酔って候 ( No.13 )
日時: 2012/01/24 00:00
名前: クーウィ

1


 ねぐらから這い出た時、最初に感じたのは肌寒さだった。
 反射的に片眼を上げて空を拝むも、そこにあったのは予想に反し、何時もと寸分変わりの無い、澄み切った青があるばかり。
 天高く馬肥ゆるとかいう言葉そのまんまの、能天気なまでの秋の空。……けれども一方、毛皮を通して肌に染みて来る空気には、一年分の余所余所しさと嫌厭感が、ウンザリするほど滲み込んでいた。
「そろそろまた冬か……」
 思った事が口を衝いて出る、その事自体にも動かし難い既視感を覚えつつ。俺はかったるい思いを溜息に籠めると、ゆっくりと住処を後にして歩きだした。
 

 物心付いた時から、俺には家族がいなかった。
 何故いないのかは考えた事が無い。事実いなかったし、深く考えるのも馬鹿らしかったから。
 ぬくぬくと森に住んでいるポケモンや、自由にフラフラ飛び回れる羽根の生えた連中なら、「それはおかしい」とか何とか言ってくるかもしれない。だが、『街』に住んでいる俺達の様なポケモンから言えば、そんな甘ったるい感傷に浸っている暇や余裕なぞ、ある訳が無いのである。

 記憶に残っている最古の風景は、ビルとビルの隙間から覗く、目抜き通りの雑踏の様子。どうしてそれが記憶に残っているのかと言うと、痩せ細って小さくなっていた当時の俺が、直後に飛び込んできた食い残しの目立つフライドチキンの残骸で、何とか露命を繋いだからだ。
 人間の臭いがこびり付いた汚らしい鳥の骨に、夢中で武者ぶり付いたガリガリのコジョフー。俺と言うポケモンの、記念すべき出発点である。
 今では街の野生ポケモン達の中でも最も腕が立ち、身軽ではしっこい存在として知られている俺にも、そう言う時代があったってわけだ。

 そんな俺が現在どうやって食ってるかってぇと、これがなかなか洒落たものなのである。
 昔はゴミ漁りなんかで辛うじて凌いでいたが、それもとっくに過去の話。徐々に経験も積んで体が出来てからは、人間相手にかっぱらいもやったが、これはこれで目立ち過ぎて、トレーナー連中に追い回される危険が常に付きまとう。散々に逃げ走り駆けずり回った挙句、追い立てられてドブネズミの如く排水溝に潜り込むのは、如何にも泥臭くて頂けない。
 そこで無事進化も終え、コジョンドとなった俺が選んだのが、力ずくで目当てのものを奪い取るかっぱらいではなく、スマートに獲物を掠め取る、いわゆる掏摸(すり)と言う奴だった。
 実力的には尚の事力ずくが通りやすくなったが、それに頼っていたのではいい加減目立つ格好になったのもあり、本格的に駆除される恐れも無いとは言えない。野良ポケの間でも知られた存在になっていた事だし、何時までも汚い下水道に走り込むよりは、小奇麗にしていた方が格好も付く。
 何より、漸く実力に見合うだけのプライドを保ち、気持ちに余裕を持って生きる事が出来るようになったと言うのが、非常に大きかった。直接食いものを狙うよりもやり甲斐はあったし、『金』と言うものも持って行きどころさえ覚えれば、軽くて嵩張らない分取り回しが良い。
 身なりを整えて出すものを出せば露店の店主ぐらいは動かせたし、路上で憂鬱そうな顔をしている連中に少し多めに持っていけば、それなりの見返りは期待出来た。

 そして、起き出した俺がねぐらにしている排水管の残骸から離れ、今日最初のターゲットとして選んだ相手と言うのが、目下前方で浮付いている、一組の主従と言う訳である。



「うわぁ、凄い……!」
 両脇に控える彼女らの中央で、引率役である少年は、無邪気な歓声を上げた。目の前にそびえる巨大な駅舎に目を輝かしつつ、年相応にはしゃぐそんな主人に釣られてか、反対側に位置する彼女の息子も、浮付いた気持ちを隠す事無く表に出して、周囲に広がるあらゆるものに、好奇の視線を彷徨わせ続けている。
 そんな両者の有り様に、事実上の最年長者でもある彼女は、溜息半分苛立ち半分と言った思いで、そっと軸足を入れ替えつつ肩を回す。物見遊山に来たような雰囲気の両者と違い、常に素早く、それでいて鋭く視線を移動させている彼女には、何処にも『隙』と言うものが無い。
 道行く人間とポケモンの波に向けられるその視線にも、無意識の内に相手の技量を推し量る武芸者としての本能が滲み出ており、淡く険を交えたその目付きは、即座に動き出せるように配慮された立ち姿と相まって、佇んでいる一匹の雌コジョンドに、自然と周囲を俯伏させる、侵し難い威圧感を与えていた。
 それは同行している両者には日常の一部分に過ぎなかったが、多少の心得を持って此方を窺っている招かれざる客人には、この上なく面倒な代物であった。

 しかし、無論彼女は、そんな事など知る由もない。目下の彼女の一番の関心事は、明らかに早きに過ぎた街への到着時刻と、好奇心にうずうずしつつ落ち着きの無い、二人の若者の動向についてであった。
 案の定、傍らに立っている少年は、駅舎の正面に掲げられている大時計と、自らの腕に装着されたCギアのデジタル表示を見比べつつ、首を傾げ始める。
「う〜ん…… ちょっと、早く着き過ぎちゃったな。まだ約束の時間まで、3時間近くもあるよ」
 困(こう)じ果てたようにそう口にした少年の表情が、再び明るくなるのに大した時間はかからない。「まぁ」に続いて吐き出されたその意思表示を、彼女自身は渋い顔で、一方反対側に控える彼女の息子の方は、目を輝かせて受け止める。
「まぁ、じゃあ折角だし、時間が来るまでにどこかへ行ってみよう! スイもサイも、ライモンの街は初めてでしょ? 姉さんからお小遣いも貰ってるし、偶にはゆっくりしようよ」
「何時も頑張って貰ってばかりだからね」と付け加えられると、流石の彼女も何時までも仏頂面でいるわけにもいかず。時を移さずして一行は、ライモンの象徴である中央駅舎を離れ、主流となっている雑踏の波に乗って、東に向かって歩き始めた。



