檻の中の小さなはらっぱ ( No.7 )
日時: 2011/05/05 13:01
名前: 北里ミカ

A「リスタート」


 近頃はポケモンをボックスに放置することが社会問題になっている。
 メタモンとくっつけて無限にタマゴを産ませ、孵化させても気に入らなければボックスに閉じ込めたまま。その赤ん坊は草むらを駆ける数多のポケモンを見ることなく、ボックスという檻の中で一生を終える。
 テレビのニュースでは連日そんな報道ばかり。ボックスにポケモンを閉じ込めておく者は、もれなく批難の対象となっていた。
 そう、その批難は、社会的地位が揺らぐくらいに、大きな影響を与えてしまうのだ――。


 彼の通称はキサラギ。本名はメイケ。今となってはメイケと呼ぶ者などほとんどないに等しい。
 あまりにもキサラギの名前が広く知れ渡りすぎた。彼はつまり、この地方のチャンピオンで、通算八度の防衛を難なく達成しているからだ。
 圧倒的な実力とバトルスピード。烈風のキサラギと呼ばれた。挑戦者は軒並み彼の繰り出すヘルガーに苦戦した。ヘルガーのためにくだらない対策用講座が各地で開かれることもあるくらいだった。
 一世を風靡したキサラギであったが、九度目の防衛戦で事件は起こる。
 九度目の防衛戦を一週間後に控えた彼にとっては、まだ知るよしもないことなのであったが――。


