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平成ポケノベ文合せ2012 〜春の陣〜 【終了】
日時: 2012/04/30 20:50
名前: 企画者

こちらは「平成ポケノベ文合せ2012 〜春の陣〜」投稿会場となります。

参加ルール( http://pokenovel.moo.jp/f_awase/rule.html )を遵守の上でご参加ください。


◆日程

テーマ発表 2012年04月18日(水) 0:00
投稿期間 2012年04月28日(土)〜2012年05月27日(日) 23:59
投票期間 2012年05月28日(月)〜2012年06月16日(土) 23:59
結果発表 2012年06月17日(日)20:00
日程は運営等の都合により若干の前後が生じる場合がございますので、どうぞご了承ください。


◆目次

>>1
【B】ため息と一緒に毒を吐く

>>2
【B】ポイズンガールは終わらない

>>3
【B】ポイズンガールは終わらない(裏)

>>4
【B】夢追い人の代償

>>5
【A】「助け」の手

>>6
【B】フェアトレード

>>7
【A】勇気のタネ

>>8
【A】颯爽と吹き抜ける涼風

>>9
【A】桜井さんのお花見

>>10
【B】毒を前に、進め

>>11
【A】希望の大地

>>12
【A】Skyme to the moon

>>13
【A】 Good night, a good dream.

>>14
【A】百日紅の木の側で

>>15
【B】リフレッシュ

>>16
【A】故郷

>>17
【A】もふだね。

>>18
【B】パンドラの匣


★結果発表★ >>19
メンテ

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希望の大地 ( No.11 )
日時: 2012/05/27 23:44
名前: きとかげ

テーマA「タネ」



 トモコはもう泣きそうだった。トモコを取り囲む老人たちの言うことが至極もっともで、自分に非があるのだから、謝りたかった。しかし、トモコの口は「申し訳ございません」「検討いたします」のふたつしか言えないのだ。
 だがそれが事態を好転させるとは思えなかった。老人たちの雰囲気は益々険悪になっていく。誰かのヌオーでさえも、とぼけ顔なのに今にもハイドロポンプをぶっ放しそうな殺気を放っていた。

「もうあかんわ」
 老人の誰かが言った。険悪な雰囲気がふっと緩んで、その僅かな隙にもトモコは溺れている間に息継ぎが出来たような安堵を感じた。
「お嬢ちゃんでは話にならん。会社の偉い人呼んでくれんか」
 その言葉をきっかけに、また険悪さが巻き返して轟々と唸る。「そや」「社長を出せ、社長を」――轟々の合間に嗚咽が聞こえて、誰だろうと思ったらトモコだった。気付いたらせき止めるものも何もない。トモコは一張羅のスーツにボタボタ涙を落とし始めた。「泣いたらええと思たんか。それで女を寄越したんか」険のある言い方に、トモコの涙は益々止まらなくなる。言っても言い足りない老人たちが益々言葉を募らせる。――「どうせきのみぐらい、工場で作ったらええわと思てんねんやろ」「お金払ろたら終いやと思てんのやろ」
 その一々が真っ当で、トモコは居場所をどんどん追われていく気がした。いやそもそものはじめから、トモコの居場所なんてなかったのだが、風船がペシャンと空気を吐き出して居場所を明け渡すように、トモコにもそうしろと周囲の空気が迫っている気がした。
 何故だろうとトモコは思う。化粧品で有名なKという会社に入って、女では珍しく研究課でバリバリやって、いずれは自分が作った口紅で世の女たちの唇を染め上げたいと思っていた。その最初の一歩だったはずなのに、どうしてこうなってしまったのか。老人たちの怒号が、重なって響きあって、わんわんとトモコの耳を潰してくる……


「ここらへんでお茶でもしませんか」
 この場にそぐわない、脳天気な声がした。ひときわ若い男の声だ。老人たちが振り返り、彼を見る。トモコと同じくらい、青年に毛が生えたような、と言っては失礼だが、そんな年頃の男性が、集会所の無味乾燥なアルミの扉を開けた所でつっ立っていた。
 テツジ! と老人のひとりが怒鳴った。テツジは村の出身者なのあろう。しかし、日焼けしていない白い顔を見るに、普段から村にいるとは考えにくかった。この折に帰ってきたのだろうか。
 災厄の折に。それを思い出して、トモコの胸は忘れかけていた罪悪感でズキズキ痛んだ。
「カントーから帰ってきたと思たら、何を脳天気に」
「あんまり彼女に言うても、どうにもなりませんよ。僕も会社勤めやし分かるのやけど」
 うなぎのぼりに上がりかけた老人の声を、テツジはのんびりした調子でやんわり下す。
「それより、彼女お茶菓子持ってきてくれはったんでしょう。折角やしいただきましょう」
 言うなり、テツジは給湯室に引っ込んでしまった。残された老人たちは、毒気を抜かれたように静まりかえってしまった。

 気まずいお三時が終わり、「補償の話はまた後日ということで」と老人たちは三々五々帰っていった。集会所にはテツジとトモコ以外、誰も残らなかった。
 急に力が抜けてきて、トモコはぐったりパイプ椅子に沈み込んだ。テツジは黙々と、並びの崩れたパイプ椅子を片付けていた。
 その半分以上を片付け終わった頃、テツジはトモコに「帰りますか」と声をかけた。村の老人たちと喋る時とは違い、訛りの感じられない話し方だった。トモコは黙って頷き、立ち上がった。さして高くないヒールがガクガク震えた。
「大丈夫ですか」と差し伸べられた手を断って、トモコはひとりで立ち上がった。何とか歩けそうだった。
「送っていきますよ。ポケセンですか?」
 宿を尋ねた彼に頷いて、トモコは歩き出した。彼がさっと前に立って扉を開けてくれた。

 途端、深呼吸しているような春の空気が、トモコにどっとぶつかってきた。
 トモコは集会所の冷たい壁で体を支えた。彼が集会所の扉を閉めている。テツジは立ち止まったままのトモコの視線を探って、ああ、と納得したように声を上げた。

 村の中心を貫いて控えめな川が流れている。その川を避けて道が伸び、あちらこちらで交差しては、地を区切って果てまで伸びていく。道の白みたいな黄土色が区切る中には、

 何もなかった。完膚なきまでに、何もなかった。

 黒っぽい土なら存在するが、それだけでは何もないのと同じなのだ。何もない土の黒茶と、川の色と、農道の黄土色が、地の果てまで続いている。草一本ない。コラッタ一匹いない。
 それが、今のこの農村の姿だった。この農村にやってきた春は、紛れもなく沈黙していた。