 駅前広場できょろきょろしていた連中が動き出したのは、間もなくの事だった。
 主人だと思われるガキンチョが腕時計を確認した後、俺と同族に当たる二匹の手持ち達に向け、何やらごにょごにょと話しかける。でかい方が不承不承、チビの方が嬉々として、と言った感じで頷くと、彼らの主人は先に立って、商店街が並んでいる東の方角に向けて進み始めた。
 その際、集団の中で最も長身である雌のコジョンドが、発ち際に鋭い一瞥を周囲に投げ掛け、駅舎の傍の植え込みに蹲っている俺の心臓を、薄気味悪く一撫でする。……無論見つかりはしなかったものの、余り良い気分ではない。正直止めて頂きたい。
 一応俺はこの街の野良の中では最強であると自負しているし、それ相応の実力もあると信じている。が、流石にああ言う手合いにちょっかいを出して、まともに立ち合えるとまでは思っていなかった。
 この街は、人間達によるポケモンバトルが盛んなせいだろう。偶に居るのである。逆立ちしても勝てそうにない様な、キチガイじみた戦闘マシーンみたいなのが。今視線の先にいる同族も、多分そう言った連中の一種であろう事は想像に難くない。
 目付きと言い立ち姿と言い、「私強いかんね、手ぇ出したらボコボコの半殺し確定だかんね」っつー感じの主張が、色濃く滲み出ている。恐らく生まれてからずっと、武辺一筋に生きてきたコチコチのバトル屋で間違いないだろう。そこそこ良い顔してるのに、勿体無い話だ。

 普段なら、ああ言う物騒な奴が関わっている的には、手を出さないのが賢明である。無理にリスクを冒さなくとも、ここは天下の大都会。標的になりそうなとっぽい野郎は、ちょっと探せばそこら中にゴロゴロしている。
 けれども今回、俺は敢えて、目の前の連中の後をつけて行く事に決めた。かなりリスキーな相手であるのは間違いなかったが、それに見合っただけの価値はあると踏んだからだ。
 恐らく、懐具合は温かい筈である。……と言うのも、主人に当たるガキの態度はどう見ても御上りさんのそれであったし、浮付いていて微塵も影の無いその様子から見ても、手持ちに不足があるとは思われない。此処の所余り良い収穫に恵まれていなかった俺としては、そろそろ一発当てて、好物をたらふく味わいたいと思っていた矢先だったのだ。
 俺もこう見えて、結構グルメなのである。昔苦労した分、貫禄が付いてからは反って世の中の楽しみや道楽と言うものに敏感になっちまったらしく、今では揚げ物の油がどれぐらい使い回したものかや、素材の鮮度がどんなものかぐらいは察しが付くようになってしまった。『野良ポケモンと言えば残り物』、と言った程度の認識しか持っていない屋台のオヤジ共から上物を召し上げるには、多少は割高の金額が必要になってくるのは説明するまでも無いだろう。

 そして、更にもう一つ。実は俺、大の酒好きなのである。ビールや焼酎、ウォッカにウィスキーまで、『アルコール』と付くものなら何だって構わないほどに、酒の類に目が無いのだ。
 昔、今の俺のねぐらに一緒に住んでたホームレスの泥鰌髭が、しこたま買い込んで来た酒とつまみで良い具合に出来上がっちまってた時、無理矢理缶ビールを押し付けられたのが、そもそもの切っ掛け。それ以来、俺はぐでぐでに酔っ払った時に来る、あの幸せな酩酊感の虜になってしまっていた。
 一杯引っ掛けて酔眼で周囲を見渡すと、自分の心の中がスッキリ晴れて、世の中の全ての事柄が、笑って許せるような気がして来るのである。舌も普段以上に良く回るようになるし、平素なら恐ろしくて出ていけないような場所にも、積極的に踏み出したくなってゆく。別に飲まなくてもやって行けるが、実に愉快な気分にしてくれるあの飲み物は、ある意味俺の生き甲斐の一つとも言えるものであった。
 ところがここ数年の内、人間達の間で何があったのかは知らないが、街角に立っている自動販売機から酒の類が尽く消え失せて、以前のように気軽に手に入れる事が出来なくなってしまっていた。前はコインを何枚か用意すれば造作も無く買えたと言うのに、今ではそれとは別途の手間賃も伴って、顔見知りのルンペン連中を通してでないと、缶ビール一本傾ける事が出来ないのである。起き立ちに感じたあの憂鬱を吹き飛ばす為にも、俺は是非とも久しぶりに、一杯やりたかった。
 俺は主に酒手を稼ぐ事を目当てに、此処で一勝負仕掛けてみる事にしたのである。



 駅前から出発した三者の内、最も小柄なコジョフーのサイは、今や前方を歩いている主人以上に、浮き立つ気持ちを抑えかねていた。
 歩けば歩いただけ珍しいものが目に入るこの街は、修業に明け暮れている普段の生活からは想像も付かないほどに刺激に満ち溢れており、文字通り退屈する暇がない。街に入った当初こそ、謹厳な母親の存在が頭の片隅にこびり付いていたものの、そんな事がどうでも良くなるのに、然したる時間はかからなかった。
 まだ日も昇り切らぬ未明の空の下、シッポウシティの外れにある小さな道場を出発した時には、こんな楽しい余暇が取れようとは、夢にも思ってはいなかった。それだけに、喜びも一入である。
「へぇ……! 最新型の加湿空気清浄機だって。『臭いセンサー及びプラズマクラスター搭載、イオンの力で快適な日々を!』かぁ。なんだか良く分からないけど、すごいね」 
 箱形の機械が沢山並んでいるお店のショーウィンドウの前で、少年が感嘆の声を上げる。無論主人にも良く分からない様な代物が、ポケモンである彼に理解出来よう筈もなかったが、例えアイアントの爪先ほどの知識さえ持ち合わせていなかったにせよ、彼の気分が下向きになる様な事はなかった。『ぷらずまくらすたぁ』でも『いおん』でも、何だって良いじゃないか。別に噛みついてくる訳でもないだろうし。