 昼下がりのポケモンセンター。
 まだ眠気を拭いきれないトレーナーたちがロビーでくつろいでいる。今日は休日だから、元気がいいのはスクールが休みの子どもたちくらいなものだ。仕方なしに、ジョーイたちもずれた帽子を直しもせず動き回る。
 ロビーに設置された大型のテレビではニュースを放送していた。
 たいしたニュースはない。ポケモンリーグの挑戦者が四天王を制覇し、来週にはチャンピオンに挑むことが大見出しに来る程度の平和な日常。せいぜい剣呑なニュースはといえば、ボックスの中に多くのポケモンを放置したスクール生が、いじめにあって不登校になってしまったとか。スクールの小さな社会ですらボックス内は誰にも見られてはいけないようだ。
 休日の昼下がりの引力に逆らえないキサラギは、ソファに座ってぼけっとニュースを眺めている。一週間後には挑戦者とのバトル。今度の挑戦者は少しくらい骨のある戦士だろうか。四天王を制覇して挑戦してくる者は多いけれど、チャンピオンを目の前にしても強者であり続けた戦士は少ない。残念なことだ。
 キサラギが八度の防衛に成功しているのには、それなりの訳がある。
 四天王は比較的バトルが多くて、鍛錬の時間をとるのが難しい。けれど、チャンピオンともなると、そんなに頻繁に挑戦者が現れるわけではない。何しろそのバトルがイベントとしてニュースになるくらいなのだから。おかげで、チャンピオンのキサラギは、日々の鍛錬を怠ることなく挑戦者を迎えることができるというわけだ。
 もちろんそれだけじゃない。キサラギはバトルの度に手持ちのポケモンを入れ替えていた。得意手のヘルガーはそのままに、そのときのボックスにいる仲間たちの調子を見極めて、パーティを編成する。強くないはずがない。
 自動ドアからカウンターまで敷かれている赤絨毯を子どもが駆ける。
 小さな足音にキサラギが振り返ると、その寝ぼけた顔も子どもにとっては十分な歓喜の対象になった。子どもが嬉しそうに手を振って、キサラギも嬉しくなって手を振り返す。ロビーでくつろぐ大人たちは、キサラギなんて見慣れているので反応すらしてくれない。あんたらいつか、そこの子どもに追い抜かれるよ。それもきっと、近い未来にね。子どもが手を振る度に、キサラギはそんなことを思う。
 子どもがポケモンセンターから出て行くのを見送って、キサラギはパソコンの前に立った。続いてボックスを開く。
 主力メンバーがアイコンで並ぶボックスを眺めて、来週に控えた防衛戦の戦略を練る。どうせまたヘルガーの対策とかで、弱点をついたポケモンが出てくることだろう。それがむしろ、キサラギにとっての対策になる。ヘルガーが有名になってくれたおかげで、他にも強い手持ちはいるのに、うまい具合に隠されている。そうしてヘルガー対策のポケモンはあっさり敗れて、悪巧みをしたヘルガーの暴走が始まる。そんな王道で単純な戦略に、挑戦者たちはあっさりと崩れていく。
 よし、キサラギは脳内のビジョンにほくそ笑んだ。
 そのとき、そんな妄想を壊すかのような敵意がキサラギを刺した。慌てて姿勢を正したときにはもう遅い。横から手が伸びてきて、パソコンが勝手に操作される。
「なんだよ、おまえ!」
 カタカタと無機質な音を立てるキーボード。動く手を押さえても、すでに操作は完了した後だった。パソコンの画面に映されているのは主力メンバーの姿ではない。カメラのシャッターを切る音がした。
 鳥肌が立った。汗がにじむ。そこに表示されたのは、『ちいさなはらっぱ』だった。草原の壁紙に、びっしりとポケモンのアイコンが並んでいる。その小さなポケモンたちは本物の原っぱを見たことなどない。それならせめて――そう思って名前を付けた。ちいさなはらっぱ。孵化されてすぐにボックスに入ったデルビルたちが、ところ狭しと並んでいる。デルビルが、ボックスを埋め尽くしている。
 掴んだ手をゆっくりと視線で辿る。背格好はキサラギとほとんど変わらない。けれど首の上についた顔は悪魔のような笑みを浮かべていた。明確な悪意をもって、キサラギの行く末を刈り取ろうとしている。
 思わず腕から力が抜けて、掴んでいた手を放してしまった。
「これがチャンピオンの真実ってとこだな」
 その悪魔のような男は、冷たい引き笑いを洩らした。まるで首筋に刃物を突きつけられているようだった。全身が寒いのに汗はとまらなくて、声を出すこともかなわず、震ることしかできない。これからのことを考えると、ますます自由がきかなくなる。
「こんなくだらねぇことで、一生を終わらせたいか? 嫌だろ? ん?」
 悪魔のささやき。キサラギは頷くしかなかった。
「分かってるじゃねえか。死にたくねぇもんなぁ」
 しばらくの引き笑いのあと、悪魔は続ける。
「来週のバトル、おりてくれよ、チャンピオン。ただおりるんじゃねぇ。おとくいのヘルガーを出して、盛大に負けてくれ。分かってるよな? なぁ、烈風のキサラギくん」
 首からはカメラが提がっている。
 この条件をのまなければ、八度の防衛に成功したチャンピオンは、九度目を待たずして社会的地位を追いやられるだろう。たとえ、のんだとしても、次のチャンピオン戦は人生最大の羞恥をさらして、チャンピオンという最高位を略奪される。
 その選択に悩む時間は、一週間しかない。
 悪魔のような男が去って行く。通りかかった子どもが、キサラギを見つけて嬉しそうに手を振った。キサラギは動けなかった。


 それからの一週間、キサラギは鬱々とした心情のまま過ごすことになった。
 まずは家から出なかった。挑戦者のバトルに使うパーティを準備して、ポケモンはみんなボールから出しておいた。静かに泣きながらヘルガーのごつごつした背中を撫でた。わざと負けることになってしまえば、恥をかくのはキサラギじゃなくてヘルガーの方だ。もちろんキサラギだって多少の被害は受けるだろう。それでもボックスの秘密をばらされるよりは軽い。要は保身に走るか、仲間を売るか。この選択でしかなかった。
 答えは二つに一つしかないのに、キサラギは悩み続けた。チャンピオンの地位は、ずっと昔からの夢で、ようやくたどり着いた悲願だったのだ。それに手放さなければいけないのは地位だけではない。それまでに培ってきた努力を何もかも手放さなければいけなくなる。そんな悔しさに耐えられるはずがないではないか。
 ただ負けるだけならば、また次に挑戦すればいい。そしてチャンピオンに返り咲いたときに、やつが写真を公開したとしても、作り物だなんだと言ってごまかせばいいだろう。負け惜しみほど憐れなものはないのだから、誰もがチャンピオンを擁護するに違いない。
 それなら、仲間を売るのか――?
 こうして自問自答は堂々巡りを続け、ついに決断の日を迎えてしまった。