 数日間、村のポケセンに泊まりっきりで、トモコは村の老人たちの相手をし続けた。
 補償金の話を何度もした。それが何年分の補償になるかという話を、何度も何度もした。新しい住居の話もした。そこに何年住む見通しになるかという話になると、いつも紛糾して、決裂して終わった。
 けれど、いつもいつも同じ所に立ち返ってくるのだ。
「仮にお金で済ますとしましょう」
「いつまでも給水車に来てもらうわけにもいかへんし、村も出るとしてですよ」
「畑を何年も放っておいたら、どないなりますか……」
 トモコが村にいた最後の二日間、老人たちも怒鳴る元気が失せてきたらしく、小さな声で祈るようにポツポツと喋るようになっていた。その祈りは誰に届くのか。きっと届かないだろう。老人たちがそこまで考えているようで、トモコはやるせなかった。
 最後の日、老人たちを集会所から見送って、トモコは中に戻った。老人たちの背中は、すっかり萎んだように見えた。トモコもすっかり、疲れ切っていた。パイプ椅子に腰を下ろすと、西日が直接入る窓から外を見た。何も決まらなかったという話を、会社に持って帰らなければならない。会社の人たちは、この惨状を見たら何か動いてくれるだろうか……
「もう、お帰りですか」
 テツジがトモコに声を掛けた。彼はいつも、集会所の隅で静かに座っていた。
「ええ」
 上の空でトモコは答える。窓枠に手をかけて立ち上がる。テツジが扉を開けて待っていた。
「送っていきますよ。ポケセンですか」
「いえ」
 もう列車で帰るんです、とトモコは蚊の鳴くような声で答えた。テツジは黙って頷いた。

 夕焼けに染まった村は、虚しかった。今頃は旬の来た作物が西日を跳ね返していただろうと思うと、ただただやるせなかった。トモコがどれだけ矢面に立っても、農村の人の心が氷河期の氷のその向こうよりも届きっこないと絶対に分かっているのが、腹立たしかった。
 こんな時でなければ、いい村だったろうに、というトモコの胸中はひょっとすると漏れていたのか。
「僕が帰る前はもっと綺麗でしたよ。果樹園にぱっと日が当たって、葉っぱが光って。木にひとつずつきのみが生ってて、太陽に照らされているのをひとつずつ、葉っぱの陰から見つけていくんですよ」
 テツジはく、と言葉を呑み込んだ。嫌味ではなかった。トモコは続きを聞きたかった。
「その時の光景、トモコさんにも見せてあげたかったなあ」
 トモコは暇を告げた。

 列車の窓からも、裸になった大地が見えた。それが切れてこちゃこちゃした街並みになるまで、トモコはずっと窓の外を見つめていた。ふと見ると、集会所の窓枠にかけた指が汚れていた。



 Xデーは突然やってきた。
 朝の水撒きを済ませ、朝餉を食べて畑に戻ると、農村の人々はすぐ異変に気付いた。
 果樹が見る見る内に枯れていくのだ。
 まるで、焚き木にでもされたかのようだった。まず葉がチリチリとなって焦げ落ち、次いで幹が小枝のようにパッキリ折れた。残った幹を引くと、根が音もなく千切れた。ちょうど実りであったクラボやチーゴは、ゴルバットに根こそぎ吸われたみたいに干からびていた。燃え滓を突いたかのように、果樹園はボロボロ崩れていった。
 誰かが走って隣の畑まで行った。そこでも同じことが起こっていた。その隣も、その隣も。やがて被害が村全域に広がっていると知れ渡った時、村人たちの目は川の上流に向いた。そこには、数年前に出来た化粧品の工場がある。村人は一致してあれが犯人だと決めつけた。そして、それは間違ってはいなかった。工場が、確かに毒水を流していたのだ。村人は工場に乗り込み、どうにか畑を元に戻してくれと嘆願した。
 工場の側は、過失は認めた。けれど、
「すぐに元に戻してくれ、っていうのは無理ですね」
 いつまでかかるんだ、と問うと、
「そうですねえ。安全基準を下回るまでなら、十年ぐらいは」
 老人たちの声が、ブウンと工場を震わせた。まるで地獄の亡者が反乱を起こしたようだ、と工場長は言ったそうだ。

 工場と村民では収拾がつかない。話は会社に上がり、代表として村に送られることになったのがトモコだった。
「はあ」とトモコはため息をついた。会社のあるタマムシには、いくらでもため息のつける居酒屋がごまんとある。そのひとつに入り浸って、さてどうしようか、どうすればいいかと当てのない考え事をしていた。
 いや、トモコにはまるっきり当てがないわけではなかった。しかし、その当てをどうするか、会社にどう話すかと思うと、また気が滅入った。
「はあ」とトモコは何度目かのため息をついた。村から戻ってからの、会社でのやりとりを思い返す度に胃が締め上げられた。結局、トモコがやったことはないも同然で、会社はただ体裁の為にトモコを送り込んだのだ。報告をした時の上司の態度は、石にでも話しているのかと思われる程凝り固まっていた。
「補償金は十年では足りないかと」
「十年もあれば新しい生活基盤も出来る。不要だ」
「補償金の見積もりが低すぎます」
「そんなもんだ。今時きのみなんて工場で出来る」
「早急に」
 トモコはここで力を入れた。
「汚染の除去に着手し、数年内に村に戻れるようにと」
「要らん」
 上司ははっきり言った。
「何故ですか」
「要らんものは要らん」
「理由を言わないと先方も納得してくれません!」
 トモコの言葉の最後の方は、ほとんど悲鳴になっていた。出来る限り早く村に戻り、畑を作ること。それが彼らの一番の望みなのに。
「会社にそんな義務はない」
 上司はその後も何やら言っていたが、トモコの耳には入らなかった。拒否された。それだけで十分だった。

 トモコは次の朝早くに出社した。
 自分の席に行き、サンプルを眺めた。K会社の研究課で唯一女だった自分の席。女性が職に就くのが珍しくないとは言え、やはり上の方は男性が多いし、それ故の気苦労もある。トモコの場合、研究課に女性がいないから余計に、だったかもしれない。村に事件が起こったのはトモコの提案した商品をラインに乗せた直後で、トモコに矢面に立てと言っているようなタイミングだった。「でも、それじゃ言い訳ね」とトモコは自嘲した。
 トモコは机を片付け、課長に辞表を出すと、他の社員が来る前にさっさと会社を去って行った。まずは旧友に会いに行く。まずはそこからだ。