 そうやってワイワイ騒ぎながら、尚も目抜き通りを進んでいく内。不意に先頭を歩いていた少年が立ち止まると、何やら目を輝かせつつ、前方の空を指差した。
 見上げた先にあったのは、鉄製の籠状の物をぶら下げた、巨大な輪っかの様なもの。機を移さず軌道修正した彼らは、遠くに見えるその奇妙な物体に向け、足取りを速めて進み続ける。
『あそこに見えるのは、何だろう?』 ――期待を込めて弾む足取りで道行く彼には、背後に続いている母親の、不興気な眼差しに気が付くだけの余裕はなかった。



 好き勝手ふらふらしている連中の後をつけ狙いつつ、俺はなかなか手出しが出来ない事に、若干の苛立ちを覚えていた。
 大まかな流れは、当初の想定通り。ガキンチョ二匹はどうにもならない位に隙だらけで、唯一あのコジョンドだけが、当面の障害として立ちはだかっている格好である。
 傍から見る限り、チビのコジョフーの方も足運びや反射神経自体は悪くは無く、年の端の割にはそこそこ出来そうな雰囲気ではあったが、やはりそこはガキの哀しさ。見るもの全てに心を奪われ、主人共々きゃいきゃい騒いでいるばかりで、例え真後ろから髭を引っ張りに行ったとしても、絶対に仕損じる事は無いだろう。
 それに比べると、両者の後ろに影のように付き従っている同族の方は、兎に角薄気味悪いほどに死角が無かった。常に黙りこくって歩を進めているばかりで、必要以上に周りに気を取られる事も無く。時折周囲を鋭い目付きで睥睨しては、その度に物陰に避難している、俺の寿命を削り取っていく。止めろ。
 一度なんかは、ここぞとばかりに忍び寄って行った刹那、まさにジャストタイミングで振り向かれて、もう少しで叩き殺されるとこだった。咄嗟に近くにいたオッサンの傍に寄り添い、手持ちのふりをして事なきを得たが、正直生きた心地はしなかった。……何となく胡散臭そうな目で見られた様な気はしたが、思い過ごしだと信じたい。
 取りあえずその時は難を逃れた訳だが、もうこれで同じ手は使えなくなった。腹いせにケータイに向けてがなり立てているその中年サラリーマンの尻ポケットから紙入れを抜いて、中身を確認した後でゴミ箱にinしてやったのは余談である。スリの俺が言うのもなんだが、耳障りだから余所でやれっての。財布の中も如何わしげな写真入り名刺ぐらいしか入ってねぇし。
 そうやって俺が脂ぎった親父と戯れている間、連中は電機屋の店先で屯しつつ、機械の箱の群れにうつつを抜かしている。店先を通り過ぎる際、ついでにウィンドウの中を覗いてみると、箱の列線の傍には『空気清浄機・加湿器』の文字。カシツキぐらい俺の住処にもあるっつーの。野晒しになってたのを昔の同居人が拾って来ただけだから、別に動く訳じゃないけれども。

 やがてそうこうしている内、不意に進路を変えたターゲットは、そのまま街の外れにある、遊園地の方へと向かい始めた。
 派手なアーチと街路樹の並木を抜け、躊躇いもなく中へと入って行く連中に続いて、俺も偶々同じ方角に向かっていた二組みの家族連れに紛れ、何食わぬ顔で敷地内に踏み込む。互いが互いのポケモンだと思ってちらちらと視線を向けて来る彼らを尻目に、ちょっと気取って大型の花壇を一つ飛び越えてやると、興味深げに見つめて来ていたガキ共が、揃ってはしゃぎつつ歓声を上げた。
 普段ならチラリと振り返って、格好付けて見せてやるのも悪かねぇ所だが、生憎今の俺は忙しい。案の定前方に視線を戻すと、追いかけていた連中は屋台に寄って、呑気にたこ焼きなんぞ頼んでやがる。
 チビ助コジョフーが受け取っているのは、立ち昇る白い湯気も眩しい、アツアツのチーズが乗っかった一品。物珍しげに楊枝をつまみ、嬉しげに頬張っているその様子に、未だ朝飯すら食ってない俺の腹が、虚ろな音色を響かせる。
 隣にいる主人の方は、受け取った自分の食いブチを少しでも冷まして置こうと口を尖らせており、その吹き掛けられた息によって煽られた削り鰹が、忸怩たる思いで見つめる此方の鼻の頭に、得も言えぬ様な香ばしい匂いを運んで来る。
 降って湧いたこの狼藉に、俺はますます逆上しつついきり立ち、戦意を燃え立たせる訳なのであるが――この期に及んでも例によって、空気の読めない同族野郎が行く手を阻む。主人に勧められるも首を横に振った雌コジョンドは、相も変わらず険を交えた表情で、ジロリと周囲を一亘り見回した後、己の前でたこ焼きを食べている、小さな同族に視線を戻す。
 ……何か当初よりも更に目付きが厳しく、ご機嫌斜めになっているように見えるのは、僕の気のせいで御座いましょうか?



 たっぷりの花鰹と揚げ玉が乗った、大粒のたこ焼きを頬張りつつ。少年は次の予定を定める為に、つまんだ楊枝を次の一個に突き立てて置いて、腕に装着したCギアを覗き見た。
 デジタル表示の文字盤は、現在午後1時を回った所。約束されている時刻まで、まだ1時間以上あった。
 ホッと一息吐いた彼の面上に浮かんだのは、勿論零れる様な笑み。傍らに控えている二匹のポケモンに対し、まだまだ時間が余っている事を告げた後、彼はもう一度爪楊枝を手に取ると、食べ良い具合に冷めて来たたこ焼きの更に奥に向け、その切っ先を潜り込ませる。
 手にした白樺の木片が、起点となる堅い蛸の身をしっかりと捉えたのを確認すると、鰹節が上面を覆い隠しているそれをゆっくりと持ちあげ、一口に平らげる。最初の一個で火傷した箇所が少し痛んだが、揚げ玉の歯触りと甘辛く濃厚なたれの味わい、そして主役とも言うべき蛸の切り身の噛み応えが織り成すそれは、そう簡単に飽きが来るようなものではない。
 満足げな表情でトレイの上蓋を閉じた少年は、続いて同じ様に食べるのに夢中になっているパートナーと、此方は中々打ち解けてくれず、何時も通りの雰囲気のままで付いて来ている武術ポケモンに、次なる目的地を指し示した。
 再び動き出した彼らの行く手には、ここに来る際目印となった、あの巨大な観覧車が鎮座している。

