魔法のノート、あるいは不思議なトリックルーム ( No.6 )
日時: 2011/08/14 23:52
名前: 一葉

テーマB:部屋


 当時の私は、窓の外から見える世界がすべてだった。先天的な心臓の病気。生まれた時から多分死ぬまで病院の中、それが私の人生だった。
 不遇だと思った事はあるが、他人を羨ましいと思った事はない。生きているのが辛い、苦しい、その生活しか私は知らないから、他の人がどう生きているのかなんて想像出来なかったし、他の人のように元気に過ごすと言うことも想像出来なかった。だから十歳まで生きれたのは御の字だ、なんて医者は言うけれど、そんなのは嘘。私は早く死にたかった。苦しくて苦しくて仕方がなかったから、辛くて辛くて耐えられなかったから、早く死んでしまいたいと思っていた。
 奇跡的に十歳まで生き延びた、と人は言う。だけれど、私からしてみれば、不幸にも生き長らえてしまった、が正しいと思った。そんな事を口に出せば、きっと母が悲しむ。だから口にしない。
 苦痛と絶望まみれの生を、作り笑いで生きていく。

 そんな生に一つ転機が訪れたのは十歳の秋の事。
 代り映えのしない窓の外の景色、遠くの山は徐々に紅葉が色づいて来ているらしいが、毎日眺めているせいで大きな変化には感じられない。数日間見ないようにして、それから目を向けてみれば劇的な変化に感じられるのだろうか。そんなやっぱり代り映えのしない私の世界を眺めていると、突然それは現れた。一冊のノート。当時は知らなかったが、コンビニでも売っているごく普通の大学ノートである。その時の私はそれが魔法のノートだと思った。なにせ、突然私の手の中に現れたのだ、なんの前触れもなく。代わりに手の中のみかんが一つ消えていたのは、後になって気付いた事だった。
 ノートを開くと、丸っこい小さな字でただ一言こう書いてあった。
『つまらなそうな顔してどうしたの?』
 病院暮らしだって文字は読める。生きて退院出来る可能性は無いのに、勉強はさせられる。ずっと無駄で無意味で無価値な作業と思っていたけれど、その時ほど勉強していて良かったと思った時はない。
 ボールペンが無かったからナースコールを鳴らした。「書くものが欲しいの」看護師さんはすぐにボールペンを持ってきてくれた。看護師さんは優しい、むちゃくちゃな事じゃなければなんでも聞いてくれる。どうせ私は死んでしまうから、とても良くしてくれている。
「あら、そのノートは?」 いつもの看護師さんが聞いてきたから、私は胸を張って答えた。
「魔法のノート」
 看護師さんは意味がわからずきょとんとしていたけれど、私は気にしない。だから、首を捻ったまま病室を出ていく看護師さんの事も、私は気にしない。
『病院は退屈、何もする事が無いもの』
 そう書き込んでノートを置く。魔法のノートの字よりもずっと汚ない字だった。面倒くさがって書く癖がついてしまっていたから、最初の頃の字は今見ると恥ずかしいくらい汚ない字だった。私がボールペンを置くと、今度はノートが消えて、代わりにみかんが一つ出現する。私が持っていたみかんだった。
 それから三十秒くらい経つと、またノートとみかんが入れ替わる。
『外に出掛けたりしないの?』
 外なんて生まれてから数える程しか出たことが無い。ずっとこの病室の中、つまり、私はそういう身体なのだ。
『身体が弱いから外出許可が出ないの』
 すぐに返事を書いて、ペンを置く。何度もそれを繰り返す。それは、とっても楽しくて、生きているんだって、少しだけ思えた。

 その日から、私と不思議な魔法の交換ノートは始まった。

『窓から見えるあの山、砲台山まで行ってきたよ、紅葉が綺麗だったからお土産』
 ノートの代わりに返ってきたのは綺麗なもみじ。
『折り紙を折ったわ、貴方は折り紙出来る?』
 ノートの代わりに送ってやるのは折り紙の鶴。

