メロンパン・プラトニック ( No.6 )
日時: 2012/01/16 21:16
名前: とらと

テーマA






 メロンパンだ。そうだ、メロンパンがいい。メロンパンを買って帰ろう。
 そんなこと思い始めると、全部がブリキの安いオモチャになって、マイコにはどうでもよくなった。社会や算数の勉強なんて、ちっとも惹かれなくなった。今日は帰り道に、ご近所の飼い犬のマルを撫でて帰ろうとときめいていた、そのことも頭から抜けてしまった。ひとつのことに夢中になりだすと、心が火を噴くミサイルになって止まらなくなる、マイコにはそういうところがある。マイちゃんはちょっとだけ変ね、周りが見えなくなっちゃうのね、保健室の先生はそんなふうに言った。担任の小柴先生は四年の一学期の終わり、マイコさんは独特の世界観を持っている、そんなふうに通信簿に書いた。独特の世界観。その言い回しは、少しマイコのお気に召した。
 それが一過性のものであるならば、マイコだってこんなに苦労はしていない。メロンパンいいな、メロンパン食べよう、今日の二時間目の国語の時間に突如そのことが頭に浮かんでから、帰りの会の一礼を済ませ、皆が動物園の猿のようになって教室を飛び出すその時まで、マイコはメロンパンのことだけ一途に考え続けていた。音楽の時間にはメロディーという歌詞をメロンと間違えて歌ったし、社会の時間にはノートをメロンパンらしきもののイラストで埋めつくしてしまった。休憩時間にもぼうっとして、メロンパンの絵には懲りたので、リアルタッチのメロンのイラストを大きくひとつ机に描いた。掃除時間、その机を動かした男子生徒がエッという顔をしていたのになんだか得意になって、マイコは窓の外に手をかざして、二つの黒板消しをいつもより多めに打ち鳴らした。ぼふん。ぼふん。白が多めのチョークの粉は、マイコの白い息と一緒に風に乗って、グラウンドへと流れていった。それと一緒にマイコも飛んでいきそうだった。目的地はそう、メロンパンのおいしいあのパン屋さんまで!
 ちゃちゃっと掃除を終わらせて、トントン階段を降りて、下駄箱から運動靴を引っ張り出して。赤と白の上履きは、ランドセルの隙間の中へ。入れ替わりに筆箱を取って、そっと中身を確認する。そこに息を潜めていた、マイコのなけなしの百二十円。運が良かった。いつもはお金を持ち歩かないけれど、今日はスーパーの四個入りのドーナツを買うつもりで、貯金箱から抜いてきていたのだ。
 誰にも見られないようにポケットに『なけなし』をしまって、そこからのマイコは誰より素早い。ランドセルをきちんと閉めるのも億劫でそのまま肩にひっかけると、後ろ手にひねり錠をカチャカチャやりながら歩いて、それ以上もたもたできずに走り出す。正門を越えて、上級生や下級生を追い抜いて。いざ行かん、メロンパンのいるところ!
 目指すパン屋さんは学校から家の前を素通りして、しばらく行った所にある。比較的新しいパン屋さんで、隣町から越してきた女の人が営んでいるそうだ。こういうときのお母さんの情報網は凄くて、旦那さんと小学生の息子さんがいるそうよ、そろそろ追って引っ越してくるそうよ、というところまでマイコは聞かされて知っている。お母さんがそこで先日買ってきた一個百二十円のメロンパンは、サクッとしてて、あまぁくて、思わず弟のシュンと二人でうーんっと唸ってしまうほどのおいしさだった。シュンは前歯でちびちび削るリスみたいな食べ方をするから、いつもみたく胸元を汚して、お母さんに怒られていた。なぜだかマイコも巻き添えをくらった。けれど、それを差し引いても余りある、まっことおいしいメロンパンなのだ。
 メロンパン、おいしいおいしいメロンパン! 一歩一歩弾むにつれて、マイコのお口はメロンパンのためのお口になっていく。こっそりお菓子を持っていってご近所のマルに見せてやると、マルは涎をだらだら垂らして尻尾を振って『待て』をする、マイコだってもしマルチーズなら、今そんな感じになってるだろう。いや、『待て』でさえきっとままならない。そのくらい受け入れ準備は万端だ。万端すぎて、生唾が出る。ごくり。
 あぁ、どうしてこんなにお腹がすいているのかしら。今日だってきっと給食を、いつもと同じに食べたのに。そういえば、今日の給食はなんだったろう。食べたものを思い出せなくなることは、マイコくらいの歳でだって、よくある。マイコなんか、昨晩のご飯なんていつも思い出せない。でもそれは別に構わない、そんなこと思い出せなくったって何も問題は起こらないからだ。オネーチャンそういうのオバアチャンみたい、シュンがそう言ってばかにしてくるのは、ちょっと腹立たしいけれど。