「特定のポケモンについてはお断りさせて頂いておりますが、それ以外のポケモンでしたら、重量制限内なら問題ないですよ」
 一緒に乗れるのかと言う少年の質問に対し、係員の男性は笑顔で答える。念の為、特定のポケモンについて尋ねてみたところ、ダストダスやベトベトン、スカタンクの様な、色々な意味で密閉空間にはそぐわない種族が該当するのだと言う。それなら、格別問題は無いだろう。
「原則的に二人乗りですが、小柄なポケモンやお子様連れであらば、多少の超過は大丈夫です。ごゆっくりお楽しみください」
「ありがとうございます! ……だって、サイ、スイ! 大丈夫みたいだし、折角だから乗って行こうよ」
 振り返って声をかけると、二匹のポケモンはそれぞれの反応で、彼に対して意思を示す。……やはり、母親であるコジョンドのスイは、嬉しそうに踊り上がる息子と違って、あまり気乗りがしない様子だった。
 元々彼らがこの街に来たのは、彼女と言うポケモンの情報を、バトルサブウェイの対戦用システムデータに加えたいと言う申し出が、サブウェイの運営側からなされた為であった。言ってみれば、彼女にとっては今日の行程もその内容も、ある意味修行の一環に他ならないのである。
 どうやら謹厳な性格のスイには、今の様な物見遊山に等しい時間の潰し方は、それほど好ましいものではないらしい。少なくとも、そこまでは経験未熟な少年からも、窺い知る事が出来た。……そう、そこまでなら。

 けれども生憎彼には、本来は姉のポケモンであるコジョンドの気性を、完全に見抜く事は出来ていなかった。その為、コジョンドに向けられていた彼の注意は、直ぐに目の前に現れた別の存在へとシフトしてしまう。
 再び前方に視線を移した彼の目に留まったのは、ただ一つだけ他のものとは形状の異なる、妙に装飾の行き届いた籠であった。他の籠の2.5倍はある大きさのそれは、モンスターボールではなくゴージャスボールを模した塗装がなされており、内部には大きなテーブルが置かれていて、数人の大人達が食事を楽しんでいた。
「あの、あれは?」
 先ほど言葉を交わしたばかりの係員に向け、少年は自分が見た物への疑念を、率直にぶつけていく。それに対し、親切な壮年男性職員は、今度も懇切な言葉と態度で、目を丸くしている子供に向け、笑いながら言葉を返してくれた。
「ああ、あれはディナーワゴンだよ。あの20番ワゴンだけは特別製でね。予め予約を入れてチャーターすると、あそこで食事をしながら風景を楽しむ事が出来るんだ。君も大きくなったら、一度乗りに来てくれると嬉しいね」
「へええぇ…… あんな高い所でご飯かー。良いなぁ」
「まぁ、興味があるのなら、一度親御さんとも相談してみて。取りあえず今日は、ポケモン達と普通のワゴンに乗ってみて、観覧車がどんなものかを体験してみると良いよ」
「さぁどうぞ」、と乗り場に続く扉を指して、一歩引いてくれた係員に対し、少年は元気良く返事をすると、そのまま次にやって来た籠の中に、二匹と共に乗り込んで行った。



 ガキ共が観覧車に潜り込んだのを見ると、遂に俺は待ちに待ったチャンスが訪れたものと意気込んだ。
 既に、隙をついて目的を達成出来る見込みは無いだろうと、諦めかけていた所である。こうなったら多少強引にでもと思った矢先に、この展開。まだまだ捨てたものではない。
 あんな所に缶詰めになってくれるのであらば、攻める側としては願ったり適ったりの状況である。狭いあの密室の中では、例え何かが起こったとしても、迅速な対応は望めまい。不意を突いて死角から行けば、あの厄介な同族が暴れ出す前に、取る物取ってずらかる事も、そう難しくは無い筈だろう。
 一度勢い付くと、物事と言う奴は考えれば考えるほどに、成算に満ち溢れているが如く感じるものである。雀躍した俺は、今度こそあの連中に目に物見せてやらんと、機を移さずに行動に移った。
 乗り場の手前でおずおずと佇んでいるミニスカートを横目に、同じくゲートに詰めている係員のオッサンの目をすり抜けて柵を乗り越え、回転している巨大な鉄枠の向こう側で身を伏せる。
 連中が乗り込んだ籠が目の前に差し掛かった所で、俺は素早く立ち上がるとそいつに手をかけ、他の人間の目に触れないよう反対側の死角にぴったりと身を押し付けた状態で、遥か上空へと昇って行った。



 狭いワゴンの中は、異様な空気に満ちていた。
 より正確には、単に元々立ち込めていた雰囲気が、密室状態と言うその環境によって、露わとなったに過ぎないのだが……それでも、今までずっとそれに気付かなかった彼にとっては、それは文字通り唐突に訪れた災難以外の、何物でもなかった。
「あの……母上?」
 無言のプレッシャーに負けて、コジョフーが恐る恐るといった調子で声を上げる。乗り込んだ当初こそ嬉々として目を輝かせ、持っていたチーズたこ焼きの残りをぱく付いていた小柄な武術ポケモンは、今や明らかに危険な雲行きを示している現状況に、完全に委縮してしまっていた。
 果たして目の前の彼の生みの親は、今日この街に着いてから初めて口を開いたと見るや、思わず全身の毛孔が縮み上がる様な低い声音で、目元をピクピクさせつつ声を絞り出す。……この間、彼らの主人は全くこの状況に気が付いておらず、更に外にへばり付いている招かれざる客は、密かにワゴンの扉を固定しているストッパーを緩めて突入の機会を窺っていたのだが、既に我慢の限界に達していた彼女には、そんな事に対して配慮を見せるような気配は一切なかった。
「一つ、聞きたい。……一体私は、遠く外地に赴く際の心得と言うものを、普段お前にどう教えていた?」
 どう見ても穏やかならぬと言った風情の表情が、爆発寸前の憤怒で彩られるのに然したる時間は掛らなかった。思わず総身の毛を逆立てて竦み上がる息子に向け、あからさまに怒気――もとい、青光りするほどの殺気を放射しつつ、ゆっくりと無意識の内に腰を浮かし始めたコジョンドは、更にその数秒を以て、自らの中に立ち上ってくる憤怒を、言葉の形に捏ね上げて吐き出して行く。
「卑しくも武芸家ともあろう者が、見知らぬ地にて何処までも腑抜けに気を緩め、一時として夢見心地から戻って来やぬとはどう言う……? あまつさえずっと付け狙われているのにも気付かず、主人の身を案じもしないで享楽にふけるとは……!」
「……え゛?」
「いや、あの……その」
「……? どうしたの、スイ?」
 事ここに至って、流石に彼らの主人も異変に気付き、場違いなほどに無邪気な声で、激高しつつあるコジョンドに向けて尋ねかける。また紡ぎだされたその言葉尻は、外から中の様子を窺っていた招かれざる客にも、しっかりと届いていた。……しかし、それら全てが既に遅く、また余計な刺激であった事は、誰の目にも明らかであった。
 次の瞬間、凄まじい勢いと剣幕で立ち上がり、「恥を知れ!!!」と怒号したコジョンドの一撃によって、息子のコジョフーは一瞬でワゴンの扉を突き破って外に飛び出し、外部にへばり付いていた客人は、その衝撃をもろに受け、木っ端の様に宙を舞っていた――



