流してきたが、いつかは来る現実というものがやってきた。
それでも俺は拒否を示そうと顔をあからさまにしかめる。
「初めから俺一人で、ですか? 急ですって」
「急じゃないわよお。前からそろそろって言ってたじゃない」
 そうですけど、と言おうとしたところで、それにと加奈子さんは付け加える。
「己一くんって受身なところあるじゃない。もっと自分で考えて行動していかないと」
 真っ直ぐに向かれた視線が突き刺さり、心に小さな痛みを残す。何も言い返すことができずに、俺は手元のボールに目を落とした。光を反射して照るボールの中を外側から見ることはできないが、中からは見えているだろうか。この手の中のポケモンは俺の第一印象をどう持つのだろうか。
「じゃあ、頑張ってね。あたしはタマゴの様子を見てくるから」
 加奈子さんは軽く手を振りながら、玄関側とは反対の裏口の方から外へと出て行った。扉が開いた途端に隙間から零れてきた風をすっと吸い込む。不安とは別の理由でも高鳴る心臓の鼓動を抑える。
掌に収まっている生き物の名前は、ドガース。
確かに、難しい子、だ。



一般に毒タイプのポケモンはあまり手持ちにするのに好まれていないのが現状だ。
俺自身もトレーナーとして過ごしていた頃に毒タイプのポケモンを持ったことはないし、加奈子さんに弟子入りしてからも殆ど見たことはない。
 元々気性が荒いポケモンも多く、やはり扱いづらいというのが誰も声を揃える。
今回託されたドガースは扱いづらいポケモンの中でもなかなか上位に当たるポケモンだろうと俺は思う。今、加奈子さんの持つ大量の蔵書をあさって情報を集めるまでそれは仮定でしかなかったが、それが明らかに真実であることが分かってきた。
人間の生み出した廃棄物質から生まれたポケモン――ある図鑑でビジュアルと共に載せられた文の羅列の始めには、そう書かれていた。
兵器工場の毒ガス貯蔵倉庫で最初に発見され、薄い膜のような体の内側には猛毒のガスが目一杯に詰め込まれている。まさに毒入りの風船のようなものだ。ただの風船なら良いものを、体のあちこちの穴からガスは当然吹き出すし、時には小さな刺激でも大爆発を起こすときた。そして匂いも天下一品なことでよく知られているようだ。なぜこのようなポケモンをお金持ちが持っていたのだろう。まあ道楽か何かで手に入れてみたら予想以上に扱いが難しく手に負えなくなり、育て屋に押し付けたという流れは容易に想定できる。
俺は今手に持っている分厚い本を閉じた。同時に大きな溜息をついた。これは扱いが難しいなんてものじゃない、もしかして、もしかしなくても相当危険な仕事なのではないだろうか。
机に山積みになった本の隣には、まだ開けていないボールがある。調べれば調べるほどにマイナスな情報しか出てこない。それが一層不安を煽る。ボールを開くというその簡単な動作をする勇気すら出てこない。
お客さんからもらった書面をもう一度読む。行動の履歴も載っているがやはり爆発騒動もあったようだ。気にかかるのはそういった行動の詳細が四か月程前を境に途切れていることだ。要は、その頃から日の目を見ていないのだろう。文字通り臭いものには蓋をしたということだ。
ドガースの気持ちも汲めるが、人間側の気持ちも理解できるというのが、また難しいところだな。
 また一つ溜息をついてしまう。
とりあえず相手のことを知らなきゃ始まらないと思ったのに、結局止まったままじゃないか。こんな重い役をわざわざ最初に回さなくてもいいのに。思わず加奈子さんのことを恨めしく思ってしまう。
少し気分転換でもしよう。
ゆっくりと椅子から立ち上がって肩を伸ばす。大きく鳴る音が書庫に響き、埃っぽい窓を思いっきり開ける。
眼前いっぱいには若々しい草原が広がっている景色がある。柔らかな青い空と、黄色や白といった可愛らしい色合いの花もちらちらと見える草原の中で、あらゆるポケモン達が走り回ったり昼寝をしたりしている。小さな池の傍で丸いお腹を上に向けて気持ち良さそうに寝ているコダックの姿が丁度目に入り、思わずにやけてしまう。池から顔を出したハスブレロがその様子を発見し悪戯に笑うと、忍び足ならぬ忍び泳ぎでコダックに近い位置までやってきて、その黄色く丸いお腹の上で手を小刻みに這わせる。瞬間コダックは安眠からぱっと解放され、悲鳴と共に地面から数センチ跳びあがった。ハスブレロは手を叩いて笑うと池の中に逃げるように潜る。コダックは睡眠妨害に腹を立ててすぐに追いかけて行った。ハスブレロは悪戯好きでのんびり屋のコダックは良い標的である。
 のんびりとした時間だ。ここに流れる空気はゆったりとしていて、同じくゆっくりマイペースな俺には合っている。できるならずっとこうして浸っていたいのに。
「おや、サボりとはやりますなあ己一くん」
 妙に纏わりつくような声色で寄ってきたのは、加奈子さんだ。ここは加奈子さん一人が経営しているから当然といえば当然だけど。
 苦笑いで流すと、彼女の隣にいる黒い毛並の気高い様相をしたグラエナにすぐに気が付いた。
 他でもない、そのグラエナはその進化前であるポチエナの頃からずっと一緒だった俺のパートナーともいえるポケモンだ。ただかっこいい外見とは裏腹にその名前はヒナだ。
「ヒナー久々だな。足の具合はどうだ?」
 窓から身を乗り出し、その頭を思いっきり撫でてやる。ヒナは気持ち良さそうに笑い、上機嫌に尻尾をぶんぶんと振っている。まったく可愛いやつだなあ。もっとなでてやる。
「順調よ。今はリハビリに散歩しているの」
 喋れないヒナの代わりに加奈子さんが教えてくれる。
 ヒナは俺が転向して以来、育て屋のポケモン達の世話役の一端を担っている。ただ数週間前にポケモン同士の喧嘩を止めようとした際に、噛みつかれたために大量出血するほどの怪我を負った。
