ため息と一緒に毒を吐く ( No.1 )
日時: 2012/04/28 00:31
名前: 一葉 メールを送信する

テーマ:B「毒」


「はい?」
 すっとんきょうな言葉が返ってきた。だからもう一度、一字一句違わずに繰り返す。
「自転車が、盗まれたの」
「あー……」
 彼は掛ける言葉を探して視線を彷徨わせる。その挙げ句、彼の口から出た言葉は「災難だったね」なんて当たり障りのないものだった。
 災難だった、なんて他人事な言葉だろう。彼にとっては他人事だ。恋人であろうと自分ではない、盗まれた自転車も自分の物ではない。そんなつもりではない、とわかっていても苛立たしい。
「自転車が盗まれたの、とても悲しいわ」
「うん、そうだね」
 そうだね。そうだね、それだけですか、そうですか。自転車が盗まれた事にも腹が立つが、目の前のとんちんかんにも腹が立つ。恋人が自転車を盗まれて怒り心頭です。そうだね、問一、だったらどうするべきでしょう。どうせ、取り返す、なんて出来る訳がないのだから、選択肢はあまり多くは無いと思う。
「……とりあえず、気晴らしにでも行こうか」
 思い切り睨み付けてやったら少しは伝わった。でも出来ればもう一言欲しい。だから「甘いものが食べたい」と伝えた。
「……わかった、奢るよ」
 ようやく観念したようだ、彼の奢りにまで漕ぎ付けた。なんか私が強欲で守銭奴みたいじゃないか。自分の自転車が盗まれて苛々するし、少しは凹んでいる。だから彼氏さんに甘やかしてもらいたいだけで、決してタダ飯が食べたい訳ではない。
「で、どこ行こうか?」
「駅前のケーキ屋さん」
「……結構遠いな」
 結構遠い、そんな事はない。自転車なら三十分もあれば到着する、自転車ならば。
「運転、お願いね」

 私の自転車がないので、当然二人乗りする事になる。男の子みたいに荷台に跨って乗った方が安定するのだろうけど、そうすると結構大きく足を開かなければいけないのが恥ずかしくて、横向きに腰を掛ける。そして体を安定させる為彼の腰に手を回すのだけど、これが意外と細くてムカついた。
 彼は痩せ形だ、まるでもやしのようにひょろい。それなのによく食べる、でも太らない。私は太り易いから甘いものは出来るだけ我慢している、よく流されるけれど。必死に我慢して運動も少しして今の体重と体型を維持している乙女を前に、よく食べてよく寝て運動あまりしないけど太らないなんて、私に、全世界の女の子に対する挑戦だとしか思えない。脇腹にグーでパンチしてやろうかと思ったけれど、自転車で転ばれても大変だから止める。私はケガしたくない。
「でもなんで盗まれたの?」
 なんで盗まれたのとは随分な質問だ。なんで盗んだ、だったらきっと明確な答えもあるだろうに、好き好んで盗まれた訳ではないので、なんで盗まれたと聞かれても返答など出来るはずもない。朝コンビニに寄った時に鍵を掛け忘れて、ちょっと少年サンデーを立ち読みしている間に盗まれたなんて事は、彼の質問とは全く関係ないはずだ。
「もうその話は終わり、今はもう私の頭にはスイーツの事しかないの、美味しいスイーツで嫌な事は忘れるの」
「……まぁそうだね」
 嫌な事は忘れるに限る、と思っていたら「ケーキ一つでさっぱり忘れてくれるような性格なら、僕も楽だったんだけどね」なんて呟いてきた。今度ばかりは後ろ頭にチョップを入れてやった。もちろん加減はする、転ばれたら私が大変なので。
「まさか自分がそんな潔い性格だと思ってるつもり?」
 言われるまでもなく答えはノーだ。自他共に認める程執念深い。だからと言って、それを他人に指摘されても気にしない訳ではない。
「今の一言で深く傷付いたの、具体的にはウインドウショッピングで冷かして回りたいくらい傷付いたの」
「……わかった、付き合うよ」
 やった、と心の中で呟く。ついでにガッツポーズもとってみる。自分で思っている通り執念深い私は、自分で思っていた以上に甘えん坊だったようで、彼が仕方なさそうに応えた一言が予想以上に嬉しかった。
「奢り?」
「っ、あのね、僕の経済状況も少しは考えてくれると助かるんだけど、ケーキ一つで勘弁してくれないかな」
「レモンタルトとコーヒーで手を打つわ」
「……わかった」
 少し間が合った。きっとレモンタルトとコーヒーの値段を思い出し、財布の中身と会議していたに違いない。そもそもウインドウショッピングに奢りも何もない事をわかっているんだろうか、冷やかすだけで何も買うつもりはないのだから。
 割と他愛もない話が続いた。彼はすぐに余計な事を言う、だからその度に後ろ頭を小衝いてやった。その数六回だ、如何に彼が一言多いかがわかる。自転車で転ばれたら困るから手加減はしているけれど、もしかしたら私のストレスを発散させようとやってるんだろうか。一々腹が立つから逆効果のような気もするけど、でも自転車の事は少しだけ気が紛れたような気がした。
 やっぱり甘えてる。そう思ったのは嫌な気分ではなかった。