「どないしたんですか、トモコさん」
 村で一番に出会ったのは、あれから少し日焼けしたテツジだった。これくらいの僥倖はあってもいい、とトモコは思った。これからどうせ、針の筵なのだから。
「実は、毒を取り除く方法を考えて」
「それなら、村の人呼んできましょうか?」
 踵を返したテツジを慌てて引き止めた。確証のない方法だ。村人の期待をかき立てて失望させたくない。それに、そんなことになったら、失点が大きい。村から追い出されれば、もうこの方法を試すことすら出来ない。
「薄い望みなんです。でもよければ、内輪で話だけでもさせてもらえませんか」
 テツジは、それならうちの家で、うちの家族と、と言って承知してくれた。しかし、実際行ってみると、かなりの人が集まっていた。
「なんや、姉ちゃんが会社と掛け合うて、毒を取り除く方法を持ってきてくれたんやと」
 まず、この誤解を解く所から始めなければならなかった。

「すぐに治らへんのやったらええわ」と、数人がさっさと家を辞した。それで既に、トモコは家がずいぶん広くなったように思えた。障子を開け放った木造屋は集会所よりは確かに広いのだが、それにしても妙に、スカスカ隙間風が吹き荒んでいるような感じがする。
「村を出て行った人が多いんですよ」とテツジが耳打ちした。
「会社が家用意する言うたはるけど、待てへん言うて」
 トモコは黙って頷くしかなかった。調査によると、工場の毒水は植物に有害で、多量に飲まなければ人体に影響はない、ということだったが、避けるのが人情というものだ。大体、調査だって怪しい、とトモコは思った。
「それで、取り除けるかもしれん方法とは、何です?」
 他の出席者に促されて、トモコは話を続けた。

「シェイミ、というポケモンがいるらしいんです。そのポケモンなら、毒を取り除けるかもしれないんです。……」


 話が終わる頃には、家にはテツジの家族と、あともう二家族しか残っていなかった。予想していたとはいえ、やはり胸が苦しかった。家が無闇に広く感じられるのも、今はありがたくなかった。
「それで、姉ちゃんは」
 テツジの肉親でない方の、老夫婦の夫の方が言った。
「つまり、こういうことか? そのいるか分からんシェイミというポケモンを呼び寄せる為に、畑を潰して花畑にしろと、そういうことやな?」
 全くその通りなので、トモコはそうですと蚊の鳴くような声で答えた。
「あほらし。おまけにそのシェイミがほんまに毒を除けるかどうかも分からんのやな?」
 また険悪になってきた夫を、「そこまで言わんと」と妻がたしなめた。トモコはただひたすら頭を下げていた。夫はまだ言い足りないらしく、トモコにさらに畳みかけた。
「そのグラなんちゃらを育てるのは、わしらの仕事か? 姉ちゃんや姉ちゃんの会社の人はしはらへんな、そんなこと」
「私がやります」
 はっきり、出来るだけ大きな声でトモコは言った。そのつもりだったが、トモコの声は老人に押し負けそうな勢いのない声だった。でも、トモコは続けた。
「どのみち、ここには住めなくなります。私は通いでも何でも残って、やり続けます」
「勝手にせい」
 老人はそう言って席を立った。ごめんなさいね、と頭を下げながら老いた妻がその後を追った。と、引き返してきてトモコにこう言った。
「すいませんね。もう何植えても育たへんものやから、気も腐ってるのよ。私らも疎開するから手伝えません」
 そして、目を宙に惑わせ、少し首を捻ってからこう付け加えた。
「うちの畑で良ければ、使ってください。でもさっき言うた通り、何にも育ちません。お花が育つまでに、また長いこと掛かると思うわ」
 そう言って、老婆は辞去した。

 トモコは老婆が去った方を、長いこと見つめていた。これで畑を使う許可が下りた、という喜びよりも、何だか訳の分からない悲しみの方が勝っていた。この悲しみはどこから来るのだろう、と思っている内に、テツジの家族以外でもうひとり残っていた老婆が腰を上げた。老婆は家の中でもヌオーを連れていた。
「ありがとうさん。面白い夢物語やったわ」
 その嫌味を言う為に残っていたとしか思えなかった。
 けれど、耐えなければならない。どうせ針の筵だ、とトモコは自分に言い聞かせた。そして、先の畑を使うのを許可した老婆が去って行った時と同じように、トモコは暗がりをじと見つめていた。

「さて」
 沈黙を破ったのは、テツジの父だった。他の老人連よりいくらか若い。年が近い分やりやすそうだと思ったのは一瞬で、彼は彼の世代の理論で来るに違いないと、トモコはまた気を持ち直さなければならなかった。
「ああは言ったけれど、ほんまにやりはるんですか」
「は、はい」
「ほんまにやりはるんですか」
「はい」
 思っていた質問ではなく、ただの確認が来たので戸惑う。トモコはやります、と答えながらも、テツジの父の疲れたような声が気に掛かった。そして、彼はこう言った。
「……やめなさい。農業はきついですよ。都会から出た娘さんに出来ることじゃない」
 テツジの父は、長く長く息を吐いた。
 慮っているのだ、とトモコは気付いた。これから、他人の畑を長く使うことになる。成果は出るかどうか分からない。グラシデアの種子を譲ってくれた旧友の言葉以外にはヒントもない。風当たりは強い。
 どうせ、途中で逃げるに決まっている。そう思われている。
 逃げません、と声を大にして言いたかった。しかし、果たして成し遂げられるかどうか、今のトモコにも自信がなかった。
「やめんでいい」
 はっとトモコは顔を上げた。テツジがいつの間にか隣にいて、父親と対峙していた。
「俺も手伝う。それでええやろ?」
 有無を言わせぬ調子でテツジが言った。しかし、テツジの父は疲れ切ったような声でこう答えた。
「好きにしなさい。……投げ出しても、責め立てたりしませんから」
 母さん、晩飯、と言いながらテツジの父は立ち上がり、障子で見えない向こうへフラフラ歩いて行った。トモコは気付いた。諦めているのだ。彼も、あの老夫婦も。
「飯、食うてく?」
 気遣うようなテツジの台詞は断って、トモコはまだ辛うじて開いているポケセンへ戻った。