トレーナー時代は些細なことでもすぐに落ち込んでしまう俺の傍にいつもいてくれた。目立ったことはしないけれど、落ち込んでいるときには隣にくっついて離れなかった。時には叱咤し、不甲斐ない俺を励ましたその心には頭が上がらない。
「ところでドガースくんはなんとかなりそう? まあ、その様子だと手こずってるみたいだけど」
 話を戻され俺は肩を落とす。
「まだ、ボールから出せてもいなくて。俺ドガースのことなんて全然知らないからまず本を読んでどんなポケモンなのか調べたんですけど、なんか逆に落ち込んだ、というか……」
 ああ、情けない、加奈子さんやヒナの前でこうやってすぐに落ち込んでしまう。
「まあドガースはねえ、どうしても疎外されてきたし、作者もそりゃあ危険な部分を指摘するわね。危ないところが特徴だし」
「俺、うまくやれる気がしないですよ」
「でも、本とかメモに書いてあることが全てじゃないから。ポケモン自体を見なきゃ、なんにも、なーんにも、意味ないからね。ここ重要。はいヒント終了」
「ええっ」
「言ったじゃないもっと自分で考えろって。あたしじゃなくて本でもなくて、自分がやりな」
 さばさばと加奈子さんは言い切って、ヒナに声をかける。ヒナは名残惜しそうに俺を見たが、加奈子さんの歩みに沿ってゆっくりと歩き始める。その歩き方はぎこちなく痛々しい。でもヒナは痛みに耐えて頑張っている。俺もやっぱり頑張らなくちゃいけないんだ。
振り返って机上のボールを手に取る。
頭の中に周辺の地図を描き、先程読んでいた本を一つともらった書類とペンを合わせて持ち、書庫から直接外に出られる扉へと向かい、その場を後にする。
全身に受ける自然の息吹に心を落ち着かせる余裕は特に無く、少し速いスピードで歩く。
 広大な土地を数分横断すると、鬱蒼と茂る林の傍までやってくる。林は林で虫タイプを初めとして別のポケモンがいるが入口付近はいつも空いている。
歩幅を徐々に小さくしていき、地面にボール以外の持ってきた物を落とす。そしてドガースの入ったそれを改めて見つめる。
廃棄物質から生まれ兵器工場の毒ガス貯蔵倉庫で発見され体内には猛毒のガスを溜め込みそのおかげで臭くちょっとの刺激で大爆発を起こす――。
短時間で得た情報が脳内を駆け巡る。
 ふぅと息を吐く。一人緊張が走る中で開閉スイッチをついに、押した。
ボールが開き、中から眩しい光が跳びだし空中で形作られていく。そして見た目が完全に形成される前に何よりも真っ先に鼻に異臭が飛び込んできた。臭い、臭いなんてもんじゃない、酷い匂いだ! 随分と放っておいた生ごみの匂いと似ているけれどそれより一段階臭い。思わずむせ返った。
 目がきんと痺れて歪む視界の中で、黄土色の煙が広がる。その更に内側に、紫色の球体が浮かんでいた。図鑑で見た写真と一致する。
目を瞑りながら腕で僅かな風を起こしてガスを払う。
涙が止まらないがようやくガスが風に乗って消えていき、問題児と対峙する。
 目を擦って改めて見ると、少し間の抜けたような顔つきが俺を待っていた。口から小さく低い鳴き声が漏れる。
こいつが……ドガースか。
 
そこで、ふっと視界が暗転した。




 気が付いて視界にまず入ったのは、オレンジ色の天井だった。
目の開いた俺の顔を突然生温かい舌が舐めてきた。それがヒナの仕業だと気付くのにそう時間がかからなかった。
切なそうに鳴くヒナの頭を撫でようと体を横に動かすと、額に乗っていたらしい湿ったタオルが床に落ちる。ヒナもオレンジ色になっていた。そうしてその色が太陽の光であることに気が付く。
 どうやら応接間のソファに寝ていたようだけど、記憶は曖昧に霧がかかっていて、はっきりと思い出せない。それにしても頭が痛い。殴られてるみたいだ。それに体がやたらと怠い。
ヒナが早歩きでその場を離れるのを見届けると、ゆっくりと上半身を起こす。その瞬間胃からせりあがるような吐き気が襲い掛かってきた。思わず体を畳むが、口から出てくるのは唾液のみ。
深呼吸を繰り返すと新鮮な空気が循環し、少し気分が良くなる。
 ソファに背中を預けて虚空を眺めていると、だんだんと数時間前の出来事が蘇ってくる。
そうだ、ドガース……。
ドガースがボールから出てきて、一緒に跳びだしてきた毒ガスを思いっきり吸ったせいで倒れたんだ、きっと。それで夕方の今の今まで気を失っていたんだ……。
 その時部屋の中に固い足音がやってくる。顔を上げると安堵の表情を浮かべた加奈子さんがいた。その隣には先程まで一緒にいたヒナの姿もある。
「良かった。さすがに顔を真っ青にして気を失ってるのを見た時には、どうしようかと思ったわ」
 加奈子さんは言いながら、半透明の白いジュースのようなものが入ったコップをテーブルに置く。
「モモンの実のジュースよ。大分薄めてあるけど、きつくなければ飲みなさい」
 ああ、なんだか加奈子さんがやたらと優しい。別人みたいじゃないか。
「……じゃあ、遠慮なく」
 軽く会釈をしてからコップを手に取りゆっくりと飲んでいく。確かに薄味だが今の自分には丁度良かった。ほんのりとした甘さが口の中に広がっていく。
「そういえば、ドガースは?」
「散歩中。他の鳥ポケモンが様子を見てくれてる」
「……そうですか」
 とんでもないスタートを切ってしまった。まともにスキンシップも取れずにこっちが倒れるだなんて。
「どうせ自分の傍でボールから出したんでしょ? あんだけ用心して本も読んだのに、そういうとこがまだまだ甘いわよね。とりあえず危険なポケモンは少し距離を置いて様子見なきゃ。それを怠ったせいで毒ガスをまともに吸い込んで気絶、目覚めたから良いけどほんとなら笑いごとですまないから」
 次々と出てくる加奈子さんらしい毒の効いた節。しかしその表情はいつになく真剣で厳しいものだった。