 やはりと言うべきか、対戦相手はあの悪魔のような男だった。
 特徴的な引き笑いで、チャンピオンと対峙している。
 多くの観客がスタンドから見下ろす、スタジアムの中央。歓声に満ちあふれた異様な空気の中でも、チャンピオンは静かだった。
 チャンピオンの名前が呼ばれた。電光の大画面にキサラギの名前が、整った顔写真と共に浮かび上がる。
 続いて挑戦者の名前も呼ばれたが、二人はもう画面の方など見ていなかった。
 スタジアムの熱気が最高潮に達し、戦いの火蓋は切って落とされた。
 キサラギが出したのはヘルガー。対する挑戦者のポケモンはメガヤンマ。どちらが有利とも不利ともいえない。それでもおそらく、勝つのはヘルガーだろう。持たせている道具が、ヘルガーを持ちこたえるように守ってくれる。
 先手必勝――!
 一瞬で周囲の空気が熱を帯びた。ヘルガーが全身を赤く火照らせ、最大出力のオーバーヒートを放つ。
 キサラギは仲間を守る選択をした。どちらが正しいかは分からない。だが、せめてチャンピオンとしての誇りくらいは守りたかったのだろう。
 宙に浮くメガヤンマが業火に包まれる。それでも持ちこたえたのは、ヘルガーがどうぐに守られているのと同じ理由だ。
 そのとき、キサラギは悪魔のようにほほえむ男と目が合った。
 わかってるよな、口元がそう動いた。
 ぞくりと悪寒が走る。やつの首からは相変わらずカメラが提がっていた。
 メガヤンマが反撃に打って出たのに、指示を飛ばすことができない。実況の叫び声が意味不明な言葉に聞こえ、スタジアムの歓声が薄れていった。
 わかってるよな、もう一度、悪魔の口が動いた。
 ヘルガーが倒れた。
 観客の声も実況の声も聞こえない。視界がぼんやりしている。
 次のポケモンを出した。
 チャンピオンは指示を出さなかった。仲間を裏切った。


 先に控え室に戻ったのは、元チャンピオンの方だ。
 スタジアムでは新たに生まれたチャンピオンが盛大な祝福を受けている。歓声の後にはどよめきが起こっていた。自分が初めてチャンピオンになった時もそんな空気だっただろう、キサラギは記憶を辿る。
 あぁ、これで自分はチャンピオンの地位を降りた。でも、まだだ。
 またやり直せばいい。いくらでもやり直せる。バトルの実力だけだったら、あんな雑魚よりも自分の方がよっぽど強い。四天王を軽くひねり倒して、それからチャンピオンを倒して、どちらが本当のチャンピオンに相応しいかを証明してやる。
 おれが、チャンピオンだ――!