 トモコが農作業を始めるのは、梅雨が明けてからになった。
「梅雨の雨で流したら、ちょっとは毒も薄まるかもしれん」とテツジが言ったのだ。本当は、村人たちの疎開が終わったらすぐにでも取り掛かろうと思っていたのだが、テツジにも一理あるのでトモコは引き下がった。それに、グラシデアはどんな気候で育つか、まだよく分かっていないのだ。梅雨みたいな特異な時節に植えるのは、どうにもまずい気がした。それに、どちらにせよ、疎開後でひと気がなくなってからなら構わなかった。好奇の目や罵倒に晒されて続けていく勇気は、どう見てもトモコにはなかった。
 ともかく、梅雨明けの雷が鳴った次の日から、トモコはグラシデアを育てることに決めた。

「なあ、長靴持ってる?」
 軍手にTシャツ、ジーンズ、スニーカーという格好で畑に降りようとしたトモコを、テツジが呼び止めた。
 集団疎開が終わって、トモコたちも移るよう言われたのだが、こうして我を張って残っている。トモコたちのように残っている人は少なかった。ポケセンも閉鎖だと言うし、これからは不便になる。今は無理を言って駅の詰所を借りているが、そろそろバラックでも建てねばなるまい。
 さて長靴である。
「持ってるよ?」
 言い終えてすぐ、自分が恐ろしく訛っていることに気が付いた。朱に交じったらしい。テツジはと言うと、自分の予想外のことが来た時の癖で、戸惑いを隠す為に後ろ頭をガリガリ掻いていた。
「そうじゃなくて」テツジは言い淀む。
「特別長靴というか、……えー、毒ポケモン育てる時に使うような、防毒のごついやつ。一応履いといた方がええと思て」
「本当? 軍手もそうした方がいい?」
 ああ、訛っている。イントネーションがどうもテツジ寄りになってしまう。
 テツジはコクコク頷きながら、母屋に入った。そして、程なく長靴を二足と軍手を一組持って現れた。
「あ、そうだ!」とトモコが叫んだ。
「グラシデアの種子は、まずポットに入れて育てるんだって。……ポットってある?」
「プランターならある」
「プランターかなあ?」
「鉢植えもある。ようけある」
「ポットって言われたんだけど」
 素人二人の船出は、不安材料に事欠かないようであった。

 ポットは畑を使っていいと言ってくれた老夫婦の家で見つけた。ありがたく使わせてもらう。黒い紙コップみたいな頼りないポットに畑の土を入れ、指先で穴を空け、大きめの砂粒みたいなグラシデアの種子を入れていく。トモコが連れているムウマにも手伝ってもらったが、いっかな役に立たなかった。テツジもポケモンを持っているようだが、「こういう仕事には向かないから」と言って出さなかった。やっている途中で日が暮れた。用水路から引いた水をぱっと撒き、続きは明日早くからということになった。
 夕餉はテツジの家で食べた。冷蔵庫に残った食材を使ってトモコが作った。簡単な食事だが、テツジは旨いと言って食べた。
「なあ、あれで良かったん?」
 夕餉の最中、テツジが尋ねる。トモコが「何が?」と聞き返すと、テツジは箸を止めて考えをまとめた。
「あれ、畑の土も川の水もそのままやろ。毒であかんようならんかなあ、って」
 トモコは白米を口に運びつつ、答えを考えた。旧友はグラシデアの種子をトモコに譲る時、色々言っていたっけ。
「毒は大丈夫なんだって」
 聞いているテツジの目が、思いがけず見開かれた。それでトモコはちょっと驚いてしまった。トモコもそれを旧友から聞いた時、驚いたのだけれど。
「他の植物が生えないような荒地でも、グラシデアだけは咲いて花畑になったっていう伝承があるんだって」
 旧友の受け売りなのだが、テツジが感心したように頷くのを見て、トモコは嬉しくなった。持つべきものは「クズみたいな種子やけど」と言いつつ後払いの約束で種子を大量に譲り、ついでに知識も惜しまず披露してくれる友だ。
「ただ」と言いかけてトモコは素早く算盤を弾いた。予想はしていたけれどやっぱり悪いことと、予想だにしてなくてやっぱり悪いことと、どちらを先に言うべきか。
 算盤勘定より、トモコの心情が勝った。予想できるけれど悪いことを先に言うことにした。
「ここらへんの気候だと育てるのは大変だろうって。南国でも北国でも育つ時は育つけど、どれが育つか野生種は分からない、って」
「園芸種は?」
 打てば響く鐘のようにテツジが返した。見ると、もうテツジの膳は空になっている。もっと作れば良かった、とトモコは後悔した。と同時に頭の中では友人から得た知識をまとめている。
 この地方では馴染みが薄いが、グラシデアはよく花屋に出回っている。当然、園芸用の品種もたくさんある。だが、
「園芸種は、そもそもビニールハウスの中で育てるからシェイミが寄ってこない」
「そうか」
 とはいえ、人の手による園芸種なら育てやすいだろう。友人から貰った中にもあるし、トモコも花屋を回って種子を買い求めた。
 気候が合いさえすれば、あるいは。
「おかわりない?」とテツジが尋ねた。トモコはいそいそとご飯をよそった。


 次の日、トモコは太陽も昇らない時間にテツジに叩き起こされた。
「まだ始発も来てないのに」
「そんなん待っとったら日ぃ暮れるがな」
 駅舎にトモコを置いて、テツジはさっさと畑に行ってしまった。トモコもさっさと起き上がろうとして、
「痛っ」
 腰に激痛が走った。これが筋肉痛だとばかり、足も棒のようになって動かない。トモコは固まった足腰をなだめすかし騙し騙し、テツジの畑の方へ向かった。杖がいるかもしれない、とトモコは真剣に考えた。