俺は流すようにへたへたと笑うこともできず、ただ俯いて己を恥じるしかなかった。
「でも、仕事を投げ出しちゃだめだからね」
 叱られている子供のように、黙って頷いた。
「このドガースの世話は、しっかりやりな。きっといろんなことが見えると思う」
 無防備な心に、彼女の剣のような言葉が突き刺さっていく。
 完全に黙り込んだ俺を見かねたのか、加奈子さんは浅い溜息をついた。
「もう今日はいいよ。ゆっくり体を休ませな」
 軽く俺の肩を叩いて、ソファの背もたれにかけてあった薄い布団をかけてくれる。その後もう一度外に出ていき、部屋の中には俺とヒナだけが残された。
 時間をかけるほど、加奈子さんの言葉が重く深く沈んでいく。裏が無い性格だからこそ真っ直ぐに届いてきた。向いてると思っていないというのも本心だろう。実際、俺もバトルの道を避けて選んだという消極的な道だから言い返すこともできない。
才能とかそういう眩しいものはきっと自分には無い。何をやっても中途半端で空回りして、落ち込んでの繰り返し。何も昔から変わっていない。
 と、ヒナが突然ソファの上に飛び乗り、隣に寝そべるように座り込む。ポチエナの時に比べ随分と大きくなった体であるが故にソファが一段と狭くなる。さらさらとした毛並が触れ、生き物独特の香りが鼻をくすぐる。甘えるように上半身を寄せてくる。グラエナらしい勇ましい様子は欠片もない。でもヒナがまた、隣で励まそうとしてくれているのだということはすぐに分かった。
「ありがとう、俺、明日からもう少し頑張ってみるよ」
 呟くと、ヒナの喉が低く鳴った。
その日は随分と深く、眠ることができた。



 時は巡り、朝がまたやってくる。
 再びドガース入りのボールと毒消しの錠剤を手に、またあの林の入口へと足先を向けた。
木漏れ日の下、俺はボールを見つめる。昨日の失敗と加奈子さんの言葉を思い返し、ボールを少し遠くへと投げる。物理的に少し離れた場所でボールは開きドガースが出てくる。そして昨日と違う点に瞬時に気が付いた。昨日は視界が眩むほどの量だった毒ガスなのに、今日は少しも出ていないのだ。
なぜだろう? 本の内容を思い出してもその理由は出てこない。
 でもこれで少しは臭さが薄れるし、昨日より安全に向き合えそうだ。勿論、油断は禁物だけど。それにしても少し遠い。数メートルの差がある状態で話したとして、ドガースに届くだろうか?
「え、っと……改めて初めまして、己一です」
 他人行儀の言葉を並べると、ドガースは体を斜めに傾け目を細める。人間でいえば首を傾げているような心情が伺える、気がする。
「その、昨日は折角出したのにすぐに倒れてごめん……って、ええっ!」
 いやいやいやそんな、ドガース俺の方とは反対側に行こうとしてるんですが!
つまり完全に無視なんですが!
「待って待って待ってちょーっとでいいから会話ってやつをしようよ、ああー飛んで行かないでほんと」
 ふわふわと風船が動いていく。慌てて数メートルの差を埋めてドガースの傍に寄り無理やり止めようと手を伸ばした。その瞬間、ドガースの体の穴からガスが噴き出す。思わず顔をさっと避け体を引いてしまう。
 だめだ、これじゃいけない。もっとドガースを身近で知らなきゃ。思いが走り、息を止めた状態でドガースに触れた。思っていたより柔らかい体で、力を入れれば割れてしまいそうだった。
 しかしその時指先に跳ね返すような力が加わり、直後ドガースの体内が白く光るのが分かった。それが意味するところを、昨日の情報から簡単に予測することができた。
 さすがにまずい、そう思ってドガースから離れて思いっきり体を伏せた。数秒後、ドガースの体全体が光る。
直後、大きな破裂音と共に小規模ながら爆発が起こった。
爆風が体を吹き飛ばさんと襲い掛かる。
びんびんと震える鼓膜。震えを越して響く、痺れるような痛み。
一瞬の出来事に呆気にとられ、巻き上がる灰色の煙が晴れていくのを待つ。草原は抉られ、それほど大きくなかったとはいえ大きな威力を発揮させていた。
そして煙の中心には地面に目を回した状態で倒れているドガースの姿があった。気のせいか体は少ししぼんでおり、また浮かび上がる気力ももう無いようだ。
少しの刺激でも、爆発を起こす。
確かにそう書いてあったけど、ちょっと触っただけでも爆発するなんて、いくらなんでも繊細で神経質すぎるだろ。それじゃあどうやって接していけば良いというんだ。
とりあえず、完全にのびているドガースの傍に寄り、座り込む。爆発がドガース自身の意思と関係なく起こるのだとしたら、今触ったらまた爆発が起こる。
どうしたらいいんだ。
どうやって接していけば良いというんだ。
尋ねようにもドガースは気を失っていて、ただただ途方にくれるだけだった。



三十分も経たないうちに、ドガースは目を覚まし、ゆっくりと浮遊をし始める。ふらついているけど、意外と大丈夫そうだ。柔らかな体だけど、案外丈夫なのかもしれない。
それでも浮いていられるのは地上十センチ程の高さで、相当の体力を消費したのは目に見えている。
「無理はしなくていいよ、……もっと休んでおけばいいって」
 とりあえず、声をかけてみた。ドガースは恐る恐るといった風に俺の方に視線を向ける。ガスが少し漂っている、それに怪訝な目をしていて明らかに警戒している。思い込みでそう見えるだけだろうか、警戒しているのは俺も同じなのだから。
 結局お互いに近づくこともできず、それからしばらく沈黙が続いた。
 今は力を失っていて休んでいるけれど、元気があればさっきのように空へと飛んでいくだろう。昨日も鳥ポケモンと一緒にこの辺りを回っていたというし、空が好きなのだろうか。確かに昨日も今日も散歩には絶好の機会だけど。
 今は、何を考えているんだろうか。まだ殆ど会話していない俺のことを、どう思っているんだろう?