 こういうことを考えてると、マイコはいつだかテレビで見た、記憶の引き出しの話を思い出す。頭の中には大きな大きな棚があって、記憶っていうのはある事ごとに、その棚の別々の引き出しにしまっておくのだそうだ。その引き出しの数があんまりにも多いから、何度も何度も触っている引き出しの場所は覚えるけれど、あんまり使わない引き出しの場所はそのうちにすっかり忘れて、だから思い出せなくなってしまう。何月何日の晩のおかず、なんて記憶はよっぽどのことがない限り触ることがないから、きっと奥の方の引き出しに入れっぱなしにするんだろう。けれど、さっき食べた給食の引き出しの場所は、しまいこんだばっかりだから思い出せたっておかしくない。どこにいれたんだっけ。さっき引き出して入れてから、一度も触っていないお昼ご飯の引き出しが、棚のどこかにあるはずなのに。
 膨大な量の引き出しが、マイコの前にそびえ立っている。あてずっぽうだ、その一つを引いてみる。ごとり。コーンスープの香りがする……あぁ、これは今朝のコーンスープだ。コーンスープと、プチトマト、ちくわの中に棒のチーズが入ったやつと、晩の残りのおみそ汁。今朝はお母さんがいなかったから、マイコとシュンとの二人分を、マイコ一人で用意した……
 はた、とマイコは立ち止まった。気がつけば、家のマンションの前にいた。
 高い高いマンションは、どこか記憶の引き出しを思わせた。
 凍え乾燥した冬の空の下を走ってきたから悪かったのか、砂漠の中に呑まれるみたいに、唾が引いて喉が渇いた。その砂が胸の奥に落ち込んで、体が重たくなる。明確だった頭のビジョンが蜃気楼みたく霞んでいった。動かぬ灰色のマンションを見上げて、マイコは――なぜだか、このままエントランスをくぐって、エレベーターに乗って、七階の家まで帰った方がいい気がしてきた。ポケットの中の百二十円をそこの自販機に飲み込ませて、ホット缶のコーンスープでも買って、シュンの待つ我が家へと急いだ方がいいような。きんきんに冷えた足をこたつのなかに突っ込んで、夕方のニュースでも見た方がいい。そうだ。その方がいいに決まっている。
 マイコは歩いて青い自販機の前に立つと、ポケットから百二十円を取り出した。ちゃりん、ちゃりん。『なけなし』を飲み込んだ自販機がヴンヴンと呻り始める。ちゃりん。いつもなら持ち歩かないはずの百二十円。あぁ、どうしてだろう。どうして今日に限って、ドーナツを買って帰ろうなんて贅沢をしようと思ったんだっけ。指を伸ばす、コーンスープの赤く灯った、楕円形のボタンをなぞる。なんでだろう。分からない。分からないけど、何か――
 お釣りのレバーを押して戻して吐き出したお金を取り返して、マイコは走り出した。学校もマンションも背に走り出した。喉が詰まって、なのに白い息がほうほう漏れて、足の先がじんじん痺れる。そう思い始めると、寒い。マフラーも手袋もランドセルの中だろうか。突っ込んだ上履きに押しやられて、底で小さくなっているのだろうか。もしかしたら教室の机の中かもしれない、そうだとしたら最悪だ。
 あぁ。走っていくマイコを、すれ違った人が変な目で見た。あぁ。優柔不断だ。最悪だ。何が入ってるか知れない引き出しなんて開けなければよかった。メロンパン、サクサクのメロンパンの中のふわふわの幸せのことだけを、じっと考えていればよかった。
 新しいパン屋さんは営業していたけれど、別段良い匂いはしなかった。電信柱の上から、一羽のカラスがじっと見ていた。戸を引いてお店に入ると、生ぬるい空気がマイコを包んだ。外から見たのと違わない、こぢんまりした狭いお店だ。カウンターには誰もいない、ごめんください、マイコは小さな声で言ってみた。誰も出てこない。レジの横には、黒いネコの置物が、黄色い目を光らせてマイコのほうを窺っている。ごめんくださぁい! 叫ぶと、はいはぁい、と返事が聞こえた。女の人の声じゃない。
 お金を包んだ拳を固く握りしめて、お店の中を見渡した。サンドイッチ。クロワッサン。ひよこを模した丸いパン。その空間で、マイコは『異物』みたいだった。マイコという存在だけが、てんで場違いのように思えた。早く帰りたくって足がうずく。レジ皿に百二十円置いて、メロンパンだけ手に持って、さっさと出ていってもいいのだろうか。振り返ると、お目当てのメロンパンは、ガラスを挟んで道路に面したショーケースに、規則正しく並んでいた。メロンパンだけじゃなく、どのパンも整然と置いてあった。まるで、はみだしものに用はない、とでも言うように。
 どくん、どくんと、心臓は妙な音を立てていた。メロンパンに近付くと、その奥のガラスの向こうに、さっと黒い影がやってきた。カラスだ。足を一歩引く。カラスはガァガァ鳴いて、見た感じよりずっと大きな、真っ黒な翼を震わせて、爪と、鋭いくちばしで、ぎらぎら光る目で、ガラスをへだてたマイコに襲いかかろうとした、マイコは驚いて、キャアッ、と目を瞑って、身を縮めた次の瞬間、