 黄土色の道を行く。どの家の畑も、相変わらず草一本見えなかった。毒を減らすのに十年。そう会社が言っていたのなら、本当は倍の二十年かかるだろう。そのまた倍の四十年ということも考慮に入れなければならない。見る見る内に植物を枯らしてしまえる毒が、そう簡単に薄まるとは思えないのだ。そう考えると、足元の防毒ブーツが急に得難い友人のように思われてきた。防毒の軍手も。グラシデアはいいかもしれないが、自分たちの方が先に参るかもしれない。ふと、トモコは腹に爆弾を抱えているような気がした。
 川のずっと上流に行ったのだろう、水汲みの桶を抱えたサイドンとすれ違ってなお歩き続け、やっとのことでグラシデアの畑についた。見れば、誰かいる。テツジかと思ったが、明らかに体躯が小さ過ぎる。
「何してるんですか!」
 思いがけず腹の底から出た大声に、人影はビクリと竦んでこちらを見た。ほっかむりの下のしわくちゃの顔は、見覚えのある人のものだった。グラシデアの話をした日、居残って嫌味を言った老婆だ。ヌオーは連れていなかったが。
 老婆はトモコを認めると、さっと立ち上がってさっと消えて行った。本物の山ん婆みたいな身のこなしだった。
 遅れてテツジが、彼のポケモンらしい紫の巨大サソリを連れてやってきた。トモコがさっきのことを訴えると、テツジは困ったように「ああ、そう」と言葉を濁した。
「多分、気になって来たんやと思うで。育ったらやっぱり嬉しいもんやし」
 そんなこと、私は泥棒かと思ったのに。けれど、口に出さなかった。トモコと違ってテツジはこの村の人なのだ。この村のことを承知しているのは、トモコよりテツジなのだ。
「今日もがんばろか。まだ種子もようけあるやろ」
 二人は黙々と作業した。次の日も、その次の日も、二人はグラシデアの種子を蒔き続けた。
 芽吹きますように。育ちますように。花が咲きますように。トモコは種子を蒔く度、祈り続けた。

 太陽は日に日に熱さを増すようだった。大地の焦茶色は太陽が焦がす所為だろうかとトモコは思った。
 大分生活にも慣れてきた。体はまだ辛いし、男のテツジの作業量には全く敵わない。しかし、朝起きて水撒き、テツジは水汲み、トモコは食事と用意と週一で町に出て買い出し、という生活のリズムが馴染んできたのを感じる。それが何故か嬉しかった。
 グラシデアの鉢は、まだ何の変化も見せなかった。暑さにやられたのか、毒にやられたのか。グラシデアは一部を除けば、寒さに強い品種の方が多い。秋蒔きにすべきだったか、いやそれとも、と迷っている内に、第一弾が姿を見せた。
 見つけたのはテツジでもトモコでもなく、村に残っていたお爺さんだった。テツジが「ヤマノの爺ちゃん」と呼ぶこの人は専ら山野で採集の暮らしをしているそうだ。採集に便利なのだろう、ジグザグマを三匹連れたその爺ちゃんが興味深い話を教えてくれた。
「そういえば、向こうのお山にも一時グラシデアの花畑があったなあ」
「どこですか、それ?」
 意気込んで聞いてみれば、爺ちゃんの若い自分、まだ十八か十九の時だと言う。爺ちゃんはまた山野に行ってしまった。その後を追うジグザグマたちは、揃いも揃って真っ直ぐ走っていた。
 あの花畑は残ってないだろうなあ、とテツジと二人、ちょっとがっかりして、それから笑った。
 グラシデアの芽生えはありふれた双葉だった。カイワレみたいなヒョロヒョロで、これからちゃんと育つか、心配になってしまった。
「それよか、まだ芽ぇ出てない奴の方が心配やな」
 夕餉の席で、テツジがポツリと呟いた。いよいよ暑さでやられたんかもしれん、と言う。
「まだ諦めるのは早いわ。一番の芽かて今日出たばっかやねんから」
「そやな。畑も最初育てんの大変やったって、親父が言うとった」
 おかわり、と言ってテツジが笑う。テツジを元気付けたつもりが、何だか自分まで元気付けられた気がした。

 テツジの心配は杞憂で、グラシデアの種子はその日をきっかけに、タガが外れたかのように次々と芽吹きはじめた。最初の方に芽吹いた種子も、ぐんぐん伸び始めている。カイワレみたいだと思った双葉はすぐ消え失せて、広い葉を次々と付け始めた。この頃にはもうトモコは駅の詰所から畑を借りた老夫婦の家に住まいを移しており、朝となく夕となくグラシデアの苗を見て回っていた。
 だから、真っ先に気付いたのだ。
「ちょっと!」
 トモコの声はいつの間にか、よく通るようになっていた。大声で咎められて、グラシデアを植えたポットにしゃがみ込んでいた人間が、慌てて顔を上げた。
 また、あの老婆だった。
「何してるんですか!」
 トモコには答えず、老婆はさっと逃げ失せた。トモコは慌てて老婆がしゃがみ込んでいた辺りに駆け寄った。
 ああ、と嗚咽とため息がないまぜになった空気が漏れた。焦茶をバックに、背丈を伸ばしていた若い緑が横倒しになっていた。黒いポットも転がっている。トモコは苗を立て、軍手で土をかいて畑に埋め直した。だめだろうな、という予感がした。

 水汲みから戻ってきたテツジに訴えると、テツジは暫く何事かを言い淀んで腐っていた。
 しかし、グラシデアの苗をいつになくクサクサした気持ちで見て回るトモコを見て決心がついたのか、口火を切った。
「あのマキノの婆ちゃんが言うててんけども」
 マキノ、というらしい。テツジは「えー」と不器用な間を置いた。
「そろそろ植え換えなあかん、と」
「植え換え、って?」
 テツジは頭の後ろをバリバリ掻いた。予想外のことが来て困った時の癖だ。
「せやから、もう畑の土にじかっぽに植えな、植物の根っこももう、ポットの中やと狭いから」
 あーっ、とトモコは声を上げた。トモコの目が真ん丸になっていた。植え換え。そういえば言われていたのに。
 慌ててスコップを母屋から探し当てた。テツジの教授を聞きつつ、十五センチになる苗をどんどん植え替えていく。作業の途中で、トモコは「もしかして」とテツジに聞いた。
「マキノさん、植え換えようとしてたの?」
「うん、そう」
 トモコは恥ずかしさで真っ赤になっていただろう。テツジは可笑しそうにしながらグラシデアの植え換えを続けていた。
 次の日、植え換えでしゃがみ続けて腰が辛いのを押して畑に行くと、テツジがずるをしていた。
 彼のポケモン、巨大サソリが巨大なハサミを使ってざっくばらんに地面にボコボコ穴を空けていたのだ。テツジは巨大サソリが穿った穴にグラシデアの苗を入れるだけ。
「横着やわ」と思わずトモコが言うと、テツジは笑って、農村に生きる人の知恵だと言った。
「ポケモンに頼めるとこは頼む。これ必須、な。ほんまは地面タイプとか水タイプの方がええねんけど」
「そういえばこの子、なんていうポケモンなん?」
 トモコが首を傾げて尋ねる。紫色の巨大サソリは紡錘形を数珠状に繋いだような姿をしている。サソリでなければ、柔軟性を手に入れたクレーンか、さもなくば戦車に見える。
「ドラピオン。サソリのポケモンや」
 なんだ、第一印象で合ってたんじゃないかとトモコは思った。ドラピオンのドラはグラシデアを巧みに避けつつ、植え換え用の穴を穿っていた。
「タイプは何やと思う?」
 植え換えをするテツジが、意地悪そうにニヤリと笑う。はじめて見る表情だった。
「何だろう」
 問題にするぐらいだから、難しいのだろう。テツジの言葉から地面でも水でもないらしいが、畑仕事を意気揚々と手伝っているから、次点の岩あたり。あとサソリだから虫だろうか。
「虫・岩」
「ハズレ、毒・悪でした」
「分からへんわ」
 トモコがそう言うと、テツジは何故か満面の笑みになった。
 ちまちまと穴を掘っていて、気付く。なるほど、毒タイプだから平気でこの畑にも出せるのだ。
 でも、例の毒水の内訳を知っているトモコとしては、少し落ち着かなかった。