 不思議な不思議な交換ノート。相手がどこの誰なのかもわからない。不思議な力で交換されるノートが、どんな力で交換されているのか知りたくて、一度尋ねた事がある。
『このノートはどうやって行ったり来たりしているの?』
『ポケモンの技で交換してるよ』
『ポケモン! 私ラッキーしか見たことない!』
『そうなの? ポケモンなんて何処にでもいるよ』
『看護師さんが言ってたわ、野生のポケモンは病気を持っている事もあるから病院には近付けないようにしてるって、病室にポケモンを連れ込むのもえーせー的にダメだって、私も見てみたいな、いろんなポケモン』
 そんな事を書いたら、ノートに写真を挟んで送ってくれた。
『昨日出会ったポケモン、ヨーテリアで名前はテリーって言うよ』
 それからも毎日一枚、日記のようにその日出会ったポケモンの写真を送ってくれた。写真を送っていないポケモンに出会わなかった時は、風景の写真を送ってくれた。場所を聞いては母に買ってきて貰ったタウンマップに張り付けるのが楽しみになった。
『いろんな所でいろんなポケモンに会うんだ、羨ましい』
『病気が治ったら、きっといろんな場所に行けるようになるよ』
 治らないよ、とは書けなかったから『治ったら一緒に出掛けよう』と返した。約束した。
『それまでは私が貴方の見たい景色を写真で送ってあげる』
 彼女……性別を聞いたわけではないからこの時はまだ彼なのか彼女なのか知らなかったのだけれど、字の雰囲気から女の人だと思っていた、実際に女の人だったわけだけど……はそう書いて、それからもたくさんの写真をくれた。森に湖に滝に、お寺に、山に、海。たくさんの、本当にたくさんの写真をくれた。

 その頃だったと思う。生まれて初めて、生きていたいと思ったのは。いつしか私の夢になっていた。彼女と一緒に、遠くまで出掛ける事が。
 それまでは死ねない、そう思って、四年間生き延びた。その間も、不思議な交換ノートは一日たりとも欠かさなかった。私がノートを書ける状態じゃない時でも、絶対に一度は交換して、彼女は私を力付ける言葉を残してくれた。そんなノートはもう少しで三ケタに到達する。この頃になると、私の字もずいぶんと綺麗になっていた。彼女の字が可愛らしくて悔しかったから、少しだけ練習した。そのノートは全部私が綺麗に並べて取っている。何度も読み直して、その度に、生きていたいって、覚悟を決めたから。
『今度、また手術をする事になったわ』
『大丈夫なの?』
『分の悪い賭け、でも成功すれば、少しくらいなら外に出ても良いくらいまで回復するかもしれない』
 それはあくまでも一時的な話で、絶対に私の心臓は治ることはないのだけれど。
『私、貴方と一緒に出掛けたい、そのために命を掛けるわ、大丈夫、死なない、大切なお守りも持っていくから』
 そう手術の時はいつも持っていたお守り。殺菌消毒をした上で、ビニールに包んで、足に貼り付けて、無理を言って持たせてもらっている彼女の撮った写真。
『お守り? どんなの?』
 って聞かれたって絶対に教えてあげない、秘密のお守り。でも、そうだ。
『手術が成功して、一緒に出掛ける時に見せてあげる』
『手術、頑張って』
『うん』

 次の日、彼女からノートは返って来なかった。
 どうしてしまったのか、不安になった。精神状態が体調に悪影響を及ぼすことがある。彼女の不在は間違いなく私の精神を、そして肉体さえも蝕んでいた。
 手術前日を迎えた時だった。これ以上先送りにしても、体調が復調するとは限らない。見送るか、強行するか、どちらも危険な賭け。だから、私は可能性が高い方を選んだ。先送りにしても、残り時間が短くなるだけだと思ったから。
 翌日、手術へ向かう直前だった。
 彼女からノートが返ってきた。
『遅くなってごめんなさい、どんな病気でも治るって伝説のお守り、貴方の病気が治るようにって』
 そう言って返ってきたのは、真っ白な灰だった。
『伝説のポケモン、ホウオウが住んでいる伝説の塔、その塔の頂上には、ホウオウが生まれ変わる時に出る聖なる灰が積もっているって伝説があるの、ホウオウは灰の中から蘇るから、ホウオウの灰は命を強くするって言い伝えがあって』
『ホウオウって、あの絵本に登場するポケモン?』
『うん、貴方が病気に勝てるようにって、探して来たの、ごめんね』
『ううん、ありがとう、私、絶対に成功させて帰ってくるから』
 そう返して、手術に向かった。