 よく見ると、ドガースはずっと向こうの方を見つめていた。
「……広いとこだろ? ここら一帯は、全部加奈子さんの土地なんだ」
 ドガースは俺の方を見る気配はない。それでも、独り言のような会話を投げかけ続けてみることにする。
「加奈子さんっていうのはこの育て屋の経営者で、元々は親族の……確かおじいちゃんだったかな、その人のものだったんだけど、亡くなられて長く放置されていて、寂れていたんだけど、加奈子さんがここをもらったんだ。今の景色じゃそんなの想像できないだろ。俺だって信じてないよ」
 一人勝手に笑う。ドガースの表情は固いままだ。空しくなるけど、ここで引き下がるわけにもいかない。
お互いに警戒を解いていかなくちゃ、始まらない。
「俺は前にトレーナーやってて当たり前みたいな感じで旅もしてた。でもバトルに勝てなくて落ち込んでばかり。バトルの息つく間もないスピードについていけなかったんだよ。俺、マイペースだから。これからどうしたらいいのかも分からなくなっていた時に、ここの近くに来て、そしたら突然加奈子さんがすごい顔でやってきてさ、逃げ出したポケモンを追いかけるのを捕まえてほしいって言うんだ。懐かしいな」
 ただの思い出話になってる。これでドガースのなんの気を引き付けようっていうんだ。でも他に話題がでてこない。
「加奈子さんってけっこう性格は男っぽいとこある人なんだけど、もう初めて会ったときからもそうなんだよ。俺もヒナももう走らされまくってさ、あれはほんとに疲れた。でも人に頼まれることってあんまり無かったし、ちゃんとやったよ」
 息が切れて心臓がはちきれそうになっても走り回った。逃げ出すようなポケモンはすばしっこいものが殆どで、勝ち目の無い鬼ごっこをしているような気分だった。
 加奈子さんも加奈子さんでジャージ姿で走り、ポケモンを使ってなんとか事態を収拾させた。
ジャージで髪もぼっさぼさで勿論化粧もしてないのに、加奈子さんがありがとうって言ってくれた時に、ああ、充実してる人の顔ってこんな感じなんだと直感した。
「そう、それで加奈子さんとちょっと話したりして育て屋のポケモンを見たりして、なんかここに俺の探してる答えがあるかもしれないなんて、思ったんだ……クサいけどさ」
 ドガース相手に何を話してるんだ。
思わず自分に笑ってしまってちらりと横目で見ると、ドガースがこちらに目線を移していた。
 ……焦らないでいこう。
 ここはバトルの世界じゃない。息つく間もないスピードは存在しないんだ。ドガースのペースに合わせていくんだ。



「ドガース、これ」
 言いながらドガースの前に、ピンク色の真四角の固形物がいくつも入った器を出す。ドガースは目を細め不安そうにそれを見つめる。
器の中身はポロックだ。ホウエン地方から発信したポケモン専用のおやつで、これはモモンの実を原料としている。この間ドガースが他のポケモンたちとモモンの実をおいしそうに食べていた姿を見てヒントを得たのだ。毒タイプなのに解毒の効果があるモモンの実を好むなんて変な話だけど、単純に甘いものが好きなのだと踏めば、このポロックもきっと好きだと思う。
ドガースが育て屋にやってきてから一週間が経つ昼下がり。一週間で俺はドガースと特別な関わりを持ったわけじゃない。挨拶と簡単な会話だけで、基本的には環境に慣れさせることに専念させた。
「食べてみなよ、……美味いから」
 あぐらをかいてドガースが来るのを待つ。
「俺には少し甘いけどさ、ほら」
 言いながら俺は先にポロックを一粒拾い、口の中に放り入れて噛み砕いてみせる。深みのある甘さが一気に口の中で弾けて浸透する。やっぱりちょっと甘すぎ。
 その様子を終始見るドガースに向かって、仕上げのように最後に笑った。
「美味いよ」
 もう一つポロックを手にとり、ドガースの目の前に差し出した。さすがに手で直接あげるのは、警戒が完全に解けない今では早いだろうか。
 ドガースは固まったまま動かない。やっぱりまだ早いか。仕方なくドガースのすぐ傍の地面にそっと置く。興味津々といった風にポロックを見つめ、そしてゆっくりとその体が下に沈み始めた。じっとポロックを見つめ、次の瞬間ぱっと口を開けると一気に飲み込んだ。
 あっという間の出来事に思わず笑みがこぼれる。
 ドガースは味を確かめるようにしばらく難しげな表情をしていたが、自然と幸せそうに目が上向きの三日月型となり、低い声が漏れた。
「ほらもっと食べなよ。俺も食べる」
 ドガースはポロックに対する警戒心は取れたのだろう、一転して自ら進んで食べ始める。
合わせて俺もまた一つ食べる。ああ、甘い。俺はこれくらいにしておこうかな。ドガースに食べさせてあげた方が余程良いか。
 ふぅ、と手を地面につけて空を見上げる。なかなか空を見上げる余裕もしばらく無かったけど、改めて見ると空は大きい。よくドガースは空を泳いでいる。いつも見るたびに羨ましくなる光景だ。
「やあ己一くん、匂いには慣れた?」
 突然声をかけられ背後を見ると、加奈子さんがこちらに歩いてきているところだった。一緒にいるのはヒナではなく、珍しくコダックだった。
「なんとか、慣れました」