 キサラギは地元のポケモンセンターに入った。
 まずはパーティの編成からやろう。そう思っていた。
 しかし、どこか普段とは雰囲気が違う。自分に向けられる視線の種類がいつもとは違う。
 これは憐れみの視線だろうか。九度目の防衛戦で醜態をさらしたキサラギに対する、軽蔑か何かだろうか。
 わからないまま手持ちのポケモンをカウンターに持って行くと、馴染みのジョーイさんまで嫌な顔をしていた。
 見渡すと、誰もが同じようにキサラギを見ていて、中にはひそひそと囁き合っている者までいる。
 テレビの画面が目に入った。
 チャンピオン戦の録画をやっていて、映像は既にヒーローインタビューを迎えていた。
 そこでキサラギは気づいた。
 全国に向けて、あの写真が公開されていた。
 あの男が高らかに宣言をした。元チャンピオンのキサラギはこんなやつで、保身のためにこんな負け方をしたのだと――。
 キサラギは悪魔に裏切られ、最悪な結果を招いたことに、この世界の誰よりも遅く気づいたのだ。
 終わった。何もかも。
 足が笑っている。その場に崩れそうになるのを必死で堪えて、なけなしの勇気を振りかざしながら走り出した。預けたポケモンもそのままにして、ポケモンセンターを出て行く。
 走る。どこに行っても、人の視線がある。冷たくて、攻撃的な。
 刺さる視線は鋭くて、走れば走るほど傷は増えていった。どこまで行っても傷は癒えない。新しいチャンピオンがどこかで笑っていて、社会的地位を追われた元チャンピオンに差し伸べられる手はどこにもなかった。
 あぁ、あぁ、声が洩れた。涙が流れていった。
 やがて森にたどり着き、周囲の視線が一つもなくなった。うずたかく積もった葉っぱの上に倒れ込んで、元チャンピオンは死んだように動かなくなった。
 たかがボックスにポケモンを放置していただけで――。
 誰もがそうしているじゃないか。ポケモンを強くするなら避けては通れないことだ。それでも人々は批難するのだ。自分がやっていたとしても。
 それをあの悪魔は分かっていた。知っていた。恐らくやつも同じことをやっているに違いない。やつはあれだけ強いヘルガーがいるならやっていても不思議ではないと思ったのだろう。その予想を見事的中させて、ポケモントレーナーの最高位を奪っていった。
 いや、奪ったのは地位だけじゃない。ただ一人の男の未来も一緒に。
 キサラギは仰向けになり、周囲にだれもいないことを確認すると立ち上がった。
 よろよろと歩き出す。木に手をつきながら、奥へ奥へと進んでいくと、急に視界が開けた。
 そこに広がっていたのは原っぱだ。小さくなんてない。ずっと広がっている、はらっぱ。
 こんな綺麗な場所を切り取った箱庭の中に、あのデルビルたちは閉じ込められていたのだ。デルビルも風を感じて、思いっきり走り回りたいに違いないのに。小さなはらっぱは、それを許すことなんてない。まさしく檻だった。
 この原っぱに、デルビルたちを放そう。デルビルだけじゃない。ボックスにいる色んなポケモンを放すんだ。
 苦しかったろう。冷たかったろう。大丈夫だよ、ここはもう、檻の中じゃないんだよ。
 そんな、償いにもならない言葉をささやいて。
 キサラギは急いでポケモンセンターに戻り、檻の中に閉じ込められていたポケモンたちを引き出し始めた。一度に持ち出せるわけがない。
 だからポケモンセンターと原っぱを何度も何度も往復した。
 一日で終わらない。二日でも。三日目でようやく終わった。
 もうどんな視線を向けられたってかまわない。
 自分がやれることは一つを残して全てやったのだから、あとはあの悪魔のような男に一泡吹かせてやるだけでいい。
 キサラギの心身はすでにぼろぼろだったけれど、まだ最後の仕事がある。
 初心に返ろう。初めてポケモンリーグの門をたたいたあの時に戻ろう。ただ六匹のポケモンしかいなくて、鍛錬なんて高尚な言葉を使う余裕すらなかったあの頃に――。

 
 スタジアムは歓声に沸いている。
 挑戦者の名前が呼ばれた。
 彼の名前はメイケ。古い名前は檻の中に捨ててきた。冷たい場所だ。
 
 ――小さな、はらっぱだった。
 



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 [6006文字]
 
 ボックスの中身を見られないように気をつけましょう。
 読んでくれてありがとうございました。