 結果は……今、こうやってノートを書いてる通り、私は生きている、手術は成功だ。まだしばらく生き続けられる権利を勝ち取った。
 別に病気は治っていないし、私の心臓はいつ異常を来すかわからないのだから、ハッピーエンドめでたしめでたしと締めるのは少しだけ待ってもらえないだろうか。手術後の話をもう少し付き合ってもらいたい。

『リハビリなぅ、歩けるまで回復したよ』
『頑張ってるね、この調子この調子』
『この調子なら来月には一緒に出掛けられそう』
『うん、そうだね』
 それから、彼女とのノート交換の回数が少なくなった。
『本当に会うの? なんだか怖い』
『でも私は会いたいわ』
 そして、そんな会話が増えた。

 退院の日になって、彼女からノートが返ってきた。
『今までノートを交換してきた技、トリックって言うの、ポケモンの持ってる道具を、相手の道具と入れ換えるポケモンの技、騙しててごめんなさい、私、ポケモンなの、だから、会えない、さようなら』
 いつもの丸い字が、震えていた。涙で滲んでいた。さようならの文字が擦れていた。
「だから……なんだって言うのよ!」
 私はボールペンを握ると思い切りノートに殴り書いた。最初の頃のような汚ない文字。可愛らしさの欠片もない汚ない文字で感情をぶつける。そしてノートを閉じてトリックの時を待った。だけど、いつまで経ってもノートは私の手から消えなかった。
「……見てるんでしょ、どこかで」
 トリックという技が、自分が見えていないと使えない技なのかは知らないけれど、確信はあった。いつもそう、私がノートを書き終えテーブルに置く、それが交換の合図だった。彼女はそれを確認してトリックを使っていた。だから、私を見ていなきゃ出来ないはずなのだ。
「トリック!」
 きっと近くにいる彼女に届けと叫ぶ。
「一方的にさよならなんてふざけないでよ! 人には何も言わせず逃げ出すつもり!? 夢とか希望とか安売りして、今さら放り出すつもり!?」
 思い切り叫ぶ。看護師さんが何事かと駆け込んで来た。私は気にしないで叫ぶ。
「あなたに会いたくて、会うために、生きてきたのに!」
 私は肩で息をする。興奮し過ぎた、心臓がバクバクいっている。私の病気は心臓だ、激しい運動はもちろん、興奮するのもあまり良くない。看護師さんに宥められ、なんとか乱れた呼吸を鎮める。
 気付けば、ノートは消えていた。代わりに、折り紙の鶴が一羽、不恰好な鶴が一羽、そこにいた。私ならもっと綺麗に折る。だから、これは彼女が折った鶴。
 返信は……返ってこなかった。

 そして、私は退院する。何年か振りの病院の外。病室とは違う広い空の下。
 両親にエスコートされて歩く、その途中で、足を止めた。視線の先、大きな葉桜の下。彼女の手には、一冊のノートと、一枚の写真。
 飛び込んできたキルリアを、私は抱き留めた。




『そんなのずっと知ってた、あなたがくれた湖の写真、気付かなかったでしょ、見て、カメラを持ったポケモンが湖に反射して写ってる、あなたが写ってる一枚だけの写真、私のお守り、お願いだから、私の傍から居なくならないで』



 これで、私の話はお終い。彼女はどうしたのかって? うん、いるよ、今でもずっと隣に、ね。