「そう、そりゃ良かった。この子はまだ無理みたいだけど」
 加奈子さんは苦笑しながらコダックに視線を落とす。確かにコダックは明らかに嫌そうな顔をして、大きな口の根本を抑えている。目にも涙がうっすらと溜まっているのが分かった。
「でも、ここは育て屋だから、これからが本番だからね」
「分かってます。ところで、この時間にコダックといるなんて珍しいですね」
 俺の言葉に加奈子さんは静かに頷いた。その表情に一瞬影が差したが、すぐに払うように小さく微笑んだ。そしてコダックの頭を優しく撫でながら、そっと口を開く。
「この子、明日飼い主が迎えにくることになったの」
 あまりに淡々と彼女の口から出てきた言葉に、一瞬息が詰まる。
絶句する様子がそのまま表情に出たのだろう、俺の顔を見て加奈子さんは笑みを深くした。
「良い悪戯相手がいなくなって、ハスブレロが寂しがるだろうね」
 ただ、平坦に感情を隠すように話す。


「覚えてる技は『えんまく』に『ヘドロこうげき』、ああ、やっぱり『じばく』も覚えてるんだ。自分の意思でいつでも爆発できちゃうといえばそうなのか……『くろいきり』もか、へえー」
 床に座りもらった書類の内容を読む。
今いるのは家に隣接した小さな屋内の広場だ。柔らかな砂が敷かれ、夜に何らかの訓練をしたり雨天時の炎ポケモンの遊び場になったり、使われ方は様々だ。
このドガースは夜になると何故か元気を失う。夜というよりは暗い場所をあまり好んでいないようで、今のように明かりがついたこの空間では何の問題もなくふわふわと浮遊している。ただ、窓や扉といった外へつながる場所へは近づこうとしていないのが観察していると分かる。
ボールに入れて休ませても良かったけど、もう少し様子を見ていたいという思いがあって今もこうして一緒にいる。
ヒナが部屋の隅で寝転がり、大きく欠伸をした。今は日が沈み外はすっかり暗くなった時間帯であり、眠気がやってくるのも当然の話。ヒナは見た目は夜に強そうだけど人間と同じ体内時計を持っているようだ。
窓の外から夜行性の虫ポケモンのささやかな鳴き声が聞こえてくる。
文字から目を離し、ふと加奈子さんが昼間に言ったことを思い出す。コダックは明日ここを出ていく。ドガースもいずれは出ていくのだろうか。育て屋に留まることは多分、幸せなことではない。それは文字通り人間に捨てられることを指すからだ。だからポケモン達は引き取られるべきであり、その時元気な状態で見送ることができるようにするのが育て屋の役目なんだ。分かっている。
 そう、分かっている……。
 ――あっ。
「忘れてた、夜になったのにケンタロス達を戻してない! うわ、ヒナ、ちょっと留守番頼む」
 少しここから遠く、一回り大きな柵に囲まれたエリアにいるケンタロスをはじめとする力強いポケモンを、夜になる前にボールに入れるのが毎日の仕事の一つだ。
 これを忘れると加奈子さんから雷が落とされる。それは避けなければ。
ヒナが返事をしたのを聞き届けると、急いでこの建物から出る。その瞬間小雨が降っているのに気付く。視界が暗いのに加えて雨だなんて、本当についてない。ヒナを連れて行きたいけど、まだ足は完治していないし仕方がない。とにかく、急がなければ。
決心して雨の中を走る。足元が滑りやすくなってる。あたりがぱっと光り、雷までやってきていることがわかった。
 そしてこの間に大事件が起ころうとしていることなど、この時に分かっているはずがなかった。



 びしょ濡れの俺を迎えたのは、慌ててタオルを用意してくれた加奈子さんだけではなかった。
 タオルで髪を拭いているときに玄関の扉をゆっくりと開き足をふらつかせてやってきたのは、なんとヒナだった。
「ヒナ!」
 思わず悲鳴のような声をあげてしゃがみ込む。ヒナは俺の体までやってくると力尽きたように倒れこんでくる。舌がだらりと口から出て、鋭い目は弱弱しさだけがおぼろげに光っていた。雨に濡れているせいでまるでボロ雑巾のようだった。そして体から昇ってくる雨で消しきれない匂いは嗅いだ覚えのあるものだ。ヒナの体臭ではないそれは、ドガースから漂う独特の悪臭だった。
「ちょっとどいて!」
 鬼のような形相で加奈子さんが俺をヒナから引きはがすと、ヒナの容体を診る。ようやく落ち着いてきたと思った心臓のテンポが再び速くなっていく。耳元で刻んでいるようにやたらと大きく感じた。
 加奈子さんは立ち上がり睨みつけるように俺の方を見た。
「ドガースはどうしたの!」
「え……」
「絶対に離れないようにしてって言ったでしょう! これ、あの毒ガスにやられてる。ヒナは私がなんとかするから、あんたは早くドガースのところへ行きな!」
 加奈子さんの迫力に負けて半ば追い出されるように玄関を出ると、訳が分からないままに屋内広場へと走る。雨は強いが隣だからすぐに辿り着く。
 ヒナが通った跡なのだろう、扉が少し開いている。そこに近づいた瞬間に分かった。視界には分からないが真っ先に鼻が感知する。毒ガスが蔓延し、ここまで溢れている。見れば、中は何故か真っ暗で中の様子を見ることもできない。もしかして、雷で停電でも起きたのか?