 甘さは控え目だが酸っぱ過ぎず、さっぱりとした味わいが自慢のレモンタルト。サクサクのビスケット生地にとろけるようなレモンクリーム。とろけるような、は過小評価だ。口に入れた瞬間に溶けて消えてしまうほど滑らかで、口いっぱいにほのかな甘味が残る。コーヒーと言ったけどあれは嘘、レモンタルトにはコーヒーより紅茶が合う。お値段はコーヒーよりも割高だけど、ケーキを引き立てるように厳選された紅茶の数々はどれをとっても絶品なのだ。別にコーヒーが美味しくない訳ではないけれど。
「……食べてる時だけは幸せそうだよね」
 彼が呟いた。失礼だ、それでは私が食いしん坊キャラみたいではないか。
「そんなことは、ない」
 断言する。だけど「口元弛んでいる」との指摘には返す言葉もなかった。女の子は甘いものを食べてる時が一番幸せな時間なのだ、異論など認めない。
「でも、食べてる時だけ、ではない」
 例えば、女の子が三番目に幸せな瞬間。
「可愛いものを見てる時も幸せそうだと思う」
 猫とか、子猫とか、とら猫とか……
「あぁ、そうだね」
 何かを思い出したのかクスクスと彼が笑った。むぅ、墓穴を掘った気分だ。猫に夢中になって色々とやらかした事は両手で数えきれない程になる。どんな失態を思い出されたのか検討もつかないくらいだった。
「……忘れて」
 じゃないとグーで殴って記憶を飛ばすしかなくなる。
「忘れてと言われて忘れられるような記憶でもないかな、インパクトが強過ぎた」
 一体何を思い出した? 知りたい気もするけど知るのは恐ろしくて聞けない。それよりも、だ。
「忘れろ」
 すっと握りこぶしを作ってみせる。一刻も早く記憶の消去が必要だ。それには武力行使も辞さない、今は自転車に二人乗りじゃないから私に危険もないし。
「わかった、もったいないけど忘れよう、暴力反対」
 どうせ忘れる気など無いんだろうけど、本当に覚えているのか確かめる方法もないので諦める。忘れると言った以上それをネタにする事はないだろうし。ネタにしたらその時はグーで怒突き倒してやれば良い。
「さて、ケーキも食べ終わったし、この後はどうしようか」
「……」
 考えていなかった。帰ると自転車を盗まれた事ばかり考えてしまいそうで、まだ帰りたくない気分ではあるが、特に目的もない。ウインドウショッピングと言っても見たい物すら決めていなかった。
 何かないかと窓の外へ視線を彷徨わせる。
「……あの自転車」
 不意に何台か並んで信号待ちをしている一台に目が留まる。見覚えのあるピンクのフレーム、後輪に付いた白いボンボンは二つ連なっている。鍵に付けてあるキーホルダーは青い首長竜にも似ていた。
「私のだ」
 思わず席を立った。駆け出して外へ飛び出る。信号が変わった。走りだされたら追い付けない、思い切り叫ぶ。
「自転車泥棒!」
 振り向いた。信号待ちの自転車が一斉に振り向いた。事態を掴めず停車したままの自転車、きっとこれが正しい反応。だけど、一人だけ、私の姿を見るやいなや、慌てるようにペダルを踏み、立ち漕ぎで逃げていく。逃がすものか、土下座でも足りない、しっかりと警察に突き出して当然自転車も返して貰う。
 彼の自転車に飛び乗ると、ガチャリと言う音がした。当然だけど鍵が掛かっていた。走って追い掛けるか、彼から鍵を奪ってくるか、迷っている内に私の自転車は見知らぬ誰かを乗せたまま、どこかへ消えてしまっていた。