「――大丈夫?」

 そんな声が降ってきて、ふわりと何かに包まれて、マイコは目を開けた。
 目の前に、知らない人がいた。マイコと同学年か、少し上くらいの男の子だった。なのに、タキシードをきちっと着こなしていて、黒い蝶ネクタイをつけている。ハットまでかっこよく被りこなしている。そして、背中から黒い翼が生えている。
 いつのまにかうずくまっていたらしいマイコの前でその翼を折りたたむと、タキシードの男の子はひどく悲しそうな顔をした。
「すまなかった。仲間がひどいことをしたんだ」
 あまりにもぼうっとしすぎて、その意味がよく理解できず、とにかく謝られているということだけ把握して、なんとかマイコは首を振った。ぷるぷるとばね付きの人形みたいに頭を揺らしているマイコに、男の子はやっぱり悲しそうな顔をした。
「少し動揺しているみたいだね。うちで休んでいくといい」
「う、う?」
 マイコはそれしか言えず、けれどその返事を男の子は好意的に受け取ったようで、へたっているマイコの手首を取ると、ぐいっと引き上げた。
 立たされて、手を引かれて、マイコは男の子と歩き始めた。
 静かで可愛らしい町並みを二人はしばらく歩いた。不揃いのデザインが施された茶色の石畳の歩道に沿って、オレンジや黄色を基調にした、おもちゃみたいな家がぽつぽつと並んでいる。つるつるの屋根から伸びた煙突が、モクモクと白い煙を吐いている。あれ、なんだか『へんてこ』だ。マイコの住んでいるあたりに、こんな通りはなかったはず。ここはどこだろう。パン屋さんは、どこへ行ったんだろう。ようよう落ち着いてきて隣を見ると、真っ黒の翼は町にちょっとだけ浮いていた。目があって、彼はニコリと返してきた。
「君の名前は?」
「えっと、木村マイコ」
「マイコちゃんか。なるほど」
「あなたは――カラス?」
 自分でもおかしいなと思ったその問いに、彼はやっぱりニコリと笑った。
「それ以外の何かに見える?」
 マイコと彼――カラスとは、てくてくてくと、『へんてこタウン』を歩いていく。
 温かい手のひらに連れられて最初はどきどきしていたけれど、そのどきどきがびくびくのどきどきからわくわくのどきどきへと変わるまで、それほど時間はいらなかった。
 だってここは、マイコが毎日朝昼晩、思い描いているような世界なのだ。星は赤色、雲は青、太陽と月が一緒に踊っているピンク色の空の中を、一隻の宇宙船が金平糖を吐きながら渡っていく。茶色の石畳の上を、金色の魚が泳いでいる。こんもり茂った並木からは、ドーナツの木の実が下がっている。横断歩道の白線はコンベアみたく流れて、向こう岸までマイコたちを連れて行ってくれる。こんなのまるで妄想の中。あんまりにも嬉しくって、首やら目やらをぶんぶん振って、マイコはずんずん歩いていく。カラスもずんずんついてくる。
 ライオンのえりまきをしたトラ猫が、ワンワン言いながら逃げていく。薬局前のカエルの置物が、素敵な歌声を響かせている。ちょっと人のおうちの窓を覗くと、真っ白と真っ黒の大きな大きなドラゴンたちが、こたつに潜って昼寝している。そんなことしたって、こらこら、とたしなめてくる大人たちはだぁれもいない。ふふぅ、と笑いがこみあげて両手で口を押さえていると、目の前に川が現れた。橋も小舟もない。川面を覗きこんだ瞬間、ふわっと立ち込めた匂いには、思わず声を上げてしまった。
「コーンスープだ! おいしそう!」
 コーンスープだねぇ、とカラスも笑った――そうなのだ、濃い黄色の川の中に、つぶつぶコーンが浮かんでいるのだ。どろどろ流れる水面には、自分の顔も映らない。すごいすごい、マイコは思わず手を叩いた。これならお湯を沸かさずとも、毎日毎日飲み放題だ。でも、川の中に入ったらおいしくっておいしくって、ついつい溺れて死んじゃうかも。それを想像したら、やっぱり笑いが漏れた。ぼくの家はこの向こうだ、カラスは得意そうに言った。
「ねぇカラス、分かったよ」
「ほう、何が分かった?」
「これは夢。わたしは今、夢の中であなたといるの」
「なるほど。でもどうして?」
 こんなへんちくりんな話をしているときに、どうして、なんて聞き返されたことなんて今まで無くて、マイコはちょっと熱くなってしまう。
「だって、コーンスープの川なんて夢の中にはありえても、現実にはありえないもん。現実ではね、水の色は透明。汚れてても緑。泳いでいるのはコーンじゃなくて魚だもの。それに――」
 ひゃあっとマイコは悲鳴を上げた。急にマイコを、お姫様だっこの形にカラスは抱え込んで――黒い翼を広げると、軽々空へ飛び立ったのだ。
 はためきの音、流れる景色、ひたひた頬に当たる風。カラスの胸にぴったり頬をつけて、マイコはカラスの顔を見ていた。まっすぐ前を向いているカラスの黒々した瞳に、吸い込まれそうとマイコは思う。自分のかカラスのか分からない心臓の音が、どくどく耳に届いてくる。自分を守ってくれた彼。手を取り歩いてくれる彼。マイコの話を馬鹿にせず、真剣に聞こうとしてくれる彼。お姫様だっこに憧れるような、そんな年頃の女の子ではマイコはなかったけれど――すとんと着地して、カラスはマイコの顔を覗きこむと、それに? と続きを促してきた。
「それに、人間は空を飛ばないよ。そんなの童話の世界だけ」
 聞いて、カラスはふっと微笑んだ。そういうちょっと大人びた顔が、さまになるような男の子だった。
 もう一度手を取り合って、二人はコーンスープの川を背に歩きだす。
「どうしてそうだと言い切れる?」
「……どういうこと?」