 不規則な呼吸の音が体内に響く。茫然と体が竦んだまま動かない。もしこれで爆発でも起こせば、一体どうなってしまうんだ。ここら一帯が焼け野原になってしまうんじゃないか。
 そんな最悪の状況が脳裏を駆ける。
昼間を始め、ドガースの心に近づけたような気がして油断していた。どんなに懐かれようと、毒タイプを持つ危険なポケモンであることは変わらないのだ。
ドガースをボールに戻して一緒に行動すれば良かった。ここに置き去りにしたのがまずかった。
どうしたらいいんだ。
 どうしたらいいんだ……。
考えようとしても頭が回転しない。停止したまま当然何も浮かんでこない。こうしている間にも時間は過ぎていくだけ。
暗闇の中、容赦なく降り注ぐ雨をただ身に受けるだけだった。

どれだけの時間が経ったか分からないが、気を失っていたように茫然としていた俺にかかる雨がふと止んだ。振り返ると、ビニール傘をさし懐中電灯を持った加奈子さんが憐れみに似た感情を浮かべた顔つきでじっと見つめてきていた。
 そしてゆっくりと屋内広場を見て、その目を細める。
「……もう、手に負えない状態か」
 低い声が雨の中でもはっきりと聞こえてくる。
それに同意したくなかったけど、いつの間にか静かに頷いていた。
「あたしが悪かったよ。まだ未熟なあんたに押し付けたのがミスだった。すぐにでも、毒対処の専門を呼ぶよ」
「毒対処……」
「被害が広がる前になんとかしないと。自爆する可能性も十分ある。もう、あたしたち育て屋がなんとかできる次元じゃない、わかるでしょ?」
 どうして加奈子さんはなだめるように言うんだろう。そして俺は、加奈子さんの言うことを理解しながらどうして否定したい心があるんだ。
 バトルじゃなくても息つく間もなく状況は一変する。それに追いつけなかったなんて言い訳は、もう通用しない。
「でも、毒対処の専門って……そうしたら、ドガースはどうなるんですか?」
「観察対象になって別のところに引き取られる」
 コダックの時と同じように、淡々と加奈子さんは話す。けど、その表情は少し歪んでいた。
「でも、きっともう、戻れない」
「戻れない?」
 思わず聞き返した。加奈子さんは小さく頷いた。
「ドガースの履歴に、ここ四か月程の記録は無かったでしょ、それについて飼い主に電話で尋ねたの。そしたら、家であった爆発事件がけっこう大きなものだったらしくて、危険なポケモンとして一度施設に預けられたの。ただしばらく様子を見ている限りドガースはおとなしくて特に問題が見られず、飼い主の元へ戻された。でも飼い主はそれを喜ぶはずがなくて、厄介払いがしたくて、それでうちに話がきた」
 加奈子さんは少し早口で話していく。その状況をすぐに噛み砕くことができなくて、いや信じたくなくて、加奈子さんから目を逸らす。
一呼吸を置いてから、また彼女は話し出す。
「……わかる? このドガースが大きな問題を起こしたのは二度目なのよ。もう、後には引けない」
「そんな、あいつ確かに危ないけど、けっこう良いやつで、ようやく仲良くなってきたところで」
「その油断がこの事態を招いたってこと、忘れないで」
 思わず押し黙るしかなかった。
けどその一方で、頭の中が急速に冷えていくのが分かった。止まっていた思考が不思議と回りだして、周りの音が遠くなっていく。加奈子さんの顔もおぼろげになって、自分の世界に入り込む。
もっとドガースを理解してやるべきだったんじゃないか。
もっと行動を思い出せば、その性格が見えて分かり合えるんじゃないか。
「……あいつは、寂しがってるだけです、怖がってるだけです」
 言葉が出てきて、繋がっていく。
「爆発事件がどうして起こったのかわかりませんけど、ドガースが突然自爆したんじゃない。あいつはそんなことをしちゃいけないって分かってる。だから今だって爆発しないでいる。四か月施設でおとなしかったのは、自分を反省したからです。でも戻ってきてすぐにここに連れてこられて飼い主から捨てられたようなもので、ストレスもあって寂しさもあってで毒ガスを出し続けて、それで初めて会ったときにあれだけのガスが出てきた。でもその後ガスが少なくなったのは、ここでポケモン達と触れ合ったり自由に動くことができたから。要はストレスが薄くなったから。暗闇を怖がるのは、一人でいるのを怖がってるから。あいつは何も悪くない。施設に入れてこれからまた拘束する方がよっぽど危険です」
「そんなの、ただの仮定じゃない」
「そうですけど、少なくとも、加奈子さんより俺はドガースのことを分かってる」
 加奈子さんは真っ直ぐに強気な目で睨みつけてくる。でもここで折れるわけにはいかなかった。それはなんとなく、なんとなくなんて弱いけれど、駄目なんだ。
「……じゃあ、何か良い案でもあるというの」
 最早脅すような口調だ。でも加奈子さんの言いたいこともわかる。加奈子さんは今まで俺よりずっとたくさんのポケモンを見てきて、別れも経験してきた。寂しくてもポケモンを手離し、危険な状態には瞬時に対応する。そこには加奈子さんなりの、預けられたポケモン達を第一とした思考が見える。
 なら、今俺がこうして反抗しているのは間違ったことなのか?