「どうしたのいきなり?」
 今頃遅れて彼が出てくる。
「私の自転車、だった」
 間違いない、フレームの色も、後輪に付いているボンボンも、鍵に付いていたあのキーホルダーも、絶対に私の物だった。
「見間違えじゃなくて?」
「泥棒って言ったの、こっちを見て慌てて逃げたの」
 私達は学校帰りにそのまま来ているから当然制服のままだ。ならば、私がどこの高校の生徒か一目でわかっただろう。私が自転車を盗まれたコンビニは、高校のすぐそばのコンビニで、うちの学校の生徒が立ち寄る事で有名だ。確率として、通学の時間に盗めば、当然その自転車はうちの高校の生徒の物である可能性が非常に高くなる。だから逃げたのだ。私の姿、制服を見て。
「もっと早く来てくれたら追い掛けられた」
 せめて自転車があれば追い付けたかも知れないのに。
「ごめんね、でもレジでお金を払ってたんだ」
 そういえば、まだお金を払ってないのに出て来た事を思い出した。
「奢りだから大丈夫」
 とは言ったものの、せっかくの気分が台無しだった。レモンタルトのほのかな甘味がどこかに消えてしまった、さっぱりとした酸味ももう思い出せない。
 自転車を盗まれただけでも腹が立つのに、レモンタルトの至福な一時さえ邪魔をされた。怒り心頭を通り過ぎて笑みがこぼれてくるくらいだ。クスクスと含み笑いを漏らすと、彼があからさまに引いていた。
「落ち着こう、別にひゃくまんえんもするって訳じゃないんだし」
 そうね、引換券も貰った記憶はない。安物の自転車には違いないのだけど、それとこれとは別の問題だ。私の自転車を盗んで、私に悲しい想いをさせた、当面の問題はこの一つだ。

