愛の鳳仙花 ( No.8 )
日時: 2011/08/17 22:28
名前: 浅香


A:「ノンストップ」


 光の中にいる。わけもなくそんな直感が働いた。淡く優しげに包むような光の中で、自分は浮遊している。ずっと先に絶えず鋭い輝きを放つ何かがあって、そこに向かって吸い寄せられているのだと思った。流れていく景色もないのに、なぜか前に進んでいる感覚がある。それはきっと、微かに流れる光の粒子が、前後感覚を補完してくれるおかげであろう。止まらずに、自分の意思とは関係なしに、ひたすら先へ先へと進んでいる。思考はぼんやりとしていて、明確な状況判断ができない。
 感覚的には少しの時間が過ぎて、いつの間にやら暗さを伴って発光する赤い玉が横に見えた。並走するそれは、脳に直接響くような音で話しかけてくる。
「なぁ、お前もヒトモシかい」
 唐突な問いかけだったが、答えは明白。
「ぼくはヒトモシじゃない」
 すぐさま答えると、赤い玉は上下に揺れて笑い出した。
「はは、そりゃよかった! まったく、最近はミーハーばっかりでいかんね。お前までヒトモシだったら六匹目だった」
「なんのことだい? ぼくは――」
 ――ぼくは。
 何だっけ。自分を紹介しようとしたが、そもそも自分が何者なのかを思い出せなくて困惑する。ここはどこで、自分はいったい何なのか。もしかすると、自分も横にいる赤い玉のように、光の玉になっているのではないか?
 周りには光の粒子が流れるばかりだ。自分は前に流されるばかりで、何がどうなっているのかさっぱり分からない。
「なんのことだい? ハッ。解せぬ。解せぬねぇ」
 それから赤い玉は何度も解せぬ。解せぬ。と繰り返した。
「いいか。状況を確認しようじゃあないか。おれたちは今、転生競争の最中だ。おれたちは、死んだ。だから、生まれ変わる。ゴーストポケモンにな。ハッ。解せぬ。解せぬ」
 一つ、大きな光の粒子が流れていったかと思うと、赤い玉は声を大きくして「解せぬ!」と言った。
 本当に死んだのか? 恐怖がこみ上げてきて、流れに逆らおうとしたがそれは叶わなかった。ただ止まらずに流れるばかりだ。得体の知れない感情が募る。
「すると、ぼくは死んでしまったということかい」
「おいおい、勘弁してくれ。キオクソーシツってやつか? おれ、そういうの苦手なんだ」
 まったく、解せぬねぇ。などと言いながら赤い玉は説明をしてくれる。
 元々はポケモンだったが死んでしまい、ゴーストポケモンに生まれ変わるための転生競争に参加してしまっていること。なぜ競争なのか。それはゴーストポケモンにも人気のあるポケモンと、ないポケモンがいて、人気のあるポケモンには転生希望が殺到してしまうこと。そのため競争をして早い者順に好きなポケモンを選んでいく。人気の高いヒトモシあたりになると、上位を確保しないとまず無理なのであった。競争から漏れれば、当然転生は不可能になる。
「これは大変だ」
 呟いてみると大変さが薄らいだような気がした。実際はもの凄く大変だった。死んでしまった原因も、その事実も全く覚えていなかった。いつの間にか自分は死んでいて、生まれ変わるゴーストポケモンを選ばなければいけないという。
「タイヘン。タイヘン。タイヘンだなぁ」
 赤い玉は暢気に繰り返した。光の粒子が赤い玉にぶつかって、弾けるようにして散っていった。
「そうだ、お前、キオクソーシツなんだろ。だったら、下の川が見えるか」
 川。それを聞いて首を動かそうとしたら、確かに首がないことに気づく。それでも下を見ようと念じていると、視線は下に向いた。そこにはゆっくりと流れる川があった。水面に大きくうつる映像が、透き通った桃色の水と一緒に流れていく。
「見える。あれはなんだろう。映像が流れてるようにしか思えないんだけれど」
「見えたか。あれは思い出の川だ。流れている映像は思い出ってことになるなぁ」
 森の映像が流れていた。光の粒子が映像に纏わり付き、流れに呑まれてはすぐに離れていく。
 朝の日差しが眩しくて、木の枝を縫って差し込む陽光の下には、少女とピジョンが寄り添って目を閉じている。風が木の葉をさらった。幾枚かの葉っぱがピジョンの翼に貼り付くと、目を開けた女性が笑顔を振りまきながら葉っぱを取り去る。そんな映像。光の粒子と笑顔が重なったせいか、思い出であるはずなのに、どこか作り物めいて見えた。美しい思い出はそれだけ美化されて残るものなのだ。映像が流れていった。
「それで、何になりたいか決まったかい? たぶん、ヒトモシはもう無理だなぁ」
 わずかに思考を巡らせた。光の粒子が幾つも流れていってから、答えを出す。
「人間にはなれないのかな」
「おっと、これは大きく出たな」
 それから赤い玉は上下に揺れた。声を抑えて笑っている。
「悪い悪い。いいかい、人間になるには、愛の鳳仙花が必要なんだ」
「アイのホウセンカ?」
「おう。生前のパートナーに愛情を注がれたかっつーことだな。愛の鳳仙花は、人間になるときの爪になるんだ。おれにはよく分からんけど、人間には綺麗な指が必要なんだ。従って、綺麗な爪も必要になるんだよ」
 で、
「お前、持ってるのか? 愛の鳳仙花」
「持ってない」
「なんだよ!」
 赤い玉は叫び声をあげた。脳の中を金属質な音が駆け回るようだった。
「人間になりたいのに持ってないのか? ……あぁ、キオクソーシツか。だったら、ほら、今なら取ってこれるだろ。さっさと拾ってこい」
 光の粒子が流れていく。遙か前方には鋭い輝きを放つ何かがある。さっきから進んではいるものの、その距離は縮まっていないように思える。
「拾うって、どこから」
「思い出の中に決まっているだろう! 他にどこがあるんだ。えぇ? おれの懐の中に手ぇ突っ込んでも愛はないぜ!」
 なんだか深い言葉だと思った。しかし、今は深読みをする時ではない。思い出の中へ行くにはどうすればいいのか、聞くとまた激昂されるのだろう。ひたすらに念じてみると、視界はどんどん下に降りていった。光の粒子が上りながら後ろに流れていく。それから、映像を掴み、川の流れに飛び込む。