わからない。
 でも俺は今の俺なりに、ドガースのためにやれることがないか考えたいんだ。
「俺が中に入ります」
 加奈子さんの目が明らかに丸くなった。
「入口の傍に電灯を点けるスイッチがあるからまずそれを押して電気をつけます。そこからドガースにサインをして、俺がいるってなんとか分からせます。迎えにいってやるんです。それで、『くろいきり』を指示します」
「『くろいきり』?」
「はい。ステータス変化を元に戻す技で有名ですけど……昔読んだ本に、状態異常を回復させる効果もあると書いてあったんです」
「それ、データが古いんじゃない? それにあまりに危険そんな賭けには出られないわ」
「そもそもは俺が油断したせいです。多少の無茶は覚悟しなきゃ」
「無茶じゃない、大馬鹿野郎っていうのよ、そういうのは!」
 荒々しい叫びにも似た怒号に、思わずひるんでしまう。でも今更引き下がれない。
「俺はやれます、鳥ポケモンに風を起こさせて周りのガスを追いやれば大丈夫です」
「どうしてそうやっておかしな考えが出てくるの。あんた忘れたの、こないだも毒ガスを吸って気絶したのよ。今度はそれですまないかも、死ぬかもしれないんだよ……この馬鹿!」
 瞬間、頬に拳が飛び込んできて激痛が走り、なすすべなくその場に倒れこんだ。地面の泥が顔について、きたない。そんなことよりまさか殴ってくるなんて。
 思わず加奈子さんの方を凝視すると、彼女の肩は大きく上下していて、表情は皺が寄って大きく歪んでいた。
「どうして……どうして」
 先程までのヒステリックともとれる声色とは裏腹に、今にも消えそうな炎の如く小さな声で彼女は呟く。時折鼻水をすするような音もする。目は充血して、いつもの強気な面影は見当たらなかった。
 でも俺の気持ちはもう、一本の道筋を辿っていた。
「……俺は、ドガースとこんな形で別れたくないです。いつかは別れがくるだろうけど……でも、こんなのは嫌なんです。ドガースを助けなきゃ。今だって絶対、誰かが来るのを待ってるんです」
 ゆっくりと立ち上がって加奈子さんと向き合う。彼女の目は既に針のような鋭さが無い。優位なのは俺だと思う。俺は、折れない。
 数秒間沈黙が続き、加奈子さんは視線を地面に落とし、懐中電灯を黙って俺に差し出した。それを静かに受け取ると、加奈子さんはいつも腰に巻いているウェストポーチから数個のモンスターボールを三つと青い小さなカプセルを出した。カプセルの方は見覚えがある、毒消しの効果があるものだ。
「ピジョンとオオスバメが二匹入っている。なるべく迅速に済ませてよ」
 いつもの口調に加えて彼女の瞳に強さが戻ってきた。腹をくくったのだろうけど、それにしても、よく認めてくれたな。許してくれなくてもいくつもりだったけど。
 彼女の持つ諸々の物を受け取る。それから、と加奈子さんは思い出したように付け加え、ポケットからまた一つ別のボールを出す。傷だらけのそれがなんなのか、何故かすぐに分かった。ヒナが入っているボールだ。
「お守りというわけじゃないけど、あんたはヒナが居た方がきっと安心できるでしょ」
「……けっこう、考えてくれるんですね」
「どうして、間違ってることなのに止められないんだろうね」
 重く疲れ切った表情が印象に残る。俺はこの状況にもかかわらず、急にへらりと口元だけ小さく笑ってみせた。
「今まで受身だった俺が、ようやく自分で考えてしかも強情になってるせいじゃないですか」
「やるならさっさと行って。いつ自爆してもおかしくないんだから」
 追い払うような背中の押し方だ。
少し震えている足を俺はぱんと思いっきり叩いて、呼吸を整える。そしてもらったボールからピジョンとオオスバメを出す。雨の中でも貫くような甲高い声が辺りに響いた。その元気強さに勇気をもらい、扉の方を見た。ヒナのボールを握りしめる。大馬鹿野郎の俺についてくれる人やポケモンがいる。ドガースにも俺や他のポケモンがついている。
 地面を思いっきり蹴る。加奈子さんの傘から跳び出して、再び雨に打たれる。そんなのどうでもいい。走り、少し大きな両扉に両手をかける。もう止まっている場合じゃない、扉を開いた瞬間すぐに後方に下がって、大きく口を開けた。
「かぜおこし!」
 手で方向を示すと三匹は指示通り俺の前にやってくると翼を大きく羽ばたかせ扉の中に風を送る。ガスが大量に漏れ出る前に風で押し返す。数秒後風に乗るようにそこに飛び込む。三匹も追うように中へと入っていく。
 暗闇の空間に入ってすぐの右手の壁に手を叩きつけた。もう何度も使ってきた位置だ、体が覚えている。スイッチを押し、屋内広場の天井のいくつもの明かりが次々に点いていく。そうして今の現状がさらけ出されていく。
 そうして実際の光景を目の当たりにして、想像と少し違うことに気が付いた。
ガスは、上にだけ固まっている?
下、つまり俺の立っている高さから数メートルほど上までは大した量のガスはない。けれど高い天井の方に向かっていくと、見覚えのある黄土色の煙がもくもくと広がっている。
ドガースの出す毒ガスはそういえば空気よりも軽い。だからガスを溜め込んだドガースも空中に浮くんだった。
 これなら意外と安全にいけるかもしれない。
「かぜおこしストップ!」
 従順に三匹は強い羽ばたきを止める。風をやたらと起こした方が空気が循環し危険だとみた。
「ドガース、いるんだろ! 落ち着け、もう明かりはついた! 俺はここにいる!」
 力の限り叫び、呼びかけを続ける。返事はしない。十中八九あのガスの中にいる。距離はそう遠いわけじゃない。声は届くはずだ。
「迎えにきたよ! 早く帰ろう!」
 言いながら俺はポケットに入れておいたポロックを数個出した。ピンク色の小さなもの。モモンの実を原料とした、ドガースの大好物。
「ドガース! 気付けええええええええっ!」
 喉が割れんばかりに叫び、手の中のポロックを渾身の力を込めて上に向かって投げた。一直線にガスの中へと飛び込んでいく。気付け、気付け、気付け、気付け! 頼む、気付いてくれドガース。迎えにきたんだ!