「……そうだ」
 思い出したように彼が言う。顔もよく覚えられなかった自転車泥棒にどう復讐してやるか考えていたところだと言うのに。
「小鳩屋寄っていこう」

 小鳩屋はこの近くにある大きなデパートだ。七階建てのそのデパートは、特に目立った特徴もなく世間一般的なデパートと変わりはない。一つ特徴をあげるとすれば、良くイベントを開催している事くらいだ。先月開催していた「世界のわんにゃん展」には三度足を運んだ。仕方なかったのだ、世界中から可愛いわんにゃんが揃う祭典、女の子として見逃す事は出来なかった。もちろん、彼には黙って行った。思わず取り乱すかもしれない、実際あまりの可愛さに少し取り乱した。さすがに彼氏に見せたい姿ではない。
「先月のわんにゃん展には来てたんだって?」
 なのに何故知っている。
「先輩が見掛けたって言ってた、ずいぶんはしゃいでる子がいたって」
「……忘れて」
「らしくて可愛いと思うよ」
 お褒め戴きましてありがとう。
「でも忘れろ」
「そうだね、善処しよう」
 やっぱり彼の返事は忘れるつもりなど更々ないようだった。猫とスイーツに関しては少し自重しよう、せめて知り合いに見られていないか気を配れるようにしよう。
 今日は厄日だ。自転車は盗まれるし、スイーツだけではなく猫にも制限が掛かるなんて。しかし、スイーツの制限を緩和すれば体重が眼もあてられなくなるし、にゃんこによる癒しを制限すれば甘いものに走りたくなってしまう。にゃんこは肥えると言うリスクもなく、日頃の悲しみから救ってくれる唯一の手段だったと言うのに、これから私はいったいどうしたら良いんだろう。
「あのね、聞いてるかな?」
 呼び掛けられて我に帰る。ずいぶんと話し掛けていたらしく、いつの間にか彼は真正面に立って私の顔を覗き込んでいた。
「ごめんなさい、ちょっと考え事していたの」
「エレベーター、来たよ」
「……うん」
 それならもっと早く教えて欲しい。他にエレベーター利用者がいなかったから良かったけど、開いているエレベーターの前でぼーっとつっ立っていたら迷惑極まりない。
 二人でエレベーターに乗り込むと、彼は六階のボタンを押した。六階、玩具売場やゲームコーナーがある階だ。
「今、何かやってるの?」
「そうだね、着いてからのお楽しみ、と言うのはどうかな?」
 ケチだ、それくらい教えてくれたっていいのに。仕方がないからエレベーターの到着まで待つ。六階までの間が保たない、彼がお楽しみなんて言うから聞き辛いし、他の話題なんてぽっと出てこない。何も考える事がないとすぐに自転車の事を考えてしまうから、六階でどんなイベントをやっているのか想像してみる。玩具売場だから、なんて考えていたらもう到着してしまった。
 正解は……
「ポケモン?」
 エレベーターが開くと、真っ先に眼に飛び込んできたのは詰み上がったポケモンのぬいぐるみだった。ツタージャ、ポカブ、ミジュマル、イッシュ地方の始まりのポケモン、御三家で出来たぬいぐるみタワー。
「正確には、ポケモンぬいぐるみフェアだね」
 彼は「好きだよね」と笑った。確かにポケモンは好きだ。新作の予約が始まったので抜かり無く予約してきた。特に水ポケモン、ラプラスの耳とか可愛いと思う。
 だからと言って、ポケモンのぬいぐるみに浮かれて自転車を盗まれた怒りを忘れられるほど子供っぽくはないつもりだ。この悲しみを塗り潰したければ、この世すべての猫でも連れてこい、と。猫まみれどころか、物理的に猫に押し潰されそうだと思ったので、せめてこの近辺だけにしておこうと思う。この町内すべての猫でも連れてこい、だ。
「こっちこっち」
 虎猫の肉球をぷにぷにしているところで、現実に呼び戻された。我ながら現実と見間違うほどリアルな妄想だった。少し残念、しかしこんな事では猫制限など到底不可能なのかもしれない。頭の中の猫達も名残惜しいが、呼ばれたので彼の後を付いていく。
「一応今回のイベントの目玉商品、看板商品だったかな?」
 彼がそう説明した。思わず言葉を失う。ネットでは見たこともあるけれど、実物を見るのは初めてだった。
 水色の身体、トゲトゲの甲羅、そしてつぶらな瞳。
「……ラプラス」
 ラプラスのおっきなぬいぐるみ、その高さ、なんと三十センチ、そのお値段の高さ、なんと八千五百円。
 思わず手に取ってみた。さすが最高級ラプラス、その手触りは低反発枕のようで、抱き締めたくなる衝動に襲われた。むしろ抱き締めた。抱いて寝たら最高だろう、そんな感触だった。
 チラリと彼を見る。だが彼は即行で目を逸らした。横顔が八千五百円は無理だ、と語っている、わかってたけど。逆にこんなに高い物を買ってもらったりしたらこっちが困ってしまう。ケーキを奢ってもらうくらいがちょうど良い、それくらいなら私もたまにジュースを奢ったり、たまにお菓子を作ったりで差し引きゼロだ。
「ねぇ、このラプラス触り心地がすごく良い」
「そうだね」
 触ってみて、と彼にラプラスの頭を押し付ける。ぽんと頭に乗せた手が軽くラプラスを撫でる。その様子を見ていたら、彼が怪訝そうに眉をひそめた。