 籠の中での会話の内容に驚愕するあまり、思わず全身が固まっちまったその刹那――突然ものすごい吠え声と共に何かが炸裂し、鉄板にへばり付いていた俺は呆気無くそこから引っぺがされて、何が何だか分からないまま、中空に向けて放り投げられた。
 胸板を思いっきり打ん殴られた様に感じた次の瞬間には、頭から真っ逆様の状態でフライ・アウェイ。正直その時は、自分の置かれている状態が寸分も理解出来ずに、半ば茫然とした思いで、真っ青な空を見上げていた。
 多分そのまま何も起こらずに落下していれば、俺は正気に戻る前に頭から地面に叩き付けられ、実に詰まらん死に様を晒していたのは間違いなかっただろう。実際余りに唐突だったのと、全身に受けた衝撃がかなりのものだった為、直後何者かに右足を掴まれるまで、俺の意識は完全に上の空のままだった。
 しかし、そうはならなかった。逆さまにぶら下げられた状態で、俺は地上に向けて落下して行く鉄の扉を息を押し殺して見送った後、下界で上がる悲鳴を余所に、顎を引き下げ上を見る。そこには、片手で吊り籠の底部に掴まりつつ、もう一方の手で俺の右足を捉まえて歯を喰い縛る、あのチビ助コジョフーの姿があった。
「うわぁあああ!? スイ、一体どうしたのさ!?」
 そんな主人の間の抜けた声が響き渡る中、小さな武術ポケモンは咄嗟に掴んだのであろう俺の片足を離そうともせず、表情を歪めて荒い息を吐いている。と同時に、どうやら地上でも事態に慌てふためいたのか、今まで回転していた観覧車の動きがガタンという音と共に停止してしまい、俺達は完全に、この広い空に取り残されてしまった。
「……離せよ。お前じゃ無理だ」
 顔を真っ赤にして耐えている相手に向け、俺は思わずそう口走った。……正直この高さから落っこちて無事に済むとは思えなかったが、そこは俺も男である。
 義理も面識も無い相手に対し、ここまでに必死になれる様な根性の持ち主を、おいそれと道連れにはしたくない。我が身が可愛いのは山々だったが、薄汚い野良犬にも最低限度の意地はあるのだ。
「このままじゃどうにもならん。一緒に落ちたかねぇだろう」
 だが、尚もそう呼び掛ける俺の男気にも、頑固なチビは一向に耳を傾ける気配が無い。それどころか、もう一度口を開こうとした次の瞬間、そいつは思ってもみなかった方法で、目下の情勢を是正しようと試みる。
 何とそいつは、大きく息を吸って指先に力を込めたと思いきや、鋭い気合いと共に俺の体を振り被って、一気に吊り籠の上部へと放り投げたのだ。
 流石に微塵も予想していなかった展開に、思わず俺は「ンきゃあああ!?」等と言った感じの意味不明な悲鳴を上げながら、無様な格好で投げ上げられた天井に落っこちる。辛うじて足から接地し、何とか武術ポケモンとしてのメンツは保たれたが、直後視界の内に入って来たのは、一番居て欲しくない相手であった。
「……うす」
「う゛、母上……」
 間を置かず飛び上がって来たコジョフーも、俺と同じく息を呑み。吊り籠の屋根で俺達を迎えたのは、燃えるような瞳で此方を睨みつけている、あの恐ろしい雌コジョンドであった。隣に立っているチビが掠れた声を発すると、そいつはゆっくり足を開いて半身に構え、必死に愛と平和(ラブ・アンド・ピース)を希う俺の気持ちも弁えずに、自らの意思を明確に示す。
 更にそれに応じる形で、傍らに立っているコジョフーも雰囲気を一変させ、決意も新たに身構えるに及び、堪らず俺は首を巡らせ、隣のチビに抗議する。
「おい、ちょっと待て。俺はまだやるとは言ってねぇぞ……!? 大体勇ましいのは結構だが、どう考えても勝てやしねぇだろ!?」
「どうせ逃げても逃げ切れっこありません……! それなら寧ろ堂々と受けて立った方が、怪我も軽くて済みます。今ならまだ、二、三日呻るぐらいで勘弁してくれる筈……!」
「ちっとも嬉しくねぇよ!!」
 救いの欠片もない相手の見通しに、全力で突っ込みを入れつつも。結局は俺の方も、前方の同族に向けて相対し、何が起こっても即座に対応できるよう、姿勢を下げて軸足を直した。
 逃げようにも逃走ルートは一つだけで、そのたった一つの脱出口は、鬼婆コジョンドに塞がれている。何だかんだ言った所で、所詮は袋の鼠。目の前の相手を何とかする以外に手など無い。
 そして、そう俺が覚悟を決めたその刹那――まるで此方が決意するを待っていたかのように、殆ど微動だにしていなかった前方相手が突如として動き出し、此処に戦いの幕が切って落とされた。