 荒い呼吸、念のためにもらった毒消しを唾を使って飲む。ポロックが数個空中から落ちてきた。ドガースは気付いたのか、気付いていないのか、返事はない。
もう一度声をかけようと一気に息を吸ったとき、遠いガスの中からゆっくりと紫色の球体が一つ、出てきたのが目に映った。
ドガースだ。
顔が歪んでる。なんか食べてる。ポロックを食べてる。あいつ、気付いたんだ。
俺はドガースに向かって手を振る。ドガースはいつもののんびりとしたスピードではなく一直線に飛び込んでくる。すぐに俺のところにたどり着く。風のおかげで忘れていた強烈な臭さがすぐ手元にやってくる。でも、何故か我慢できるようになっていた。
だけどこれで終わるわけじゃない。俺はドガースを真剣な表情で見ると、ドガースも空気を察知したのかかたい顔立ちに変わる。
「すまないドガース、一仕事してくれ、くろいきりだ!」
 がらがらの声の後に、ドガースは再び上へと昇り体にあるいくつもの穴から黄土色の毒ガスではなく、黒い気体を噴射した。瞬く間にそれは充満していく。電気が薄れるほどの視界の中で、俺はドガースの名を呼びながら声をかけ続けた。霧があって視界が暗かろうとドガースは孤独じゃない。夜の中でも一人じゃない。少なくとも、俺がいる。
 黒い霧が毒ガスを包み込んでいく。不思議と匂いが薄まっていった。




 時が経ち、騒動の夜は明け朝が訪れていた。
 今、加奈子さんが呼んだ専門家とやらに周辺の毒ガスの濃度をチェックしてもらっているところだ。黒い霧の効果は意外とあったようで、咄嗟の判断は運良く吉と出たわけだ。
「大馬鹿野郎」
 加奈子さんはその言葉を繰り返し俺に浴びせた。そして、もう当分仕事を任せないとまで言った。まだまだ見習いだ、と。まったくその通りだと思う。
一番毒の被害を受けたヒナも、しばらくは安全なボールの中で休みながら時々外に出すことで養生している。加奈子さんの迅速な対応のおかげで命に別状はなかったようだ。ちなみに今はボールから出て、俺のとなりに寝転がっている。
ただ、全てがうまくいったかというとそういうわけではない。
 調査が進んでいる一方で、応接間にて俺と加奈子さんはスーツに身を包んだ四十代の男性と話を進めている。ただ加奈子さんに釘をさされているため俺が話すことは一切無く、ただその場にいるだけだった。男性は書類を机に整理した後に、一つのボールを手に取った。それはドガースの入ったものだった。
「では、少し様子を見させてもらいますので」
「よろしくお願いします」
 男性が立ち上がるのとほぼ同時に加奈子さんも立ち上がり、営業スマイルとでも言おうか、晴れやかともいえる笑顔を振りまいて男性を送る。俺も心にたまる歯がゆさを押し込めて軽く礼をした。
 男性が部屋を出て行ってから、俺はようやく加奈子さんと対峙する。
「本当に、ドガースは戻ってくるんですよね?」
「そういう風に話を合わせたじゃない。毒ガスの検査は念のためであって、ドガースが暴走したなんて言ってない。毒ガスの結果が出るのもすぐじゃないし、あっちが少しドガースを疑ってるだけ。おとなしくしてくれれば数日で戻ってくるわ」
「本当に、本当にですよね」
「ちゃんと正式な契約までしたもの、大した異常ないんだからすぐに帰ってくる。ドガースにも言っておいたんでしょ、数日我慢するようにって」
「そうですけど……」
「やっぱりあたしが全部応対して正解だったわ」
 少し呆れたように加奈子さんは溜息をつく。そしてソファに勢いよく倒れこみ、その上で思い切り伸びをした。
「ああ、疲れた」
 まったくその通り。体中が重く気怠い。でも毒ガスにあてられたような違和感は今のところなく、我ながらなんて強運だろうか。あんなの冷静に考えれば、いや冷静に考えなくても誰もが分かるくらい無茶苦茶な行動だ。
「……ポケモンと向き合うって、大変でしょ」
 ソファで体勢を崩したまま、加奈子さんは言う。
「己一くんを見てると、ちょっと前のあたしを思い出すよ。一匹一匹と丁寧すぎるほど会話して向き合って、無茶なこともたくさんやったしさ。だから止められなかったのかな」
 柔らかな雰囲気の目はどこを見つめているのだろう。思い返して、俺くらいの年代の出来事を見ているのだろうか。
「ドガースと向き合って、どんなことが見えた?」
 俺もソファに座り、ヒナの頭を撫でながら思い出す。いつも落ち込んでばかりで、ヒナに励まされる日々。ポケモンのために何もできない無力な自分。トレーナーをやめてここに入ってからも明確なものは見えてこなくて、なんとなくに加奈子さんの助手として毎日を過ごしていた。
ドガースのお世話でいろんなことが見えてくると思う――。
加奈子さんは、毒ガスで気絶した日にそう俺に言った。
この育て屋の厳しさがまず第一に挙げられる。もちろんドガースの今回の騒動は滅多にないことだと思うけど、形を変えてハプニングは多々あるだろう。でもポケモンと時間をかければ向き合えること、理解できること、それで前に共に進めること、多くを得ることができる。そして、俺はポケモンのために動くことができる、そのことが確信できた。少しだけ自信が持てた。その過程でたくさんの支えがあった。加奈子さんやヒナがいてくれたから俺は倒れても前を向けた。
でもそんなこと、恥ずかしいから声に出すのはやめておこう。
「……いろんなことが、見えましたよ」
 茶化すように言うと、加奈子さんは生意気だ、と笑った。