「どうしたの?」
「なんでもない」
 思わず目を逸らしてしまった。顔もたぶん赤くなっている。彼は不思議そうにしていたが、それはわからなくても良い。
「だ、抱いて寝たら気持ち良いと思うの」
「うん? 確かに抱き心地は良さそうだね」
 突拍子もない、と言うほどでも無かったが少し不自然な話の振り方だった。ラプラスの頭を撫でる手を見たとき、ふと、あんな風に私の頭も撫でて欲しい、なんて血迷った事を考えてしまった。いくら何でも恥ずかしすぎて、彼の顔も直視出来ない。
 これは忘れよう、なにか別の事を考えよう。隣に飾ってあるぬいぐるみセレクションでも、逆隣にある等身大ピカチュウドールでもなんでも良かった。なのに、何故か、よりにもよって何故か、自転車が盗まれた事を思い出してしまった。
 女の子の幸せな時間第二位、好きな人と一緒にいる時間も台無しになるまさかのどんでん返しだった。ほら、自分の自転車がないから帰りは送ってもらえる、彼は歩いて帰れなんて言う人じゃない。ついでに家に寄って貰っても良い。そうだ、自転車が返ってくるか、買い替えるまで迎えに来てくれるかもしれない、私の家から学校までは少し距離があるから、頼めば遠回りになるけどきっと来てくれる。彼の細いウエストにぎゅっと抱き付いてみても良いかもしれない。きっと恥ずかしがるけど、離れろとは言わない。それからそれから……
 ダメだ、もう考えないようにしようと思うほど、逆に意識してしまう。自転車が盗まれた、私の自転車が盗まれた。
「……喉渇いたから、なにか飲み物買ってくる、ケーキのお礼、奢るよ、何が良い?」
 口にして、不自然だ、と思った。あまりに突然だ、きっと態度もおかしかった、うまく笑えてもいなかった。でも顔を合わせていたらもっとボロが出る。「いつもコーラだよね、コーラで良い?」「あぁ、うん」短い会話で強引に押し切り、彼から離れる。
「ちょっと待っててね」
 彼から逃げる。少し距離を取った所で振り向くと、律儀に待っていてくれたのか、追ってくる様子はなかった。
 追ってきて欲しかったのだろうか。自分勝手だ、でも心配して付いてきてくれたらきっと嬉しい。ささくれだった心も少し落ち着く。
「……待っててって言ったの、私か」
 やっぱり来ない彼に悪態を付き、自動販売機を探して歩く。自分でもわかるくらい様子もおかしかった、だったら少しくらい心配して付いてきてくれてもいいじゃない。本当は喉も渇いていない、見つからなかった事にして戻ろうか、と思っていたら自動販売機を見つけてしまった。いつもならコーヒーなのだけどペットボトルの物がなかったからコーラとオレンジジュースを一つずつ。そしてオレンジジュースに一口口を付けると、彼を置いてきた場所に戻った。