「ない、ということを証明するのは、途方もなく難しいことだ。コーンスープが流れてる川をマイコが見たことがないからって、それが世界中どこを探してもないとは言い切れない。空を飛ぶ人を誰しも知らなかったからって、絶対に存在しないとは言えないだろう。世界の隅々までのことは、神様だって知らないんだから。ありえないと言うことは、どこまでいってもありえない」
 ここがぼくの家、と彼が指し示した家の前で、じゃあ、とマイコは、温かい手を握り返した。
「魔法が使える人間も、もしかしたらいるかもしれない?」
 カラスはそんなマイコの横で、右手を高く掲げると、パチン、と指を鳴らした。
 触れてもいないドアの取っ手が、その瞬間くるりと回った。ススス、と手前にドアが開いた。中には誰もいない。カラスはマイコの背中を押して、招き入れるようにそこを潜った。
「ゼロであるとは、言い切れないね」
 カラスはそう言って肩をすくめた。
 へんてこタウンとは打って変わって、カラスの家は薄暗かった。でも、焼き立てパンみたいなお腹の底をくすぐる匂いが、玄関にまで充満していた。
 ここからは土足禁止だよ、と止められたところで靴を脱ぐと、マイコはランドセルから学校の上履きを取り出した。足の甲のゴム部分に大きく『4の2』と書かれているのを見て、カラスは目を丸くする。
「マイコは四年生?」
「うん」
「へぇ、そうか! 年下かと思ってた。ほら、マイコは背が低いから」
 そういうふうにからかわれるのは、別に嫌いではない。カラスがどこからかスリッパを取り出して来るのを、マイコは部屋の奥をそわそわ覗きこみながら待っていた。居間の方も、薄暗い。誰と住んでいるのだろうか。
「上履きなんて、よく持っていたね」
 こちらへどうぞ、と案内される方へと、マイコは歩いていく。長い長い長い廊下。ゴム底の擦り切れたマイコの上履きは、ぺたぺたと音を立てる。古い色合いの床板が、踏むたびにキシキシ鳴いている。
「持って帰らないと無くなっちゃうんだもん。自分のことは、自分で守らなくちゃ。学校は毎日が戦争みたい」
「戦争。それは、大変だ」
 神妙に呟いたカラスの横顔が、同じ間隔で並んでいるランプの明かりに浮き沈みする。
 急に気持ちが沈んでいくとき、マイコはそれを止められない。さっきまで浮ついていた体が、心の底の、真っ暗な茂みの沼の中へ、ずぶずぶずぶと嵌まっていく。瞬きをすると、まぶたの裏に張り付いた、重くて硬くて冷たい校舎が、マイコの行く手に見え隠れする。
 さっきまで握っていた隣の手のひらを、もう一度黙って取る。隣も握り返してくる。温かい。カラスの左手は、マイコの欲しい温かさを、きちんと理解しているみたいだ。
 十二個目のランプの前を通ったとき、ふとマイコは首を回して、あっと声を上げた。
「カラス、怪我してる」
 マイコの視線の方を気にして、カラスは畳んだ翼を震わせた。薄ら明かりに照らされたカラスの左翼が、赤黒い血を滲ませている。
 どこで怪我したの、と問うても、どうってことないよ、とカラスは微笑むだけだった。どうってことないなんてこと、マイコにとってはあるはずない。それはだって見るからに、じくじく痛むに違いないのだ。夢みたいな世界にいるのに、カラスはそんな痛みをこらえて、マイコを抱えて飛んだというのか。手を引いて歩き出したカラスをしつこいくらいに問いただすと、困った顔でカラスはこれだけ言った。
「……ぼくも戦っているんだ」
 カラスも戦っている。その答えは、不安を駆り立てるものでもあって、それと同じだけ、『戦っている』のがマイコだけではないのだと、そんな安心感も与えてくれた。
「わたし、ばんそうこう持ってる」
「そんなものくれるのかい。ぼくなんかに」
 ランドセルのポケットに忍ばせていたばんそうこうは、傷には少し小さかった。どう貼ろうか考えあぐねて、斜めにそれを貼りつけた途端に、ばんそうこうは緑色の光になって、あっという間に弾けてしまった。するとカラスの怪我は、立ちどころに治ってしまったのだ。あたかもマイコが、魔法でも使ったかのように。
「ありがとう、マイコ」
 名前を呼ばれるのはなんだか照れくさくて、マイコはちょっとうつむいてしまった。
 ようやくたどり着いた部屋は広間で、奥にはカウンターとキッチンが見えた。落ち着いた照明のアンティークなお部屋の真ん中で、ヨーロピアンな椅子を示されて、ハーブティーでも入れるからそこに座っていてとカラスは言った。きょろきょろお部屋を見回しながら、マイコは大人しく待っていた。パンもお菓子も見当たらないけれど、優しい甘い素敵な香りが、お部屋いっぱいに広がっている。古いミシンの置物、ダイヤル式の黒電話。焦げ茶のイーゼルに立てられた女の人の絵。主張の控えめな観葉植物。落ち着いた色合いのキルトが、木調の壁に掛かってる。
 そわそわするほどおしゃれな空間。けれども、マイコの夢見る『へんてこタウン』とは、どうにも趣きが違いすぎる。ここは本当に、わたしの夢の中? ――そのとき、ひとつ異彩を放っている大きなものが目に入って、マイコは完全に思考停止した。
 それは、毎朝毎晩見かけていた、青い自動販売機。
 ――どぅん、と心臓が驚いたような音を立てた。立ち上がると、ぎこっと椅子が鳴った。一歩二歩歩くたびに、しゃれた家具や、小物やキッチンが、ミシンが電話が草がキルトが絵画の中の見慣れぬ女が、じっとマイコを見つめていた。薄暗い空間に、無機質な電灯を落とす、汚れた自動販売機。陳列された黄色い筒。唾を呑む。けれども喉がつっかえている。赤く灯った楕円のボタン。さっきなぞったそのボタン。もう一度そこに触れようと、マイコは吸い寄せられるように、甘い言葉に誘われるように、その赤色へと指を伸ばして――誰かがそっと、頭を撫でた。
「行ってみる?」
 自販機の横、やはり長く伸びた廊下を指して、カラスは言った。マイコは浅く頷いた。