 暗かった。音ばかりが聞こえる。カタカタ。カタカタ。動いてるよ。ねぇ、動いてるよ。声が聞こえてから、自分が立ち上がろうとして姿勢を整えていることに気づいた。なんだか半分くらいの意思が操作されているような感覚だ。
 うまく立てない。それは意思が操作されていたからではなくて、単純に足場が悪いのだ。何か硬いものが周りを囲んでいて、身動きが取りにくい。動いて姿勢を直そうとしても囲いが邪魔をして立てず、いらいらが募りに募る。とうとう堪えきれなくなって思いっきり跳び上がった。頭を何かにぶつけたかと思えば、小気味のいい音が響いて、刺すような光に曝される。光が目に馴れてきてようやく、視界に景色が映り始める。そこには泣き笑いする男と女の姿がある。
「生まれた……。カケヤくん、生まれたよ!」
 女の人がそう言った。
「あなたの名前は、ミハネよ」
 美しい羽を持ったポケモン!
 彼女が跳び上がった拍子に切れた涙が宙を舞った。カケヤと呼ばれた男の人は、言葉を発する代わりに女の人を抱きしめた。そこは小さな部屋だった。窓の外には海が見える。

 森の中だった。日差しは強く、森の間を縫って射す。湿気が多くて、強い日差しにもさほど顔をしかめずにいられた。男の人と女の人が並んで歩き、自分はその上を歩みに合わせて飛んでいる。二人の足下には水たまりが点在し、そこには大きな木々と、見つめるポッポの姿が映っていた。
 自分はポッポだ。飛べるし、水たまりを見下ろせて、パートナーに合わせて速度をゆるめることができる。この二人をパートナーだと思えたのは、記憶の残り香が思い出に漂っていたからなのだろう。包み込む世界観がどうしようもない懐かしさを湧かせた。
「そろそろ着くよ。森の教会」
「うん。綺麗な場所だといいね。ミヅキの好きなセシナの花があると、なおいいのだけれど」
 それからしばらく歩くと、ステンドグラスにとどくほどの蔓を纏った教会が見えてくる。そこだけ周りに木はなく、雨を浴びたあとの教会は、陽光を受けて輝いて見えた。
「あ」
 教会の周りには白い花が咲いている。