 俺が片足を引いて半身を下げ、嫌々ながらも戦う意思を示したその直後。
 いきなり前方で身構えるコジョンドの右腕が翻ったかと思うと、隣に立っているチビ助が、小さく詰まった呻き声を上げた。
 反射的にそちらを振り返って見ると、小柄な武術ポケモンは天を仰いでたたらを踏んでおり、驚愕に目を見張ったその額には、何か細い棒状のものが突き刺さっている。
 眉間の辺りに突き立っていたのは、先ほどコジョフー自身が使っていた、あのたこ焼き様の爪楊枝。俺は慌ててコジョフーの右腕を引っ掴むと、そのまま場外に向けて引っ繰り返りそうになっているチビ助を、際どい所で自分の側へと引き戻した。
 ところがしかし、危うい所を救ってやった相手の口から漏れ出たのは、礼では無くて警告の叫び。「気を付けて……!」と絶叫するチビ助の言葉にハッと顔を上げると、そこには既に何かの影が、目の前一杯にまで迫って来ていた。
 既に、回避も何も出来るもんじゃない。次の瞬間、俺はそれによって強かに顔面を打たれ、寸刻気が遠くなると共に、完全に視力を失った。
「んがあッ!? 目が、目がぁーーーっ!!」
 顔を押さえてそんな事喚いている俺の体を、更に何者かが突き飛ばす。無様に金属板の上に転がる過程で何かが勢い良く風を切って頬を掠め、続いて鋭い気合いと何かがぶつかりあう衝突音が、「ん目眼めメMEぇ!」と全力で騒いでいる俺の背後で聞こえてくる。

 やがて何とか目をしばたかせつつ顔を上げ、涙ボロボロの状態で視界を取り戻して振り向くと、件の親子は目下盛んに技を繰り出し合って、狭い足場の上で暴れ回っている。顔面に『猫騙し』を喰らった俺がどうにか無事に済んでいるのは、どうやらコジョフーが俺の体を突き飛ばした後、身を持って時間を稼いでくれている御蔭であるらしい。
 しかし、それも長くは持ちそうになかった。
 腕先の毛を鞭の様に振るって攻め立てるコジョンドによって、コジョフーの体はあちこち腫れ上がって痛々しい有り様になっており、このままでは何時均衡が破れてもおかしくは無いだろう。俺が顔面に一発喰らっただけで転げ回ったほどのダメージだ。あれだけボコボコにされて、平気で居られる訳がない。
 とは言ったものの、ここで俺が奮起して加勢に馳せ参じたとしても、事態が好転するとはバチュルの毛先程も思えない。同じコジョンドとは言え、向こうはもう何年も正統な修業を積んで来た化け物である。闇雲にぶつかった所で、勝ち目なぞあろう筈がない。
 と、その時。思わず天を仰いだ俺の目に、遥か頭上に揺れる一台の籠が飛び込んできた。
 途端、俺はまるで電気仕掛けの人形の様にガバリと跳ね起き、頭上に伸びる鎖を掴んで、鉄の籠を吊り上げている、太い支柱によじ登り始めた。まるで何かに憑かれた様な面持ちで懸命に腕を動かす傍ら、未だ争っている二匹の同族の方をチラリと見やって、もう少しだけ耐えてくれよと祈る様に念を送る。

 ――こうなったら、あれの力に頼るしかない。



 倒れていた野良コジョンドが、勢い良く立ち上がった時。コジョフーのサイはまさに藁にも縋る思いで、自分よりずっと長身の、その細身の獣に目を向けていた。
 既に体力は粗方消耗し尽くしており、これ以上孤立無援で戦うのは、事実上不可能に近い状態だった。完全に守りに徹しているにもかかわらず、母親の攻め手は何時も通りに峻烈で、僅かな呼吸の乱れや逡巡が伴う度に、彼の体に鋭い打撃を加え続けて来る。致命的な大技こそまだ貰っていなかったものの、このままの展開が続けばその内思う様に体が動かなくなって、『飛び膝蹴り』や『はっけい』辺りで止めを刺されてしまうのは目に見えていた。
 ところが、そんな彼の願いも虚しく――上を向いて起き上ったそのコジョンドは、パッと足元を蹴って飛び上がったと見るや観覧車の鉄枠に掴まって、必死に戦っている彼を尻目に、さっさと戦線を離脱し始めてしまう。
 直後に繰り出された『はっけい』をかわす為、咄嗟に横っ跳びに鋼鉄の板の上を転がるも、彼は見捨てられたと言う事実を前に、空漠たる思いが募って来るのを、如何ともする事が出来なかった。

 やがて万策尽き、体力も残り僅かとなった所で、彼は眉間を狙った一撃を避け損ね、楊枝が刺さって出来た傷を打たれて、「うっ!」と呻いてバランスを崩す。
 すかさず放たれた追撃の『はっけい』が強かに脇腹を捉えると、痛みと麻痺で息を詰まらせたサイは、横様に突き転がされたまま起き上がれる事が出来なくなった。
 咳を交えた荒い息を吐きつつも、何とか持ち直そうともがいていたまさにその時――不意に自分の隣に、何か大きなものが降って来た様なけたたましい落下音が轟き渡ると、同時に身を横たえている鋼鉄の床面が、ぐらぐらと揺れた。
 痛手を負った体に多いに障ったその衝撃に、思わず顔を顰めている彼に対し、降って来たばかりのその人物は、実に能天気な声音で話しかけて来る。
「ぃよお! 待たせたなぁ!!」
 声に応じて顔を上げたサイに対し、明らかに目が据わっていないその同族は、実に愉しげな様子で笑い掛けて来た。



 突然戻って来た同族の様子に対し、今まさに一戦終えたばかりのスイは、今日と言う日が始まって以来最も強い、凄まじいまでの怒りの発作に見舞われていた。
 今目の前に立っているコジョンド――どうやら良からぬ企ての下、ずっと後を付けて来たと見える相手――の状態は、明らかに普通ではない。視線は全く定まって無いし、上半身は固定されずにふらふらと揺れている。顔色は傍から見てもあからさまに赤く染まっており、時折ダラリと垂らされる舌が、これ見よがしにペロリペロリと口元を舐める。
 臆面も無しに逃げ出した揚句、事が終ってからノコノコと帰って来たそいつは、どこからどう見ても完全に『出来上がって』いた。

 普段から謹厳・糞真面目で通っている彼女にとって、それがどれだけ腹立たしい事なのか? ……残念ながらその事実を知っている者は、身に受けたダメージも忘れてポカンと同族の顔を見上げている、彼女の息子以外には誰もいなかった。



 吹きっ晒しの心地良い風に抱かれ、素晴らしい眺めが堪能出来るその場所に戻って来た俺は、最高にハイだった。
 先ほどまで一体何に怯え、何を恐れる必要があったのか? ホンの十数分前の出来事だったと言うのに、もう何も思い出せない。一体この場に、この世界に、何の不都合があると言うのか!