 奥にはエレベーターがあって、二人はそれに乗り込んだ。
 エレベーターには正常なボタンが無くて、『7』だけ置き忘れたみたいにひっついていた。ぐんぐん上昇する箱の中で、二人は黙っていた。チン、と開いた扉の向こうに、慣れたはずの景色が広がっていた。マイコはカラスの先を歩いた。
 表札のかかっていない一室の前に二人は止まった。ランドセルのいつもの場所からいつもの鍵を取り出すと、その鍵穴にマイコはそいつを捻じ込んだ。
 いつものようで、なんだか少し重く感じるドアを開いて、マイコは驚いた。――驚いたのに、なのにどこかで、そうだと分かっていたような気もした。
 そこに、マイコの家はなかった。誰か別の住人の家でも、もちろんなかった。そこに待っていたのは、ただただ白い壁と、床と、高く高く高く聳える、大きな大きな『棚』であった。
 それが記憶の引き出しであると、マイコにはすぐに分かった。だって自分のことなのだ。大きさも色も形もてんでばらばらの引き出しが、勝手に開いたり閉まったり、中身を吐き出したり吸い込んだりしている。収まりのつかなかったがらくたが、棚の足元に散らばっている。何重にも鉄のチェーンが巻きつけられて、南京錠の掛かったやつが、開けてほしい、開けてほしいと言わんばかりに、呻いて細かく震えている。そんなひどい引き出しでも、それでも、自分のことだから、そうだと分からないはずがない。
 白い部屋に、黒い黒い影を落とす、マイコの巨大な記憶の引き出し。
 シュン、どこ、マイコはそう叫んだ。自分の家のドアを開けたのだから、弟のシュンは部屋のどこかにいるはずなのだ。どうしようもなく嫌な予感がして、マイコは思わず部屋の中に駆け込んで、がらくたの類を跳ね除け始めた。シュン、出てきて、言いながらかき分ける、まだぴかぴかのランドセル、真っ白な上履き、リコーダー。頭の上に降ってきた、あの日の黒板消し。リビングの花瓶の萎れた花。空いたビールの缶……。
 引き出しの裏から飛び出してきた何かを見て、マイコは弟を呼ぶのをやめた。チョロチョロと走ってきたのは、見覚えのない子リスだった。子リスはマイコの足元に立つと、膨らんだ片頬を両手で押して、器用に何かを吐き出した。そして、座り込み、伸ばしたマイコの手の上に、唾液に濡れたそれを渡した。
 それは、おもちゃのような小さな鍵だった。
「……これ、なに? これはいらないよ」
 戸惑うマイコの黒い瞳を、子リスの相貌も見つめていた。まっすぐ視線をぶつけてくる子リスに、マイコは気持ちが負けそうになる。ビーズのような子リスの目玉が、小さなマイコを映している。リスはすくっと立ち上がった。そして言った。
「おくびょうもの」

 ――世界が崩れ出した。歪みヒビ入った床に立っていられなくなると、後ろからカラスがマイコを抱き上げた。傾いた棚から滑り出した無数の引き出しが崩落し、二人と子リスに襲い掛かった。カラスは翼をたたみ、マイコを抱えたまま急降下していく。対して子リスは、突然長い翼を広げ、崩壊する世界を高く飛び立っていくではないか。
「シュン待って! シュン!」
 呼べど、子リスは振り返ることを知らない。
 すとんと着地して、するとそこはさっきの椅子の横だった。カラスの家の家具と小物は、長すぎる地震みたいな震動にぐらぐら揺れていた。靴を履いて、早く、そうカラスが急かすのにマイコは慌てて踵を返し、元来た廊下を今度は一人駆け抜けた。狂ったランプの点滅する長い廊下を、無我夢中で駆け抜けた。暗闇の中で上履きを脱ぎ捨て、なんとか運動靴に履き替えたところで、追いかけてきたカラスに腕を掴まれ二人は玄関を飛び出した。
「まだ上履きがっ」
「そんなのは後!」
 驚いたことに『へんてこタウン』は、どこからか湧き上がってきた黄色い流砂に今にも飲み込まれようとしていた。二人の駆けていた通りの石畳も、じきに砂に覆われた。足がとられて走りづらい。カラスは右手を口元へやって、ぴゅうっ、と指笛を吹いた。途端、倒れかけていた木々の陰から、白い塊が飛び出してきた。
「マル!」
 見覚えのある、綿あめみたいなマルチーズにマイコは叫んで――それからマイコはカラスの手で、その背中に乗せられた。マイコがしがみついた、マイコの知っている五倍くらいの大きさのマルに、マイコを頼む、カラスはそう声を掛けた。
 翼を煽ってカラスは空へ飛び立った。その背を追って、おもちゃの家が沈んでいく砂漠の上を、マルは風のように疾走した。
 淡いピンク色だった空が、だんだん赤らんでいっている。星も雲も金平糖を吐く宇宙船もそこにはない。ただ、カラスの目指すところ、赤らんだ空の一番赤い場所に、真っ黒い巨大な影が暴れている。黄色の目を光らせている。マイコが怖気づいたところで、黒い怪物は泡のような砲丸のようなものをカラスへと放った。
「カラス危ない!」
 マイコの声に応えるように、カラスは翼を振るった。両翼が生み出した黒い衝撃波が、敵の攻撃を打ち崩していく。崩されたその砂塵がマイコとマルにも襲い掛かる。急にうっと気分が悪くなって、マイコはマルの首元に顔を埋める。ふいに振り返ったカラスがマイコの異常に顔色を変えた瞬間、鋭い砲丸攻撃がその翼にぶち当たった。
 カラスの声にマイコが顔を上げた時には、もう遅かった。カラスはぐるぐると回りながら、砂漠へと無防備に急落していく。その光景にぞっとしたばかりに、怪物から放たれたものがマイコとマルへと差し迫っていたことに一瞬気づくのが遅れてしまった。マイコは背に伏せ、マルは必死にそれを避けようとしたが、無駄だった。流れてきた黒い泡のひとつが、マイコの体を包み込んだ。