 ちょっと待っててね、と伝えた。飲み物を買いに行った時間はそんなに長くない、ちょっとのはずだ。なのに、彼はそこにいなかった。私を置いて先に帰った、とは考えられない。だけどいない、周りを見渡してもいない。腹が立つ。待っててと言ったのに。あぁもう、なんで待っててくれないの? 追ってきて欲しいと思ったら律儀に待っている、そう思ったのに自分だけ何処かへ行ってしまった。腹が立つ、苛立たしい、ムカつく。
 置いて帰ってやる。歩いて帰れば一時間以上掛かる、構うものか。日が暮れる、物騒な事件なんて聞かないけれど、今日に限って起きれば良い。そうなったら全部彼のせい、私を一人にした彼のせい、あぁ、自分から一人になったんだっけ? もうやだ、嫌な事ばかり考えてしまう。泣いたら戻ってきてくれるかな、今日はいつもよりきっとワガママだったから、戻ってきてくれないかもしれない。甘えん坊なのは少しだけ認める、でも弱気なのは私らしくない。なのに、なのに……
「あ、早かったね」
 後ろから彼の声がした。随分とあっさりとした声だ。人にこんな寂しい想いをさせて、あ、だ。怒鳴ってやりたかった、思い切り叩いてやりたかった、それ以上に抱きしめて欲しかったのは、嫌な事があって情緒不安定だからだ。だから、抱き付いてもきっと許されるに違いない。
 そう思って振り向いたら、顔からそれに突っ込んだ。
「あ、ごめん」
 紙袋で頬を少し引っ掻いた。それは我慢する、抱き付くタイミングを完全に逃した、この寂しい気持ちはどうしたら良いのか。
「……それ、なんなの?」
 彼がぶつかった拍子に落とした紙袋を拾い上げる。さっきまで紙袋なんて持っていなかったはずだ。だから、私が飲み物を買いに行ったそのちょっとの間に、彼が何処からか用意した物と言うことになる。
「うん、まぁ、そうだね、おっきなラプラスは無理だけど、ちょっと元気出してくれたらいいなって」
「……」
 頭の中が真っ白だった。それは、つまり……
「くれるの?」
「僕がぬいぐるみ持っていても仕方がないと思うよ」
 中身はぬいぐるみなんだ。悲しくて、寂しくて、苦しくて、泣きそうだったのに、今は、嬉しくて泣きそうだった。
「……ありがと、中、見てもいい?」
「どうぞ」
 おっきなラプラスは無理だけどって言ったから、きっと小さなラプラスだろうか。自転車の鍵に付けていたラプラスのキーホルダー、もしかしたら彼がくれたものだって覚えていてくれたのかもしれない。中を見たら涙腺が崩壊する、彼はきっと慌てる、頭を撫でてくれるかもしれない。今日はもう甘え過ぎている、だから、これ以上どれだけ甘えても恥ずかしくはない。だから……

 結果から言うと涙腺崩壊は免れた。ついでに感動も何処かへ飛んで行った。紙袋の中にいた物、茶色くて不思議な顔をした物体。なんとも形容し難いそれの名前を私は知っている。
「……あの、なんで……マッギョなの?」
「え、可愛いから」
 台無しだった。なんかもう、全部台無しだった。ラプラス、ラプラスのはずだった。絶対ラプラスが入っているべきだった。百歩譲ってシャワーズ、ポッチャマでもいい、ミジュマルはダメだ、スイクンでも許せる、シチュエーションを思えばラブカスでもいい。でも、マッギョは、ダメだ。マッギョだけは、絶対に、ダメだ。そもそもマッギョは水ポケモンではない。
「この顔、癒されると思うんだけど」
「……」
 返事に困った。予想外なんてレベルを通り越していて返答のしようがなかった。
「あれ、ダメかな?」
「……うん」
 あぁ、なんだろうこのやり場のない気持ち。それからマッギョのマヌケな顔。深く、深く、ため息を吐く。なんか、もうどうでも良い気がしてきた。自転車を盗まれた事には腹が立つけれど、そればかり考えているのも馬鹿らしく思えてくる。これ、癒されてるって言うのかな、なんか違う気がする。
 ふと、適切な言葉が浮かんだ。きっとため息と一緒に抜けていったに違いない。

「毒気を抜かれたみたい」