 グラシデアは、そこが不毛の大地だとは思えない程順調に育った。全部が芽吹いたわけではなく、間引きや途中で枯れたのもあって、育ったのは最初に蒔いた種子の一割ぐらいしかない。それでも、最初でこんだけ育つんならグラシデアは丈夫な植物やとテツジは喜んでいた。
 一度、テツジの両親から連絡があったらしい。帰れるなら帰って畑を耕したいと言っていたそうだ。しかし、水が心配だ。テツジの両親はポケモンを連れていないから、上流まで水を汲みに行くのは骨になると言っていた。らしい。
 それと、訴訟の準備を始めたこと。その為、補償金の受け取りは拒否することにしたとも言っていたそうだ。予想できたこととはいえ、胸が痛んだ。テツジの両親はよくしてくれているが、自分は所詮よそ者なのだ。普段は人の少ない所にいるから分かりづらいだけで。
 もし、グラシデアがこのまま順調に育たなかったら、どうなるだろうとトモコは思った。他人の畑を実験台にして荒らすだけ荒らし、そのまま去って行った女とでも記憶されるだろうか。グラシデアが育っても、シェイミが来なかったら。シェイミが来ても、この地の毒を消せなかったら。
 トモコは早めに眠ることにした。悪い考えは凶事を引き寄せる。床に入るとムウマも寄り添ってきた。実体のないポケモンだと、こんな時抱けなくて不便ねと思いながら、間もなく夢のない眠りの中へ引き込まれていった。

 それから何日かして、風の強い日があった。雨戸を立てても家の外は夜中轟々唸り続けで、トモコは今日の風はずいぶん強いのだなと思った。
 次の朝、外は台風一過とはこのことだと言わんばかりの晴天がトモコを出迎えた。あるいは、本当に台風だったのかもしれない。大型はトモコたちの居場所を逸れ続けているが、小型がふとした弾みでこちらに寄ったのかもしれない。トモコは朝の水撒きに向かった。
 畑に近付くと、テツジが両手を振りながら駆け寄ってくる。
「トモコ、トモコ!」とずいぶんな慌てようだ。「とりあえずこっち来て」
 鷹揚なテツジのことである。これは只事ではないと、トモコも走って畑の中心部に向かった。そして、惨事を知った。
 まるで巨人が踏み荒らしていったようだった。みずみずしく、たくましく育っていたグラシデアたちは巨人のひと踏みで残らずやられていた。天に向かって伸びていた葉が、茎が、今は泥に塗れていた。テツジが黒いポットを集めていた。芽吹く見込みがなくて、もう中身を空けたものだったが、それでも隣の畑にまで飛んで散らばっているのは、ただ酷かった。
 トモコは指先で倒れた茎をつまんだ。地面に立てて、離す。また倒れた。あの苗も、この苗も、全部巨人が持って行ってしまった。
「テツジ」
 もう何も分からなくなって、トモコはただ名前を呼んだ。慰めてほしいのか、次善の案を考えてほしいのか、今はよく分からなかった。テツジはまだポットを拾い集めていた。彼の顔がこっちを向いた。

 ――きゅ、きゅうん。

 不意に、晴空に声が響いた。微かな声だが、トモコは聞き逃さなかった。
 空を仰ぐ。
 青一色の中に、ぽつねんと、見慣れない白っぽいポケモンがいた。
「シェイミ?」
 トモコが呟くと、白っぽいポケモンはクルリと空中で方向転換した。もう一度きゅうんと鳴いて、それがトモコにはイエスと言っているように聞こえた。
「シェイミ? 待って、待って!」
 シェイミらしきポケモンは、空に吸い込まれるように見えなくなった。テツジが「いたか」と言いながら駆け寄ってくる。
「いた。シェイミだった。でも、待ってくれなかった」
 テツジはちょっと躊躇してから、トモコの肩に手を置いた。
「シェイミじゃなかったんかもしれん。遠かったし、薄情やし」
 言われてみれば、確かに遠かったし、トモコはシェイミの正確な姿も知らない。台風のショックから持ち直すと、あれは鳥ポケモンの見間違いという気がしてきた。
「ありがとう、ちょっと落ち着いたわ」
 そやなあ、とテツジは言う。
「それから、これからどうするか考えよか」


「もう、やめへんか」
 台風後の後片付けをして、夕餉を食べている時だった。テツジの、いかにもテツジらしからぬ物言いに、トモコは思わず笑ってしまった。
「何をやめるの。お夕飯、もう作らんかったらテツジが困るのやない?」
「そやなくて」
 テツジが苛ついた調子で言った。
「トモコ、もうグラシデア育てんの、やめにせんか」
 突拍子もない通告だった。トモコは、何故それがテツジの口から出るのかが分からなかった。
「仕事はええんか」
 トモコに相槌も打たせず、テツジは言う。トモコが「そっちこそどうなん」と言うと、痛い所に刺さったらしく、テツジは顔をしかめた。
「トモコの仕事の方が大変やろう。難しそうやし。ずっとも休んでられへんやろ」
「もう辞めたよ。とっくの昔に」
 そうか、とテツジがぼやいた。今日は珍しく箸が進んでいない。変な味のものなんて作っていないはずだ。
「続けるよ」
 トモコはそう言って、ご飯をつつき始めた。暫くしてから膳を見る。やはりテツジの箸は進んでいなかった。
「親父とお袋が、秋口にこっちに戻るらしい」
 やっと漬物をつついたテツジが、ポツリと呟いた。水はドラピオンが汲むのだろうか。
「良かったね」とトモコは言った。
「せやから、無理して畑仕事せんでもいいよ。親父もお袋も乗り気やし」
「そんな」
「僕も続けるし」
 明らかにテツジの様子がおかしい。トモコはやっと気付くと、テツジの注意を引くように乱暴に椀を置いた。
 けれど、言葉が出てこない。
「すまんかった」
 結局テツジがそう言って、白米をかき込んだ。
 明日から、グラシデアの世話をすることは出来ない。