 わしゃわしゃと頭を撫でられる。曲げた指で翼をなぞられる。心地よかった。笑顔の女の人がいて、トレーに乗った餌を与えてくれる。その薬指には指輪がはまっていた。お腹が少し膨らんでいるように見える。
 それから抱き上げられる。抱き上げたのは男の人で、彼の薬指にもまた、同じ指輪がはまっていた。窓ガラスに薄らと映った自分の姿は、ポッポではなくてピジョンだった。その影の向こうには広い海と、こぢんまりとした島が見える。
「お、今日はマボロシ島が見えるね」
「あ、ほんとだ。お花を買わなくちゃ」
 そこで思い出す。あの時の白い花はセシナの花だということを。彼女が好きな白い花。それを渡す相手には特別な愛情が注がれているのに違いない。
「どうしたんだい?」
 腕の中で一声鳴いてみせると、彼が声をかけてくる。
 愛の鳳仙花が欲しい。それがあれば、人間に転生することができるのだから。
 でも、と思う。愛の鳳仙花はたくさんの愛情を受けた証なのだ。ここは思い出の中。だとすれば、結果はとうの昔に出ている。愛の鳳仙花は、愛情で出来ていて、自分から求めて与えられるものではないのだ。
「きっと、ミハネも何か感じ取っているんだよ。だって、マボロシ島だもん」
 そう言って、お腹の大きい彼女は、どこか切なそうに微笑む。

 チイラの木のすぐ傍には、小さなお墓が二つ並んでいた。そこに白い花束を二つ、女の人がそっとお供えする。冷たい浜風がすっと通り過ぎていった。
「ミハネが生まれてから三度目かな。ここに来るのは」
「そうだね。もう三度目。時間の流れは本当に速いね」
 その言葉を聞いて、すぐに光の中を思い浮かべた。転生競争。光の粒子が流れていて、どう足掻いても後ろに戻ることはできない。だというのに、遙か向こうに見えた光の輝きには決して届かず、果てしない距離がそこにあるかのように思えた。あれは、時間の流れだったのではないだろうか。後戻りは許されず、何かに手を伸ばそうとしているのに、それが何かは分からないし、どんなに頑張っても距離は縮まらない。前後は一定の距離と空間に保たれて、進んでいるのにずっとその場を動くことができない。そんな、不思議な流れ。誰にも理解することはできないのに、誰もがその中にいて、ずっと流されているのだ。
「ほら、ミハネ、両親に挨拶をしよう」
 二つのお墓は両親のお墓だった。あぁ、と思う。
 時の流れに終わりはない。けれど、生にはいくらでも終わりが来る。

 窓の外は嵐だった。轟々と音を立てて、雨が屋根を叩く。窓ガラスに薄らと映ったピジョンは自分。愛の鳳仙花は、どこにあるのだろうか。悩む自分の顔が、人形めいて見える。
 雨の音に混じって呻き声が聞こえた。振り返って部屋の中を見渡す。玄関扉の向こうで風が暴れ、がたがたと扉を揺らしている。火の灯らない暖炉があって、中央のテーブルには花瓶。セシナの白い花が生けられている。
 もう一度聞こえた。隣の部屋からだ。扉は少しだけ開いている。
 窓の桟を蹴った。翼を広げて滑空する。わずかな隙間を通り抜けて、隣の部屋に入ると、そこには女の人がうずくまっていた。苦しそうに大きなお腹を抱えている。
「カケヤ……ミハネ……」
 小さな声を洩らした。ややもすれば雨の音に掻き消されてしまうような声で。それを聞き逃しはしなかった。
 すぐさま部屋を出る。風の音が一際大きくなった。玄関扉が耐えきれずに開け放たれる。その隙をついて、嵐の中に飛び出すと、背後では再び扉が大きな音を立てて閉まった。まるで魔法のようだ。身体を打つ雨が、失われていた記憶に染み渡って、形を成していく。
 覚えている。嵐の中、海を越えようとした自分を、覚えている。あの時もそうだ。あの時も玄関扉は魔法のように開き、自分を吐き出すと家を守るかのように閉まった。そうして自分は嵐の中、指名を果たして死んでいく。最初からそういう運命だったに違いない。扉が開くのも、閉まるのも、そうして自分が死んでいくのも。
 死ぬと分かっていながら、自分はあの日と同じ行動を止められない。そうしなければ、愛しい人が死んでしまうかもしれないのだ。それほど苦しそうに見えた。だから、死ぬと分かっていても、嵐の海の上を飛んでいく。
 遠雷が響き、豪雨が自分を追いかけてくる。どこまでも。どこまでも。
 死ぬまで。