『――マイちゃんはちょっとだけ変ね』
 聞こえてきたのは、声だった。保健室の、先生の声だ。あの鼻にかかった声、教室に行けないマイコを見た、呆れたようなその眼差し。

 あぁ、なんだ。息が苦しい。次々砲撃がマイコを襲う。忘れかけてた音と色とが襲ってくる。落ちゆくカラスを臨む視界が、暗く明るく塗り変わっていく。

『――誰ですか、木村さんの上履きを隠したのは』
『――自分でやったんじゃねぇのかよ』
 小柴先生の声と、終わらない帰りの会に苛立った、クラスメイトの囁く声。

 マルのキャンキャン吠える声。力ないカラスの翼が近づいてくる。傷まみれの翼。ばんそうこうは足りるだろうか。間に合うだろうか、せめて地面にぶつかる前に。

 ――とぼとぼと歩く帰り道。追い越していく、無数のランドセル。連れ立って綺麗な一軒家に入っていく、四年の同級生たち。
 精肉店で買って帰る、ちょっと冷めたコロッケ。あそこのお宅大変なのよ、リコンしたんですって、お姉ちゃんの方も気を病んだというか、少しおかしくなったみたいで――耳を塞いでも流れ込んでくるご近所さんの噂話。
 マンションの七階のドアを開ける。以前より、電話していることが多くなったお母さん。受話器を置いて、たまにこんなことを言うお母さん。
『魔法が使えたらよかったのにね、幸せな頃に戻れる魔法が』
 夕暮れ、薄暗いリビングで、白く光るテレビ画面を、頬杖をついて眺めるシュン。
『オネーチャン、学校、たのしい?』


――――全部、全部、引き出しの奥底に無理に押し込んだ、目を背けていた記憶たち。

「カラス!」
 滑り込んだマルの背中に、どさっ、とカラスは落下した。左の翼が歪んでいる。マイコが触れるだけで、うっ、とカラスは呻き声をあげる。目の前に、記憶を放つ怪物は、いまだに黒く佇んでいる。マイコはカラスの手を握る。温かい。欲しかった温かみを、カラスの手はマイコにくれる。なのに、もう、どうしていいのか分からない。
「カラス、いつも一人で戦っていたの?」
「ぼくは都合のいい存在であればよかった」
 カラスはそう唸った。そんな声をかき消すようにマイコは続けた。
「カラスはわたしのために、わたしが夢ばっかり見て、妄想ばっかりして、いろんなことから逃げてるときに、ずっと戦ってくれていたの?」
「ぼくは君の、君にとっての、都合のいい存在でなければならなかった」
 そんなのってない、そう言ってマイコはカラスの体を抱きしめる。受け止められない思い出に向かって、自分の代わりに傷ついていた、黒い翼を抱きしめる。目から涙がはらはらこぼれる。こぼれて、黒塗りの翼に浸み込んでいく。
「だってわたしのことなんだよ!」