 トモコは秋蒔きに向けて、グラシデアの種子を探し始めた。しかし、花屋によっては扱っていなかったり、扱っていても高価だったりした。旧友の方も、秋の分は用意できないと連絡があった。グラシデアは秋から冬にかけて育てるのが主なのだそうだ。
 ならば、と大きな花屋に掛け合って大口の予約を入れてもらった。旧友に貰った種子も、春に使わなかったのがまだ半分程残っている。生育に向かない夏でもあれだけ育ったのだ、秋ならもっと育つ、と根拠の薄い自信を抱いていた。
 そして、シェイミについても調べた。こちらは全く収穫がなかった。スケッチを見ると、うさんくさい緑の毛玉のようなポケモンらしい。伝承はかなり多いのに目撃数になると極端に減る。シェイミが暮らすグラシデアの花畑の目撃例がまず少なく、花畑があってもシェイミが姿を現すとは限らない。幻のポケモンと銘打っている本もあって、そんなものかとひとまず得心した。

 台風の季節の終息を見計らって、村に戻った。ずいぶんと人が戻ってきていた。

 グラシデアが強毒の地でも育ったという噂を聞いて戻ったものらしい。その全員が自分のポケモンを連れていて、水汲みのことがどうしてもネックになるのだとトモコは思った。
 トモコが家を借りている老夫婦は戻ってこなかった。あちらも事情があるのだろう。また暫く、宿を借りることにした。

 日々は順調に過ぎていった。グラシデアの種子を植えるのも、少しだけ手際が良くなった。村に戻った人たちにグラシデアの育て方を教えながら作業する。種子の総数は、村民が自前で持ってきたものも含めて、中々馬鹿にならない数になっていた。それもすぐに植え終えてしまった。
 防毒ブーツや軍手が足りないだのといったトラブルはあったが、概ね順調に進んでいる、とトモコは思った。夏に植えた時が嘘のように、秋蒔きの種子はさっさと芽を出した。前程の感慨はないな、と思いつつ、トモコは安堵半分、失敗するかもという予想と諦め半分で畑を見ていた。
 そして、その視界の隅にはいつもテツジがいた。

「土地が戻らんかったら、グラシデアの農家に転職しよか」
 日々伸びていく緑を見ながら、誰かが冗談半分に言った。夕日に照らされる畑は、少しだけ荒野ではなくなっていた。
「せやけど腰きついで」
 誰かが答えた。数ヶ月畑から離れただけで、老人たちの筋力はずいぶん衰えたものと見えた。
「しかし、きのみは育たへんしなあ」
「毒が消えたらまた育てよか」
 老人たちが言う。ふと思い出したことがあって、トモコは彼らの会話に口を挟んだ。
「どっちにしろ、大変みたいですよ。グラシデアを育てると土地が痩せるみたいで」
 そんなん、オレンでも何でも一緒やわ、という人と、あんまり痩せても肥料代が馬鹿にならんな、という人に別れた。きのみ畑にするには何が大変なんや、と村人が聞く。
「グラシデアは他の植物を育ちにくくする性質があるらしくて、すぐに変えてもよう育たんらしいのです。土地を休ませた方がいいらしくて」
 彼らはトモコの講釈を熱心に聞いていた。そのままグラシデアの質問が続いて、どの肥料の割合が多いのかとか、どの品種が村に向いているかとか、トモコが答えられなくなってきた辺りで、村人のひとりが片手を上げた。
「テツジ、そんなとこで何やってんのや」
 トモコはぱっと振り返った。暗がりにドラピオンを連れたテツジが立っていた。暗くて表情は見えない。テツジはしどろもどろで何か言うと、ドラピオンをボールに戻して家へ駆けていってしまった。
 反射的にトモコも駆け出した。グラシデアの苗を蹴飛ばさないよう、ムウマを出して暗闇を照らしてもらう。ぎりぎり、テツジが玄関に入る前に捕まえた。テツジはトモコを振りほどこうとして、困った顔をした。
「なんで逃げるん」
「なんでって」
 テツジはまた口ごもった。トモコは黙って、テツジが逃げないよう、見張っていた。いざとなったらムウマに黒い眼差しを頼もうか、とさえ考えていた。
 たっぷり十分は黙った後、テツジはやっとのことで口を開いた。
「あれ、なんで黙ってたん」
「あれって」
「グラシデアの後は育てにくい、とか」
 言いたくなかったのだ。だがトモコはそれを誤魔化して、「言う時がなかってん」と答えた。テツジは、それ見たことか、とばかりに噛み付いた。
「言う時なんていつでもあったやないか。顔合わせたらグラシデアの話しかせんかったやないか」
「それは、」
 トモコは白旗を上げた。「ごめん」とだけ言って、後は何も言わなかった。テツジや村の人たちが自分のきのみ作りを愛していることは知っていたのだから。
「僕もごめん」
「それは何の」
 トモコに問い詰められて、テツジは「台風のこと」とボソボソ答えた。
「僕もまあ、疲れてて。とにかく謝る」
 もうええにしよ? とトモコは言った。ひと月も前のことで、これ以上どうこう言ったって仕方ない、と思った。テツジの方はずいぶん気にしていたらしく、ムウマのフラッシュに照らされた顔が明らかに安堵に変わった。
 気にしていたといえば。
「テツジは仕事どないなったん」
 案の定、テツジはビクリと肩を震わせた。それはその、と不明瞭なことを口走る。
「言いたくなかったら別にええわ」と言うと、「いややっぱり言う」と答えが返ってきた。
「実は、カントーで仕事してたんはちょっとだけで、後はずっと旅しとったんや」
 トモコは打ち明けられた事実が意外と軽かったので、思わず笑い声を立ててしまった。旅するポケモントレーナーなんて、コラッタ並に珍しくない。
「笑い事ちゃうで」とテツジは眉をひそめる。
「兄貴おってんけど、旅に出て行方不明になってん。それから両親とも旅というものに反対やねん」
 せやから黙っといてや、というテツジに、トモコは快くオーケーを出した。
 テツジが玄関を潜ると、家にぱっと明かりが灯った。早速ばれたらしかった。