 あの後、俺は『何故か』必死になってこの大きく美しい観覧車の鉄枠をよじ登り、丁度俺達が今居る籠の斜め上に止まっている、一等馬鹿デカイ籠の中へと入り込んだ。
 そこで何が行われているかを知っていた俺は、突然扉が開いて驚き慌てる正装した男女を尻目に、真っ白いテーブルクロスの敷かれた中央にある食事台の上から、お目当てのものを取り上げてラッパ飲みにする。その瓶はワインであった。
 一本終えるとまた一本、更に選んだ最後の一本は大当たり。料理の仕上げにも使われる香り付け用のブランデーを飲み干したところで、俺はいよいよ今までの義理を果たすべく、勇躍その場を後にして、下方に見えるこの籠に向け、一っ跳びに帰還して来たという訳である。
 行きは良い良い帰りは恐い、とは人間達の言うところであるが、よじ登るより飛び降りた方がずっと早いのだ。全く世の中、悲観的な考えが多くて困る。

 ところがこれほどまでに幸せな気持ちで一杯で、いっそ殴り合うよりも肩を抱き合って歌でも歌いたいぐらいの俺に対し、目の前に立っている同族は、到底そんな気分にはなれないらしい。
 どう見ても表情が引き攣ってるし、目元はピクピクして今にも耳から湯気が出そうな按配である。よせよせ、そんな面。まだ若ぇだろうに皺になっちまうぞ。
 そんな心配を密かにしてやっていたのであるが、困った事にどうやらそれが、口を衝いて出てしまったらしい。いきなり相手の顔色が変わったとみると、瞬時に恐ろしい形相で地を蹴って、喚き叫んで突っ込んで来た。
 思いもかけない展開で、しかも動きがヤバいぐらいに速い。呆気にとられて目を見張る内、相手は一瞬で距離を詰めて来ると、低い軌道で地を蹴って、『飛び膝蹴り』をかまして来た。
 無論そんな物喰らえば、幾らなんでも平気では居られない。腹に入ればゲロッぱするだろうし、顎に当たれば宙を飛んで、ケンタロス座辺りまでぶっ飛んでしまう。流石にそれは頂けない。

 なので当然俺の方は、全力を傾けてそれをかわした。……いや、かわそうとしたと言うべきか。
 後ろに素早く足を送って、体を開いて避けようとした。ところがここでアクシデントが勃発し、後ろに足を送った所で、上半身が後ろにのめって流れてしまう。
 慌ててバランスを取ろうと手足を総動員してバタつかせたところ、あろう事か持ち上げた左膝が、突っ込んで来た相手の胃の辺りに、まともに突き刺さってしまった。相手の膝の方は俺がのけぞったので此方まで届かず、丁度カウンターが決まった形だ。
「げッ……ほ」と苦しげに呻き、ぐらりとよろける相手に対し、俺は何とか渾身の力で持ち直して、ふら付きながらも衝撃を受け止めて、倒れないように踏み止まる。一方相手の方は、息を乱しながらも素早く立ち直り、俺が支えてやろうと手を伸ばす前に、サッと飛び退って距離を取った。
 尚も敵意を込めて烈しい視線を向けて来る雌コジョンドを呆れた思いで見詰めている内、俺はその強情さに辟易しながらも、今までは全く気付かなかった、彼女の容姿に目を奪われる。多少怒りとダメージに青ざめながらも、顔の道具の配置や作りは俺好みであったし、厳しい修行に耐えて来たのであろう痩身は、力強く引き締まっていて誠に美しい。
「良く見たら、あんた美人だなぁ……! こりゃ驚いた!」
 思った事がついつい口を衝いて出てしまうのが、飲んでる時の俺の悩み。特に今回は久しぶりだった事もあり、ちょっとハメを外し気味だった事は認めよう。


 だがしかし……気分良く褒めた心算だったのに、何故この台詞で怒るのであろうか?


 一瞬目を丸くしたように見えた相手は、直後今度こそ完全にぶち切れて、憤怒の塊みたいになった。
 顔は『赫怒』と言うのはこう言う状態を指すのだなと思えるばかりに紅潮し、最早赤いを通り越してドス黒く見え、口元は歯を食い縛っているのだろう、口辺が上がって尖った犬歯が覗いている。その余りの剣幕に、此処までずっと大人しくしていたコジョフーまでが悲鳴を上げ出した。
「う……うわぁ!?」
「何でここまで怒る必要があんだ……?」
「そりゃ怒りますよ! どうするんです!? もう此処まで来たら、一体どうすれば良いのか……」
 実の息子ですらこれである。となれば、赤の他人である俺なんぞに、有効な手が思いつく訳もない。
 流石にこの期に及んでは、続けてラブコールなぞ送れるもんではない。この状態で生まれて初めて、おぼろげながらも恐怖を感じた。これは本格的にヤバい。
 最早こうなってしまったからには、何とかして『良いところ』を見せ、少しでも怒りを解いて貰うより仕方ない。そう思った俺は、ここで普段でも滅多に見せない取って置きの大技を、彼女に対して披露する事に決めた。