 ――世界が明るみを増していく。
 砂が消えていく。『へんてこ』なものたちも消えていく。赤かった、ピンクだったマイコの空が、真っ白な光を帯びていく。マイコとマルとマイコのカラスと、マイコの記憶の怪物だけが、マイコの視界を描いていく。
 自らの中に受け入れていく記憶が、後ろ盾になっていく。剣になり、弓になり、鋭い槍になっていく。力が湧き上がってくる。汗ばむほどに熱い手が、握り返してくる。カラスは翼を広げると、お決まりの『ニコリ』をマイコに向ける。
「……君は加湿器みたいな人だ」
 カラスの紡ぐ音が、世界のそれだけになっていく。
「君の声は、ぼくの瞳に潤いをくれる」
「君の言葉は、ぼくの翼をつややかにする」
「君の涙は――ぼくに、飛び立つ力をくれる!」
 強くはばたき、カラスはマルの背を発った。カラスの翼の巻き起こす旋風が、マイコの気持ちを扇動し、怪物へ向かっていくマルの全身の躍動が、マイコの心を高ぶらせ。消えていくコーンスープの川の、黄色く浮かぶコーンの上を、蹴りつけ、乗り越え、飛び越えて、彼女らは力いっぱい猛進していく。すっと眼前をよぎったものは、あのときの翼付きの子リスだった。子リスにかける上手な言葉が見つからなくて、マイコは奥歯を噛みしめる。悔しくて、情けなくって、なのにびっくりするほどに、体が前を向いている。
 子リスはマイコの肩に乗り、チチッと鳴いた。黒々した目が、マイコを映した。マイコは――その背に畳んだ白い翼を広げると、カラスのそれに習うように、マルの背中を飛び立った。
 風が髪を薙ぎ頬を打つ。頭の中が明るくクリアになっていく。急速に近づいてくる真っ黒い影は、もはや怪物の形ではない。マイコの一部になるはずのもの。目を背け、悲しい思いをさせていたもの。マイコが、手を伸ばすべきもの。
 カラスの左手が、マイコの右手を掴んだ。きつくそれらを握り合って、二人は飛翔した。高く、高く、高く。そこに黒く広がっている、太陽みたいな輝きの中へ。目を合わせ、呼吸を合わせて、二人は握った手と手を伸ばす。伸ばし、怖くない、怖くない、心の中で呪文のように唱えながら、黒い渦の真ん中へと、二人の腕が吸い込まれていく――


 そのあと、甘い香りがして。
 空から雪か花びらみたいに、メロンパンが降ってきた。

 降り積もる飴玉みたいなメロンパンの中を、マイコはさくさくかき分けた。その次は、へたっぴの積み木みたいなメロンパントンネルの中を、腰を屈めてくぐっていく。唾は出ず、不思議とお腹も鳴らなかったけれど、サクサクの中のふわふわの幸せが、そのあたりには詰まっていた。
 その先にあったものは、なんてことはない、小さな小さな宝箱だった。
 マイコは少し拍子抜けしてカラスを見た。世界はもう完全に真っ白になっていて、マイコの目には、彼と、その宝箱しか映らない。マイコがぼうっとしているので、カラスはその箱を手に取って、マイコへと手渡した。
「マイコはもう、持ってるよ? その宝箱の鍵を」
 そう言われて、握りしめていたこぶしをひらくと、子リスにもらったおもちゃの鍵が、ちょんと手のひらに乗っていた。
 鍵穴に差し込むと、おもちゃの鍵は容易に回った。かちっ、と音はしたけれど、それを開くのはなんだか怖くて、マイコはそっと視線を移す。君のことだろう、とカラスは笑った。その柔らかい笑い方に、マイコもちょっと気が弛んだ。
 少しずつ開けようと思って手をかけると、わずかの隙間が生まれた途端に、箱の中から、虹色の糸のような細い光が、するすると外へ流れ出した。
 力が抜けていくように、マイコと、マイコをふんわり抱きしめたカラスとは、その光の帯を見ながらゆっくりゆっくり落ちていった。じんわり回りながら下へ、下へ流れていく二人の傍を、メロンパンがふわふわ舞っていた。温かくて、せつない気持ちで、鼓動は静かでも胸が苦しくなった。両手で口元を覆っても、目だけはマイコは、その光からそらさなかった。
 光がそこに描いたのは、ちっちゃなマイコと、まだ赤ちゃんのシュンと、二人を愛おしそうに抱きしめた男の人が笑っている、一枚の古い写真だった。
 降りしきるメロンパンの姿に隠れて、だんだんそれが遠ざかっていく。変、とマイコは小さく笑う。だって、嬉しいのに、こんなにも涙がでる。さっきだって、本当はそうだったのだ。自分のために戦っていたカラスのことが悲しくて、苦しくて、なのにすぅごく温かくて。
「帰らなきゃ。思い出したの」
「ほう。聞かせてごらん」
 マイコは頷いて、目を閉じた。涙の滴がほっぺをつぅと伝って、顎の先からぽたぽた落ちた。
「今日ね、お父さんが帰ってくるの。お父さんに会うの、本当に、本当に久しぶりで……学校のこととか、うまく話せるか、怖いんだけど……」
 ほっぺたをカラスの指が拭って、ふふっとマイコは笑顔をこぼす。
「メロンパンをね、買って帰るんだ。お小遣いあんまりないから、一個しか買えないんだけど、とってもおいしいメロンパンでね。よっつにちぎって、お父さんとお母さんと、シュンとわたし、みんなで分けて食べるの。……怖いけど、楽しみ」
 それは楽しみだ、カラスの優しい声が、頭の上から注いでくる。
 目を開け、差し出された透明なガラス玉を、マイコは受け取った。きっとそれは、こぼした涙の結晶だ。手のひらに乗せていると、ガラス玉は、すうっと薄らんでマイコの胸へと吸い込まれていった。
「今日のことは、引き出しなんかじゃなく、宝箱にしまっておいて」
 ささやくようなカラスの言葉に、うん、とマイコは頷いた。
 腕が離れ、手のひらが離れ、名残惜しげに指先が離れて、さなぎから旅立つ蝶のように、マイコはカラスから遠ざかっていく。また会える、と問う声に、カラスはしっかり頷いた。
「もちろん。マイコが望むなら、いつだってぼくらはまた会えるさ」
 その刹那、花吹雪のようにメロンパンが舞いおどって、カラスの姿は見えなくなった。