 グラシデアは順調に育っていく。心なしか、夏の時よりも良く生長しているように思えた。
 緑は膝下程で伸びるのを止め、今度は台風の妨害も受けず、チラホラと紅色の蕾を付け始めた。蕾を見るのはトモコもはじめてだったので、素直に歓声を上げた。
「まだ終わりとちゃうで」と色んな人にたしなめられた。
「花がきちんと咲くかどうか。そこまでやらな」
 中には「順調にいきすぎて不安やわ」と言う人もいたが、トモコは聞き流した。出来る限りのことをやっている。花に栄養が行くよう、下の葉を何枚か取った。花と花の間隔は、シェイミが縄張りとするには少し広いが、確実に育てるにはこれが適正だ。上流の里山に手を入れ、下生えを取ってきて肥料作りもやった。

 後は花が咲くのを待つしかない。

「なあ、気持ちのええ丘があるんやけど、一緒に行かへんか」
 ある夜、テツジに誘われて、トモコは星明りの下をテクテク歩いて行った。

「ええ丘やろ」
 テツジに言われて、トモコは頷く。テツジの言う丘は、村から大分離れた場所にあって、普段はヤマノの領分で通っている所だった。毒の影響はなかったらしく、細い草が丘一面を覆っていた。テツジは両手を広げて丘に寝転んだ。
「ガキの頃によう来てん。野生のポケモンの住処からはうまいこと外れとるし、気持ちええし」
 トモコも真似して、寝転んでみた。草がクッションになってトモコの体を受け止めた。
「兄貴がおった時の話や」
 テツジが笑う。トモコも笑った。

 空にはたくさんの星があった。トモコは未だに、都会の空、黒に星ひとつふたつという感覚から離れられなかった。惜しげもなく砂粒みたいに星を撒いているのを見ると、心のどこかが物怖じしてしまうのだ。

「兄貴は物知りやったなあ。今思えばほとんど親か先生の受け売りやねんけどな」
 そう言って、テツジは昔話を始めた。
「前言うたっけ。収穫の終わった果樹園を巡ると、どの木にもひとつずつだけ実が付いてんねん」
 テツジは星空に手を上げた。風がぴゅうと吹いた。
「ポケモン用のきのみって、実を全部収穫したら枯れてしまうんや。工場で、機械仕掛けで作ってるようなのは全部取るらしいけど。ここのは違うで。一年育てたらきのみのええ、悪い、て分けて、ええ実のなる木は実を残して来年に残すんや」
 トモコは黙っている。テツジの言葉に耳をすませている。
「そうやって一年、次も実を付ける木が畑に残ってるんや。僕と兄貴は、いつも実が落ちひんかどうか見守っとった」
 今思うと無駄やったけどな。テツジは今きっと笑っている。
「葉をちょっとめくると、実がちゃんとそこに付いてんのや。そいで僕らはほっとする。木守りは、木の守り神はすごいなあって」
 今度はトモコの番だった。
「私のは旧友の聞き伝てやけど。
 シェイミって、グラシデアの花畑から花畑に渡んねんて。ひとつの花畑は三年くらいで枯れて、その時はシェイミたち、グラシデアの種子を持って飛び立つそうよ。その先に花畑が出来る。
 それで、花畑は三年はそこにあるらしいけど、手入れとか、せなあかんのやろね。シェイミの群れの一匹がそこに残って、三年間、グラシデアのお世話をするの。そのシェイミは花守りと呼ばれるそうよ」
 沈黙がふたりを覆った。心地の良い沈黙だった。星も、草も、全部ふたりの味方に思えた。

「帰ろうか」
 テツジがドラピオンを出した。

 帰り道、数珠のようで乗りづらいドラピオンに揺られながら、トモコが話す気になったのは何故だったのか。
「……化粧品作るのはね」
 ドラピオンが規則正しく土を蹴る音がした。
「毒ポケモンの毒を取って、そっから必要な成分だけ取ってきて作るの。せやから後の廃液は、人に使えへんものが凝縮して出来てる。これからどうなるか分からん」
 テツジはそうか、と言った。
 そうよ、そうなんよ、とトモコはか細い声で呟いた。


 数日後。
 トモコは空気が違う、と感じた。昨日までと同じ、蕾を付けたグラシデアの中にいるのに、昨日とは全く違うものをトモコは感じていた。
 しゃがみ込んでいたマキノの婆ちゃんが、それを裏付けるように首を横に振った。
 枯れていた。
 あともう少し、蕾が綻びるだけという所で、グラシデアは音もなく力尽きていた。
「毒が強すぎてんな」
 誰かが言った。それに同調する雰囲気が生まれる。丹精込めて育てたきのみを、チリチリに焦がして奪ってしまった、その猛毒を食らってここまで育っただけで、十分だ。誰かがそんなことを言った。
 来年、またやればいいと誰かが言った。来年、出来るだろうかとトモコは思った。グラシデアさえ首を折る猛毒を浴びているのは、結局自分らなのだ。それでなくても老人が多い。グラシデアが咲くまでに、何人生き残るのか。その後、また果樹園に戻せるかも危うい。それに、シェイミは来ないかもしれない。大地から毒を除くのに当てのない希望に縋り、命を削られるのは結局彼らなのだ。そして、その希望を振り撒いたのはトモコだった。

 トモコの指がグラシデアに触れた。天辺に三つ付いた蕾は、どれもなすがままにされ、力なく項垂れていた。
 いつの間にか、隣にテツジがいた。
「マキノさんの言う通り、夢物語やったんや。毒の方が強いんや。もう、何も育たんとみんな枯れてしまう」
 周囲に聞こえないよう、小さな声で話したはずの言葉は、周囲の誰にも聞こえているような気がした。
「大丈夫や」
 テツジがトモコの肩を抱いた。農業は気ぃ長いんやし一年二年なんて普通にかかるし、と喋りかけて口を噤んだ。そして、
「君の夢って、割りと好きやねん」
 と小さな声で言った。
「ありがとう」
 トモコは目を閉じて、テツジのシャツに額を押し付けた。テツジは空を見上げて、何も見ない振りをした。

 大地ではグラシデアの蕾が、ゆっくりと頭をもたげ始めていた。
メンテ

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