 思わず竦み上がる様な形相で殺到して来た相手に対し、俺は平手で一発自分の顔を叩くと、真正面から一歩踏み出し、迎え撃った。
 初撃の『猫騙し』はしっかり引き付けて『見切り』でかわし、咆える様な気合いと共に打ち込まれた『はっけい』は、『はたき落とす』で軌道をずらす。
 一歩踏み込まれれば迅速に退き、振り上げられた鋭い蹴りを、体を反らして寸前で外す。更に止まらず三歩引き退く俺に向け、彼女が青白い波導を弾丸状に練り始めたところで、初めて俺は自分から攻勢に出た。
 両足に全身の力を込め、姿勢を沈み込むように下げた俺に向け、彼女は裂帛の気合いと共に、『波導弾』を解き放つ。高度な技量と豊富な修行量をして初めて可能となる必中の妙技は、青白く渦を巻き凄まじい勢いで、俺を目掛けて突っ込んで来る。
 それに対する俺の方は、眦を決して覚悟を決めると、「はっ!」と短い気合いを上げて、思いっ切り後ろに向けて地面を蹴った。空中に浮かび飛び行く先に存在しているのは、このバトルフィールドとなっている吊り籠を支える太い鋼鉄の鎖と、それを固定している鉄骨の支柱。地を蹴りながら捻りを加えていた俺の体は、支柱に激突する頃にはほぼそれと相対する形となっており、接触した俺はそこに叩き付けられる代わりに、更にそこから手と足を使って壁を突き放し、三角跳びの要領で空へと駆け上る。
 流石の波導弾も、この急激な運動には対応し切れなかった。尚もしつこく俺の体を捉えようと追尾して来たものの、更に上を飛び違えるその軌道には付いて来れずに、何処までも高い遥か蒼空へと消えて行く。一方流麗な軌道を描いて宙を舞う俺の方は、下方で茫然と目を見張り、今己が見た物を信じかねている雌コジョンドに向け、一直線に降下して行く。

 俺の奥の手・『アクロバット』。身軽で敏捷な特性を持った性格で、尚且つ高い身体能力を持った者だけが体得できる、飛行タイプの大技である。
 ……ここまでは上手く行っていた。そう、『ここまで』は。
 予定では俺は彼女の隣に着地して、とびきり爽やかな笑みを浮かべてこの技の感想を仰ぎつつ、あわよくば良いムードにでも持ち込む腹ですらあったのである。
 しかし、俺は酔っていた。……どの道酔いでもしてないと殆ど出さない大技であったが、それでもやはり素面の時に比べれば、多少は精度がずれるのは致し方ない事である。

 軌道をわずかにずれていた俺の体は、そのまま彼女の手前ではなく、直接彼女の頭上までオーバーランして、盛大な浴びせ蹴りをその美しい顔に叩きつけたのである。

『こうかは ばつぐんだ !』



 満天の星空の下、俺はすっかり良い気分になって、自分の住処に帰って来た。
 片手に握った紙袋の中には、更に追加の缶ビールが何本か。つまみの類もしっかり買い込んで来て、抜かりや不足は更にない。

 あの後、俺は目を回している雌コジョンドや丸くしているコジョフーと共に、乗客の救助に当たっている係員等の飛行ポケモン達によって、他の乗客らと同様地上へと下ろされた。
 白昼堂々施設をぶっ壊した事もあり、かなり面倒な事態になりかかっていたものの、偶々例の大きな吊り籠(サロンワゴンと言うらしい)に乗っていた客達が、俺と雌コジョンドの試合を大層気に入って、取り成しや尻拭いをやってくれたおかげで大事には至らなかった。
 全部終わって釈放されると、ガキの奴はあんな目にあったと言うのに馬鹿なのか能天気なのか、事態が丸く収まったのは俺のおかげだと言う結論に至ったらしく、一日連れ回される破目になった代わりに、実に良い思いをさせてくれた。彼らは俺の案内で街のあちこちを回り、礼と称して俺が目を付けたものは全てその場で買って分けてくれた。……ただ、あの雌コジョンドだけは、回復してからも塞ぎ込んじまって、ボールに閉じ籠っちまったきり出て来なかったのだが。

 別れ際、小僧は最後まで俺について来ないかと誘いをかけ、断り切るのに骨が折れたが、何とかそれは振り切る事が出来た。そしてその時だけ、何故かあの雌コジョンドは自らボールを揺らして外に出る意思を示すと、別れて巣に帰って行く俺の背中を、刺すような視線ながらも最後まで見送る。……御蔭で、折角の締めが幾分心臓に悪かったと言う事を付け加えておかねばなるまい。ああ言うシチュエーションは二日酔い以上に性質が悪い。


 そして、今俺は独りねぐらに座り込んで、静かに星を見上げつつ酒を飲んでいた。……既に十分に酔い、この上なく良い気分になっていたと言うのに、何時の間にかあの高揚感は消え去って、飲んでも飲んでもちっとも盛り上がらなかった。
 別れ際にかけられたある言葉が、ずっと頭の中にこびりついて離れないのだ。

「僕も大きくなったら、あなたや母の様な、の様に強いコジョンドになりたい」
 二人きりになっても畏まった言葉ばかり使うチビ助に茶々を入れ、『ワタクシ』だの『母上』だのはねぇだろと突っ込んでやった所、はにかむ様に笑って言葉を改めたチビコジョは、澄んだ瞳でそう告げたのだ。
 あの時の、嘘偽りの一切ない、真っ正直な告白。それが何か奇妙な感情のうねりを、俺の心の底に植え付けてしまった。
「あなたの様に」。『貴方の様に――』。これは果たして、適当な言葉なのだろうか……? こうして飲んだくれている、しがない都会暮らしのスリを相手に。
 奴はまた、こうも言っていた。
「僕も頑張って修業を積んで、何時か母に負けない位強くなります。何時かまた、出会えた時。……その時は、僕もあなたに挑ませてください」、と。


 更に一頻り喉を鳴らすと、持っていた缶は空になった。
 次を出そうと手を伸ばすも思い直し、空き缶を背後に投げ捨てた俺は、ふと思い出した事柄につられ、ぶっ壊れてただの粗大ゴミ以外の何物でもない、錆びついた加湿器に目を向ける。
 それを拾ってきた奴を、思い出す為に。

 俺に酒の味を教えた相手。ガラクタを拾って来ては弄り倒し、暇にかまけて俺に人間の文字を教えたその男は、ある時奇妙な道具を自作して、このねぐらから出て行った。
「もう、此処には帰らねぇ」
 そう言い捨てたその時は、「まーた始まりやがったか」思わなかった。……しかし、結局奴が戻って来る事は無かったのだ。
 数年後、その男が作ったガラクタが、『締め付けバンド』と言う名前でヒット商品になっているのを、破れた古新聞で確認したのは、ある秋の終り頃だった。

 そこまで回想が終ると、俺はつと立ち上がり、紙袋を手に歩き出した。
 ――酔いがさめる時、果たしてどこにいるのか? 今は全く分からないが、もう此処には戻ってこないだろう……それだけは、何処かではっきりと理解している気がしていた。