 *


 ひんやりした空気にぶるっと体を震わせて、はたとマイコは目を覚ました。
 きちんと閉めたはずの入り口のドアが全開になって、そこから外気がびゅうびゅう流れ込んでいる。やめろ、あっちいけ、と叫ぶ男の子の声が聞こえて、なんだなんだ、とマイコは座り込んだまま首を伸ばした。陳列棚の影に隠れて、お店の目の前で竹ぼうきを振り回していたのは、マイコと同学年か、少し上くらいの男の子だった。なのに――タキシードを着ていない。黒い蝶ネクタイもつけていない。ハットまでかっこよく被りこなしてなんていない。そして、背中から黒い翼が生えている、なんてことはもちろんない。
 けれども、そっくりだ。マイコはこれでもかってほど目を大きく丸くする。そこで、バタバタ暴れているカラスを追い払おうとしているのは、うちの学校の体操服を着た、『カラス』そっくりの男の子だった。
 さっきマイコを驚かせたカラスがようやく去っていってから、ふーっと息をつきながら男の子は振り返った。むすっとした顔も、あ、いやえーっとこの体操服はさたまたまちょっと試しに着てて、なんて言い訳する立ち振る舞いも、ちっとも『カラス』ではないけれど。顔も背丈も、写したみたいにそっくりだ。マイコはぱちくり瞬きをしながら、えっと、と小さく言葉を落とした。
「……カラス?」
「え? あ、あー……友達なんだ、あいつ。隣町に住んでたのに、おれが引っ越すのにわざわざついてきたみたいなんだよ。……変だろ、カラスが友達なんて」
 あぁ、声まで、あまりにもそっくり。――狭いお店の真ん中にマイコがいつまでもへたりこんでいるので、男の子は照れたようにぼりぼり頭を掻いた。
「何の用? パン買いに来たんじゃないの?」
 でもぶっきらぼうな喋り方は、全然『カラス』じゃない――そこまで考えたところで、やっとマイコは現実世界に戻ってきた。正しくは、戻ってきてる、と実感した。そうだ、ここはメロンパンのパン屋さんだ。メロンパンを買うために、ここまで走ってきたんだった。
「め、メロンパン……」
 それだけなんとか声にして、わたわたとポケットに手を突っ込んで、マイコは百二十円を男の子に手渡した。男の子はそれをしげしげ眺めて、もう片方の手でまた頭をぼりぼり掻いた。
「ごめん、百五十円なんだけど」
「え、うそ」
「うそじゃない。悪いけど、今日から一個百五十円。かあさん、おれが知らない間にめちゃくちゃな値段つけるから」
 だからあと三十円、と男の子は手を出した。ぼっと恥ずかしさがこみ上げて、マイコは耳まで真っ赤になった。なんだか居ても経ってもいられなくなって、やっぱいい、と首を振ると、ほとんど泣きっ面になりながら開きっぱなしのドアをくぐって駆け出した。
 外は相変わらず寒くて、でも体は芯までぽっぽしている。足がもつれて、ランドセルのふたもぼんぼん鳴ってスピードが出ない。おい、と男の子の声がした。無視を決め込んでマイコは走ろうとした。
「おい! 上履き忘れてる!」
 けれど、そこまで言われると、やっぱり立ち止まらざるを得なかった。
 お店の玄関の前で彼が高く掲げているのは、マイコの古臭いゴム底擦り切れ上履きである。いつの間にランドセルから飛び出したのか。もう、恥ずかしい。恥ずかしいったらありゃしない。
「返してよ!」
 別に取られた訳でもないのにそう叫んで、マイコはそこまで駆け戻った。男の子は上履きを高く掲げ、なかなか下ろそうとしない。手を伸ばしてぴょんぴょん跳ねるマイコの反応を、楽しんでいるとしか思えない。
「なに、お前、四年なのな? チビだから年下かと思ったわ」
 足の甲のゴム部分に書いてある『4の2』を見ながら、男の子は嬉しそうな顔で言った。いじわるな奴だ。一端しゃがみ、特大の不意打ちジャンプをして、マイコはそいつから上履きを取り返してやった。
「あ、お、おい」
 急に威勢が悪くなって、男の子はまたマイコへ呼びかける。ふんだ、もう知らない、二度と振り返ってやるもんか、マイコはそんな気持ちで通りをずんずん歩いていく。あ、あ、あのさぁ。男の子の声は、なんだか気恥ずかしさをはらんでいる。
「おれも四年二組なんだけど……明日から」
 さっきの決意はどこへやら、マイコは思わず振り返ってしまった。
 もう一度、まじまじ眺めても。カラスそっくりと言えど、男の子は学校では見覚えのない顔である。クラスメイトどころか、学年にだってこんな顔知らない。へ、とマイコは気の抜けた声を出した。それから、あ、と思い当たるのは、お母さんの噂話。確か、小学生の息子さんが近々引っ越して来るとか、どうとか。
 男の子は見ている方がこっぱずかしくなるようなうろたえた表情で、今度は両手で頭を掻いた。
「だからその……あのさ。算数とか社会とかどこまで進んでるか、よかったら教えてくんない? ……何ならまけてやるからさ、メロンパン」
 ぼうっとして、それでもマイコは頷いていた。
 電信柱の上から二人を眺めていた影は、ひとつ翼をひらめかせると、夢の国へと消えていった。











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とりあえず全部つっこんでみました。