 水たまりの中に突っ伏した。嵐は止んで、風の音と波の音が聞こえるようになった。もうほとんど動かない身体を無理やり動かして、這って進む。扉にたどり着いて、力のこもらない嘴で何度もつついた。こつこつ、こつこつ、力はこもらず、大きな音も出ない。目の前には血のように紅い何かがある。浮き世離れしたその物体に、最初は愛の鳳仙花だろうかと思ったが、木の枝の形をしていて、想像していたとおりではなくて落胆した。それでも何かが変わるならと、その非現実的な物体を嘴にくわえてみると、音もなく泡のように散ってしまった。
 だめだった。結局、自分は思い出しただけで終わった。そんな思いが駆け巡る。
 最後の力を振り絞って、もう一度、扉を叩く。
 意識は遠ざかっていく。完全に意識が途絶える寸前に、扉が開いた音を聞いたのは、希望や願望がもたらした幻聴だったのかもしれない。

 浮き上がっていく。光の粒子が流れていく。やはり、止まらずに流されていく。
「どうだい、目当ての物は見つかったかい」
 すぐに赤い玉が聞いてきたのだと分かった。輝きを放つ光が遙か向こうに見えて、いつの間にか横には赤い玉がいる。
「やっぱり、世の中そんなに上手く回っていないようだよ」
「そうか? おれにはそんなふうには見えないな」
「どういうことだい?」
「お前が持っているそいつは、紅い枝だろう? いいもの拾ったなぁ。そいつが人間になったときの、紅い糸になるらしいぞ」
 下を流れる桃色の川にだんだん橙色が混じってきた。光の粒子が見せた錯覚だろうかと思ったが、橙色はだんだんと浸食をはじめて、やがて完全に色が変わると、透き通った夕日の色になった。
「ハハッ、お前、なんにも知らないんだな、ハハッ」
 紅い糸を知らないことで、笑っているらしかった。
「それで、紅い糸って」
「ハハッ……はぁ。すまねぇ。おれも知らないんだ。なにせ、おれも転生競争の記憶があるっていう稀なゴーストポケモンから聞いた話なんでね」
 妙に詳しかったのは、そういうことだったのかと納得した。
「おっと、そろそろ生まれ変わりだな。夕日色の川が見えてきただろう。あれは、約束の川だ」
 夕日色の水と一緒に、映像が流れてくる。そこに映っていたのは、担架に乗せられて運ばれる女の人の姿だ。セシナの白い花が好きだと言った、ミヅキという名の女性。生前の自分にとって、とても大切だった人間の一人。
「あ、あの、映像は、何だい」
「ん? あぁ、約束の川に流れるのは、これから生まれ変わる先を映すんだよ」
 映像の中に目を走らせる。タマゴはどこにもない。
「タマゴがないんだ」
「タマゴ?」
「そうだよ。映像の中にタマゴがないんだよ」
「そりゃあ、ゴーストポケモンが堂々とタマゴから生まれたらいけないだろう。人知れずやり直しの人生を送るからこそのゴーストポケモンだ」
「そういうことじゃないんだ!」
 無機質な空間を通って、彼女を乗せた担架は白い部屋に入っていく。
 川の流れに乗って、赤い花がいくつも流れてきた。それが血のように見えて不吉だった。
「あれは、何だろう! ほら、あの赤い花だよ!」
「赤い花? ハッ、あるじゃねぇか、たぶんそれが愛の鳳仙花だ! お前はもうずっと前から手に入れてたんだよ!」
「本当かい? 血のように真っ赤なんだ。不吉なくらいだよ」
「不吉なんていっちゃあ、いけねぇ! 人間になるにはたくさんの血が必要なんだよ。これからお前は、人間に生まれ変わるんだ! 喜べ!」
 そうか、これが。これが、そうなのか。
 遙か遠くだと思っていた光がすぐそこに迫ってきていた。鋭い輝きはどんどん大きくなって、光の粒子は消えていった。
「ほら、生まれ変わりだ! それじゃあ、現世で会った時はよろしく頼むぜ!」
 赤い玉が一足先に掻き消える。ついに転生競争が終わろうとしていた。自分はちゃんと、生まれ変われるのだろうか。生まれ変わったとして、その先には。時の流れに終わりは来なくても、生の終わりはちゃんとあって、そして、死にも終わりがあるらしかった。それからまた、始まる。
 自分には愛の鳳仙花と、紅い枝がある。自分を導くように、紅い枝がするすると光の奥に伸びていった。
 やがて、鋭い光が弾ける。

 ――――あなたの名前は、ミハネよ。

 その言葉を聞いたのは二度目だった。
 それは思い出が作り出した幻聴か。それとも、約束を契るための言葉か。
 そうして、目を開けようとする。
 まぶたの裏で、愛の鳳仙花が咲いていた。